喜多院・五百羅漢


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喜多院
「お寺散歩 もう一度あのお寺に行こう 沢野ひとし 新日本出版社 2005年  ★★
お寺を歩く
J埼玉県川越市・喜多院――五百羅漢に江戸の文化感じて  
 川越は徳川幕府の江戸時代を迎えると、街道と新河岸川の水陸両道が開かれ、江戸の文化が一番早く伝えられたという。いつの日にか江戸に対して「小江戸」とよばれるほど、川越の城下町は繁栄した。その中心をなすのが喜多院である。
 喜多院の歴史は古く、天長七年(830年)慈覚大師円仁の創建と伝えられる。永仁四年(1296年)に尊海が出て中興し、関東天台宗の中心となった。
 川越を訪れるのは、小学生のいも掘り遠足、山登りの帰りと、三度目である。駅前がすっかり様変わりしていたのには驚いた。変わらないのは喜多院の境内のゆったりとした趣きである。広い敷地には江戸城から移築した建物が二十棟余り立ち並び、客殿、書院、庫裏、慈眼堂、鐘楼門、山門の六棟が国の重要文化財に指定され、見るべき建築物が多い。
 私は人気の高い喜多院の五百羅漢と早く対面したかった。ひと目見るなり「ああすごい、たくさん羅漢さまがいる」。思わず大きな声をあげてしまった。
 笑い、怒り、泣いている者、そっとヒソヒソ話をする者と、なんと五百三十五体もの羅漢があるのだ。天明二年(1782年)から約五十年の歳月をかけて完成した像の数々である。仏具、おわん、日用品を持ち、動物を従えている像もある。その顔の表情やしぐさを観察していると、「これはあの人にそっくり」「うーん、これは自分のようだ」と一つひとつに納得してしまう。
 どの像も温かいものが流れており、見る者をおだやかにさせる。中央高座には大きな、大仏に釈迦如来、脇侍のの文殊、普賢の両菩薩がおさまり、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩と、全部あわせると五百四十体が鎮座している。
 親といっしょにきた小さな子どもが両手を合わせ笑っていた。私も歴史にくわしい知人と「なんだかここは気持がなごむねえ」と初夏の風にふかれ時間のたつのを忘れていた。ユーモラスな表情やしぐさに江戸時代のおおらかな文化を感じた。
 喜多院のあとは、昔の面影を残す新河岸川を訪ねた。近くの民家は「小江戸」の風情を残し、まるで映画のセットのようであった。新河岸川は昔と変わらず、ゆるやかに流れていた。何匹ものコイが水音をたててたわむれていた。「この土地も川が文化を育ててきた」。知人の言葉に私は大きくうなずいた。

「日本おみくじ紀行」 島武史 ちくま文庫 2001年 ★★
古来から、物事の決着を神意に託し、あるいは事の吉凶善悪を神の判断にゆだねるミクジ(お神占)が盛んに行なわれてきた。21世紀になっても占いブームは、いっこうにおとろえないのだ。本書は、長年、日本全国のおみくじを研究してきた著者が、漢詩調、和歌調、また各神社が独自に開発・工夫したユニークな珍しいものなどを紹介する。解説 童門冬二

  喜多院 浅草寺と同じ『元三大師百籤』
 埼玉県川越市は小江戸ともいわれ、ロマンといにしえの史跡のぬくもりが今も色濃く残っている。江戸時代に川越藩の城下町として栄えた名残りだ。江戸まで四〇キロの距離にあり、今日では東武東上線と営団地下鉄有楽町線の相互乗り入れ運転が開始され、都心へ恰好の通勤距離。だが、近代になって交通機関の発達をみるまでは、四〇キロという江戸との距離は、江戸文化を根づかせ、それを保存する土地として適当な距離だったのかも知れない。
 新河岸川を使った舟運と、陸路の川越街道が江戸と直結し、文化、人、物資の交流を深めた。江戸が東京に変わってからも、県西の中核都市として発展を続け、大正十一年(1922年)十二月一日に、埼玉県下で市制施行一番乗りを果した。元県庁所在地の浦和が市になったのが昭和九年(1934年)、熊谷が昭和八年(1933年)、大宮はそれからずっと後の昭和十五年(1940年)である。明治四年(1871)廃藩置県の後、川越は城下町時代に培われた商業の伝統を基礎に、県下一の商都として君臨した。
 現在、「小京都」と呼ばれる町はたくさんあるが、江戸時代から「小江戸」と呼ばれたところは全国に川越市しかない。新しい都市にはない魅力がいっぱいのところが川越である。
 この川越市に星野山無量寿寺喜多院という天台宗の古刹がある。天長七年(830年)に円仁慈覚大師の開山。境内は広く三千坪もあり、寛永年間(1624〜1644年)に徳川家光が、江戸城紅葉山の別殿を移築して再建したという客殿・慈恵堂、慈眼堂とその他の堂宇が建ち並び、徳川氏の信仰が厚く、江戸・寛永寺と並んで関東の二大寺であった。重文に客殿、書院、庫裡、山門、慈恵堂、鐘楼門などが指定されており、境内に有名な五百羅漢がある。
 喜多院の「おみくじ」の原本は、東京・浅草寺の『元三大師百籤』で、先代の住職が戦後、浅草寺から喜多院に赴任したときから使っているという。その第十 大吉は、どこの古い寺にもある「おみくじ」である。

「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★★
関東天台の中心は?
 天台宗は布教の教線を東国へ推し進めていく。その拠点となった寺院は県内では天武2年(673)開山と伝える都幾川(ときがわ)村慈光寺、天長7年(830)勅願によって創建されたという川越市喜多院などである。智識を慕い、東国各地から衆生が集まる学問道場として、栄えた。
 とりわけ、江戸時代まで無量寿寺(むりょうじゅじ)といった喜多院は、慈覚大師円仁(えんにん)(794〜864)を開基とし、伽藍を整えていくが、元久2年(1205)兵火にあい、堂塔のほとんどを消失した。衰勢を経て、永仁4年(1296)尊海(武蔵足立郡の人)が伏見天皇の勅許を得て再興、星野山の山号がつけられた。
 このとき寺中の支院として仏地院(中院)が建立された。中院は言語で仏教を説き示した顕教と密教を布教したので、関東地方の天台宗580カ寺は中院へ属し、正安3年(1301)後二条天皇の綸旨により、関東天台本山となり、仏蔵院(北院)とともに関東教学の中心として繁栄した。
 こうして、いつのころからか、無量寿寺は、中院、南院(地蔵院、現在廃絶)、北院から構成されるようになった。
 しかし、天文6年(1537)ふたたび兵火にあい、一山の大部分を焼失してしまった。それから約半世紀後、天正16年(1588)入山した慈眼大師天海(1536〜1643)が再興し、北院を喜多院と改め、喜多院が誕生した。この間、寺勢は衰え、修行僧も減ったと思われるが、天海の奔走で盛時の面影を復活する。
 だが、堂塔を再建したのもつかの間、寛永15年(1638)川越大火により全山を焼失してしまった。甚大な被害を受けながらも、再建の対応は素早く、翌年復興を開始、今の伽藍を整えた。その伽藍は、寛永の大火後、江戸城紅葉山から移築された客殿、書院、庫裡(いずれも書院造りの様式を備え、慶長年間建築。国重文)などである。
 現在、古代仏教が信奉した学問と信仰の性格は、変容したが、参詣の人はひきも切らない。
(昼間 孝次)

