江戸近郊都市・川越平賀源内の項で、「源内は秩父鉄鋼山の開発に際して川越藩とも関係があった」と記していますが、具体的な内容は書いてありません。
染谷家の事業に関心を抱いたのには、創業の経緯のほか、川越という立地拠点があった。
ちなみに近世都市としての川越の基本的な性格は城下町に、門前町、宿場町の要素が加わったものである。 川越城の築城は遠く太田道真・道灌父子によって15世紀半ばに行われた。
その後、上杉・北条の時代を経て、16世紀末、徳川家康の関東入国とともに、酒井重忠がこの地に封ぜられる。 重忠入封当時1万石だった川越藩は、柳沢吉保の時代には11万石にもなる。 兵農分離などの政策が実施され、家臣団と商人・職人の城下集中により、町場の骨格がつくられた。
さらに天海僧正で有名な喜多院ほか諸寺も配置され、門前町としての資格も備える。 藩主は、酒井のあとに堀田正盛、松平信綱が入るなど、川越藩は、江戸の北方の重要な固めとして、忍藩とともに重視された。
元禄11年(1698)の史料によると、川越十ヶ町とその周辺の家数985、人口5946とある。 単に城下町であるだけでなく、陸上では川越街道、水上では新河岸川舟運によって、江戸との関係が深く、商工業も発達、小江戸の名で呼ばれるようになる。
ちなみに新河岸川は、正保4年(1647)松平信綱によって開かれた。ここを夜舟出すると、浅草、深川、日本橋あたりに明け方に到達できる。
このような経路により、江戸の風俗は、いち早く川越に伝えられた。染谷家も、この状況に乗じて、業容を拡大し、江戸との関係を深めたのである。
『川越市史』(資料篇近世U)によると、川越の商業では、十組問屋仲間が勢力をもっていた。 これは江戸の問屋連合にならい、業種ごとに商人を一番〜十番の組に入れ、各組から1名の大行事を選び全体を統括した。
現在、確認できるのは、一番組=油仲間、三番組=照降仲間、五番組=釘鉄鋼物打物仲間、六番組=塩・干鰯・糠屋仲間、七番組=魚屋仲間、八番組=餅菓子仲間、 十番組=米仲買・穀問屋・味噌糀・材木・炭・搗米・建具・曲物各仲間の混合である。
しかし、ここには、川越の商業として重要な位置を占める呉服太物類が入っていないし、染谷家の家業もこの分類ではわからないが、慶応2年(1866)の町方資料によると、 蝋燭仲間加入届書が残されているので、一つの仲間組織があったとみてよい。日常生活のレベル・アップにともなう商業経済の発展と、その組織化の傾向がこれによってうかがわれる。
近世の埼玉県域は、経済的にも政治的にも江戸の吸引力のもとにあったため、他県域にみられるような大きな「城下町」の発展はなく、川越以外は小城下町が形成されているにすぎない。特産物と地場産業
現在の川越は「蔵造りの町」として知られているが、これは城下町として繁栄を誇った往時の商家群を示すものである。もっとも現在遺っている蔵造りの店舗は、明治二六年の川越大火以後のものであるが、「小江戸」の名が冠されるように、江戸時代の川越は県域内第一の商工業都市であった。
城下町として整えられたのは、寛永一五年(1638)に堀田正盛が城主であったとき大火にあい、翌年松平信綱が入封し、城下町を大改造したときに始まっている。信綱は城郭を拡張し、武家屋敷の整備を行っているが、併せて町人町の町割も行っている。このときの町割によって町人町が形成されるが、その中心は上・下の一〇カ町と四門前町であった。上五カ町は、江戸町・本町・南町・喜多町・高沢町で、下五カ町は上松江町・多賀町・鍛冶町・鴫町・志多町で、四門前町は養寿院・行伝寺・蓮馨寺・妙養寺の門前町である。ところがその後の城下町の発展によって、隣接する郷村も都市化され町分に加えられることになる。元禄一一年(1698)の記録によると、下松郷・久保宿・猪鼻町・六軒町・杉原・堺町・石原宿などの郷分町があげられている。
町人町の人口は、元禄一一年には一〇カ町の家数三一八軒、うち店数二七九軒、人口二八二四人、郷分町の家数六六七軒、人口三一二二人である。幕末の慶応三年(1867)には、一〇カ町の家数六〇八軒、四門前町の家数二三二軒、人口は合わせて男二三一二人、女二一七四人となっている。これらの家数からも、城下の町人町が発展していったことを知ることができる。
川越藩の町方行政は、町奉行の下で行われることになるが、町方からは二ないしは三の町年寄がきめられ町全体を束ねている。町年寄には、町方草分けの加茂下与一右衛門家と、水村甚左衛門家が代々襲っている。
川越の豪商としては、前で述べた榎本弥左衛門などがいるが、江戸時代後期には関東随一の富商といわれた横田五郎兵衛がいる。
