川越の町並み・まちづくり


<目 次>
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町並み
「歴史遺産日本の町並み108選を歩く」 吉田桂二 講談社+α新書 2001年 ★★
  19 川越〔埼玉県〕 巨大な鬼瓦と黒漆喰の重厚な店蔵が並ぶ小江戸
 川越は、江戸の西北を固める防衛拠点として築かれた城下町であった。そのため川越城は、代々徳川家の重臣が城主をつとめた。有名な「知恵伊豆」こと、松平伊豆守が江戸初期の寛永の大火後、大々的に城の拡張と町の整備を行い、現在の町の基礎を造った。同時に新河岸川の舟運を開いて、陸路の川越街道とともに、江戸との結びつきをより強固にした。町は南北に長い楕円形で、周囲を新河岸川が包み込む。城は天守のない平城で、新河岸川を東にしていて、西に向けて、武家屋敷、同心町が続き、札の辻からが商人や職人の町へと続く。
 今は、時の鐘を中心にした、土蔵造りの町並みを残す一番街がここであるが、これらの建物は、その多くが明治二六年の大火後、火に強い土蔵造りに改めたものなので、これは江戸時代の町の姿ではない。川越を「小江戸」と呼ぶが、江戸時代、すでに不燃化の度合いを高めて、土蔵造りの家の建ち並ぶ町になっていた江戸の姿が、川越に及ぶのは明治になってからということであろう。巨大な鬼瓦、黒漆喰の無骨な造りは、坂東風土蔵造りというのがふさわしい。
 一番街の幸町、元町、仲町の筋だけでなく、仲町の交差点から東に向かう旧志義町筋、時の鐘のある旧多賀町筋、札の辻を北に越えた喜多町通り、一番街の東に平行する大手町や松江町の通りなど、脇道にも入ってみよう。土蔵造りの町が面的に広がっているっことが分かってくる。観光の町でない、日常的な町の姿に接することができるだろう。

 ●お役立ちデータ
 〔種 別〕商家町
 〔選 定〕重要伝統的建造物群保存地区
 〔ポイント〕一番街の町並み越しに時の鐘を入れた構図、亀屋が狙い所。
 〔問い合わせ〕川越市観光案内所。.049・246・2027
 〔交 通〕JR埼京線か東武東上線で川越駅、西武新宿線で本川越駅、下車

「スケッチ全国町並み見学」 片寄俊秀文・絵 岩波ジュニア新書 1989年 ★★
 X 関東/川 越 蔵造りの町並み
 今日の川越は、東京に通う人たちの住む近郊住宅都市としての性格がつよく、駅前には大きいショッピングセンターや、新しい商店が並んでいて、まるで新興都市のような活気が感じられます。しかし、その商店街を連雀(れんじゃく)町、仲町、喜多(きた)町と北へ町筋をたどるにつれ、しだいに古い城下町としての顔をみせてくれます。
 江戸城を築いた太田道真・道灌親子の手で川越城が築かれたのが長禄元(1457)年。江戸幕府の成立(慶長8年、1603)でこの地は北の守りとして重要な位置を占め、江戸初期に入部した老中松平伊豆守信綱の手になる都市計画で本格的な城下町がつくられました。信綱は城の規模を拡大し、城ちかくに上級中級の武家屋敷を置き、道路を格子状に配した長方形の城下町に町人地を、下級武士の屋敷を外郭に、さらにその外縁に社寺を置いて軍事的な防衛体制をととのえました。しかし城下町の性格としては行政中心あるいは商業中心的な色彩がつよく、信綱が江戸街道(ママ)および新河岸(しんがし)川の舟運の開通、それに市郊外に位置する野火止(のびどめ)用水の開さくに力をつくしたことから、川越は大消費地江戸にむけての商品輸送の拠点となり、商品貨物のストックのために耐火性のある蔵造りが普及して、これがのちの商都川越の基礎を築いたわけです。
 川越城の遺構としては本丸御殿が残されており、また日光とならぶ東照宮のある喜多院には江戸城から移築された客殿などの重要な建物があります。
 蔵造りの町並みがよく残されているのは、仲町交差点付近から札の辻(ふだのつじ)交差点にいたる一番街商店街のあたりで、国指定の重要文化財である大沢家や旧万文(まんぶん)の建物を改修してつくられた蔵造り資料館、それに旧市街地のシンボルである時の鐘などがあります。鐘楼の高さはおよそ17メートル。寛永年間(1624―44)に創設されたのち、現在のものは明治中期の大火で焼けたあとすぐ江戸時代の構造にならって再建されたものです。毎日午前六時、正午、午後三時、六時の計四回、時を報じており、駅前からの道がちょうどタイムトンネルのような気がしてきます。
 旧市街地一帯には、年々その数を減らしてはいるものの、店蔵(みせぐら)(二階建てで道に面して商店を営むもの)、袖蔵(そでぐら)(付属屋)、塗家(ぬりや)(外壁をしっくいで塗りかためた家)など60棟ちかくの蔵造りや塗家づくりの建物があり、そこに大正初期の銀行などの洋風建築もまじっていてなかなか壮観です。とはいえ、かつて一番街にはこれが200棟以上ずらりとならんでいたということです。現在あるものの大半は明治26(1893)年の大火以降に建てられたもので、屋根は切妻平入(きりづまひらい)りが一般的ですが、蔵造りはたがいに高さをきそいあったといわれ、屋根の棟を高くし、巨大な鬼瓦(おにがわら)をつけていかにも豪壮な構えをつくっています。
 この重量を支えるために、建物の基礎づくりには細心の注意がはらわれており、またこの地区の地盤のよさがそれを可能にしたものと思われます。しかし、構造的な制約で店の間口がせまく、これが店舗拡張のときに蔵造りを壊す大きい原因になっているようです。現在では商業の中心が駅のほうに移動し、住み手が変わり、蔵造りを維持するばく大な費用負担の問題もあって、かつて軒をつらねていた店蔵はつぎつぎと壊され、そこにビルが建ったり空地ができて、歯が抜けたような町並みに変わってきています。
 しかし関東三大祭りの一つといわれ50万人の人手のある氷川神社の川越祭りが年々盛んになってきています。町内ごとの山車(だし)が15台ちかくも出るなど、川越の文化的伝統を育てようという気運も盛りあがっているので、蔵造りの町並みを保存しながら新しい感覚の店づくりをすすめようという住民の動きにもようやく活気が感じられます。

