川越の人物誌(1)

川越の人物に関する内容の本(その1)です

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田代三喜歴史と人と川越大事典日本の医学
奥貫友山奥貫友山埼玉史談
浪 士埼玉の浪士たち
西川練造幕末維新埼玉人物列伝埼玉史談
内海次郎(二郎)龍馬と新撰組
佐々木玉次郎埼玉民衆の歴史
佐久間長敬江戸っ子の意地
川越の有名人のお墓一覧

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人物誌
「川越の人物誌(第1集)」 川越の人物誌編集委員会 川越市教育委員会 1983年 ★★★
1.河越重頼( 〜1185):平安時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。
2.河越重員(……):河越重頼の三男。
3.河越経重(……):養寿院を開基し、円慶法師に創建させた。
4.太田道真(1411〜92):道灌の父。武にも文にもすぐれた武将
 太田道灌(1432〜86):江戸城を築城。軍事家で文学者。
5.北条綱成(1515〜87):北条氏康の代に五家老の1人として武蔵国河越城代となった。
6.難波田弾正(……):武州松山城の城代として勇名をはせた武将。川越夜戦で討死。
7.天海(1536〜1643):徳川家康らの絶対的信頼を受け、草創期の幕府で活躍した天台宗の僧。
8.大導寺政繁(……):後北条氏の家臣。内政手腕に優れ、また主要な戦でも勝利に大きく貢献。
9.酒井重忠(1549〜1617):徳川幕府時代の初代川越城主
10.狩野吉信(1552〜1640):喜多院が所有する国指定文化財「紙本着色職人尽絵」の筆者。
11.小川五郎右衛門(……):文久元年時の鐘の「鐘」を鋳造した鋳物師。
  矢沢四郎右衛門(……):現在の時の鐘の「鐘」を鋳造した鋳物師。
12.岩佐又兵衛(1578〜1650):「三十六歌仙」や「源氏物語図」、「伊勢物語図」などを手がけた絵師。
13.松平信綱(1596〜1662):徳川家光の誕生とともに家人となり、幕府創業に貢献。俗称は知恵伊豆。
14.榎本弥左衛門(1626〜86):「万之覚」と「三ツ子より之覚」という貴重な記録を遺した豪商。
15.安松金右衛門( 〜1686)玉川上水から分水して野火止用水の開削を成功させた。
16.秋元喬知(1649〜1714):江戸前期の老中。学問を好み、幕政では文治政治をすすめた。
17.高山繁文(1649〜1718):秋元喬知の家臣で国家老を務めた。松尾芭蕉の門人でもあった。
18.柳沢吉保(1658〜1714):三富(上富・中富・下富)の開拓を行ない、禅寺(多福寺・多聞寺)を創建。
19.奥貫友山(1705〜87):寛保2年(1742)の大洪水の際、資財を投げうって罹災者救恤に尽力。
20.太陽寺盛胤(……):秋元候の家臣であり、案内型地誌「多濃武の雁」の著者。
21.海保青陵(1755〜1817):徳川各藩が実行した「藩学商業論」を説いた経世家。
22.中島孝昌(1766〜1808):鍛冶町の名主をつとめ、川越地誌「武蔵三芳野名勝図会」を著した。
23.安井政章(1787〜1853):松平斉典の家臣。治水や開墾、植林など領内の発展に尽力。
24.藤枝英一(1789〜1851):江戸時代末期に活躍した刀工。藤枝英義の父。
 藤枝英義(1823〜76):「新刀銘集録」で「当今江戸無類の上手」と謳われた川越の刀工。
25.北野操六(1792〜1864):歌人として名を馳せた安斎のり子の父。自身も文雅の道に通じていた。
26.松平斉典(1797〜1850):川越城主を務め、嘉永元年、川越城本丸御殿を建設。
27.西川練造(1817〜61):代々医師の家系に生まれた儒医で剣術の達人。「虎尾の会」の一員。
28.淡島椿岳(1823〜89):浅草絵という新機軸の画風を確立した画家。
29.中島久平(1825〜88):貿易が始まると安くて良質の綿糸を輸入。それで川越唐桟を生み出した。
30.高林謙三(1831〜1901):製茶機械を完成させ、茶の栽培にも力を尽くし、狭山茶の隆盛に寄与。
31.松平康英(1831〜1904):老中を務めた川越城主。城下宮下町に藩校長善館を開いた。
32.山崎豊(1831〜1912):第八十五銀行頭取、埼玉銀行頭取、川越商工会議所副会頭を務めた。
33.横田五郎兵衛(1834〜92):江戸や大坂の米相場を左右するほどの力を持っていた川越の豪商。
34.橋本雅邦(1835〜1908):横山大観や菱田春草らを育て、近代日本画の礎石を築いた画家。
35.赤沢仁兵衛(1837〜1920):甘藷栽培改良家。サツマイモの収量を上げるため、赤沢式増収法を考案。
36.竹谷兼吉(1844〜1919):川越商業銀行の専務取締役を務めた豪商。
37.福田久松(1848〜1922):政治家であり、「東洋の立憲政治」と「大日本文明略史」を著作。
38.山田衛居(1849〜1907):川越氷川神社宮司の養嗣子。日本画家として「氷川神社行幸絵巻」などの大作を残す。
39.綾部利右衛門(1860〜1932):第八十五銀行や川越鉄道などの開設に尽力。川越市初代市長。
40.渡辺吉右衛門(1863〜1928):川越渡辺銀行を創立。商工会議所の創立委員。
41.井上安治(1864〜89):130点におよぶ「東京真画名所図解」を描いた川越ゆかりの画家。
42.発智庄平(1864〜1936):笠幡の旧家の当主。所有する土地に霞ヶ関カンツリー倶楽部ゴルフ場を竣工させた。
43.菅野政五郎(1865〜1933):川越町立川越高等小学校(現・川越第一小学校)初代校長。私立川越図書館の初代館長。
44.綾部惣兵衛(1867〜1923):政治家。改進党で川越商人層を代表するリーダーとして活躍。
45.柳田惣次郎(1878〜1956):川越を代表するちょうちん師。神社に奉納する絵馬も手がけた。
46.勝田蕉琴(1879〜1963):川越ゆかりの画家。カルカッタ国立美術学校で東洋画を教授した。
47.安部立郎(1886〜1924):川越中学校(現・県立川越高等学校)第一回の卒業生。私立川越図書館の創立者。
48.小村雪岱(1887〜1940):川越生まれの日本画家。舞台や映画の美術考証など多方面でも活躍。
49.高田早苗(1890〜1938):明治26年の川越大火の際、義援金を集め、援助に力を注いだ。元文部大臣。早大初代学長。
50.村田銀造(1890〜1979):川越の地芝居、太夫元になり、「老袋の万作」を無形文化財にした功労者。
51.小茂田青樹(1891〜1933):川越生れの画家。代表作は「出雲江角港」「鳴鶏」「虫魚画巻」など。
52.岸伝平(1894〜1973):郷土史の基礎的研究と郷土資料の発掘に多くの業績を残した郷土史家。
53.岩崎勝平(1905〜64):鉛筆の素描による東京百景、木炭やパステルによる婦人像で知られる画家。

