川越の歴史5(事件・事故)


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事件・犯罪
「徳川吉宗と江戸の改革」 大石慎三郎 講談社学術文庫 1995年 ★★
 元禄時代の空前の繁栄の後、極端な不況と財政難から徳川幕府を救った「中興の英主」八代将軍・吉宗。本書は、新田開発ほか様々な年貢増収策や側用取次という側用人の設置など、吉宗による財政再建策と人材登用の妙を多面的に論述。また大江戸の発達と大岡越前守などの活躍した江戸の市政の仕組みを平易に解説する。吉宗を中心に、新井白石から田沼意次に至る江戸の改革を独自の観点で分析した好著。
第一章 新井白石/3 官学に勝つ
 三綱の変
 1711(正徳元)年の7月16日、信州(長野県)松代在の出身で、江戸で商人をしていた男が、その妻(武蔵の国河越在の農民の娘)の兄に誘われて、河越へいった。同月20日にこの兄が男の留守宅へやってきて、「おまえの夫は商売のために故郷へいくが、まもなく帰ってくるだろうから、その間父のもとに帰って待つがよかろう」といって、男の妻、つまり妹を実家へつれて帰った。ところが、日数がたっても夫が帰らないうちに月がかわってしまった。
 そのうち、近くの川に水死人が浮いたと聞いてかけつけてみたが、水中にうつ伏せになっているので顔がわからない。なんとかして見ようとしたが、父と兄が許さないのでいちおう帰ってから、名主に頼んで死体を取り上げてもらったところ、それは自分の夫であった。取り調べの結果、父と兄が殺して水に沈めたことがわかり、事件は落着したはずだったが、ここに一つ難題が残った。
 当時、君臣・父子・夫婦の関係を三綱といった。それは、徳川封建社会をささえるもっともたいせつな人倫関係とされていた。そして、この事件の妻女は、子が親を訴えて罪におとしたという意味でこの三綱にもとりはしないかということになったのである。
 幕府当局から相談をうけた林信篤は、『論語』や『春秋左氏伝』を引用して、この事件はたとえ父と兄が夫を殺したとはいえ、子が親の罪を訴えたのは、社会最大の倫理である三綱にもとるので、当然処罰すべきだという意見書を出した。
 これに対し白石は、中国の『儀礼』(ぎらい)などを典拠にしながら主張した。
 「婦人には『未だ嫁せざれば父に従い、既に嫁せば夫に従い、夫死すれば子に従う』という三従の道徳というものがある。たしかに父と夫とは、女にとって、どうしても従わねばならない尊い存在であるが、まったく同じ尊さのものが二つ同時に存在することはできないので、そのばあい、夫ある女は夫のほうをとるべきである。ましてこの事件では、その妻女は名主に請うて検屍をしてもらったあとで、それが夫であることを知ったのであり、またその後役人が調べた結果、父と兄とが夫を殺したことがわかったのだから、その女を処罰するのは道理のないことである」
 結局この主張がいれられ、女は尼となって夫と父と兄の菩提をとむらうことで、事件は落着した。しかし、白石が優勢であったのはこのころまでである。
   (後略)

「日本の歴史17 町人の実力」 奈良本辰也 中公文庫 1974年 ★★
 「新井白石」の章に、川越で起きた殺人事件に関する記載があります。
  三 綱
 正徳元年(1711)の夏のことである。武蔵国川越在の駒林村の女で、江戸で商売をしている信州松代出身の男のところへ嫁いできている一人の女が、夫の行方不明とそれにつづく不慮の死を訴え出てきた。よく尋ねてみると、半月くらい前に、その女の兄がやってきて、彼女の夫を連れ出している。
 そして、それから二、三日して、また兄が来て、「おまえの夫は、松代の郷里のほうへ商用で出かけたから少しながい旅になるということだ。おまえは川越の父のところへ行って、しばらく帰りを待ったらよいだろう」とくことで、彼女を川越に連れて帰った。
 ところが、日数を経ても夫が帰ってこないので、父に問うたが、いや、もう帰るだろうというような返事だった。ところが月がかわっても帰ってこない。どうしたのだろうと心配でたまらないとき、近所の川に水死人があがった。そこで、それが夫ではないかと父や兄に問うてみたが、曖昧な返事で要領をえない。ついに名主に訴え出て、その水死人の身もとを調べたところ、自分の夫であったというのだ。
 それで、役人がきて、いろいろと調べると、その女の父親の家から、夫の衣類や所持品が見つかって、ついに隠しきれず、父と兄とで殺害したことを白状したという。この場合、父と兄の罪状は、これは明々白々なので、まず問題はないところだ。
 しかし、当時のもっとも重大な人倫関係として、君臣・父子・夫婦の三綱がこれに関係している。すなわち、子が親を訴えて罪におとすという問題だ。それが許されれば、臣もまた君に対して絶対的な服従をしなくてもよくなるかも知れない。三綱は、その間に軽重を付してはいないからだ。
 ことは、一人の女に関することであるが、封建的な道徳を至上とするものにとっては、なかなか重大なのだ。そこで、林信篤に、まず相談があった。信篤はこのとき、「人は尽く夫なり、父は一のみ」という中国の故事を典拠としてひき出した。これは鄭の祭仲というものの娘が、自分の母に、夫と父といずれが大切かという質問を出したとき、その母が答えたことばであった。これを平易にいうと、「夫という者は、何人でも代えることができます。しかし、自分を生んだ父親は一人しかいないでしょう。だれでも、何人でも代わりがある夫と、一人しかいない父親とは、父親が大切であるのはいうまでもないでしょう」という理屈なのだ。
  三 従
 その大切な父親が罪に問われるようになったのは、その娘が訴えたからである。『論語』には「その父の悪をかくす」というように説いている。また中国の律の本には、「父母の悪を告言するものを殺す」というふうに記してある。わが国の律では、「父母を告言する者は流す」と書いてあるが、こうして見てゆくと、その女は、どうしても罪に当たるということになる。
 これが信篤の、判決を下すために用意した罪案の趣旨であった。しかし、白石はこれと反対の意見を持ったのである。そして、相手が信篤であるだけにじゅうぶんな用意をした。かれはまず、同門の友人である室鳩巣を尋ねて意見を聞き、その一致したところで意見を具申した。
 かれが典拠としたのは、『儀礼』という中国の礼式の書物で、その中の「喪服伝」の斬衰(中国の喪服)の条である。この条文には服忌に関することが書いてあるが、それによると女は、父の家に居るときと、嫁した後とは、父の死に対する服忌のしかたが違うというのだ。それに婦人には三従という道徳がある。「未だ稼せざれば父に従ひ、既に稼す夫に従ひ、夫死すれば子に従ふ」ということばだ。ゆえに、父は子の天であり、夫は妻の天であるというのである。
 (中略)
 さて、さきの斬衰の条の文章に「婦人の斬を二つにせざるは、猶天を二つにせざるが如きなり。婦人は尊を二つにする能はざるなり」というのがあった。その「婦人は尊を二つにする能はざるなり」というところに意味があると白石はいうのである。そこでかれは「人の妻たるものは夫に従ひて、父に従ふまじき義ある事をしるべし」という意見を示した。すなわち他家の婦人となって実家の父と兄とに従わないこともあるというので、さらに白石は、夫のために尽し歴史上に名を残した女性を挙げている。漢の孝平后・孝献后、北斉の天元后、呉の太子妃などがその例であると。かれは、信篤の刑に相当するという議論を、このようにしてはね返しているのだった。
 
「折たく柴の記」 新井白石著 羽仁五郎校訂 岩波文庫 1939年 ★★
 日本における近代的な学問の先駆者たる新井白石の自叙伝。優美・平明な和文で書かれたわが国自伝文学中の屈指の名著。
 上中下の三巻から成っていますが、その下巻に上記の事件についての記事があります。ただ、旧漢字で書かれていて読みにくいので、つぎの1999年版でその内容を記載します。