 ○川越はさつま芋の産地として有名で、芋せんべい、あめなど手づくりの駄菓子が売られ、ほかにだんご屋がたくさんあることでも知られています。
 ○氷川神社の祭礼の川越祭りは、江戸の赤坂山王日枝神社や神田明神の祭りを受けついだものといわれ、商人たちが財力をみせるために江戸で見て来たものを伝えたからだといわれます。
 ○交通 西武池袋(ママ)線本川越駅下車。
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「歴史の町なみ 関東・中部・北陸篇 保存修景計画研究会 NHKブックスカラー版C11 1980年 ★★
 第一章 関東の町なみ/4 川 越(埼玉)
 蔵造りの町なみ
 池袋から東上線で約三十分のところにある川越は、東京近郊の多くの都市と同様に東京に通う人びとが住む近郊住宅都市であり一衛星都市だ。古くから武蔵国に属し武蔵野台地の東端に位置する。この旧城下町・川越には、東京近郊の他の都市にはみられない独自の風格と魅力がある。荒川西岸の交通の要地であり、江戸にとっては軍事上の要所であるとともに商品流通の中心地でもあった川越は、歴史的にみるならば、江戸の外の江戸、小江戸、江戸の母とも呼ばれてきたのである。
 東上線(池袋−川越間の開通は大正三年)・国鉄(現JR)川越線(開通は昭和十五年)のかわごえ駅前には、最近、ショッピング・タウンがオープンしたが、この駅周辺には金融街がかたちづくられており、かわごえ駅から西武新宿線ほんかわごえ駅にいたる一帯においては、大型店舗の進出がみられる今日の川越だ。かわごえ駅、ほんかわごえ駅からいくつかの商店街を通って北上すると、城下町当時の町割部分にあたる旧市街地の中心部に達する。
 川越は、蔵造りの町なみで名高い。蔵造りは、@店蔵+袖蔵、A店蔵、B塗家、C袖蔵に分類されるが、川越の旧市街地には、こうした蔵造りが点在している。昭和五十年九月から翌年三月にかけて実施された、土蔵造りの町なみを対象とする文化庁の依頼による調査記録によると、「各町内における蔵造り塗家造りの件数」では、@店蔵+袖蔵−七、A店蔵−三十四、B塗家−十三、C袖蔵−十で、合計六十四を数える。耐火建築である蔵造りは、今日、仲町交差点周辺の地域と、仲町交差点から札の辻交差点にいたる一番街商店街に特に集中してみられる。この辺が川越の歴史の町なみの核だ。蔵造りの町なみの中枢は、一番街商店街だが、仲町交差点で東西に延びる仲町商店街や、アーケード街になってはいるが、仲町交差点からやや東にある商工会議所の角から入る銀座商店街(現大正浪漫夢通り)なども、往時の町なみの一端がうかがえるところだ。川越の歴史的景観の中枢地区である一番街周辺の地域でみると、(イ)蔵造り−二十件(うち袖蔵をもつもの四件、かつての袖蔵を改造し店蔵としているもの一棟を含む)、(ロ)塗家造り−四件(うち前面軒下のみ塗り込めたもの二件)、(ハ)袖蔵をもつ町屋−一件(ただしイの項に含まれるものを除く)となる(『蔵造りの町並―川越市伝統的建造物に関する調査報告書―』川越市文化財保護協会、昭和五十三年十月一日発行、参照)。
 一番街商店街を歩いてみよう。仲町交差点に立つと重厚な蔵造りが私たちの眼をとらえる。箱棟、鬼瓦、桟瓦、観音開扉、目塗台、庇(商家の看板がこの庇の上にみられる)、腰巻、こうしたものが、店蔵の基本的パターンだ。そして黒塗りの壁面。堂々たる佇まいだ。現代の町なみとはまったく異なる、いわば、江戸風の世界がここにある。蔵造りの町なみが長くつづいているとはいえないが、それでも蔵造りの歴史的景観は、城下町川越の姿を語るに十分だといえるだろう。 
 時鐘楼
 川越の歴史
 和洋のコントラスト
 町なみ保存をめぐって
 
   文 献
 小野文雄 『埼玉県の歴史 県史シリーズ11』 山川出版社、昭和46年。
 斎藤貞夫編著 『河岸場の今昔―新河岸川舟運と船問屋「伊勢安」―』 武州新河岸川舟運史料刊行会、昭和48年。
 飯島謙輔著 『史実 江戸の母川越 改訂版』 発行者 飯島謙輔、昭和49年。
 『都市住宅』7502 特集 川越―保存から計画へ 第88号、昭和50年1月、鹿島研究所出版会。
 岡村一郎著 『川越夜船―新河岸川舟運史―川越歴史新書2』 川越地方史研究会、昭和51年。
 岡村一郎著 『川越の城下町 川越歴史新書1』 川越地方史研究会、昭和51年。
 『蔵のある街 小江戸・川越 高橋金治写真集』(自費出版)、昭和52年。
 岡村一郎著 『川越歴史点描 川越歴史新書7』 川越地方史研究会、昭和53年。
 川越市文化財保護協会 『川越市の文化財』 昭和53年。
 川越市文化財保護協会 『蔵造りの町並―川越市伝統的建造物群に関する調査報告書―』 昭和53年。
 『小江戸川越 江戸文化の残照を求めて』 創芸社、昭和54年。
 川越市役所『統計かわごえ 昭和53年度版』 昭和54年。
 『思想』1979 9、663号、岩波書店、特集 社会史、所収、J・ル・ゴフ「教会の時間と商人の時間」(新倉俊一訳)

「死ぬまでにいちどは行きたい六十六ヵ所」 谷川彰英 洋泉社文庫y 2005年 ★★
 六十六ヵ所が見せてくれる豊穣な日本文化の真髄
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」(松尾芭蕉『おくの細道』)――
 青春に浮かれ、朱夏に汗し、白秋に憂いをひそめ、玄冬に沈思する。
 人生はまことに明暗、濃淡さまざまに彩られた、せわしなく、とりとめのない旅である。
 思えばいろいろな場に身を置いてみたいと願いながら、果たせていない場所は数知れない。
 著者は多忙もものかは、仕事を離れ自ら選んだ六十六ヵ所を歩き出した。
 個人の思い入れで選定した場所だが、日本人には共通する情感があるのではないか。
 共に歩めばなるほどと確信し、改めて日本の歴史と文化、自然の深さ、豊かさに思い至るのである。
 
