川越舟運(新河岸川舟運)


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舟 運
「みて学ぶ埼玉の歴史」 『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編 山川出版社 2002年 ★★
近世/平野の開発と村・町の成立
  ・新河岸川舟運の盛衰
 新河岸川舟運の始まりは、1638(寛永15)年川越東照宮が焼失し、再建資材を江戸から運んだことによる。本格的に舟運開始されたのは、松平伊豆守信綱が川越藩主になってからである。川越五河岸(上・下新河岸・扇・寺尾・牛子)をはじめ、下流に多くの河岸場が開設された。当時、川越藩の年貢米輸送を主要な任務としていたが、年貢米を輸送した帰り荷には、周辺畑作地帯への肥料供給のため肥灰(こえはい)・糠(ぬか)などを積むようになり、しだいに農村部との結びつきを強めていった。
 古市場河岸(川越市)と対岸の福岡河岸(上福岡市)からは三本の河岸道が開かれた。大井・扇町屋(入間市)・飯能、そして青梅へと通じる扇町屋道。亀久保(大井町)・所沢への三ヶ島街道。そして川越街道を経て江戸へ通じる江戸道である。これらの道を通って飯能方面から炭が運ばれたり、野方(のがた)と呼ばれる畑作地帯のサツマイモなどの作物が河岸へと運ばれた。一方、河岸からは日用雑貨や肥料が畑作地帯に運ばれた。江戸時代から葛西船(かさいぶね)と呼ばれた下肥船が新河岸川を往来し、沿岸の船問屋の中にはこの肥料を専門に扱っていた店もあった。福岡河岸は、天保年間には三富新田(三芳町)や武蔵野開発による農業生産力の向上によって、大いに繁盛した。河岸には、馬方や近在農民を相手に雑貨屋や足袋屋などの商家。鍛冶屋などの職人の店が形成されていた。
 舟運の最盛期は文化年間(1804〜18)から明治期にかけてであり、明治の中頃までは重要な輸送機関として貢献した。しかし、1895(明治28)年に国分寺・川越間に鉄道が開通し、さらに1914(大正3)年に新河岸川に沿うように東武東上線が開通すると、河岸問屋は荷物輸送に鉄道を利用するようになり、駅前に運送店や肥料店を開業するようになった・鉄道開通で乗客を奪われた回漕店(かいそうてん)では、カラー刷りの広告を出して防戦につとめたりした。1920(大正9)年に新河岸川河川改修工事が始まり、川の蛇行がなくなり直線になると、かつての水量が保てなくなった。ついに1931(昭和6)、通船停止の県の命令が出されることによって、新河岸川舟運は幕を閉じた。
 参考文献 斎藤貞夫 『川越舟運』 さきたま出版会 1982
        『上福岡市史 民俗』 1997

「新河岸川舟運の生活と文化」 斎藤貞夫 川越市文化財保護協会 1995年 ★★★
  −目 次−
新河岸川舟運のあらまし
(1)河岸場の風景/(2)出航まえの点検/(3)新造船で船頭勢ぞろい/(4)早船改正広告/(5)今に残る「伊勢安」の店構え /(6)川越舟唄/(7)大杉神社と船頭たち/(8)上り下りの荷物−熱海湯樽/(9)川蒸気船の開通計画/(10)早船の広告 /(11)柳瀬川鉄橋上を走る東上鉄道/(12)現代の舟下り
  新河岸川舟運のあらまし
 埼玉県川越市付近で赤間川その他の河川を合わせて荒川とほぼ並行して流れ、東京都北区の岩淵水門で荒川本流と合流し隅田川となる川。流長約26キロ。この川は、江戸時代初期から昭和初年までの約三百年間、川越と江戸を結んだ舟運が発達し、賃客を運び大いに利用された。そのはじまりは、寛永十五年(1638)正月、川越仙波東照宮が大火のため消失。その再建資材を江戸から新河岸川を利用して運んだことによる。この舟運が本格的に開始されたのは、松平信綱が川越藩主になってからで、領内の伊佐沼から流れる川に多く屈曲をつけ、舟の運行に適するよう水量保持の工事をした。川越五河岸(上・下新河岸・扇・寺尾・牛子)をはじめ、下流に福岡・古市場・百目木(どうめき)・伊佐島・蛇木・本河岸・鶉・山下・前河岸・引又・宗岡・宮戸・根岸・新倉河岸といった河岸場が次々に開設され、積問屋が建ち並び、新倉「川の口」で荒川に合流していた。
 舟の種類は、並船・早船・急船・飛切船などがあった。並船は一応の終着地の浅草花川戸まで一往復七・八日から二十日ほどかかる不定期の荷舟、早船は乗客を主として運ぶ屋形船。急船は一往復三・四日かかる荷船。飛切船は今日下って明日上がるという特急便であった。舟の形は普通「高瀬船」で七・八十石積み、川越方面からは俵物(米・麦・穀物)さつま芋や農産物、木材などを運び、江戸からは肥料類をはじめ、主に日用雑貨を運搬した。もう少し新河岸川舟運開始後について述べて見よう。「新編武蔵風土記稿」によると、舟運のはじまりは正保元年(1644)とも寛文二年(1662)とも記されており、「寺尾河岸場由来書」には、慶安四年(1652)に上・下新河岸が取り立てられたとある。いずれにしても、川越藩主・松平伊豆守信綱の頃であった。
 最も城下に近い扇河岸は、天和三年(1683)松平伊豆守信輝(信綱の孫)の江戸屋敷が類焼したので、その再建資材を運搬する為に取り立てられた。これに引き続き寺尾、牛子河岸が開設され上・下新河岸、扇河岸と合せて川越五河岸≠ニ呼ばれた。
 昭和三十七年三月六日、旭橋を中心に川越市指定史跡となった。
 舟運の全盛期は、幕末から明治初年までであった。やがて明治二十八年(1895)に川越鉄道、同三十八年に川越電気鉄道、さらに大正三年(1914)に新河岸川とほぼ並行して東上鉄道が開通すると、積荷が鉄道に奪われ一段と舟運が衰微して行った。同時に大正九年より昭和六年(1931)まで洪水防止のため河川改修が行われた結果、流路が10キロも短縮され、水量が保てず、舟の運行に支障を来たし、舟運は終った。

