「東京俳句散歩」と銘うってスタートした吟行地案内も、最終項となった。が、今回は東京ではなく、埼玉県川越である。取り上げたのには、理由がある。見出しに冠したように、川越は「小江戸」と称される。全国に、自称も含めて「小江戸」と呼ばれる町は数多いが、そのなかで名実の伴っているのは、川越を措いてないだろう。しかも、地理的にも東京から近く、余裕をもって日帰りのできる町である。
川越――その名のとおり、江戸(東京)から見れば川を越えて行く土地だ。入間川、荒川、新河岸川、小畔川、赤間川などの川が町の周囲を流れている。そのため、江戸時代から、「川越」の字が当てられたという。
この地が栄えたのは、江戸時代、新河岸川の運河を利用することにより、わずか一日あまりで千住、もしくは花川戸(浅草)と往来できたからだ。この水路によって、江戸からは小間物、雑貨、陶器、食塩、魚類などが、また川越からは、穀物、そうめん、木材、箪笥、甘藷などが運ばれ、その交易でおおいに発展したのである。
また、寛永十五(1638)年の川越大火の翌年、ここに入った松平伊豆守信綱の力も大きい。彼は新河岸川を整備し、玉川上水の大工事を完成させ、さらに野火止用水により、領内の開拓を行った。
さて西武新宿線本川越駅に集合したら、駅前の中央通りを連雀町交差点めざして左へ進もう。交差点右の熊野神社先を左折すると、そこは「大正浪漫夢通り」だ。整備が整いつつあるレトロな洋館が建ち並んでいる。突き当たりの右手前には、商工会議所のどっしりとした建物がある。T字路を左折し、すぐ交差するのが中央通りの延長の一番街通りだ。川越名物の一つ、蔵造りの町並みを楽しもう。重厚な瓦屋根が特徴の、年代を感じさせる蔵は江戸時代の繁栄の証である。この一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
やがて右手に見えてくるのが、町のシンボルにもなっている「時の鐘」(高さ16メートル)だ。寛永時代に建てられたが、現在の鐘は明治の大火後に再建されたもの。一日四回、今も時を知らせている。
一番街通りへ戻って左手方向に進み、「菓子屋横町」に寄り道しよう。駄菓子屋さん、おもちゃ屋さんが軒を並べていて、昔懐かしい下町の匂いがする。四十代以上の人ならば、子供時代にタイムスリップすることだろう。
菓子屋横町を抜けたら右に曲がり、札の辻交差点を経て直進しよう。川越市役所を左手に見て、五百メートルほど先の交差点を右へ。左手に川越高校、次いで右手に川越第一小学校があり、目指すは喜多院だ。
高校の付近には川越城の雰囲気が漂っている。時間に余裕のある人は、川越城本丸御殿や富士見櫓跡、さらに足を伸ばして市立博物館を見物することをおすすめする。また小学校の近くには(ママ)、蔵作り資料館(ママ)となっている大沢家住宅(重要文化財)がある(ママ)。
さて、吟行の最終目的地、喜多院(星野山無量寿寺喜多院)。創建は平安時代で、慈覚大師円仁により再興された名刹だ。三代将軍家光が復興し、江戸城内から移築した家光誕生の間や、春日局化粧の間などがある。小堀遠州流の枯山水庭園も見ものだ。
境内、門の左側に並ぶ五百羅漢も見逃せない。天明二(1782)年から五十年かけて作られたという石像は、それぞれに表情豊かで、見ていて飽きることがない。
一月三日、喜多院境内で行われる「ダルマ市」(初大師)には、大変な人手でごったがえす。なお、喜多院を出てすぐのところに日光、上野、久能山と並ぶ四大東照宮の一つ、仙波東照宮がある。
西武新宿線の本川越駅からぶらぶら歩いていると、十五分もたたないうちに、がらりと変わった雰囲気。「小江戸」という文字が目に入る。ここは江戸なんだ、と信じさせる蔵造りの家並み。
まずは、「土金」で目が止まる。干支の猿たちがずらりと並んでいる。どれも可愛い。千円だ。しかし、これからだいぶ歩くのだから、と我慢して一つだけにする。頭を掻いているマヌケ猿、これが気に入って、バッグに入れて持ち歩く。
斜め前は「ふうきどう」。また目が止まる。見事なステンドグラスで造った飾り物の数々。あれもこれも欲しいが、重いからあきらめるしかない。古美術店も魅力的だ。入ったら当分でられそうもない。また来よう、と通り過ぎる。でも、このワクワク感は、銀座や青山のブランド通りよりよっぽど大きい。このあたりは「大正浪漫夢通り」と名付けられている。
「菓子屋横丁」へと進む。平日だというのに人が多い。みんな楽しそうだ。初めて見るのに、懐かしい、と感じてしまうお菓子の数々。フランスパンのような形の「ふわふわせんべい」と名付けられたものが、大きなビニールの袋にいっぱい入って、店先にぶら下がっている。どんな味なのかな、と思いつつ次へと進む。名物の芋で作ったものが多い。氷川きよしくんが食べたという芋のアイスクリームが、写真入りで飾られていたりする。
何十種類もの豆が並ぶ店、一つずつ勧められて試食したら、かなり満腹になった。どれも美味しい。