 第6章 行ってみたい街並み
 川越……小江戸≠ニ呼ばれる蔵造りの街並み(埼玉県)
 川越といえば、東京から一時間足らずで行くことができる近郊都市である。川越は江戸時代から特別な扱いをされた町で、とりわけ五代将軍綱吉の側用人として活躍した柳沢吉保が藩主を務めたことで、徳川幕府にとって最も重要な藩の一つとしてみなされていた。
 川越城を築いたのは大田道真・道灌父子とされ、室町時代のことである。柳沢吉保(1658〜1714)は将軍綱吉の一二歳年下で、同じく戌年だった。綱吉は犬将軍とも呼ばれ、「生類憐れみの令」で厳しい取締りをしたことで有名だ。
 吉保が川越藩主を命じられたのは元禄七年(1694)であり、翌年には現在駒込にある六義園を与えられ、それ以降、江戸と川越を往復しつつ、時の政治を司った。
 このような意味で政治的にも江戸と深いつながりがあったが、他方、新河岸川の舟運によって、江戸の台所をまかなう農産物や織物などを供給し、江戸との往来も盛んであった。そこで、川越は自然に小江戸≠ニ呼ばれるようになった。
 現在蔵造りの建物が並ぶ幸町通りは、江戸時代からの目抜き通りだったが、明治二六年(1893)三月、大火によって1303戸が焼失してしまった。それを教訓にして、商人たちは競って蔵造り建築に切り替えた。現在残っている蔵造りの多くの建築はこのとき建築されたものである。見事な蔵造りの店々が並んでいる。全国で蔵造りを売りにしている街はいくつもあるが、これだけの建築物が並んでいるのは、この川越だけだろう。
 川越でちょっと面白いのは菓子屋横丁である。もともと、川越では明治・大正・昭和にかけてお菓子を作り続けており、多いときには70〜80軒もの菓子メーカーが軒を連ねていたという。
 蔵造り通りからほど近いところに、菓子屋横丁はある。いまでも20軒ほどのお菓子屋さんが軒を並べている。横丁に入ると、菓子づくりの甘い匂いがどこからともなく漂ってくる。そもそも菓子屋横丁なるものを、私はほかに知らない。
 なかでも、田中屋さんはいちばんの老舗で、店の奥は「駄菓子の資料館」になっている。店先から奥にいたるまで、昔懐かしいお菓子でいっぱいで、まるで数十年前にもどったようなレトロな感覚に襲われる。子どもはもちろんだが、親やおじいちゃん、おばあちゃんまで三代にわたって楽しめる横丁である。
 川越には喜多院という天台宗の名刹がある。是非行ってみるべきだ。平安時代、天長七年(830)慈覚大師円仁によって創建された寺で、江戸時代になると家康の信任を得ていた天海僧正が第二七代住職になるなど、幕府の手厚い保護を受けた。江戸城から家光誕生の間や春日局の化粧の間などが移築されている。
 境内の一角には五百羅漢が置かれており、この羅漢でも喜多院は知られる。羅漢とは、如来、菩薩、明王天に続く位置にある仏像で、最も人間らしい仏である。ここには538体の羅漢が鎮座している。五百羅漢は全国にも数多くあるが、これほどよくまとまったものはほかにないのではないか。
 東京からほど近いところに、これほどの江戸を感じさせるものを多く備えた街は川越を除いてない。江戸を見直す機会にしたい。

周辺ガイド
時の鐘:400年近くも前から時を知らせてきた川越のシンボル。現在のものは四代目といわれるが、今も午前六時、正午、午後三時、午後六時に時を知らせている。平成八年(1996)、「残したい日本の音風景百選」に選ばれた。
大沢家住宅:寛政四年(1792)の建築で、国の重要文化財に指定されている。

「年金で豊かに暮せる日本の町ガイド」 わいふ編集部【編】 学陽書房 2003年 ★★
埼玉県川越市 歴史と都市機能の絶妙のバランス
・歴史ある蔵造りの町並み
・野菜は地場産

「日本の町並み探検 なつかしい風景に出会う旅 昭文社 1996年 ★★
川越(埼玉県川越市)
 時の鐘が鳴り響く蔵造りの街並み

週刊日本の町並み 16 川越・秩父」 学研 2005年 ★★
 

「新・町並み時代 まちづくりへの提案 全国町並み保存連盟編著 学芸出版社 1999年  ★★
 町並みということばに込められた意味は、大きな広がりを持ち始めている。町並み保存で培われた住民参加の運動を出発点に、伝建制度、近代建築の保存・活用、商店街活性化、生涯学習、NPOまで、さまざまな手法と実践を紹介する。(カバーの内容紹介)

第1章 町並みづくりの時代
●ひろげる―町並みを活かす制度と意志
町づくり会社による町並み・商店街活性化作戦      福川祐一
はじめに
 1998年の全国町並みゼミ東京大会では多彩なワークショップが展開された。そのひとつとして、蔵づくりの町並みで知られる川越一番街では、「町づくり会社による町並み・商店街活性化作戦」というワークショップがもたれた。「町づくち会社」とは、住民じしんがディベロッパーとなって、自分たちの町をよくしていくための事業を行う会社である。川越では早くから構想されたのだがまだ実現していない。このワークショップは、参加者とともに、このような町づくり会社の手法の意味や可能性を考え、あわせて、川越での実現にはずみをつけようという企画であった。
 なぜ、このようなテーマを取り上げるか?その理由は、伝統的建造物群保存地区のような規制的な手法だけでは、多くの場合、町づくりとしては限界があるからである。開発への圧力が強い場合はもちろんのこと、多くの中心市街地が衰退の危機にさらされている現在こそ、一定の意志を持って、積極的に開発に取り組む主体が欠かせない。このことをまず、具体的に川越について述べよう。そしておそらく、このことは多くの町でもあてはまることだと思う。