横田家は明和年間には酒・醤油販売を手広く行い、寛政三年(1791)には藩の御用達を命ぜられ、町年寄格となっている。翌四年には藩から知行三〇石を与えられ、文政二年(1819)には五〇〇石の士格に取り立てられている。
このような厚遇は藩への莫大な用立金のためであるが、文化九年(1812)から文政七年(1824)には、川越出金高三万二〇〇〇両余、江戸出金高二万二〇〇〇両余となっている。そして天保一五年(1844)までの出金高の合計は、六万四〇〇〇両余というたいへんな金額となっている。これに対し川越藩の返金はわずか九二五両のみであり、さすがの富商横田家もこれを契機に家運を傾けることになる。
(前略)
秩父絹や県域西南部の青梅縞と並んで、川越絹もさかんに取引されている。「川越斜子」「川越平」などとして知られているが、甲州の郡内地方から川越城主秋元但馬守が宝永元年(1704)移封のとき、郡内織の技術を持ち込んだといわれる。川越絹は川越町人によって織られ、高級な織物として江戸でも取引されているので、農村で製造される秩父絹や青梅縞とはやや異なった織物となっている。
政府は、明治五年十一月、国立銀行条例を定め、民間資本によって紙幣発行をおこなわせ、それまで乱発されていた不換紙幣の回収をして通貨の正常化をはかろうとした。これにもとづいて翌六年、小野組・三井組などの資本をもとにして東京に第一国立銀行が開設され、県出身の渋沢栄一もその総監役になった。しかし、この条令は金貨兌換などのきびしい条件がついていたために、全国でわずか四銀行しか開設されなかった。このため明治九年、条令を改めて兌換条件などを緩和したので、全国で国立銀行開設の機運が高まり、数年の間に一五三行が開設され,日本の資本主義的発展のうえに大きな役割をはたした。これは、全国で八五番目に認可された川越第八十五国立銀行の創立願書である。当時川越およびその周辺には、江戸期以来の豪商・地主が多く、これらが主体となって開設を出願したものである。資本金二〇万円のうち約半分は士族禄であるが、士族一人当りの出資は零細なものが多く、大株主は地主や商人であった。したがって開設にさいしては、黒須喜兵衛(頭取)や綾部利右衛門・横田五郎兵衛など、地元の豪商や地主が重役に就任した。
『武蔵国入間郡川越南町百七拾七番地ニ於テ、士族禄並正金加入ノ者ヲ募リ、資本金弐拾万円ヲ以テ銀行創立仕リ度、御願申上候(以下略) 明治十一年三月 』
この銀行は発足以来、条令にもとづいて一六万円の紙幣発行をおこなうとともに、一般貸付もおこなって堅実な経営がつづき、翌明治十二年六月の決算では一万三〇〇〇余円の利益をあげ、一割二分の配当をおこなったという。当時、県内に多数の銀行類似会社があったが、多くは高利貸まがいのもので、大資本による本格的な銀行は県内はじめてであったから、地域の信頼もあつかったのであろう。
ところで、全国に数多くできた国立銀行が、それぞれ民間資本を集めて紙幣を発行したことは、産業開発のうえでは大きな貢献をしたが、反面、インフレーションの傾向をますます深めた。このため松方正義が大蔵卿に就任すると、反対に金融引締め政策をとり、その手はじめとして日本銀行条令を定め、紙幣発行は日本銀行一手でおこなうことになった。このため、第八十五国立銀行も以後は普通銀行となり、明治三十一年には名称も単に第八十五銀行と改められた。この間、業績は着々と伸び、熊谷・秩父・本庄・松山・志木など県内各地に支店をもつようになり、資本金も一〇〇万円に伸び、その後も他の銀行を合併したりして資本金を増しながら、第二次大戦中、一県一行主義により、埼玉銀行として統一されるまで、約六五年間存続した。
県内の銀行の歴史は明治十一年十月十五日設立の「第八十五国立銀行」から始まる。全国八十五番目の銀行で、国立とはいっても官営ではなく、国の法令(国立銀行条例)に基づいて設立された民間資本による民営会社だった。発起人は川越町内の旧川越藩御用商人や近郷の富農ら十六人。資本金二十万円、一株の額面百円。川越町南町にあった横田五郎兵衛の屋敷の一部を借りて開業した。初代頭取は川越町の呉服商、黒須喜兵衛だった。
担保に不動産ダメ
開業当初の職員は六人、翌年十二人、その後は二十人前後で落ち着いた。営業内容をみると他府県の銀行同様、主に資本金を貸し付けて運用する貸金会社のようなものだった。それでも土地・建物など不動産では金を貸さなかった。