「川越舟運」 斎藤貞夫 さきたま出版会 1982年 ★★★
  −江戸と小江戸を結んで三百年−
 −目 次−
プロローグ
一.新河岸川を下る
 1.扇河岸/2.上・下新河岸/3.牛子河岸/4.寺尾河岸/5.福岡河岸/6.古市場河岸/7.蛇木河岸/8.鶴馬本河岸/9.鶉河岸 /10.水子・山下河岸/11.志木河岸/12.宗岡河岸/13.宮戸河岸/14.根岸・台・大根河岸/15.新倉河岸/16.芝宮河岸/17.戸田河岸 /18.千住・大橋/19.浅草・花川戸/20.日本橋・箱崎町
二.川越五河岸の成立
 1.上・下新河岸の開設/2.寺尾河岸の開設/3.扇河岸の開設/4.牛子河岸の開設
三.舟運の開始
 1.川越藩主・松平信綱の着眼/2.川越藩と初期の舟運/3.初期の年貢米輸送/4.初期川越豪商・榎本弥左衛門
四.舟運の繁栄
 1.船頭の生活/2.船の数と種類/
 3.船積み荷物/
 (一)上り荷物 (1)肥料/(2)/(3)石/(4)熱海温泉
 (二)下り荷物 (1)川越いも/(2)川越そうめん/(3)八王子石灰/(4)西川材
 4.荷物の運賃/5.旅客の輸送/6.船大工のこと/7.観音堂と馬まち/8.川越(新河岸川)舟唄
五.船問屋あれこれ
 1.船問屋の発展/2.船問屋の収入/3.船問屋「伊勢安」
六.大江戸と小江戸
 1.浮世絵師・喜多川歌麿/2.藤間流始祖・藤間勘兵衛/3.俳人・雪中庵梅年/4.書家・吉野龍興 /5.国学者・遠藤半蔵/6.蔵造りのまち・川越/7.大江戸の情緒・川越まつり/8.舟で運ばれた美術品
七.明治期の舟運
 1.中牛馬分社と郵便取扱所の設置/2.内国通運会社と舟運業者/3.仙波河岸の開設/4.川蒸気船の開通計画
八.舟運の衰退
 1.川越付近の鉄道敷設と舟運/2.河川改修と舟運
エピローグ −舟運関係者の今日この頃−
 〔付録〕
 1 武州新河岸川舟運史年表―川越五河岸を中心に―
 2 新河岸川舟運に関する主要文献
 3 参考文献 
 4 荒川・新河岸川の旧流路図(巻頭)
浮世絵師・喜多川歌麿
 美人画で有名な歌麿は、川越で宝暦3年(1753)に生まれたといわれている。
 ときの藩主は、のち老中となり幕政にも手腕をふるった秋元但馬守凉朝である。この秋元候時代の古地図、城下である通町に北川與兵衛と北川安蔵の両名が見える。 しかし、歌麿との関係は不明である。
 川越には昔から、歌麿の絵を所蔵する商人が多かったという。
 ある旧家の老主人は、
 「『明治26年の大火のとき、祖母が大切にしていた錦絵のつずらを抱え出しただけで、他の家財道具をほとんど焼いてしまった。 その時、持ち出したつずらに歌麿の絵が沢山あって、当時二百余円に売れた。まさに歌麿はこの家の恩人だ』と母がよく話していた」
と語ってくれた。
 歌麿は文化3年(1806)53歳で没したが、彼にあやかった和菓子はいまも売られている。
この本は、小説『算学奇人伝』の参考文献に挙げられています。

「武州・川越舟運〔新河岸川の今と昔〕」 斎藤貞夫 さきたま出版会 1990年 ★★★
 江戸時代より続いた舟運は、川越の発展に重要な役割を果したが、鉄道が開通すると、貨物もお客もうばわれて、昭和6年頃終わった。 その舟運を、写真と図を中心に紹介した本です。
 −目 次−
 T.河岸問屋があった町下新河岸中心に
 一.三十七の河岸場を結んで/二.船問屋・伊勢安/三.福岡河岸のたたずまい/四.古市場河岸と橋本家/五.志木河岸と井下田回漕店/六.川越へ、仙波河岸と扇河岸/七.舟運の終点、十七万石の城下町・川越/八.江戸へ、千住、花川戸など下流の今
 U.新河岸川 舟運の歴史
 一.はじめに/二.河岸の成立/三.川越五河岸・寺尾河岸の成立/四.河岸問屋の発展/五.舟の種類/六.船頭/七.川越(新河岸)舟唄/八.舟運の衰退

