(前略)
最近では、水泳部の男子シンクロナイズド・スイミングをテーマにした映画『ウォーターボーイズ』の舞台として知られる県立川越高等学校(川越市/1899年創立/第三中学―川越中学)。制服もない同校は、このような「本気の遊び心」が生徒のモットーで、そのあたりが浦和高校との違いだろうか。
川越中学に学んだ平和運動家吉川勇一(1931〜/旧制浦和高―東大・文)は、共産党を除名後、65年のベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)結成に参加、事務局長をつとめ、ベ平連解散後は予備校の教師をしながら、盟友小田実らとさまざまな形で平和運動に関わっている。現在の連合会長笹森清(1940〜/明大中退)も同校出身である。
作家では、「浅見光彦」シリーズなどの旅情ミステリーで知られる内田康夫(1934〜/東洋大・文)が筆頭に挙げられる。内田はコピーライター、CM制作会社社長を経て、四〇代半ばでデビューと遅咲きながらも、今では超人気作家として不動の地位を築いている。
1994年に『石の来歴』で芥川賞を受賞した後、『「我が輩は猫である」殺人事件』『鳥類学者のファンタジア』など純文学のジャンルに留まらない作品を手がける作家で近畿大学教授の奥泉光(1956〜/国際基督教大―同大学院)、2004年4月、高遠菜穂子さん、今井紀明さんとともにイラクの武装勢力の人質となり、三日間の拘束の後に解放されたフリージャーナリストの安田純平(1974〜/一橋大・社会―信濃毎日新聞)も同校の出身だ。
放送界には、日本テレビ系『ウェークアップ!ぷらす』司会の読売テレビ報道局解説委員辛坊治郎(1956〜/早大・法)、サッカーへの深い愛情に裏打ちされた確かな実況を聞かせると評判のNHKアナウンサー山本浩(1953〜/東京外大)、テレビ朝日アナウンサー小久保知之進(1970〜/早大・政経)がいる。川越高校野球部のエースだった小久保は、伝統儀式≠ニもいえる卒業式におけるパフォーマンスで、卒業証書を受け取る際、校長の目の前でお尻を丸出しにしたという逸話が残っている。
この野球部からは、プロ野球へも何人か人材を輩出しているが、なかでも現在ヤクルトスワローズに所属する杉本友(1973〜/筑波大)は、97年にオリックス・ブルーウェーブ(現・オリックス・バファローズ)に入団する際、国立大出身初のドラフト一位として注目を集めた。
合格実績は、東大9名、一橋大7名、東京工大10名、早大104名、慶大30名、上智大36名と、県下の公立高では浦和に次ぐ位置を占めている。
(中略)
県立川越女子高等学校(川越市/1906年創立/川越高女)もまた人材の宝庫だ。東京外国語大学英米語学科からプリンストン大学大学院を経て、フジテレビのアナウンサーとして活躍、現在はTBS系『報道特集』のメインキャスターをつとめる田丸美寿々(1952〜)、『ニュースステーション』から『スーパーJチャンネル』と常にお茶の間の顔でありつづける小宮悦子(1958〜/都立大・人文)という二大女性キャスターを生んでいる。
雑誌『olive』などのファッションページや、家庭用台所洗剤のキャラクターなども描くイラストレーターの上田三根子(1949〜)も同校の出身だ。
合格実績は、京大2名、一橋大2名、東工大3名、お茶の水女子大4名、慶大9名、上智大18名の一方で早大81名、明大83名、法大53名と、わりにバンカラな気風の私学への合格実績が高い。
室町時代の後半、応仁の乱以後は、治世が乱れ、全国各地で合戦がくり返され、戦国時代と称される時代である。このような乱世にあっても、よく伝統文化をまもり、芸術を愛し、文化の向上に努めた者もいた。その多くは僧籍に身をおいた者である。世に医聖と称された田代三喜もその一人である。
三喜の祖は伊豆に住し、源氏に従って平家追討に功績のあった田代信綱といわれ、八世の孫兼綱のとき伊豆から北武蔵の越生の地(現・越生町)に移住し、居を構えたと伝えるが、その理由は明らかでない。この越生の地で寛正六年(1464)四月八日に出生したという。この地は古くから文化が開けた所で、西に秩父連山を望み、越辺川の清流が流れる丘陵台地上の景勝地である。近くには古刹報恩寺などがある。
一五歳のとき志をたて禅宗の寺に小僧として入門、基礎的な学問を身につけた後、下野(現・栃木県)の足利学校に進み、特に医学に意を用いて学んだ。長享元年(1487)二三歳のとき、遣明船で明に渡り、漢方医学を中心に勉学に励んだ。明で苦学すること一二年。当時、明国の最新の医学と薬学を修学、身につけ、多くの貴重な医学書を携えて帰国した。