「あなたの知らない埼玉県の歴史」 監修 山本博文 歴史新書 2012年 ★★
【第4章】埼玉県の江戸時代
Q48 天海が川越大師「喜多院」を再興したのはなぜ?

「喜多院(上)歴史 監修/柳田敏司 文・写真/有元修一 さきたま文庫27 1991年 ★★★
・星野山喜多院
 「小江戸川越」を象徴する蔵造りの町並みの東側に、川越のお大師さまとして知られる天台宗の喜多院がある。
 星野山喜多院。その名は、川越のというより、埼玉を代表する寺院として全国的に有名である。
 それは、江戸時代初期の名僧天海大僧正が住職をつとめた寺として、また、江戸城から移築された、三代将軍家光や春日局ゆかりの建物をはじめとして、 多くの文化財を所蔵していることなどが理由としてあげられる。
 一方、歴史的にも、鎌倉時代を中心に独自の発展をとげた関東の天台宗教学の拠点寺院として、関東の同宗寺院580余カ寺の総本山であった無量寿寺を母体としていることなど、 仏教史上重要な役割をはたした寺院である。
・無量寿寺の開創
尊海僧正による再建
・喜多院の成立と天海大僧正
・関東天台宗法度
東照宮の造営
寛永の大火
・寛永期以後の喜多院
・戦後の復興
・年中行事

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 円仁(えんにん)
794〜864(延暦13〜貞観6)平安前期の天台宗の僧。
(生)下野国都賀郡。(名)俗姓は壬生氏、諡号慈覚大師。
第3世天台座主。生家は下野国の有力地方豪族という。幼くして父を亡くし、母に養育され、とくに長兄から漢籍の手ほどきをうける。802(延暦21)同郡の大慈寺の僧広智の弟子となり、薫陶をうけて数年をへずして諸部の典籍に通暁。’08(大同3)比叡山に登り、最澄の直門に加わり、止観の法を学ぶ。’16(弘仁7)東大寺で具足戒をうけ、’28(天長5)からしばらく故郷で布教生活ののち帰山し、首楞厳院(しゅりょうごんいん)(比叡山横川中堂)に籠居し、その基礎をつくった。’38(承和5)に入唐し、五台山・大興善寺などで学び、在唐10年におよぶ。その間の様子は日記「入唐求法巡礼記」に詳しく、帰国に際して将来した典籍などについては「円仁将来目録」に詳しい。帰山ののちは東塔の山房(前唐院)を営み、根本観音堂(のちの横川中堂)を建立し、最澄の遺業の大成につとめた。’54(斉衡1)第3世天台座主となり、天台密教の根本堂場として法華総持院を建立し、山門派の祖となる。死後、’66(貞観8)慈覚大師の称号がおくられた。
(著)「顕揚大戒論」
(参)ライシャワー「世界史上の円仁」1955(訳1963)、本多綱祐「慈覚大師伝」1962、佐伯有清「慈覚大師伝の研究」1986。

「喜多院(下)文化財 監修/柳田敏司 文・写真/有元修一 さきたま文庫28 1991年 ★★★
喜多院の文化財
・客殿・書院・庫裏
・慈恵堂と慈眼堂
・山門と鐘楼門
・多宝塔と日枝神社本殿
・太刀 銘「友成」
・職人尽絵屏風   指定名称「紙本着色職人尽絵」(国指定重要文化財)
 六曲一双の屏風に24枚の絵を上下2段に張り込んだもので、1枚の絵は縦約58センチ、横約44センチ、紙本極彩色で金砂子を散らしている。
 作者は、絵の中に「吉信」の壺型の朱印があることから近世初期の画家で狩野派の長老の一人である狩野吉信(1552〜1640)とされる。吉信の作品はほとんど残っていないことから貴重である。 
 描かれている職種は、仏師・傘師・革師・鎧師・経師・糸師・形置師・筆師・扇師・檜物師・研師・弓師・数珠師・鍛冶師・機織師・刀師・矢細工師・蒔絵師・向縢師・番匠師・畳師・桶師・縫取師・纐纈師・藁細工師の25種類である。
・天海大僧正寿像
・宋版一切経
・松平家廟所と五百羅漢
 喜多院の山門を入ると右手に石の塀が続いている。その中をかいまみると、石の人物像がたくさん並んでいる。これらは、その姿態や表情の多様さで、近年とみに著名となった五百羅漢である。 
 中央に禅定印を結ぶ釈迦如来と脇侍の普賢・文殊の両菩薩を配し、周囲に535体の羅漢像が並ぶ姿は壮観である。
 この五百羅漢は、天明2年(1782)に北田島村(現、川越市)の志誠(しじょう)という人物が発願して造立をしはじめ、多くの助力者や遺志をついだ喜多院の坊さんたちの手により、文政8年(1825)に完成したものである。前後50有余年の大事業であった(市指定史跡)。
・再び、喜多院の文化財
  探題亮忠大僧正のこと(柳田敏司)

 喜多院 川越インターネットモールのなかにあります)