 「川越舟唄」…この舟唄は「千住節」とも呼び、千住宿(現・足立区)の遊郭から流行したといわれる。 口から出まかせに歌うため、決まった順番はない。
 ハァー九十九曲りエー仇では越せぬ(アイヨノヨー)遠い水路の三十里(アイヨノヨトキテ夜下りカイ)
 ハァー船に乗るならエー身を大切に 船は浮きもの流れもの
 ハァー泣いてくれるなエー出船のときに 泣かれりゃ出船がおそくなる
 ハァー川岸を出てからエー富士下までは 互いに見合す顔と顔
 ハァー富士下離れりゃエー荒川までは 竿も櫓櫂も手につかぬ
 ハァー千住女郎衆はエー錨か綱か 今朝も二はいの船止めた
 ハァー主が竿さしゃエー私は舳で 楫をとり櫓をば押す
 ハァー船は帆かけてエー南を待ちる 可愛い女房は主待ちる
 ハァー押さえ押さえてエー喜びありゃァ ほかへはやらじと抱きしめる

 この唄は、鬼平犯科帳「流星」のなかで、長谷川平蔵が口にし、密偵の粂八をおどろかせています。  また、川越船頭についても解説されています。

 V.関東地方の舟運史・要約
 巻頭の「新河岸川舟運略図」から河岸場の名だけを記載します。
仙波-扇-上新河岸-下新河岸-牛子-寺尾-福岡-古市場-百目木-伊佐島-蛇木-本河岸-鶉-山下-前河岸-志木-宗岡-宮戸-浜崎-根岸-新倉-大野- 芝宮-早戸-赤塚-蛎殻-戸田-小豆沢-浮間-川口-赤羽-野新田-熊ノ木-豊島-尾久-千住-花川戸

 W.河岸場の今昔
 一.新河岸川舟運と舟唄保存会/二.記念碑建立と除幕式/三.現代の船下りと川越いも交流会

「大江戸 歴史の風景」 加藤貴編 山川出版社 1999年 ★★
第1章 江戸への道・江戸からの道………………山本光正
 川越街道と新河岸川水運
 川越街道は、板橋から白子・膝折・大和田などを経て、川越城下に達する街道で、全長11里(44キロ)ほどです。川越からは諸方へ街道がつうじていましたが、そのおもなものは、松山を経て中山道熊谷宿への道、小川を経て秩父方面へでる道、所沢を経て甲州道中府中宿へ達する道などです。
 江戸と川越を結ぶ重要な街道でしたが、物資の輸送を考えるうえでは、新河岸川舟運をのべておく必要があります。『新河岸川の水運』(埼玉県教育委員会「歴史の道調査報告書」12)によると、新河岸川は、河川改修前は川越市東方の伊佐沼が水源で、九十九曲りといわれるほど蛇行しながら和光市新倉で荒川に合流しました。江戸の初期から大正にいたるまで利用されていました。
 船は速度により、並船・早船・急船・飛切があり、このうち早船が定期船でした。新河岸川を夕方出発すると、翌朝9時ごろに千住、昼ごろ浅草花川戸に到着しました。天保(1830〜44)ごろからは、旅客ものせるようになり、川越街道の宿場は、休泊客が減少したと訴えています。そのため、旅客乗船は禁止されますが、幕末にいたって旅客専用船が定期的に出航するようになります。船は夜間航行するため「川越夜船」などとよばれ、船頭たちの舟唄は、川越舟唄とか千住節とよばれています。千住には花街があったためでしょう。

「江戸の下半身事情」 永井義男 祥伝社新書 2008年 ★
第三章 「フーゾク都市江戸」をのぞく
 板橋と聞いてむかひは二人へり
 品川、内藤新宿、千住、板橋は宿場であり、厳密には江戸ではなかったが、実質的には江戸の遊里だった。道中奉行から品川は五百人、内藤新宿、千住、板橋はそれぞれ百五十人の宿場女郎を置くことを認められていたが、実際にはその数倍の人数がいた。
    (中略)
 いっぽう、板橋は江戸四宿のなかでキリ、つまりもっとも格が低いとされていた。
  板橋と聞いてむかひは二人へり
 という川柳がある。
 大店の主人が伊勢参りなどの旅に出かけ、いよいよ江戸に帰ってくることになった。飛脚に託して、何日に品川宿に着くと知らせてくるや、親類縁者や友人知人はもちろんのこと、出入りの職人なども大挙して品川まで出迎えるのが普通だが、少なからぬ連中はかこつけだった。つまり、
「旦那の出迎えに、ちょいと品川まで行ってくらあ。帰りはおそくなるぜ」
 と言いながら、実際は品川で女郎買いをしようという算段である。
 ところが、着くのが中山道の板橋宿と知らされるや、たちまち、
「えっ、旦那が着くのは板橋かい。じゃあ、やーめた」
 と、ふたりが出迎えに行くのを取りやめたというわけである。
 かたや千住は、船頭たちが唄った『川越舟唄(千住節)』
  千住女郎は錨か綱か、上り下りの舟とめる
 とあり、やはり船頭の客が多かった。
 当時、新河岸川の水運が盛んだった。新河岸川・隅田川によって、川越(埼玉県川越市)と江戸は結ばれていた。水路の途中にある千住は、船頭たちのあこがれの遊里だった。

「河岸場の今昔―新河岸川舟運と船問屋「伊勢安」― 斎藤貞夫編著 武州新河岸川舟運史料刊行会 1973年 ★★★
 −目 次−
第一部
 船問屋斎藤家先祖代々過去記・系譜/船問屋斎藤家家法/河岸場の今昔対談/新河岸「伊勢安」/私の愛蔵品/「伊勢安」訪問記
第二部
 近世河岸問屋成立の一考察/武州新河岸川五河岸の成立/川越仙波河岸の開設と発展/武州新河岸川牛子河岸文書目録/武州新河岸川五河岸年表

