SHALONE SAGA


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アルディアスの章2−10







「・・・」

 空になったグラスにワインを注ぐ。

 夕方の出来事が頭から離れずに眠ることも出来ない。

 少し湿気を帯びた夜風が頬を打つ。

 リシは溜息を付きながらグラスに口をつけた。

 恐らく、あのカイという人物は心の底ではアルディアスの協力を望んでいたのだろう。

 アルディアスの素早い居合いをさほどの苦も無く受けていたのだ。よほど手馴れの筈。

 その彼が深手を負うほどの相手なのだ。

 ・・・そして、アルディアスもそれを望んでいた。

 だがそれを引き止めたのは自分自身・・・。

 神の戦いなど人間には関係ない。

 一度は成り行きでそうなったかも知れないが、わざわざ危険に身を投じる意味は無いとリシは思う。

 思うのだが・・・整理が付かない。

 『此処には俺のやるべき事は無い。』

 正直、その言葉が痛い。

 自分の居場所を見つけられていない証拠だ。何をすべきなのか、恐らく本人が一番悩んでいた所なのだろう。

 だからといって、戦うことがその居場所なんて絶対認めたくない。

 ふうっと溜息を付く。



 バササッ・・・。



 近くで羽音がする。

 何気にリシは視線を横に動かした。

 バルコニーの床に月明かりの影が落ちている。そこに羽音の主の影が映っていた。

「・・・」

 片肘を付いていた顔が僅かに上がる。

 鳥ではない。その影は明らかに人影だった。

 慌てて振り向いたリシの瞳に写ったのは、純白の翼に長い銀髪、紅い瞳を持った天使が屋根の上に跪く姿だった。

 ・・・天使など、その姿も存在すらも信じていなかったが、リシの目を奪ったのはその天使の姿ではなかった。

 それは、悠然とリシの前にその姿をあらわしていた。

 僅かに光を帯びた浅黄色の髪が月の光風を受けて揺らいでいる。

 少し物憂げな表情を湛えた緑の瞳は真直ぐにルパスの街並みを見つめていた。

 上衣にある大きく翼を広げた鳥の図柄が、その揺らめきに合わせ、優雅に羽ばたいているかのように見える。


 ・・・人ではない。


 それを遥かに超越しているであろう雰囲気をその周囲に漂わせている。

 だが、その雰囲気とは裏腹に、その姿には全く現実味が無い。まるで存在感が感じられないのだ。

 跪く天使の側に、その姿は城の屋根より僅か上空に描き出されていた。

 ・・・城に幽霊が出る。

 その話をアルディアスにしたのは他でもない自分自身だ。

 とても美しい幽霊だとも聞いた。

 間違いない、この姿だ。

 だが、噂では聞かなかった事をリシは確信した。

 ・・・これは、人間ではない。例え幽霊であったとしても、人間の幽霊ではない。

「・・・せい・・・おう・・」

 カイの話を聞いていなかったら、その言葉は出なかったであろう。

 聖王の容姿を聞いていた訳ではない。

 だが、ルーディアは言ってたのだ。此処に奴の気配がすると・・・。

 神の世界でも最上位に位置していた存在。

 ならば、この静寂で大きな存在感は正しく神と呼ぶに相応しいのではないか・・・。

 リシの言葉は、口元が僅かに動く程度だったが、その声が届いたのか、幽霊はゆっくりとリシに視線を落とした。

 涼やかな視線をリシに向ける。

 全てを容認するかのような静かな緑の瞳。

「・・・」

 ゆっくりと、その幽霊は笑った。



 気がついた時には幽霊も、天使の姿さえ消えていた。

 夢だったのだろうか・・・。

 リシは軽く頭を振った。

 あの緑色の瞳が頭から離れなかった。



 その日以降、アルディアスは影の事を一切口に出すことは無かった。

 いつものように陽気に城の者と言葉を交わし、相変わらず体を鍛えている。

 リシも無言でそれを見つめているだけだった。

 今まで通り、何事も無かったかのように平穏な日々が暫く続いたある日、リシは仕事の件でアルディアスの部屋を訪ねた。

 が、部屋の中はもぬけの殻。既に日は暮れ窓の外は闇に包まれている。

「また遊びにでも行ったのかな」

 部屋を出たところに使用人に出くわした。

「あら殿下。こんばんは」

「遅くまでお疲れ様。兄さんに話があったのだけど、また今日も遊びに行っているのかい?」

 クスクスと使用人は笑った。

「あら、もう何ヶ月も街には出ていませんよ。今の時間は多分、北の塔にいるのではないでしょうか」

「・・・北の?」

 軽く小首を傾げたリシには気づかず、使用人は荷物を抱えながらその場を去った。



 北の塔はこの城で一番高い位置にあり、非常時の監視塔の役割をしている。

 リシは見張り用の小さなバルコニーに上った。

