ロッド・アスフィールドの章1
暖かくなった風が心地いい。
丘の上に突き出た岩の上に立つと、彼はぐるりと辺りを見回し、大きく伸びをした。
眼下には夏の訪れを告げる花が一面に広がっている。
風は花の甘い香りを含み、爽やかに丘を駆け上がる。
薄茶色の髪を揺らめかせながら、彼はもう一度大きく深呼吸をした。
「こりゃまた一際大きな群生だ。明日ファウラに見せてあげよう」
短く指笛を吹くと、大きな牧羊犬が二匹、こちらに走ってくる。
「さーて、帰るぞ」
軽やかな仕草で馬に跨ると、犬を従え、一気に丘を下る。
空はどこまでも青く、所々に浮かぶ雲は真綿のように白い。
新緑の緑の中を、牧羊犬と馬が悠然と駆け抜ける。
街から少し離れた山間の家に彼の家はあった。父親が始めたという放牧で、一家は慎ましやかに生活している。
家から下ったところにある小さな村の人が、時折訪ねてくる以外は殆ど人の出入りのない家だ。
両親と妹の四人で羊と牛の世話をして生きていた。・・・極々平凡な暮らしである。
遠くに住み慣れた家が見えてきた。
何気に彼は手綱を引き、馬の足を止め、ゆっくりと、山の頂から、谷の先までを見渡す。
何だろう。首筋の裏がちりちりと痛む。胸の辺りに何かが引っかかる。
「・・・・」
だが、あたりの景色はいつもと変わらない。晴れ渡る空に変化は見られない。
馬小屋に戻ると、鞍を外し、餌と水を与える。
いつも行っていること。何ら変わりがない。
ふと、その手を止めて空を見上げた。彼はようやく気が付いた。
「ああ・・・そうか・・・」
彼の視線の先に、小さな木箱があった。妹が野鳥にえさをあげるために作ったえさ箱だ。
いつもは野鳥が餌を啄んでいるはずなのに、今日に限って一羽も姿が見えない。
そういえば、空を羽ばたく鳥の姿も見えない。奇妙に感じたのはその為なのか・・・。不自然なほど静かだ。
「おーい、ロッド」
声のする方を振り向くと、中年の男性が丘を上がってくるのが見えた。
「今日の仕事は終わったのかい? お疲れ様」
「こんにちは、どうしたんですか? 今日は母がそちらに伺っている筈だと・・」
にこやかに挨拶する。どうやら知り合いの様だ。
「そうなんだよ。昼過ぎになっても姿が見えないからな。何かあったんじゃないかって、うちのが心配してな」
肩で息をしながら近づいてくる。
「え? 別に朝は元気だったけどなあ。かあさーん。ノアおじさんが来てるよー」
家の入り口に走りより、ノブに手をかけた。
「かあさん?」
扉の隙間から溢れ出た空気に、ロッドの動きが止まる。異変を感じた男が慌てて扉を開け放った。
咽返るほどの血の匂いが一気に開放された。
「・・・かあ・・さん? とうさん?」
震える足を一歩、室内に踏み入れる。だがすぐにその腕を引かれて外に連れ出された。
「だめだ! 入るんじゃない!」
勢いで玄関先のバルコニーに倒れこむ。男の体の先に、一面血の海になった床が見える。
「かあさん! かあさん!」
暴れるロッドを男は抱え込んで抑える。
「落ち着け! ロッド! まだ盗賊が中にいるかも知れない。俺が中の様子を見てくる。ここで待っていろ。
中には入るな。子供が見るもんじゃない」
男は玄関先にあった棒を手に取り、慎重に中の様子を伺う。
一体何が起きているんだ。
今朝はみんなで仲良く食事をしていたのに。
さっきまではいつもの日常が続いていた筈なのに。
一体何が起きているんだ・・・。
呆然とその場に座り込んだ。
「盗賊は逃げたみたいだな」
暫くして扉が開き、男が出てきた。
「村の者を集めよう。ロッドお前は俺の家に来なさい。・・・ロッド?」
バルコニーに座り込んでいたロッドはゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫か? まあ、無理もない。ともかく俺の家で落ち着け」
「いや・・・大丈夫。僕・・・ここで待っています」
「そうか・・・すぐに戻るからな。それと、見かけない奴が現れたら、逃げるんだ。いいな」
ゆっくりとロッドは頷いた。
一体何が起きているんだ・・・。去って行く男の姿を呆然と見送る。
「・・・ファウラ?」
今朝方山に向かうロッドを元気よく送り出していた妹の姿が浮かんだ。
彼女の周りにはいつも鳥がまとわり付く。妙に静かだったのは、彼女の姿が見えなかった為なのか・・・。
この家の中にまだ彼女はいるのか・・・?ロッドは家を振り返り、ゆっくりとそのノブに手をかけた。
改めて、その凄惨な状況が目に飛び込んでくる。
両親は部屋の中ほどの折り重なるように倒れていた。父はロッドに剣術を教えるほどの手練だった筈。
それがまるで抵抗した形跡がない。一体どういう連中の仕業なのか・・・。
床にはおびただしい量の血が池をなしている。
「何で・・・こんなことに・・・」
震える体を押さえつけあたりを見回す。辺りに妹の姿は見えない。
「ファウラ?」
生きているのか? 何処かに隠れているのか?