その背景を同行最後の頭取で現埼玉銀行相談役の山崎嘉七(九二)――川越市松江町――は「有価証券ならば借金を返せない場合、ただちに売買できる。土地家屋は抵当に入っていても人が住み、利用している場合もある。これを売る訳にはいかなかったからでは?」と話す。
また、銀行利用が日常化していない当時、庶民はもっぱら頼母子講や質屋を利用、銀行と取引をするのは地主や一部の富有な人だけに限られていた。行員の接客態度も、相手の名前を呼び捨てにし「金を貸してやる」という高姿勢なものだった。
実際の取引客が少なかったにもかかわらず、他行以上に慎重な貸し付けを行っていた同銀行の経営は順調に進んだ。しかし、預金はなかなか伸びず資本金と同額になったのは明治三十年。設立から実に十九年を要した。預金の習慣がなかったこともあるが、資金を個人的に貸し付けに回すほうが銀行利息よりずっと効率的だったからだ。
乱立した私立銀行
第八十五国立銀行設立の翌年に国立銀行の開設は許可されなくなったが、国立銀行条令に基づかない私立銀行は県内各地に雨後の竹の子のように乱立した。明治十三年一月、川越銀行、同十四年六月に埼玉銀行(鴻巣――現在の埼玉銀行とは別)、同十二月には松山銀行(東松山)など、明治末まで記録に残っているだけで六十九行にも上った。
とくに第八十五国立銀行が私立に改組され「株式会社第八十五銀行」となった明治三十一年には忍貯金銀行(行田)、久喜銀行(久喜)、所沢貯蓄銀行(所沢)、埼玉農工銀行(浦和)など実に十一行が開業するラッシュぶり。また、八十五銀行の最大のライバルとなる武州銀行が大正七年十一月に設立された。
強まった金融統制
これらの多くは資本金も小規模で経営基盤も弱かった。政府は銀行の健全化、預金者の保護のため銀行合同を進めていたが、昭和十二年七月、日華事変を契機に金融統制の手段として一県一行主義を強行した。昭和十七年に県内に本店を持つ普通銀行は、武州、第八十五、忍商業、飯能の四銀行だけとなった。
18年に埼銀が発足
同年夏、大蔵省は検査官を派遣して四行に合同を進めた。営業上は戦争≠していたが、武州頭取の永田甚之助と第八十五頭取の山崎は、私生活では山崎の娘の結婚式で永田が仲人を務めたことから関係は良くなっていた。両頭取は双方の自宅や互いの役員室で合併について話し合った。「将来を考えると現行の名前を残すのは吸収合併の印象を与えてまずい」「双方が解散しよう」ということで一致。名勝は「埼玉銀行」と決まった。資本金一千五百三十六万円、七十八店舗と千二百人の行員を擁していた。永田が頭取に納まり、「八十五銀行の解散とともに仕事は終った」と思っていた山崎も副頭取に推され就任。昭和十八年七月一日。サイギン≠ェ第一歩を踏み出した。
追 記
(略)
「もうすぐ3時になりますから、鐘が鳴りますよ」と、ひさしの低い店の中から、斜め上を見上げるように首を曲げて、おばあさんが教えてくれる。
小さな団子屋さん、炭火の上に醤油のたれが落ちて、香ばしいにおいが通りにまで流れてくる。
小江戸とよばれる川越の象徴のように、本や雑誌などに必ず登場する時の鐘――それは、川越の街の人々にとって、今でも生活の大切な区切りとなっているようだ。
「3時の鐘が鳴る頃には、たいてい売り切れてしまうんですよ」おばあさんは、朝6時の鐘から仕度を始めて、できただけのだんごが売れてしまうと、そこで店じまい、という生活を、「もうずっと昔から」つづけているだのという。
その昔≠ェ、20年や30年でなく、「3代ぐらい前から」というあたり、川越の街の歴史がしのばれておもしろい。
時の鐘≠フ近くの通りには、蔵づくりとよばれる、どっしりした土蔵づくりの店がいくつも残っている。
呉服屋、金物屋、せともの屋、菓子屋……ほとんどが4代、5代つづいて、同じ商売をしている。江戸時代からこれらの豪商たちには、苗字を許されている人が多く、御用商人として、城の表玄関から、大手をふって出入りができたのだという。江戸時代には、埼玉県でいちばんにぎやかな、商業のかんだった街ですよ。山崎嘉七さん(前出)は、老舗の菓子屋<亀屋>の6代目である。そういえば、すぐ近くにある金物屋<まるかん>のご主人も、新河岸川の船問屋<伊勢安>の斎藤さん(前出)も、やわらかな物腰と、上品な言葉づかいが印象的だった。
川越の歴史はご存じでしょうが、酒井忠勝、松平信綱、柳沢吉保という幕府のえらい人が、川越藩の城主になって来ているので、江戸との関係が深いわけですね。川越街道、新河岸川と、陸路でも水路でも、江戸に直結しているから、県内の物資がみなここに集まって来た、その名残りが、蔵づくりなのです。
気がつかれましたか、古いご商売の家のお年寄りと話をされると、みな言葉がきれいでしょう?