川越といえば「うなぎ」なのだが、冨士眞奈美が有名なうなぎ嫌い。絶対に食べない。聞くところによると、子供の頃、道ばたでうなぎを踏んづけて転んだ経験がトラウマになっているとか。踏まれたうなぎの身になればいい迷惑なのに、以後何十年も恨み続けているなんて酷い話だ。仕方がないから昼食は「春夏秋冬」で「うどん御膳」を食べる。しかしこれが美味しかった。しかも体によいことずくめで、いっそうありがたい感じになる。
冬虫夏草入りうどん(ガン・動脈硬化・糖尿病予防)、めんつゆ(免疫力促進)、おにぎり(体調を整え、万病予防)、小鉢(ビタミンB1)、お菓子(五感満足)、お茶(整腸)。どうだ! という組み合わせ。食べきれなかったおにぎりを包んでもらい、ぶら下げて帰った。
暖かい冬の日、楽しい散歩は、身も心も若返るというものだ。
冬の雲ゆらして時の鐘三時 窓烏
星野山喜多院。国宝川越大師、とある。川越という土地に初めて足を踏み入れた私としては、何もかもが目新しく、珍しい。
「小江戸・川越」の蔵造りの町並みの東側に、川越のお大師さま、天台宗の喜多院がある。境内には桜の大木が「紅葉かつ散る」という風情で何十本も聳えている。
平安時代の830年に自覚大師円仁により創建された勅願所で、無量寿寺と名付けられた。その後、天海僧正(慈眼大師)により、1611年、喜多院と改められたが、1638年の川越大火で堂宇は全焼してしまう(それ以前もたびたびの兵火で炎上、という歴史があった)。
で、なぜ国宝かというと、三代将軍家光がすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山の別院を移築して、客殿、書院などに当てた。つまり、家光誕生の間や春日局の間があるのである。その他、慈恵堂、多宝塔、鐘楼門、東照宮などが相次いで再建され、今日、文化財とし大切に保存されているのだという。
「厄除のお大師さま」として、ご縁日の一月三日の初大師は数十万の参拝者で賑わい、境内には縁起の「ダルマ市」が立ち並ぶ。
星野山、などといえばタイガースファンが押し寄せて来そうだな、と野球マニアの私、一瞬連想してニンマリ。天海僧正に叱られるか。ちなみにこのお坊様、長寿歌としてなかなか面白い和歌を詠んでいる。
気は長く 勤めはかたく色うすく 食ほそうして こころひろかれ
なんだか、手遅れですねえ。「色うすく」は合格だけれど、「食ほそく」がねえ、不合格か。
山門右手に五百羅漢が立ち並んでいる。1782年より1825年にかけて建立されたもので、五百三十五尊者のほか中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、と地蔵菩薩を合わせ、全部で五百四十体が鎮座している。
酒を呑んだり本を読んだり、赤ん坊を抱いたり、顔を手で覆ったり寝そべったりと、さまざまな姿態、表情の羅漢さまたち。
「やっぱり美男子がいいわよねぇ」と、私と和子嬢。自分に似た像を探すのが面白い、というのだが、ま、私たち二人は高座の両菩薩に似ているかな、という結論でした。
小春日の酔ひどれとなり一羅漢 衾去
運河の舟運で繁栄、小江戸から小東京へ
「九里四里(くりより)うまい十三里」という字は、いまでも焼藷(やきいも)屋の看板に書いてあるので、知っている人が多い。だがこの十三里が江戸と川越の陸上の距離をいい、したがって川越のこと、転じて川越藷のことだと気のつく人は案外少ない。
江戸時代から、川越というえばすぐ藷を思いだすほど有名であった。それは、ここの大名秋元家が大いに奨励したのと、関東ローム層が藷に適していたからであろう。
ところで、藷は重くてかさばるので遠距離輸送は困難であった。その点、これを舟で運べる川越は有利だった。新河岸川の運河を七十石船に多量に積んで、わずか一日あまりで千住もしくは花川戸(浅草)に送った。江戸で川越藷が栗よりうまいと評判をとったのは、質もよかったが、当時の貴重品を大量に運ばせたせいもあろう。川越が「小江戸」といわれたほど繁栄するのは、この運河の舟運によるところが大きかった。
江戸との交易で栄えた川越市内には、まさに小江戸といわれるにのふさわしい、いろいろのものが残った。その一つが蔵造りの町家建築である。
仲町交差点から北は、かつての城下町商業の中心で、道の両側に十数軒の蔵造りや格子戸の商家がずらりと並ぶ。右に天明三年(1783)創業の旧川越藩御用達の大きな鬼がわらを乗せた菓子店が、旧市街地の門番のように建っている。まさに川越の小江戸たる証明であり、かつての富の高さの象徴でもある。
ニッキやハッカのあめ、金太郎あめが店先のガラスの平たい箱に並ぶ菓子屋横丁、川越のシンボル時の鐘≠煬ゥ逃せないが、いま一つ東京で見ることができなくなったものに、祭礼の山車(だし)がある。
毎年十月十四、十五の両日、川越の鎮守氷川神社の祭礼に出る山車は、まだ十六基残っている。車は四輪と三輪の両方があるが、いずれも二階造りの上に翁(おきな)、三番叟、俵藤太、太田道灌などの人形を載せる。