帰国した日本は正に戦国乱世の時代となっていた。帰国して一時鎌倉の円覚寺に住していたが、医学の力を認められて、足利学校に移った。これを伝え聞いた古河に難を逃れていた足利政氏の招請により古河に移り居を構えた。ここで僧籍をはなれ、医者として独立し、妻を迎えた。古来から仏教と医学は不可分の関係にあり、治療、療養施設、投薬などは寺院の仕事の一部であった。現在でも世界各地で宗教僧が民衆の病などをみている地域があるのも、古代そのままの姿が今日に伝えられているからであろう。盲目の名僧鑑真は医者としても名医と仰がれ、道鏡が称徳天皇の病気平癒のため重く用いられたことは名高い。三喜の頃もまだ医学は仏教に付随した学問であった。三喜が最初に僧となったのも、そういう事情があったからといわれる。
医者として独立してからは一般の民衆、公家、武家を問わず、診察、治療にあたり、多くの患者を相手に施薬して人々に尊敬の眼を向けられていた。しかし古河公方の地位をめぐって足利政氏と子の高基の争いがあり、それを嫌って大永四年(1524)、生まれ故郷である武蔵の地に帰ってきた。
以後、武蔵の川越、生地の越生などを中心に明で修得した医術と投薬をもって関東各地を往来し、起死回生の技術を駆使して庶民の面倒をよくみたので、世の人々に医聖と仰がれるようになった。三喜が作り出した野草からの薬も多く、苦い薬に甘い味をつけて飲みやすくするなど、薬学の分野での功績も大きい。越生の「一里飴」もその一つといわれている。
三喜は各地を歩き名医と親しまれたが、書もよくし、江春庵、廻扇、善導など多くの別号を持つとともに、呼び名も田代三喜、越生三喜、古河三喜、川越三喜などいろいろある。
天文六年(1537)二月十九日、古河でこの世を去ったが、時に七三歳であった。戦乱の世にあって合戦における負傷者、病弱者を相手に世に尽くした三喜は、世界最長寿国となった日本における最初の民衆医といえるかも知れない。
なお弟子の養成も行ったが、そのうち曲直瀬道三は三喜の医学をさらに発展させ、その子孫は、江戸幕府の侍医となり、また京都方面の公家間に重用された医家として名高い。
三喜の生地には最近、記念碑が立てられた。
寛正六年(1465)〜天文六年(1537)。戦国時代の医者。日本の医聖と呼ばれる。河越に生れた。祖先は伊豆の出身で屋島の役で戦功を立て、その後源氏に従って関東に下り越生に住み、代々医者となって関東武士の病の治療にあたったと言われる。父は田代兼綱といい、足利時代に河越の荘を治めていた上杉持朝に仕えた。三喜は、一五歳のとき妙心寺派の寺に入った。当時は僧籍を持たなければ医者になれなかったからである。その後古河公方足利政氏に召され、古河に移り住んだ。下野の足利学校で医術を学んだ三喜は、長享元年(1487)二三歳のときに遣明使に従って民国へ渡った。医術の研究のために大陸諸州を歴遊、一二年間各地の名医に入門して研鑽を積み、ついには金の李東垣、元の朱丹渓の医術を修得した。明応七年(1498)三四歳の三喜は六書を携えて帰国、李朱の医学を初めて日本に紹介した。三喜は日本国内広い地域にわたって活躍し、その功績は高く評価された。その名は、河越三喜として知られていたが、晩年には古河の三喜≠ニも称された。京都の曲直瀬道三(永正四〜文禄三)も三喜の門下に入り、彼の教えを受けている。また埼玉の名医としてし知られている糟尾養信は曲直瀬道三から医学を学んでいる。天文六年二月十九日、三喜は七三歳で古河で没した。遺像は古河の一向寺にあったが焼失した。三喜の著書として伝えられるものに、「捷術大成」「印可集」「諸薬勢揃」「當流利極集」「直指伝」「夜談義」「薬種穏名」「医案口訣」「三喜十巻書」などがある。 <平松>
二十数年前、私の学んだ小学校の職員室脇の廊下に面して江戸時代の学者の肖像画が額にして掛けてあったのを記憶している。後新校舎への移転等があり、その額はどうなったか母校を訪れた事がない故定かではない。その肖像の人こそ小学校三四年生の時担任だった中田先生から「江戸時代洪水の時、村を救った恩人奥貫友山先生である」といろいろ教えられ今だに私の脳裏から去らない。
私の故里埼玉県入間郡南古谷村「現川越市」で江戸時代は世々川越藩領で周辺を荒川と新河岸川「村の人は内川と云う」に囲まれ見渡す限り水田地帯で、その上低地で、昔からよく水害を被った地域であった。
祖父母の代、明治四十三年の洪水は床上の硝子一と骨を残して水に漬った程で、近きは昭和十六年にも洪水に見廻れている。そのような訳で、村人は洪水に対して非常に神経質になっていた。筆者が記憶するに昭和二十二年九月荒川の堤防が切れるのも時間の問題で、家財道具を高台の親戚や知人の家へ預けたり、二階にある家は二階、平屋の家は屋根裏へ家財道具を上げる等大変な騒ぎであった。幸洪水はなくほっと安堵した事があった。大雨が降り続くと「又大水が出るのだろうか?」と年寄は不安そうに顔を曇らした。そして「五平次様(奥貫家)へ足を向けて寝られない」と云って、奥貫友山の救済の事を話しその徳を頌(しょう)していた。大尽だから救済出来たと云う人がいるがそれは違う。実際大尽程人に恵はしないのだ。友山の家は財力もあったが、友山の学問は死学問ではなかった。学問の素養が救済を成さしめたのだ。人に恵を与えれば、その恵が後に何らかの形で返って来る。後の明和騒動の時、一揆から奥貫家のみは打ち毀しを免れたと年寄はよく云っていた。
