菓子屋横丁は、明治の初め鈴木藤左衛門がこの地に住んで、江戸っ子好みの気どらない駄菓子を製造したのは始まりといわれ、江戸時代には、養寿院の門前町として栄えたところです。
明治の後半からは「のれん分け」により、店の数も次第に増え、大正時代に入ってからは、菓子問屋の多かった東京の神田・浅草・錦糸町などが大正十二年の大震災で焼失してしまった影響を受けて、川越の菓子製造業がより盛んになっていきました。
この横丁の最盛期は昭和の初期で、七十余店が軒を連ねシソパン・千歳飴・金太郎飴・麦落雁・水ようかん・かりん糖など、数十種類の菓子が製造されていました。
昔ながらの味と風情を、ごゆっくりとお楽しみください。
都心から電車で約30分で川越駅に到着する。バスに乗ること約10分、仲町の交差点を過ぎると「蔵造りの町並み」が広がる。「重要伝統的建造物群保存地区」にも指定されたこの地区は、電柱もなく、しっとりと落ち着いた景観を生み出している。
バスを一番街で降りて、札の辻方面に向かうと、右手に川越のシンボルでもある「時の鐘」がある。「残したい日本の音風景100選」に認定された「時の鐘」は、高さ16.2メートルで、奈良の大仏とほぼ同じ。江戸時代の寛永年間当時にしてみれば、相当高いランドマーク的な存在であったに違いない。自動車のなかった時代には、市内全域にその音を告げ、人々の生活の一部となっていた。現在では、一日に4回(朝6時・正午・午後3時・午後6時)機械仕掛けで時を告げているが、江戸時代と変わることなく、川越の町並みにその音風景を奏でている。
一番街を横道に入り、養寿院まで行くと、すぐそこが「菓子屋横丁」の入口。「菓子屋横丁」の歴史は、明治時代頃からといわれている。関東大震災の後には、東京に代わって、製造・供給を行い、当時は70軒以上の業者があったという。「菓子屋横丁」の道は、かぎの手に曲がった石畳である。路面には、ガラスが散りばめられているが、これは、駄菓子の飴細工などをイメージしたもの。また、電柱は、茶色に塗られており、「蔵造りの町並み」とともに景観に配慮したつくりになっている。
「菓子屋横丁」に足を踏み入れると、ハッカ飴、駄菓子、だんごなど、郷愁を誘うほのかな懐かしいかおりが漂う。色とりどりの飴や駄菓子、名物の長いふ菓子、香ばしいだんご、川越特産のいも菓子……。休日ともなると、家族連れなどの観光客で賑わうが、ここに来ると、世代を超えて子どもの頃の時間を共有しているような不思議な気分を味わえる。そして、威勢のよい呼びこみの声、人々が買い物のやり取りをしているのを見ていると、どんなに情報化がすすんでも、このような人と人とのふれあいは守っていかなくてはと、考えてしまう。
「蔵造りの町並み」を中心とした小江戸、川越。どんなに時代が変わろうとも「音風景」「かおり風景」がおりなす、歴史・伝統・文化をいつまでも後世に残し、伝えていきたい。 (川越市環境政策課 石川宣明)
川越菓子屋横丁までのアクセス
JRまたは東武東上線で川越駅下車。川越駅からバスで約10分、札の辻下車。徒歩約3分。
問い合わせ●川越市環境政策課=049-224-8811
◎埼玉県――川越市
◎かおりの源―ハッカ飴、駄菓子、だんご
◎季節―――春夏秋冬一年中
仲町の交差点を過ぎると、空がはるかに広がる「蔵造りの町並み(重要伝統的建造物群保存地区)」に入る。この通りは電線地中化により、空を遮るものはなく広々とした景色が広がる。
川越のシンボルでもある「時の鐘」は、残したい「日本の音風景100選」に認定され、寛永年間から現在に至るまで時を告げている。
蔵造りの町並みを横道に入ると、すぐそこが「菓子屋横丁」の入口。「菓子屋横丁」の歴史は明治時代頃から始まるといわれ、関東大震災で被害を受けた東京に代わって、菓子の製造・供給を担っていた当時は70軒以上の業者があったということだ。