江戸天下祭りといわれた山王、神田の両祭礼を、むかしのままに生きた姿でいまも見ることができるのは、この川越である。江戸をまね、その生活を移すことに誇りを持ち、またそれを十分移せるだけの経済力を持った時代の名残である。
さらに、川越で忘れてならないものは、ダルマ市で有名な天台宗の関東総本山・喜多院だ。天海僧正によって再興されたこの寺が、寛永十五年(1638)の大火で焼けてしまった。そのため、三代将軍徳川家光は江戸城中紅葉(もみじ)山にあった別殿をこの寺に移し、客殿、書院、庫裏とした。つまり、ここでは日本でただ一つの、江戸城将軍住宅の一部を見ることができる。
面白いのは、門を入ってすぐ右の一画にある石造の五百羅漢である。江戸時代に篤信家たちが奉納した五百体あまりの砂岩製のそれは、思い思いの邪気のない表情をしていて、羅漢像のなかでは優秀な方である。
思うに、いまの川越は、古い生活と文化を保存しながらも、陸上交通の要点となったことによって、次第にその生活圏は東京都と交わってきた。ために、かつての「小江戸」は「小東京」となろうとしているようだ。
東京に近い歴史の町
川越は、江戸がそのままのこっている町だ。松平信綱の治めていた寛永年間あたりから、その城下町のかたちがととのえられてきたといわれる。江戸に最も近い要衝の地であるところから、徳川の天下になってからは、川越城には酒井重忠、忠利、忠勝など、三河からの譜代の重臣をおいていることから推しても、川越がいかに徳川にとって、重要視されていたかが想像される。
そこには、古い蔵づくりの商家や、木造櫓形の時ノ鐘、喜多院、蓮馨寺、養寿院など、歴史のある寺や、見るべき史跡も数多くあって、そぞろに郷愁をさそわれずにはおかない歴史のある町だ。みごとな蔵づくりの商家
西武新宿線の本川越駅前からまっすぐ歩くと仲町。道の両側に黒光りした厚いぼってりした壁の蔵づくりの商家がある。屋根の上には大きな鬼瓦がのっかっている。
これはたぶん江戸時代からそのままのこされたものであろう。1657年のいわゆる明暦の大火ののちに江戸では店蔵と袖蔵に分かれた家の様式が発達した。この様式はひとたび火事がおこった場合は、蔵の観音扉をしめ、すきまに粘土を塗って火の侵入を防いでしまうものである。江戸の華とまでうたわれた火事に対する庶民の智恵がうんだ、ひとつの方法でもあったものであろう。
その様式が川越に今もそのままのこっているということは、興味の深いことである。いかに川越が江戸に近く、また密接な関係をもっていたものであるかを示す証拠でもあるのだ。
かつてはこの蔵づくりの家は、百数十軒が、ずらりと軒を並べていたという。今ではしだいに新しい建物へと建てかえられて、その数もすっかり少なくなってしまった。仲町の商店街を歩いてみても、パラパラしか見かけられなくなっているが、時ノ鐘のある前あたりの表通りには数軒ががっちり並んで、昔のままの姿を堂々とほこっている。これも最近とりこわして建てかえる案がでたが、市当局のキモいりで、保存する方向へ向かっているという。文化財としていつまでものこしておいてほしい、と願うものである。
その蔵づくりの商家の前の少し細い道をはいった所に時ノ鐘がある。高さ17メートル65センチの木造櫓形で、寛永年間(1624〜44)に建てられたものであるという。明治26年におこった川越大火で焼失し、現在あるものはそののちに江戸時代の形そのままに復元されたものである。
羽目の板もかなりいたみ、いくらか疲れている感じの櫓は、見たところいかにも江戸時代からそのままつづいているもののような感じがする。復元されてから100年とはたっていないのに、何百年も経てきているような感じがする。これも川越の名物のひとつになっているものだ。五百羅漢の喜多院と初雁城
時ノ鐘を見物したら、松江町を通って川越喜多院を訪れよう。いつも静かな境内をみせる喜多院には名物の羅漢がある。
徳川家康と縁の深かった天海僧正によって、天正16(1588)年に、それまで荒廃していた喜多院が再興され、のちに幕府の保護をうけて、大きく発展したといわれる。
寺のもろもろの歴史を調べるとおもしろいものであるが、喜多院にきたら、まず五百羅漢を見なければならない。庫裡へ行ってたのむと、かこいの戸をあけてくれる。外からでもながめることができるが、せっかくきたのであるから、喜怒哀楽をさまざまの顔形で表現した羅漢を一つ一つ見てまわるとたいへん楽しい。友人、知人の知った顔に似かよった羅漢を見いだして、思わずほほえまされるものである。
羅漢は538体あるという。首がつないである。明治のはじめの神仏分離によって、あらかたがこわされたものを、のちにふたたびととのえたものであるという。
喜多院の客殿、書院、庫裡を無量寿殿という。春日局の化粧の間という意外に簡素な部屋や、家光誕生の間、湯殿、廁(かわや)などが見学コースにある。