序 章
寛保の洪水
救 済
終 章
1
入間地方から浪士の徴募に応じた人々は、山川達造、山川竹造、細川市蔵、小島寛太郎の4人と、川越浪人と称する横山明平、長屋源平、小野沢平兵衛の併せて7人である。
(中略)
5
次に川越浪人と称する人たちについても、僅かに解明できている事実について記しておくこととしたい。まず、横山明平だが、「上京有志姓名録」などに「武州川越浪人」と記されているものの、明平と川越藩との関係は定かでない。浪士組参加当時の年齢は、31歳とも、36歳ともある。文久3年(1863)11月に、庄内藩が新徴組を幕府から全面委任された際の名簿に、大内志津馬組の平士としてその名が確認できるが、慶応元年(1865)6月の黐木坂(もちのきざか)新徴組屋敷の棟割りに横山明平の名はない。なお、『赤報記』の「江門著到士名」のなかに、「武川コへ、横山明平」とあるので、明平は慶応3年(1867)に薩邸に投じたことが明らかである。同書の「卯十二月廿五日本藩蒸気船乗組士員」名簿には、さらに「立山寄平。初名横山明平、小荷駄方、武川コへ」と記されているので、藩邸焼討事件の際、明平は薩摩の船で逃れ、相楽総三が官軍嚮導赤報隊を結成すると、立山寄平と変名してこれに参加したのだろう。同年3月には、信州下諏訪で追放の処分を受けている。明平の最期は数奇なものだったらしい。『相楽総三とその同志』のなかに、「横山明平(立山奇平)は道化たことのうまい男だったが、下諏訪で追放され、江戸へ出て官軍に斬り殺されたとも、会津人に斬られて死んだともいう。」とある。この明平の死については、小山松勝一郎の『清河八郎』に、より断定的に、「六番村上俊五郎隊の横山明平は、相楽総三の官軍嚮導赤報隊探索方として活躍中、会津藩士に斬られた。慶応四年の初めである。」と記されている。どの様な資料を根拠にしたかは定かでない。
6
長屋源(玄)平については、新徴組の湯田川温泉寄宿帳に「初め源蔵」とある。浪士組への参加時に名を改めたのかもしれない。天保4年(1833)の川越藩松平家の家臣録「已給帳」(ママ)に、江戸詰の長屋寛平と相州勤務の長屋東平という藩士の名があり、源平との関係に興味をひかれるが、詳細は不明である。浪士組参加当時の年齢は、29歳であった。
新徴組士千葉弥一郎の「わが新徴組の薩摩屋敷焼討」のなかに、慶応4年(1868)に西郷隆盛らが武力倒幕を画策して、三田の薩摩藩邸に江戸市中攪乱のための浪士を集結させた際、新徴組から密偵として長屋源平と中追多助が送り込まれた事実が記されている。また、庄内藩士田辺儀兵衛の『公私日記』の明治元年(1868)1月22日の項に、「(長屋源平は)旧臘廿五日薩州屋敷へ相向、手疵を得候に付、為御手当金弐両被下置候。」という記事が認められる。
子母沢寛の『幕末奇談』のなかに、「山口三郎は、川越藩の永谷源平というもののところにいて蘭学の方を研究している」云々という逸話が記されている。山口三郎とは、浪士組の道中目付となった備後御調郡後目村(備後浪人ともある)の人である。千葉弥一郎の「新徴組と荘内藩」によれば、山口三郎は浪士募集の前年川越に来て、長屋源平の家に世話になっていたが、浪士募集の令を耳にして両人手を携えて参加したのだという。このため、山口は源平を終始恩人としていたとある。このことに関して、同書にはさらに「山口三郎が恩人として居った新徴組の長屋玄平は老生の実父と同じく武州川越の藩であって、老生とは姻戚の関係があった。玄平は三郎を信頼して居った為、玄平との関係より老生も三郎とは至って親しく交はった」云々と記されている。
慶応4年(1868)の春、庄内に下った源平は2番隊の伍長の一人として戊辰戦争に従軍し、松ヶ岡の開墾事業にも従事した。明治7年(1874)3月、源平は内田柳松らと共に、懲役2年の罪科に処せられている。その原因の一つは、明治4年(1871)1月、庄内藩の菅実秀らの謀略によって、新徴組士天野清一郎が切腹させられた事件で、菅たちの意を受けた長屋源平、鈴木栄三郎、内田柳松の三人が天野に切腹を迫ったことがあった。天野を介錯したのも、長屋源平であるとする説と、内田柳松がやったとする説がある。二人は、藩政の支障となる新徴組士たちを弾圧する庄内藩の走狗となっていらのである。源平のその後の足跡は定かでない。
7
、小野沢平兵衛については、「上京有志姓名録」や「柚原日記」に川越浪人と記されている。なお、「新徴組明細書麁調」には、「生国武州入斯(間)郡川越、安田三平子にて、文久三年正月御募り従ひ出府、同二月御上洛御先供被仰付」云々とあろので、本姓は安田といったようだ。後に本姓に復している。復姓の時期については、文久3年9月頃に作成の「新徴組目録」には、小野沢平兵衛の名で載っているが、慶応元年(1865)6月作成の三笠町御用屋敷の棟割には安田平兵衛の名が記されているので、この間にもとの安田姓に復したのだろう。