川越の町づくり会社
 川越における町並み保存運動の歴史は長い。町並み保存の口火を切ったのは、建築評論家で日大教授の浜口隆一氏が「地方都市川越のあり方、歴史的商業活動について」という問題提起をしたときだとされる。1970年のことであった。妻籠を愛する会が結成されたのが1968年であるから、1970年の前後は、海外を含めまさに町並み保存運動の揺籃期であった。川越でも前後して、埼玉県による「民家緊急調査」(1969)、大沢家住宅の重要文化財指定(1971)、煙草問屋万文の保存問題(1971〜、すったもんだがあり最終的には1977年に「蔵づくり資料館」としてオープン)、青年会議所の保存啓蒙活動(1973〜)、「文化財保護協会」の設立(1974、その後の町並み保存運動を中心的に担う、町並み連盟の初期からの会員である)、建築学会関東支部主催の「川越における歴史的街区保存計画に対する設計競技」(1974、応募全作品は当時建築系の学生の間でもっとも人気のあった『都市住宅』の一号まるまる使って掲載された)などの動きがあった。
 1975年度には、伝統的建造物群保存地区の制度制定に伴い、文化庁が全国的に展開しはじめた町並み調査の対象となっている(その報告書『蔵造りの町並』は文化財保護協会が複製し、今でも川越の町並みにある書店などで入手可能である)。しかし、この調査は伝統的建造物群保存地区の指定には直結しなかった。1978年には一番街に隣接してマンションが建設された。このマンションをめぐっては周辺住民が数年におよぶ反対運動を展開していた。このことに危機感をいだいた市が、1981年度に『川越の町並みとデザインコード』という調査を、当時町並み運動のひとつの核になっていた環境文化研究所に委託している。しかし、この提案も具体的な施策として実を結ぶには至らなかった。ほかにもいろいろな調査研究が行われており、川越では、いろいろ調査をしても報告書は「お蔵入りをする。さすが蔵の町だ」というのが、そのころかわされていた冗談である。
 具体的・実質的な町づくりの動きが始まったのは、1983年の「蔵の会」の結成からである。この会は、町並みに目覚めた市役所若手職員が黒子になり、地元の商店主たちが主役となって、外部の川越町並みファンも加わり結成された。商店主の何人かは、青年会議所で町並み保存運動に取り組み、「挫折」を味わった人たちである。会結成のきっかけのひとつは、市が制作したテレビ番組「蔵づくりの明日を問う」が神奈川県主催の地方の時代映像祭で優勝したことである。その賞金を市の一般財源に入れるのではなく、蔵づくりの町並みを救うナショナルトラスト運動の基金にしたいというのもひとつの動機であった。そして、この蔵の会で取り組まれた町づくり計画を立案する活動が、コミュニティマート構想事業の導入につながり、町並みの整備や店づくりの具体的な町づくりが開始することになるのである。
 ずいぶん時間がかかっている。なぜ、川越ではこのような時間が必要になったのか。さまざまな理由が考えられるが、ひとつのカギは「蔵の会」のスローガンにひそんでいる。蔵の会は、ナショナルトラストを標榜する「まちなみ保存のための財団形成」のほかに、「商店街の活性化による景観保存」と「住民が主体のまちづくり」を加えて、三つのスローガンを掲げた。問題はふたつめのスローガンである。その意味は、「商店街が活性化しなければ町並み保存はありえない」ということである。これまで川越一番街の人たちがよその人たちから言われてきたのは、「町並みを保存すると商店街が活性化する」であった。「蔵の会」のスローガンでは、その主客が逆転されているのだ。この逆転の意味は大きい。伝統的な建物の枠組みに閉じこめられていた商売が一転して主役に踊り出たのだから。
 このように発想が自由になると、ナショナルトラスト運動に刺激された「まちなみ保存のための財団形成」も発想を新たに展開することになった。ナショナルトラスト運動は、当時の環境保全運動に「自分たちでもできる」という勇気を与え、展望を切り開いてくれた。しかし、ナショナルトラストの「買い取り保存」が地価の高い日本、とりわけ都市部で困難なことは日の目を見るよりもあきらかであった。川越でも、当然ながらそのことが話題となった。そこで「蔵の会」の住民たちが語ったことは(少なくとも私にとっては)まさに「目から鱗」であった。壊されそうな建物や空き地・空き店舗を使ってほしい人や店へ手渡すことができれば、つまり自分たちがディベロッパーをやれば、ナショナルトラストと同じ効果が得られるのではないか、というのである(その後しばらくして、イギリスにもより積極的に開発を志すディベロップメント・トラストの発想があることを知った)。
 この発想は、1985年度に取り組まれたコミュニティーマート構想事業に書き込まれた。コミュニティマート構想は商店街近代化事業の一環であるから、計画内容は、一、全体共同施設(街路を整備するなど)、二、個店整備(個店のマーチャンダイジングと一定の基準に基づく改装など)、三、核施設建設(お祭りを主題にした施設など)の三点セットとなる。しかし、歴史的な建物をいかしていくことが必要な川越では、通常の商店街で取り上げられるこれら項目とは別に、確実な町づくりのシステムが必要であった。そこで、合意形成を担う「町並み委員会」と、開発を担う「町づくり会社」が両輪となって、町づくりを実践していくシステムを組み立てることが構想されたのである。
 町並み委員会は、商店街の構成員が「町づくり規範に関する協定書」を締結し、1987年10月に発足した。最初の半年は町づくり規範の作成作業にあて、翌年4月以降、これを判断の拠り所として、建築の計画を出してもらいその審議を行っている。もちろん、町づくり一般についても話し合われる。会合はほぼ月に一回のペースである。町づくり規範は、C・アレキサンダーのパターンランゲージに範をとった町づくりの原則集で、67のパターンからなっている。
 合意形成機関である「町並み委員会」に対し、「町づくり会社」は、町並み委員会の掲げた方針にしたがって核施設の企画・建設・運営、空き地や空き店舗の活用、街区内部の再開発を行うディベロッパーと想定された。このようなディベロッパーの必要性は、先のナショナルトラストの経過から導かれるのであるが、改めてひとことで整理すれば、「通常の不動産市場に委ねていては、町づくりに望ましい方向で土地利用が進んでいかない」ということにつきる。市場の中では、伝統的建物は土地の売却にとっては邪魔物だとしてとり壊される。そしてその後に景観づくりだといって伝統的建物に似せた似非伝統建築が建てられるという笑えない事態が起こる。空き地の土地利用といえば、駐車場かマンションになってしまう。これは実際に土地所有者が銀行に相談したときに出された回答である。つまり、一定の町づくりの意志をもち、具体的に事業を実施していく町づくりの主体がなければ、町は望ましい方向に動いていかないということである。
 もうひとつの問題点は、わが国の町づくりでは、しばしば、土地所有者が不動産関係のトラブルをおそれて、合理的な土地利用をはかることをためらうという点にある。商店街も元気なうちは、自然に新陳代謝が進み、商店街に新しい血が入ってくる。しかしいったん衰退傾向にはいるとそれはパタッと止まるのである。この、土地の所有と利用の分離という課題を、一定の公共性を有する組織=町づくり会社の介在で達成できるのではないか、と考えたのである。あるいは、このような会社に、住民・市民など地元商店街以外からも資金を提供してもらえれば、自分たちの市の象徴である町並みの再生を市民全体の参加と支援の中で展開できる。「蔵の会」の「財団形成」は、コミュニティーマートの計画の中で、このように再整理されたのであった。
 残念ながら、川越では、町並み委員会は10年以上の実績を重ね現在に至るが、町づくり会社構想は実現していない。この間にも、少数ながらも歴史的に重要な建物が壊され、「町づくり会社があったなら」という場面が少なからずあった。たとえば、ご主人がなくなり相続のために取り壊されそうになった「洋風」土蔵づくりは、篤志家が現れて救われたが、江戸時代の三階建ての袖蔵は借地権の整理のために取り壊された。新しい敷地境界線が、土蔵の真下にひかれたのである。しかし、町づくり会社を担おうとすれば、その人はそこへ人生とリスクをかけざるを得ないだろう。川越では、その一歩が踏み出せない状況が続いてきた。
 この4月(1999年)に念願だった都市計画道路変更と伝統的建造物群保存地区の指定が実現した。東京の不動産業者の手にわたった土地にマンションが建設されそうになったことが市が重い腰をあげるひとつのきっかけになったと言われている。この土地は結局市が買い取ることになったが、ここにも町づくり会社の活動の余地があるといえよう。国による重要伝統的建造物群としての選定は本年(1999年)末の文化財保護審議会の開催をもって実現されるはこびである。これで川越の町並み保存はひとつの山を越した。しかし、地図に見るように、町並みにはまだたくさんの空き地と空き店舗がある。川越一番街の町並みがいきいきとした、そして美しい町になるという目標は、未だ達成されていないのである。