喜多院でいっときを過ごしたら初雁城跡へ向かおう。川越城は初雁城といわれているもので、現在は初雁公園として石垣と土塁のみがのこっている。
かつては名城の誉れを誇ったものであるというが、今はそのおもかげはない。わずかに本丸玄関にその跡をしのばせる程度である。
川越城は太田道真、道灌父子によって長禄元年(1457)に、三芳野の里、すなわち現在の川越城跡に築城したといわれ、その後数十年は、扇谷上杉氏の持ち城として、その家臣が城を守っていた。
天文6(1537)年7月には、小田原城にあった北条氏綱にうばわれるが、氏綱の死によって、天文15(1546)年に、松山城に逃げていた上杉朝定は、山内上杉氏、古河公方晴氏らと、8万の兵をもって福島綱成がまもる川越城をとりかこんだ。急をきいた北条氏康は、夜襲によってこれを打ち破り、関東を北条の領有とすることに成功するのである。
これが世に名高い日本三大夜戦のひとつとされる川越夜戦である。
この戦いによって川越の市街はことごとく焼け、喜多院も焼失してしまうのである。
下って寛永15(1638)年に、堀田加賀守正盛が城主であったが、やはり大火をおこして、ふたたび川越の町はことごとく焼けてしまう。このときの火事はたいへんなものであったらしく、正盛は責任をとらされて信州松本へ所替を命じられている。
翌年、すなわち寛永16年には、世に智恵伊豆の名をのこした松平伊豆守信綱が川越城主としてはいり、本丸、二ノ丸、三ノ丸、八幡曲輪(くるわ)、天神曲輪のみであった川越城に、外曲輪、田曲輪、新曲輪などを加え、さらに天守閣の代わりともいえる富士見櫓、虎櫓、菱櫓などを設けて、りっぱな城郭として生まれ変わっている。
信綱はさらに町のつくりにも新しい趣向を加え、十カ町四門前の制度≠つくった。これは、江戸町、本町、南町、喜多町、高沢町。上松江町、多賀町、鍛冶町、鴫町、志多町、養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺の門前町などをいい町分≠フ名があった。
こうして川越の城下町としての独特のスタイルが、信綱の時代に完成されて、今日にもそのおもかげをのこしていることとなるのである。
川越が小江戸≠フ名をのこしていることは、江戸の影響を如実にうけて、その町の姿が当時の江戸に酷似してつくられていることが、そう称されるゆえんでもあった。
東京都心からわずか一時間たらずの所に、歴史の香りを豊かに秘めて、昔のすがたをそれこそふんだんにのこしている川越の城下町散歩は、東京の人ならば土曜日の半日、日曜日の朝のいっとき、あるいは午後の散策に、足のおもむくまま歩いてみるのにふさわしい所ともいえる。交通 西武新宿線利用なら、西武新宿駅から出発して終点の本川越駅下車。池袋からは東武東上線を利用し川越市駅下車。市内散歩は2〜4時間をみれば、おおよそは見学してまわれる。マイカーの場合は川越街道利用で、川越ではバイパスにはいらずに旧道を市街にはいる。
旅館 市内には佐久間(松江町)、松村屋(元町)、山中(菅原町)など多数。
名物 イモ菓子、入間ゴボウ、ニンジン、イモ料理など。みやげには初雁せんべいなど。
喜多院(北院)
慈覚大師の草創という天台宗の古刹で、星野山無量寿寺が正式名称。正安3年(1301)坂東の天台本山の勅許があり、中院、北院、南院の寺坊があって寺勢はふるった。その後、いくたの兵火にあっておとろえたが、慶長17年(1612)天海によって再興された。川越の大火で多くの堂宇を失ったが、徳川家光の援助で復興した。江戸城紅葉山の別殿が移されたのはこのときである。いまに残る無量寿殿がこれである。広い境域には山門・経蔵・鐘楼門・大師堂・慈眼堂・東照宮などの建造物があり、散策に向いている。
喜多院・川越市小仙波・川越線、東武東上線川越駅下車、徒歩20分。
川越城(初雁)城
川越は古くは河肥、または河越と書いた。秩父氏の一族川越氏が土地を開いて拠った。その後、足利氏の所領となり、管領の上杉持朝が支配した。持朝は川越の地理的重要性と資源の豊富なのに着眼し、太田道真・道灌父子に命じて城を築かせた。これが川越城のはじまりである。このあたりは「みよし野の田のむの雁もひたぶるに――」と『伊勢物語』に見えてから、歌枕の名所になっていた。初雁城の名はこれによるらしい。
江戸時代になると、三河譜代の酒井氏が入部し、ついで松平信綱が入った。信綱はまず城郭を大改築し、城池をととのえた。八門と三櫓をもつ平城で、17万石にふさわしい威容であったが、維新後、毀却され、いまは本丸御殿の一部を残すだけである。
川越城跡・川越市郭町・東武東上線川越駅からバス。
旧城下町