「川越の人物誌(第2集)」 川越の人物誌編集委員会 川越市教育委員会 1986年 ★★★
1.尊海(……):慈恵大師を勧請して無量寿寺を再興。
2.上杉持朝(1418〜1467):太田道灌に命じて岩槻城・河越城、江戸城の三城を築城させた。
3.北条氏綱(1486〜1542):1524年に江戸城、1537年に河越城と松山城を攻め落として武蔵国を制圧。
 北条氏康(1515〜1571):「小田原衆所領役帳」の作製、伝馬制度の整備など領国経営に優れる。
4.戸田一西(1541〜1601):鯨井を領地としていた徳川家の家臣。のちに近江大津城主となる。
5.次原新兵衛(……):1500年代の河越の有力商人。
6.酒井忠利(1559〜1627):酒井重忠の弟。川越城主で徳川幕府の老中を務めた。
 酒井忠勝(1587〜1662):徳川幕府の大老。鎖国政策を推進し、文治的政策に力をいれた中心人物。
7.堀田正盛(1608〜1651):春日局の縁者として、めざましい昇進を遂げた大名。
8.元杢網(1724〜1811):江戸後期の狂歌師で、本名は金子喜三郎。川越で発句会を開催。
9.沼田順義(1792〜1849):楽水堂道意の別名を持つ国学者。「武州河越善行録」で後書きを担当。
10.保岡嶺南(1801〜1868):頼山陽著「日本外史」を校訂した「川越版日本外史」を発行。
11.大野旭山(1802?〜1883)最上流の流れをくむ和算家。石田・藤宮神社の算額を奉納した。
12.林信海(1804〜1862):川越藩赤尾村の名主であり、年中万日記帳(武蔵)の著者。
13.井上淑蔭(1804〜1886):詩僧の嵩古香、国学の権田直助と共に、「埼玉の三学者」と称される歌人。
14.遠藤半蔵(1808〜1879):舟運関係文書の中でも貴重な「番船出入訴答日記」を筆録。
15.江野楳雪(1812〜1873):県指定文化財、全長18メートルの長巻「川越氷川祭礼絵巻」を描いた絵師。
16.尾高高雅(1812〜1887):多芸に優れる歌人。川越に私塾を開き子弟の教育に当った。
17.安斎のり子(1813〜1899):北野操六の長女で歌人。記念歌集「木綿園賀筵集」を刊行している。
18.舟津蘭山( 〜1873):川越城本丸御殿内の「杉戸絵」や養寿院本堂の「雲龍」を描いた川越藩御用絵師。
19.阿部親昵(1836〜1901):川越のみならず、埼玉県における牛乳業の先駆者。
20.黒須喜兵衛(1837〜1888):呉服商を営んでいた豪商。第八十五銀行設立時の頭取。
21.中井尚珍(1842〜1908):県立川越高等女学校や小学校の新築の中心的な人物。
22.渡辺政方(1843〜1919):商工会議所の第一期より常議員を務め、のちに特別議員となった。
23.青木惣太郎(1845〜1914):脇田村出身。宮内庁御用達の果実店「万惣」の初代。
24.水村精(1845〜1885):川越郵便局の前身を開設し、私立川越銀行も創立。
25.田井正一(1848〜1927):川越キリスト教会の牧師で、宇気良幼稚園(現・初雁幼稚園)を創立。
26.山口正興(1850〜1922):今福村の名主。神仏分離令が出ると、当地域を仏葬から神葬へと指導した。
27.橋本三九郎(1854〜1925):国立八十五銀行の取締役。栗橋商業銀行を買収し「橋本銀行」として開業。
28.関根松五郎(1854〜1903)「時の鐘」の修繕のほか、数々の蔵造りを手がけた川越を代表する棟梁。
29.岩沢虎吉(1855〜1929):東照宮、喜多院、日枝神社の保存・維持管理に貢献。小仙波村の川越町への合併に尽力。
30.石川幾太郎(1855〜1934):石川製糸の創業者。
  石川仁平(1878〜1942):石川幾太郎の4番目の弟。石川製糸の久保町工場の工場長として活躍。
31.山内庫之助(1857〜1933):日本メソジスト教会の伝道師。川越本町に川越分教所を開設。
32.小田容亭(1859〜1905):「海浜と荒鷲の図」や「寒牡丹の図」、「千里横行」などを描いた画家。
33.喜多欽一郎(1866〜1927):政治家。川越市政執行の最大の功労者と言われる。
34.野々山喜右衛門(1865〜1932):電話の普及、川越電機鉄道の経営に関与。川越の産業革命の推進者。
35.岸彌吉(1865〜1927):埼玉県改良製茶伝習所を設立。狭山茶振興に大きく貢献。
36.三島通良(1865〜1925):学校衛生の生みの親。母子衛生法を改良し、三島式種痘法を発明。
37.高橋幸助(1867〜1934):川越商業銀行設立時の役員。
38.忽滑谷快天(1867〜1934):難解な禅宗思想を科学的に解明し、英文で欧米に紹介した最初の人物。
39.福澤桃介(1868〜1938):福沢諭吉の次女・ふさの婿。電力王、経営の鬼才と呼ばれた。
40.保岡勝也(1868〜1942):第八十五銀行本店(現・埼玉りそな銀行川越支店)を設計した建築家。
41.星野仙蔵(1871〜1917):米穀取引所監査や川越商業銀行頭取を務め、東上鉄道の敷設に尽くした。
42.根岸勝広(1879〜1941):川越市指定の有形民俗文化財の第一号「中福の神楽用具一式」を手がけた。
43.橋本定五郎(1880〜1947):「川越脳病院(現・川越同仁会病院)」の創設者。6代目川越市長。
44.笠松仙英(1884〜1959):今日の県立盲学校、県立ろう学校の基礎を築いた。
45.久保提多(1885〜1955):日本画家、川越中学校(現・県立川越高等学校)の美術教師も務めた。
46.伊達徳次郎(1887〜1959):田面沢村を合併し、戦後の九ケ村合併の緒をなしえた。
47.細田源吉(1891〜1974):自然主義系統の作家で、一時、左翼運動に参加。トルストイなども翻訳。
48.中屋辺作(1893〜1948):ノコギリ作りの鍛冶職人。機械に頼らず、すべて手作業にこだわった。
49.萩原泰治(1897〜1974):森田元次郎氏と共に南田島の足踊りの現在の形を確立した。
50.伊藤泰吉(1899〜1965):6期18年余にわたり川越市長を務めた。川越市名誉市民。
51.伊藤長三郎(1905〜1969):川越商工会議所、6代会頭。川越ロータリークラブの初代会長。

「川越の人物誌(第3集)女性編」 川越の人物誌編集委員会 川越市教育委員会 1994年 ★★★
1.南大塚四号墳の女性埴輪(6世紀中頃) /2.伊勢物語三芳野の里の女(9世紀中頃) /3.比企尼と二女河越重頼の妻(12世紀中葉〜12世紀後半) /4.源義経の妻(河越重頼の娘)(1167〜1189)/5.後深草院二条(1258〜?)/6.真行尼(1532〜1594)/7.蓮馨尼(?〜1567) /8.百姓むめ(1681〜?) /9.小谷野ひめ(18世紀初期)/10.高橋亀台尼(1736〜1810) /11.鈴木三保子(18世紀) /12.喜多院の五百羅漢と女性(1782〜1820) /13.吉田とよ子(1790〜1859)/14.染谷たせ(1792〜1882)/15.安斎のり子(1813〜1899)/16.花形(吉田)精(1824〜1898)/17.赤沢千代(1839〜1926)/18.大塚一塘(たつ)(1843〜1923)/19.星野りち(1862〜1947)/20.山崎いち(1862〜1945) /21.生沢クノ(1864〜1945) /22.芸者久良吉(1865〜1948)/23.L・H・ボイド(1875〜1957)/24.平井と代(1875〜1980) /25.杉浦翠子(1885〜1960) /26.吉田くら(1889〜1980)/27.砂川さく(1895〜1986) /28.島崎静子(1896〜1973) /29.相原余至(1897〜1991)/30.河東田ヨシ(1897〜1976)/31.長沢喜美(1897〜1983)/32.小原いわ(1898〜1980)/33.小川千代女(1900〜1945)/34.石川梅(1902〜1992)/35.佐久間寿美(1903〜1982)/36.中村かのえ(1905〜1979)/37.石森麗(1906〜1989)/38.山根仲(1906〜1978)/39.榎本園子(1907〜1988)/40.加藤とり(1908〜1988)/41.山本せつ(1908〜1992)/42.荻原加津子(1909〜1987)/43.深井照代(1910〜1990)/44.川田登志子(1915〜1993) 

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年 ★★
会田安明青木昆陽秋元喬知明智光秀足利成氏足利晴氏安部磯雄新井白石荒木村重在原業平安国寺恵瓊
池田亀鑑池田弥三郎以心崇伝伊東甲子太郎伊奈忠治井上正鉄伊能忠敬猪熊弦一郎一遍今川義元岩佐又兵衛
上杉顕定上杉謙信上杉定正上杉朝興上杉朝定上杉朝良上杉憲政上杉持朝梅崎春生
江見水蔭円 空円 仁
大岡昇平大川平三郎太田資正太田道灌太田南畝岡田三郎助岡本綺堂荻野吟子尾崎紅葉織田信雄小茂田青樹折口信夫オールコック
海保青陵柿本人麻呂梶原景時春日局金子堅太郎鴨長明河合曾良川上音二郎川上貞奴河越重頼川端康成
菊池容斎喜多川歌麿木下尚江清川八郎
国木田独歩久米仙人
上泉伊勢守幸田露伴小林一茶小村雪岱今東光
西行酒井忠勝坂口謹一郎猿飛佐助
食行身禄獅子文六十返舎一九司馬遼太郎渋沢栄一島崎藤村島田三郎清水燕十心敬
菅原道真杉浦翠子杉浦非水
関孝和
宗祇(飯尾宗祇)
大太法師高浜虚子滝沢馬琴武田信玄武田信虎建部賢弘田代三喜伊達政宗田沼意次玉川庄右衛門田山花袋俵屋宗達
塚原ト伝蔦屋重三郎坪井正五郎
天海
東洲斎写楽唐来参和鳥居耀蔵鳥居龍蔵鳥山石燕
長尾為景中里介山中山晋平
西角井正慶
根岸鎮衛根岸武香根津嘉一郎
乃木希典野口米次郎
橋本雅邦長谷川角行長谷川等伯長谷川平蔵塙保己一林信篤早船ちよ万里集九
比企尼土方歳三平賀源内平田銕胤
福沢桃助藤島武二藤間勘兵衛
ぺりー弁慶
北条氏綱北条氏政北条氏康北条綱成北条早雲細田源吉堀田正盛堀達之助
正岡子規松尾芭蕉松本清張松平忠昌松平信綱松永安左衛門マッカーサー
三島通良三田村鳶魚源義経源頼朝宮本常一宮本武蔵明庵栄西明恵
室鳩巣
モース毛利重能
安松金右衛門矢田挿雲柳沢吉保柳田国男矢部定謙山口青邨山上憶良山本周五郎
頼山陽

「日本史人物事典」 児玉幸多監修 講談社+α文庫 1995年 ★★
  ・比企尼
  ・太田道灌
  ・北条早雲/北条氏綱/北条氏康/北条綱成
  ・酒井忠世/松平信綱/柳沢吉保
  ・塚原ト伝/天海/春日局/長谷川平蔵/山田浅右衛門(七代)/伊能忠敬/平賀源内
  ・新井白石/室鳩巣/海保青陵
  ・円空/喜多川歌麿/東洲斎写楽
  ・柿本人麻呂/万里集九/松尾芭蕉/小林一茶/島崎藤村/幸田露伴/正岡子規/柳田国男
  ・ペリー