「にっぽん歴史秘話」 秋元茂 河出文庫 1989年 ★★
●埼玉
川越大師と天海僧正
 埼玉県川越市小仙波の「川越大師」は、正式の名称は関東天台宗総本山・星野山無量寿寺喜多院だ。境内にところ狭しとならぶ石像の五百羅漢に人気があり、おまいりの人が絶えない。
 天明二年(1782)の大飢饉のとき、川越在のお百姓さんが災厄除けを願って奉納したのが始まりで、以後五十年がかりで多くの人が寄進して完成したという。徳利を下げた僧や般若湯を飲む僧、気持ちよさそうに居眠りをする僧もあれば、こそこそと二人でささやくものや、なたまめ煙管でたばこを喫んでいる僧もある。一体一体なんともユーモラスで、人間臭さがあり、見ているだけで楽しくなる。
 喜多院は鎌倉時代のなかごろ尊海僧正が創建したが、兵火で焼失していたのを、慶長四年(1599)天海僧正が再建した。
 天海といえば、武田信玄に招かれて甲斐に滞在中、永禄四年(1561)九月十日の「川中島合戦」に従軍し、例の謙信対信玄の一騎打ちを「つぶさに見た」と証言したことで有名。のち徳川家康のブレーンの筆頭で「黒衣の宰相」と呼ばれて権力をふるった。寛永二十年(1643)に死んだときは百七歳だったという。

「歴史と人と 埼玉万華鏡 柳田敏司 さきたま出版会 1994年 ★★
 第2章 武蔵探照/天海大僧正と喜多院
 天正十八年(1590)、関東を平定した豊臣秀吉は、この関八州の地を徳川家康に与え、ライバル家康を東国の地へと移封した。家康は祖先伝来の地三河を去り、一族郎党を引きつれ、同年八月朔日、寒村の小さな江戸城へ入城した。
 当時、江戸城は入間川、荒川が海に流れこむ河口にあり、海に面した丘あり、川あり、湿地ありの典型的な戦国期の城にすぎなかった。江戸城を本拠地に定めると、直ちに地割りを行うなど家臣団の居住地を区画整理したり、領地内の関八州を巡視して民情視察をこまめに実施した。領地は旗本領、直轄領に知行割し、領内にあった各地の城を廃城とする他、民心を掌握するため、民衆に大きな影響力をもっていた寺社を保護し、それぞれ寺社領を寄進する政策をとった。
 家康が江戸城に移った頃、天海も武蔵に居住するようになった。天海は会津の出生(出生年月については諸説あり)で、一一歳のとき僧籍に入り、のち叡山、恩城寺、興福寺、足利学校等で諸学を学び、武田信玄に招かれるなど学僧として名があった。天正十六年(これも諸説あり)武蔵仙波の無量寿寺豪海に師事して住し、名を天海と改名していた。ここで家康の知遇を得ることになる。
 慶長四年(1599)仙波北院の住職となってからは、特に家康と接し、宗教上の相談役となるとともに信任もいっそう厚くなった。
 無量寿寺は北院、中院、南院とあったが、天海が北院に住するようになってからは「喜多院」と改め、関東天台宗の檀林となり、慶長十七年には寺領五〇〇石を与えられ、破格の待遇を受けた。
 元和二年(1616)家康が没すると、神号をめぐって「明神」説の金地院崇伝と論争し、山王一実神道から「権現」とすべきとする自説を貫き通した。以後、家康公のことを「大権現様」と称するようになった。翌年、遺体を久能山から日光へ移送する際、特に四日間も喜多院に霊柩を安置し、天海が導師となって法要を行ったが、いかに天海の力が幕府内に及んでいたかをうかがうことができる。
 この法要を契機として寛永十年(1633)喜多院隣接地に、幕府直営で東照宮を建立した。しかし惜しいかな寛永十五年正月、川越の大火で喜多院の諸堂舎とともに類焼し、灰燼に帰した。そこで天海は直ちに将軍家密に願い出、幕府の援助を得て喜多院と東照宮の復興に着手、江戸城内の紅葉山に空屋となっていた御殿を拝領して解体移建した。現在の喜多院はこのとき移築した建物で、書院、客殿、庫裡等は重要文化財となっている。
 なお東照宮は老中堀田正盛が総奉行として寛永十六年から再建したもので、こちらもすべて重要文化財建造物となっている。
 二代将軍秀忠の旨をうけ、天海が上野に寛永寺を創建したのは寛永元年のことである。その開山となり、後にここで天海版大蔵経の校本を作り始めたが、その完成をみず、寛永二十年十月、一〇八歳で永眠した。慈限大師の号をおくられている。
 天海は叡山の南光坊に住して学問も教えていたので、南光坊天海とも称されていた。単に家康の信任が厚かっただけでなく、政治顧問としても枢要な義に応じており、さらに秀忠、家光と徳川三代に仕え、信仰、精神、文化面の相談役として活躍していた高僧であり、政僧であったともいえる。
 天海の生前、二か月前に完成した木造寿像が喜多院慈眼堂に安置されている。その像は学僧、高僧、政僧を偲ばせるに十分である。

「春日局おもしろ事典」 佐方郁子 新人物往来社 1988年 ★★
 川越喜多院には寛永の匂いがいっぱい
 川越は松平信綱の領地である。江戸城紅葉山の建物を喜多院に移築するのに、彼が開設した新河岸川の舟運が大いに役立った。また喜多院所蔵「職人尽絵」は有名である。
 埼玉県川越市小仙波にある天台宗喜多院の由緒は古い。天長七年(830)、慈覚大師円仁が仙芳仙人の旧跡にちなんで、勅願によって建立、星野山無量寿寺と号した。喜多院はその中の一院である。他に南院、中院などがあったが、元久元年(1204)戦乱に巻き込まれて焼失、永仁四年(1296)尊海が再興した。
 以来、関東の天台宗派の中心になったが、天文六年(1537)再び兵火に焼かれ、荒廃の一途をたどっていたところに、慶長四年(1599)天海が住職となると、幕府における天海の発言権の増大とともに幕府の後援を得て、次第に寺容を整え、七五〇石、四万八千坪を領し、天台宗八箇壇林の一として栄えるようになった。
 現存する建物は、正面の山門以外、すべて寛永十五年(1638)焼失後に家光の命で再建されたものである。山門をくぐると沙羅双樹の木の下に五百羅漢が安置されて浄土のムードがただよう。庫裏、書院、客殿は江戸城紅葉山の別殿を新河岸川の水利を使って移築したものである。
 その単層寄棟造りの書院には、「家光誕生の間」や「春日局の化粧の間」があり、化粧の間は八畳二間、春日局が実際に使用した部屋はここだけだという。また中二階に隠れ部屋があるが、大奥の女中を折檻(せっかん)したのではないか等と言われている。
 ともあれ、寛永期の貴重な遺構である。
 春日局ゆかりの土地・史跡
 (35)喜多院 川越市小仙波町
 天台宗の寺。天正十六年(1588)、天海を住持に迎え東叡山喜多院としてから寺運が開けた。家康の遺体を久能山から日光へ移す途中、ここで法要を営む。寛永十五年(1638)炎上。翌年、家光別殿を移して復興した。客殿に家光誕生の間、書院に春日局化粧の間がある。重要文化財「喜多院職人尽絵」はいろいろな職業を描いたもので、風俗史的にも貴重な資料。境内の仙波東照宮は日光、久能山と並ぶもので、堀田正盛寄進の鳥居や歴代川越城主奉献の灯篭とうろうがある。  (作成/佐藤瑛子)