「菓子屋横丁」の道は、かぎの手に曲がった小さな通りの石畳。路面には、ガラスが散りばめられているが、これは駄菓子の飴細工などをイメージしたもの。また電柱が茶色に塗られるなど、景観に配慮した落ち着きのある色彩になっている。足を踏み入れると、ハッカ飴、駄菓子、だんごなど、ほのかな懐かしいかおりが漂う。横丁の情緒、物売りの呼びこみの声。どんなに情報化が進んでも、買い物での店と人々とのやりとりや、毎日を暮らす町でのふれあいは、守っていかなくてはならないものだろう。
蔵造りの町並みを中心とした小江戸・川越。時代が変わろうとも、かおりと音の風景を織り成しつづけている。
交通
【電車】東武東上線、JRで川越駅下車。
川越駅からバスで約10分、札の辻下車後、徒歩で約3分。
川越名物―川越といえば小江戸情緒の蔵造り・時の鐘・菓子屋横丁。菓子屋横丁は、明治の初め鈴木藤左衛門がこの地に住んで、江戸っ子好みの気取らない駄菓子を作ったのが始まりといわれている。江戸時代には養寿院の門前町として栄えていた。
この横丁の最盛期は昭和の初期で、70余店が軒を連ね、シソパン・千歳あめ・金太郎あめ・麦らくがん・水ようかん・かりん糖など、数十種類の菓子が作られていた。現在も。17軒が昔ながらの駄菓子屋などを営んでいる。
玉力のあめ―「玉力」はこの横丁の一角にあるあめ屋。「玉力」の屋号は、1914年にあめ作りを始めた初代の久保田力蔵さんが、名前の「力」と鉄砲玉あめの「玉」をとって名乗ったもの。現在三代目の久保田一郎さんは、周囲の多くが店じまいをした衰退期にも手作りの技を守り続け、約50年になる。
店頭には、今なお生き続ける手作りの金太郎あめや、季節ごとの花を型取った組み物のあめが、小さな宝石のように並べられている。そこに立つと、小銭を握り締めて駄菓子屋に通った子供のころに戻ったような感覚になる。
花の種類は、春が最も多く桃・桜・れんげそう・あやめ・藤。夏はあさがお、秋は菊、冬は梅・寒椿。特に二輪のれんげそうが寄り添う構図が好評で、最近は季節を問わず、結婚式の引き出物としての注文も多い。鶴の形をしたあめも一緒に入れ、寿シールまで張ってくれる。また、川越市の花「やまぶき」や埼玉県の花「さくら草」は一年中ある。最近の健康志向もあり、「かりんあめ」や「ささあめ」、六種類の薬草(キキョウ・シロナンテン・キンカン・オオバコ・ショウガ・ハッカ)入りの「のどあめ」も好評。
作り方は、水あめ三と砂糖(白ざらめ)七の割合で煮詰め、適度に冷却した後、色付け・香り付けをする。そして、金太郎あめなどの組み物の命である「あめの組み合わせ」を行い、形を整えて、細く延ばして仕上げる。単純だが、気温や湿度、製品によって煮詰めと冷ましの具合が違う。煮詰める際、140度に沸騰したあめを爪の先でつまみ、歯にくっつけて、そのかみ具合で固さを確認する。そして、約80度に冷却したところで色付けしながら素早くこねる。すべてが勘で決まる。
妻の西(さい)さんと四代目を目指す息子の淳さんも、一緒に一台の作業台を囲み、息の合った手さばきを見せる。店内の作業場は見学することができ、家内作業の温かい雰囲気も味わえる。川越菓子屋横丁会(玉力製菓内)川越市元町2-7-7 Tel.049-222-1386
玉力製菓/かとう/田中屋(駄菓子の資料館)/松本製菓/吉岡民芸品店/小江戸茶屋/松陸製菓/塩野/横丁庵/かわしま屋/室岡製菓/吉仁製菓/稲葉屋/ふたみ/岡野屋/池田屋本店/都屋製菓/小松屋製菓(銀座通り中ほど)/若松屋(成田山川越別院前)