周辺の農村地帯の言葉とは、ずいぶん違う。このあたりにも、江戸と直接結ばれ、あるいは、藩を相手に商売をしていた伝統と格式がうかがわれるようだ。御維新でお城がなくなっても、商人は金を持っていましたし、商業の中心地という勢いはそのまま残ってましたからね、県下で最初の銀行が川越にできたのも当然の動きだったようです。第八十五銀行が開業したのは、明治11年、発起人のほとんどが、地元の商人と地主だったという。
そのあと、商工会議所ができたのも、県下で川越が一番先ですよ。そういえば、たしか電灯がついたのも川越が最初のはずです。
初代の頭取になった黒須善兵衛は、陸奥大掾(むつたいじょう)の位をもつ呉服屋、山崎さんの祖父は、はじめは取締役支配人、のち明治25年に、二代目頭取となって、亡くなるまでの20年間、菓子屋の主人と銀行頭取の二足のわらじをはきつづけていたという。商人にとっては、肩書きや名誉よりも、商売が大事ということは、よくいわれていました。わたしの祖父は、亡くなるまでずっと、自分は菓子屋だと誇りをもっていましたよ、店にいるかぎりは、かまどの前に立って、鍋の中のあんの煮え具合をのぞいていました。山崎さんは、90歳を越えても、まだまだ腕は確か、若い者には負けない自信があるという。だから、ときには、小言がでてしまうそうだ。
そんな風ですから、わたしが小学校を卒業した時にも、菓子屋の息子は、学問よりも菓子の修行が第一といわれましてね、当時、川越に第三中学があったのですが、東京・本郷にある古い格式の高い菓子屋さんに奉公にいかされました。
まあ、あの頃は、中学へ進む人は少なかったですけど、それでも、経済的にゆとりのある人は中学へ、という考え方が強かったですからね、やはり行きたかったですよ。
ところが、奉公に行って、朝早くから拭き掃除ばかり、手にひびが切れて、血がにじんできましてね、帰りたい、帰りたいと思っていたら、埼玉新聞だか、国民新聞だかに、頭取の孫が丁稚小僧になった≠ネんて書かれてしまって、もう、そうなると帰れません、辛かったですけど、歯をくいしばってがまんするしかない……。
繁栄していた商業の街・川越の曲がり角は、明治15年の高崎線開通計画だった。川越の町のなかを通過する計画を有力者が拒否、高崎線は、浦和・熊谷を通って開通することとなった。
つづいて、東北線の開通計画が出されたが、これは、はじめ浦和から岩槻を経て宇都宮へのびるはずだったが、岩槻が強硬に反対、逆に大宮は積極的に誘致にのり出して、18年、大宮・宇都宮間が開通した。
こうした経過をたどって、以後、大宮は、埼玉県内の交通機関の中心として発展するようになり、川越と岩槻は、繁栄からとり残されることになってしまったのだ。いわゆる新時代への動きに乗りおくれたということで、それまで、何かにつけ川越が一番と思いこんでいた人たちにとっては、かなり、あせりを感じたようです。<まちかん>金物店の宮岡正一郎さんは、子どもの頃の思い出に、「朝でも昼でも、家族全員そろって食事をしたことがない」商売の辛さを話していた。老舗の呉服屋のご主人は、「番頭や小僧が10人もいたのに、荷物かつぎとなると、息子の自分が真っ先によばれ」た記憶があるという。――いずれも、古い商家の店が大事≠フ考え方と、躾の厳しさを示すものなのだろう。
その後、国分寺との間に西武鉄道が敷けたり、大宮との間にチンチン電車が走るようになったりしたのですけど、やはり幹線からはずれたことは致命的だったということでしょう。
市制施行にも県下で最初(大正11年)にふみ切ったりしたのですけど、どうも、おくれをとりもどすには……。
もっとも、そのおかげで、昔のままの良さを残せたともいえると思いますよ。
蔵づくりの街並み保存ということをよく話題にされますけど、商店の中をみてごらんなさい。客がいない時でも、主人がきちんと店先にすわっているところが多いですよ。昔からの商家じゃどこでも、主人が朝一番早く店に出て、前を掃除し、打ち水をしたりしてるはずです。
川越市内に<菓子屋横丁>と呼ばれる一角がある。
