1711(正徳元)年の7月16日、信州(長野県)松代在の出身で、江戸で商人をしていた男が、その妻(武蔵の国河越在の農民の娘)の兄に誘われて、河越へいった。同月20日にこの兄が男の留守宅へやってきて、「おまえの夫は商売のために故郷へいくが、まもなく帰ってくるだろうから、その間父のもとに帰って待つがよかろう」といって、男の妻、つまり妹を実家へつれて帰った。ところが、日数がたっても夫が帰らないうちに月がかわってしまった。
そのうち、近くの川に水死人が浮いたと聞いてかけつけてみたが、水中にうつ伏せになっているので顔がわからない。なんとかして見ようとしたが、父と兄が許さないのでいちおう帰ってから、名主に頼んで死体を取り上げてもらったところ、それは自分の夫であった。取り調べの結果、父と兄が殺して水に沈めたことがわかり、事件は落着したはずだったが、ここに一つ難題が残った。
当時、君臣・父子・夫婦の関係を三綱といった。それは、徳川封建社会をささえるもっともたいせつな人倫関係とされていた。そして、この事件の妻女は、子が親を訴えて罪におとしたという意味でこの三綱にもとりはしないかということになったのである。
幕府当局から相談をうけた林信篤は、『論語』や『春秋左氏伝』を引用して、この事件はたとえ父と兄が夫を殺したとはいえ、子が親の罪を訴えたのは、社会最大の倫理である三綱にもとるので、当然処罰すべきだという意見書を出した。
これに対し白石は、中国の『儀礼』(ぎらい)などを典拠にしながら主張した。
「婦人には『未だ嫁せざれば父に従い、既に嫁せば夫に従い、夫死すれば子に従う』という三従の道徳というものがある。たしかに父と夫とは、女にとって、どうしても従わねばならない尊い存在であるが、まったく同じ尊さのものが二つ同時に存在することはできないので、そのばあい、夫ある女は夫のほうをとるべきである。ましてこの事件では、その妻女は名主に請うて検屍をしてもらったあとで、それが夫であることを知ったのであり、またその後役人が調べた結果、父と兄とが夫を殺したことがわかったのだから、その女を処罰するのは道理のないことである」
結局この主張がいれられ、女は尼となって夫と父と兄の菩提をとむらうことで、事件は落着した。しかし、白石が優勢であったのはこのころまでである。
(後略)
三 綱
正徳元年(1711)の夏のことである。武蔵国川越在の駒林村の女で、江戸で商売をしている信州松代出身の男のところへ嫁いできている一人の女が、夫の行方不明とそれにつづく不慮の死を訴え出てきた。よく尋ねてみると、半月くらい前に、その女の兄がやってきて、彼女の夫を連れ出している。
そして、それから二、三日して、また兄が来て、「おまえの夫は、松代の郷里のほうへ商用で出かけたから少しながい旅になるということだ。おまえは川越の父のところへ行って、しばらく帰りを待ったらよいだろう」とくことで、彼女を川越に連れて帰った。
ところが、日数を経ても夫が帰ってこないので、父に問うたが、いや、もう帰るだろうというような返事だった。ところが月がかわっても帰ってこない。どうしたのだろうと心配でたまらないとき、近所の川に水死人があがった。そこで、それが夫ではないかと父や兄に問うてみたが、曖昧な返事で要領をえない。ついに名主に訴え出て、その水死人の身もとを調べたところ、自分の夫であったというのだ。
それで、役人がきて、いろいろと調べると、その女の父親の家から、夫の衣類や所持品が見つかって、ついに隠しきれず、父と兄とで殺害したことを白状したという。この場合、父と兄の罪状は、これは明々白々なので、まず問題はないところだ。
しかし、当時のもっとも重大な人倫関係として、君臣・父子・夫婦の三綱がこれに関係している。すなわち、子が親を訴えて罪におとすという問題だ。それが許されれば、臣もまた君に対して絶対的な服従をしなくてもよくなるかも知れない。三綱は、その間に軽重を付してはいないからだ。
ことは、一人の女に関することであるが、封建的な道徳を至上とするものにとっては、なかなか重大なのだ。そこで、林信篤に、まず相談があった。信篤はこのとき、「人は尽く夫なり、父は一のみ」という中国の故事を典拠としてひき出した。これは鄭の祭仲というものの娘が、自分の母に、夫と父といずれが大切かという質問を出したとき、その母が答えたことばであった。これを平易にいうと、「夫という者は、何人でも代えることができます。しかし、自分を生んだ父親は一人しかいないでしょう。だれでも、何人でも代わりがある夫と、一人しかいない父親とは、父親が大切であるのはいうまでもないでしょう」という理屈なのだ。
三 従
その大切な父親が罪に問われるようになったのは、その娘が訴えたからである。『論語』には「その父の悪をかくす」というように説いている。また中国の律の本には、「父母の悪を告言するものを殺す」というふうに記してある。わが国の律では、「父母を告言する者は流す」と書いてあるが、こうして見てゆくと、その女は、どうしても罪に当たるということになる。