「日本歴史人名辞典」 日置昌一編 講談社学術文庫 1990年 ★★
著者日置昌一は、日本で最初の本格的年表『国史大年表』の完成者として名高い。本書は、その著者が昭和十三年に編集刊行し、好評を博した人名辞典の復刻・縮刷版である。神代より昭和前期まで、天皇・公卿・英雄傑人から学者・文人・力士・芸人まで、日本歴史の最重要人物五千二百余人の生涯と業績を適切に要約している。多彩で信頼性の高い内容を、ハンディで使いやすい文庫判に収録して刊行する。

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年 ★★
  ・源義経太田道灌武田信玄上杉謙信明智光秀春日局南光坊天海伊能忠敬小林一茶正岡子規

教科書が教えない歴史有名人の死の瞬間」 新人物往来社 2003年 ★★
 あの人は、どんな[死に方]をしたか?意外に知らない日本史有名人の最晩年の姿と臨終劇!
源 平
 源義経(自刃)文治五年(1189)閏四月三十日
鎌 倉
 一遍(病死)正応二年(1289)八月二十三日
室 町
 太田道灌(暗殺)文明十八年(1486)七月二十六日
 飯尾宗祇(病死)文亀二年(1502)七月三十日
戦 国
 武田信玄(病死)元亀四年(1573)四月十二日
江 戸
 春日局(病死)寛永二十年(1643)九月十四日
 天 海(病死)寛永二十年(1643)十月二日
 平賀源内(獄死)安永八年(1779)十二月十八日
 伊能忠敬(病死)文政元年(1818)四月十三日
 小林一茶(病死)文政十年(1827)十一月十九日
明 治
 正岡子規(病死)明治三十五年(1902)九月十九日
 

「埼玉の女たち」 韮塚一三郎 さきたま出版会 1979年 ★★
3 『伊勢物語』に載る三芳野の里に住む母とむすめ
9 源義経の正室 河越重頼の女
20 女医第二号 生沢クノ

「漂着船物語―江戸時代の日中交流― 大庭脩 岩波新書 2001年 ★
第1章 流人絵師の描いた唐人
 村方の救援から帰国まで
むすび

「武州の力士」 中英夫 埼玉新聞社 1976年 ★★
 埼玉と相撲のかかわりは意外に知られていない。初代柏戸、花籠、錣山(しころやま)、雷(いかづち)など江戸相撲の主役たち、これらの武州力士群像と悲運の力士男山応輔の生涯を十余年にわたって追跡した郷土史家故中英夫氏の画期的労作。
序文
第一部 力士男山応輔
第二部 相撲閑話
 川越藩のお抱え力士
第三部 武州力士列伝
 江戸時代
 明治時代
 大正・昭和時代
 行司
資料 埼玉県出身力士一覧

「名門高校人脈」 鈴木隆祐 光文社新書 2005年 ★★
第1章 名門公立高校人脈
 埼 玉
  (前略)
 最近では、水泳部の男子シンクロナイズド・スイミングをテーマにした映画『ウォーターボーイズ』の舞台として知られる県立川越高等学校(川越市/1899年創立/第三中学―川越中学)。制服もない同校は、このような「本気の遊び心」が生徒のモットーで、そのあたりが浦和高校との違いだろうか。
 川越中学に学んだ平和運動家吉川勇一(1931〜/旧制浦和高―東大・文)は、共産党を除名後、65年のベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)結成に参加、事務局長をつとめ、ベ平連解散後は予備校の教師をしながら、盟友小田実らとさまざまな形で平和運動に関わっている。現在の連合会長笹森清(1940〜/明大中退)も同校出身である。
 作家では、「浅見光彦」シリーズなどの旅情ミステリーで知られる内田康夫(1934〜/東洋大・文)が筆頭に挙げられる。内田はコピーライター、CM制作会社社長を経て、四〇代半ばでデビューと遅咲きながらも、今では超人気作家として不動の地位を築いている。
 1994年に『石の来歴』で芥川賞を受賞した後、『「我が輩は猫である」殺人事件』『鳥類学者のファンタジア』など純文学のジャンルに留まらない作品を手がける作家で近畿大学教授の奥泉光(1956〜/国際基督教大―同大学院)、2004年4月、高遠菜穂子さん、今井紀明さんとともにイラクの武装勢力の人質となり、三日間の拘束の後に解放されたフリージャーナリストの安田純平(1974〜/一橋大・社会―信濃毎日新聞)も同校の出身だ。
 放送界には、日本テレビ系『ウェークアップ!ぷらす』司会の読売テレビ報道局解説委員辛坊治郎(1956〜/早大・法)、サッカーへの深い愛情に裏打ちされた確かな実況を聞かせると評判のNHKアナウンサー山本浩(1953〜/東京外大)、テレビ朝日アナウンサー小久保知之進(1970〜/早大・政経)がいる。川越高校野球部のエースだった小久保は、伝統儀式≠ニもいえる卒業式におけるパフォーマンスで、卒業証書を受け取る際、校長の目の前でお尻を丸出しにしたという逸話が残っている。
 この野球部からは、プロ野球へも何人か人材を輩出しているが、なかでも現在ヤクルトスワローズに所属する杉本友(1973〜/筑波大)は、97年にオリックス・ブルーウェーブ(現・オリックス・バファローズ)に入団する際、国立大出身初のドラフト一位として注目を集めた。
 合格実績は、東大9名、一橋大7名、東京工大10名、早大104名、慶大30名、上智大36名と、県下の公立高では浦和に次ぐ位置を占めている。
  (中略)
 県立川越女子高等学校(川越市/1906年創立/川越高女)もまた人材の宝庫だ。東京外国語大学英米語学科からプリンストン大学大学院を経て、フジテレビのアナウンサーとして活躍、現在はTBS系『報道特集』のメインキャスターをつとめる田丸美寿々(1952〜)、『ニュースステーション』から『スーパーJチャンネル』と常にお茶の間の顔でありつづける小宮悦子(1958〜/都立大・人文)という二大女性キャスターを生んでいる。
 雑誌『olive』などのファッションページや、家庭用台所洗剤のキャラクターなども描くイラストレーターの上田三根子(1949〜)も同校の出身だ。
 合格実績は、京大2名、一橋大2名、東工大3名、お茶の水女子大4名、慶大9名、上智大18名の一方で早大81名、明大83名、法大53名と、わりにバンカラな気風の私学への合格実績が高い。

 県立川越高等学校  川越女子高等学校

(ブログ)内田康夫と川越

「川越高校のリベラルアーツ教育」 神山典士 川越高校同窓会 青月社 2019年 ★
 「自由というのははたしてなんなのか。自由だからといって自分の好きなことをしていいというわけではないのです。(中略)自由というものは、享受するために責任が伴ってきます。その責任こそ、本校の掲げる自主独立ではないかと私は考えます」(第6章「自主独立の力」より)
   もくじ
 まえがき 川越高校のような会社をつくりたい、若きアントレプレナー
 ・高校時代という黄金の3年間
 ・「川越高校に行けば人生が変わる」
 ・「人生に夢中な人を増やす」企業ビジョン
 ・不確実性業務に宿る高校時代の「+α」思考
 ・リベラルアーツとは「問いを立てる力」
 
1探求する力
 梶田隆章(ノーベル物理学賞、科学者) 〜実験屋として貫いたデータ解析の成果
 ・恩師の記憶と共にある古い机と「晩成」の歩み
 ・「足るを知る」肯定感と「足らぬを補う」渇望感
 ・現場を愛する「実験屋」
 ・「ズレ」から生まれた疑問・興味・ワクワク感
 ・周囲の天才も気にしない楽観主義
 ・最初の論文から10年、実験屋への鳴り止まない拍手
 ・「知の融合」が生む未来の「のびしろ」
 
 教科書を超えた科学探求 〜縦横無尽の研究がつくる「土台」と「のびしろ」
 ・川高の不夜城、物理実験室
 ・「知の融合」を目指すSSHプログラム
 ・公立高校の危機感から導き出された高校教育の王道
 ・SSHのOBたちの黄金の記憶
 ・事前レクチャー400時間、毎年4、5テーマを持参するハワイ島実習
 ・先生とはちがう「ナナメの関係」OBレクチャーの効用
 ・高校3年間、やりたい放題の研究活動
 ・全国の各種コンテスト、そして世界大会へのチャレンジ
 ・SSH活動は大学進学に不利なのか?
 ・高校時代に築く「土台」が大学入学後の「のびしろ」となる
 
2没頭する力
 奥泉光(芥川賞作家) 〜高校時代は好きなことをとことんやりぬくためにある
 ・夢は作曲家バート・バカラック
 ・朝練、放課後練習、授業中も譜面作りに
 ・全然勉強しなくても成績上位の「変わったやつ」
 ・有料チケットは遠征先でも完売
 ・天才的で変人、恩師二人の強烈なキャラ
 ・自主講座で見えてきた多様性のある同級生たち
 ・言葉の力のすごさを知った「資本論」読書会
 ・関心があることを目一杯やれる場
 
 吹奏楽部顧問、松本成二 〜全身全霊生徒愛音楽愛
 ・輝かしい業績と明かされることのない素顔
 ・未開地を独学で開拓したカリスマ
 ・身銭を切って楽器を購入
 ・1年殿様、2年侍、3年足軽
 ・「俺は仙人になる、もう連絡しないでいい」
 ・大学時代から続く店子生活
 ・仙人を世間に引き出したオーボエの音
 ・全13章、330講、100ページを越える「松本ノート」
 ・総勢100名以上が受けた「最後の指導」
 ・松本ノート「吹奏楽演奏法マニュアル」の完成
 ・「ユニゾンを!」今も響く恩師の声
 