「折たく柴の記」 新井白石著 松村明校注 岩波文庫 1999年 ★★
 二度にわたる貧しい浪人生活の後、甲府藩に藩主綱豊の侍講として出仕した白石は、次第にその信任を得、「生類憐みの令」の将軍綱吉の養子となった綱豊が六代将軍家宣となるや、ともに幕政の改革に乗り出してゆく。六代家宣、七代家継の二代にわたって幕府の中枢で活躍した江戸中期の儒学者・政治家新井白石(1657-1725)の自叙伝。
 正徳中疑獄の事
 前の事共しるすにつけて、思ひ出たり。前代の御時、辛卯(正徳元年(1711))の八月十七日に進講訖りし後、疑獄一条をしるし出されたりけり。
 これを見るに、「信濃国松城(松代)の庄の人、ここに来りとどまりてあきものするあり。其妻は当国(武蔵国)河越庄駒林といふ村の女也。すぎにし七月十六日、其妻の兄なるものの来りて、河越にいざなひゆきたり。同き廿日に、妻の兄また来りて妹なるものに、「『汝の夫はあきもの(商売)のために、故郷にゆく也。いくほどなくて帰りぬべし。そのほど(その間)は父の許に来りて、その帰らむを待つべし』といひぬ」といひて、同き廿一日に父の許にともなひゆく。日数経ぬれど夫の帰らざれば、その帰らむほどを父にとふに、「『廿八日の比には必らず帰らむ』とこそいひつれ」といへど、明けの月の朔日に至れど帰りも来ず。いかにかくはあるらむと覚束なきに、「ほとりの川に流れ死せし人あり」とききて、むねうちさはぎてはしりゆきてみれど、水のなかにうつぶし死したれば、見もわくべからず(見わけがつかない)。「いかにもして、その人を見ばや」と、父と兄とにいへど、「いかにさる事やあるべき」といひて、聞もいれず。いとどその堪がたさに、明けの日その所の名主などいふものに告げて、かの死せしものを取りあげさせて見るに、我夫也けり。
 ここは秋元但馬守喬朝(当時老中)の所領なれば、留守の役人等、彼妻の父兄またその家子等をめし問ふに、答ふるところの疑はしければ、其家を検知せしに、婿なるものの衣類・雑具等を得てげり(けり)。陳ずるに詞なくして、七月十八日の夜、父と兄と二人して、其婿を縊殺して水に沈めし事あらわれにたり。かの婿殺せし二人の罪は、疑ふべきにあらず。其妻なるものの父を告し罪あるに疑ひあれば、喬朝朝臣其状をまゐらせたる也」。
 某対申すは、「此獄三綱之変にして、常理をもて推すべからず。窃に憂ふる所は、彼父子・夫婦の事のためのみにあらず。君臣の大義よりて係れる所也」と申しければ、「されば、評定のものどもに、「かかる事の断例(従前の判決例)やある。たづねてまゐらせよ」とこそ仰せつれ」とのたまはせ給ひたりけり。家に帰りし後、我友鳩巣とひそかに此事を議せしに、明けの日の朝贈れる書に、儀礼喪服伝の斬斉の条を引て、「これらの条によりて、此獄を断じなば、その疑なかるべき」由をしるせり。我はじめ彼議を聞しに、我おもふ所に同じかりつるに、今また此書の確拠(たしかな証拠)あるを得し、幸にこそ覚たりけれ。
 廿二日の進講の後、評定衆のまゐらせし断例をうつし出されて、「これ此獄を断はるべき例とも見えず。いかにやおもふ」と仰下さる。その断例を見るに、貞亨四年四月、夫の我養母と私通せし事を告申せし女ありて、かの私通のもの二人首をきりて獄門にかけられ、その女をば、母と夫とを告げし罪によりて、獄に繋ぐ事一年、五年三月に至てやつことなされし事をしるせし也。「承るところのごとく、これ、此獄の例とすべき事にもあらず」と申して、此女罪せらるる事あるまじき由を申して罷出づ。
 廿五日にめされて、「老どもの大学頭信篤が議を奉りしものを見よ」とてうつし出さる。その議には、「「人尽夫也、父一而已」、これ鄭の祭仲が女、己が母に、父と夫と孰か親しき義を問ひしに、其母の答しことば也。父の罪過あらわれしは、女の訴しによれり。論語にも「父の悪を隠すを直し」とみえたり。律書にも、「父母の悪を告言ふ者を殺す」と見ゆ。されば、父の悪を訴しは其罪死に当れり。もし父の夫殺せし事をしらずして訴んは各別也。本朝の律には、「父母を告言ふものは流す」とあり。註には絞るとみえたり」としるしぬ。此月廿三日に奉りし所の義なり。
「祭仲が妻の言取用ゆべき事かは。また此事もとより過誤之失にはあらず。また孔子「隠すをもて直し」とのたまひしとも見えず。此上は議すべき所をしるして進らせよ」と仰下されしかば、家に帰りて、やがて草起てて(草案を書いて)、廿六日に、某が議をぞ進らせたる。
 其議せし所は、「某伏して今月十七日の旨を奉る。商夫の婦あり。夫出て帰らず。久して溺死のものある事を聞て、その里長に請うて其屍を験するに、すなはち我夫也。推覈して其状を得しに(取調べて、事情を明らかにした結果)、婦の父と兄と共に婿を殺して、屍を水に沈めし也。官司(役人)疑ふに、婦其父を告るの罪を犯すに似たり。法官(評定衆)議して、「没入して婢となすべし」といひ、儒臣(林信篤)議して、「断ずるに父を告るを以てすべし」といふ。ここにおいて、某をしてまた議を上らしめらる。
 某謹て按ずるに、是獄三綱之変、常理の推すべきにあらず。まさに按じて断ずべきもの三つ。
 一つには、よろしく正すに人倫之綱を以てすべし。いはゆる三綱とは、君は臣の綱、父は子の綱、夫は妻の綱、これ也。まづ此三つの綱といふにつきて、君と父と夫と、其尊相同じくして、これに事ふるところ一つなる事をしるべし。
 二つには、よろしく拠るの喪服の制を以てすべし。先王の制、女子許嫁して室に在ると、嫁して反りて室にあるとは、父死しぬれば、父のために斬衰(中国の喪服)三年す。既に嫁して夫に従ふ時は、父死しぬれど斉衰不杖期を服す。されば、女子の室にある時と、出て嫁しぬる後と、父のために服する所、懸絶なるが疑ひあるべきが故に、喪服の伝に其議を明らかにして、「婦人三従之議あり。専用之道なし。故に未嫁、父に従う。既嫁、夫に従ふ。夫死、子に従う。故に父は子之天也。夫は妻之天也。婦人不二斬者、猶曰不二天也。婦人不能二尊也」と見えたり。されば、此「婦人尊を二つにする事あたはず」といふによりて、人の妻たるものは夫に従ひて、父に従ふまじき義ある事をしるべし。
 三つには、よろしく度るに事変之権(臨機応変の法)を以てすべし。凡事常あり。変あり。これを行ふに経(常に変らない標準)あり。権(臨機の処置)あり。先儒のいはく、「権者所以達経也(権トハ経ヲ達スル所以ナリ)」。女子室に在りては父に従ひ、出て嫁しては夫に従ふものは、時措之宜、いはゆる先王之義制也。それ、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり、夫夫たり、婦婦たるは、人倫の常なる也。君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらず、夫夫たらず、婦婦たらざるは、人倫の変なる也。君君たらずといへども、臣臣たらずといふ事なく、父父たらずといへども、子子たらずといふ事なく、夫夫たらずといへども、婦婦たらずといふ事なきは、人倫の変に処して、其常を失はずといひつべし。凡そ人の臣として、父其君を弑し、人の婦として、父其夫を殺すのごときは、人倫の変最大なるものにして、臣たるもの、君に忠ならむとすれば、父に孝ならず、婦たるもの夫に義ならむとすれば、父に孝ならず、斯人の不幸、これより大なるものはなし。古の人の臣たるもの、其父にしたがはずして、其君に忠なりしもの、其人あり、唐の李さい(王偏に崔)、石演芬がごときこれ也。人の婦たるもの、其父と兄とに従はずして、其夫に義なりしもの、其事なきにあらず。漢の孝平后、孝献后、北斉の天元后、呉の太子妃のごときこれ也。
 されど、父のために夫殺されて、其事を以て告しものの事、いまだ見る所あらず。其夫の君の命をうけて我父殺さむとするを知りて、父に告げて父のために夫殺されしものはあり。鄭祭仲の女雍きつ(女偏に吉)これ其人也。はじめ雍きつ、父と夫と其親しきところいづれならむことを疑ひて、其母に問ひしに、母答ふるに、「人是夫也。父一也。胡可此也」といふを以てす。これ信篤拠る所也。其母のいひし所と、雍きつが告し所と義ならむには、夫たるもののために、其父を父とせず、其兄を兄とせざりしごときは、不孝不悌にして、不義なるべしや。もしここに人の臣ありて、父其君を弑せんとするを知りて、「人は尽君也、父は一也、胡可此也」といひて、父と共に君を弑せば可ならむ歟、不可ならむ歟。
 衛の公子州吁、其君を殺す。石さくが子、厚与れり。石さく陳に告て、「此二人者実弑寡君敢即図之(此ノ二人ノ者実ニ寡君ヲ弑ス。敢ヘテ即チコレヲ図ル)」といひけり。君子称じて、「石さくは純臣なり。大義滅親とはこれこれをいふか」といひき。孔子、「父為子隠、子為父隠」とのたまふは、これまた信篤引用ひし所也。人倫之常理のみ。羊を攘むと君を弑すと、いづれか大に、いづれか小しきなる。
 先王の制、既嫁するの女は其夫を天として、其父を天とする事あたはざるによれば、我父その夫を殺せしを告むにも、よのつね父母を告るの律を以て論ずべからず。況や此女の里長に請うて屍を得てのちに其夫なる事を知り、官按じて其父と兄との其婿殺せし状を得たるがごとき、また父と兄との夫殺せし事をしりて、これを告しには大に異也。此婦のごとき、断ずるに罪を以てせむ事、万々其理なし。父兄の夫殺せし罪露れぬる日、たち所に自殺したらむには、夫のために義にして、父兄のために孝あり、悌あり。人倫の変大なるものに処して、善尽しぬといふべし。
 されど、これまた備らむことを責むるの論にして、「君子恕人之道(君子人ヲ恕スルノ道)」にはあらじ。古より此かた、父のために夫殺されて、死するに及ばねど、身を終るまで其義を守れる女すくなからず。古人其死せざるがために、其節を小しきなりとはせず。
 某窃に議すらく、「凡そ人の婦たるもの、其夫のために義なるべきは、なほ人の臣たるものの、其君のために忠なるべきがごとし。もし李さい・石演芬がごときもの、世のいはゆる忠臣・義士ならむには、蔡仲が女雍きつがごとくならむものを称じて、孝順之婦とせむは、某がしれる所にあらず」。
 また此議に副て奉りしは、「評定の人々奉られし断例によれば、『此女繋獄一年の後没入して婢となすべし』。大学頭が議によれば、『此女父の夫殺せしを知りて告たらむには、処するに死刑を以てし、もし其事を知らざらむには、奴罪に行はるべきもの也』といふがごとし。
 もし某が議のごとく、此女罪せらる事なからむには、某敢て請ふ所あり。哀々たる寡婦、すでに其託する所を失ふ。青松之色、歳寒に改ることなからむこと、いまだ必とすべからず。某ひとり其婦節を失はむことを惜むのみにあらず。ただ恐らくは、官法を毀ふことあらむことを。我国の俗、父を喪し、夫を喪し、僧となり、尼となるものすくなからず。微くに人をして風ぜしむる(遠まわしに言ってさとらせる)に、父と夫とのために尼とならむ事を以てし、尼寺に送り入れて、剃髪受戒せしめ、父と夫との財産を併せて其寺に施し入れて、彼飢寒患を救はむには、官法婦節ふたつながら全からむ」とぞ申したりける。
 やがて某が議によられて、御沙汰ありしかば、喬朝朝臣のはからひにて、みづから尼とならむ事を望請ひ、鎌倉の尼寺(松ヶ岡東慶寺)におもむきしとぞ聞えたりける。
 現代語訳で読むには、つぎの文庫本があります。
「折りたく柴の記」 新井白石著/桑原武夫訳 中公文庫 1974年 ★★
 明治三十二年、福沢諭吉の『福翁自伝』が公刊されるまで、『折りたく柴の記』に匹敵する自叙伝は一つとして現れなかった。これは学問の場合におけると同様に、自叙伝文学の領域においても、新井白石が前駆的巨星であった事実を見事に示している。