「江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談 小川恭一 講談社 2007年 ★
第一話 江戸城のトイレ、将軍のおまる

「江戸城を歩く」 黒田涼 祥伝社新書 2009年 ★
11 都心のオアシスから皇居内へ 皇居外苑と西の丸
 今も残る江戸城の遺構、三つの櫓を見て回る
  唯一残る、櫓と多聞の美

思わず人に話したくなる 埼玉学」 県民学研究会編 歴史新書 2013年 ★★
第5章 自慢したい埼玉県の名所・旧跡
 45 江戸城の建物が現存する川越喜多院

「日本の歴史13 戦国大名」 辻達也 中公文庫 1974年 ★★
 東叡山の創立

喜多院の写真

五百羅漢
「喜多院 五百羅漢」 撮影/金井竹徳 解説/大護八郎 東出版 1979年 ★★★
 関東天台の名刹・川越喜多院に残る五百羅漢の群像は、総数540体といわれるが、古刹の厳粛な雰囲気とは対照的に笑いとユーモアの氾濫である。江戸期の民衆の中にある笑いが、ここにもっとも明らかに露出した≠ニいわれる、新しい民衆の信仰、あるいは民衆芸術の誕生でもあった。グラビア図版160頁

 喜多院の五百羅漢/羅漢像の前で から一部抜粋

 喜多院の厳粛な雰囲気、難渋な碑文とはうって変って、まさにユーモアと笑いの氾濫である。順序に構わず先づ一巡して見ることである。何というさまざまの姿態、表情であろうか。寝ころんで腰をもんでもらっているもの、頬杖を突いてにんまりと笑っている顔、太い指を突っこんでとぼけて鼻糞をほじくっているもの、暑さに耐えかねてか両肌を脱いで涼を入れているかと思えば、狆(ちん)に団子をやったり、鶏に笊から餌をやっているところ、尺八を吹き、箒で庭を掃く人、そうかと思えば牛や鹿の頭を撫で、あるいは象を抱え大蛇を抱き、竜を突くなどのすさまじいものもあるが、顔はいたっておだやかである。それにしても何と笑い顔が多いことであろう。明らかに笑っているものを試みに数えてみると、ざっと百二躰ばかりある。稀に怒った顔、こわい顔、生真似目な顔もあり、柔和な菩薩相も数体あるが、総じて何と醜男が多いことであろう。着るものは普通の僧侶の衣であるが、それも袈裟をかけたものはほとんどない。僧形なるが故に、羅漢の多くは香炉や鐘・払子(ほっす)をはじめ仏具を手にしてはいるが、そのくつろいだ姿態、気の良さそうな笑顔、不細工とでもいうべき顔はまさに庶民そのものである。そこにあるものは仏法の厳しい戒律、難解な教義、生老病死の人生苦とはおよそ縁遠いもので、束の間の閑暇を、おのが向き向きに心ゆくままに自由に堪能して生きていることの楽しさである。
 それにしてもこの無数ともいうべきおびただしい群像、しかもその一つ一つがまったく同じものがないこの千変万化の姿態・相貌は何を意味するものであろう。ここの石仏は総数540体に及ぶ。夜ひそかにここに詣り、その像の一つ一つに触れて歩くと、必ず体温の暖かさを感ずるものがあるという。それに印をつけておき翌朝明るくなってその前に立って見ると、会いたいを思った亡き人の相貌にそっくりだという。こうした伝承は他の地方の五百羅漢にもあるが、これだけの相貌の中には、一つや二つ会いたい人に似通ったものがあっても不思議ではなかろうし、その庶民的な姿が一層の親しみをもって感じられるのであろう。百観音・千体地蔵などにそうした伝承が乏しいのは、その姿・相貌が一律に過ぎるからであろう。