「埼玉史談 旧第6巻第2号」 埼玉郷土会 1934年11月 ★★
 新河岸川往来 (押田金太郎談)   峯岸久治

「図説埼玉県の歴史」 小野文雄/責任編集 河出書房新社 1992年 ★★
 川越の豪商と在郷市
 ●利根川・荒川・新河岸川の舟運
 江戸時代はどこの地域でも河川を利用する舟運がさかんであったが、とりわけ埼玉県域は江戸に隣接しており、利根川・荒川の舟運は、当時商業の中心地であった大阪をめぐる淀川舟運と並んで、二大隆盛地域の一つであった。
 舟運は、船の運行を行う廻船業者と、荷物の集散を行う問屋のある河岸場の成立という、二つの要素をともなうことになるが、江戸時代初期は年貢米の搬送などの領主的需要によって河岸場が取り立てられている。利根川の酒巻河岸(現、行田市)は、寛永一六年(1639)忍城主阿部忠秋が入部以降廻米輸送の河岸場となっているが、このように年貢米輸送が河岸場成立の契機になっている例が多い。いっぽう利根川を上下する船は、塩荷を奥地へ輸送する業務が主で、長く江戸の塩荷積問屋の支配下に置かれていた。
 県域内の舟運は多くの河川で行われているが、特に新河岸川・荒川・利根川・江戸川などでさかんであった。また享保期以降になるが、見沼代用水路もさかんに使用されている。
 新河岸川は、川越付近を上流とする荒川に平行する小河川であるが、城下町川越と江戸を結ぶ動脈としてさかんに利用されている。川越付近の河岸場としては、寺尾・上新河岸・下新河岸・牛子・扇の五河岸があるが、寺尾河岸の由来記によると、堀田正盛が川越城主であった寛永一五年(1638)に、川越仙波の東照宮再建時に荒川平方河岸が渇水で使用できなかったので、寺尾村が荷揚場として利用されたのが始まりといわれる。以後、上・下新河岸、牛子、扇と、天和二年(1682)までの間に四河岸場が成立している。
 川越五河岸の成立には、いずれも川越藩が関与していることからも、当初は蔵米などの藩御用の荷を輸送することが中心であったが、川越城下町の発展や近傍の商品生産の発達とともに、商人や農民の荷もさかんに運ばれるようになる。新河岸川に沿って多くの河岸場が設けられていることからも、そのことが証されるであろう。
 表は幕末の天保四年(1833)の川越―江戸間の取り決め運賃を示したものである。下り荷は川越から江戸へ輸送されるもの、登り荷は江戸から川越へ送られるもので、この表からも当時どのような荷が主として運ばれていたかがわかる。概して、下り荷は川越や近在で生産されたものであるが、登り荷は江戸を通じて全国各地から送られてきたものも多く、糠・干鰯など近在の農村へ向けての肥料類もある。
  (後略)  

品 目単 位運 賃河岸問屋
口  銭
5 〜10月11〜4月


俵 物10駄800文1貫100文24文
醤 油1樽15文5分17文5分3文
油 粕1枚14文5分14文5分3文
綿 実10駄1貫224文1貫424文32文
銭片山1駄260文260文24文
素 麺10箱450文450文11文
1俵12文13文3文
松 板1両64駄68駄24文
杉 椴1両64駄68駄24文
小 貫100束金1分金1分4文
中貫類64束金1分金1分4文
杉 皮1駄(不明)(不明)24文
松三寸1両64駄64駄24文
杉戸障子1本12文12文3文
半 戸1本6文6文1文5分
石 灰1俵11文11文3文
屋根板1束12文13文3文
鍛冶炭1俵36文36文8文


油・綿・太物・砂糖
天草・生麩・藍玉
39駄1両1両32文
酒酢之類50駄1両1両20文
塩肴類石新川物54駄1両1両24文
荒物小間物
瀬戸物鉄類
56駄1両1両20文
藍 瓶1箇140文140文13文
糠・干鰯1両70駄66駄13文
1盃銀44匁銀49匁550文
1ほう銀50匁銀50匁銀5匁
『川越市史』「史料編 近世V」所収「運賃定書」による。

「新河岸川舟運の盛衰」 斎藤貞夫編著 斎藤安右衛門 1970年 ★★★
 −目 次−
新河岸川舟運の盛衰/川越舟唄(千住節)/伊勢安平面図/上下新河岸・牛子河岸図面/寺尾川岸場由来書/扇河岸記/新河岸川舟運関係五河岸文書目録/新河岸川舟運史年表/あとがき