二階に続く階段を上る。自分達がいつも寝起きしている部屋があるだけだが。
「ファウラ? 俺だよ。ロッドだ」
返事はない。・・・扉を開く。
「・・・・」
「盗賊だって・・・? まだ、子供じゃないか・・・」
呆然と立ち尽くす。
兄の部屋に逃げ込もうとしたのか、ベッドサイドに小さな少女が倒れていた。その骸の側に座り込む。
「お前が大好きな花がいっぱい咲いている所見つけたんだよ。折角見せてやろうと思ったのに・・・」
血がこびりついた金髪を優しくなでる。
「・・・・?」
何だろう。妙な違和感を感じる。髪の間に埋もれた顔を確認する。
何かで激しく殴打されたのか、大きく晴れ上がっており判別は出来ないが・・・。
体型も、髪も朝に見かけた妹と寸分の違いもない。だが・・・。
「・・・違う」
服も彼女のもの。お気に入りのアクセサリーもつけている。
何が違うのか、説明しろといわれても答えようがないが・・・。
ふと、ロッドは以前の事を思い出した。
初めて彼女に会ったのは彼がまだ8歳の頃。彼女はまだ2歳だった。
父に抱かれたその姿はあまりに小さく、儚く見えた。
「弟の忘れ形見だ。今日からお前の妹になる。名はファウラ。仲良くするんだぞ」
天使のような笑顔で彼を見ている。
「こんにちは、僕はロッド。よろしくね」
「・・・にーちゃ?」
伸ばした手を取り、抱き上げると、嬉しそうにしがみついた。
彼女はすぐに懐き、気が付けばいつもロッドの後をついて回っていた。誰の目にも仲のよい兄妹にしか見えなかった。
暫く後の静かな冬の夜。
時折暖炉の火が爆ぜている。
ファウラはロッドにもたれかかり、小さな寝息を立てていた。ロッドは本を読みながら、時折彼女の様子を見ていた。
まるで、絵の中の天使の様な寝顔だ。思わず笑みがこぼれる。
「ロッド」
父に呼ばれて、彼は振り向いた。
「この子は特別な子なんだ。俺達はこの子を守らなくてはいけない。
・・・もし、俺たちに何かあったら、ロッド。お前が代わりに守るんだぞ」
一体、何から守るというのだろうか・・・。彼はその意味までは判らなかった。
「うん。大丈夫だよ。まだこんなに小さいんだもの。当たり前だろ」
父はそれ以上は言わずに頷いただけだった。
「ん・・・にいちゃん?」
ファウラが目をこすりながら顔を上げた。
「ああ、起こしちゃったね。さあ、もうベッドに入ろう。ここじゃ風邪ひいちゃうよ」
「にいちゃん。これ、兄ちゃんにあげる」
何かを握り締めた手をロッドに差し出す。受け取ったものは小さなメダルだった。
「何だいこれ。何処から持ってきたんだ?」
メダルには鳥の絵が装飾されていた。大きく羽を広げる鷹のようだ。
「にいちゃん。持っていて」
「うん。ありがとう」
嬉しそうに彼女は笑った・・・。