直径1センチもある大きなアメ玉や、細くけずった竹串にさしたダルマ形のアメ、モナカの皮のように薄く軽い煎餅など、昔なつかしい駄菓子を売る店が何軒か並んでいるのだ。どこも、土間の一部が店先になっていて、その中で、夫婦二人が、アメを煮たりしている。
昭和の初め頃には、70軒ほどの駄菓子屋が軒をつらね、県内はもちろん、八王子・青梅方面や、栃木・群馬・長野などからも買いに来る人が多かった。すべて手づくりでやっていたのですよ。東京の神田や浅草の菓子問屋が、震災で焼けたあとは、仕入れに来る人もふえましてね。ところが戦後、何でもかんでも機械で作るような時代が来て、それでも頑固に手づくりをつづけていた結果、製造量がうんと減ってしまいましてね、残念ながら、今は細々と数軒でやっている程度になってしまいました。と語る山崎さんの店は、7代目の今日までの間に、数年間店を閉めたことがある。戦中・戦後にかけて、砂糖や上質の小豆が手に入らなくなった時のことである。
実際には、裏から材料を流してやるから作るようにという人もあったが、山崎さんは、それをことわって店を閉めた。そりゃあ辛かったですよ。でも、ヤミをやるのはいやでしたし、だからといって、代用品を使って作るのもいやで……。山崎さんは、その時、遠くを見るように悲し気な表情をみせた。
裃を着て、黒い漆塗りの箱を番頭にかつがせて、城中に菓子をおさめに行ったという誇りを、子どもの頃から教えこまれていたのですから、店を閉めるのは、死ぬほど辛いことでしたよ。
でもねぇ、どうも、川越の商人は、要領が悪いというのか、融通がきかないのか……。
年 代 | 西 暦 | 表 題 | 文書番号 | 採録 | |
1 | 文政7年6月〜同8年4月 | 1824〜25 | 御用触日記 | 6 | 『川越喜多町名主 御用日記1』 |
2 | 文政8年3月〜同9年8月 | 1825〜26 | 御用日記 | 7 | |
3 | 文政10年8月〜同11年2月 | 1827〜28 | 8 | ||
4 | 文政11年正月〜同11年11月 | 1828 | 9 | ||
5 | 文政11年11月〜同12年12月 | 1828〜29 | 10 | ||
6 | 文政13年正月〜天保2年2月 | 1830〜31 | 11 | ||
7 | 天保2年3月〜同4年4月 | 1831〜33 | 12 | ||
8 | 天保4年5月〜同6年2月 | 1833〜35 | 13 | 『川越喜多町名主 御用日記2』 | |
9 | 天保6年正月〜同7年7月 | 1835〜36 | 14 | ||
10 | 天保9年正月〜同10年7月 | 1838〜39 | 御用記録 | 15 | |
11 | 天保10年7月〜同12年4月 | 1839〜41 | 公用日記 | 16 | |
12 | 天保12年4月〜同14年正月 | 1841〜43 | 御用日記 | 17 | |
13 | 天保14年2月〜同15年正月 | 1843〜44 | 18 | ||
14 | 天保15年正月〜弘化元年12月 | 1844 | 19 | ||
15 | 弘化2年正月〜同3年2月 | 1845 | 20 | 『川越喜多町名主 御用日記3』 | |
16 | 弘化3年正月〜同4年7月 | 1846〜47 | 21 | ||
17 | 弘化4年8月〜嘉永2年2月 | 1847〜49 | 22 | ||
18 | 嘉永2年正月〜同3年正月 | 1849〜50 | 23 | ||
19 | 嘉永3年正月〜同4年12月 | 1850〜51 | 24 | ||
20 | 嘉永5年正月〜同6年正月 | 1852〜53 | 25 | ||
21 | 嘉永6年正月〜同年12月 | 1853 | 26 | ||
22 | 嘉永7年正月〜安政2年2月 | 1854〜55 | 28 | 『川越喜多町名主 御用日記4』 | |
23 | 安政2年正月〜同3年5月 | 1855〜56 | 29 | ||
24 | 安政3年11月〜同5年6月 | 1856〜58 | 30 | ||