これが信篤の、判決を下すために用意した罪案の趣旨であった。しかし、白石はこれと反対の意見を持ったのである。そして、相手が信篤であるだけにじゅうぶんな用意をした。かれはまず、同門の友人である室鳩巣を尋ねて意見を聞き、その一致したところで意見を具申した。
かれが典拠としたのは、『儀礼』という中国の礼式の書物で、その中の「喪服伝」の斬衰(中国の喪服)の条である。この条文には服忌に関することが書いてあるが、それによると女は、父の家に居るときと、嫁した後とは、父の死に対する服忌のしかたが違うというのだ。それに婦人には三従という道徳がある。「未だ稼せざれば父に従ひ、既に稼す夫に従ひ、夫死すれば子に従ふ」ということばだ。ゆえに、父は子の天であり、夫は妻の天であるというのである。
(中略)
さて、さきの斬衰の条の文章に「婦人の斬を二つにせざるは、猶天を二つにせざるが如きなり。婦人は尊を二つにする能はざるなり」というのがあった。その「婦人は尊を二つにする能はざるなり」というところに意味があると白石はいうのである。そこでかれは「人の妻たるものは夫に従ひて、父に従ふまじき義ある事をしるべし」という意見を示した。すなわち他家の婦人となって実家の父と兄とに従わないこともあるというので、さらに白石は、夫のために尽し歴史上に名を残した女性を挙げている。漢の孝平后・孝献后、北斉の天元后、呉の太子妃などがその例であると。かれは、信篤の刑に相当するという議論を、このようにしてはね返しているのだった。
正徳中疑獄の事
前の事共しるすにつけて、思ひ出たり。前代の御時、辛卯(正徳元年(1711))の八月十七日に進講訖りし後、疑獄一条をしるし出されたりけり。
これを見るに、「信濃国松城(松代)の庄の人、ここに来りとどまりてあきものするあり。其妻は当国(武蔵国)河越庄駒林といふ村の女也。すぎにし七月十六日、其妻の兄なるものの来りて、河越にいざなひゆきたり。同き廿日に、妻の兄また来りて妹なるものに、「『汝の夫はあきもの(商売)のために、故郷にゆく也。いくほどなくて帰りぬべし。そのほど(その間)は父の許に来りて、その帰らむを待つべし』といひぬ」といひて、同き廿一日に父の許にともなひゆく。日数経ぬれど夫の帰らざれば、その帰らむほどを父にとふに、「『廿八日の比には必らず帰らむ』とこそいひつれ」といへど、明けの月の朔日に至れど帰りも来ず。いかにかくはあるらむと覚束なきに、「ほとりの川に流れ死せし人あり」とききて、むねうちさはぎてはしりゆきてみれど、水のなかにうつぶし死したれば、見もわくべからず(見わけがつかない)。「いかにもして、その人を見ばや」と、父と兄とにいへど、「いかにさる事やあるべき」といひて、聞もいれず。いとどその堪がたさに、明けの日その所の名主などいふものに告げて、かの死せしものを取りあげさせて見るに、我夫也けり。
ここは秋元但馬守喬朝(当時老中)の所領なれば、留守の役人等、彼妻の父兄またその家子等をめし問ふに、答ふるところの疑はしければ、其家を検知せしに、婿なるものの衣類・雑具等を得てげり(けり)。陳ずるに詞なくして、七月十八日の夜、父と兄と二人して、其婿を縊殺して水に沈めし事あらわれにたり。かの婿殺せし二人の罪は、疑ふべきにあらず。其妻なるものの父を告し罪あるに疑ひあれば、喬朝朝臣其状をまゐらせたる也」。
某対申すは、「此獄三綱之変にして、常理をもて推すべからず。窃に憂ふる所は、彼父子・夫婦の事のためのみにあらず。君臣の大義よりて係れる所也」と申しければ、「されば、評定のものどもに、「かかる事の断例(従前の判決例)やある。たづねてまゐらせよ」とこそ仰せつれ」とのたまはせ給ひたりけり。家に帰りし後、我友鳩巣とひそかに此事を議せしに、明けの日の朝贈れる書に、儀礼喪服伝の斬斉の条を引て、「これらの条によりて、此獄を断じなば、その疑なかるべき」由をしるせり。我はじめ彼議を聞しに、我おもふ所に同じかりつるに、今また此書の確拠(たしかな証拠)あるを得し、幸にこそ覚たりけれ。
廿二日の進講の後、評定衆のまゐらせし断例をうつし出されて、「これ此獄を断はるべき例とも見えず。いかにやおもふ」と仰下さる。その断例を見るに、貞亨四年四月、夫の我養母と私通せし事を告申せし女ありて、かの私通のもの二人首をきりて獄門にかけられ、その女をば、母と夫とを告げし罪によりて、獄に繋ぐ事一年、五年三月に至てやつことなされし事をしるせし也。「承るところのごとく、これ、此獄の例とすべき事にもあらず」と申して、此女罪せらるる事あるまじき由を申して罷出づ。
廿五日にめされて、「老どもの大学頭信篤が議を奉りしものを見よ」とてうつし出さる。その議には、「「人尽夫也、父一而已」、これ鄭の祭仲が女、己が母に、父と夫と孰か親しき義を問ひしに、其母の答しことば也。父の罪過あらわれしは、女の訴しによれり。論語にも「父の悪を隠すを直し」とみえたり。律書にも、「父母の悪を告言ふ者を殺す」と見ゆ。されば、父の悪を訴しは其罪死に当れり。もし父の夫殺せし事をしらずして訴んは各別也。本朝の律には、「父母を告言ふものは流す」とあり。註には絞るとみえたり」としるしぬ。此月廿三日に奉りし所の義なり。