小江戸と呼ばれ親しまれている川越に、昔懐かしい駄菓子がならぶ菓子屋横丁があります。まるで明治か、大正の初期にタイムスリップしたような店がならび、楽しみながら買い物ができます。
この菓子屋横丁では、明治の初めから駄菓子の製造をしており、関東大震災で被害をうけた東京に代わって、昭和初期の最盛期には、70軒以上の業者があったということです。
今日では、12軒ほどの店が路地にならび、軒先に所狭しと駄菓子が占領しています。人気は名物の「川越甘藷(いも)」の菓子で、香ばしい甘藷せんべい、甘藷カリン糖、甘藷甘納豆など種類も豊富です。また、甘藷ソフトクリームはちょっと敬遠したいような感じですが、これがとても美味しいので、一度賞味されてはいかがでしょうか。そのほかには、鮮やかな色飴を組み合わせて作る金太郎飴や大きなハッカ玉、花飴などの手作り飴が目を楽しませてくれます。
ソフトクリームをなめたり、揚げたての甘藷スティックを食べながら歩いても、なんの違和感もない下町的な雰囲気が菓子屋横丁にはあります。
僕が生きた小道具となってチョコッと飛び出すと、映画のワンシーンのようになる。蔵造りの通りから3分ほどの所に懐かしさいっぱい、駄菓子もいっぱいの横丁があるのだ。
昭和の始めには70余店が軒を連ねていたそうだ。いまは10数軒になったが、切り口が絵になっているあめやおせんべい、芋アイスなどと工夫を凝らしてがんばっている。
道路もきれいな横丁をキョロキョロしながら歩いたご主人は「楽しくなった。名物横丁だ」などと喜んでいた。
「駄菓子屋は良くないところ」
子どもの頃、そう教え込まれていたように思う。
小学校では目の敵にされていた駄菓子屋。
「学校帰りに駄菓子屋へ行くことがないように」
と、朝礼で「御達し」が出されたりしたものだ。
小学校には駄菓子屋の息子も通っていた。
彼がいる目の前で、「駄菓子屋禁止!」。親は駄菓子屋で働き、家族はそれで生活しているのにね。
「先生、それはちょっとひどいんじゃない」
子どもながらに思ったものだ。
今から30年前の懐かしい思い出。
この記憶を蘇らせてくれたのが、川越の「菓子屋横丁」だ。
小江戸と称される川越、その古い街並みの一角に軒を連ねる駄菓子屋群。全国的にも有名で、TVでもたびたび取り上げられている。
ベーゴマ、ブリキの自動車など、子どもの頃、楽しんだ小道具がたくさんある。ちょっと小腹が減れば、川越名物の芋あん、芋スティック、みたらしだんごをつまみぐい。
1日遊んでも本当に飽きない。
でも、何と言っても廉価な駄菓子が一番楽しい。
1個10円の駄菓子がたくさん並んでいる。100個買っても、たったの1000円。この安さは魅力的だ。海外旅行でメチャ安のものを、思わず買ってしまうのと同じ感覚。
ついつい調子に乗って、駄菓子を買い込んでしまう。
「安い」「懐かしい」
これが大人にとっての菓子屋横丁なのであろう。
ある日のこと、久しぶりに菓子屋横丁へ行くことになった。
今回のパートナーは、小学生の崇行くん(仮名)。春休みで暇を持て余していたらしく、菓子屋横丁の話をしたら、乗り気になったのだ。
私は当初、ただ菓子屋横丁に連れて行くだけでぶらぶらする程度のつもりであった。
ところが、崇行くんは違った。
この計画が浮上してから、菓子屋横丁のみならず、川越の勉強をはじめ、更には、「おこづかいの使い方」にまで踏み込んでいる力の入れようだ。
特に教育研修などするつもりはなかったのだが、相手が本気ならこちらも真摯に受け止めなければならない。
私は崇行くんに3つの確認をおこなった。
「すべて崇行くんのお金でやりくりする」
「崇行くんの買い物に、私は口を挟まない。すべて自分で判断する」
「帰りは14時〜15時頃とする」
こうして、崇行くんと私は川越の街に足を運んだ。