「三くだり半と縁切寺 江戸の離婚を読みなおす 高木侃 講談社現代新書 1992年 ★★
第四章 縁切寺へ駆け込む女たち
 助命救済の話
(2)武州駒林村むめ一件
(3)川越松平家中娘両人一件

「大江戸裁判事情」 戸部新十郎 廣済堂文庫 1998年 ★★
六 大岡越前守の世界
 新井白石の慨き

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 新井白石(あらい はくせき)
1657〜1725(明暦3〜享保10)江戸中期の儒学者・政治家。
(系)上総国久留里藩土屋利直の家臣新井正済の長男。(生)江戸。(名)君美(きんみ)、通称勘解由(かげゆ)、白石は号。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 室鳩巣(むろ きゅうそう)
1658〜1734(万治1〜享保19)江戸中期の儒学者。
(系)医者室玄樸(草庵)の子。(生)武蔵国谷中村。(名)直清、字は師礼・汝玉、通称新助、別号を滄浪。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 林信篤(はやし のぶあつ)=林鳳岡(はやし ほうこう)
1644〜1732(正保1〜享保17)江戸前・中期の儒学者。
(系)林鵞峰(がほう)の次男。(生)江戸。(名)春常、信篤、字は直民、別号を整宇。

「日本仇討100選」 稲垣史生 秋田書店 1976年 ★★
 現代でも、小説やドラマに復讐的要素は多く見られる。商売にからみ、恋愛にからみ、ライバルのあるところ、うらみがあり、復讐への思いがある。それは自然の行動であり、われら一生のうちに何度かそんな衝動に駆られることなしにはすまない。
 敵討話といえば、父あるいは夫を無体にも殺された、力の弱い子供や妻が、力を合せ、苦労を重ねて仇を討つ。帰参が叶い、めでたし、めでたしというような話を連想する。
 が、そんな話は何百件、何千件の中の数件にすぎない。一般に、仇討の成功率は1パーセントといわれている。まして帰参の叶ったものといえばおして知るべしである。情報といえば、不確かな「うわさ」しかなかった当時、懸命に逃げまわる敵を追っての仇討旅は現代の人には想像もつかないきびしいものだったにちがいあるまい。
 瓦版、読売、随筆などにかすかに残されたものを集め、仇討の実際を考証する!!
 71 武州川越お勝の仇討

 武蔵国川越に、杣右衛門と九助という博打好きな農民がいた。博打仲間として気の合った二人であったが、ふとしたことから争いになり、口喧嘩が高じてつい九助が手を出してしまったらしく、杣右衛門を打ちのめしてどこかへ逃げ去ってしまった。傷ついた杣右衛門は家に運ばれて来たものの、よほど打ち所が悪かったのか、しばらくして息絶えてしまった。息をひきとる時に杣右衛門は、自分に男の子が無くてこの恨みを晴らしてくれる者がいないのが、何とも残念でたまらないと嘆いて深く心を残していたようであった。杣右衛門にはお勝という娘が一人いたが、年はまだ八歳という幼さだったが評判の利発者で、この時の父の嘆きを聞いて子供ながら胸にこたえ、深く何かを心に誓ったようであった。
 ところでお勝は間もなくして母に死に別れたので、叔母に当たる人に育てられて成人した。その間村に一人の武芸者がやって来て、剣を教えているということを耳にしたお勝は、ある日密かにその人を訪ねた。そして訳を話して父の敵を討つために是が非でも剣術を教えて欲しいと熱心に頼んだところ、心打たれたか、入門を許してくれた。志のあるお勝は上達も早く、熟練して師も驚くほどの腕前になった。その後お勝は縁あって、人妻となって一子をもうけ、なんの変わることなく暮していた。
 一方九助は杣右衛門を打って出奔中、その死を知って後悔し、剃髪して僧侶となっていた。ところが偶然にも武州大高村万福寺の住職が欠けたので、九助が後任となってやって来た。このことを聞いたお勝は、今ぞ父の敵を討つ時が来たと喜び、日夜九助の行動を人知れず窺っていた。このことを知った九助の仲間が、危険だからここを立ち去るようにと忠告した。にもかかわらず九助は、「ばかげたことを。杣右衛門の娘なんかに敵討の出来るはずがない」
 と高をくくって、ことさら警戒もせずにいた。
 この様子を窺っていたお勝は、ある日の夕方、すきをみて万福寺に忍び込み、父の敵、九助いずこと探し廻った。まさかと思っていた九助は、あわてて寺を逃げ出して、背後の山へよじ登っていった。お勝は九助の後を追ったが、山道は嶮しく樹木の根があちこちに出ていて、それにいくどもつまづき転びながらやっと九助に追いついた。
「父の敵、覚悟!」
 お勝はおもむろに刀を抜いた。上段にかざした白刃が、日の光を受けて一閃した。瞬間お勝はみごと九助を袈裟がけに斬りおろしていた。
 役人に敵討の顛末を話すと、何のお咎めもなくその孝心を賞されたという。〔文政三年(1820)〕

