川越の歴史(8)


<目 次>
川越市菅原町誌川越子供の四季ニュース・エージェンシー原子爆弾

 トップページ  サイトマップ  →  歴史(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  年表  写真集
「川越市菅原町誌」 川越市菅原町自治会 2001年 ★★★
五 昭和(太平洋戦争終結まで)時代/7 川越駅などの空襲と終戦
 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲に始まった米軍機の本土大空襲は、その後たちまちのうちに日本全国の大中都市に広がり、毎晩のようにどこかの都市が焼夷弾攻撃を受けて焼き払われていった。
 首都東京は3回にわたる絨緞爆撃により、そのほとんどが灰燼と帰したほか、三鷹、八王子、千葉、横浜、川崎など大きな都市は真先きに焼き払われた。
 しかし、川越市は幸いにして大きな空襲を受けなかった。これは軍事施設や軍需工場が市内になかったことと、田舎の平凡な都市であったせいかも知れなかった。
 それでも何度かの空襲があり、そのうち何件かについては、人的にも被害があったようである。昭和20年6月、連雀町に2個の爆弾が投下され、この爆風により、一人が死亡し、翌7月には、東上線川越駅が数機の敵艦載機の機銃掃射による攻撃を受け、旅行者若干名が死傷したと言われ、また、同じ年東京近郊を空襲したB29爆撃機が川越市上空で火を吹き出し、高階村に墜落し、搭乗員達は住民に捕えられたと言う。
 このようにして、戦争はいよいよ破局に近づき、遂に昭和20年8月15日正午、天皇の終戦詔勅の放送をもって戦争は終りを告げたのである。この詔勅放送に一億国民がひとしく慟哭して、一時は只呆然として何をなすべきか、われを忘れてしまった。しかし、やがて戦禍の中から全国民が日本再建を目指して立ち上がったのであった。

「川越 子供の四季 〜先生との大正・昭和〜 國田正雄 1994年 ★★★
(7)空襲警報発令
 「空襲警報発令〜」という警防団の叫び声が走りぬけると、すぐにサイレンがなりひびく。夜はすべての灯火を消して発見されないようにし、町も村もまっ暗で、警報解除までじっとがまんしていた。
 ラジオが「B29の大編隊が相模湾上空を旋回中なり」と危急を叫び「関東地区に侵入中なり、軍官民は一体となり……」と同時に小型機が低空で襲ってくる。学校では授業を中止、生徒は直に下校させる。こんな事が何日もつづき、誰もが生死の境にいた。間断なく鳴りひびく空襲警報の下で生徒は急ぎ下校支度になる。私も黒須から沼端方面への生徒下校を引率した。黒須の中は家と木のかげだったが、田圃に出たとたんに、小型機数機の襲撃をうけ、練習した通りに、敵機の侵入方向と直角の方に逃げた。一回はかわしたが、反転してくるから、とにかく耕地を走りぬけようと、必死であった。その頃、入曽の学校も空襲を受け、玄関にとび出した校長先生が敵弾を受けて即死したことがあった。古谷から転勤され、着任直後の惨事であった。
 B29大型爆撃機の侵入も恐ろしかった。晴れ渡った空にただ一機、尾部に白く長い飛行機雲をひきながら、関東平野奥深く侵入していくのを覚えているが、日本の戦闘機も全く攻撃せず高射砲もうたなかった。「偵察かな」と話しあったが、数日のうちに、その方面は大爆撃を受けたようだった。
 坂戸方面にあった少年農兵隊宿舎に生徒を尋ねていった日は冬の雲の厚い日だったが、自転車で走る頭の上に、爆音が聞えはじめ、数分後に、腹にひびくズシーンという爆撃のひびきが続発してきた。B29は見えず、不気味なこと、この上もなかった。
 こういう時、いつも、この野郎、今にみていろという敵愾心がわいて、負けるもんかと自分に言いきかせるような私であった。
※掲示板で川越の空襲についての情報をお願いしたところ、軍曹さんより下記のような投稿がありましたのでご紹介します。
空襲についてです No: 108
投稿者:軍曹 03/10/16 Thu 18:37:56
昔のことを思い出してもらいました。今のホームラン劇場の裏に一発落ちたのは、覚えているとのことでした。あと、旧広瀬病院に機銃の跡が残ってたそうです。空襲警報は、結構あったそうです。市内ではこんなところだそうです。あと、近くにアメリカの飛行機が落ちてパイロットが蓮馨寺で見せ物になったそうです(下駄で殴ったという未確認情報も)。

「ニュース・エージェンシー 同盟通信社の興亡 里見脩 中公新書 2000年 ★
 同盟通信社とは昭和11(1936)年1月に発足し、太平洋戦争の敗戦を受けて、20年10月に姿を消した通信社のことである。明治から現在に至る日本の歴史の中で、唯一ロイター、APと肩を並べうる「国際通信社」としての実力を備えていた通信社である。しかし同盟には、「軍国日本の宣伝機関」というイメージが先行し、戦後も「大日本帝国の遺物」という歴史的位置付けしか与えられてこなかった。
 だが、同盟が「日本人自らの手で、日本の真意と実相を世界に報ずると同時に、世界各国の動向と実情を、わが国に伝える重要使命を担って生まれた国家代表通信社である」(同盟作成の「同盟の組織と活動」)という理念を掲げて誕生したことを忘れてはならないだろう。明治以来の通信社の歴史や同盟の理念が、戦争という狂気の時代の中で、どのように歪められていったのか、国がどのように関与したのかなどを冷静に検証すべき時が、いま到来したと考える。その悲劇や過ち、同時に先人の努力を見直すことが、日本人自らの手で情報を管理する組織づくりの方途を探る出発点となるのではないだろうか。このような思いを込めて、同盟を軸としたわが国通信社の歴史を振り返ったのが本書である。(はじめにより)
 