川越に到着すると、さっそく「蔵造りの町並み」の雰囲気を味わう。江戸の風情が残リ、なかなかの雰囲気である。埼玉はおろか、首都圏でもこれだけの情緒を感じさせるところはあまりないように思う。
菓子屋横丁に向かう途中「時の鐘」に立ち寄る。
ここは崇行くんから事前にリクエストされたポイントだ。
川越を感じる風景を写真に収めながら、目的地の菓子屋横丁を目指す。歩きながら、川越の雰囲気を感じることができるように心がける。
しばらくして、目的地の菓子屋横丁に到着した。横丁は、10数軒の駄菓子屋が軒を連ねていた。崇行くんはさっそく自分の視界に入った駄菓子屋に入っていく。
駄菓子屋に入ると、そこは別世界であった。
ビー玉、サキいか、ハッカなどたくさんの商品であふれている。崇行くんは、早くも駄菓子屋の世界に入り込んでしまったようだ。
いろいろな商品を手に取っては、じっくり見ている。
菓子屋横丁とは、大人が仕掛けた魅力的な世界である。その商品の数々は子どもなど簡単に誘惑してしまいそうだ。
崇行くんは、早くもこの罠にかかってしまったのだろうか。
しかし、私からは買い方のアドバイスは一切しない。
自由に買い物をしてもらう。
もともと教育のために川越にきたのではない。遊びが目的である。それに、条件をあまり付け過ぎると、子どもらしい発想や興味を奪ってしまう。ただただ、遠巻きに見ているだけである。
崇行くんはしばらく同じところに立ち止まっていた。何やら赤い物体をいろいろな角度から見ている。どうもブリキ製のミニチュアバケツのようであった。
崇行「このバケツ、欲しいです」
萩野「ふ〜ん、このお店が最初だけど?」
崇行「これを見ていたら、家族にお土産を買いたくなって」
萩野「バケツをお土産に?」
崇行「お父さん、お母さん、二人のお姉ちゃん、そして自分に」
「家族のお土産にバケツ」
これは人生で初めて聞いたフレーズだ。
私には理解不能なお土産であるが、その独特の着眼点がおもしろい。私はそれ以上話すことをやめ、彼の行動を脇で見続ける。
バケツをじ〜っと見つめ、考える姿は真剣そのもの。
「ほかの駄菓子屋に行って、いろいろ見た上で決めるのも手だよ」
こんなアドバイスも思いつく。だが、崇行くんのまなざしを見ていると、それも大人のつまらない浅知恵に思えた。
結局、崇行くんは。ブリキ製のミニチュアバケツ五個を購入した。
私には考えられない選択に、正直驚くだけであった。
私は崇行くんの所持金をあらかじめ確認していなかった。
また、持参する金額も、崇行くんの両親の方針に任せている。とはいえ、買い物もひと段落したので、崇行くんに現在の所持金を尋ねてみた。すると、彼は手のひらにコインを乗せて見せる。
お札はおろか、ニッケルのコインすら一枚もない。あるのは銅色が3枚だけだった。
おこずかいには、参拝料、市内の移動費などすべてを持つことが原則である。
こともあろうに、その全てを一発でほぼ使い切ってしまったようだ。予想外の展開であるが、こちらは助け船を出すことはしない。帰るまで今の所持金30円でカバーしなければならない。
時刻はまだ11時を過ぎたばかりだった。
「おいおい、昼飯はどうするの?」
崇行くんはお腹が空いていないからか、切迫感はまるでない。
「大丈夫です」
こう言って、別の駄菓子屋へ。その後は、ウィンドウショッピング。菓子屋横丁の雰囲気を楽しんでいるようだ。
さて、12時が近づいてきた。もちろんお昼の時間。この界隈は「うなぎ」をはじめ、おいしいものはたくさんある。しかし、崇行くんの所持金は30円ぽっきり。さて、どうする。
彼の選択を待っていると、別の駄菓子屋に行くと言う。そこで、彼は10円菓子を3つ買い込み、それを昼飯にした。さすが、菓子屋横丁、チープな昼飯も可能である。