信綱が川越に入る前年(寛永15年=1638)、城下は大火で灰燼に帰していた。そこで信綱は大がかりな構想で城下町を編成した。まず城下を碁盤目状に区分し、西大手・南大手に面して武家屋敷を配し、上五町・下五町に商人町・職人町を置いた。さらに川越と江戸を結ぶために新河岸川を開いたので、江戸の文物が流入し、やがて「小江戸」と呼ばれるようになった。こういう城下町のおもかげをつたえるものに蔵造りの町家がある。元町・幸町・仲町とつづく通りには、いまも十数軒の蔵造りがならんでいる。元町の大沢家住宅以外は、明治26年の川越大火後に建てられたもの。しかし、伝統の工法によって造られているので「小江戸」を彷彿させる。幸町の「時の鐘」も城下町らしい風格ある建造物といえよう。
蔵造の町・川越市元町、仲町・西武新宿線本川越駅下車、徒歩10分。
天明三年創業の菓子舗、亀屋
川越は都心から、三、四十分。東京からいちばん近い城下町である。
城下町といっても、白堊の天守閣がそびえているわけではないし、石垣の影を映す濠が残っているわけでもない。あるものは、本丸の玄関の一部と、入りくんだ街路と、蔵造りの家並みだけなのだが、ここへ来ると郊外の町特有の心のやすらぎを感じさせてくれるので、よくでかける。
コースはたいてい西武本川越駅からはじまって、蔵造りの町並みをぶらつくのだが、きょうは天明三年創業の菓子舗、亀屋を訪ねるので足早になる。西武鉄道の昔のことを聞くために、この老舗の六代目山崎嘉七老を訪問する目的がある。亀屋で隠居宅を聞いてから門をたたいた。
「岡村一郎先生(元川越図書館長)から紹介された者ですが」
というと、品のいいご隠居さんはこころよく応接室へ招き入れてくださった。
「西武鉄道ですか。子供の頃、たしか明治三十五年頃だったと思いますが、よく二等に乗って東京へ行ったもんです。川越から国分寺まで開通したのが明治二十八年と聞いてますが、経営者がいろいろ変わって、川越鉄道が西武鉄道になったんです。戦前のことですが、私も親父のあとを継いで西武鉄道の重役をやったことがあります」
質問に応じて、つぎつぎに昔話がでてくる。白い小さなお菓子をすすめられたので口に入れると、上品な甘さが口の中でさわやかにひろがった。
「おいしですね」
思わずこういうと
「ありがとう、そうですか。褒められてうれしいですね。和三宝を使った苦心の作なんですよ」といかにもうれしそうに相好をくずされた。
「私は左党なんです。しかし、かえってそのほうがお菓子の味がわかる、と思っているんですが」
というと、
「そうでしょうなあ」
と、手放しの喜びようだった。帰りには、その菓子の入ったおみやげをいただいて、恐縮しながら隠居宅をおいとました。
明治の初めに創業した「佐久間旅館」
つぎは、佐久間旅館だ。明治のはじめに創業した古い旅館だが、女手で切りまわしているので、神経にこまやかな客あつかいで定評があり、馴染みの客が多い老舗だ。街角にあるが古びた協会がすぐ前にあって、郊外の街の雰囲気じゅうぶんというところ。さっそく、おばあちゃんを訪ねた。
「あたしが若い頃は、西武線の駅は本川越といわずに、川越っていってましたんですよ。その後、東上線に川越駅ができましてね。あたしのお友達の家は、本川越の駅前でお茶屋をやってましたけど、東上線のほうへ引っ越してったのを覚えてます。きっと、少しでも東京に近いほうがいいって思ったんでございましょうね」
若い頃はさぞかし美人だったろうと思われるおばあちゃんは、昔をなつかしむような顔で語ってくれた。
この川越は、穀物の集散地だったので東京からずいぶん商人がやってきたということだが、民営の鉄道が早くから敷かれたのも、そのせいなのだろう。飯能と同じように、鉄道誘致に熱心な有力者がこの川越にもいたはずだが、その人たちの晩年はどうだったのだろう。確かめてはみなかったが、きっと飯能などと同じように、その先駆者たちは財産をすってしまったのではなかろうか。
旅館のご隠居さんとすっかり話しこんでしまったが、話のつづきはまたこのつぎ、ということにして時の鐘を訪ねることにした。
名産喧嘩だんご
これは、時の鐘の下で売っている焼だんごを買うためだったのだが、あいにくきょうは閉まっている。売り切れしだい閉店なので、あきらめて喜多院へむかう。これも、近くの成田別院裏にある喧嘩だんご≠買うためだ。喧嘩だんごとは、だんご屋が二軒ならんでいて競争するので、地元でこう呼んでいるのだが、両方ともシコシコしていて味はたしかだ。きょうは藤倉のほうに入って買う。少し冷めたところを、喜多院の境内で食べる。プーンと醤油の香ばしいかおりが鼻をつき、串を横に引くと、シコシコした腰の強い米粉の歯ざわりが、何ともいえない素朴な田舎の味覚を満喫させてくれた。
喜多院の五百羅漢
星野山喜多院は天台宗の寺。川越の大師さまとして近隣に知られ、正月三日のダルマ市は身動きできないほどの人出で大賑わいする。
江戸城内から移築した家光誕生の間や、東照宮の建造物や岩佐又兵衛描く三十六歌仙など、見るべき文化財が多いが、ここへくるとかならず寄るのが五百羅漢だ。