25 | 安政6年正月〜万延元年6月 | 1859〜60 | 31 | ||
26 | 万延元年6月〜文久2年4月 | 1860〜62 | 32 | ||
27 | 文久2年5月〜元治元年8月 | 1862〜64 | 33 | ||
28 | 元治元年8月〜慶応3年3月 | 1864〜67 | 34 | 『川越喜多町名主 御用日記5』 | |
29 | 慶応3年3月〜明治4年10月 | 1867〜71 | 35 | ||
30 | 嘉永6年4月〜同年12月 | 1853 | 取締日記 | 27 | |
31 | 文政6年正月〜同7年6月 | 1823〜24 | 御用日記 | ||
32 | 天保7年7月〜同8年12月 | 1836〜37 | 公用日記 |
北条氏の検地方法
1577(天正5)年に武蔵国入間郡府川(ぬのかわ)郷(埼玉県川越市)で実施された検地を例に、村高・年貢額・知行高それぞれの計算方法をみてみよう。
検地の結果、同郷の田の総面積は14町5段小10歩(=145.36段)、畠の総面積は24町2段半30歩(=242.58段)と把握され、それぞれの等級は、田が上田、畠が中畠と認定された。
まず田の総面積に段別の基準貫高(この場合、上田なので500文)を乗じる。
145.36段×500文=72680文=72貫680文……@
これが同郷の田の貫高である。
つぎに畠の総面積に段別の基準貫高(この場合、中畠なので165文)を乗じる。
242.58段×165文=40026文=40貫26文……A
これが同郷の畠の貫高である。
つぎに田の貫高(@)と畠の貫高(A)を合計する。
72貫680文+40貫26文=112貫706文……B
これが同郷の村高となる。府川郷の住民はこの村高、すなわち112貫706文を基準に北条氏に諸税を納めたのである。しかし、112貫706文はあくまでも村高であって、これがそのまま年貢になるわけではない。年貢額は村高から農民の生活、再生産に必要な諸経費(控除分)を差し引いたものであり、府川郷の場合、20貫文の控除が認められている。
したがって、府川郷の農民が実際に領主に納める年貢額は。
112貫706文−20貫文=92貫706文……C
となる。そしてこの92貫706文という年貢額が、同時に府川郷の領主が北条氏に対して軍役をつとめる基準、すなわち知行高となるのである。
これまでにない種類の番付である。番付に登場する東西の大関以下の人物について、私は何も知らないし、調べようもないからだ。これまでの番付では、東西の大関あるいは相応の地位にある事物についてある程度の知識があるか、わからない部分は調べることができたが、今回はほとんどわからない。
何よりもまず<拳>(けん)て何だ、との質問を受けそうだが、これはいうまでもなく、人が手を握った時のこぶし、拳固(げんこ)の拳である。テレビアニメの格闘技では、何とか神拳とかいうのを使うやたらと強いカラテの名人のような武人が登場し、気力で風を巻き起こしたり火を吹いたりして戦うが、江戸の拳はあんな荒っぽい技ではない。拳は拳でもジャンケンの拳だから、まことに穏やかなのだ。
ジャンケンと書いたが、この番付はもちろんジャンケンではない。ジャンケンは、石(ぐー)、紙(ちょき)、はさみ(ぱー)の三種類の形を手で作って勝敗を争う単純なゲームだが、技というよりもほとんど運だけで決まる単純な拳だ。
これに対して、江戸時代に流行した拳は複雑な心理ゲームで、主流となるのは<数拳>(かずけん)という分類に入る遊びで、本拳と呼ぶのが普通だった。もともとは、長崎にいた中国人から伝わったため、唐人拳あるいは長崎拳とも呼んでいたし、勝負を拳相撲(けんずもう)ということもあった。見かけが単純なわりに難しいところが受けて大流行し、さまざまな見立番付ができるほどになった。同じような番付は大坂にもある。
しかし、最初に書いたように、これかご紹介する番付に登場する人物を、私は誰一人知らないし、これが江戸全体の番付なのか、ある地域だけのなのかもわからない。したがって、今回はそれぞれの人物ではなく、拳という遊びの説明が主になる。