さすがに、私も一人でお昼を食べるわけにはいかなかった。そこで、お付き合いだ。同じものを3つ購入して、昼食とした。すぐ近くには美味しそうなみたらし団子が並んでいた。
もちろん川越は「菓子屋横丁」だけではない。
「蔵造りの町並み」をはじめ、「時の鐘」「喜多院」など見どころいっぱいだ。所持金がなくなったおかげで、「喜多院」までも歩くことになった。
歩くことは思わぬ副産物があった。商業エリアも見ることができたのだ。
事前にネットで勉強してきた崇行くんは言う。
「川越って古い家ばかりだと思っていた」
ネットの川越と現実の川越が大きく異なることに驚いた様子。川越の町全体=「蔵造りの町並み」ではないことに気づいたのだ。
ネットが身近になった現代。しかし、ネットと実物が異なることはいくらでもある。崇行くんは川越を歩きながら、ネットと現実の違いを肌で感じていた。
菓子屋横丁は、魅力的な駄菓子が揃う、本格派の駄菓子屋である。
しかし、昭和50年代前半に私が通った駄菓子屋はちょっと違っていた。
川越の菓子屋横丁は本格派ゆえ、駄菓子以外の商品がほとんど見当たらないのだが、私が知る駄菓子屋は、駄菓子だけを売っていたのではなかった。
そこでは、ちょっとした日曜生活雑貨などが合わせて売られていた。特に学校近くの駄菓子屋では、子ども用の文房具が必須だったと思う。
ノートはコクヨ、ジャポニカ。鉛筆では三菱、コーリン。ほかにもシャープペンの芯、のり、画用紙、折り紙、原稿用紙などなど。数多くの文房具が置かれていた。
文房具は売れるから陳列するという位置づけの商品ではない。駄菓子屋の戦略的小道具と言う方が正しかった。
なにせ、学校帰りに駄菓子屋へ寄るのはご法度とされていた。
子どもは、駄菓子屋に寄るための口実が必要だった。
駄菓子屋に行く為の「言い訳」が文房具だった。
「勉強用のノートを買う」
これは魔法の言葉だった。子どもたちは、堂々と学校帰りに駄菓子屋に行くことができた。
当時の先生もまたそのあたりを心得ていた。
「ノートを買う」
こう言われれば、先生も「ダメだ」なんて言わなかった。
「駄菓子屋はダメ」と話していた先生であったが、本音はこんな話自体、野暮だと思っていたに違いない。だから、子ども的な抜け道を許してくれていたのだろう。
鉛筆を買うふりをして、駄菓子を買う。
鉛筆を抱き合わせで、駄菓子を買う。
駄菓子屋に文房具が置いてあったのは、一種の芸術であり、子どもと先生の間には「あうんの呼吸」があったような気がする。
駄菓子屋で世渡りのコツを勉強した。本音と建前の使い分けも教わった。おかげで、その後の人生で大いに役立たせてもらっている。
都市の住民には、もともと地方で育った人間も数多くいる。
そんな人々も都会に移ってからは、国道16号以南のリズムに合わせて生活しているようだ。20代の私はまさにこのパターンであった。
月日が流れ、私も30代の終盤に突入した。
埼玉県に住むようになり、都市と農村、二つの世界を同寺に触れることが多くなった。そんな時、訪れた菓子屋横丁。
そこで気づいたのは、昔のゆっくりとした感性が、自分の中に残っていたことである。これはまさに国道16号以北の匂いとは共通するものであった。
国道16号が通過する街、川越。
「オン・ザ・16号」の街らしく、小さな都会にレトロな雰囲気が溶け合った街である。都市型思考が多くなり、ちょっと疲れた人々には、昔の自分を思い出すのによい空間かもしれない。
文具とハカリ テイク松定 | 町屋造りや洋風看板建築が
軒を連ねるレトロな街並み、 御影石の石畳、 電線を地中化した広い空。 ほっとするような、 ワクワクするような 忘れかけていた ちょっと不思議な感覚。 のれんの古さだけでなく 本物の商いで お待ちしております。 |