「祭仲が妻の言取用ゆべき事かは。また此事もとより過誤之失にはあらず。また孔子「隠すをもて直し」とのたまひしとも見えず。此上は議すべき所をしるして進らせよ」と仰下されしかば、家に帰りて、やがて草起てて(草案を書いて)、廿六日に、某が議をぞ進らせたる。
其議せし所は、「某伏して今月十七日の旨を奉る。商夫の婦あり。夫出て帰らず。久して溺死のものある事を聞て、その里長に請うて其屍を験するに、すなはち我夫也。推覈して其状を得しに(取調べて、事情を明らかにした結果)、婦の父と兄と共に婿を殺して、屍を水に沈めし也。官司(役人)疑ふに、婦其父を告るの罪を犯すに似たり。法官(評定衆)議して、「没入して婢となすべし」といひ、儒臣(林信篤)議して、「断ずるに父を告るを以てすべし」といふ。ここにおいて、某をしてまた議を上らしめらる。
某謹て按ずるに、是獄三綱之変、常理の推すべきにあらず。まさに按じて断ずべきもの三つ。
一つには、よろしく正すに人倫之綱を以てすべし。いはゆる三綱とは、君は臣の綱、父は子の綱、夫は妻の綱、これ也。まづ此三つの綱といふにつきて、君と父と夫と、其尊相同じくして、これに事ふるところ一つなる事をしるべし。
二つには、よろしく拠るの喪服の制を以てすべし。先王の制、女子許嫁して室に在ると、嫁して反りて室にあるとは、父死しぬれば、父のために斬衰(中国の喪服)三年す。既に嫁して夫に従ふ時は、父死しぬれど斉衰不杖期を服す。されば、女子の室にある時と、出て嫁しぬる後と、父のために服する所、懸絶なるが疑ひあるべきが故に、喪服の伝に其議を明らかにして、「婦人三従之議あり。専用之道なし。故に未嫁、父に従う。既嫁、夫に従ふ。夫死、子に従う。故に父は子之天也。夫は妻之天也。婦人不二斬者、猶曰不二天也。婦人不能二尊也」と見えたり。されば、此「婦人尊を二つにする事あたはず」といふによりて、人の妻たるものは夫に従ひて、父に従ふまじき義ある事をしるべし。
三つには、よろしく度るに事変之権(臨機応変の法)を以てすべし。凡事常あり。変あり。これを行ふに経(常に変らない標準)あり。権(臨機の処置)あり。先儒のいはく、「権者所以達経也(権トハ経ヲ達スル所以ナリ)」。女子室に在りては父に従ひ、出て嫁しては夫に従ふものは、時措之宜、いはゆる先王之義制也。それ、君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり、夫夫たり、婦婦たるは、人倫の常なる也。君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらず、夫夫たらず、婦婦たらざるは、人倫の変なる也。君君たらずといへども、臣臣たらずといふ事なく、父父たらずといへども、子子たらずといふ事なく、夫夫たらずといへども、婦婦たらずといふ事なきは、人倫の変に処して、其常を失はずといひつべし。凡そ人の臣として、父其君を弑し、人の婦として、父其夫を殺すのごときは、人倫の変最大なるものにして、臣たるもの、君に忠ならむとすれば、父に孝ならず、婦たるもの夫に義ならむとすれば、父に孝ならず、斯人の不幸、これより大なるものはなし。古の人の臣たるもの、其父にしたがはずして、其君に忠なりしもの、其人あり、唐の李さい(王偏に崔)、石演芬がごときこれ也。人の婦たるもの、其父と兄とに従はずして、其夫に義なりしもの、其事なきにあらず。漢の孝平后、孝献后、北斉の天元后、呉の太子妃のごときこれ也。
されど、父のために夫殺されて、其事を以て告しものの事、いまだ見る所あらず。其夫の君の命をうけて我父殺さむとするを知りて、父に告げて父のために夫殺されしものはあり。鄭祭仲の女雍きつ(女偏に吉)これ其人也。はじめ雍きつ、父と夫と其親しきところいづれならむことを疑ひて、其母に問ひしに、母答ふるに、「人是夫也。父一也。胡可此也」といふを以てす。これ信篤拠る所也。其母のいひし所と、雍きつが告し所と義ならむには、夫たるもののために、其父を父とせず、其兄を兄とせざりしごときは、不孝不悌にして、不義なるべしや。もしここに人の臣ありて、父其君を弑せんとするを知りて、「人は尽君也、父は一也、胡可此也」といひて、父と共に君を弑せば可ならむ歟、不可ならむ歟。
衛の公子州吁、其君を殺す。石さくが子、厚与れり。石さく陳に告て、「此二人者実弑寡君敢即図之(此ノ二人ノ者実ニ寡君ヲ弑ス。敢ヘテ即チコレヲ図ル)」といひけり。君子称じて、「石さくは純臣なり。大義滅親とはこれこれをいふか」といひき。孔子、「父為子隠、子為父隠」とのたまふは、これまた信篤引用ひし所也。人倫之常理のみ。羊を攘むと君を弑すと、いづれか大に、いづれか小しきなる。