「かたき討ち 復讐の作法 氏家幹人 中公新書1883 2007年 ★★
みずから腹を割き、遺書で相手に切腹を迫る「さし腹」。仇敵の死刑執行人を願い出る「太刀取」。女たちの討入り「うわなり打」。男色の愛と絆の証「衆道敵討」……。著者は豊富な史料に基づいて、忘れられた多彩な復讐の習俗を照らし出す。近世の人々はどのように怨みを晴らし、幕府は復讐の情をいかに管理し手なずけようとしたか。うつろう武士道、演劇化する「かたき討ち」。日本の復讐の歴史がよみがえる。
 『春女報讐記』
   (前略)
 最初のヒロインは、千葉亀雄『新版日本仇討』(1931年初版)にも「婦人の仇討」の一例として取り上げられた春女(はるじょ)。本書では「はる」と記してその半生をたどってみよう。
 元禄8年(1695)6月13日夜。武蔵国川越城下で、藩主柳沢家の家来伊東仙右衛門が、同じ柳沢家中で懇意にしていた大西助次郎によって殺害された。原因は女。悪いことに助次郎が激しく恋慕したのは、仙右衛門の妻だった。どんなに口説いても色よい返事が貰えないことに業を煮やした助次郎が、あわせて不倫を迫った事実がもれるのを恐れ伊東方に忍び込み彼女を亡き者にしようとしたところ、仙右衛門が帰宅したので、事のなりゆきで殺害してしまったのである。
 ときに仙右衛門、43歳。殺害して逃亡した助次郎は34歳。仙右衛門の娘「はる」はまだ2歳で、事件が起きたとき母の懐で寝入っていたという。
 仙右衛門の妻は、異変に気がつくと短刀で助次郎の額に傷を負わせたが、事件後はショックと悲しみで病の床につき、「はる」は村の名主に預けられた。同年9月8日、仙右衛門妻死去。しかし彼女は病床で、夫が殺害された日時、助次郎の容貌の特徴(額に傷があること等々)、年齢などを記して一軸にし、形見の衣裳や金銀と共に「はる」の養育者である名主に託した。
 「はる」は、7歳の年に、江戸で商人の女房となっていた名主の妹の家に養女に貰われていった。その養母も「はる」が15歳のとき亡くなるが、臨終の床で、養母は「はる」に大西助次郎が父の敵であると教え、実母が遺した一軸と短刀を授けた。真相を知らされた「はる」は、復讐の念に燃えながら、敵を捜し当てる方法を模索した――。
 敵を捜し出すための方法とは……。「はる」は享保7年(1722)8月12日に29歳で助次郎を討ち果たすまで、実に14年の間幾つもの家に下女として奉公し、それらしき者を捜し続けたという。彼女の敵討が比較的詳しく伝えられたのも、敵討の年の春から3ヶ月はど奉公した杉山東庵が『春女報讐記(はるじょほうしゅうき)』と題して敵討までの経緯を書き記してくれたお陰である。
 ひとつ所に長く務めると情報の入手先が限られるので、長くても7、8ヶ月で病を理由に暇を貰って(退職し)、奉公先を転々と変えた「はる」。彼女が享保7年8月から奉公した某家に藤代勘左衛門と名乗る老いた家来がおり、額に刀傷の痕(あと)があったので酒をすすめて問いただしたところ、色欲に迷って人を殺して逃亡した過去を洩らしたため大西助次郎と判明。助次郎が主人の用で鎌倉へ向かう途中、相模国鎌倉郡山田原という場所で待ち伏せして、討ち果たしたのだった。
 敵は61歳。老いたとはいえ、もちろん女一人の力で敵討をなし遂げたわけではない。詳しい関係は知らないが、「はる」は、同じ家に下男奉公していた鉄平という男に助太刀を頼んでいた。敵を討ったのち、彼女は鎌倉松ヶ岡の尼寺(東慶寺)に入って尼となり、鉄平は郷里の信州へ帰ったと、『春女報讐記』は記している。

「新県民読本 さいたま92」 グループ92 さきたま出版会 1986年 ★★
・狭山事件
 昭和38(1963)年5月1日狭山市上赤坂の中田栄作の4女善枝さん(川越高校入間川分校1年)が下校途中に行方不明となり、夕食後、家人が戸口に挟まれている20万円要求の脅迫状を発見した。 2,3の両日深夜、姉が指定場所に立ち犯人と接触、40人の警官が周囲に張り込んでいたにもかかわらず犯人を取り逃がし、4日入間川の農道で善枝さんの絞殺死体を発見、柏村警察庁長官は引責辞職した。
 厳しい世論の批判を浴びた県警は165人という大捜査陣を編成、23日同市未解放部落のトビ職手伝い石川一雄(当時24歳)を暴行、窃盗などの別件容疑で逮捕、1カ月後石川は犯行を自供、昭和39(1964)年3月浦和地裁内田裁判長は死刑を判決、 石川は控訴、二審の東京高裁公判で自供をひるがえし無罪を主張、昭和52(1977)年8月無期懲役を判決、最高裁も上告を棄却、その後再審請求が行われたが、いずれも棄却され特別抗告を申し立てている。
 この事件に対し部落解放同盟中央本部は石川青年救護対策本部を設置、「差別に基づく裁判の取消しと石川青年即時釈放」の中央集会を開くなど総評、学生、市民グループと多様な活動を展開、作家・評論家などの無罪主張の著述活動が続いている。

「ドキュメント 狭山事件」 佐木隆三 文春文庫 1979年 ★
 昭和38年5月埼玉県狭山市で16歳の女子高校生が殺され、容疑者として被差別部落出身の青年が逮捕された「狭山事件」。−「復讐するは我にあり」で直木賞を受賞したニュージャーナリズムの旗手が、 新手法で挑戦して、初めて事件の全体像を明らかにした決定版。

「冤罪・狭山事件」 編/雛元昌弘、絵/平口広美 現代書館 1984年 ★
 

「宮ア勤裁判(上)」 佐木隆三 朝日文庫 1995年 ★
 1988〜89年にかけ全国を震撼させた「連続幼女誘拐殺人事件」の第一審を克明に追ったルポ。 すべてを見届けるために第一回公判から傍聴席に座り続ける著者が史上稀な犯罪と裁判の実相を解明する。 誘拐・殺人・死体損壊/遺棄・強制猥褻……。起訴状朗読と異例の弁護側意見書朗読が続く。
 -目次-
序章 連続幼女誘拐/第1章 断たれた絆/第2章 母胎回帰=^第3章 捜査官証言/第4章 中山裁判長/第5章 垣間見る姿/ 第6章 遺体ビデオ/第7章 法医学者証言/第8章 宮ア勤の自白/第9章 折り返し点/第10章 初の共同鑑定

「宮ア勤裁判(中)」 佐木隆三 朝日文庫 2000年 ★
 1年5カ月かけた精神鑑定の結論は「人格障害による計画的性犯罪」。 さらに1年11カ月かけた第2次鑑定は「精神分裂病だが免責される部分は少ない」と「解離性同一性傷害で心神耗弱で無罪」に、鑑定医の判断が分かれた。 多重人格*竭閧ェわが国で初めて司法判断を問われた過程と行方は−。
 -目次-
第11章 簡易精神鑑定/第12章 第一次精神鑑定/第13章 鑑定人に見せた素顔/第14章 山中アジト≠フ鍵/第15章 不思議の国の住人/第16章 宮ア勤の「家族史」/第17章 初めての肉声/第18章 淡々とした供述/ 第19章 かくれんぼう気分/第20章 「自白調書」の追加/第21章 千々に乱れる心/第22章 第二次精神鑑定/第23章 「多重人格」/第24章 両手の障害/第25章 蝸牛角上の争い/第26章 感情の喪失/第27章 明晰なハイド氏

「宮ア勤裁判(下)」 佐木隆三 朝日文庫 2000年 ★
 人格障害VS.精神分裂病VS.多重人格。検察と弁護団、鑑定人のあいだで、内面世界を巡ってくりひろげられる空前の法廷論争をよそに、無心にお絵描きをつづける被告人−そして死刑の求刑と異例の判決主文冒頭朗読。 7年間で38回、全公判を傍聴しつづけた著者による巨編、全3巻の完結。
 -目次-
第28章 「精神分裂病」/第29章 小さな法廷へ/第30章 無意識否認/第31章 捜査段階の証言/第32章 おやつの時間/第33章 被告人の涙/第34章 再登場した証人/第35章 犯行時にさかのぼる/第36章 多重人格と分裂病/ 第37章 最後の質問/第38章 死刑求刑/第39章 最終弁論/第40章 死刑判決/終章 閉ざされた世界へ

「宮ア勤事件 ―塗り潰されたシナリオ― 一橋文哉 新潮文庫 2003年 ★
 80年代末の日本を震撼させた連続幼女誘拐殺人事件。「今田勇子」の名で犯行声明まで出した犯人・宮ア勤の狙いは何だったのか。彼は本当に精神を病んでいるのか。事件には、驚くべきストーリーがあった。捜査資料と精神鑑定書の再検討、関係者への粘り強い取材が、裁判でも明らかにされない真相を浮かび上がらせる。事件は終わっていない。今も宮アは自作自演の舞台に立ち続けている。  
 -目 次-
第一章 秘 密
第二章 孤 立
第三章 相 剋
第四章 冷 血
第五章 防 衛
第六章 宝 物
第七章 主 役
 宅間守と宮ア勤の共通する世界
 資料編
  @ビデオ仲間に宛てた手紙
  Aこれが私のベスト10
  B犯行声明文
  C告白文
  D8月14日付上申書
  E数理パズル
  F連続幼女殺人事件年表
  G宮ア勤事件関連地図
【資料F 連続幼女殺人事件年表】
1988年
8月22日今野真理ちゃんが埼玉県入間市の自宅団地付近で行方不明に。
10月3日埼玉県飯能市の吉澤正美ちゃんが行方不明に。
12月9日埼玉県川越市の難波絵梨香ちゃんが行方不明に。
12月15日埼玉県名栗村の山林で絵梨香ちゃんの全裸死体を発見。
12月20日絵梨香ちゃん宅に《絵梨香 かぜ せき のど 楽 死》と書かれた葉書が届く。
1989年
2月6日真理ちゃん宅に《真理 遺骨 焼 証明 鑑定》と書かれた紙片と、骨片など入った段ボール箱が置かれる。
2月10日真理ちゃん事件に関する「今田勇子」名の犯行声明文が朝日新聞東京本社に郵送される。
2月11日同じ犯行声明文が真理ちゃん宅にも届く。
3月11日「今田勇子」名の告白文が朝日新聞東京本社と真理ちゃん宅に届く。
6月6日東京都江東区東雲で、野本綾子ちゃんが行方不明に。
6月11日飯能市の宮沢湖霊園で綾子ちゃんのバラバラ死体を発見。
7月23日東京都八王子市で幼女の全裸写真を撮っていた宮ア勤被告を強制猥褻の現行犯で逮捕。
8月9日宮ア被告が綾子ちゃん誘拐殺人を自供。
8月10日宮ア被告の自供に基づき東京都奥多摩町で綾子ちゃんの頭部を発見。
8月13日宮ア被告が真理ちゃん、絵梨香ちゃん誘拐殺人を自供。
9月5日宮ア被告が正美ちゃん誘拐殺人を自供
9月6日自供に基づき正美ちゃんの遺骨と衣類を東京都五日市町の日向峰付近の山中で発見。
9月13日自供に基づき真理ちゃんの遺骨を五日市町で発見。