3文武両道の力
 松藤千弥(東京慈恵会医科大学 学長) 〜エース・トップ・リーダーであり続ける者
 ・守りつつ発展させていく使命
 ・「患者本位」の理念を実現するために
 ・医者以外の職業は「考えたことがない」
 ・3年の2学期中間テストまで現役バレーボール部
 ・高校時代に身に付けるべきなのは「総合力」
 ・患者を前に、医師・研究者・教育者として
 
 体育教師、バレー部顧問・萩原秀雄 〜有力選手スカウトなしの公立高でも、勝てる
 ・長距離走は「精神修養」である
 ・厳しい課題でも必死に食らいついてくる
 ・負けてもよし、だがなぜ勝てないのか「考えろ」
 ・進学もある、でももう一度全国大会にチャレンジしたい
 
4異文化の力
 山本浩(元NHKアナウンサー、法政大学教授) 〜自分の視点と外からの視線を同時に持つ
 ・「マラドーナ!マラドーナ!マラドーナ!」連呼の名実況
 ・犬ぞり社会とムカデ競争社会
 ・言葉以前のコミュニケーション
 ・男子校のバンカラ気質と学生運動の名残
 ・下宿生活で知った川越という町のあたたかさ
 ・米軍基地で生きた英語を学ぶ
 ・アナウンサーは「幼児にスルメを食わせる要領」
 ・外からの視点を持たないと自分のよさもわからない」
 
 エンパワーメント・プログラム 〜異文化に学ぶ
 ・君自身の言葉で、多文化主義を定義しなさい
 ・3段階の異文化プログラム
 ・ただの英会話ではなく世界で「表現」できる力を
 ・「異文化の空気をただ吸ってくる」では意味がない
 ・留学体験を経た教師陣
 ・4技能が試される大学入試に先駆けて
 ・英語に自信がつけば「日本人はシャイ」ではなくなる
 ・振り返りノートから
 
5「伝統を「継承+改革+創造」する力
 くすのき祭 〜実行委員は自らの「のびしろ」を試す
 ・巨大文化祭を支える「縦軸の知恵」と「横軸のルール」
 ・3年生の実行委員たちは難関大学を目指す
 ・苦しい作業の先に、大きな喜びが待っている
 ・OB会がある門班の建築魂
 ・実行委員会キックオフ!
 ・第71代実行委員会解散、72代発足
 ・「真の川高生」とは?
 
 応援部 〜守るべきものと変わるべきものの格闘の末に
 ・校外からも演舞の依頼がある「街の華」
 ・何年かぶりに翻った団旗、湧き起った生徒の歓声
 ・伝統を守り、伝統をただす、OBの視点
 ・新たな伝統、オリジナル応援メドレーの誕生
 ・「歴代最高」という覚悟
 
 ウォーターボーイズ 〜鬱屈したエネルギーが生んだ新たな伝統
 ・プールサイドをとにかくJKだらけにしたい
 ・奇縁・伏線、男子シンクロ誕生の偶然
 ・関東大会出場、そして「水の踊り子」
 ・午前中は受験勉強、午後はシンクロ練習
 ・大観衆を前に「震えた、ぶっとんだ、燃え上がった」
 ・スクリーンに映った「何か鬱屈したエネルギー」
 ・毎年話し合う「シンクロはやるのか、やらないのか」
 ・どんな仲間に会うか、どう汗をかくか、どう涙を流すか
 
6自主自立の力
 根岸秋男(明治安田生命社長) 〜徹底した観察とゆるぎない使命感の実践で巨大組織を導く
 ・得意の数学を活かしてアクチュアリーに
 ・自由奔放には責任が伴う、その雰囲気が好き
 ・予習の癖は今でも
 ・「目標があると燃える」難関アクチュアリーの受験
 ・「営業を知らないやつが」という圧力で営業を志願
 ・Jリーグを通して地域愛を応援する
 ・身の丈に合った背伸びが、新しい世界に導いていく
 
 自由への闘争 〜自主独立という責任を果たす
 ・半世紀を貫く「自由」の校風
 ・遅れてきた世代が見た闘争とは
 ・時代の大きなうねりの中で
 ・学園闘争での「生徒心得」闘争
 ・3つの自由、生徒憲章の成立
 ・70周年記念行事の是非
 ・ハンガーストライキ
 ・生徒の主張を受け止め、信頼してくれた
 ・学校を辞めた先輩
 ・何も終わっていない
 ・自由への闘争
 
 あとがき 高校時代の「純度」を保つために
 
下宿生活で知った川越という町のあたたかさ
 「もう一つ私の高校時代の特色は、父親が転勤族だったことから3年時には喜多院の近くに下宿していたことがあげられます。部屋には常に友だちが入り浸っていて、酒屋の息子はビールをもってくる。部屋で煮炊きは禁止でしたが、ストーブの上にアルミの鍋をおいて焼き肉をやってビールを飲んでいました。大人に隠れて酒を飲むことが男子高生の通り抜けるべき門だったのかな。タバコは吸いませんでしたが、酒はずいぶん飲んだ記憶があります。
 下宿では当然独り暮らしでしたから、川越という町に育まれた記憶があります。団子屋があったし時計台の下のばあさんの煎餅もよく食べました。学校の近くの『みどり屋』の太麺の焼きそばも美味しかったな。あの店に行くと、畳の部屋に上がり込んでこたつで漫画を読みながら家族と一緒に時間を過ごすのが当たり前でした。あの家の子どもと一緒に遊んだりしてね。
 川越という町では、川高生は我が物顔で生活していましたね。私学はまだ少なかったし、川越工業高校と間違えられないように川高(かわたか)≠ニ呼ぶようになったのかな? それまでは川高(かわこう)といえばうちしかなかったから、町の人たちからはある種の敬意をもって接してもらっていたのではないでしょうか。自分たちでも浦和高校や熊谷高校なにするものぞ、というプライドがあって、浦和は勉強だけ。熊谷は品がない。俺たちのように堂々と生きていないなどと言って、根拠のない自信に満ちていたように思います」

思わず人に話したくなる 埼玉学」 県民学研究会編 歴史新書 2013年 ★★
第7章 自慢したい埼玉県の文化・スポーツ
  68 埼玉の甲子園最多出場校はどこ?

田代三喜
「歴史と人と 埼玉万華鏡 柳田敏司 さきたま出版会 1994年 ★★
 第2章 武蔵探照/医聖≠ニ慕われた田代三喜
 室町時代の後半、応仁の乱以後は、治世が乱れ、全国各地で合戦がくり返され、戦国時代と称される時代である。このような乱世にあっても、よく伝統文化をまもり、芸術を愛し、文化の向上に努めた者もいた。その多くは僧籍に身をおいた者である。世に医聖と称された田代三喜もその一人である。
 三喜の祖は伊豆に住し、源氏に従って平家追討に功績のあった田代信綱といわれ、八世の孫兼綱のとき伊豆から北武蔵の越生の地(現・越生町)に移住し、居を構えたと伝えるが、その理由は明らかでない。この越生の地で寛正六年(1464)四月八日に出生したという。この地は古くから文化が開けた所で、西に秩父連山を望み、越辺川の清流が流れる丘陵台地上の景勝地である。近くには古刹報恩寺などがある。
 一五歳のとき志をたて禅宗の寺に小僧として入門、基礎的な学問を身につけた後、下野(現・栃木県)の足利学校に進み、特に医学に意を用いて学んだ。長享元年(1487)二三歳のとき、遣明船で明に渡り、漢方医学を中心に勉学に励んだ。明で苦学すること一二年。当時、明国の最新の医学と薬学を修学、身につけ、多くの貴重な医学書を携えて帰国した。
 帰国した日本は正に戦国乱世の時代となっていた。帰国して一時鎌倉の円覚寺に住していたが、医学の力を認められて、足利学校に移った。これを伝え聞いた古河に難を逃れていた足利政氏の招請により古河に移り居を構えた。ここで僧籍をはなれ、医者として独立し、妻を迎えた。古来から仏教と医学は不可分の関係にあり、治療、療養施設、投薬などは寺院の仕事の一部であった。現在でも世界各地で宗教僧が民衆の病などをみている地域があるのも、古代そのままの姿が今日に伝えられているからであろう。盲目の名僧鑑真は医者としても名医と仰がれ、道鏡が称徳天皇の病気平癒のため重く用いられたことは名高い。三喜の頃もまだ医学は仏教に付随した学問であった。三喜が最初に僧となったのも、そういう事情があったからといわれる。
 医者として独立してからは一般の民衆、公家、武家を問わず、診察、治療にあたり、多くの患者を相手に施薬して人々に尊敬の眼を向けられていた。しかし古河公方の地位をめぐって足利政氏と子の高基の争いがあり、それを嫌って大永四年(1524)、生まれ故郷である武蔵の地に帰ってきた。
 以後、武蔵の川越、生地の越生などを中心に明で修得した医術と投薬をもって関東各地を往来し、起死回生の技術を駆使して庶民の面倒をよくみたので、世の人々に医聖と仰がれるようになった。三喜が作り出した野草からの薬も多く、苦い薬に甘い味をつけて飲みやすくするなど、薬学の分野での功績も大きい。越生の「一里飴」もその一つといわれている。
 三喜は各地を歩き名医と親しまれたが、書もよくし、江春庵、廻扇、善導など多くの別号を持つとともに、呼び名も田代三喜、越生三喜、古河三喜、川越三喜などいろいろある。
 天文六年(1537)二月十九日、古河でこの世を去ったが、時に七三歳であった。戦乱の世にあって合戦における負傷者、病弱者を相手に世に尽くした三喜は、世界最長寿国となった日本における最初の民衆医といえるかも知れない。
 なお弟子の養成も行ったが、そのうち曲直瀬道三は三喜の医学をさらに発展させ、その子孫は、江戸幕府の侍医となり、また京都方面の公家間に重用された医家として名高い。
 三喜の生地には最近、記念碑が立てられた。 