「羅漢 仏と人のあいだ 梅原猛 講談社現代新書471 1977年 ★★
 4―民衆の中なる羅漢 喜多院・中山寺・壺阪寺
 五百羅漢
 十六羅漢、あるいは十八羅漢の崇拝とならんで、盛んなのは五百羅漢の崇拝である。五百羅漢の崇拝はどうして起こったのか。十六羅漢の崇拝が、十八羅漢の崇拝を生んだ。大乗仏教は、いつも仏の数をふやす傾向がある。もと釈迦崇拝から生まれた仏教が、のちに釈迦の能力の分身とみられる多くの如来や、菩薩を生んだ。同じことが、羅漢についてもいわれるのかもしれない。十六羅漢が十八羅漢となり、やがて五百羅漢となる。
 五百羅漢図を見ると、十六羅漢図の延長のうえに描かれたものが多い。説法するもの一人とか、聴くもの八人とか、竜女の玉を献ずるもの六人とか、餓鬼にめしをやるもの四人とか、かの十六羅漢が数的に拡大したものである。五百羅漢が十六羅漢の数的な拡大であったとしても、なぜ、それは百羅漢、あるいは二百羅漢でなくて、五百羅漢になったのか。五百羅漢という数は、暗に仏滅後、第一結集の五百羅漢、あるいは毘婆○(波の下に少)論結集の五百人の仏弟子などの数字にちなんだものといわれる。
 五百羅漢は、十六羅漢の数的拡大である。けれど、十六羅漢が五百羅漢となることによって、多少意味は変わってくる。羅漢が十六人のうちは、まだ一人一人の個性が、はっきりするけれど、五百人となれば、一人一人の個性は、あまりはっきりしたものとならなくなる。一人一人の羅漢の内面性のちがいなどというものは、もはや、ここではあまり重視されない。むしろその差異をはっきりさせるためには、その内面性のちがいではなくて、外的な形のちがいを強調しなければ、とても五百人を弁別することはできない。そればかりではない。羅漢が五百人となることにより、羅漢は、法華経信仰とも結びついたようである。法華経には、法華経を聴く五百人の羅漢の話が出てくる。この話を、羅漢信仰と結びつけると、羅漢は法華経を信仰する五百人の仏弟子となるのである。このように考えると、羅漢信仰は、単に禅ばかりではなく、天台にも、あるいは広く仏説をひろめるものとして真言にもひろがってゆくのである。
 しかも、日本の庶民には、この奇怪なる人間、羅漢の信仰はよくわからない。どれだけ、日本の民衆に羅漢の思想が理解されたか、かの黄檗山万福寺の羅漢像のようなものは、ニ度と日本ではつくられなかった。真似ごとの好きな日本人である。たいていのものは、みごとに真似をする。それが日本人の精神的特徴である。けれど黄檗山の羅漢像はまねられない。この羅漢という人間の持つ奇怪さは、どうも日本人好みではなかったのではないかと思われる。
 十六羅漢像のほうは、どうも日本では好まれない。その発展は行きづまりではなかったかと思う。禅月や李竜眠の絵のようなすぐれた羅漢図を日本人は生みだすことができたか、答えは明らかに否であるように思う。
 十六羅漢図は、日本では、どうもあまりよいもの、少なくとも中国以上のもの、あるいは中国とはまったくちがったものを生み出すにいたらなかったが、五百羅漢像はまったく独自なものを生み出したかにみえる。独自なものというのは、必ずしもすぐれたものという意味ではなく、少なくとも日本的特徴を持ったものという意味である。
 羅漢の人間化
 図54から66までの写真(略)を一枚一枚見てごらん。ここには明らかに日本人の顔があり、日本人の生活がある。しかもそれは、まぎれもなく日本の庶民である。ここにきてやっと羅漢は、中国的相貌から解放された感じがある。羅漢は、ここにきていちじるしく日本的になった。ここで羅漢の表情が明るくなった。羅漢の表情から、奇怪な暗さが消えてしまった。
 この石の羅漢群像は埼玉県の川越市の喜多院にある。喜多院は、かの金地院崇伝とならんで、徳川時代の最大の政僧である天海の寺である。天海は、天台、真言を学び、のちに、独自の神仏習合の思想をつくり、家康を東照大権現として神仏化した大怪僧である。
 この喜多院は、さすがに天海の寺らしく、かつての栄光をしのばせるさまざまな豪奢な遺品がたくさんあるが、その寺の一隅に、この五百羅漢像なるものがある。これはまったく幕府の威光とは別なところでできたものである。まったく民衆の力による、新しい一つの信仰、あるいは芸術の誕生がそこにある。一個一個は、一時にできあがったものではない。民衆は一個一個の製作を、名も知られぬ何人かの芸術家に託した。それによって彼らの父母や近親者の霊をとむらうとともに、一つの庶民信仰をそこに確認したのである。
 ここに漂っているのは、何ともいえぬユーモアである。日本の民衆のなかにある笑いが、ここに、もっとも明らかに露出したのである。仏像はもともとインド、西域産のものである。羅漢も、おそらくは中国産の像である。もっぱら異国風の仏像の崇拝が日本の仏教では行なわれる。そして、異国風の仏像にたいする崇拝には、いつも緊張が伴っている。日本の仏教信仰には、やはり、過度に緊張していささか背のびした姿があった。そして、そのいささか緊張した背のびをした姿は、明治になって日本人が外国文化を受け入れる場合も続くのである。
 しかし、この川越の喜多院の羅漢たちは、そういう文化移入の緊張からまったく解放されているようである。民衆のくつろぎ、一仕事終えて、これからおいしい食事にかかろうとする一服したところの姿が、ここにある。
 羅漢は、明らかに人間の限界を超えようとする人間であった。その意味で羅漢は一個の超人であった。あるいは超人を意志している人間であった。そういう人間離れのところが羅漢の魅力であるとともに、同時に羅漢の無気味さであった。しかし、ここにきて羅漢はまったく人間となった。もはや、ここでかつての羅漢が持っていた無気味さは姿を消している。作者は、羅漢の名において、人間を、ごくふつうの人間をつくったにすぎない。ここで確かに羅漢の無気味さは消え、同時に羅漢の魅力は消える。しかし、その無気味さと結びついた羅漢の魅力は消えるが、別の魅力がそれに加わる。人間的であること、あまりに人間的であるという魅力がそれに伴うのである。写真を順次に見てゆこう。
 市井の姿
 耳くそをほっている羅漢がある(図55)。鼻くそをほっている羅漢がある(図56)。ずいぶんきたない羅漢である。かつての羅漢もずいぶんきたなかった。そのきたなさは、何か異常なものを秘めているきたなさであった。ここで、きたなさは、ごく日常的なものとなる。日常的、あるいは市井的といったほうがよいかもしれない。羅漢が、市井のおじさんのように、鼻くそや耳くそをほっているのである。
 いねむりをしている羅漢もあるし、あくびをしている羅漢もある(図57,58)。とみると、ないしょ話をしている羅漢もある(図59)。このないしょ話も、かつての羅漢のようにかくべつ高尚な話をしているとは思われない。市井のうわさ話である。誰それのところの女房がふた子を生んだとか、誰それのところの猫が、どぶへ落ちたとか、ごくたわいもない話のようである。あるいはないしょ話ではないのかもしれない。左の老人が耳が遠いので、右の男が彼の耳のそばで大声で話しているのかもしれない。
 だるまの口をおさえている羅漢がいる(図60)。これはまさに庶民の知恵だ。庶民はいささかおしゃべりが好きである。そしておしゃべりは、しばしば禍いを生むのである。この男も、いささか口が軽いのである。口の軽い彼は懸命にダルマの口をおさえて、無言を自らにいい聞かせるのである。口は禍いのもと、ご注意、ご注意という声が、この石像から聞こえてきそうである。
 酒をついでいる羅漢がある(図61)。とにかくうれしそうである。酒をつぐ男のうれしそうな顔、それを受ける男の顔、この男は下唇をつき出し、すでに心の中で酒に舌なめずりをしているようである。酒は何とかという理屈はここにはまったくない。とにかく酒はおいしいのである。おいしい酒を楽しく飲む。それ以上の理屈は必要があろうか。ここにはかつての羅漢が持ったむずかしげな理論はない。
 この羅漢は石を抱いているのである(図62)。「石を抱いて野にうたう」という文句が思い出される。石を抱くのは、禅のさとりを示すのであろうが、この男は、いささかのてらいもなく石を抱いている。彼は重くてかなわんといっていそうである。ここにきて禅の教義も、もっとも日常的な民衆レベルで受けとめられる。苦行の姿すら、ここでは軽々と表現されるのである。
 民衆の精神
 図63は例のラゴラ像であろう。万福寺のラゴラと同じく、このラゴラも胸から釈迦像を出している。けれど、この恥ずかしそうな顔はどうだ。田舎の百姓が、お医者さんに、胸を見てもらっているような顔である。ここに真理がある。これを見よというようなきびしい顔ではけっしてない。禅のきびしさも、ここにきてあまりに軽いものとなる。何げない笑いとともに重大な真理を語れとは、ニーチェのことばであるが、ここで笑いとともに重要な真理が語られている。
 図64だってそうだ。ここに人間の慈悲の姿がある。抱かれている子はみなし子かもしれない。あわれなみなし子を拾ってやる。それはいささかオーバーな解釈かもしれない。これはたいへん家庭的な一人のパパが子供と遊んでいるところかもしれない。しかし、いずれにせよ、子供たちと遊ぶパパは、慈悲心のパパである。その慈悲の姿を、何とさりげなくあらわしていることか。
 図65だって、学問のすすめを示す像であろう。この羅漢は万巻の書を読み終わり、今や深い思索にはいろうとしているのかもしれない。あるいは、彼はファウストのように、すべてのものに絶望しているのかもしれない。いずれにせよ、彼が学者であることはまちがいない。しかしこの学者の姿が何と軽々とつくられていることか。
 そして最後にこの寝姿(図66)、それは一見、釈迦の涅槃図をかたちどったものではないかと思われる。けれど、これはまったくの安楽図である。コノ世ノ楽ハネルニ限ル、といいたげな安らかな寝姿である。そばの男に足をもませた寝姿、それが、ひょっとしたら日本の民衆の極楽のとらえ方かもしれない。
 喜多院の五百羅漢の庭には、ユーモアがみちている。いたるところで、アハハ、ウフフ、イヒヒという、さまざまな人間の笑い声が聞えてきそうである。笑いのオーケストラといいたいが、それはオーケストラのように一人の指揮者に指導された笑いではない。まったく無邪気に、あちらこちらで、アハハ、イヒヒと笑っているというふうである。
 確かに、ここに日本の民衆の一つの精神の表現がある。そして、それは今日まで、われわれが伝えている一つの笑いの形である。五百羅漢像は、いろいろなところでつくられる。しかも、それは多くの無名の作家によってつくられている。こうした作家は疑いもなく民衆の一人である。そして、民衆が、彼らの一人に、多くの羅漢像をつくらしめた。
 五百羅漢像には、いろんないいつたえがあり、多くの羅漢像のなかには、必ず君の両親や親族に似ている像がある。もし死んだ縁者にあいたいと思ったら、五百羅漢像のある寺へ行けばよい。そこで必ず君の死んだ縁者にあえるというのである。五百羅漢像は、こうした実践的目的によっても、多くつくられたかにみえる。そして各地に五百羅漢像がつくられ、それが信仰の対象となるのである。