新徴組の湯田川温泉寄宿帳には、平兵衛の名と共に「長男安田圓次郎」の名が記されている。慶応4年春の庄内入りの際には、平兵衛には圓次郎を含め6人の子があったらしく、「新徴組明細書麁調」に、家族7人で、うち3歳以下の子が二人いたとある。
安田平兵衛が庄内に下ったことは疑いないが、「戊申庄内戦争新徴組出張姓名」には長男の圓次郎の名を確認できるものの、平兵衛の名は認められない。また、明治5年(1873)8月に作成された、松ヶ岡本陣書類のなかの「新徴組開墾士氏名」65人のなかにも、安田平兵衛の名を見ることはできない。しかし、中沢良之助が書き残した資料のなかに、新徴組士尾崎恭蔵謀殺事件に関連して安田平兵衛の名が確認できるので、明治5年7月当時安田平兵衛が庄内の地にあったことは疑いない。その後の去就は不明である。
浪士組参加当時の平兵衛の年齢は、資料により33歳とも、43歳ともある。なお、資料のなかに、その出身地を武州比企郡増尾村(小川町増尾)とするものもあるが、現在の小川町増尾の地に、小野沢を姓とする家も安田を姓とする家も存在せず、これは誤りではないかと思われる。
(一)
(二)
(三)
(四)
(五)
新政府官吏に
第一章で登場した佐久間長敬は、天保10年(1839)の生まれである。父の佐久間長興(おさおき)は辣腕の与力として知られていた。「鬼佐久間」と呼ばれたほどだった。
佐久間が与力見習となったのは、嘉永3年(1850)のこと。吟味方のほか、物価調整にあたる市中取締諸色調掛、異国船来航に伴い新設された海陸御備向き御用取扱掛などの重職を歴任した。役職からも、幕末の多難な時期が浮かび上がってくる。
町奉行所引き渡しの直前慶応4年(1868)3月19日には、町奉行支配調役という与力ナンバー2の地位にまでのぼった。そして、引き渡し当日の5月23日を迎えるが、その後、佐久間はどういう人生を歩んだのか。
引き渡し後、町奉行所は市政裁判所と改称されたが、旧町奉行所の与力・同心たちは新政府からの要請を受け入れ、しばらくの間、奉行所時代と同様の勤務を続けた。7月17日にはは市政裁判所が廃止され、東京府が誕生するが、勤務状況に変わりはなかった。この時期、佐久間も町奉行所時代と同様の勤務を続けたのだろう。
しかし、その後間もなく、佐久間は東京府から去ってしまう。他の与力・同心たちも同じ道を辿る。つなぎ役としての期間が終了したということなのだろう。こうした形で、明治政府から切り捨てられてしまう者は多かった。
もちろん、すべての与力・同心が切り捨てられたのではない。才があると認定された者は、引き続き東京府の役人、あるいは新政府の他部署の役人に抜擢されていく。
佐久間の場合は、大蔵省や工部省、司法省の役人に任用された。足柄裁判所長など、実際の裁判事務にもあたった。昔取った杵柄(きねづか)と言ったところだ。
ところが、明治6年12月28日、病気を理由に官吏を辞めてしまう。実は病気が理由ではなく、西郷たちが主張した征韓論をめぐる、政府部内の対立が理由だった。
最終的に征韓論は却下され、西郷たちは下野するが、佐久間も征韓論派官吏の一人。佐久間の辞職とは、政府への抗議行動だったのだ。
下野した佐久間は、弁護士のような存在である代言人を務めたり、石油鉱山業などをはじめた。実業界への進出をはかったらしいが、結局のところ事業はうまく行かなかったようだ。(西脇康「校訂 佐久間長敬著「稿本・江戸時代罪科隠語詳説」」、『原胤昭旧蔵資料調査報告書(1)』所収)。晩年は埼玉県川越市に居を構え、江戸町奉行所の終焉(しゅうえん)に立ち会った者として、江戸に関する記録の保存・普及活動につとめた。
佐久間の著作としては、先に紹介した『江戸町奉行事蹟問答』がある。同書は、いわば町奉行所の解説書だったが、以下のような問答形式で町奉行所の実像が浮かび上がる構成になっていた。言うまでもなく、解答者が佐久間だが、冒頭は次のような問答である。問 町奉行創立以来の沿革を承りたし
答 天正18年、徳川家江戸御入城の砌(みぎり)は、いづれに町奉行所をおかれたるや。申し伝へも承り及ばず候へども、一人の町奉行仰せ付けられたると、旧記あり。
慶長5年大坂御出陣の砌、町奉行二人仰せ付けらる。市中二番所を設け、町々の非常を警(いま)しめ、公事・訴訟を聴(きき)きしが、寛永13年、江戸御城の惣構御普請(そうがまえごふしん)の節、今の中曲輪(なかくるわ)の内にありし町々取払い相成り候節、町奉行所を数寄屋橋御門内と呉服橋御門内と、大城の前面南北の方位に分かち、市中に近き所へ番所を創立。元禄15年、町奉行一人相増し、鍛冶橋(かじばし)御門内へ番所一ケ所取建て、三ケ所にて市中を守りたり。享保4年に至りこれを廃止。古来の如く二ケ所を存し、慶応4年辰5月御維新の際大総督府へ引き渡し、町奉行番所の唱へ、此時終りたり。
(前掲『江戸町奉行事蹟問答』)
人名・廟所 | 生年 | 没年 | 歳 | 指定 | 墓地 | 住所 | 掲載書 | 頁 | 記 事 |