「川越大事典」 川越大事典編纂会編 国書刊行会 1988年 ★★★
 第14章 人物/近世以前/田代三喜
 寛正六年(1465)〜天文六年(1537)。戦国時代の医者。日本の医聖と呼ばれる。河越に生れた。祖先は伊豆の出身で屋島の役で戦功を立て、その後源氏に従って関東に下り越生に住み、代々医者となって関東武士の病の治療にあたったと言われる。父は田代兼綱といい、足利時代に河越の荘を治めていた上杉持朝に仕えた。三喜は、一五歳のとき妙心寺派の寺に入った。当時は僧籍を持たなければ医者になれなかったからである。その後古河公方足利政氏に召され、古河に移り住んだ。下野の足利学校で医術を学んだ三喜は、長享元年(1487)二三歳のときに遣明使に従って民国へ渡った。医術の研究のために大陸諸州を歴遊、一二年間各地の名医に入門して研鑽を積み、ついには金の李東垣、元の朱丹渓の医術を修得した。明応七年(1498)三四歳の三喜は六書を携えて帰国、李朱の医学を初めて日本に紹介した。三喜は日本国内広い地域にわたって活躍し、その功績は高く評価された。その名は、河越三喜として知られていたが、晩年には古河の三喜≠ニも称された。京都の曲直瀬道三(永正四〜文禄三)も三喜の門下に入り、彼の教えを受けている。また埼玉の名医としてし知られている糟尾養信は曲直瀬道三から医学を学んでいる。天文六年二月十九日、三喜は七三歳で古河で没した。遺像は古河の一向寺にあったが焼失した。三喜の著書として伝えられるものに、「捷術大成」「印可集」「諸薬勢揃」「當流利極集」「直指伝」「夜談義」「薬種穏名」「医案口訣」「三喜十巻書」などがある。           <平松>

「日本の医学 ―その流れと発展― 日本歴史新書 石原明 至文堂 1966年 ★★
第六章 実地医術の勃興
 2 入明の新興医家

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 田代三喜(たしろ さんき)
1465〜1537(寛正6〜天文6)室町後期の医師。(生)武蔵国越生。(名)道導、号を意足軒。
少年時代僧籍に入り、やがて医学を足利学校主の利陽に学び、23歳の年から12年間、明(中国)で李・朱医学を修めた。鎌倉・足利に住み、のち下総国古河に移って当地で没した。初代曲直瀬道三は門弟。

奥貫友山
「奥貫友山」 佐藤繁編著・発行 1979年 ★★★
  −目 次−
奥貫友山小伝
  一、我が故里の偉人
  二、生立ち
  三、寛保の洪水
  四、救済
  五、川越城へ召さる
  六、妻夕歿す
  七、遺書
  八、嵐の前
  九、打ち毀し
  十、弟 正悦
 十一、その人の記録
 十二、友山歿す
 十三、後日譚
 十四、奥貫塾と奥貫正孝、正康
奥貫友山関係資料 附 系譜・略年譜
 史蹟 贈従五位奥貫友山/奥貫友山墓碑/友山先室夕墓碑/友山継室山墓碑/奥貫正孝墓碑/奥貫正康墓碑/荻野氏略系譜/奥貫氏略系譜/友山前後の系譜/友山前後の系譜の参考図/奥貫友山略年譜
〔付録〕川越金石文
 高橋泰翁墓碑/森下無疆先生碑/川越城趾碑
参考文献

一、我が故里の偉人
 二十数年前、私の学んだ小学校の職員室脇の廊下に面して江戸時代の学者の肖像画が額にして掛けてあったのを記憶している。後新校舎への移転等があり、その額はどうなったか母校を訪れた事がない故定かではない。その肖像の人こそ小学校三四年生の時担任だった中田先生から「江戸時代洪水の時、村を救った恩人奥貫友山先生である」といろいろ教えられ今だに私の脳裏から去らない。
 私の故里埼玉県入間郡南古谷村「現川越市」で江戸時代は世々川越藩領で周辺を荒川と新河岸川「村の人は内川と云う」に囲まれ見渡す限り水田地帯で、その上低地で、昔からよく水害を被った地域であった。
 祖父母の代、明治四十三年の洪水は床上の硝子一と骨を残して水に漬った程で、近きは昭和十六年にも洪水に見廻れている。そのような訳で、村人は洪水に対して非常に神経質になっていた。筆者が記憶するに昭和二十二年九月荒川の堤防が切れるのも時間の問題で、家財道具を高台の親戚や知人の家へ預けたり、二階にある家は二階、平屋の家は屋根裏へ家財道具を上げる等大変な騒ぎであった。幸洪水はなくほっと安堵した事があった。大雨が降り続くと「又大水が出るのだろうか?」と年寄は不安そうに顔を曇らした。そして「五平次様(奥貫家)へ足を向けて寝られない」と云って、奥貫友山の救済の事を話しその徳を頌(しょう)していた。大尽だから救済出来たと云う人がいるがそれは違う。実際大尽程人に恵はしないのだ。友山の家は財力もあったが、友山の学問は死学問ではなかった。学問の素養が救済を成さしめたのだ。人に恵を与えれば、その恵が後に何らかの形で返って来る。後の明和騒動の時、一揆から奥貫家のみは打ち毀しを免れたと年寄はよく云っていた。