先王の制、既嫁するの女は其夫を天として、其父を天とする事あたはざるによれば、我父その夫を殺せしを告むにも、よのつね父母を告るの律を以て論ずべからず。況や此女の里長に請うて屍を得てのちに其夫なる事を知り、官按じて其父と兄との其婿殺せし状を得たるがごとき、また父と兄との夫殺せし事をしりて、これを告しには大に異也。此婦のごとき、断ずるに罪を以てせむ事、万々其理なし。父兄の夫殺せし罪露れぬる日、たち所に自殺したらむには、夫のために義にして、父兄のために孝あり、悌あり。人倫の変大なるものに処して、善尽しぬといふべし。
されど、これまた備らむことを責むるの論にして、「君子恕人之道(君子人ヲ恕スルノ道)」にはあらじ。古より此かた、父のために夫殺されて、死するに及ばねど、身を終るまで其義を守れる女すくなからず。古人其死せざるがために、其節を小しきなりとはせず。
某窃に議すらく、「凡そ人の婦たるもの、其夫のために義なるべきは、なほ人の臣たるものの、其君のために忠なるべきがごとし。もし李さい・石演芬がごときもの、世のいはゆる忠臣・義士ならむには、蔡仲が女雍きつがごとくならむものを称じて、孝順之婦とせむは、某がしれる所にあらず」。
また此議に副て奉りしは、「評定の人々奉られし断例によれば、『此女繋獄一年の後没入して婢となすべし』。大学頭が議によれば、『此女父の夫殺せしを知りて告たらむには、処するに死刑を以てし、もし其事を知らざらむには、奴罪に行はるべきもの也』といふがごとし。
もし某が議のごとく、此女罪せらる事なからむには、某敢て請ふ所あり。哀々たる寡婦、すでに其託する所を失ふ。青松之色、歳寒に改ることなからむこと、いまだ必とすべからず。某ひとり其婦節を失はむことを惜むのみにあらず。ただ恐らくは、官法を毀ふことあらむことを。我国の俗、父を喪し、夫を喪し、僧となり、尼となるものすくなからず。微くに人をして風ぜしむる(遠まわしに言ってさとらせる)に、父と夫とのために尼とならむ事を以てし、尼寺に送り入れて、剃髪受戒せしめ、父と夫との財産を併せて其寺に施し入れて、彼飢寒患を救はむには、官法婦節ふたつながら全からむ」とぞ申したりける。
やがて某が議によられて、御沙汰ありしかば、喬朝朝臣のはからひにて、みづから尼とならむ事を望請ひ、鎌倉の尼寺(松ヶ岡東慶寺)におもむきしとぞ聞えたりける。
71 武州川越お勝の仇討
武蔵国川越に、杣右衛門と九助という博打好きな農民がいた。博打仲間として気の合った二人であったが、ふとしたことから争いになり、口喧嘩が高じてつい九助が手を出してしまったらしく、杣右衛門を打ちのめしてどこかへ逃げ去ってしまった。傷ついた杣右衛門は家に運ばれて来たものの、よほど打ち所が悪かったのか、しばらくして息絶えてしまった。息をひきとる時に杣右衛門は、自分に男の子が無くてこの恨みを晴らしてくれる者がいないのが、何とも残念でたまらないと嘆いて深く心を残していたようであった。杣右衛門にはお勝という娘が一人いたが、年はまだ八歳という幼さだったが評判の利発者で、この時の父の嘆きを聞いて子供ながら胸にこたえ、深く何かを心に誓ったようであった。
ところでお勝は間もなくして母に死に別れたので、叔母に当たる人に育てられて成人した。その間村に一人の武芸者がやって来て、剣を教えているということを耳にしたお勝は、ある日密かにその人を訪ねた。そして訳を話して父の敵を討つために是が非でも剣術を教えて欲しいと熱心に頼んだところ、心打たれたか、入門を許してくれた。志のあるお勝は上達も早く、熟練して師も驚くほどの腕前になった。その後お勝は縁あって、人妻となって一子をもうけ、なんの変わることなく暮していた。
一方九助は杣右衛門を打って出奔中、その死を知って後悔し、剃髪して僧侶となっていた。ところが偶然にも武州大高村万福寺の住職が欠けたので、九助が後任となってやって来た。このことを聞いたお勝は、今ぞ父の敵を討つ時が来たと喜び、日夜九助の行動を人知れず窺っていた。このことを知った九助の仲間が、危険だからここを立ち去るようにと忠告した。にもかかわらず九助は、「ばかげたことを。杣右衛門の娘なんかに敵討の出来るはずがない」
と高をくくって、ことさら警戒もせずにいた。
この様子を窺っていたお勝は、ある日の夕方、すきをみて万福寺に忍び込み、父の敵、九助いずこと探し廻った。まさかと思っていた九助は、あわてて寺を逃げ出して、背後の山へよじ登っていった。お勝は九助の後を追ったが、山道は嶮しく樹木の根があちこちに出ていて、それにいくどもつまづき転びながらやっと九助に追いついた。
「父の敵、覚悟!」
お勝はおもむろに刀を抜いた。上段にかざした白刃が、日の光を受けて一閃した。瞬間お勝はみごと九助を袈裟がけに斬りおろしていた。
役人に敵討の顛末を話すと、何のお咎めもなくその孝心を賞されたという。〔文政三年(1820)〕
『春女報讐記』
(前略)
最初のヒロインは、千葉亀雄『新版日本仇討』(1931年初版)にも「婦人の仇討」の一例として取り上げられた春女(はるじょ)。本書では「はる」と記してその半生をたどってみよう。