高山繁文 | 慶安2年(1649) | 享保3年(1718) 2月7日 | 70歳 | 県・ 旧跡 | 本応寺 | 石原町1-4-9 | 川越市の文化財 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 225 92 42 264 55 | 秋元喬知家臣・国家老、俳人 |
北野操六 | 寛政4年(1792) | 文久4年(1864) 1月11日 | 73歳 | 本応寺 | 石原町1-4-9 | 川越の人物誌 第1集 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 66 262 101 | 十ヶ町頭取名主、歌人安斎のり子の父 | |
水村精 | 弘化2年(1845) | 明治18年(1885) 7月18日 | 41歳 | 本応寺 | 石原町1-4-9 | 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 78 298 | 川越郵便局の前身開設、私立川越銀行 | |
山崎いち | 文久2年(1862) 3月15日 | 昭和20年(1945) | 84歳 | 真行寺 | 宮元町1-2 | 埼玉ふるさと散歩 | 94 | 孝女・緑綬褒章 | |
岩崎勝平 | 明治38年(1905) | 昭和39年(1964) | 58歳 | 真行寺 | 宮元町1-2 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 | 94 147 280 | 洋画家、福沢桃介(1868〜1938)・杉浦翠子(1885〜1960)の弟 | |
野々山喜右衛門 | 慶応元年(1865) | 昭和7年(1932) 8月14日 | 66歳 | 真行寺 | 宮元町1-2 | 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 113 298 | 電話の普及、川越電気鉄道の経営 | |
小川千代女 (野々山嘉江) | 明治33年(1900) 4月30日 | 昭和20年(1945) 10月6日 | 45歳 | 真行寺 | 宮元町1-2 | 川越の人物誌 第3集 | 126 | 歌人 | |
時雨庵麦鴉 | 不明 | 不明 | 東明寺 | 志多町13-1 | 埼玉ふるさと散歩 | 31 | 松平大和守家臣・俳人 | ||
榎本弥左衛門 | 寛永3年(1626) | 貞享3年(1686) 1月10日 | 61歳 | 広済寺 | 喜多町5-1 | 川越の人物誌 第1集 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 34 256 52 | 豪商・本町名主、「榎本弥左衛門覚書」 | |
中島孝昌 | 明和3年(1766) | 文化5年(1808) 1月10日 | 43歳 | 県・ 旧跡 | 広済寺 | 喜多町5-1 | 川越市の文化財 川越の人物誌 第1集 埼玉ふるさと散歩 川越歴史渉猟 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 227 56 30 147 267 48 | 鍛冶町名主・「武蔵三芳野名勝図会」 |
喜多欽一郎 | 慶応2年(1866) 7月28日 | 昭和2年(1927) 3月27日 | 62歳 | 広済寺 | 喜多町5-1 | 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 109 286 | 政治家(町会・県会議員)、川越市制執行 | |
小茂田青樹 | 明治24年(1891)10月30日 | 昭和8年(1933) 8月28日 | 41歳 | 広済寺 | 喜多町5-1 | 川越の人物誌 第1集 川越大事典 | 140 283 | 画家 | |
次原新兵衛(次原家) | 不明 | 不明 | 大蓮寺 | 元町2-8-25 | 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 11 265 | 有力商人 | ||
山崎豊 | 天保12年(1831) 11月18日 | 明治45年(1912) 2月25日 | 大蓮寺 | 元町2-8-25 | 川越の人物誌 第1集 川越大事典 | 86 200 | 国立第85銀行頭取、川越貯蓄銀行頭取、川越商工会議所設立発起人 | ||
中井尚珍 | 天保13年(1842) | 明治41年(1908) 10月6日 | 62歳(ママ) | 見立寺 | 元町2-9-11 | 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 72 292 | 町立川越高等女学校(県立川越高等女学校)、埼玉県染色学校(県立川越工業学校) | |