「埼玉史談 第33巻第3号」 埼玉郷土文化会 1986年10月号 ★★
 奥貫友山と寛保の洪水  佐藤繁
 序 章
 寛保の洪水
 救 済
 終 章

浪 士
「埼玉の浪士たち 「浪士組」始末記 小高旭之 埼玉新聞社 2004年 ★★
 はじめに
 新選組や新徴組を知る人はあっても、その前身である浪士組(鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)組)や、その浪士組に現在の埼玉県域から多くの人たちが参加していた事実を知る人はほとんどいない。おそらく、このまま放置すれば、僅かに残されているそれらの歴史的事実も、遠からず虚無の深淵に霧散してしまうでしょう。そのことを惜しみ、門外漢の身を顧みず、僅かに残された事実の断片を拾い集めておくこととしました。
 浪士組は、出羽庄内の郷士清河八郎が、攘夷の実行のために幕府に働き掛けて結成されましたが、文久3年(1863)2月4日に総員が初めて伝通院に集結した後、翌々月の15日には新徴組と改称され、僅か70日間でその名は歴史上から消滅しています。そのため、浪士組の活動そのもには見るべき事績はありませんが、後に新選組や新徴組を生み出した意義には大きなものがあると思います。そこで、浪士たちの動静を理解するためにも、浪士組創始の発端から、消滅に至る経緯も追って見ることとしました。
   (後略)
 U
入間地方の浪士たち
       1
 入間地方から浪士の徴募に応じた人々は、山川達造、山川竹造、細川市蔵、小島寛太郎の4人と、川越浪人と称する横山明平、長屋源平、小野沢平兵衛の併せて7人である。
  (中略)
       5
 次に川越浪人と称する人たちについても、僅かに解明できている事実について記しておくこととしたい。まず、横山明平だが、「上京有志姓名録」などに「武州川越浪人」と記されているものの、明平と川越藩との関係は定かでない。浪士組参加当時の年齢は、31歳とも、36歳ともある。文久3年(1863)11月に、庄内藩が新徴組を幕府から全面委任された際の名簿に、大内志津馬組の平士としてその名が確認できるが、慶応元年(1865)6月の黐木坂(もちのきざか)新徴組屋敷の棟割りに横山明平の名はない。なお、『赤報記』の「江門著到士名」のなかに、「武川コへ、横山明平」とあるので、明平は慶応3年(1867)に薩邸に投じたことが明らかである。同書の「卯十二月廿五日本藩蒸気船乗組士員」名簿には、さらに「立山寄平。初名横山明平、小荷駄方、武川コへ」と記されているので、藩邸焼討事件の際、明平は薩摩の船で逃れ、相楽総三が官軍嚮導赤報隊を結成すると、立山寄平と変名してこれに参加したのだろう。同年3月には、信州下諏訪で追放の処分を受けている。明平の最期は数奇なものだったらしい。『相楽総三とその同志』のなかに、「横山明平(立山奇平)は道化たことのうまい男だったが、下諏訪で追放され、江戸へ出て官軍に斬り殺されたとも、会津人に斬られて死んだともいう。」とある。この明平の死については、小山松勝一郎の『清河八郎』に、より断定的に、「六番村上俊五郎隊の横山明平は、相楽総三の官軍嚮導赤報隊探索方として活躍中、会津藩士に斬られた。慶応四年の初めである。」と記されている。どの様な資料を根拠にしたかは定かでない。
       6
 長屋源(玄)平については、新徴組の湯田川温泉寄宿帳に「初め源蔵」とある。浪士組への参加時に名を改めたのかもしれない。天保4年(1833)の川越藩松平家の家臣録「已給帳」(ママ)に、江戸詰の長屋寛平と相州勤務の長屋東平という藩士の名があり、源平との関係に興味をひかれるが、詳細は不明である。浪士組参加当時の年齢は、29歳であった。
 新徴組士千葉弥一郎の「わが新徴組の薩摩屋敷焼討」のなかに、慶応4年(1868)に西郷隆盛らが武力倒幕を画策して、三田の薩摩藩邸に江戸市中攪乱のための浪士を集結させた際、新徴組から密偵として長屋源平と中追多助が送り込まれた事実が記されている。また、庄内藩士田辺儀兵衛の『公私日記』の明治元年(1868)1月22日の項に、「(長屋源平は)旧臘廿五日薩州屋敷へ相向、手疵を得候に付、為御手当金弐両被下置候。」という記事が認められる。
 子母沢寛の『幕末奇談』のなかに、「山口三郎は、川越藩の永谷源平というもののところにいて蘭学の方を研究している」云々という逸話が記されている。山口三郎とは、浪士組の道中目付となった備後御調郡後目村(備後浪人ともある)の人である。千葉弥一郎の「新徴組と荘内藩」によれば、山口三郎は浪士募集の前年川越に来て、長屋源平の家に世話になっていたが、浪士募集の令を耳にして両人手を携えて参加したのだという。このため、山口は源平を終始恩人としていたとある。このことに関して、同書にはさらに「山口三郎が恩人として居った新徴組の長屋玄平は老生の実父と同じく武州川越の藩であって、老生とは姻戚の関係があった。玄平は三郎を信頼して居った為、玄平との関係より老生も三郎とは至って親しく交はった」云々と記されている。
 慶応4年(1868)の春、庄内に下った源平は2番隊の伍長の一人として戊辰戦争に従軍し、松ヶ岡の開墾事業にも従事した。明治7年(1874)3月、源平は内田柳松らと共に、懲役2年の罪科に処せられている。その原因の一つは、明治4年(1871)1月、庄内藩の菅実秀らの謀略によって、新徴組士天野清一郎が切腹させられた事件で、菅たちの意を受けた長屋源平、鈴木栄三郎、内田柳松の三人が天野に切腹を迫ったことがあった。天野を介錯したのも、長屋源平であるとする説と、内田柳松がやったとする説がある。二人は、藩政の支障となる新徴組士たちを弾圧する庄内藩の走狗となっていらのである。源平のその後の足跡は定かでない。
       7
 、小野沢平兵衛については、「上京有志姓名録」や「柚原日記」に川越浪人と記されている。なお、「新徴組明細書麁調」には、「生国武州入斯(間)郡川越、安田三平子にて、文久三年正月御募り従ひ出府、同二月御上洛御先供被仰付」云々とあろので、本姓は安田といったようだ。後に本姓に復している。復姓の時期については、文久3年9月頃に作成の「新徴組目録」には、小野沢平兵衛の名で載っているが、慶応元年(1865)6月作成の三笠町御用屋敷の棟割には安田平兵衛の名が記されているので、この間にもとの安田姓に復したのだろう。
 新徴組の湯田川温泉寄宿帳には、平兵衛の名と共に「長男安田圓次郎」の名が記されている。慶応4年春の庄内入りの際には、平兵衛には圓次郎を含め6人の子があったらしく、「新徴組明細書麁調」に、家族7人で、うち3歳以下の子が二人いたとある。
 安田平兵衛が庄内に下ったことは疑いないが、「戊申庄内戦争新徴組出張姓名」には長男の圓次郎の名を確認できるものの、平兵衛の名は認められない。また、明治5年(1873)8月に作成された、松ヶ岡本陣書類のなかの「新徴組開墾士氏名」65人のなかにも、安田平兵衛の名を見ることはできない。しかし、中沢良之助が書き残した資料のなかに、新徴組士尾崎恭蔵謀殺事件に関連して安田平兵衛の名が確認できるので、明治5年7月当時安田平兵衛が庄内の地にあったことは疑いない。その後の去就は不明である。
 浪士組参加当時の平兵衛の年齢は、資料により33歳とも、43歳ともある。なお、資料のなかに、その出身地を武州比企郡増尾村(小川町増尾)とするものもあるが、現在の小川町増尾の地に、小野沢を姓とする家も安田を姓とする家も存在せず、これは誤りではないかと思われる。

西川練造
「幕末維新埼玉人物列伝」 小高旭之 さきたま出版会 2008年 ★★
(32)西川練造 ―清河八郎らと尊王攘夷党を結成した儒医―[川越市]
 にしかわ・れんぞう
 生=1817(文化14)、没=1861(文久元)、出=入間郡小仙波村(現・川越市小仙波)、剣=神道無念流 小野派一刀流
 川越の古刹星野山無量寿院の東方至近にある閻魔堂墓地の一角に、吉田松陰とともに尊王攘夷の東西の双璧と讃えられた清河八郎の建てた西川練造の墓石がある。この墓石は、東京南千住の回向院にあったのを、明治二十五年(1892)の八月に、練造の遺族たちによって、その遺骨の改葬とともに、ここに移し替えられたものである。
 西川練造が伝馬町の牢内で非業に斃れたのは、文久元年(1861)の十二月十四日のことであった。練造の墓石は、練造が死んだ翌年、幕府が発した大赦令によって罪を免れた清河八郎たちが、練造の菩提を弔って建てたものだと伝わるが、墓石には「文久紀元辛酉十二月十五日清河八郎建之」と刻まれいる。この墓石の刻字に間違いなければ、清河八郎は、練造がが牢死した翌日にこの墓を建てたことになり、伝えとは矛盾することになる。
 清河八郎が明主となって尊王攘夷党「虎尾の会」が結成されたのは、文久元年の春のことだったといわれる。その虎尾の会(「英雄の会」ともいった)の明主清河八郎が、酩酊のうえ、町人を殺傷したのは、それから間もない五月二十日のことであった。この事件で、西川練造をはじめ多くの虎尾の会の同志が下獄することとなったが、清河八郎自身は幕吏の追求を逃れて、各地に潜行したのである。
 清河八郎が記した『潜中始末』によれば、文久元年十月、清河は幕府による廃帝画策の噂を耳にして上京し、田中河内之介と謀って京都での義挙を画策、翌月二十九日には九州小倉に上陸した。大谷雄蔵と変名し、決起を促すために諸藩の尊王派志士たちの間を遊説し、西川練造の墓に刻まれた十二月十五日には、肥後の河上彦斎の家を訪れていた。
 九州地方の遊説を終えた清河八郎は、翌年の正月に京都に帰ったが、寺田屋事件で京都義挙計画は破綻した。その後、同年の八月二十四日に江戸に潜入したものの、追われる身の清河は、留まること三日で水戸へ去った。清河が再び江戸の地を踏んだのは、清河の献策による政治犯の大赦や浪士の徴募が決定した後の、同年十二月十三日のことであった。西川練造が獄死したほぼ一年後のことになる。
 清河八郎は、翌文久三年の四月十三日に暗殺されている。こうしたことから、文久二年十二月十三日に江戸に戻った清河は、すぐさま盟友たちの菩提を弔ったのだろう。西川練造の墓石の刻字も、清河の慚愧の念もあって、あえて練造の獄死した翌日の日付にしたのではないかと思われる。念願叶った浪士の徴募に多忙な時期である。練造の横死に対する、清河八郎の悲嘆と自責の念の深かったことが察せられる。
 
 清河八郎の同志西川練造は、文化十四年(1817)三月十七日に、入間郡小仙波村(川越市小仙波)の儒医西川三安(尚恵)の長男として生まれた。幼名は政吉、後に易直、また景輔と改めた。字は子涼、全斎と号した。練造の名は、尊王攘夷活動に奔走するようになってからの変名である。
 西川家は、江戸時代の初め、南朝の忠臣楠木正成の血をひく初代治右衛門が小仙波の地に土着し、以来農を業としていたが、五代藤之助高安以来、農業の傍ら医を業とするようになった。練造は西川家の七代目で、医業の傍ら郷党子弟の教導にもあたっていた。『川越市史』に載る「川越市内寺小屋一覧」に、練造の父尚恵の名が認められるので、寺小屋の経営は父三安から引き継いだものらしい。
 練造は、父三安から四書五経の句読をうけ、神道無念流の大川平兵衛から剣術を学んだ。医術は父三安と大垣退翁に学んだといわれるが、大垣退翁からは儒学を学んだとする説もあって定かではない。
   (以下略)
 ※大川平兵衛…大里郡上之村の人。秋山要助に神道無念流を学ぶ。文政五年入間郡横沼村の大川家の養子となり、自邸内に道場を開く。後川越藩の剣術指南役となる。

「埼玉史談 第24巻第1号」 埼玉郷土文化会 1977年4月号 ★★
 志士・西川練造
  (一)
  (二)
  (三)
  (四)
  (五)

内海次郎(二郎)
「龍馬と新撰組 <文>で読む幕末 管宗次 講談社選書メチエ 2004年 ★
第二部 新撰組のインテリたち
1 伊東甲子太郎
 新撰組入隊
 甲子太郎の「同志」たち
 妻うめ女の悲劇

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 伊東甲子太郎(いとう きねたろう)
?〜1867(?〜慶応3)幕末期の新撰組隊士。(名)摂津。
常陸国志筑藩士。