「日本の都市景観100選」 編/「都市景観の日」実行委員会 監修/(財)都市づくりパブリックデザインセンター 褐囃z資料研究社 2001年  ★★
 川越歴史的町並み地区  埼玉県川越市 平成12年度受賞
美が息づく近代の創った近世の町

 明治26年の川越大火を機に、江戸の蔵前の職人たちを呼び寄せて再建された川越の町並みは、失われた日本の景観を的確に呼び覚ましてくれる。平入りの蔵造りの町屋が整然とならぶ一番街(通称、蔵の街)を歩くとき、来訪者はタイムスリップして江戸時代に戻ったような幸福な錯覚を抱くに違いない。塗り壁の重々しい造り、そこにはめ込まれた格子の繊細さ。その対比だけでも興奮を覚えるだろう。寛政4年(1792年)の建築で、国の重文に指定されている「大沢家住宅」を頂点に、明治期に江戸をなぞって出現した商家のありようは、街に誇りを抱くひとびとが存在すればこそ、歳月の移り変わりのなかで、奇跡の延命を遂げたのである。
 なにより街が博物館的ではなく、現代の街として生きているところがすばらしい。一番街から菓子屋横丁さらに大正通りの一帯にかけての店々は、商業の中心として繁栄をきわめ、嗜好品までも扱っていた往時の川越をきっちりと継承する。町のひとびとの人情もまた観光地一般とは一線を画するきめの細かさで来訪者をもてなしてくれる。それは都市が生きていることによってもたらされる魅力以外のなにものでもない。
 その努力を担い続けてきた、地元の市民で構成する「川越蔵の会」の保存の努力に敬意を払いたい。伝建地区に指定されたのを励みに、街は21世紀も着実に生き続けるに違いない。

●地区概要――本地区は江戸との流通により栄えた城下町川越の中心部に位置し、歴史的地区環境整備街路事業により石畳舗装が施された東京の下町の雰囲気が漂う「菓子屋横丁」エリア、明治の川越大火の後に建てられた蔵造りの商家が建ち並ぶ「一番街」を中心としたエリア、明治・大正・昭和の建造物が調和しながら建ち並ぶ「大正浪漫夢通り」エリアからなり、それぞれにおいて住民主体のまちづくりが行われている。