河越太郎重頼 | 不明 | 文治元年(1185) 11月 | 養寿院 | 元町2−11−1 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 わが町川越歴史散歩 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 27 1 28 261 62 | 河肥庄荘司 | ||
岩田彦助 | 不明 | 不明 | 市・ 史跡 | 養寿院 | 元町2−11−1 | 川越市の文化財 埼玉ふるさと散歩 小江戸川越歴史散歩 | 211 27 66 | 秋元喬知家臣・城代家老、“川越藩の知恵袋” | |
横田家の墓 23基のうち 7代昌敷 8代昌壽 9代政侘忠 | 市・ 史跡 | 養寿院 | 元町2−11−1 | 川越市の文化財 埼玉ふるさと散歩 | 217 27 | 豪商、川越藩御用達 | |||
10代次郎吉 (五郎兵衛) | 天保5年(1834) | 明治25年(1892) 5月29日 | 59歳 | 川越の人物誌 第1集 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 89 274 67 | 豪商、国立第85銀行創立・頭取 | |||
11代政徳 | |||||||||
安斎保美 | 不明 | 不明 | 養寿院 | 元町2−11−1 | 埼玉ふるさと散歩 | 27 | 川越町名主・歌人 | ||
安斎のり子 | 文化10年(1813) 12月30日 | 明治32年(1899) 4月26日 | 87歳 | 養寿院 | 元町2−11−1 | 川越の人物誌 第3集 川越大事典 | 48 254 | 歌人、北野操六長女、安斎保美妻 | |
竹谷兼吉 | 弘化元年(1844) | 大正8年(1919) 6月13日 | 養寿院 | 元町2−11−1 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 | 27 97 291 | 埼玉県議会議員・川越商業銀行創立 | ||
綾部利右衛門(10代) | 万延元年(1860) | 昭和7年(1932) 1月2日 | 72歳 | 養寿院 | 元町2−11−1 | 川越の人物誌 第1集 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 106 276 68 | 馬車鉄道、川越電燈株式会社、チンチン電車、川越市初代市長 | |
綾部惣兵衛 | 慶応3年(1867) 6月6日 | 大正12年(1923) | 56歳 | 養寿院 | 元町2−11−1 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 | 27 120 276 | 県議会議員・衆議院議員 | |
安井正章 | 天明7年(1787) | 嘉永6年(1853) 6月19日 | 67歳 | 市・ 史跡 | 栄林寺 | 末広町1-7-1 | 川越市の文化財 川越の人物誌 第1集 埼玉ふるさと散歩 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 212 58 53 273 73 | 松平大和守斉典家臣・郡奉行、治山・治水や植林など |
厚木恵之・勝吉 | 不明 | 不明 | 栄林寺 | 末広町1-7-1 | 埼玉ふるさと散歩 | 53 | 松平家に柔術で仕えた | ||
墨池庵尾海 (松本利紀) | 不明 | 不明 | 行伝寺 | 末広町2-4-2 | 川越歴史渉猟 小江戸川越歴史散歩 | 41・147 75 | 書道・華道教授、連歌・俳句 | ||
山瀬蘭台 | 不明 | 不明 | 妙養寺 | 末広町1-4 | 埼玉ふるさと散歩 | 54 | 学者・能書家 | ||
奴の墓 (瀬川嘉右衛門) | 不明 | 元禄6年(1693) | 法善寺 | 幸町2-14 | 埼玉ふるさと散歩 わが町川越歴史散歩 小江戸川越歴史散歩 | 44 38 99 | 松平信綱家臣石川作右衛門の家臣 | ||
中島久平 | 文政8年(1825) | 明治21年(1888) 6月5日 | 法善寺 | 幸町2-14 | 川越の人物誌 第1集 川越歴史渉猟 川越大事典 | 77 107 266 | 川越唐桟 | ||
黒須喜兵衛 | 天保8年(1837) 6月20日 | 明治21年(1888) 10月12日 | 51歳 | 法善寺 | 幸町2-14 | 川越の人物誌 第2集 小江戸川越歴史散歩 | 67 97 | 国立第85銀行創立 | |
蓮馨尼 | 不明 | 永禄10年(1567) | 市・ 史跡 | 蓮馨寺 | 連雀町7−1 | 川越市の文化財 川越の人物誌 第3集 | 210 19 | 河越城代大道寺政繁実母 | |
山田衛居 | 嘉永2年(1849) | 明治40年(1907) | 59歳 | 神葬墓地 | 田町 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 | 57 103 300 | 川越氷川神社宮司、「氷川神社行幸絵巻」、「朝日之舎日記」 | |