元禄8年(1695)6月13日夜。武蔵国川越城下で、藩主柳沢家の家来伊東仙右衛門が、同じ柳沢家中で懇意にしていた大西助次郎によって殺害された。原因は女。悪いことに助次郎が激しく恋慕したのは、仙右衛門の妻だった。どんなに口説いても色よい返事が貰えないことに業を煮やした助次郎が、あわせて不倫を迫った事実がもれるのを恐れ伊東方に忍び込み彼女を亡き者にしようとしたところ、仙右衛門が帰宅したので、事のなりゆきで殺害してしまったのである。
ときに仙右衛門、43歳。殺害して逃亡した助次郎は34歳。仙右衛門の娘「はる」はまだ2歳で、事件が起きたとき母の懐で寝入っていたという。
仙右衛門の妻は、異変に気がつくと短刀で助次郎の額に傷を負わせたが、事件後はショックと悲しみで病の床につき、「はる」は村の名主に預けられた。同年9月8日、仙右衛門妻死去。しかし彼女は病床で、夫が殺害された日時、助次郎の容貌の特徴(額に傷があること等々)、年齢などを記して一軸にし、形見の衣裳や金銀と共に「はる」の養育者である名主に託した。
「はる」は、7歳の年に、江戸で商人の女房となっていた名主の妹の家に養女に貰われていった。その養母も「はる」が15歳のとき亡くなるが、臨終の床で、養母は「はる」に大西助次郎が父の敵であると教え、実母が遺した一軸と短刀を授けた。真相を知らされた「はる」は、復讐の念に燃えながら、敵を捜し当てる方法を模索した――。
敵を捜し出すための方法とは……。「はる」は享保7年(1722)8月12日に29歳で助次郎を討ち果たすまで、実に14年の間幾つもの家に下女として奉公し、それらしき者を捜し続けたという。彼女の敵討が比較的詳しく伝えられたのも、敵討の年の春から3ヶ月はど奉公した杉山東庵が『春女報讐記(はるじょほうしゅうき)』と題して敵討までの経緯を書き記してくれたお陰である。
ひとつ所に長く務めると情報の入手先が限られるので、長くても7、8ヶ月で病を理由に暇を貰って(退職し)、奉公先を転々と変えた「はる」。彼女が享保7年8月から奉公した某家に藤代勘左衛門と名乗る老いた家来がおり、額に刀傷の痕(あと)があったので酒をすすめて問いただしたところ、色欲に迷って人を殺して逃亡した過去を洩らしたため大西助次郎と判明。助次郎が主人の用で鎌倉へ向かう途中、相模国鎌倉郡山田原という場所で待ち伏せして、討ち果たしたのだった。
敵は61歳。老いたとはいえ、もちろん女一人の力で敵討をなし遂げたわけではない。詳しい関係は知らないが、「はる」は、同じ家に下男奉公していた鉄平という男に助太刀を頼んでいた。敵を討ったのち、彼女は鎌倉松ヶ岡の尼寺(東慶寺)に入って尼となり、鉄平は郷里の信州へ帰ったと、『春女報讐記』は記している。
昭和38(1963)年5月1日狭山市上赤坂の中田栄作の4女善枝さん(川越高校入間川分校1年)が下校途中に行方不明となり、夕食後、家人が戸口に挟まれている20万円要求の脅迫状を発見した。 2,3の両日深夜、姉が指定場所に立ち犯人と接触、40人の警官が周囲に張り込んでいたにもかかわらず犯人を取り逃がし、4日入間川の農道で善枝さんの絞殺死体を発見、柏村警察庁長官は引責辞職した。
厳しい世論の批判を浴びた県警は165人という大捜査陣を編成、23日同市未解放部落のトビ職手伝い石川一雄(当時24歳)を暴行、窃盗などの別件容疑で逮捕、1カ月後石川は犯行を自供、昭和39(1964)年3月浦和地裁内田裁判長は死刑を判決、 石川は控訴、二審の東京高裁公判で自供をひるがえし無罪を主張、昭和52(1977)年8月無期懲役を判決、最高裁も上告を棄却、その後再審請求が行われたが、いずれも棄却され特別抗告を申し立てている。
この事件に対し部落解放同盟中央本部は石川青年救護対策本部を設置、「差別に基づく裁判の取消しと石川青年即時釈放」の中央集会を開くなど総評、学生、市民グループと多様な活動を展開、作家・評論家などの無罪主張の著述活動が続いている。
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【資料F 連続幼女殺人事件年表】 | |
1988年 | ||
8月22日 | 今野真理ちゃんが埼玉県入間市の自宅団地付近で行方不明に。 | |
10月3日 | 埼玉県飯能市の吉澤正美ちゃんが行方不明に。 | |
12月9日 | 埼玉県川越市の難波絵梨香ちゃんが行方不明に。 | |
12月15日 | 埼玉県名栗村の山林で絵梨香ちゃんの全裸死体を発見。 | |
12月20日 | 絵梨香ちゃん宅に《絵梨香 かぜ せき のど 楽 死》と書かれた葉書が届く。 | |
1989年 | ||
2月6日 | 真理ちゃん宅に《真理 遺骨 焼 証明 鑑定》と書かれた紙片と、骨片など入った段ボール箱が置かれる。 | |
2月10日 | 真理ちゃん事件に関する「今田勇子」名の犯行声明文が朝日新聞東京本社に郵送される。 | |
2月11日 | 同じ犯行声明文が真理ちゃん宅にも届く。 | |
3月11日 | 「今田勇子」名の告白文が朝日新聞東京本社と真理ちゃん宅に届く。 | |
6月6日 | 東京都江東区東雲で、野本綾子ちゃんが行方不明に。 | |