「埼玉の明治百年(上)」 毎日新聞社浦和支局編 1966年 ★★
 変わる県民の足/川越夜舟も鉄道で姿消す
 新河岸川の舟運 川越から荒川に沿って流れる新河岸川(しんがしがわ)は、米俵を満載した舟や木材を組んだイカダがゆったりと下っていた。
 アアー 九十九曲りゃ あだでは越せぬ アイヨノヨ
 通い船路の三十里 アイヨノヨトキテ夜下リカイ
 サオをさす船頭の舟歌がのんびりと聞こえ、夜ともなれば、ちょうちんのあかりが川面に光る。いわゆる川越夜舟≠フ名所だった。いまの新河岸川にはそんな情緒はみじんもない。
 車のない時代には、水上運送は交通の花形≠セった。新河岸川を利用して江戸の母≠ニ呼ばれた城下町、川越から北武蔵地方の農産物や材木が運ばれ、江戸からは生活用品や肥料が積み返された。当時の人はこのありさまを見てうまい冗談をいった。「江戸の人は口で受けて、尻で返す」。つまり、食物で受けて、肥料で返すというわけ。
 新河岸川の利用を考えたのは江戸初期の川越城主、松平信綱川越街道を荷車や馬で運べない多量の物資を江戸へ送るための水路として目をつけた。
 川越から新倉河岸(北足立郡大和町)で荒川に合流、千住を経て花川戸(現在の東京吾妻橋)に達するくねくねと曲りくねった延長百八キロの舟路だった。現在は河川改修で下流の赤羽で隅田川に合流している。この水路を早舟と呼ばれる定期便が往復した。午後三時に川越の仙波河岸をスタート、翌朝八時ごろには千住へ、花川戸へは昼ごろ着いた。早舟のほかに並舟、飛切(とびきり)があった。
 並舟は一往復七―八日の不定期船。飛切はきょう下って、つぎの日には上るという特急船≠ナ、おもに魚河岸から鮮魚を運んだ。川越では何がぜいたくといっても、マグロを夕食のぜんにのせるほどぜいたくなことはなかったという。
 川越名物となった川越イモも、明治十年ごろから、この舟運を利用して東京へ積み出されるようになって始めて世に出た。
 舟はいずれもへさきが高く、底が平らな高瀬舟。積載量は十五、六トン。米で二百五十俵も積めた。客は三十―五十人ほど乗せた。明治十二年の舟賃は早舟が片道一人十二銭、荷物は一駄(百五十キロ)十六銭だった。

 川蒸気船の計画も この新河岸川に飛鳥丸≠ニいう川蒸気船を運行させようというとてつもない計画が現われた。明治十五年ごろの話。文明開化の余波である。「川蒸気飛鳥丸開通広告」にはへさきにキの字を印した旗を掲げ、船尾には日の丸を立てた一本煙突の船の絵が描かれている。宣伝文句もまたふるっている。
 「……水をたよりの川蒸気、便利のよさが新工夫、新大橋より川越の上新河岸までの往復を、お客も荷物ももろともに、毎日通う舟脚の早いが弊社の新看板、それ当たりますと、開店のその日よりにぎにぎしく御乗船を……」
 汽船の船賃は川越上新河岸から下り東京まで大人一人、荷物一駄とも二十五銭。上りは割増料金となり、東京から上新河岸まで四十銭(荷物は四十五銭)だった。子供は四才まで無料、十二才まで半額だった。さっそく、何回か運行テストを重ねたが、川が浅いので、水中の藻(も)が舟底にからみついて運行は無理。せっかくの奇抜なアイデアも実現しなかった。
 そうこうするうち、新河岸川に強敵が現われた。鉄道と河川の改修がそれ。明治二十八年、川越鉄道(中央線国分寺―川越間、現在の西武線)が開通、さらに十一年後には川越電気鉄道(川越―大宮間)が完成して東京まで三時間足らずで行けるようになった。客を奪われた水運会社は「舟賃は鉄道運賃の六割と安いうえに、陸上げ手数料もはいっている。汽車便は停車場までわざわざ運ばねばならないが、川舟便にはそんな手間もかからない」とヤッキになってPRした。しかし、大正三年に開通した東上線は決定的な打撃を与えた。
 また大正年間に行われた河川改修では川の蛇行をなくし直線にしたため、川の長さが三分の一も短かくなった。そのため、水はけがよくなりすぎ、ところによっては浅瀬が露出する始末で、とても舟の運行どころではなくなった。おまけに大正十二年の関東大震災では、東京の舟が大部分焼けてしまったため、新品でも約三百五十円の舟が、中古で六百円ならとぶように売れ、ほとんどの舟は東京へ転売されてしまった。
 やがて、昭和六年、全川改修による通船停止命令は三百年の夜舟情緒にピリオドを打った。