瞑想にふける顔、しかつめらしく考えこむ人、所在なさげに鼻くそをほじる僧、そっと内緒話をする二人組など、どれひとつみても同じ顔つきはない。行くたびに同じ顔にむかってシャッターを切るのだが、あるとき、フィルムが終わってしまったので、カメラをしまいこんでひとつひとつ見てまわったことがあった。すると、今まで無造作にシャッターを押していて、その顔やポーズをじっくりと観察していなかったことに気づいて、ハッとしたことがあった。そこで試みに、ノートへ下手ながらスケッチをしてみることにした。
すると、今まで気づかなかった顔の中の眼や耳や、おでこの皺の一本一本までがよく見えてきた。石像の一体一体が、まるで別人のように映り、何かを私に語りかけてくるように思えてきたのである。長いこと便利さだけに頼ってカメラを使いつづけてきて、何を見ていたのだろうかと、眼の醒める思いであった。
川越まつり
十月十四、十五日は、氷川神社の大祭だ。
江戸の昔から、町人たちによって守りぬかれてきた伝統的な祭りで、いまわ川越祭と呼ばれている。三年ほど前の夕方、東上線に乗って祭にでかけた。K氏と二人でいっぱいやってから、中央町の蔵造りの通りにもどると、二十台の山車が本川越駅前の広場に集まってくるところだった。山車はすべて拍子木を打つ頭梁の合図によって引きまわされるが、数台が辻で交錯しても引き綱は絶対に絡むことがないというから大した熟練ぶりだ。途中で山車が出会うと、対面してお囃子合戦がはじまる。しばらく打ち合うと、一方が相手のペースに巻きこまれて勝負が決まる。
江戸の昔の山王祭や神田祭の山車をそのまま模したという大人形が、チョウチンやボンボリの灯りに赤あかと浮かびあがるのも情緒があっていい。とっくの昔に東京から姿を消してしまった「江戸」が、ここにはちゃんと命を長らえて生きつづけている。感激だ。
近頃は祭ブームだという。京都の祇園祭や高山の祭は、たしかに盛大だが、やはり「見る祭」だ。それにくらべると川越祭は「参加する祭」のムードが濃い。しばらくの間はカメラをむけていたのだが、カメラをしまうと、がまんできなくなってとうとう引き綱の中に入り込んでしまった。
驚くのは、その翌日だ。あれほど散らばっていた広場のゴミが、きれいになくなっている。町の人たちが、ゆうべのうちから早朝に掃除したのだろうか。こんなところにも、庶民の祭の伝統が生きているような気がしてならなかった。
*西武新宿駅(西武新宿線)本川越駅。または池袋駅(東上線)川越駅か川越市駅。市内一巡約2時間半。本川越駅(15分)喜多院(20分)川越城跡(15分)氷川神社(30分)蔵造りの道(15分)本川越駅。
*東照宮は久能山から日光へ、家康の遺骨が移葬された際、ここに一時とどまり、天海僧正によって法要が営まれた。本殿、拝殿、唐門、随身門など重文指定の文化財が多い。喜多院には、山門、経蔵、鐘楼門のほか、江戸城紅葉山から移築した建造物もあり、家光誕生の間、春日局の間、浴室、廁など、貴重な文化財が集められている。
*日枝神社は山門を出た左手。本殿は重文で、東京赤坂の日枝神社は太田道灌によってここから分祀されたものである。
*寺社はこのほか、川越夜戦の激戦地だった東明寺。河越重頼の墓や、河肥の銘が残る古鐘のある養寿院。浄土宗関東十八檀林のひとつで格式が高く、家老もこの寺の前を通る時は下馬し槍を伏せたという蓮馨寺。シダレザクラが美しい中院などがある。
*川越は長禄元年(1457)に太田道真・道灌父子により城が築かれたが、城下町としての体裁を整えるのは、徳川の幕閣松平信綱のときといわれる。江戸の北方の守りの拠点として歴代譜代の重臣が配属されてきたが、北武蔵の穀倉地帯としても栄え、「小江戸」の名で、つねに江戸と堅く結びついてきた。
*亀屋本店の店舗裏に、山崎美術館が開かれた。橋本雅邦などの作品が展示されている。近くには蔵造り資料館や大沢家・時の鐘など、江戸の町人文化をしのぶものが多い。
城下町川越は東京からざっと三十分のところにあり、江戸城北方の守りとして一門の松平大和守が守っていた。親藩だけに幕末には、時局への対処がむずかしく、もたつく間に明治維新となった。藩主は生活の方途を失い、皆東京へ出たので武家街は消滅、ひとり商人街だけが残り、栄えた。
「蔵造りはどこですかね」
川越駅に降り立った客は、まずそれを聞き、江戸趣味を満足させようとするので、いつか川越のことを小江戸と呼ぶようになったのである。
さてその小江戸へ私も着いた。驚いたねえ。駅の西口は型通りの洋風駅前広場で、中央に噴水が踊っているが、東口はこれまた近郊の小都市並にでっかいデパートの建設中でごった返している。実は私は戦争中、妻子をこの街の実家へ疎開させていた。私自身は海軍報道部の嘱託だったので、ひとり東京に下宿していて空襲のあいまに訪ねて来たことがある。当時とは何という変わりよう! 曽てのくすんだ家並の代りに、けばけばしいファッションの店、厚化粧の女の子、我者顔のデパート、パチンコ店など、至るところにある地方都市の景観ではないか。
どこに小江戸の名残り、その土蔵造りがある?