◎プロジェクト概要
@受賞者:川越市 A受賞年度:平成12年 B所在地:埼玉県川越市幸町の全部、元町1丁目・元町2丁目・仲町・連雀町の一部 C地区面積:約15ha D対象事業:歴史的地区環境整備街路事業、電線等地中化事業、伝統的建造物群保存地区保存事業、都市景観重要建築物保存事業、川越市観光市街地形成事業、他。 E景観形成の手法:蔵造り商家等22件を市の文化財に指定。「歴史的地区環境整備街路事業調査」を実施後、4路線を都市計画決定し、菓子屋横町をはじめとする3路線を整備。「川越市伝統的建造物群保存条令」を制定。「川越市川越伝統的建造物群保存地区」を都市計画。 G表彰等:平成7年/「まちづくり功労者表彰」の「まちづくり月間建設大臣表彰」、平成11年/グッドデザイン賞特別賞「アーバンデザイン賞」、他。
都市景観100選
北海道・東北
1 大通地区
2 小樽運河とその周辺地区
3 函館市西部地区
4 中歌・姥神周辺地区
5 帯広の森地区
6 弘前駅前地区
7 盛岡城址・中津川周辺地区
8 花巻駅周辺地区
9 内町地区
10 金山地区
11 飯森山地区
12 仙台駅周辺地区
13 泉パークタウン地区
14 いわきニュータウン中央台鹿島地区
15 鶴ヶ城周辺地区
関 東
16 足利学校・鑁阿寺周辺地区
17 栃木市歴史的町並み景観形成地区
18 二社一寺・田母沢御用邸周辺地区
19 高崎城址地区
20 偕楽園公園地区
21 筑波研究学園都市都心地区
22 盆栽町地区
23 高坂丘陵ニュータウン地区
24 川越歴史的町並み地区
25 千葉市土気南地区
26 新浦安駅周辺地区
27 千葉ニュータウン都心地区ビジネスモール
28 葛西沖地区
29 リバーピア吾妻橋周辺地区
30 臨海副都心レインボータウン地区
31 恵比寿ガーデンプレイス地区
32 田園調布地区
33 ファインヒルいなぎ向陽台地区
34 山下公園周辺地区
35 山手地区
36 みなとみらい21地区
37 金沢シーサイドタウン地区
38 港北ニュータウン・タウンセンター地区
39 新百合丘駅周辺地区
40 若宮大路周辺地区
41 横須賀港周辺地区
中部・北陸
42 千秋が原地区
43 小布施駅前・歴史文化ゾーン地区
44 松本城周辺市街地地区
45 静清地区
46 沼津御用邸記念公園周辺地区
47 掛川城天守閣・城下町風まちづくり地区
48 久屋大通地区
49 名古屋港ガーデンふ頭周辺地区
50 犬山城下町木曽川河畔地区
51 岐阜公園周辺地区
52 大垣駅周辺地区
53 高山市景観町並保存地区
54 郡上八幡地区
55 伊賀上野城周辺地区
56 富山県庁・市役所周辺地区
57 兼六園周辺文化ゾーン地区
58 大野城下町地区
近 畿
59 大津湖岸なぎさ公園地区
60 岡崎公園周辺地区
61 御堂筋地区
62 大阪城周辺地区
63 旧居留地地区
64 神戸ハーバーランド地区
65 創造の丘ナシオン地区
66 姫路城周辺地区
67 坂越地区
68 奈良公園地区
69 奈良町地区
70 今井地区
71 関西学研都市精華・西木津地区
中国・四国
72 倉敷駅周辺地区
73 平和記念公園・平和大通り地区
74 広島中央公園地区
75 福山城周辺地区
76 福山市鞆地区
77 尾道山手地区
78 竹原の町並み地区
79 呉市都心周辺地区
80 鳥取新都市若葉台地区
81 皆生温泉周辺地区
82 松江城周辺地区
83 津和野町後田地区
84 萩市堀内地区
88 パークロード周辺地区
86 下松タウンセンター周辺地区
87 真締川周辺地区
88 高松中央通りプロムナード地区
89 脇町市街地景観形成地区
90 高知市中心市街地区
九 州
91 シーサイドももち地区
92 門司港レトロ地区
93 柳川城堀地区
94 臼杵地区
95 東・南山手景観形成地区
96 中島川・寺町地区
97 熊本城周辺地区
98 一ツ葉リゾート地区
99 知覧町上郡地区
100 首里城周辺地区

図説 城下町都市」 佐藤滋・城下町都市研究体編著 鹿島出版会 2002年  ★★
序 城下町都市の現代
城下町の現代性
 城下町は近代社会においては、とりわけ都市計画からは否定的に扱われることが一般的であった。街路が曲がりくねって、自動車交通時代に適応できない不便で時代遅れな都市という評価である*1。このような一方では、戦後の高度経済復興期に市民意識の高揚に結びつけた天守閣の再建や、「小京都ブーム」などもあり、観光資源としての城下町が注目されてはいたが、これらは、どちらかというと城下町都市の本質的な理解というより、きわめて表面的な関心であった。
 しかし、ようやくわが国の高度成長が一段落した1980年代から、いわゆる「まちづくり」という流れの中で新しい動きが見えてきた。歴史的都市の価値が世界的に再評価され、また「地方定住」が国土計画の中でも位置づけられ、その拠点としての城下町都市が見直され始めたのである。地域の固有性や住民が持っているわが町に対する誇りともいうべき意識が、都市づくりの原点として重視されるにつれて、固有の地域文化を育む拠点であり続けている城下町都市を再評価する流れが始まっている。こうした中で、城下町が単なる封建都市ではなく「城下町の近代性」という評価が与えられたりしている*2
 城下町は、基本的には封建的身分制度を基礎に、その空間的な住み分けを計画的に行っている。すなわち身分制のゾーニングである。しかしその実態は、通常語られているような閉鎖的で固定的な封建社会というより、楽市楽座に始まる市場経済を基盤とした自由で流動的な、前期近代社会というべきものであることが明らかになっている。すなわち、封建的身分制のゾーンニングは、見方を変えれば都市機能の合理的な配置を計画的に実現しているのであり、多様な機能が集積する都市活動を支える手法でもあった。
 城下町の構成は、アメリカ的なグリッド都市ともヨーロッパの歴史的市街地のような高密度で有機的な構成とも異なる。城下町は、武家屋敷という大量の一戸建住宅地を都心に配置して寺社地などの緑地を抱え込み、ヨーロッパの歴史都市と比べると人口密度もさほど高くはない。むしろ20世紀初頭にイギリスでエベネーザ・ハワードと建築家レイモンド・アンウィンにより提唱され、世界に伝搬して近代都市モデルとなった「田園都市モデル」、ガーデンシティ的構成に近い。城下町は近代田園都市の原型であるとさえいう歴史学者*3もいるほどである。

 一方では、網野善彦が明らかにしたように、中世後期から発達した自由な商業活動が、織豊系城下町においては楽市楽座の制度によって保証され、町人地である「まちば」で自由闊達な都市文化が花開いてもいた。このような流れは、幕藩体制の成立とともに封建的な支配の仕組みの中に取り込まれていったのであるが、江戸時代の中期以降に徐々に町人が力を蓄えると、その経済活動を中心にした伝統的な「まちば」の自立性を復活させ、町人文化を生む基盤となったのである。
 このような伝統は、中央集権的な近代社会の中で弱体化したが、現代の市民社会への動向の中で再び息を吹き返そうとしているように見える。例えば、埼玉県川越市一番街の蔵づくりの町並み再生や、滋賀県長浜市のまちづくち会社「黒壁」を中心としたまちづくりなどは、近世以来の町人文化の基盤があり、まちづくりにおいても自立性と先進性が発揮されている例である。自由な人間活動の集積の場であり、多様な文化が組み立てられる場でもあった城下町の「まちば」は、現代の市民文化の発達によって城下町以来の多様な面が再興しつつある。そして旧武家地や住宅地に住む市民は、環境問題や教育問題など、また別の視点から市民運動を盛り上げ、新しいまちづくりの状況が見えはじめている。
 商業・生産活動をになう町人地、聖域であり緑地でもある寺社地、城郭を中心とした豊かな環境に恵まれた武士の住宅地など、多様な環境要素と居住スタイルが一元的に組み立てられていた城下町という装置が、多様性と地域の個性を重視する現代社会の中で,再び重要な意味を持つのである。これが「城下町都市の現代性」である。