佐々木玉次郎
「埼玉民衆の歴史 明治をいろどる自由と民権の息吹 中沢市朗 新埼玉社 1974年 ★★
 第8章 黎明期社会主義の人びと/1 活版工佐々木玉次郎

佐久間長敬(さくまおさひろ)
「江戸っ子の意地」 安藤優一郎 集英社新書 2011年 ★
 徳川幕府が倒れた明治維新。それは、時代劇でお馴染みの与力や同心たちなど、大量の徳川家家臣=幕臣たちの失業を意味した。しかし彼らは、そのまま負け組として消えてしまったわけではない。新政府への反骨を胸に秘めながら、政界、言論界、実業界などで多くの「元幕臣」たちが頭角を現し、日本の近代化を下支えしていく。そして明治中期には、自分らちを育んだ「江戸」を後世へ伝える活動を立ち上げるのだ。
 薩摩・長州潘を主体とする従来の歴史叙述では描かれることのない、新たな幕末維新史。
第三章 東京府の混乱
 3 東京府を去る八丁堀の旦那≠スち
 新政府官吏に
 第一章で登場した佐久間長敬は、天保10年(1839)の生まれである。父の佐久間長興(おさおき)は辣腕の与力として知られていた。「鬼佐久間」と呼ばれたほどだった。
 佐久間が与力見習となったのは、嘉永3年(1850)のこと。吟味方のほか、物価調整にあたる市中取締諸色調掛、異国船来航に伴い新設された海陸御備向き御用取扱掛などの重職を歴任した。役職からも、幕末の多難な時期が浮かび上がってくる。
 町奉行所引き渡しの直前慶応4年(1868)3月19日には、町奉行支配調役という与力ナンバー2の地位にまでのぼった。そして、引き渡し当日の5月23日を迎えるが、その後、佐久間はどういう人生を歩んだのか。
 引き渡し後、町奉行所は市政裁判所と改称されたが、旧町奉行所の与力・同心たちは新政府からの要請を受け入れ、しばらくの間、奉行所時代と同様の勤務を続けた。7月17日にはは市政裁判所が廃止され、東京府が誕生するが、勤務状況に変わりはなかった。この時期、佐久間も町奉行所時代と同様の勤務を続けたのだろう。
 しかし、その後間もなく、佐久間は東京府から去ってしまう。他の与力・同心たちも同じ道を辿る。つなぎ役としての期間が終了したということなのだろう。こうした形で、明治政府から切り捨てられてしまう者は多かった。
 もちろん、すべての与力・同心が切り捨てられたのではない。才があると認定された者は、引き続き東京府の役人、あるいは新政府の他部署の役人に抜擢されていく。
 佐久間の場合は、大蔵省や工部省、司法省の役人に任用された。足柄裁判所長など、実際の裁判事務にもあたった。昔取った杵柄(きねづか)と言ったところだ。
 ところが、明治6年12月28日、病気を理由に官吏を辞めてしまう。実は病気が理由ではなく、西郷たちが主張した征韓論をめぐる、政府部内の対立が理由だった。
 最終的に征韓論は却下され、西郷たちは下野するが、佐久間も征韓論派官吏の一人。佐久間の辞職とは、政府への抗議行動だったのだ。
 下野した佐久間は、弁護士のような存在である代言人を務めたり、石油鉱山業などをはじめた。実業界への進出をはかったらしいが、結局のところ事業はうまく行かなかったようだ。(西脇康「校訂 佐久間長敬著「稿本・江戸時代罪科隠語詳説」」、『原胤昭旧蔵資料調査報告書(1)』所収)。晩年は埼玉県川越市に居を構え、江戸町奉行所の終焉(しゅうえん)に立ち会った者として、江戸に関する記録の保存・普及活動につとめた。
 佐久間の著作としては、先に紹介した『江戸町奉行事蹟問答』がある。同書は、いわば町奉行所の解説書だったが、以下のような問答形式で町奉行所の実像が浮かび上がる構成になっていた。言うまでもなく、解答者が佐久間だが、冒頭は次のような問答である。
問 町奉行創立以来の沿革を承りたし
答 天正18年、徳川家江戸御入城の砌(みぎり)は、いづれに町奉行所をおかれたるや。申し伝へも承り及ばず候へども、一人の町奉行仰せ付けられたると、旧記あり。
  慶長5年大坂御出陣の砌、町奉行二人仰せ付けらる。市中二番所を設け、町々の非常を警(いま)しめ、公事・訴訟を聴(きき)きしが、寛永13年、江戸御城の惣構御普請(そうがまえごふしん)の節、今の中曲輪(なかくるわ)の内にありし町々取払い相成り候節、町奉行所を数寄屋橋御門内と呉服橋御門内と、大城の前面南北の方位に分かち、市中に近き所へ番所を創立。元禄15年、町奉行一人相増し、鍛冶橋(かじばし)御門内へ番所一ケ所取建て、三ケ所にて市中を守りたり。享保4年に至りこれを廃止。古来の如く二ケ所を存し、慶応4年辰5月御維新の際大総督府へ引き渡し、町奉行番所の唱へ、此時終りたり。
                                   (前掲『江戸町奉行事蹟問答』)