「一期一会 川越大師喜多院 五百羅漢像 善翁院法眼一葦/編著 本の泉社 2000年  ★★★
 発刊に際して
 私の一期一会は還暦を迎えて偽(いつわ)りや見せかけでない本当の自分と出会うことができたことである。すなわち自分の中の心の内を静かに見つめることができたのだった。それは一人一寺心の寺との出会いに始まり、童(わらべ)佛、観音菩薩、如来、羅漢さんであり禅画・達磨との一期一会のおかげである。新たな心の世界の発見とふれ合う人々とのご縁はいつも新鮮で尊さを感じる。新たな心の世界とは、釈迦佛法の真髄にふれることである。自らも人として生きるべき精進と実践を自分なりに探し出すことができた。写経と写佛講座、禅画講座、羅漢画を通して全国の多くの方々と心の交流や出会いに恵まれたこのうえない幸いである。
 川越大師喜多院の五百羅漢さんとは、1992年に川越市に住んで居たので散歩の折りしばしば羅漢さんにお会いしていた。日本と中国の禅の文化を調べるうちに羅漢さんの由来を知り、羅漢信仰や羅漢供養会が続いていることもわかった。何ヵ寺かの羅漢像のある寺巡りをするうちに喜多院五百羅漢さんの際立った魅力に引きこまれた。羅漢さんを通して、また新たな出会いふれ合い一期一会のはじまりを念じ、私の記念樹のつもりで刊行を試みたものである。      合 掌
 2000年2月吉日                          椎名 豊(一葦)
 その一
  はじめに
 埼玉県川越市に平安時代創建(慶長4年、1599)の星野(せいや)山無量寺(ママ)喜多院がある。境内に入ると五百羅漢の群像を拝観できる。静寂の中で何やらざわめきを覚える。それが喜多院五百羅漢の特色である。さまざまの職業の人がいる。十二支の動物がいる。観音さん、達磨さんもいる。如来、菩薩、修行僧も尼さんもいる。学者も書生もいる。酒を酌みかわす者、苦渋に満ちた顔、高笑いの顔、落ち込む者、ふんぞり返る者、世間話に興じる者。いやはや浮き世のさまを見事に再現する群像ではないか。羅漢とは、仏法を修得し、悟りの境地に至った聖者のこと。この群像たちは、悟りをひらく以前の凡夫であった当時の自らを再現することにより釈迦の説いた、人間の真実の姿を直視してのち佛法の教えに帰依する道筋を物語っているのではあるまいかと思えるのである。
 五百羅漢を発願した人は北田島村(現川越市)の志誠と云う。多くの協力者や、石工、お坊さんたちの手により作像は受け継がれる。天明2年(1782)から文政8年(1825)その前後約50有余年の歳月を要す大事業だったという。(さきたま文庫28文化財
 初期の作像から今日まで216年が経ちかなり風化の目立つ像もある。時代は変わっても人間の根源である凡夫の喜怒哀楽の姿は変わらない。五百羅漢を眺めていると心が安らぐ。今日私たちの生活文化も確かに受け継がれていることを教えてくれる。
 その一の発刊を手始めに五百羅漢像全てを描き残したいと思いたった次第である。
   1998年12月吉日 
編・著 禅翁院法眼一葦
 その二
 羅漢さんのルーツを尋ねると中国仏教に至る。日本天台教学の祖最澄はじめ、禅の栄西、道元等、日本の初祖名僧の多くが学んだ里でもある。即ち天台山国清寺(538年開く)、太白山天童寺(300年精舎建立)という中国の名寺・名刹である。国清寺は、禅の豊干、詩人の寒山・拾得でも名をはせており、亭が残っている。境内には羅漢堂があり十八羅漢、五百羅漢が並んでいる。
 中国の寺院に詣でると布袋(弥勒菩薩)さん、羅漢(聖者)さんに必ず会うことができる。両者とも脱俗風であり、吉祥に縁深く中国の民衆には古代より親しまれ信仰の対象になっている。
 日本で羅漢信仰が民衆に拡がるのは鎌倉期なかばからである。とりわけ道元禅師が天童寺修学より帰国後、建長元年(1249)1月、羅漢供養会を行って、それ以降と言えよう。なぜ、羅漢が、道元禅師は坐禅の厳しい修行の中で仏弟子である羅漢を示現し、修行の模範としたといわれている。ここ喜多院の五百羅漢は川越在の農民志誠(しじょう)が父母らの霊を追善するため発願(ほつがん)し彫(ほ)り始めた。当時は天明(てんめい)の大飢饉下にあり故人に対する供養(くよう)であった。彫像は生前の喜怒哀楽を見事に再現している。楽しかった現世日々の姿、故人の癖や嗜好、近在の生活にかかわる人々、吉祥に安心(あんじん)を求める庶民の姿もある。
 では、羅漢さんは、仏なのか単に生活者像なのか。一般民衆は身近なる人間ととらえた。白陰禅師は説いた「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし」と。
(1999年正月記)
 その三
 天明の大飢饉とは、天明3年(1783年)春から夏にかけて冷気止まず農作物被害、付随する物価高騰、疫病発生、米買占め、年貢割増、米屋焼き打ち一揆続発など社会騒乱が起こり、関東から東北一帯を未曾有の大飢饉下においた。同年7月には浅間山が大爆発して降灰、泥流による人的、物的被害に拍車をかけた。農民は草木の根を食べ秋に至っては日を追って餓死者が相次いだ。母の死を知らず乳房にすがる幼児の姿や、死人を喰う犬などの絵が数々残っている。川越五百羅漢には、平和に営まれていた当時の小江戸の街衆の姿、商人や百姓、学問する人、子供をあやす女、釣り人、十二支の信仰図など実にさまざまの像形が並んでいる。五百羅漢像に一定の像形様式があるかを調べると、羅漢の姿は剃髪して袈裟かけの像形(比丘姿、尼僧)であるが、造型は自由であり型式にこだわらないと云う。