*1 野中勝利・他『城下町都市の戦前の街路計画に関する研究』(1992年)はこのような事実を明らかにした。 
*2 玉井哲雄『近代都市空間の特質』(1992年)は、近代化を受け入れる基盤を持っていた城下町の3つの資質について述べている。
*3 川勝平太『文明の海洋史観』(1997年)には、「庭園(田園)都市の究極の原型をたどっていくと日本に行き着く」という記述がある。


城下町は軍事都市か?
庭園都市・山水都市としての城下町
日本の都市の起源と城下町
城下町都市の設計手法
城下町都市復興の物語を
現代城下町都市づくりのプログラム
 城下町都市図絵53
15 川越 埼玉県
人口|323,642人、人口の増加率|+1.2%
(人口は、1995年の国勢調査をもとにしており、増加率については1990年と比較している。)
南下した新市街地と保存された伝統的町並み
鉄道駅が旧市街地の南に立地したことで、現代的な商業集積地としてにぎわう駅周辺の新市街地と、城下町の文脈を受け継ぎ活用することで、
観光的に賑わう旧市街地という性格の異なる2つの中心を持つようになった。

 城下町のデザイン 武蔵野台地の北端に立つ城下町
 川越は、江戸から40kmほど離れ、荒川・入間川のつくる低地帯へ突き出した武蔵野台地の北端という、地形的な要害に位置している。江戸をとりまく軍事・政治の拠点の1つであっただけでなく、江戸と直結した新河岸川の水運を生かし、物資の集散の中心地として発展を続けた。川越の城下町は、長禄元年(1457)に上杉氏の命を受けて太田道真道灌親子が平城を築いたことに始まり、寛永15年の大火の翌年(1638)には、松平信綱により現在へと続く町割りが整備された。
 城郭の西大手門から延びる通りに位置する「札の辻」と呼ばれる十字路を中心に町人地が発達していった。
 原則として、1本の通りの角から角までがひとつの近隣単位の町であり、T字路や鈎の手が多く設けられたいることで、視覚的に町が閉じられ、空間的な一体感を生んでいた。
 川越城下の町割りは、大きく武家地と町分と郷分からなっている。武家地は、城郭に接して上級家臣の屋敷が、城下の出入口の街道筋には足軽組屋敷が配置された。
 「十ヶ町四門前」と呼ばれた町人地は、「札の辻」を中心とし商人地である上五ヶ町と、それをとりまく職人町である下五ヶ町、城下西側に配された寺院につらなる4つの門前町から構成されていた。さらに町人地の周囲には、村が町場化した郷分と呼ばれる中間領域があった。こうした町割りと街路の構成は、現代に至る基盤として色濃く残っている。

 近現代の変容 鉄道駅開設にともない南下する商業集積地
 明治26年(1893)に中心部を焼きつくす大火が起こり、有力商人たちはこぞって防火性能の高い蔵づくりや塗屋づくりでまちを再建した。その後、洋風建築も加わり、いまに残る伝統的町並みができあがった。台地の北端に立地するため、市街地の拡大は南に向かうこととなり、中心部も時代とともに南下してきた。明治から大正にかけて、鉄道駅が旧市街地の南部に分散的に立地し、昭和8年には旧市街地と駅を直線で結ぶための道路が建設された。その後、新河岸川の改修で水位が下がり舟運が利用できなくなったこと、また戦後に東京の衛星都市としての機能が強まったことなどで、駅の持つ意味合いが強くなり駅周辺が商業集積地となった。

 近現代のまちづくり 伝統的町並みの保存と再生
 戦災を免れ、商業集積地の南下により活用されずにあった伝統的建築物の多く残る一番街周辺に、1970年代に入ると町並み保存の機運が高まり始めた。しかし川越のまちづくりは、単なる建物保存には進まなかった。この一番街周辺では、城下町の時代から続く町家の生活文化や居住環境を守りつつ伝統的建築物という貴重な資源を新たな時代に向け活用していこうとしている。
 平成11年(1999)には、一番街を中心とした地区が重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。また、周辺地域でも、まちの歴史や文化を生かした環境整備や都市景観形成重要建築物の指定が行われ、それぞれの場所性にあったまちづくりを展開している。現代の川越は、大型店舗や中高層マンションが建ち並び若者たちで賑わう駅周辺の新市街地と、城下町の文脈を受け継ぎ活用することで観光的賑わいをみせる旧市街地という、性格の異なる2つの中心を持つようになった。

町家空間の活用、そして遊動空間へ

市民主体で進める保存まちづくり
市民の手による町並み保存の歴史
 川越の町並み保存は1970年代に入って始まった。昭和46年(1971)建築評論家の呼び掛けで城下町川越開発委員会が結成、その運動は青年会議所に受け継がれる。また昭和49年(1974)には川越を舞台に日本建築学会関東支部主催の「歴史的街区保存計画」設計競技が実施され、建築や都市計画の専門家が数多く参加した。これは、現在の川越のまちづくりに関わる多くの人材を生むきっかけとなっている。翌年(1975)伝統的建造物群保存対策調査が実施されたが、伝統的建造物群保存地区の選定には至らなかった。
 1980年代に入り、昭和56年(1981)川越市が16棟の蔵づくりを文化財に指定すると、空いていた蔵づくりの修復や再利用が個別的にはじまった。それらを背景に昭和58年(1983)に、地元住民、周辺市民さらには川越以外の川越ファンも一緒になって「川越蔵の会」が発足した。川越にとって初めての大きな住民組織の誕生だった。その後、コミュニティマート構想の計画案を進める中、「町づくり規範」と「町づくり会社」の2つの概念が生まれたが「町づくり会社」は実現していない。昭和62年(1987)一番街商店街で「町づくり規範に関する協定書」が締結、町並み委員会が発会し「町づくり規範」が作成された。以後15年にわたり毎月1回の町並み委員会を開催し、多くの建物改修に関わり一番街の町並みを修景してきた。