新富町というその繁華街を抜け、関東十八壇林のひとつ蓮馨寺(れんけいじ)をすぎるころから、やっとバタ臭さから抜け出すことができた。蓮馨寺の門前はむかし連雀町と言い、連雀商人(荷売)が近郷から集まったところである。その由来もおもしろい町名を「川越銀座」と改めた馬鹿らしさ(ママ)。今や駅前通りへ繁華をうばわれるのも当然だ。
むかしはこの辺りから蔵造りの商店が並び、その数二百軒といわれた。が、今はわずかに十七軒、老人の歯抜けのように残っているにすぎない。が、これが小江戸の看板だから、むかしのメインストリートを行ってみよう。
まず眼に入るのが創業天明三年(1783)という古い菓子屋さんがある。この蔵造りはすばらしい。他の城下町にも蔵造りはあろうが、これほど完璧なものは珍しいであろう。
蔵造りは家全体を、太い柱と梁(はり)で組み立て、厚い壁で塗り立てた土造様式の町家である。鎌倉時代から火災除け、泥棒除けとして質屋や運送問屋が建てはじめた。幕府は贅沢だとして渋面を作ったが、防火に有効とあって享保五年(1720)以来、かえって奨励するようになった。江戸では日本橋を中心に建てはじめ、川越でも負けじと本通りの商家が蔵造りにした。最盛期に二百軒が甍(いらか)をつらねた時には、さぞ壮観だったに違いない。
だが、その後たびたび火災があり、特に明治二十六年(1893)の川越大火では、焼けないはずの蔵造りが多く焼け落ちて、現在に残るものはその焼け残りである(ママ)。
「へえー、江戸じゃないのかい」
「おっと、早合点はいけねえ」
たった一軒、今の元町の履物店大沢家だけは、江戸時代の寛政四年(1792)建築の、れっきとした蔵造りとして、国の文代財(ママ) に指定されている。ちょっとお邪魔しよう。
「ごめんなさい。おさわがせいたします」
「洒落が気に入った。お入りなさい」
とご主人の歓迎を受けて奥の部屋まであがらせてもらった。
外観についてはお菓子屋のところで述べた通りだが、中に入って色々なことに気づいた。
まず、店と家人の住む部屋が画然と分れており、間に分厚い土扉があったこと。第二に、店の土蔵造りはお城のようにりっぱすぎるが、裏の住居は狭く、質素であるのに驚いた。二階へは箱段で上るのも懐かしい。
なぜこんな構造になったかといえば、
「さあ、火事だ!」
となった場合、まず表通りに面した土扉を閉め、そのあと全員が住居へ移ったところで間仕切(まじきり)の扉を閉めた。隙間があると火が入るので、日ごろ用意の壁土で塗りこめた。
「商人にとって品物は命ですからねえ」
「なーるほど」
だが、あとがいけない。店を塗りこめたあとは、住居の部屋を放棄して全員逃げるのである。逃げるといえば人聞きは悪いが、当時の消防力はきわめて弱いので、はじめから諦めて逃げ出すのである。
序でながら江戸のいろは四十八組も、威勢はいいが手押しの竜土水(りゅどすい)(ポンプ)では消えるはずもないので、はじめから鳶口で風下の家をこわし、破壊消防をやるのが精一杯だったのである。
さて、大沢家のすぐ近くにあるのが、「札の辻」、川越城の西門から出た道と、商店街の大路がクロスする辻で、他の城下町とまったく同じに高札場があった。江戸の日本橋に当り、幕府の庶民心得条項や、川越藩の公布禁令などが、横長の立札に書かれていた。
城下町はすべてこの札の辻を中心に命名され、それ以北は喜多町、以南は南町であった。
ところが、城は無くなり、繁華街は移り、高札など焚付(たきつけ)にされちまったんで、北町のしゃれ喜多町も、南町も意味がない。喜多町は元町に、南町は幸町にと、面白くもおかしくもない町名に変えちまった。
いやいや、それだけではない。勢い余ってお鷹部屋、厩下(うまやした)町、おなじみ同心町など城下町に由緒ふかい町名まで皆変えちまったね。最先端の東京でさえ、門もないのに「虎の門」、徒士(かち)(幕府の歩兵)などかけらもいないのに「御徒町」と、ちゃんと残っているのになぜ変えたの?