「川越市菅原町誌」 川越市菅原町自治会 2001年 ★★★
二 江戸時代/4 川越街道と新河岸川舟運の整備に伴う村の影響/(2)新河岸川舟運について
 新河岸川の舟運は、寛永15年(1638)、当時、小仙波にあった東照宮が大火で全勝(ママ:焼)したため、その再建資材を江戸から新河岸川を利用して運んだのが始まりと言われる。
 しかし、本格的に始まったのは、翌寛永16年に松平信綱が川越城主に移封後の正保4年(1647)ごろとされている。
 初めのころは領内の産米を江戸へ運び出すのが主目的とされ、上、下新河岸が設けられ、後に扇、寺尾、牛子の三河岸が設けられた。その主な積出品は穀物、醤油、綿布、炭、建築資材、杉皮、そうめんなどで、逆に荷上げ品としては、油、太物、天草、酒、荒物、小間物、鉄器などであり、享保以後は肥料、塩、雑穀、その他生産物が多く流通したと言われる。こうして、河岸問屋も30軒にもなり、当初の公用運送は、すっかり農村相手の仲買商人による回漕業務に変わり、遠く八王子や青梅方面からも荷の搬入があったと言う。
 また、乗客の輸送は天保年代(1830〜1844)から始まったらしいが、川越から江戸へ出る最短コースとして、舟運による荷物の運送と併せ、五河岸の繁昌ぶりは著しかったと言う。
 こうして新河岸川の舟運は、川越藩を始め川越商人が大きく利用し、川越の町への荷駄等の出入れも激しくなり、このため、大仙波新田の街道筋は人馬で賑わったようだった。
 そのころは、これらの河岸から荷上げされた物資などは、川越街道を通って町へ運ばれたので、鳥頭坂の難所を越えた先の大仙波新田の地は都合のよい休み場所であったに違いない。このため、飲食を商いとする店もあって相当の賑わいを見せていたと伝えられる。
 しかし、新河岸川舟運により、最も影響が生まれたのは、後年仙波河岸ができてからのようである。
三 明治時代/4 仙波河岸の開設と影響
 江戸時代からの新河岸川の舟運は、上下新河岸と扇、寺尾、牛子の五河岸をもって、川越藩を潤わせ、河岸問屋も30軒を数える盛況さであった。ところが明治維新となって藩体制が崩れるにしたがい、急速に様相が変化するようになってきた。
 とくに、今まで河岸が遠くで不便を感じていた川越商人達は、より近くで便利な河岸を願望していたが、明治2年(1869)遂に仙波下まで水路を延長させるため、大仙波村の原伝三が中心となって掘さくを始めた。
 その後、この工事は川越町の沼田治兵衛、染谷平六、吉田関太郎、綾部利右衛門等が投資して運河を開掘し、明治12年(1879)ごろに至り、ようやく回送業務が初められたが、その後、多少の変遷を経て、綾部利右衛門が丸川回漕店を経営した。しかし、この仙波河岸の出現は新河岸川舟運に一つの革命を及ぼし、従来の五河岸は急速に衰退し、あれ程繁栄していた附近の回漕問屋も次第に影をひそめていった。
 反面、仙波河岸は川越町に極めて近いことから繁栄し、この河岸から大仙波新田へ抜ける河岸道は拡張され、その荷駄は大仙波新田のまちを潤し、川越と東京を往復する多くの旅人や商人達の休憩所として、居酒屋や飯屋などの商売が繁昌し賑やかになった。
四 大正時代/1 鉄道開通と仙波地方の影響
 明治12年(1879)ごろから使用された仙波河岸はその後順調な繁栄を続け、川越商人は地の理(ママ)を得て利潤を豊かにし、引きも切れない東京往復の船客や貨物の輸送により、回漕問屋の繁昌は著しかった。
 しかし、この仙波河岸の繁栄も余り長続きはしなかった。このころ、既に鉄道が全国的に敷かれるようになり、川越地方においても明治28年(1895)に初めて川越、国分寺間に列車が走るようになり、続いて同29年には川越、大宮間に乗合馬車が走り、さらに同39年(1906)には、これが路面電車に変わり客を運ぶようになったのである。
 このため、東京方面への旅客はもちろん、貨物の輸送についても、舟運より安くて早い鉄道を利用する者が多くなり、次第に仙波河岸利用者は減ってきたのである。
 さらにこの新河岸川舟運に打撃を与えたのは東武東上線の出現であった。
 これに先立ち川越町や仙波村の有力者達は、さきに国有鉄道幹線誘致に失敗し、川越地方の経済文化の送れに目覚めたためか、にわかに東京と上州を結ぶ鉄道の誘致に乗り出し運動の結果、ようやく東上線が敷かれることになったのである。こうして、東上線は大正元年(1912)11月に工事に着手し、同3年5月に第一期工事として、池袋と川越野田町(現川越市駅)間が完了したのである。
 しかし、この鉄道完成は反面仙波地方には厳しい影響が生じてきた。新河岸川舟運による旅客や貨物の運送がきわめて時代遅れの様相に変わり、利用者は極度に減少してしまった。
 こうして、明治初期から開始され、一時は隆盛を誇った仙波河岸は大正の初期をもってその役割は完全に失われ、さらに大正9年(1920)から始められた新河岸川改修工事により、通船不可能となり昭和6年(1931)最終的に県から通船停止令が出されて終止符が打たれたのである。
 川越街道に沿った大仙波新田地区も、一時は地区有力者が鉄道誘致による繁栄を期して奔走したこともあったようだったが、やがて街道も舟運も鉄道に押されて、村は次第に淋れるようになったのである。

「くらしの風土記 ―埼玉― 野村路子 かや書房 1983年 ★★
 ・大火にこりての家づくり
 江戸時代の面影をのこすといわれる川越だが、その蔵づくり≠フほとんどは、90年ほど前に建てられたものである。
 もともと江戸時代の街並みでは、表通りに面した店は、杉皮ぶきの板屋根で、その裏に、大きな土蔵が、店によっては、3棟も4棟も建ってはいたが、これらは、今みられる店蔵とは違って、いわゆる商品保管の土蔵という程度のものだった。
 明治21年、26年と川越の街は、二度の大火にみまわれた。とくに、26年の大火は、晴天つづきのときであり、その火の勢いは、まるで落葉を焚いた≠謔、だったという。
 この火事で焼け落ちた家の数は、1302戸、当時の川越町の全戸数が3315戸だったというから、4割近くが焼失したわけである。寺が三つ、銀行も電話局も焼けてしまった……。
 ところが、この二度の大火にびくともしなかった店がいくつかあったのだ。
 現在、国の重要文化財に指定されたいる大沢家住宅=\―近江屋商店、壁の厚さが20センチ以上もありそうなどっしりした造り、重い棟がわらをのせた屋根、江戸時代、天保のキキンのときに失業対策事業としてつくられたこの店蔵は、26年の大火のときにはかすり問屋≠ニして使われていたという。
 戸と壁の間に味噌をぬって、火の粉の入るのをふせいだそうです。柱が少しこげただけというから、耐火建築としては、実にすぐれたものだったということですね。
 土戸の厚さが6センチもあるのですが、火が消えて3日ぐらいしても、まだ熱くて、熱気で燃えだすといけないからと、冷えるまで待って、ようやく開けたところ、中の商品はすべて無事だったということです。
 二度の大火で、家財道具はもちろん、大切な商品を焼いてしまった川越の商人たちは、この耐火建築にとびついた。
 地元の職人だけでは足らず、東京からも職人がよばれた。左官、大工は、焼け残った店蔵を参考に、二度と焼けない町を、という商人たちの心意気に感じて、腕をふるったという。
 現在の川越でみられる蔵づくりのほとんどは、この大火後3年ほどの間につくられたものである。
 