「三億円事件」 一橋文哉 新潮文庫 2002年 ★★
 1968年12月10日「三億円事件」発生。多くの謎を残し、7年後に時効が成立。それから約20年、一枚の焼け焦げた500円札が一人の男を動かした。執念の取材が明らかにする捜査本部の混乱。モンタージュ写真の欺瞞、浮かび上がる三人の男……。やがて突き止めた「真犯人」はアメリカにいた! 6時間にも及んだ手に汗握る「対決」。正体は? 動機は? そして三億円の行方は? 文庫化にあたり衝撃の後日談を収録。
  古びた千円札の秘密

 目の前に、江戸時代の町並みが広がっていた。
 飾りのついた鬼瓦、独特な瓦屋根、重厚な塗り壁が美しい蔵造りの商家が並ぶ。木の櫓の時計台や城跡、茶店、石畳の四つ辻もある……。
 98年9月、埼玉県川越市――。私はこの街で「ヤマザキ」と会う約束を取り付けた。取材場所を指定したのは、「ヤマザキ」の方であった。
 川越市は室町時代、太田道真道灌親子が川越城を築いて以来、関東有数の城下町として栄えてきた。江戸時代には「小江戸」と呼ばれ、江戸への物資の集積・供給地として賑わった。
 現在も市を挙げて町並み保存に取り組んでおり、歴史の重みを感じさせる町並みを見ようと、大勢の観光客が訪れる。実際には、1893(明治26)年の大火以降に修復された建物も多いから、江戸と明治の情緒が混在した街≠ニ言ってもいいだろう。
 1968年に起きた三億円事件の取材のため、当時の関係者を訪ね歩くたびに、三十年前にタイムスリップしたような気分になることが多かった。しかし、この街は、まるでタイムマシンの操作を誤り、百年前、いや三百年前に来てしまったかのような錯覚に陥らせる。
 「ヤマザキ」は、市の中心部にある、名物のイモ料理を売り物にした店で待っていた。
 年齢は七十歳の手前といったところか。白髪まじりの短い頭ながら、恰幅のいい紳士であった。自らきちんと、「ヤマザキ」と名乗った。
 「私は約十年前まで、警察に勤めておりました。皆さんが『先生』と呼んでいる男性は、かつての同僚であります」
 「ヤマザキ」は座敷に通されるや否や、食事を注文する暇も惜しむかのように、身の上話を始めた。いきなりしゃべり始めたのには驚いたが、彼の表情には何となく、話さずにはいられないという切迫感が感じられた。
 「かれは本名を『マツダ』と言いまして、とても男気のあるいいヤツでした。職務に関しても非常に有能で、将来を嘱望された警察官でありました。しかし、ある事情≠ェございましたために、三十数年前に、どうしても警察を辞めなければならなくなってしまったのです……」
 「ヤマザキ」は言葉遣いこそ丁寧だが、その話しぶりは年齢を感じさせないほどエネルギッシュであった。彼は注文した食事にはほとんど手を付けず、ずっと話し続けた。
 話の中身は、「先生」の生い立ちに始まって、経歴や性格、さらには三億円事件との関連性まで多岐にわたり、興味深いどころか、三億円事件の全貌を明らかにするのに必要不可欠なものばかりと言えた。
 「ヤマザキ」はまるで「先生」のことを実の弟のように可愛がっていたようで、話しぶりには、「先生」の行く末を心配する様子がありありと窺われた。
 だが、彼は一息つくと、質問を始めようとした私を制して、こう言い切った。
 「『マツダ』が三億円事件の首謀者であることは、まず間違いないでしょう」
 そして、すっかり冷たくなったお茶を一気に飲み干すと、持参した紙封筒の中から一枚の紙切れを取り出した。
 それは、聖徳太子の肖像が描かれた、いかにも古そうな千円札であった。
 確か、千円札は紙幣番号が登録されていなかったはずである。首を傾げる私に向かって、その皺だらけの千円札を見せながら、「ヤマザキ」は真剣な面持ちで、こう言った。
 「このお札こそ、『マツダ』が事件の主犯であることを示す重要な物証なんです」
 よく見ると、紙幣の右上部、ちょうど刷り込まれた聖徳太子の後頭部の後ろに赤インクのようなものが付着しており、注射器か細いキリのようなもので開けたと見られる小さな穴があった。表面では、汚れが小さくて分かりにくいが、裏側を見ると、その真後ろに当たる夢殿の絵が描かれた周辺が、赤インクでかなり汚れているのが分かった。
 「ヤマザキ」はその紙幣を片手に握りしめ、まるで心を落ち着かせるように大きく深呼吸をした後、静かに、お札にまつわる由来を語り始めた……。
 
 実際、かれが持参した一枚の古い千円札は、とんでもない代物だった。
 「ジョー」が持っていたという、紙幣番号が登録されていた旧五百円札と同じように、「先生」たちと三億円事件を結びつけるとっておきの物証≠ニ言っていいだろう。
  (略)