川越商工会議所 |
沖縄物産 真南風 | 手芸・手編 山 久 | |
寝具・婦人衣料 フトンハウスわたなべ | ミセスの店 エチゴヤ | |
みそと地酒 伊勢源 | 紳士服・礼服 東京堂 | |
うなぎ 小川菊 | 舞台演劇化粧品 加賀屋 | |
洋品 伊勢亀 | 各種人形とケース 泰玉スガ人形 | |
時計メガネ宝石 カニヤ | 印章・ゴム印 利剣堂 | |
たこ焼・紫芋ソフト 越たこ | 理容 鈴木理容所 | |
すし亭 田 久 | はかり菓子 あさひ堂 | |
とんかつ 楽 天 | TMO事業 チャレンジショップ 夢乃市 | |
小江戸人力車 川越陣力屋 | ||
時計・メガネ ナガクラ | はやし文具 | |
だんご (旧)小松屋 | 家電 ヨシダデンキ | |
ニットショップ オダカ | 炭火焼肉 七 輪 | |
だんご・和菓子 いせや | 不動産・建築・占い 大宝建設 | |
自家焙煎珈琲 シマノコーヒー大正館 | 企画画廊 川越画廊 | |
書籍・教科書 吉田謙受堂 | 中国医療気功整体 川越治療院 | |
洋品 大野屋洋品店 | 毛糸・セーター 初雁あみもの店 |
川越駅から商店街を北に20分ほど歩くと大正時代を感じさせる店が200bほど続く。大正浪漫夢通り。その一角に、川越のシンボルと言ってもいいような建物がある。
商工会議所が入っている建物で、わがご主人様は「風格がある」と盛んに感心している。川越は観光客も多いようなので、川越在住・在勤者でそれぞれの時代が感じられるような物を持ち寄り、手作りの時代博物館とか時代ロマン美術館とかにしてはどうだろう。
建物も喜ぶと思う。小さな顔で考えたんだけど。
埼玉には、他県からわざわざ観光にいらしていただくほどの場所は「何もない」という前提で、ここまで書いてきた。自分で書いておきながら、あんまりである。
実際は「はじめに」でも遠慮がちに触れた通り、紅葉が美しい秩父やマンガやアニメでおなじみ『らき☆すた』の聖地、久喜市の鷲宮神社など、観光地がまったくないこともない。ここで『らき☆すた』に登場してもらうあたりが苦しいけれど。
そんな何もない埼玉の観光地のなかで、近年、埼玉観光の目玉となっているのが小江戸、川越である。
埼玉県観光課の北陸新幹線・圏央道開通記念の「ようこそ埼玉キャンペーン」で提案されている4つのモデルコース全てに川越が組み込まれているほど、川越なくして「ようこそ埼玉」は成立しない現況だ。
データ的には、川越市は埼玉県内でさいたま市、川口市に次ぐ人口を擁し、埼玉県唯一の「歴史都市」の認定を国から受けており、2009年のNHK連続テレビ小説「つばさ」の舞台になった。
その川越で観光客が訪れるのは、基本的に大正浪漫夢通り、川越一番街、菓子屋横丁、、川越城本丸御殿、、喜多院・東照宮の5エリア。この5エリアで、観光客がお金を気前よく落としてくれるのは、大正浪漫夢通りと菓子屋横丁という、コンセントが明確な2本の通りに限られる。
江戸の台所と言われた昔の川越のメインストリート、大正浪漫夢通り。かつては埼玉でもっとも栄えた商店街だったらしい。時の流れとともにご多分に漏れず、衰退していったようだが、商店街の有志が川越の歴史を武器とした商店街の再生を志し、アーケードを取り払って、2001年に「大正浪漫」をテーマに商店街のリノベーションを仕掛けたことが、今日の川越人気につながっている。
古い蔵や大正から昭和にかけて建造された川越商工会議所など、趣のある建築物の間に町家作りと洋風建築の店が立ち並ぶ。江戸時代から続く老舗もあるそうだ。
一方の菓子屋横丁は文字通り、お菓子屋さんが並ぶ通りで、昭和でレトロな駄菓子を売っている店が軒を連ねる。