あれッ、そんなこと考えてたら、つい名物の「時の鐘」を通り越しちまったよ。
時の鐘は幸町からちょっと入った横丁にあり、城下町の一景観をなしている。
この鐘は寛永年間(1624〜44)、初代藩主の酒井候が建てたもの。鐘撞き番人二人をおいて、広く城下に時を告げさせた。
その方法は川越城の時計がもとで、六つ時なら六つ、七つ時なら七つ、時の数だけ打つ。それを聞いて鐘撞きが、
「ごおーん、ごおーん」
とやるのである。
鐘楼の上の時計が基準ともいわれるが、江戸城の太鼓と同じ方法がとられたのではあるまいか。
ともあれこの原点の鐘を、次々に近くのお寺が撞き継いで、城下とその近在の住民は時を知った。
この鐘撞きの手間賃と、鐘楼の修理代は、鐘の音の聞える十カ町から、毎月一戸あたり八文ずつ徴収してふりあてた。
鐘楼の高さは五丈三尺五寸(約16.2b)、外面を黒く塗ってあり、夜空に屹立する姿、或いは夕映えの中に影絵のように浮き出るのは情緒的である。
ただし今あるのは明治の大火で焼けたあと再建されたもの。形はそのままだというものの、ご多分に漏れず今は電気装置で、朝夕、機械的な音色(ねいろ)を聞かせている。
大宮の荒川河川敷にある西遊馬(にしあすま)公園から自転車道を川下に向かう。治水橋をくぐったら左に折れて橋に上り、荒川を渡って田んぼの中を上福岡に向かう。新河岸川を渡ったら右に折れ、次の信号も右折して坂を上がると、所々に東屋のある雑木林の中を走るようになる。林を抜けると昔の廻船問屋の建物が、福岡河岸記念館として保存されている。その昔、新河岸川は小江戸川越の繁栄を支えた水運の道として使われ、その様子が館内に展示されている。
さて次は川越の街に向かおう。地図読みやオフロードをいとわないなら、新河岸川の土手や川沿いの、のんびりした道を走れる。オンロードで行くなら川崎交差点から一つ目の信号を左折、住宅地を抜けて突き当りを左折する。九十川を渡ってすぐに右折し、JR川越線を渡って寺の前を左折する。新河岸川に出会ったら、川沿いに川越の街に入る。三菱自動車部品の営業所がある橋のたもとを左折すると、名刹喜多院に着く。
喜多院入口交差点から町中に向かい、連雀(れんじゃく)町を右折すると江戸の面影を残す蔵造りの町並になる。お菓子屋や土産物屋、歴史資料館の並ぶ古い家並の傍らには時の鐘が建ち、今も時を告げる鐘の音を響かせている。ここは川越一番の名所。表通りから脇に入った菓子屋横丁ともども、しばし自転車を離れて好みのお店を覗いていこう。川越城址との分岐となる札の辻を左に折れると、やがて広々とした田んぼの中を走るようになる。この田園風景がもたらす収穫物も、かつての川越の繁栄を支えた物の一つだろう。
入間川にかかる平塚橋から、土手上の自転車道に入る。この道は入間大橋から狭山市の豊水橋まで、川に沿って23q続いている。川越の北でぐるっとUターンする川に沿って走ると、最初は左手に見えていた奥武蔵の山並も、少しずつ遠ざかりながら後方、右手と見える向きが変わる。釘無(くぎなし)橋を過ぎると、対岸の樹林の景色が清々しい。入間大橋で入間川を渡ると、荒川の自転車道と合流する。ここから伊佐沼のあたりを抜けて、川越の街に戻ってもよいが、西遊馬に戻るなら荒川に沿った自転車道をもう少し走っていこう。
川越の市内観光を中心にするなら。川越を起点にした周回コースにして荒川自転車道はカットしたほうがよいだろう。車なら城址のある初雁公園、市街の東にある伊佐沼北岸の駐車場が使える。
川越の街にはあちこちにお菓子屋さんがある。名物の芋菓子も高級な和菓子からツーリングのおやつによさそうな駄菓子まで様々なものがある。蔵造りの町並みの「亀屋栄泉」や「おさつ」、菓子屋横丁のお店を流して好みの一品を探してみよう。