 羅漢とは梵語でアラハンと云い、音訳で阿羅漢となる。略して羅漢と呼ぶ。意味は悟った人、世の尊敬を受けるに値する究極の聖者≠ニ云う。単に「聖者」でもよい。
 釈尊も修行中は第一番目の阿羅漢であった。釈尊の弟子達が悟りを得て阿羅漢果になる時、弟子は釈迦を世尊≠ニ呼び、釈尊は仏弟子を比丘と呼んでいる。比丘とは、托鉢遊行し乞う人を指す。つまり羅漢とは悟りを得た僧≠フ呼び名であった。
 五百羅漢の所以は、釈迦入滅後、第一回の仏典結集(けつじょう)に参加した比丘たち五百人を指している。百年後の第二回結集には七百人の羅漢が参集したと云う。
(1999年2月記)
 その四
 阿羅漢達は釈尊生前に私は是(こ)のように聞きましたと回顧する。経典のはじめに、如是我聞≠ニある。阿羅漢のまとめた最も早い経巻を増一阿含経≠ニいう。百年後、第二回目の結集には七百人の選ばれた大阿羅漢が参集した。ここでは教義と戒律が作られる。そのころすでに小乗(出家修行僧として阿羅漢果を目指す者)と大乗(菩薩行を目指す者)の二派が現れたと云う。
 小乗派は戒律修行を重んじ厳しさを極める。大乗派は、釈尊の教えは、人間ならびに生きとし生きるもの全てを等しく救うものとして、菩薩行を実践することになる。
 さて、五百羅漢信仰の発祥地は中国南北朝の初期(470)である。日本へ最初に請来したのは喬然(きょうねん)である。永延元年(987年)宋から禅月大師作の模本であった(東京国立博物館)。中国で盛んになる五百羅漢信仰は唐の時代(650年)であった。「宋高僧伝」唐の末期、文宗の時代に天台山に五百羅漢殿が建立されている。当時の羅漢信仰は、朝廷にまで及び皇帝が造像したといわれ、貴族から一般民衆にまで信仰は普及していた。中国唐時代の民衆の羅漢信仰の依り処は、飢餓貧困下の唯一の娯楽場として羅漢講から発展している。下層農民の社会事情の反映であったこと、利益(りやく)を求める貴族階級が民衆の羅漢信仰をも容認したことにあった。造像も数多く彫られている。(十六羅漢、十八羅漢、五百羅漢)
 今日、日本に五百羅漢の祀られる寺院は約66が確認されているが、高齢化、不況下の昨今、その数は増えつつあるという。
(1999年8月記)
 その五
 中国南宋時代(1127〜1252年)、羅漢信仰の盛んな時期に栄西禅師が入宋(1168年)し、道元禅師は1223年に入宋、27年帰国する。道元禅師が羅漢供養会を行って以降、日本の羅漢信仰や造像は盛んになる。羅漢は末法の世において釈尊の正法を護持する菩薩であり、生きとし生きるもの全ての災厄を取り除く福田僧である≠ニされる。すなわち羅漢の役割は、釈尊の教えを衆生に伝え、煩悩(貪、瞋、痴)故に起こるあらゆる人間の苦しみ災難を救済せよ、との釈尊の遺命を受けて仏とならず衆生の中に居て衆生と共に暮し、仏法を説く在家の修行僧なのである。
 川越大師・喜多院の五百羅漢は、日本各地に数ある羅漢像の中でも、美術的、仏教的かつ像形のユニークさにおいても抜群の真価と魅力あふれる彫像たちである。
 美術的には僧形で統一され、儀軌と仏典を踏えた造像である。その上で各種僧形では、江戸庶民の喜怒哀楽を再現して後の世に伝える貴重な文化遺産である。これが野ざらしのまま二百数十年たち、いまや風化欠損の痛々しさは誠に哀切の極みというほかない。私は五百羅漢像を描くに当り、風化や欠損脱落個処を彫像作者の心に念じつつ想像的に創作修復を試みた。よって、所載の五百羅漢は皆んな壮健な姿である。
 喜多院の羅漢像は実数530近い彫像群だが、作画500体をもとに、分類してみた。座像461、立像39、計500体、内、(仕草像177、持物像237、共連像40、瞑想・読者像46)となる。
 最後に私は、羅漢画の中に、私の知覚し得る釈迦仏法観を私の言葉で挿入して、私自身の懺悔自戒の念誦とした。
(1999年11月記)  合掌
 喜多院五百羅漢の分類
<仕草像>177(36%)
 手仕草
対話
合掌
腕組み
膝組み
膝立て
手重ね
作務
旅仕度
81
 6
 7
31
 3
17
20
11
 1
<共連れ像>40(8%)
 子供
動物
14
26
<瞑想・読書像>46(9%)
 読者
書物
瞑想
 7
 4
35
<持物像>237(47%)
 仏具払子
宝珠
数珠
経巻
他仏具
仏像
10
 3
10
21
22
 1
 花・実蓮華
菊花等
果実
 6
 6
 2
 様々な物棒・杖
ひょうたん
26
 3
 茶わん、壺、靴、鉢、扇子、ほうき、やかん、七輪、唐傘、人形、うちわ、鈴、絵馬、旗、尺八、ソロバン、エンピツ、筆、ほら貝、油入、茶道具、だるま、など156体
 あとがき
 喜多院の五百羅漢を描こう=A思いたって作業開始、ちょうど一カ年で満願成就となる。百体ごとにまとめ五分冊とした。写真とスケッチで線描を確かめつつ写実を旨とした。造像初期の羅漢さんは風化著しく困難を極めた。顔の崩れ手の脱落も数多い。昨今の大気汚染の影響もあろう。
 私のスケッチ画五百羅漢は全ての痛々しさを癒すことにした。顔や腕のない像も造像の流れから類推して補強を試みた。挿入した言葉は定年後六年間の佛法受講によって知り得た智恵言葉の中から、私の懺悔自戒としたい言葉を拾い集めたもの、ならびに私なりに受けとめている佛法の智慧言葉である。
 2000龍年(平成12年)正月吉日
白明山慈願寺善翁院法眼一葦  

