SHALONE SAGA

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フォースの章1−1                             




 風がごうごうとうねりを上げて地表をなめてゆく。

 春が・・・もうすぐやってくる。 

 それを告げるための風が、人気の無い通りを過ぎてゆく。

 もうすぐ花はほころび、鳥が舞い歌う季節になるというのに、

それを楽しげに待つ人々の姿はどこにも見当たらない。

 それを告げるための風が、人気の無い通りを過ぎてゆく。


 カタンカタン・・・


 商店の看板が空しく音を立てる。

 まだ寝静まるような時間ではない。

 ほんのりと、遠い空はわずかながらも昼の明るさを思い起こさせる。

 いつもならば、ほろ酔い加減の男達が高らかな笑い声を上げて、街の唯一である大通りを歩いている筈だが、

今日に限っては、酒屋どころかどこの家も固く扉を閉めている。


 ゴーストタウンという訳ではない。


 家の中には微かながらも人の気配がする。

 息を潜めて閉じこもっているのか、家人の表情はどこか暗く、陰鬱な感じがする。

 まるで何かに怯えているかのようだ。
 

 ・・・一体、何に対して?


 風しか通らぬこの道に、何かがいるとでも言いたいのだろうか。

 それとも風の音が悪魔の叫び声にでも聞こえているのだろうか。

 家の中では小さな子供達が身を寄せ合って震えている。

 家の主人は言葉を発せずにグラスの中のブランデーをじっと眺めている。

 その隣では不安げな表情の母親が、何も言わずに繕い物をしている。

 誰もの顔に、一刻も早く嵐が過ぎ去ってくれるように願う表情が宿っている。


 風で飛ばされたのだろうか、時折何かが家に当たっては大きな物音を立てる。

 その音を耳にしたものは決まって不安げな瞳を扉に向ける。

 ・・・しかし、何も起こらぬと、僅かに安堵の溜息をつき、再び外の気配をじっと伺う。


 これは春を告げる歓喜の嵐ではないのだ。

 夜は次第に深みを増して行く。

 ・・・風はまだ止みそうに無かった。



 街の外には、他所の町や首都に続く街道が何本も伸びている。

 その街道の脇には、地平線さえ見えそうな位何処までも草原が続いている。


 ザザザザザ・・・。


 風に強く打たれ、草々は悲鳴をあげながら互いの身を摺り寄せている。

 何者も・・・生者の気配は無い。 


 ザザザザザ・・・。


 ゆっくりと雲が月の姿を隠し始める。

 これだけの強風なのに、雲の動きは平素とさほどの変わりが無い。

 やはりただの風ではないのか?