  すべては川越から始まった

 それにしても、この「先生」とよばれる人物はパワフルで行動力がある半面、狡猾でねちっこく、物事に一つずつじっくりと取り組むところもあるという掴みどころのない人物≠フようである。彼の周辺を取材すればするほど、その多面性が次々と浮き彫りになってきたのだ。
 「ヤマザキ」の説明によれば、「先生」は銀行員だった妹の自殺を契機に、銀行に対して恨みや憤りを感じていたように思われる。
 もしかしたら、「先生」の心の中には、警察に対する憤懣もあったかも知れない。それに、父親が東芝府中工場を解雇され、憤死したことが影響していることも考えられる。
 その意味では、同情すべきところもあるのだが、それだけの理由で、あれだけ派手に巨額の現金強奪事件を起こしたのだろうか。
 私は、「ヤマザキ」との関係が疎遠だった三年近い間に、何かがあったのではないかと考え、「ジョー」の不良仲間への接触や、米軍基地関係者への取材を継続するとともに、「ヤマザキ」の証言をもとに、新たな取材先を見つけ出すなど、積極的に情報収集に当たった。
 その結果、幾つかの新事実が明らかになってきた。
 まず、「先生」がサラリーマンを辞め、米軍基地を舞台に、暴力団関係者らと外国製品の密輸を始めたり、賭博に加わっていたことが分かった。福生町や立川市などで米軍基地近辺に姿を現したり、「ジョー」らと付き合い始めたのもその頃からで、密輸などの犯罪に利用しようという狙いがあったためらしい。
 しかも、暴力団との取引に絡んで、何か大きなトラブルが発生し、「先生」が暴力団系列の金融業者から多額の借金をしていたという事実も浮かんできた。
 「先生」の犯行動機の中には、借金返済、つまりはカネのためという側面も見られるわけだ。それにしても、現金輸送車を襲撃して借金を返そうとしたのだとすれば、何と派手な返済方法であろうか。
 それだけではない。
 「ヤマザキ」は明かさなかったが、「先生」の元同僚らに当たった結果、自殺した妹がかつて勤めていた銀行が三菱であることが分かったのだ。
 三菱と言えば、三億円事件の犯人が当初、狙っていたとされる銀行である。妹が勤めていたのは国分寺支店ではないが、その襲撃には妹の復讐もかかっていたと考えて間違いないだろう。
 「先生」は妹の死後、その同僚と親しくなって、いろいろと協力を仰いでいた。一時は恋人同士でもあり、最初からそうだとは思いたくはないが、穿った見方をすれば、それもまた、犯行計画の第一歩だったという疑いは捨て切れない。
 とにかく、「先生」の行動には計算し尽くされた狙いがあるような気がするし、それを立証したのが一連の自動車窃盗であり、多磨農協などへの脅迫事件ではないだろうか。
 さらに、「ヤマザキ」が推測したように、「先生」が川越市に拠点を築いていた可能性が濃厚になってきたこともある。
 川越市の郊外にある「先生」の実家は事件当時、登記簿謄本上は「先生」が所有していた形になっており、しかも、事件の半年ほど前に、その土地、建物の一部を担保に三百五十万円の融資を受けていた。
 このカネが事件を準備するための資金だったのか、あるいは暴力団系金融業者への借金返済に必要だったのかは分からないが、68年6月頃には、犯行の具体的な準備が始まったと見ていいだろう。
 「先生」の実家周辺を、念のため聞き込み取材してみたが、さすがに三十年以上前の人の出入りを記憶している人はいなかった。
 近所の住民らの話によると、「先生」の実家周辺はかつて、イモや茶が植えられた畑と雑木林しかなく、住宅はポツンポツンと点在していただけだったという。
 町並みは大きく変貌し、住民も世代交代しており、有益な話は全く聞けなかった。が、その周辺に大きなケヤキの木が生えていたことは分かった。
 巻末の資料編にある地図をご覧頂きたい。
 川越という街は、客観的に判断すると、第一現場からほぼ真北に24キロ離れているものの、車で府中街道を北上すれば、距離の割には早く到着できる。横田基地へも20キロ足らずの距離にあり、これまた一本道だ。どちらも第一現場から30キロ圏内にあり、交通手段的には、アジトとして決して無理な場所ではなかった、と思われる。
 さらに、国鉄川越線、東武東上線、西武新宿線の三つの鉄道が乗り入れ、所沢経由で西武池袋・国分寺両線にも乗り換えが可能である。つまり、車の盗難現場のうち、保谷市ひばりが丘団地や、小平市のブリヂストンタイヤアパート、八王子市石川町といった、他の現場と少し離れた場所にも電車だけでスムーズに行けるわけだ。
 そのうえ、川越はレインコートの販売先や産経新聞の配達先でもあるし、レインコートは警察官が着用していた可能性があるというのだから、アジトとして多くの条件を満たす場所、と言っても差し支えあるまい。
 すべては、川越から始まった――のではないか。
 しかも、「先生」の元同僚である警察官OBたちを当たるうちに、驚くべき話が飛び出してきた。
 「三十年くらい前は、警察も今ほど生活や服装に関する規律とか管理がうるさくなかったんだ。さすがに拳銃や警察手帳などは厳しかったが、それでも自宅で拳銃自殺した警察官がいたぐらいだ。制服なんかはいくらでも持ち出せたし、退職した警官が記念に持ち帰ったり、中にはマニア向けの店に売る輩さえ現れたほどだった」(同僚だった元ベテラン警察官)
 というのである。
 「先生」は果して、警察を退職する際に制服やヘルメットを持ち出したのであろうか。
 その疑問を、後に再会した「ヤマザキ」にぶつけると、彼は
 「そんな話は聞いたことがない」
 と一蹴したが、その時の表情は何やら、強張っていたように思えた。
 銀行や東芝への怨念、警察への挑戦、カネへの執着など犯行動機も超一級。さらに、一年以上という長い期間をかけた準備、米軍基地に目を着けた卓越した犯行計画、そして「ジョー」らを使いこなす人心掌握術……。「先生」の周囲を探れば探るほど、そこには壮大なスケールの犯罪が浮かび上がってくるのである。
 ※この本は、ビートたけし、長瀬智也らの主演でドラマ化され、2000年12月30日(土)フジテレビで、「三億円事件〜20世紀最後の謎」として放送された。

 三億円事件(1968)

「科学捜査の事件簿 証拠物件が語る犯罪の真相 瀬田季茂 中公新書1620 2001年 ★
 探偵は一個の厳密な科学である、とはコナン・ドイルの言葉である。わずかな痕跡も見逃さずに犯罪の真相に迫ろうとする科学捜査は、その時々の難問を解決しながら発展してきた。本書は、捜査の画期的な発展を促した歴史的に有名な犯罪を取り上げ、指紋、筆跡、毒物、白骨、木片、銃痕などの古典的な証拠物件の鑑定から、最新のDNA鑑定、そして昨今のテロ事件に使われたサリン、炭疽菌の分析と同定までを紹介する。

  付録1 日本の主要な銃器殺人事件
事件名
 (発生年月日)
       事件の内容
九州ピストル魔事件
 (1951.2.9)
福岡県八幡市の折尾駅前で、巡査がSW式ピストルと弾丸18発を盗まれた。同2月28日、炭鉱の保安係、4月2日、芦屋町署の巡査、5月1日、神戸市警の刑事らが射殺された。同一犯人。
白鳥事件
 (1952.1.21)
札幌市で白鳥一雄警部(36歳)が帰宅途中、自転車で追ってきた男にピストルで射殺された。日本共産党関係者が容疑者とされ、裁判が長期化、1963年に有罪確定した。1955年4月に元北大生を逮捕したが、別人として釈放する誤認もあった。
少年ライフル殺人事件
 (1965.7.29)
東京世田谷区のタンカー見習い乗員の少年A(18歳)は、にせの110番で警察官を呼び出し、ライフル銃で射殺。渋谷のロイヤル銃砲店に立てこもり、ライフル110発を発射し、16人の重軽傷者を出した。犯人は1969年、死刑確定。
金嬉老事件
 (1968.2.20)
静岡県清水市のキャバレーで暴力団員2人をライフル銃で射殺。その後、寸又峡温泉のふじみ屋旅館に入り込み、客ら13人を人質にとって立てこもった。
連続ピストル射殺事件(広域重要指定108号事件)
 (1968.10.11)
10月11日から11月5日にかけ、東京・京都・函館・名古屋でガードマン、タクシー運転手が射殺された。犯人は19歳の少年。
勝田事件(広域重要指定113号事件)
 (1982.10.27)
名古屋市千種区で警察官が襲われ、実弾5発入りの短銃を強奪。5日後、名神高速道路SAでドライバー2名殺傷。神戸市で労金職員(77年)、名古屋でスーパー店長(80年)、千葉で溶接工(82年)を射殺。72〜77年にかけて5人の女性殺害の計8人の大量殺人魔であることが明るみに出た。83年1月31日逮捕。
広田事件
 (1984.9.4)
京都市洛北、北区船岡山公園パトロール中の警察官が刃物で殺され、拳銃と実弾5発が盗まれる。3時間後、サラ金を襲い、従業員射殺。指紋から広田元京都府警巡査部長を犯人と断定、逮捕。
埼玉の短銃乱射事件
 (1988.9.29)
埼玉県川越市の路上で会社員が銃撃され、110番通報。急行した警察官も背後から射殺される。同市の別の会社員も撃たれ重傷。犯人は暴力団幹部、覚醒剤中毒による無差別乱射。

「愛犬家連続殺人」 志麻永幸 角川文庫 2000年 ★
 九八年八月二十八日、俺は満期三年の実刑を終え、栃木の黒羽刑務所を出所した。逮捕された時の罪名は「死体損壊・遺棄」。そう、俺があの『埼玉愛犬家連続殺人事件』で主犯・関根らとともに人肉をサイコロのようにカットし、人骨を粉になるまで焼き尽くした山崎だ。
俺は知っている。まだ世間には知らされていない関根の凶暴な素顔を。その恐るべきやり口を。そして、未だ解決していない数々の行方不明事件の真相を……。
たぐまれなる凶悪殺人事件でありながら、阪神大震災・オウム事件の陰で注目度の低かった『埼玉愛犬家連続殺人事件』。その共犯者が自ら綴る驚愕の書。

「日本のバラバラ殺人」 龍田恵子 新潮OH!文庫 2000年 ★★
 明治から平成まで日本人の背筋を凍らせた数々の事件。特殊な犯罪? 理解不能? 否。その裏側を覗けば、哀れとしか言えぬ人間の業がごろり横たわっているのだ。『バラバラ殺人の系譜』改題

「川越大事典」 川越大事典編纂会編 国書刊行会 1988年 ★★★
 第5章 自治/司法・警察
警察署
     (前略)
 川越署100年の歴史の中で、市内の事件として話題になるのは、昭和29年9月高階で発生したバラバラ事件であろう。これは運動会の練習帰りの青年団員女子が、夜9時半すぎ姿を消したため、当初は家出と考えられていた。全署員が召集され、捜査が始まって間もなく、両足・両乳房・臀部・大腿などにバラバラにされた無残な殺人死体となって、東武東上線新河岸駅西方の畑から発見された。土地の変質者・不良・不審者が次々に調べを受けたがいずれもシロであった。事件は迷宮入りかと思われたが、犯人が残した画用紙と小学生たちの証言から浮かびあがった特徴ある顔が手がかりとなり、都下にいた犯人がつかまって、77日目に解決した。冷たい愛人に仕返しをねらい探し求めていたところ、被害者の髪型・体格が愛人に似ていると思い、「女としての価値をなくしてやろうと安全カミソリとジャックナイフでバラバラにした」という事件だった。
(菊地)