6月11日 | 飯能市の宮沢湖霊園で綾子ちゃんのバラバラ死体を発見。 | |
7月23日 | 東京都八王子市で幼女の全裸写真を撮っていた宮ア勤被告を強制猥褻の現行犯で逮捕。 | |
8月9日 | 宮ア被告が綾子ちゃん誘拐殺人を自供。 | |
8月10日 | 宮ア被告の自供に基づき東京都奥多摩町で綾子ちゃんの頭部を発見。 | |
8月13日 | 宮ア被告が真理ちゃん、絵梨香ちゃん誘拐殺人を自供。 | |
9月5日 | 宮ア被告が正美ちゃん誘拐殺人を自供 | |
9月6日 | 自供に基づき正美ちゃんの遺骨と衣類を東京都五日市町の日向峰付近の山中で発見。 | |
9月13日 | 自供に基づき真理ちゃんの遺骨を五日市町で発見。 |
古びた千円札の秘密
目の前に、江戸時代の町並みが広がっていた。
飾りのついた鬼瓦、独特な瓦屋根、重厚な塗り壁が美しい蔵造りの商家が並ぶ。木の櫓の時計台や城跡、茶店、石畳の四つ辻もある……。
98年9月、埼玉県川越市――。私はこの街で「ヤマザキ」と会う約束を取り付けた。取材場所を指定したのは、「ヤマザキ」の方であった。
川越市は室町時代、太田道真・道灌親子が川越城を築いて以来、関東有数の城下町として栄えてきた。江戸時代には「小江戸」と呼ばれ、江戸への物資の集積・供給地として賑わった。
現在も市を挙げて町並み保存に取り組んでおり、歴史の重みを感じさせる町並みを見ようと、大勢の観光客が訪れる。実際には、1893(明治26)年の大火以降に修復された建物も多いから、江戸と明治の情緒が混在した街≠ニ言ってもいいだろう。
1968年に起きた三億円事件の取材のため、当時の関係者を訪ね歩くたびに、三十年前にタイムスリップしたような気分になることが多かった。しかし、この街は、まるでタイムマシンの操作を誤り、百年前、いや三百年前に来てしまったかのような錯覚に陥らせる。
「ヤマザキ」は、市の中心部にある、名物のイモ料理を売り物にした店で待っていた。
年齢は七十歳の手前といったところか。白髪まじりの短い頭ながら、恰幅のいい紳士であった。自らきちんと、「ヤマザキ」と名乗った。
「私は約十年前まで、警察に勤めておりました。皆さんが『先生』と呼んでいる男性は、かつての同僚であります」
「ヤマザキ」は座敷に通されるや否や、食事を注文する暇も惜しむかのように、身の上話を始めた。いきなりしゃべり始めたのには驚いたが、彼の表情には何となく、話さずにはいられないという切迫感が感じられた。
「かれは本名を『マツダ』と言いまして、とても男気のあるいいヤツでした。職務に関しても非常に有能で、将来を嘱望された警察官でありました。しかし、ある事情≠ェございましたために、三十数年前に、どうしても警察を辞めなければならなくなってしまったのです……」
「ヤマザキ」は言葉遣いこそ丁寧だが、その話しぶりは年齢を感じさせないほどエネルギッシュであった。彼は注文した食事にはほとんど手を付けず、ずっと話し続けた。
話の中身は、「先生」の生い立ちに始まって、経歴や性格、さらには三億円事件との関連性まで多岐にわたり、興味深いどころか、三億円事件の全貌を明らかにするのに必要不可欠なものばかりと言えた。
「ヤマザキ」はまるで「先生」のことを実の弟のように可愛がっていたようで、話しぶりには、「先生」の行く末を心配する様子がありありと窺われた。
だが、彼は一息つくと、質問を始めようとした私を制して、こう言い切った。
「『マツダ』が三億円事件の首謀者であることは、まず間違いないでしょう」
そして、すっかり冷たくなったお茶を一気に飲み干すと、持参した紙封筒の中から一枚の紙切れを取り出した。
それは、聖徳太子の肖像が描かれた、いかにも古そうな千円札であった。
確か、千円札は紙幣番号が登録されていなかったはずである。首を傾げる私に向かって、その皺だらけの千円札を見せながら、「ヤマザキ」は真剣な面持ちで、こう言った。
「このお札こそ、『マツダ』が事件の主犯であることを示す重要な物証なんです」
よく見ると、紙幣の右上部、ちょうど刷り込まれた聖徳太子の後頭部の後ろに赤インクのようなものが付着しており、注射器か細いキリのようなもので開けたと見られる小さな穴があった。表面では、汚れが小さくて分かりにくいが、裏側を見ると、その真後ろに当たる夢殿の絵が描かれた周辺が、赤インクでかなり汚れているのが分かった。
「ヤマザキ」はその紙幣を片手に握りしめ、まるで心を落ち着かせるように大きく深呼吸をした後、静かに、お札にまつわる由来を語り始めた……。
実際、かれが持参した一枚の古い千円札は、とんでもない代物だった。
「ジョー」が持っていたという、紙幣番号が登録されていた旧五百円札と同じように、「先生」たちと三億円事件を結びつけるとっておきの物証≠ニ言っていいだろう。
(略)
すべては川越から始まった
それにしても、この「先生」とよばれる人物はパワフルで行動力がある半面、狡猾でねちっこく、物事に一つずつじっくりと取り組むところもあるという掴みどころのない人物≠フようである。彼の周辺を取材すればするほど、その多面性が次々と浮き彫りになってきたのだ。