伊藤泰吉 | 明治32年(1899) 12月17日 | 昭和40年(1965) 7月31日 | 66歳 | 神葬墓地 | 田町 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 57 165 280 | 川越市長(6期18年余) | |
菅野政五郎 | 慶応元年(1865) 4月19日 | 昭和8年(1933) | 69歳 | 西雲寺 | 新富町2-5-4 | 川越の人物誌 第1集 川越大事典 | 117 289 | 川越高等小学校校長 | |
松平大和守家廟所 | 市・ 史跡 | 喜多院 | 小仙波町1−20−1 | 川越市の文化財 埼玉ふるさと散歩 小江戸川越歴史散歩 | 208 84 137 | 川越藩主 | |||
朝矩(霊鷲院) | 元文3年(1738) 3月14日 | 明和5年(1768) 6月10日 | |||||||
直恒(俊徳院) | 宝暦12年(1762) 5月1日 | 文化7年(1810) 1月18日 | |||||||
直温(馨徳院) | 寛政7年(1795) 2月14日 | 文化13年(1816) 7月23日(28日?) | |||||||
斉典(興国院) | 寛政9年(1797) 11月2日 | 嘉永3年(1850) 1月20日(23日?) | 53歳 | 川越の人物誌 第1集 川越大事典 | 68 271 | 川越城本丸御殿 | |||
直侯(建中院) | 天保10年(1839) 1月9日 | 文久元年(1861) 8月15日 (12月10日?) | |||||||
高林謙三 | 天保3年(1832) 6月18日 | 明治34年(1901) 4月 | 70歳 | 市・ 史跡 | 斎霊殿 (閻魔堂) | 小仙波町1-10-1 | 川越市の文化財 川越の人物誌 第1集 埼玉ふるさと散歩 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 213 79 74 291 171 | 製茶機械の発明者 |
西川練造 | 文化14年(1817) 3月17日 | 文久元年(1861) 12月14日 | 45歳 | 市・ 史跡 | 斎霊殿 (閻魔堂) | 小仙波町1-10-1 | 川越市の文化財 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 214 74 71 267 173 | 維新の志士 |
小河原家の墓 6代当主政陽 政陽の妻 7代当主政甫 政甫の妻 次女 童子及び童女 | 市・ 史跡 | 斎霊殿 (閻魔堂) | 小仙波町1-10-1 | 川越市の文化財 | 216 | 松平大和守家臣・家老 | |||
岩沢虎吉 | 安政2年(1855) 2月2日 | 昭和4年(1929) 5月19日 | 斎霊殿 (閻魔堂) | 小仙波町1-10-1 | 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 93 281 | 小仙波村の川越町合併、高林謙三後援 | ||
仙芳眞人 | 不明 | 不明 | 入定塚 | 小仙波町1 | 埼玉ふるさと散歩 わが町川越歴史散歩 | 74 94 | 「伝説」 | ||
太陽寺盛胤一族の墓 祖父盛昌とその妻 父盛方 盛胤の母 | 中院 | 小仙波町5−15−1 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 わが町川越歴史散歩 小江戸川越歴史散歩 | 72 50 264 67 177 | 秋元但馬守家臣、「多濃武之雁」 | ||||
加藤みき | 不明 | 昭和10年(1935) 5月20日 | 中院 | 小仙波町5−15−1 | 埼玉ふるさと散歩 わが町川越歴史散歩 (川越の人物誌 第3集) (川越大事典) | 72 69 101 288 | 島崎藤村(1872〜1943)義母・島崎静子(1896〜1973)実母 | ||
松平周防守家廟所 | 市・ 史跡 | 光西寺 | 小仙波町5−4−7 | 川越市の文化財 | 209 | 川越藩主 | |||
松平康英 | 天保元年(1830) 5月16日 | 明治37(1904) 7月5日 | 74歳 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 70 83 271 181 | ||||
平井と代 | 明治12年(1879) 2月15日 | 昭和25年(1950) 3月20日 | 71歳 | 光西寺 | 小仙波町5−4−7 | 川越の人物誌 第3集 | 82 | 日本赤十字社看護婦 | |
山内庫之助 | 安政4年(1857) 8月22日 | 昭和8年(1933) 11月11日 | 77歳 | 妙善寺 | 菅原町9-6 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 68 101 301 | 日本メソジスト教会伝道師、市議会・県議会議員 | |