番付のタイトルは『武州 拳相撲』である。もともと、拳は相撲に見立てて「打つ」つまりプレーする場合があったらしく、拳盤という小型の土俵や、拳まわしという化粧まわしのような飾りを手につけた絵も残っているばかりか、力士になぞらえて拳士という呼び方も普通だった。相撲見立ての番付としてはごく自然な形なのだろう。珍しく、「弘化5年(1848)戊申正月上梓」、「板元 東」と刊行年、出版元の名まで明記してある。
タイトルに武州とあるが、武州つまり武蔵国とは、現在の東京都全体と埼玉、神奈川両県の一部だから、大坂ではなくて江戸中心の番付であることは間違いない。タイトルの下には、大相撲の興行日になぞらえて「高沢町於東草庵不論晴雨毎日稽古仕」つまり「高沢町の東草庵で、晴雨にかかわらず毎日稽古している」と書いてあるが、高沢町がどこなのかわからない。
高沢町に限らず、この番付の拳士たちの出身地、鴫(しぎ)町、小ヶ谷、蓮門(れんもん)町、タカ丁、志タ町、キタ丁などはいずれも江戸の地名ではない。カジ丁、本町など実在の町名も少しあるが、これらの町名は、仲間うちだけで使っていた場所の符丁らしい。
その下の行司には、東よし雄以下14人、世話人、勧進元にはそれぞれ2人の人物の名前が出ている。拳の道では大物だったのだろうが、どんな人で本職が何だったのか、今となってはまったく不明で、調べる手掛かりさえない。
番付中 | 江戸時代 | 現在 | 人数 |
志タ町 | 志多町 | 志多町 | 1 |
キタ町・キタ丁 | 喜多町 | 喜多町 | 4 |
本町・本丁 | 本町 | 元町1丁目 | 7 |
高沢町・高沢丁・高サハ・タカサハ | 高沢町 | 元町2丁目 | 22 |
ミナミ丁 | 南町 | 幸町 | 1 |
タカ丁 | 多賀町 | 幸町 | 1 |
カジ丁 | 鍛冶町 | 幸町 | 5 |
エト丁 | 江戸町 | 大手町 | 1 |
鴫町・シギ丁・シキ丁 | 志義町 | 仲町 | 8 |
松江丁 | 松江町 | 松江町1丁目ヵ | 1 |
蓮門町・レン門・レンモン | 蓮馨寺門前町 | 連雀町 | 6 |
五ヶ丁 | 五ヶ町 | 3 | |
石ハラ | 石原町 | 石原町 | 3 |
小ヶ谷 | 小ヶ谷村 | 小ヶ谷 | 5 |
川コエ・川コヘ | 川越 | 川越 | 35 |
川越計 | 103 | ||
小川 | 小川 | 小川町ヵ | 3 |
江戸 | 江戸 | 東京 | 35 |
判読不可 | 2 | ||
合計 | 145 |
さて、本拳とはどんな遊びだったかというと、向かい合った2人が同時に方手を出すところはジャンケンと同じだが、石、はさみ、紙の形ではなく、それぞれ指を1本から5本まで出す。数が多い方が勝つのなら、ジャンケンより単純で面白くないが、指を出すと同時に、相手が出す指の数を予測し、2人の出す指の合計を声に出していうのだ。
たとえば、自分が2本出すつもりで、相手が3本出すと推測したら、「5」と声をかけながら2本出す。相手が何本出すわからないが、これまでの傾向や表情などから読み取って当てるのが技術であり、そのむずかしさが面白いのである。
しかも、本拳の梅場合は、声に出していう数を、イチ、ニ、サンという日本語の数詞ではなく中国ふうに読んだので、当時としてはエキゾチックな感じがした。中国語ふうといっても、ちゃんとした中国語ではなく、1をタニ、2をリャン、3をサンナ、4をスウ、5をウウ、6をロマ、7をチャマ、8をハマ、9をキュウ、10をトウライ、ゼロをナシと呼んだ。
具体的にいうなら、自分は5本出し、相手も5本出すだろうと思えば「トウライ」といいながら打つ。その時、相手が3本出しながら「ハマ」といえば、結果は合計8本だから、相手の勝ちになる。自分は1本も出さない、つまりぐうの形にするつもりで、相手は2本出すだろうと推定すれば、「リャン」といいながら打つ。相手は、こちらが3本出すだろうと推定しながら2本出して「ウウ」といえば、結果は合計2本だから、こちらの勝ちとなる。