「ヤマザキ」の説明によれば、「先生」は銀行員だった妹の自殺を契機に、銀行に対して恨みや憤りを感じていたように思われる。
もしかしたら、「先生」の心の中には、警察に対する憤懣もあったかも知れない。それに、父親が東芝府中工場を解雇され、憤死したことが影響していることも考えられる。
その意味では、同情すべきところもあるのだが、それだけの理由で、あれだけ派手に巨額の現金強奪事件を起こしたのだろうか。
私は、「ヤマザキ」との関係が疎遠だった三年近い間に、何かがあったのではないかと考え、「ジョー」の不良仲間への接触や、米軍基地関係者への取材を継続するとともに、「ヤマザキ」の証言をもとに、新たな取材先を見つけ出すなど、積極的に情報収集に当たった。
その結果、幾つかの新事実が明らかになってきた。
まず、「先生」がサラリーマンを辞め、米軍基地を舞台に、暴力団関係者らと外国製品の密輸を始めたり、賭博に加わっていたことが分かった。福生町や立川市などで米軍基地近辺に姿を現したり、「ジョー」らと付き合い始めたのもその頃からで、密輸などの犯罪に利用しようという狙いがあったためらしい。
しかも、暴力団との取引に絡んで、何か大きなトラブルが発生し、「先生」が暴力団系列の金融業者から多額の借金をしていたという事実も浮かんできた。
「先生」の犯行動機の中には、借金返済、つまりはカネのためという側面も見られるわけだ。それにしても、現金輸送車を襲撃して借金を返そうとしたのだとすれば、何と派手な返済方法であろうか。
それだけではない。
「ヤマザキ」は明かさなかったが、「先生」の元同僚らに当たった結果、自殺した妹がかつて勤めていた銀行が三菱であることが分かったのだ。
三菱と言えば、三億円事件の犯人が当初、狙っていたとされる銀行である。妹が勤めていたのは国分寺支店ではないが、その襲撃には妹の復讐もかかっていたと考えて間違いないだろう。
「先生」は妹の死後、その同僚と親しくなって、いろいろと協力を仰いでいた。一時は恋人同士でもあり、最初からそうだとは思いたくはないが、穿った見方をすれば、それもまた、犯行計画の第一歩だったという疑いは捨て切れない。
とにかく、「先生」の行動には計算し尽くされた狙いがあるような気がするし、それを立証したのが一連の自動車窃盗であり、多磨農協などへの脅迫事件ではないだろうか。
さらに、「ヤマザキ」が推測したように、「先生」が川越市に拠点を築いていた可能性が濃厚になってきたこともある。
川越市の郊外にある「先生」の実家は事件当時、登記簿謄本上は「先生」が所有していた形になっており、しかも、事件の半年ほど前に、その土地、建物の一部を担保に三百五十万円の融資を受けていた。
このカネが事件を準備するための資金だったのか、あるいは暴力団系金融業者への借金返済に必要だったのかは分からないが、68年6月頃には、犯行の具体的な準備が始まったと見ていいだろう。
「先生」の実家周辺を、念のため聞き込み取材してみたが、さすがに三十年以上前の人の出入りを記憶している人はいなかった。
近所の住民らの話によると、「先生」の実家周辺はかつて、イモや茶が植えられた畑と雑木林しかなく、住宅はポツンポツンと点在していただけだったという。
町並みは大きく変貌し、住民も世代交代しており、有益な話は全く聞けなかった。が、その周辺に大きなケヤキの木が生えていたことは分かった。
巻末の資料編にある地図をご覧頂きたい。
川越という街は、客観的に判断すると、第一現場からほぼ真北に24キロ離れているものの、車で府中街道を北上すれば、距離の割には早く到着できる。横田基地へも20キロ足らずの距離にあり、これまた一本道だ。どちらも第一現場から30キロ圏内にあり、交通手段的には、アジトとして決して無理な場所ではなかった、と思われる。
さらに、国鉄川越線、東武東上線、西武新宿線の三つの鉄道が乗り入れ、所沢経由で西武池袋・国分寺両線にも乗り換えが可能である。つまり、車の盗難現場のうち、保谷市ひばりが丘団地や、小平市のブリヂストンタイヤアパート、八王子市石川町といった、他の現場と少し離れた場所にも電車だけでスムーズに行けるわけだ。
そのうえ、川越はレインコートの販売先や産経新聞の配達先でもあるし、レインコートは警察官が着用していた可能性があるというのだから、アジトとして多くの条件を満たす場所、と言っても差し支えあるまい。
すべては、川越から始まった――のではないか。
しかも、「先生」の元同僚である警察官OBたちを当たるうちに、驚くべき話が飛び出してきた。
「三十年くらい前は、警察も今ほど生活や服装に関する規律とか管理がうるさくなかったんだ。さすがに拳銃や警察手帳などは厳しかったが、それでも自宅で拳銃自殺した警察官がいたぐらいだ。制服なんかはいくらでも持ち出せたし、退職した警官が記念に持ち帰ったり、中にはマニア向けの店に売る輩さえ現れたほどだった」(同僚だった元ベテラン警察官)
というのである。