 川越といっても、いまの町なかから少しはずれた新河岸では、明治3年に大火があった。
 新河岸の船問屋<伊勢安>の建物は、この大火のあとにつくられた。ここで暮らす斎藤徳さん(82歳)は、「だからこそ、金庫が厳重につくられたのでしょう」と言うが、斎藤さんの亡くなったご主人は、「火事後のどさくさで、あまり吟味せずに作ってしまったと、祖父がよく言っていた」と話していたという。
 10年ほど前になりますかしら、近くにどろぼうが入って、警察が戸閉まりの検査にまわってきたのですけど、おまわりさんがびっくりしていましたよ。
 いやあ、昔の人の生活の知恵ってのは、まったくたいしたもんだって、いってました。
 明治3年、主人のひいおじいさんの時代ですから、おじいさん、おとうさん、主人ときて、息子、それに孫もおりますから、この家でもう6代が暮らしていたことになりますねぇ。
 えぇ、ほとんど昔のまま、お台所だけ、少し直しましたけど、あとは110年前と同じです。
 船問屋の繁盛ぶりをしのばせるのは、広い土間と袖蔵のついた店がまえ、そして、裏手にある江戸時代の蔵3棟である。いちばん古いのが、元禄年間に建てられたそうめん蔵≠ナ、あとは味噌蔵、米蔵とよばれている。
 この蔵は、大火の時にも残ったものだという。
 この家の前に立つと、まず間口の広さにおどろく。7間間口、約13メートル、右すみに7畳のあがり部屋があるだけで、あとは土間になっている。
 川越夜船が往来していた頃には、この土間が、近在から集まってくる米や材木、そうめんなどの荷でにぎわっていたのであろう。
 あがり部屋には、帳場格子が置いてあり、そのうしろには、黒光りのする重そうな板の引き戸、その横が、厚さ20センチはあろうと思える石でつくった金庫である。この石蔵の中に、鉄製の金庫を入れるのだから、どろぼうどころか、おまわりさんがおどろくのも無理はない。
 広い間口には、腰高障子が入っている。
 この腰高障子を閉めて、戸袋の中の格子戸を引き出して、13メートルもある間口をとざす。それから、内側の鴨居のところに押しあげてある板戸をおろすと、小さなくぐり戸以外、出入りはまったくできなくなるのだという。
 閉めるの大変でしょうと、よく人に言われますけど、何てことありませんよ。敷居も昔のままですけど、ちゃんと障子がすべりますし、戸を閉めると、自然に猿桟(さるさん)がおりるようになっているのですよ。
 よそさまの大切な品をあずかる仕事ですし、まあ、その頃は、お金を持っている方だったから、やはり用心がよかったのでしょうね。どこの部屋もカギがかかるようになっているんです。
 部屋ごとのしきりは、こまかい桟のある障子だが、それも閉めると自動的に、敷居の穴に、コトリと桟がおちるようになっているのだ。
 現在も、寸分の狂いもなく、ぴたりと閉まり、カギがかかると、もう開けることはできない。
 蔵づくりの店も、土戸を閉めれば、中に火が入ることはない。
 昔の家づくりのみごとさと、さまざまな災禍にあって得る人の知恵の尊さ、あるいは、町人の心意気といったものが、どっしりとした大きな屋根の上にある、鬼がわらと同じように、いつまでも強い印象で心にのこった。
 ・船問屋に嫁いだのに――
 「新河岸川の思い出小唄」という歌がある。
  橋のたもとの石碑(いしぶみ)みれば
   荷船 客船 荷馬車の出入り
  回船問屋の栄えも高く
     昔しのびし面影やどる
 新河岸川といえば、江戸時代の中ごろには、江戸と川越を結んで、いろいろの物資を運ぶ大切な水路であったという。川越夜船≠ニよばれる、三日月の下を酒など手にしながら船べりに身をもたせた人のいる船の絵もどこかで目にしたことがある……。
 ずいぶん盛んだったようです。うちが、船問屋として公認されましたのが、享保16年(1731年)、八代将軍吉宗の時だったそうですが、その時、ここの河岸だけで、16軒もの問屋さんがあったという記録がありますから、船の数もよほど多かったのだと思いますよ。
 同じ頃に、川越街道も整備されたが、近在はもちろん、飯能・青梅・松山・越生方面から集められる農林産物のほとんどは、船で江戸へ送られていた。
 回船問屋というのは、現在でいう運送会社のようなものだが、問屋によって、運搬する品物の専門がだいたい決まっていたという。
 うちには、今も蔵が残っていましてね。元禄年間に建てられた方は、そうめん蔵≠ニいいます。ええ、そうめんは、川越でもかなり作っていたようですよ。明治時代の運賃表が残っていますけど、それをみますと、初期の頃の下り荷の中には、そうめん一箱につき一貫九百十二文≠ネんて、いくつも書いてありますから……。
 川越市新河岸で300年の歴史をもつ船問屋<伊勢安>広い土間の隅に畳敷きの部屋があり、黒光りのする帳場格子が、まるで時代劇の舞台装置のようだ。斎藤徳さん(前出)は、<伊勢安>15代目、安左衛門さんの未亡人だ。
 わたしが嫁にまいりましたのは、大正9年ですから、もう舟運はだいぶ少なくなっておりました。それでも船が5、6艘はありましたかしら、1艘に、船頭さんが3人はいります。それに番頭さんが2人、帳場を守る人と、荷揚げ場をみる人がいて、女中さんに若い衆さん、それに、荷の積み下ろしをする仲仕さんも、しじゅう出たり入ったりしていましたから、とても賑やかでした。