 アルディアスの姿は無い。

 視線を外に向けると、ルパスの街並みの遥か向こうに南方の山々が月明かりに浮かんでいる。

「どうした? こんな所に来て」

 頭上からした声に顔を上げる。

 バルコニー上の屋根にアルディアスが座っていた。

「何しているんです? こんな所で」

「なにって・・・」

 右手に持ったワインの瓶をリシに見せた。

 アルディアスに手伝ってもらいながら屋根に上がる。

 見渡す景色は先ほどより遥かに広大だ。四方さえぎるものが何も無い。

 少々怖さすら覚える程だ。

「いつも此処で酒を飲んでいるんですか」

 言いながら渡されたワインを口に含む。

「・・・まあね」

 アルディアスは街に目を落としながら答える。

「最近街に行っていないそうですね。どうしてです?」

「別に・・・立場上あまりふらふらするのも良くないだろうが」

「・・・・」

 やはり、以前とは少し様子が違う。

「兄さんは・・・」

 街並みを見ていた視線がリシに移る。

「そんなに戦いたいんですか? 剣を振り回す事がそんなに好きなんですか」

 不思議そうな表情でリシを眺めていたが、不意にくすくすと笑い出した。

「いきなり何を・・。

 んな訳ねえだろ。絶望的に力の差がある相手の前になんか二度と立ちたくないね。

 怪我すりゃあ痛いし・・・まあ、あの時は途中から感覚無かったけど・・・。 出来ればあんな経験は二度としたくない・・・だけど・・・」

 街に目を戻し、ゆっくりと、アルディアスは笑った。

「あの時の俺は何もすべきことが無かった。ただじっと時間が過ぎるのを待つだけだった。

 剣を手にして始めて自分にも出来ることがあると知った。

 ・・・だから俺はアイーンと行動を共にした。

 出来ることがあるならば・・・やらなくちゃ・・・いけない。それは今でも思っている」

 静かな緑の瞳が街を見つめる。

「・・・・」

 リシは呆然とアルディアスを眺めていた。




 ・・・そうか・・・今・・・判った。




「兄さん・・」

 背後から大きな光量の光が突然現れ、リシの言葉が止まった。

 アルディアスも驚いて背後を振り返る。

 天空に突如現れた光は猛烈な勢いで二人の遥か頭上を過ぎ、南方の尾根に消えた。

 暫くして、山の輪郭が赤く染まる。

「隕石・・・ですか? カルドアの方に落ちていきましたね」

 地平線はまだ紅い。

「いや・・・違う」

 アルディアスの表情が厳しい。

「今の光に思念を感じた。以前にも同じ感覚を味わった事がある。

 恐らく・・・あれがルーディアだ」

 呆然と地平線を振り返る。

「リシ!」

 既にアルディアスはバルコニーに降り立っていた。慌てて後を追う。

 就寝している者も多いせいか、城内はまだ気が付いている者は少ない。

「カルドア国境近傍に増兵の手続きをしましょう。

 ルパスに入られても困りますが、カルドアから応援の要請があればすぐに動けるように」

「いや、それはだめだ。人の手に負える奴じゃない。犠牲者が増えるだけだ。

 国境警備は基本待機。カルドアから避難した者がいた場合は速やかに保護。

 それと、逐一の連絡の指示を」

 リシは歩きながら頷いた。

「それと、万が一ルーディアが攻めてきた場合は・・・」

 アルディアスは足を止め、リシを振り返った。

「無理に戦おうとせず、状況を判断して行動するように。国を守ることも大事だが、生き残ることが最重要だ」

 重鎮を集めた会議には参加せずに、アルディアスは窓越しにじっとカルドアの方向を見つめていた。

 どうやって闘うつもりだ? カイ

 恐らく、アイーンもあそこにいるのだろう。彼らは影に対抗することが出来るのだろうか。

 状況がわからぬもどかしさが心を支配するが、アルディアスはじっと腕を組み遠くの空を見つめるだけだ。



 国境付近からの連絡が入ったのはその二日後。

 話を聞いたリシは首を捻った。

「兄さん、国境からの連絡が入りました」

 バルコニーにリシが顔を出した。

 一瞬周囲に人がいないか確認した後に、近寄ってくる。

「あの時、カルドアの夜空が赤く燃えていたそうです。ですが、衝撃や爆発の様子は無かったと・・。

 夜が明けても静まり返ったままの様ですが、上空から黒い雲が覆い様子を伺える事は出来ないと」

「・・・・」

 アルディアスは動かない。

「兄さん・・・行ってください」

「どういう心境の変化だ?」

「僕の気持ちは変わりません。・・・ですが言ったではありませんか。出来ることがあるならやらないといけない・・・って」

 にっこりと笑う。

 アルディアスは無言でバルコニーから出た。



「・・・それに、自分では気が付いていないけど。あそこに行かなくてはいけないんですよ。兄さんは」