事 故
「日本少年 大正6年10月」 第12巻 第12号 実業之日本社 1917年 ★
武甲山中に踏迷ひ三人の親友を失ふ
                  埼玉県川越中学校生徒 江 森 勇 次

事は去る七月二十六日、五名の川越中学生が秩父山中に聳ゆる海抜五千三百尺の武甲山に登り、不幸三名迄屏風岩と称する絶壁より墜落して惨死したることは、昨年の甲武信ケ嶽に於ける大学生惨死以上の悲劇として今尚諸君の記憶に新たなることであらう。即ち記者は其生存者の一人たる江森君を埼玉県入間郡大井村に尋ねて、その遭難当時の光景に具さに聞くを得た。吁!尊きかな山の犠牲!吾人はここにこれを記して読者諸君と共に惨死者の霊に向つて一掬の涙をそそがうと思ふ。

  何の準備もしなかつた
我我は毎年夏になると、何処かの高山に登つて見たいといふ希望を持つてゐましたが、今年の夏休みになると早早いよいよそれを実行して、武甲山に登ることになつたのです。仲間は新井三郎君、金井昇君、松本政夫君、高山重義君に私を入れて五人です。皆川越中学の生徒で、四君は高階村、私だけ大井村ですが、学校へは一里半ばかりしかなく、五人は何時も一緒に通学してゐるので、特別に親しく、それでその内一人が武甲山登山の計画を他の四人に計ると、四人は異議なく賛成して、忽ち登山を実行する事になつたのでした。そこで登山の日を七月の二十五日と定めると、私だけ村が異つてゐるものですから、出発の都合上、その前夜松本君の家に泊めて貰ひ、夜の明けるのを待ちかねて、五人の者は勇気凛凛として高階村を出発しました。
一同の服装は制服に制帽を戴き、靴の者もあれば、草鞋の者もあります。各自拳大の握り飯を竹の皮に包んで腰につけ、その他は地図も双眼鏡も水筒も何も持ちませんでした。我我の考へでは、日本アルプスのやうな高山なら準備も必要ですが、武甲山はさして高い山だはないから、朝登つたらその日の内に充分下れると思つたので、何の準備もしなかつたのです。
行程は最初飯能町に出で、その夜は麓の名栗村といふところに一泊し、翌日武甲山の絶頂を極め、直ちに下山の途につき、その日の内に秩父の大宮に出るつもりであつたものですから、一同はまづ路を飯能にとつて急ぎました。

  雷雨のために途中で一泊
やがて飯能に着くとそこで腰にした握り飯を食べ、再び元気を鼓して段段山を指して行きましたが、飯能を出て二三里も来たと思ふ頃遽かに天候ががらりと変つて雷雨がやつて来ました。そこで五人の者は濡れては大変だと言ふので、ドンドン駈足で急ぎました。
やがて原市場といふ所へ着いて時計を見ると五時近くなつてゐます。そこで予定では名栗に泊ることになつてゐるけれど、何分にも炎天の下を八里も歩いて来たので、大分疲れてゐるからといふので、予定を変更して、原市場へ泊ることに定めました。
宿屋は金沢館といつて名前は洒落てゐますが、まづ馬宿といつたやうな穢い宿です。

  山上で草を枕に野宿
しかしこれでも野宿よりましだと、痩我慢をし乍ら破れ蚊帳の中で暑い一夜を明すと、握り飯を拵へて貰ひ、又それを腰にして匆匆(そうそう)其処を出発しました。原市場から武甲山の麓までは六里弱、途中妻坂峠の嶮を越さなければなりません。進むに従つて路は漸く険阻になつて来ました。
上名栗で弁当を食べ、妻坂の嶮を越え、武甲山の麓につくともう二時をすぎてゐました。さてこれからが登山です。
五人は元気を鼓し軍歌を歌ひ乍ら登りかけましたが道は中中険阻です。岩が垂直になつてゐたりするので、困難は一通りではありません。それでも我慢をして、蟻の這ふ様に岩を攀ぢて、五時頃にやつと頂上に着きました。
頂上に着くと、漸(しば)らく休憩した後、下山の途に就かうとしましたが、その時にはもう日は暮れかけて、四辺(あたり)はぼんやりして居りましたので、身体は疲れてゐるし、夜道では危険だからといふので、止むなく其処に野宿することになりました。もとより野宿するつもりでありませんから、外套も何もありません。草の中にもぐり込んで、五人は互に抱き合つて寝るのでした。

  眩暈がして倒れさうになる
寒さに目がさめてあくれば二十六日の午前四時、一同は今日は秩父大宮に出る予定ですから、道を左にとつて下り初めました。思へば神ならぬ身の知るよしもなく、これが間違ひの原因であつたのです。七八町の間は無事に下りて来ましたが、やがて段段下るに従つて、先を急いで茨や熊笹の中をドンドン進んだが為に到頭道を失つてしまひました。
道を求めようとして右に往き、左に行つたので、顔も手も茨のために引かかれて血まみれになつてゐます。その上昨日のお昼から一粒の飯も口にせぬので、如何(いか)に元気を出さうとしても出すことが出来ません。
暑さは暑し、眩暈がして、ともすれば倒れて了(しま)ひさうです。咽喉がかはいてならないのですが、其処らに谷川もなければ水だまりもありません。

  さては断崖より墜落したか
そこで五人の者は疲れて綿の様になつた身体を引きうずるやうにして、喘ぎ乍ら熊笹の中をわけて凡そ十町ばかり下りて来ましたが、すると突如として前面がよく見えるところへ出ました。しかし私は空腹の為に腹痛を覚えてどうにもかうにもならぬので、四君の姿だけは見失はぬやうにして、余程後から下りて来ました。
するとその内突然に四君の姿を見失つたので、驚いて、疲れたのも何も忘れて四君のゐた方に走つて来ると、丁度其処は崖になつてゐて、上から見ると崖の中程の突出した岩角に、松本君が一人だけゐるではありませんか。
『オーイ松本君、どうしたんだ。』
私が上から声をかけると、松本君は
『この崖の上まで来ると遥か向ふに人家が見えたものだら、近道をしようと思つて崖を下りると、低いと思つた崖が案外に深くて、僕は幸ひにもこの岩角に引ツ掛つて眼の上に傷をしただけですんだが、新井、高山、金井の三君はどうやら死んだらしい。君のゐる上から見た時は一丈か二丈の崖と思つたが、ここから見ると、十五六丈もあるらしい。三人は下まで墜落したとすれば、吃度死んでゐるに異ひない。』
と言ふのです。

  岩の上に立つて助けをよぶ
私は吃驚して了ひました。松本君は尚言葉を続けて
『人家はここからこの通り見えるんだから、二人で大声をあげて助けを呼ぼうではないか。』
と言ひます。もう身体の疲れてゐる事など考へてゐる場合ではありません。
『よし、そんなら君のゐる岩のところまで行つて、一緒に助けを呼ぼう。』
私はかう言つて、下は恐ろしい絶壁であることも忘れて、松本君のゐる岩の上へ、藤づるや木の根にすがり乍ら下りて行きました。
やがて岩の上へ来て、下を見ると、下は十数丈もある谷底です。
『早く此事を誰かに知らさなきやならん。』
二人はオーイオーイと大声をあげました。
すると其処からは人里がよく見える位ですから、二人の声が聞こえたと見え、二三時間経つと村の人が崖の上まで来て呉れました。
そこで私達はやうやうの事で救助されました。
後で聞けばここは屏風岩といつて有名な険阻な崖ださうで、岩間に落ちた新井、金井、高山の三君は、気の毒にも、頭部を岩石に打たれて、無惨なる最期を遂げてゐたのでありました。

記者曰く。次号には今一人の生存者たる松本政夫君が墜落当時の光景について自ら筆を執り、特に本誌の為めに寄せられたる手記を掲載します。悲絶凄絶、実に君が血と涙とをもつて書かれたものです。

※漢字は新字体に改め、仮名遣いはそのままとした。

「日本少年 大正6年11月」 第12巻 第13号 実業之日本社 1917年 ★
絶壁より墜落
                  埼玉県川越中学生 松 本 政 夫

五名の川越中学生が武甲山に遭難した事は既に遭難者の一人江森君の実話を得て前号に掲載したが、今また遭難者の一人たる松本政夫君よりも遭難当時の手記を寄稿されたので、改めてこれを掲載することにした。言言句句すべて皆血と涙とをもつてかかれたもので、凄惨たる当時の光景一読真に鬼気肌に迫るを覚える。