「先生」は果して、警察を退職する際に制服やヘルメットを持ち出したのであろうか。
その疑問を、後に再会した「ヤマザキ」にぶつけると、彼は
「そんな話は聞いたことがない」
と一蹴したが、その時の表情は何やら、強張っていたように思えた。
銀行や東芝への怨念、警察への挑戦、カネへの執着など犯行動機も超一級。さらに、一年以上という長い期間をかけた準備、米軍基地に目を着けた卓越した犯行計画、そして「ジョー」らを使いこなす人心掌握術……。「先生」の周囲を探れば探るほど、そこには壮大なスケールの犯罪が浮かび上がってくるのである。
事件名 (発生年月日) | 事件の内容 |
九州ピストル魔事件 (1951.2.9) | 福岡県八幡市の折尾駅前で、巡査がSW式ピストルと弾丸18発を盗まれた。同2月28日、炭鉱の保安係、4月2日、芦屋町署の巡査、5月1日、神戸市警の刑事らが射殺された。同一犯人。 |
白鳥事件 (1952.1.21) | 札幌市で白鳥一雄警部(36歳)が帰宅途中、自転車で追ってきた男にピストルで射殺された。日本共産党関係者が容疑者とされ、裁判が長期化、1963年に有罪確定した。1955年4月に元北大生を逮捕したが、別人として釈放する誤認もあった。 |
少年ライフル殺人事件 (1965.7.29) | 東京世田谷区のタンカー見習い乗員の少年A(18歳)は、にせの110番で警察官を呼び出し、ライフル銃で射殺。渋谷のロイヤル銃砲店に立てこもり、ライフル110発を発射し、16人の重軽傷者を出した。犯人は1969年、死刑確定。 |
金嬉老事件 (1968.2.20) | 静岡県清水市のキャバレーで暴力団員2人をライフル銃で射殺。その後、寸又峡温泉のふじみ屋旅館に入り込み、客ら13人を人質にとって立てこもった。 |
連続ピストル射殺事件(広域重要指定108号事件) (1968.10.11) | 10月11日から11月5日にかけ、東京・京都・函館・名古屋でガードマン、タクシー運転手が射殺された。犯人は19歳の少年。 |
勝田事件(広域重要指定113号事件) (1982.10.27) | 名古屋市千種区で警察官が襲われ、実弾5発入りの短銃を強奪。5日後、名神高速道路SAでドライバー2名殺傷。神戸市で労金職員(77年)、名古屋でスーパー店長(80年)、千葉で溶接工(82年)を射殺。72〜77年にかけて5人の女性殺害の計8人の大量殺人魔であることが明るみに出た。83年1月31日逮捕。 |
広田事件 (1984.9.4) | 京都市洛北、北区船岡山公園パトロール中の警察官が刃物で殺され、拳銃と実弾5発が盗まれる。3時間後、サラ金を襲い、従業員射殺。指紋から広田元京都府警巡査部長を犯人と断定、逮捕。 |
埼玉の短銃乱射事件 (1988.9.29) | 埼玉県川越市の路上で会社員が銃撃され、110番通報。急行した警察官も背後から射殺される。同市の別の会社員も撃たれ重傷。犯人は暴力団幹部、覚醒剤中毒による無差別乱射。 |
警察署
(前略)
川越署100年の歴史の中で、市内の事件として話題になるのは、昭和29年9月高階で発生したバラバラ事件であろう。これは運動会の練習帰りの青年団員女子が、夜9時半すぎ姿を消したため、当初は家出と考えられていた。全署員が召集され、捜査が始まって間もなく、両足・両乳房・臀部・大腿などにバラバラにされた無残な殺人死体となって、東武東上線新河岸駅西方の畑から発見された。土地の変質者・不良・不審者が次々に調べを受けたがいずれもシロであった。事件は迷宮入りかと思われたが、犯人が残した画用紙と小学生たちの証言から浮かびあがった特徴ある顔が手がかりとなり、都下にいた犯人がつかまって、77日目に解決した。冷たい愛人に仕返しをねらい探し求めていたところ、被害者の髪型・体格が愛人に似ていると思い、「女としての価値をなくしてやろうと安全カミソリとジャックナイフでバラバラにした」という事件だった。(菊地)
事は去る七月二十六日、五名の川越中学生が秩父山中に聳ゆる海抜五千三百尺の武甲山に登り、不幸三名迄屏風岩と称する絶壁より墜落して惨死したることは、昨年の甲武信ケ嶽に於ける大学生惨死以上の悲劇として今尚諸君の記憶に新たなることであらう。即ち記者は其生存者の一人たる江森君を埼玉県入間郡大井村に尋ねて、その遭難当時の光景に具さに聞くを得た。吁!尊きかな山の犠牲!吾人はここにこれを記して読者諸君と共に惨死者の霊に向つて一掬の涙をそそがうと思ふ。 |
記者曰く。次号には今一人の生存者たる松本政夫君が墜落当時の光景について自ら筆を執り、特に本誌の為めに寄せられたる手記を掲載します。悲絶凄絶、実に君が血と涙とをもつて書かれたものです。 |
五名の川越中学生が武甲山に遭難した事は既に遭難者の一人江森君の実話を得て前号に掲載したが、今また遭難者の一人たる松本政夫君よりも遭難当時の手記を寄稿されたので、改めてこれを掲載することにした。言言句句すべて皆血と涙とをもつてかかれたもので、凄惨たる当時の光景一読真に鬼気肌に迫るを覚える。 |