V総力戦
 1戦時報道体制
  情報の収集・分析
  (前略)
 次は「敵情報の傍受」である。東京・愛宕山の旧東京中央放送局建物内に、逓信省が設置した外国無線情報傍受所へ同盟から受信設備と社員を提供して傍受作業に従事し、さらに埼玉県の上福岡受信所でも傍受した。とくに重視したのがロイター電で、上海やシンガポールで傍受したものを東京へ送るなどの方法も採られている。しかし、相次ぐ空襲で愛宕山受信所は焼失して埼玉県の川越へ移転し、上福岡受信所の連絡線もいつ断絶するか分らない状態となり、終戦直前の昭和20年7月には、受信機などの機材を空襲下に荷車で世田谷区上北沢の個人の住宅に運び込んで受信所とした。個人の家を受信所とし、荷車で機材を運搬する様は、威栄を誇った同盟の最後を象徴している。
 受信語数は、先の表で示したが、昭和20年1月時点の1日当たりの詳細は、ロイター1万語、AP1万語、UP8000語、DNB1万5000語など通信社電、重慶からのロイター、UP、『ニューヨーク・タイムズ』ら特派員の本社への電信2000語、さらに米政府(戦時情報局)の対外公館への公電5000語、トランスラジオ社および米陸軍省前線向け電信放送5000語などを傍聴していた。トルーマン大統領の広島への原爆投下の発表やソ連の対日宣戦布告は、川越の分室で受信されている。
 傍受して収集した「敵性情報」の伝達はどのように行われたのか。後に見るようにポツダム宣言やソ連参戦など緊急性のある重要情報は、直ちに海外局長長谷川才次らが電話などで内閣書記官長、外相ら政府首脳に伝えた。これは個人的な関係で伝達したのではなく、政府への情報伝達が同盟の重要任務として位置付けられていたためである。
 また情報は、外信部と情報部が整理編集した。公表できる「一般情報」と公表差し止めの「機密情報」に種分けし、「一般情報」は外信部が翻訳して新聞社や放送協会へ配信した。「機密情報」は情報部により「(秘)英文海外特殊情報」と題して編集され、その中でも需要なものは翻訳された。同情報は、略して「特情」と呼ばれ、宮内省、外務省、陸軍省、海軍省、陸軍参謀本部、海軍軍令部などごく限られた機関に配布された。海外局次長情報部長を務めた井上勇によると、「特情」はわずか15部ほどしか印刷せず、「是非に」と要請があった高松宮も配布先に含まれた(『新聞通信調査会報』)という。また戦時調査室米州部長を務めた加藤萬寿男は「(特情には)番号を打ってあり、社内でも勝手に見ることはできませんでした」(別冊『新聞研究』)と語っている。
 さらに敗戦色濃厚となった昭和20年春ごろには憲兵の目を警戒し、「特情」は口頭で閣僚ら政府要人へ伝達された。ほぼ毎日午前9時、手拭いで鉢巻し、ワイシャツの袖を捲り上げた長谷川才次が、同盟本社内の会議室で4、5人の内信部員を前にし、ロイターやAPの原稿を片手に「いいか、これから話をすることはメモをとってはならん。だから手は机の上におけ。伝える人以外に絶対に話してはならん。そばに誰かいたら席を外してもらえ」と注意を与えて、翻訳した。内信部員であった田崎与喜衛は「大本営発表とは全く反対の内容で、憲兵に聞かれたら即座に拘束されるものばかりだった」(『新聞通信調査会報』)と振り返る。部員が要人2、3人を担当し、当時自由に使用できなかった社の自動車を特別に使い、伝達した。田崎は運輸通信相小日山直登と逓信院総裁塩原時三郎を担当したが、同年5月半ば、塩原から「君、もう来なくてもいいよ。話を聞いていると憂鬱になるだけだ」といわれたという。
 「機密情報」の量について、『通信社史』は「機密情報は入電量の3分1見当で、残り3分2は全国各紙および放送協会に配布されていた」と記しているが、編集局長を務めた松本重治は「入ってくるニュースの7割は新聞に載せられなかった」(『国際日本の将来を考えて』)と指摘している。

「原子爆弾 亡き夫に愛をこめて 武井武夫・冨美子・共夫 光陽出版社 1995年 ★★
日本の原爆文献第1号「原子爆弾」は発行たちまち20万部を記録、その歴史遺産的価値はいよいよ重くなっている。著者・武井武夫は、原爆投下直後、占領軍のきびしい検閲のもとで、都市部への原爆投下の非人道性を告発し、さらに核兵器廃絶を要求した気鋭のジャーナリストであった。彼の矜持に満ちた青春時代を描く「遠い日の断絶」、敗戦前後の日本を通信社外信部員としての目で描く「してぃ・おぶ・かわごーえ」、そして夫婦愛胸打つ妻の看病記録「燃えつきるまで」、オウム問題で活躍中の長男・共夫弁護士による「父と私」を収録。
  もくじ
はじめに ……………………………武井冨美子
原子爆弾 ……………………………武井武夫
してぃ・おぶ・かわごーえ ……………武井武夫
遠い日の断絶 ………………………武井武夫
燃えつきるまで ……………………武井冨美子
父と私―あとがきにかえて ………武井共夫
 
してぃ・おぶ・かわごーえ

 ▲目次  サイトマップ  トップページ  →  歴史(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  年表


作成:川越原人  更新:2020/11/02