西沢慎吉・幾知子夫妻 | 不明 | 不明 | 妙善寺 | 菅原町9-6 | 埼玉ふるさと散歩 | 68 | 製糸会社・武陽館創設 | ||
舟津蘭山 | 不明 | 明治6年(1873) 6月17日 | 舟津家墓地 | 岸町2丁目 | 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 61 269 | 川越藩御絵師、本丸御殿「杉戸絵」、養寿院本堂「雲龍」 | ||
飯島金左衛門 | 不明 | 不明 | 千日堂はす向かい | 笠幡 | 埼玉ふるさと散歩 | 152 | 私塾 | ||
小島平 | 不明 | 不明 | 長福寺 | 鯨井1142 | 埼玉ふるさと散歩 | 168 | 神官・歌人、「名細村」名付け | ||
大道寺政繁 | 天分15年(1546) | 天正18年(1590) | 常楽寺 | 上戸194 | 川越の人物誌 第1集 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 20 263 115 | 御北条氏家臣・川越城城将、蓮馨尼伜 | ||
河越重頼娘 (源義経正妻) | 不明 | 不明 | 京塚(経塚) | 上戸20-1 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第3集 | 170 10 | |||
福田久松 | 嘉永元年(1848) 12月22日 | 大正11年(1922) | 73歳 | 善長寺 | 豊田本939 | 川越の人物誌 第1集 | 100 | 政治家、「東洋の立憲政治」「大日本文明略史」 | |
尊海 | 不明 | 不明 | 一乗院 | 鴨田716 | 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 198 1 263 | 仙波無量寿寺(喜多院)中興 | ||
長沢喜美 | 明治30年(1897) 4月16日 | 昭和58(1983) 2月12日 | 86歳 | 一乗院 | 鴨田716 | 川越の人物誌 第3集 | 117 | 長沢幼稚園 | |
大野旭山 | 享和2年(1802)? | 明治16年(1883) 5月4日 | 82歳 | 松寿院墓地 | 石田本郷折戸 | 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 35 258 | 和算家、藤宮神社の算額 | |
舜祐法師 | 不明 | 不明 | 西門墓地 | 鴨田 | 埼玉ふるさと散歩 | 198 | 観明院住職 | ||
石川源五右衛門 | 不明 | 不明 | 共同墓地 | 砂久保 | 埼玉ふるさと散歩 わが町川越歴史散歩 | 122 127 | 農兵反対一揆 | ||
細川文吾 | 不明 | 不明 | 東光寺 | 藤間1126 | わが町川越歴史散歩 | 127 | 農兵反対一揆、「小説」のモデル | ||
吉田次兵衛 | 不明 | 不明 | 次兵衛塚・吉田神社 | 砂新田 | 埼玉ふるさと散歩 小江戸川越歴史散歩 | 116 226 | 松平信綱家臣、「伝説」 | ||
赤沢仁兵衛 | 天保8年(1837) | 大正9年(1920) | 84歳 | 市・ 史跡 | 赤沢家墓地 | 今福803−3 | 川越市の文化財 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 | 215 125 94 275 | サツマイモ増収「赤沢仁兵衛実験甘藷栽培法」 |
赤沢千代 | 天保10年(1839) | 大正15年(1926) | 87歳 | 赤沢家墓地 | 今福803−3 | 川越の人物誌 第3集 | 55 | 赤沢仁兵衛妻 | |
遠藤半蔵 | 文化5年(1808) 7月13日 | 明治12年(1879) 11月9日 | 72歳 | 勝福寺 | 寺尾640 | 川越の人物誌 第2集 川越大事典 | 44 256 | 上新河岸船問屋 | |
志誠 | 享保19年(1734) | 寛政12年(1800) | 市・ 史跡 | 北田島329 | 川越市の文化財 | 218 | 五百羅漢像の発願者 | ||
奥貫友山 | 宝永2年(1705) | 天明7年(1787) 11月10日 | 81歳 | 県・ 旧跡 | 奥貫家墓地 | 久下戸4500 | 川越市の文化財 埼玉ふるさと散歩 川越の人物誌 第1集 川越大事典 小江戸川越歴史散歩 | 226 220 47 258 239 | 久下戸村名主 |
忽滑谷快天 | 慶応3年(1867) | 昭和9年(1934) 7月11日 | 68歳 | 蓮光寺 | 大字渋井248 | 川越の人物誌 第2集 | 123 | 禅宗思想を英文で欧米に最初に紹介 |