 ザザッ・・・ザザ・・・。


 暗闇となった一角が、不意に風の為ではない音を立てた。

 ゆっくりと草原の中に影が立ち上がる。

 ずっとそこにいたのであろうか、生き物の気配はまるで無かったのに・・・。

 影は無言のままじっと佇んでいる。

 風が激しくその者を叩くが、よろめく様子はまるで無い。

 隠れた時と同様に、ゆっくりと月がその美しい姿を雲間から現し始めた。

 辺り一面を淡い光が照らし出す。

 その者の姿も月の光の元に現れた。


 ・・・人だ。

 まだ若い青年の様だ。

 緩やかにたなびいている髪は、漆黒の様にも思われるが、よく見ると深い緑色をしている。

 藍色の服は幾重にも重なり、優雅に曲線を描く。

 胸元を飾っている鳥のレリーフが金糸に彩られ、全体的に暗いその姿の中で輝きを放っている。

 背はさほど高くはない様だが、均整のとれた体は、よく鍛えられた者特有の雰囲気を漂わせている。


 ゆっくりと、その男は固く閉ざされた瞼を開いた。髪よりは幾分淡い瞳が、感情もなげに辺りを見回す。

 ふと、その精悍な顔から小さな溜息が漏れた。

「貧乏くじ・・・だよな。まんまと奴に乗せられちまった」


 諦めた風に呟くと、突然その場から飛び上がった。

 とても常人が飛べる高さではない。

 その男を追うかの様に、二つの影が飛び上がる。

 生き物の気配は無かった。

 だが、いつの間にか男の周囲に近寄っていた者がいたのだ。

 男は素早い動きで腰の剣を抜き放つ。月の光を受けて、剣は妖しい光を放った。

 光に照らされた男の顔は、先ほどの様に無感情ではない。

 まさに獲物を捕らえた猛獣の様に、楽しげに輝いている。

 男に近づいた影が大きく口を開く。

 大の男の腕をもたやすく食いちぎりそうな牙が、覗いている。

 その口元に向かって、妖しく輝く剣が振り下ろされた。

 十分に力が乗っている。影は二分された・・・はずだった。


 男の眉が僅かに動く。

 がっちりと鋭い歯で剣を咥えている。

「下っ端のくせに・・・やるじゃないか」

 もう一つの影が、背後から男の頭部を狙う。

 男は身をひねると、剣に食らいついている敵の脇腹を思い切り蹴り上げた。

 この世のものとも思えぬ咆哮が辺りの草原を包んだ。

 仲間に胴体を食い破られた化物は、口から多量の血を吹き出して落下した。

 青色の血飛沫が男にかかる。

 男と化物達は少し距離を置いて地についた。

 のっそりと起き上がった化物は、月の光に照らされてその全容が草原に浮かび上がる。

「ほお・・・ただの化物では無いようだな」

 しげしげとその姿を眺める。

 狼か、猛獣の類かと思っていたが・・・。

 首から下は人間の体に近い、というよりもまさにそのものだ。

 だが、その頂上に乗っているのは人間とは大きく異なる。

 狭い額に鼻の部分が大きく前方に張り出している。

 低く潰れたその鼻のすぐ下に、異様に巨大な牙が鋭い光を放っている。

 その顔面は短い剛毛で覆われていた。

「それにしてもまた・・・随分と不恰好な」


 体は人間に近いと表現したが、姿勢が悪いのか、それとも骨格がそのようになっているのか、

 背筋が奇妙に丸く傾いでいる。だらりと垂れた腕は地面に届きそうな位に不釣合いに長い。

 人狼・・・とでも呼ぶべきだろうか。

 グルルルル・・・。

 男の言葉に答えるかのように、人狼は低く唸った。
 
 暫くの間、両者はにらみ合いを続ける。

 突然に、人狼は男に向かって走り出した。

 男のほうも構える様に、一歩、足を踏み出そうとし・・・その場に釘付けとなった。

 何者かが足を掴んでいる。

「ちっ、他にもいやがったのか!」

 男の足をがっちりと掴んでいる者の口から、二股に割れた舌先がチロチロとあざ笑うかのように踊っている。

 顔も、男の足を掴む手も、確かに人間のものであるが、その胸元から下が、暗く影の様になっている。

 よく目を凝らすと黒光りした爬虫類のような胴体が長々と続いている。

 人狼はすぐ近くにまで迫っている。

 男の瞳が妖しい輝きを放った。

 剣を握っていない方の手が発光を始める。その手を足元の化物に向ける。

「なめんなよ、雑魚が」

 化物の体が光に包まれた。

 これで足が自由になる・・・筈だった。

 愕然とした表情で、男は足元を見下ろした。

 にやけた化物の顔がこちらを見ている。まるでダメージを受けていない。

「・・・馬鹿な」

 一瞬、戦闘の最中にいる事を男は忘れてしまった。それ程にショックを受けたのだ。

 背後の猛烈な殺気に男は振り返る。

 人狼の手が猛然と襲い掛かる。

 指先の鋭い爪が男の顔を狙う。

 右手を振りかざし、剣先でそれを受ける。

 だがすぐに第二弾が襲ってきた。再び左手をかざす。

 熱量の無い光が辺りを襲った。・・・がやはりダメージは無かった。


 人狼の爪が緩やかな弧を描いて男の胸元をなでた。

 ぱっくりと胸元が裂けて鮮血がほとばしる。こちらは赤い血だ。

 予想もしなかったダメージを受け、男はその場に膝を着いた。

 化物達の目が妖しく光る。

 崩れ落ちた男の足元に、二つの影が立ち上がった。留めを刺そうと、ゆっくりとその手が上がる。



 ・・・が、それは男に振り下ろされる事は無かった。

 朝日がゆっくりと草原を照らし出す。

 いつの間にか風も止んでいた。

 闇の支配する時間が終わったのだ。

 現れた時同様、化物達は忽然と消えうせた。



「・・・一体・・・何者なんだ? ・・奴らは俺の・・・敵じゃなかったのか?」

 薄れ行く意識の中で、男は小さな呟きを漏らした。;