私は数年前、川越の歴史を調べずに、観光客としてふらりと訪れた経験がある。その時の印象を率直に言うと「テーマの設定された出来立てのショッピングモールみたい。なんだか歴史を感じないなあ」だった。
そう感じるのも当然だ。なぜなら先に書いたように、大正ロマン風のレトロを売りにしているが、リノベーションによって生まれ変わった、本当に出来立てホヤホヤの商店街だったからだ。正真正銘、まさにテーマ型野外ショッピングモールだったのである。
菓子屋横丁にいたっては、お台場のデックス東京ビーチの昭和30年代をイメージしたテーマパーク、台場一丁目商店街とカブって見えた。レトロが新しい、と表現するとややこしいが、「昭和風」だけど「風」の部分が強すぎて、昭和の街がそのまま生き残っている感じがしなかった。
実際にあの場所でずっと駄菓子が売られていたのは確かで、昔ながらの店舗で営業しているらしい店もあるにはあった。
しかし台場一丁目商店街は人工的な場所で人工的にテーマパークとして存在するからいいのだが、菓子屋横丁はなまじ歴史ある街のなかにある生身の商店街のため、なんだか奇妙な違和感があったのも事実だ。
大正浪漫夢通りも菓子屋横丁も、まるで映画のセットのように、どこかきれいすぎる。
漂白された商店街、とでもいったらいいだろうか。
歴史のきれいな部分だけを再現した、ともいえるかもしれない。
さらっとして、ちょっとおもちゃみたいな小江戸・川越の街を歩きながら、「歴史を伝承していこうとるすと、こうなるのかな……」とうっすら疑問に思ったのだが、私のようにかすかな危惧を抱く人はあまりいないらしく、埼玉の中でダントツ人気の観光スポットに成長した。それも短期間で、だ。
そして、映画のセットのような街並みだからだろう。実際に映画やドラマでよく使われていて、大正浪漫夢通りの公式サイトには「撮影の街」という項目がある。何しろ、東京から近い埼玉だ。気軽に大正ロマンな雰囲気を撮影できるとなれば、便利に違いない。なるほど、こういう商店街の生き残り方があるのだなあ、と感心した。
勝てば官軍である。
ショッピングモールは好きだが、漂白された商店街はあまり好みではない、という私の個人的な志向に川越は合わない部分がある。
けれども、滅びかけた商店街を滅びきる前に華麗にリノベーションして息を吹き返させた事実を心から「すごい!」と思っている。いたずら延命措置をとらず、一度安楽死させたうえで、土地の歴史を基に商店街を再生させる道を選んだ川越のチャレンジは、実にあっぱれだった。
多少漂白されたても、リノベーションした街並みを観光客が楽しみ、商店街にきちんとお金が落ちるなら、何もやらずに滅びるよりは、百万倍も良いに決まっている。
リノベーションされた街や商店街も時を経て、歴史ある川越にふさわしいいぶし銀の雰囲気を、やがて醸し出すのだろう。あるいは、アップデートを怠らず、常に「大正浪漫」をテーマにフレッシュな商店街であり続ける可能性もある。
どちらにしても、地域の個性を活かしたまちづくり、商店街の再生に、川越はひとまず成功したといっていいのではないか。
その成功のカギが「街のショッピングモール化」であったのはアイロニカルだが、大資本のショッピングモールに負けまいと、古くからの街の中心地でテーマ型ショッピングモール化を実現させて人を見事に呼び込んだ川越の方法は、大正浪漫夢通りの「夢」を十分に叶えている。
土地の歴史を丁寧に伝承していくこと、商店街再生のために急いでイマドキの文脈に合うようにリノベーションすること。
この二つの問題は重なりあった両面で、時にぶつかりあう。たまに商店街再生のための勉強会といった会合を見学すると、「過去の歴史を確認して勉強するのも大事だけれど、そんな悠長なことをしている時間はないのではないか」と歯がゆい思いをすることがある。