写真集 川越喜多院 五百羅漢」 写真/下山辰雄他 文/小泉功 聚海書林 1988年 ★★★
 −目 次−
写真 春/夏/秋/冬
羅漢について
日本の羅漢信仰
喜多院の五百羅漢の発願者・北田島の志誠
喜多院の五百羅漢像の第一号と五十年の謎
「石碑三尊五百羅漢記」と志誠の墓碑銘
喜多院の五百羅漢を寄進した人々の地域
喜多院の五百羅漢建造の石工について
喜多院の五百羅漢と女性の信仰
喜多院五百羅漢像銘文
釈迦十大弟子・十六大阿羅漢
写真と配置略図番号一覧

「秩父路 野仏の詩」 森山隆平 椿書院 1975年 ★★
羅漢の寺にて
 川越喜多院の五百羅漢
 喜多院を訪れて五百羅漢を拝見しようと思うと、まず庫裡を訪れてその許しを待たなければならない。寸志を差出して記帳すると、羅漢を安置してある法域の鉄門の鍵を貸してくれる。一尺四方ばかりの厚板に鍵をつけ拝観の心得などを書いたいわゆる門鑑である。これが一種の拝観証で、拝観者自ら鍵をあけて自由に見学するのであった。今は立派な受付もできて誰だでも入れる様になっている。私にとっては数度の訪問であり、どの羅漢もいわゆる顔馴染みである。手足を按まさせているもの、二人で油を壺に入れているもの、ヒソヒソ話しをして笑っているものなど様々の姿態でどこの街角ででも見うけられるような顔の羅漢である。
 そしてどれもこれも男ぶりは余りよくないが親しみのある顔をしている。これらの羅漢の間に混っていると何か気どらない安心感に心が温まるのであるが、町中の粗末な酒屋の店先で泥まみれの職人衆と一緒に梅わりや二級酒のもっきりで一杯ひっかけているときのあのいつわりのない開放感、安直さ、気安い安心感を味わうことができるのである。羅漢さんはいつまでも羅漢でなかなか仏になれないところに、そして仏になろうとせずいつまでも凡愚のわたしたちと一緒に泣き笑い悲しんでいるところに妙な近親間があるかも知れない。法域は中央にお釈迦さま、脇士に文殊、普賢の両菩薩をおいてこれを取囲むように十六羅漢、五百羅漢が行儀よく並んでいる。すべて五百三十八体を数えるという。一寸した講堂のようで中には子をもつ比丘尼も一体混っている。
 喜多院七不思議の一つで、深夜ひそかに訪れて一体一体その頭を撫でると必ず一体だけ温かいものがあるので印をつけて帰り翌朝その顔をよく仰むと肉親に似ているという伝説が今も伝わっている。一体宛見て回ると、きっと誰かに似ているなあと思われるものが混っている。なかなかに巧みな石工の細工であろう、保存もよく、苔むして時代を帯び、静寂の中で今にも何かを喋りたい様な風情で坐っている。そういえば、この法域一帯は羅漢の声なき声がこだまして一通り拝観する頃はすっかりくたびれてしまうのである。拝観のあとで掛茶屋で一杯の茶がとてもうまかった思い出があり、何と十円の安さであったことが忘れられない。それも昔語りとなってしまって、今は罐ジュースが売られ昔の様な風情はなくなってしまった。
  (後略)
 登りつめた坂で(川越喜多院)
 叫ぶ(川越喜多院)
 とんぼ(川越喜多院)

「5.川越歴史小話」 岡村一郎 川越地方史研究会 1973年 ★★★
 7.羅漢さんが揃うまで

「埼玉史談 第33巻第4号」 埼玉郷土文化会 1987年1月号 ★★
 川越喜多院の五百羅漢について(上)  新保実・大島英夫

「埼玉史談 第34巻第1号」 埼玉郷土文化会 1987年4月号 ★★
 川越喜多院の五百羅漢について(中)  新保実・大島英夫

「埼玉史談 第34巻第2号」 埼玉郷土文化会 1987年7月号 ★★
 川越喜多院の五百羅漢について(下)  新保実・大島英夫

「埼玉史談 第37巻第4号」 埼玉郷土文化会 1990年4月号 ★★
 川越喜多院五百羅漢石像の造立年代  青木忠雄

「日本の仏様がわかる本 仏像の正しい知識と鑑賞の手引き  松濤弘道 日文新書 2002年 ★
第3章分家生まれの介添役の仏様【菩薩部像】
 菩薩部像の特徴とそのはたらき
  悪を懲らしめ粉砕する馬頭観音
第5章お客として招かれた補助役の仏様【天部像】
 天部像の特徴とそのはたらき
  インド・中国・日本の神仏の連合軍・七福神
第7章各国生まれの仏様【祖師像】
 インド生まれの祖師像
  その他の釈迦の弟子たち・十六羅漢と五百羅漢
  神通力を発揮した賓頭盧

 川越喜多院五百羅漢写真集


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作成:川越原人  更新:2018/11/2