こんな方法で勝ち負けを決めても、結果は単純なジャンケンで決めるのと大差ないような気がするが、実際は、素人が名人と対戦したのではほとんど勝てなかったそうだ。未経験者が考えると、こんなゲームを練習すればうまくなるということさえ不思議な気がするが、文化6年(1809)刊行の『拳会相撲図会』には、プロを目指す拳士が「拳を上達せんと思わば、毎日拳数を5、600拳もつとめて、日数を60日ばかりも打て」それから10日休んでまた60日打つというように修行すれば「自然と上達」すると書いてある。
ただ勝ったり負けたりするだけではなく、酒席では、負けた方が罰杯として一杯飲まされる。酒席に侍する芸者などは、拳が弱ければ大量の酒を飲まなくてはならないので、師匠について真剣に稽古した。
拳は昔からあった遊びで、もっとも古いのが奈良時代からある<虫拳>(むしけん)だ。これは、人差し指が蛇、親指が蛙、小指がなめくじを示す。蛇は蛙に勝ち、蛙はなめくじに勝ち、なめくじは蛇に勝ついわゆる三竦(すく)みの形だから、原理的にはジャンケンと同じである。
江戸時代には、虎拳(とらけん)というのもあった。これも三竦みの一種で、屏風を中にはさんだ2人が唄を歌いながら、虎と、虎退治で有名な和唐内(わとうない)と、和唐内の老母の三役の内の一つを演じつつ顔を合わせる。英雄豪傑の和唐内も自分の老母には勝てない。3人が次々に役を変えて勝負するためには、演技力が必要なので面白い。
やはり演技で勝負するのに狐拳(きつねけん)があった。狐、庄屋(名主)、猟師のふりをして勝負する。狐は庄屋をだませるが、庄屋は猟師より偉く、狐は猟師の鉄砲にはかなわないという三竦みだ。幕末期から明治にかけては、狐拳を複雑にした藤八拳が大流行した。
かなりむずかしいルールなので説明は省略するが、藤と東は音読みにすると同じトウになる。トウとアヅマと訓読みして、拳士には、拳名を東何々と名乗る人がいたそうだから、今回の番付に登場しているのは、本拳ではなく藤八拳の拳士かもしれない。しかし、たとえどの拳であっても、拳士たちの本名や本職がわからないことは同じなので、ここでは拳相撲番付の代表として採用した。
198 川越競馬場
商工会議所所報の昭和九年の項に、第一回川越競馬会が1月15日から18日まで開催されたとある。場所は現在の市立商業高校の南方だが、町名でいうと新宿町六丁目と旭町三丁目にまたがっている。広さは縦七百米、横三百米、一周千七百米位あった。観客スタンド、事務所のほかに厩舎その他附属の建物があり、一隅には馬頭観世音の石碑まで立っていた。
199 川越競馬場
この競馬場は太平洋戦争がはじまる少し前まであったが、川越でもずい分血道をあげた人が多く、馬券は一枚一円だったという。かなり遠方からも客が来て市内の各旅館に溢れたが、前夜のうちに宿泊料を集めないと、取りはぐれる危険があったそうだ。年寄りに聞くと川越にはこの競馬場ができる以前にも、今成の熊野神社の北方に草競馬があって、結構面白かったという話である。
「川越競馬」の開催は二期に分かれる。前期は昭和4年から6年、後期は昭和8年から12年までである。「埼玉県競馬史」によると、前期のそれは通称「赤松園の競馬」と呼ばれ、入間郡田能沢村今成(現川越市今成町)に幅20メートル、長さ1000メートルのコースをつくった。これは時田伝左衛門(後に入間郡畜産組合副組合長となる)が自費で建設したという。後期は場所を川越市新宿に移し、1マイル(約1600メートル)の本格的なものとなっている。「川越商工会議所七十五年誌」によると、競馬ファンが殺到し活況を呈した。競走種別は駈走、速歩で障害レースは行わなかった。クラス付けは「大関」「関脇」などは付けず、甲、乙、丙、丁の四階級に分け、丁が一、二、三級に区分され、もちろん甲は最高位クラスである。1日35頭、1レース平均11頭が出走し、朝9時半から夕方5時まで12レースを行っていた。 (斎藤)