もちろん、ゆるゆるの土台にしっかりしたものは建たない。だから、歴史の再確認と滅びゆく商店街のリノベーションは、猛スピードの同時進行でやらなくてはいけないのだ。
そして、仮にどちらかを優先しなければならないとすれば、私はリノベーションを急ぐべきだと考えている。息の根が止まった後では、もう遅い。息の根が止まった後にできるのは、すべてをガラガラポンしてすっかり作り変えることだけだろう。もちろん、誰もがワクワクできるように作り変えられるなら別だが、そんな芸当は並大抵の話ではない。そうしたウルトラCができるなら、そもそも死にそうになどなっていないはずだ。
言われなくてもわかっている、とおっしゃる向きも多いと思う。でも、「商店街に低予算でチャレンジできる若者向けポップアップショップの場を設けて、若者に来てもらおう」といった案を見かけると、気持ちがぐんにゃり萎えてしまう。結構、こういうことを言い出す「大人」がいる。けれども、第一にリスクをとらない商売がそううまくいくとは思えないし、第二に「若者」だからといって感度が高く優れているとは限らない。
この手の「若者に一部任せてみよう案」は、前向きにとらえても、単にほんのちょっとの延命措置にしかなりえないだろう。
ともあれ、川越は小江戸と呼ばれた歴史の遺産をフックにして最大限活かしたわけだが、他都市でも、その都市の財産を早急に見直して川越式(?)をアレンジするのも一つの道だと思う。
たとえば、高知県高知市のひろめ市場は「平成浪漫商店街」というキャッチコピーで1998年にオープンしているが、この市場も龍馬通り、よさこい広場といった、高知らしい名をつけ、やはりテーマパークのような作りになっている(それにしても、川越も高知も「浪漫」がお好きだ)。
高知名物、鰹のたたきを出す飲食店やシャキッとしたアイスクリンが食べられるお店をはじめ、屋台風のお店がぎっしり立ち並び、売るほうも買うほうも、老若男女入り乱れて活気がある。観光客だけでなく、地元の人たちも多いから、あるいはすでに16年の時を経ているからか、市場としての味があり、良い意味で猥雑な雰囲気に包まれていた。
ひろめ市場の周囲はアーケード商店街に囲まれていて、それぞれの商店街も多少の空きはあるとはいえ、シャッター商店街にならずに持ちこたえている。少なからず、ひろめ市場の人気が影響しているのではないだろうか。私もひろめ市場から続く商店街をぶらぶら散歩して、とても楽しかったし、「高知にまたぜひ来たい」と思った。
安心は禁物だが、高知は高知らしく、街のショッピングモール化を果たしている。
また長野県松本の観光地、「蔵のある街」中町通りは、酒造、呉服問屋、蕎麦屋の合間にカフェなどがあり、「新しい古さ」を感じた。昔懐かしさをイマドキの感覚にチューニングして見せる、川越の大正浪漫夢通りの方法論に似た攻め方だろう。
せっかく持っている地域の財産を活かさないまま、大変だ大変だと嘆くだけで時間を消費し、誰も消費してくれない商店街と化した場所も少なくないと思う。
消費を促すには、気まぐれな消費者に選ばれなければならない。生き残るには、ファンを増やさなければならない。ファンを増やすには工夫しなければならない。工夫するにはイマドキの感覚を取入れなければならない。
もしもそのための方法として、街のショッピングモール化が選択肢にあがるなら、その道を模索したっていい。ただし、そうした街のショッピングモール化は「イオンで買えないモノやコト」を提供するものでなければならない。
川越のショッピングモール化は、商店街再生の好サンプルととらえたいと思う。