 わたしは、店の方の仕事は何もいたしません。荷主さんがみえて、主人と話をしている時に、お茶とお菓子をお持ちするだけで……それがおかしいんですよ、主人がおい、お茶をもっといでよ≠ニいうんですが、その言い方で、お茶だけでいい人と、最中をつける人、ふたものに入れたこんぺい糖を出す人と区別だありましてね、なにしろ船を1艘、2艘買い占めるほどのおとくいさんもあれば、今の小包ぐらいと、荷主さんもいろいろですから……。
 少しの荷ですと、船がいっぱいになるまで、他の荷が来るのを待つわけですよ。とくに、江戸から上って来るのは、油・反物・小間物・藍玉、それから、農家で肥料に使う米ヌカや灰などですから、何日もたって戻ることが多かったですよ。
 斎藤さんが嫁に来た大正9年、その年に、新河岸川改修工事が始まった。
 明治20年代、すでに舟運の盛りの時期は過ぎていたのだ。23年、飯田橋・新宿・八王子を結ぶ甲武鉄道、現在の中央線が開通して、新河岸の商圏には、かなりの打撃を与えたという。
 先代がたいへんに先見の明のある方だったんですね、主人が常々感心していましたけど、明治20年代に次々と鉄道が敷かれていくなかで、これからはもう、船の時代じゃないと言っていたのだそうです。
 鉄道会社に投資をしておりましたし、川越へ鉄道を敷く準備をする時には、発起人にもなっていたようです。ですから、舟運が少なくなったといっても、平気でいられたのでしょうかねぇ、あせったりはしなかったようです。
 大正3年でしたか、川越と池袋の間を鉄道が走るようになりましたけど、それでも、やっぱり、急ぎのもの以外は船に頼むという人が多かったのですよ、料金もたしか、船の方がずっと安かったでしょう……。
 斎藤さんは、この近くで生まれ育った。だから、幼い頃から、新河岸川にも、船にも、慣れ親しんでいる。
 船の中で暮らしている船頭さん夫婦の子どもと、川べりの草原で遊んだこともあるし、人形をみやげに買って来る約束を楽しみに、船着き場に座って、一日、船を待っていたこともあるという。
 12、3の頃でしょうか、船下ろし≠ェありましてね、ええ、今でいう進水式、船の出来上がりをお祝いする日です。船大工さんたちが、わっしょい、わっしょい船を引いて行って川に落とすんですよ、皆、裸になって、川に入って水のかけっこしたり、船に乗っている人を落としたり、近所の人も集まって、大さわぎをしましたねぇ、あれが、わたしのみた船下ろし≠フ最後でした……。
 今の川を見ていては、いくら船の話をしても、なかなか想像できないでしょうね、川の姿がまるで違っているのですから。船着き場跡でいうと、ウソでしょっていう若い人がいるんですよ。
 時代のうつり変わりですから、仕方ないと思ってきましたけど、この頃になって、かえって昔がなつかしくなりましてね、一度で良いから乗ってみたかったって思いますよ。
 斎藤さんは、一度も船で東京へ行ったことがない。
 川越夜船といわれる早舟は、夕方新河岸を出て、次の朝が千住、昼頃には浅草・花川戸に着く、弁当が売られ、船頭さんが、舟唄をうたいながら櫓こいで行く。
   ハアー 九十九曲がり 仇では越せぬ
     遠い水路の三十里
 のどが自慢の船頭にでもあたれば、「そりゃあ風情のあるもんだった」とは聞かされても、当時、問屋の若奥さんが、船で東京へというのは、やはり許されないことだったらしい。
 舟唄のことばはいろいろありましてね、
   ハアー 着いた着いたよ エー 新河岸橋に
     主も出てとれ おもてもや
 なんて歌ってましたよ。船頭さんは、なかなか稼ぎがいいですし、いつでも白米のご飯食べて、宵越しのゼニは持たないなんて自慢にしていましてね、遊び好きの人も多かったようです。
 大正13年の関東大震災は、新河岸に活気をもたらした。鉄道がすべて止まってしまったのだから、食糧でも材木でも、船で運ぶしかない。早々と船に見切りをつけて、陸(おか)に上がっていた人も、皆が総出で船を動かした。
 材木をずい分運んだはずです。毎日毎日、船が出て行きましたから。そのうちに、船を買いたいという人が次々と来ましてね、新しく造船しても、1艘が304、50円という頃でしたのに、使っている船を、700円から800円で買うというんです。この時に船を手放した人も、かなりいますよ。
 大正9年に始まった新河岸川改修工事は、昭和6年に終わり、同時に、通船停止の県令が出た。斎藤さんが一度も乗らないうちに、舟運の長い歴史は終止符がうたれてしまった。
 斎藤さんは、今でも川が大好きだという。孫と一緒に釣りに行くのが楽しみなのだという。
 以前、雨が降って水がふえたあとなど川に行くと、船着き場の杭などに、えびがたくさんいて、桶やザルですくって取れた。姑から色が黒くなる≠ニ注意されても、やめられないほど楽しかったと、斎藤さんは、なつかしそうに、川幅のせまくなった新河岸川をみる……。
 大きいバケツを持って行くと、魚がたくさんとれないというんですよ、だから、小さいバケツを持って行くんです……。

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作成:川越原人  更新:2009/8/30