川越有名人のお墓一覧
 ※表の掲載書より作成 、
人名・廟所生年没年指定墓地住所掲載書記 事
高山繁文慶安2年(1649)享保3年(1718)
2月7日
70歳県・
旧跡
本応寺石原町1-4-9川越市の文化財
埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
225
92
42
264
55
秋元喬知家臣・国家老、俳人
北野操六寛政4年(1792)文久4年(1864)
1月11日
73歳本応寺石原町1-4-9川越の人物誌 第1集
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
66
262
101
十ヶ町頭取名主、歌人安斎のり子の父
水村精弘化2年(1845)明治18年(1885)
7月18日
41歳本応寺石原町1-4-9川越の人物誌 第2集
川越大事典
78
298
川越郵便局の前身開設、私立川越銀行
山崎いち文久2年(1862)
3月15日
昭和20年(1945)84歳真行寺宮元町1-2埼玉ふるさと散歩94孝女・緑綬褒章
岩崎勝平明治38年(1905)昭和39年(1964)58歳真行寺宮元町1-2埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
94
147
280
洋画家、福沢桃介(1868〜1938)・杉浦翠子(1885〜1960)の弟
野々山喜右衛門慶応元年(1865)昭和7年(1932)
8月14日
66歳真行寺宮元町1-2川越の人物誌 第2集
川越大事典
113
298
電話の普及、川越電気鉄道の経営
小川千代女
(野々山嘉江)
明治33年(1900)
4月30日
昭和20年(1945)
10月6日
45歳真行寺宮元町1-2川越の人物誌 第3集126歌人
時雨庵麦鴉不明不明東明寺志多町13-1埼玉ふるさと散歩31松平大和守家臣・俳人
榎本弥左衛門寛永3年(1626)貞享3年(1686)
1月10日
61歳広済寺喜多町5-1川越の人物誌 第1集
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
34
256
52
豪商・本町名主、「榎本弥左衛門覚書」
中島孝昌明和3年(1766)文化5年(1808)
1月10日
43歳県・
旧跡
広済寺喜多町5-1川越市の文化財
川越の人物誌 第1集
埼玉ふるさと散歩
川越歴史渉猟
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
227
56
30
147
267
48
鍛冶町名主・「武蔵三芳野名勝図会」
喜多欽一郎慶応2年(1866)
7月28日
昭和2年(1927)
3月27日
62歳広済寺喜多町5-1川越の人物誌 第2集
川越大事典
109
286
政治家(町会・県会議員)、川越市制執行
小茂田青樹明治24年(1891)10月30日昭和8年(1933)
8月28日
41歳広済寺喜多町5-1川越の人物誌 第1集
川越大事典
140
283
画家
次原新兵衛(次原家)不明不明大蓮寺元町2-8-25川越の人物誌 第2集
川越大事典
11
265
有力商人
山崎豊天保12年(1831)
11月18日
明治45年(1912)
2月25日
大蓮寺元町2-8-25川越の人物誌 第1集
川越大事典
86
200
国立第85銀行頭取、川越貯蓄銀行頭取、川越商工会議所設立発起人
中井尚珍天保13年(1842)明治41年(1908)
10月6日
62歳(ママ)見立寺元町2-9-11川越の人物誌 第2集
川越大事典
72
292
町立川越高等女学校(県立川越高等女学校)、埼玉県染色学校(県立川越工業学校)
河越太郎重頼不明文治元年(1185)
11月
養寿院元町2−11−1埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
わが町川越歴史散歩
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
27
1
28
261
62
河肥庄荘司
岩田彦助不明不明市・
史跡
養寿院元町2−11−1川越市の文化財
埼玉ふるさと散歩
小江戸川越歴史散歩
211
27
66
秋元喬知家臣・城代家老、“川越藩の知恵袋”
横田家の墓
 23基のうち
 7代昌敷
 8代昌壽
 9代政侘忠
市・
史跡
養寿院元町2−11−1川越市の文化財
埼玉ふるさと散歩
217
27
豪商、川越藩御用達
 10代次郎吉
 (五郎兵衛)
天保5年(1834)明治25年(1892)
5月29日
59歳川越の人物誌 第1集
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
89
274
67
豪商、国立第85銀行創立・頭取
 11代政徳
安斎保美不明不明養寿院元町2−11−1埼玉ふるさと散歩27川越町名主・歌人
安斎のり子文化10年(1813)
12月30日
明治32年(1899)
4月26日
87歳養寿院元町2−11−1川越の人物誌 第3集
川越大事典
48
254
歌人、北野操六長女、安斎保美妻
竹谷兼吉弘化元年(1844)大正8年(1919)
6月13日
養寿院元町2−11−1埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
27
97
291
埼玉県議会議員・川越商業銀行創立
綾部利右衛門(10代)万延元年(1860)昭和7年(1932)
1月2日
72歳養寿院元町2−11−1川越の人物誌 第1集
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
106
276
68
馬車鉄道、川越電燈株式会社、チンチン電車、川越市初代市長
綾部惣兵衛慶応3年(1867)
6月6日
大正12年(1923)56歳養寿院元町2−11−1埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
27
120
276
県議会議員・衆議院議員
安井正章天明7年(1787)嘉永6年(1853)
6月19日
67歳市・
史跡
栄林寺末広町1-7-1川越市の文化財
川越の人物誌 第1集
埼玉ふるさと散歩
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
212
58
53
273
73
松平大和守斉典家臣・郡奉行、治山・治水や植林など
厚木恵之・勝吉不明不明栄林寺末広町1-7-1埼玉ふるさと散歩53松平家に柔術で仕えた
墨池庵尾海
(松本利紀)
不明不明行伝寺末広町2-4-2川越歴史渉猟
小江戸川越歴史散歩
41・147
75
書道・華道教授、連歌・俳句
山瀬蘭台不明不明妙養寺末広町1-4埼玉ふるさと散歩54学者・能書家
奴の墓
(瀬川嘉右衛門)
不明元禄6年(1693)法善寺幸町2-14埼玉ふるさと散歩
わが町川越歴史散歩
小江戸川越歴史散歩
44
38
99
松平信綱家臣石川作右衛門の家臣
中島久平文政8年(1825)明治21年(1888)
6月5日
法善寺幸町2-14川越の人物誌 第1集
川越歴史渉猟
川越大事典
77
107
266
川越唐桟
黒須喜兵衛天保8年(1837)
6月20日
明治21年(1888)
10月12日
51歳法善寺幸町2-14川越の人物誌 第2集
小江戸川越歴史散歩
67
97
国立第85銀行創立
蓮馨尼不明永禄10年(1567)市・
史跡
蓮馨寺連雀町7−1川越市の文化財
川越の人物誌 第3集
210
19
河越城代大道寺政繁実母
山田衛居嘉永2年(1849)明治40年(1907)59歳神葬墓地田町埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
57
103
300
川越氷川神社宮司、「氷川神社行幸絵巻」、「朝日之舎日記」
伊藤泰吉明治32年(1899)
12月17日
昭和40年(1965)
7月31日
66歳神葬墓地田町埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第2集
川越大事典
57
165
280
川越市長(6期18年余)
菅野政五郎慶応元年(1865)
4月19日
昭和8年(1933)69歳西雲寺新富町2-5-4川越の人物誌 第1集
川越大事典
117
289
川越高等小学校校長
松平大和守家廟所市・
史跡
喜多院小仙波町1−20−1川越市の文化財
埼玉ふるさと散歩
小江戸川越歴史散歩
208
84
137
川越藩主
 朝矩(霊鷲院)元文3年(1738)
3月14日
明和5年(1768)
6月10日
 直恒(俊徳院)宝暦12年(1762)
5月1日
文化7年(1810)
1月18日
 直温(馨徳院)寛政7年(1795)
2月14日
文化13年(1816)
7月23日(28日?)
 斉典(興国院)寛政9年(1797)
11月2日
嘉永3年(1850)
1月20日(23日?)
53歳川越の人物誌 第1集
川越大事典
68
271
川越城本丸御殿
 直侯(建中院)天保10年(1839)
1月9日
文久元年(1861)
8月15日
(12月10日?)
高林謙三天保3年(1832)
6月18日
明治34年(1901)
4月
70歳市・
史跡
斎霊殿
(閻魔堂)
小仙波町1-10-1川越市の文化財
川越の人物誌 第1集
埼玉ふるさと散歩
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
213
79
74
291
171
製茶機械の発明者
西川練造文化14年(1817)
3月17日
文久元年(1861)
12月14日
45歳市・
史跡
斎霊殿
(閻魔堂)
小仙波町1-10-1川越市の文化財
埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
214
74
71
267
173
維新の志士
小河原家の墓
 6代当主政陽
 政陽の妻
 7代当主政甫
 政甫の妻
 次女
 童子及び童女
市・
史跡
斎霊殿
(閻魔堂)
小仙波町1-10-1川越市の文化財216松平大和守家臣・家老
岩沢虎吉安政2年(1855)
2月2日
昭和4年(1929)
5月19日
斎霊殿
(閻魔堂)
小仙波町1-10-1川越の人物誌 第2集
川越大事典
93
281
小仙波村の川越町合併、高林謙三後援
仙芳眞人不明不明入定塚小仙波町1埼玉ふるさと散歩
わが町川越歴史散歩
74
94
「伝説」
太陽寺盛胤一族の墓
 祖父盛昌とその妻
 父盛方
 盛胤の母
中院小仙波町5−15−1埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
わが町川越歴史散歩
小江戸川越歴史散歩
72
50
264
67
177
秋元但馬守家臣、「多濃武之雁」
加藤みき不明昭和10年(1935)
5月20日
中院小仙波町5−15−1埼玉ふるさと散歩
わが町川越歴史散歩
(川越の人物誌 第3集)
(川越大事典)
72
69
101
288
島崎藤村(1872〜1943)義母・島崎静子(1896〜1973)実母
松平周防守家廟所市・
史跡
光西寺小仙波町5−4−7川越市の文化財209川越藩主
 松平康英天保元年(1830)
5月16日
明治37(1904)
7月5日
74歳埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
70
83
271
181
平井と代明治12年(1879)
2月15日
昭和25年(1950)
3月20日
71歳光西寺小仙波町5−4−7川越の人物誌 第3集82日本赤十字社看護婦
山内庫之助安政4年(1857)
8月22日
昭和8年(1933)
11月11日
77歳妙善寺菅原町9-6埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第2集
川越大事典
68
101
301
日本メソジスト教会伝道師、市議会・県議会議員
西沢慎吉・幾知子夫妻不明不明妙善寺菅原町9-6埼玉ふるさと散歩68製糸会社・武陽館創設
舟津蘭山不明明治6年(1873)
6月17日
舟津家墓地岸町2丁目川越の人物誌 第2集
川越大事典
61
269
川越藩御絵師、本丸御殿「杉戸絵」、養寿院本堂「雲龍」
飯島金左衛門不明不明千日堂はす向かい笠幡埼玉ふるさと散歩152私塾
小島平不明不明長福寺鯨井1142埼玉ふるさと散歩168神官・歌人、「名細村」名付け
大道寺政繁天分15年(1546)天正18年(1590)常楽寺上戸194川越の人物誌 第1集
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
20
263
115
御北条氏家臣・川越城城将、蓮馨尼伜
河越重頼娘
(源義経正妻)
不明不明京塚(経塚)上戸20-1埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第3集
170
10
福田久松嘉永元年(1848)
12月22日
大正11年(1922)73歳善長寺豊田本939川越の人物誌 第1集100政治家、「東洋の立憲政治」「大日本文明略史」
尊海不明不明一乗院鴨田716埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第2集
川越大事典
198
1
263
仙波無量寿寺(喜多院)中興
長沢喜美明治30年(1897)
4月16日
昭和58(1983)
2月12日
86歳一乗院鴨田716川越の人物誌 第3集117長沢幼稚園
大野旭山享和2年(1802)?明治16年(1883)
5月4日
82歳松寿院墓地石田本郷折戸川越の人物誌 第2集
川越大事典
35
258
和算家、藤宮神社の算額
舜祐法師不明不明西門墓地鴨田埼玉ふるさと散歩198観明院住職
石川源五右衛門不明不明共同墓地砂久保埼玉ふるさと散歩
わが町川越歴史散歩
122
127
農兵反対一揆
細川文吾不明不明東光寺藤間1126わが町川越歴史散歩127農兵反対一揆、「小説」のモデル
吉田次兵衛不明不明次兵衛塚・吉田神社砂新田埼玉ふるさと散歩
小江戸川越歴史散歩
116
226
松平信綱家臣、「伝説」
赤沢仁兵衛天保8年(1837)大正9年(1920)84歳市・
史跡
赤沢家墓地今福803−3川越市の文化財
埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
215
125
94
275
サツマイモ増収「赤沢仁兵衛実験甘藷栽培法」
赤沢千代天保10年(1839)大正15年(1926)87歳赤沢家墓地今福803−3川越の人物誌 第3集55赤沢仁兵衛妻
遠藤半蔵文化5年(1808)
7月13日
明治12年(1879)
11月9日
72歳勝福寺寺尾640川越の人物誌 第2集
川越大事典
44
256
上新河岸船問屋
志誠享保19年(1734)寛政12年(1800)市・
史跡
北田島329川越市の文化財218五百羅漢像の発願者
奥貫友山宝永2年(1705)天明7年(1787)
11月10日
81歳県・
旧跡
奥貫家墓地久下戸4500川越市の文化財
埼玉ふるさと散歩
川越の人物誌 第1集
川越大事典
小江戸川越歴史散歩
226
220
47
258
239
久下戸村名主
忽滑谷快天慶応3年(1867)昭和9年(1934)
7月11日
68歳蓮光寺大字渋井248川越の人物誌 第2集123禅宗思想を英文で欧米に最初に紹介

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作成:川越原人  更新:2023/01/10