  山上の露営
海抜五千三百尺。武甲山の夜はとつぷりと暮れた。時はこれ大正六年七月二十五日、我等川越中学生五人の者は、今宵この山上を逆旅として、相抱いて寝た。晴れた大空には無数の星が一行の頭の上で輝いてゐた。
僕は疲れて一睡したが、ひしひしと身に迫る寒気のために目がさめた。全山寂として、夜半であらう、空は相変らず黒い。
『新井君!』僕は呼んで見た。
『何?』目ざめてゐるらしい声だ。
『寒くないかね。』
『寒くて寝られない。』新井君は答へる。
その中他の者も口を挟んで、何処か良い処へ行かなければ寝られないといふ。
相談の末、木の茂つてゐる中へもぐり込まうといふ事になつた。そこで谷の左側の堤を攀ぢて木の中にもぐり込み、雑嚢を枕に僕はまた眠つて了つた。
今度目ざめた時は三時頃であつたらう。空は大分白んでゐた。皆の者も寒いので起きた。そして直ちに下山しようといふ。僕は雑嚢を捜つて見ると、中の物が大分無くなつてゐる。枕にして引きずり廻してゐる内に無くなつたのだ。打ち捨てて置くも馬鹿らしいので、僕は
『失くなつた物を捜したいから、も少し明るくなる迄待つて呉れ。』
と言つたら、皆は承知して呉れた。
僕は横になつた。すると又眠つて了つた。やがて皆に起されると、今度は夜がすつかり明け放れてゐた。そこで紛失物を捜したが一つも見当らない。仕方がないから其儘にして出発することにした。

  路に踏み迷ふ
僕は前夜充分寝たので二十六日の朝は非常に元気であつた。朝になつて見ると山の麓に人家がある。一同は人家を見るや喜び勇んで山を下りた。暫らく行くと、大きな谷に出た。谷は十丈余の絶壁になつてゐる。仕方がないので協議の結果左手の山を攀ぢ、その中腹を通つて此谷の続きに出る事になつた。五人の者は山を登り初めた。すると一番年少の江森君が腹が痛いと言ひ出した。
そこで止むなく江森君には山に寝てゐて貰ひ四人は勇を鼓して前進した。今にして思へばこれが第一の間違ひであつたのである。
四人は忽ち路を失つて了つた。でも、茨を掴んだり、熊笹をわけたり、岩を辷り下りたりしてやつとのこと前進した。と、またもや谷に出た。
しかし四人の者この谷を下りさへすれば村□走れることを直覚した。けれども谷を下りることは出来ぬ。そこで又勇と奮つて右手の山を乗り越えることにした。
時に午前十時、新井君が先登となり、高山、金井君これに続き、僕は殿(しんがり)となつて登つて行つた。
漸く、頂に達すると、除除下降し初めた。丈の低い木が沢山繁つてゐる。水分が不足のため延び得ないんださうな。岩松の大きいのには一同驚嘆する。

  墜落して昏睡
それから一丈ばかり下つた時であつた。と見ると前面にまた谷がある。然し今度のはそんなに深くないらしい。僕は伝つたならば下りられるだらうと思つたので、岩角を掴んで下り初めた。するとその時岩角を掴んで足場を求めてゐた僕は、遂に手を辷らし、足を辷らして、アツと叫ぶ間もなく真逆様に墜落した。墜落しながら、初めは谷にのり出してゐる樹に衝突し、次に三本並んで突き出て樹木で頭を打ち、次の瞬間無我夢中で眼をあけて見ると、僕は突出した岩の上に落ちてゐた。十丈位落ちて来たらう。上では三人が狂気のやうになつて僕をよんだゐる。僕は生きてゐたうれしさに、元気を出して
『大丈夫、大丈夫。』
と答へた。やがて気を落ちつけて顔に手を当て見ると、目の上の肉が裂けて、血がダラダラと流れてゐる。ポケツトから手拭を出して鉢巻をしたが、間もなく疲労と驚きのために岩に倚りかかつて昏睡して了つた。
ふと気がついた。上では僕の居る処が見えないので、頻りに様子を聞いてゐる。
その中新井君は僕の様子を見に来ようとしたらしい。やがて『行つて見よう』といふ新井君の声が微に耳に入つた。
するとザラザラと石が落ちて来た。と、続いて新井君が墜落して来た。僕のゐるところの少し左側の木に当つた。新井君の『しまつた』と叫んだ声が聞えたと思ふと、一転くるりと廻つて、真下の谷底へ落ちて了つた。
僕は思わず『新井君!』と叫んで立ち上つた。谷の下までは数十丈もあるので、あの下の堅い岩の上に落ちては一溜りもあつたものではない。名を呼んだが果して答がない。

  谷底の死骸
僕は谷底をのぞいて見た。涙は止めどもなく流れ落ちる。ああ新井君は僕の処へ来ようとして落ちたのだ。僕を助けようとして墜落したのだ。新井君はどうしてゐる?死んでゐるのか、生きてゐるのか?呼んでも答へはないのである。或は重傷で苦しんでゐるのではないか。かう思ふと僕は矢も楯も堪らなくなつた。僕は這ふやうにして下り初めた。絶壁が屏風のやうに突立つて、高さは数十丈もあらう。初めの間は木に掴まつて下りて行つたが、二三丈来ると木が全く無くなつて了つた。それから下は岩ばかりであるので行くことが出来ぬ。仕方がないから僕は大きな木に掴まつて下を覗いた。おお!新井君は横になつて死んでゐる!岩を枕に苦痛の色もあらはさず、寝てゐるやうに仆れてゐる!
『新井君しつかりしたまへ。』
呼んだけれど新井君は眉一本動かさない。行かうと思つても行くことは出来ず、僕は木に掴まつたままで涙を呑んだ。
と、また上の二人が心配になつて来た。で
『何してゐるんだ。』と尋ねると
『今降りて行く最中だ。』と答へる。
『降りてちや危い!止したまへ。』
僕は大声で叫んだ。けれどもそれは遅かつた。僕が叫ぶと同時に、声のした方に当つて岩でも崩れ落ちる様な音がしたと思ふと、バサバサと物凄い響が起つた。どうしても人間の落ちた音だ。僕は夢中で二人の名を呼んだ。然し答ふるものは、谺の音ばかりである。
『二人共墜落した。』僕は涙声をあげて独言(ひとりご)ちた。残る者は我一人と思ふと、気も狂はんばかりになつた。ましてや僕は上級生だ。下級生を殺して置いて、どうして家に帰れるか。もうかうなれば最早縋る者は村の人より他にない。僕は夢中になつて木を揺(うごか)したり、手を拍つたり大声で村に救を求めた。
かうして一時間ばかり救助を求めてゐたが、容易に通ぜぬ。餓死するより他に仕方がない。餓死しては溜らぬと思つたので、僕は絶壁をのぼり初めた。然し疲労し切つた身体では容易に攀ぢのぼることは出来ぬ。僕は失望と、饑餓と、疲労とのために、突出した岩の上で又もや倒れてしまつた。

  今助けてやる
不図目がさめた。太陽は既に西に廻つてゐる。僕は再び気をとり直し、村に向つて助けを求めた。すると山の方でオーイといふ声が聞こえる。よく聞くと江森君の声だ。声は段段近寄つて来る。僕は声の限りに叫んだ。
やがて江森君は崖の上に来た。そして僕が墜落してゐるのを見ると、木の根に掴まつて絶壁を下りて来た。
僕は江森君に三人の死を語つた。
両人は協力して村に向つて救を求めた。村は一面夕の靄に包まれて暮れかからんとしてゐる。するとその時突然崖の上から
『今助けてやるから待つて居れ。』
といふ声がした。助けと聞いて二人は相抱いて泣いた。両人の声が村に聞えて、村から救助に来たのであつた。
しかし何分にも夜になつたので危険である。そこで救助に来た人は
『明日まで待つて居れ。夜が明けたら村の人多勢で助けてやる。』
と言ひのこして帰つて行つた。
その夜二人は蘇生の思をして、相抱いて岩の上に困憊せる身を横へて一夜を明した。

  骨となつて壺に
明くれば二十七日、まだほの暗い内に目がさめると、既に多勢の村の人は僕等を救ふために崖の上に来てゐた。
両人は直ちに救はれた。そして用意の重湯を呑まされ、黍饅頭を食べさせられた。そしてそれらの人に扶けられて村に下りた。村は横瀬といふ村であつた。
やがて村の小泉氏の宅に入る。村長さんがお出になつてお見舞下さる。
洋服は血まみれになつてゐる。医者が来て傷を縫つて呉れる。巡査が来て訊問する。夜になると村人が入れ代り立ち代り来て見舞つて呉れる。
しかし乍ら両人は友の死を悲しむあまり、ただ忙然といてゐた。そして言つた。
『僕等はもつと重い傷を受けてもよいから、三人に生きてゐて貰ひたかつた』
午後九時頃になると、電文によつて馳せつけた村の人が着いた。惨死した友のお父(とつ)さんや兄(あに)さんや親戚の方はすぐに遺骸の収容してある長善寺へ行かれたが、僕は気の毒で、穴があつたら入りたやうな気がした。
その夜友の遺骸は火葬に附せられた。
翌日、三人の友は小さき壺に入れられて村へ帰つた。先生達学友村の人が出迎へて下さる。その日は雨が降つてゐた。

※漢字は新字体に改め、仮名遣いはそのままとした。

「三学生追悼碑」

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作成:川越原人  更新:2023/12/03