商業活性による伝統的町並みの保存
 「川越蔵の会」は以下の3つの目標を掲げている。
@住民が主体となった町づくり
A北部商店街の活性化による景観保存
B町並み保存のための財団形成
 川越の町並み保存運動が特徴的であるのは、目標の2番にあるように建物そのものの保存だけを目的としてのではなく、商店街を活性化することで町並みを保存しようとしたことである。つまり、建物や町並みを保存すれば商店街が再生できると考えるのではなく、各商店が生き生きしてこそ建物や町並みを保存することができると考えたのである。これは、古い建物や町並みを単なる観光資源としてのみ利用している地域とは一線を画しており、地域に根ざした自分たちの生活環境を主体的に改善していこうという姿勢の現れである。

町家空間の保存と活用
町並み委員会と町づくり規範
 一番街町並み委員会がそのまちづくりの原則集としている「町づくり規範」は、C.アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」を参考とし、単に外観のみを規制、誘導するための規範(ルール)でなく、町家の空間構成を理解した上でその秩序を守り継承しようとするものである。規範の中でその特徴をよく表す項目として、「4間・4間・4間のルール」がある。これは、南北街路に面する短冊型敷地の欠点である日照・通風の悪さを、街区内の一定の場所に中庭を確保することで解消するという、空間構成の作法である。
 このように「町づくり規範」は、町並み保存のために建物の形態を規制しているものではなく、新しくまちを創造するための共通言語なのである。

みせ空間の街区内への浸透、そして遊動空間形成へ向けて 
 現在、一番街周辺は歴史的資源の魅力と各商店の個性あるみせづくりが功を奏し、多くの来訪者で賑わっている。その中で、従来の商家が行っていた「住まいまがら商いする」という営業形態も少しずつ変わり、空き店舗等へ別のテナントが参入する事例も現れてきている。その場合の多くは、住宅や収蔵庫であった表通りに面さない居住空間まで「みせ」が浸透し、伝統的な町家空間を生かした商売が行われている。「町並み委員会」では、通りに面した建物のファサードや敷地内の建物の配置などといった空間構成については改善を求めるが、その用途については言及されない。もともと商業の活性化が大きな目的だからである。
 今後、敷地の奥かつての居住空間まで「みせ空間」として利用することが多くなれば、背後の背割り線を利用し、隣接するみせを行き来させるといった、より回遊的な動線つまり遊動空間を形成させていくことも可能である。一番街という強烈な個性を持った商店街にこのような遊動空間が付加されれば、まちの魅力がいっそう増すことになるだろう。

構成・執筆:市川均/研究:浜野純一、浅美善之、研究協力:荒牧澄多(川越市)、可児一男(川越一番街町並み委員会委員長)、原知之(川越蔵の会会長)

参考文献
 川越一番街町並み委員会『川越一番街町づくり規範』1988年、2000年
 川越市立博物館『町割りから都市計画へ――絵地図で見る川越の都市形成史――』1998年
 川越市立博物館『常設展示図録』1991年
 川越一番街町並み委員会:町並み委員会の10年、1997年
 川越蔵の会:平成13年度総会 冊子、2001年
 川越市教育委員会:川越市の伝統的建造物群保存地区保存計画、1999年、2001年
 川越市:都市景観重要建築物、2001年
 加藤忠正「川越の変容」『造型16号』建築資料研究社、1998年
 八甫谷邦明「川越 コミュニティ復活を目指して」『造型26号』建築資料研究社、2000年


城下町都市図絵53
北海道
01 松前
東北
02 弘前
03 盛岡
04 白石
05 角館
06 秋田
07 上山
08 山形
09 鶴岡
10 新庄
11 二本松
12 会津若松
13 福島
関東
14 宇都宮
15 川越
16 水戸
17 土浦
18 笠間

甲信越
19 小諸
20 松本
21 松代
22 村上
北陸
23 富山
24 福井
25 小浜
26 大野
27 丸岡

東海
28 郡上八幡
29 高山
30 大垣
31 静岡
近畿
32 津
33 松坂
34 長浜
35 龍野
36 篠山
37 出石
中国
38 津山
39 岡山
40 高梁
41 萩
42 倉吉
43 松江
44 津和野
45 鳥取
九州
46 柳川
47 佐賀
48 島原
49 臼杵
50 平戸

四国
51 徳島
52 大洲
53 高知

「町おこしの経済学」 竹内宏 学生社 2004年 ★★
 V 町おこしに成功した市町村
 第1章 蔵造りの「小江戸」・川越市
  1蔵造りの町並み
  2繁栄の歴史と蔵造りに店
  3外部から始まった蔵造りの町並み保存運動
  4建物保存か道路の拡幅か
  5川越蔵の会の活躍
  6景観保存の仕組み
  7伝統的景観の拡がり

「まちづくりの実践」 田村明 岩波新書615 1999年 ★
「まちづくり」という言葉が全国で注目を集めている。自然の豊かさや歴史、風土など地域の個性を生かした「まち」をつくるために何が必要なのか。過疎の村から都市の住宅街まで、全国各地のユニークな「まちづくり」の実践例を検証し、豊かで住みやすい「まち」をつくるための方法を提案する。(カバーの内容紹介)
 第6章 「まちづくり」の実践のヒトとシクミ
 5 自治体のシクミと市民協働
 市民政府と市民と協働できるシクミ
 「まちづくり」は、多くの主体がからみあう。前章で述べた構造はそれを単純化しているが、その主体間がうまく協力してゆけるかが課題だ。パートナーシップ型とか協働型といったシクミも必要になっている。市民政府としての自治体活動には、そういう協働をサポートしたり促進するという役割が望まれるだろう。いちばん明確なのは、市民活動の支援だ。さらに、市民と行政との協議機関を設けるというのもある。大きな事業では、ますます必要になってくる。
 川越小江戸と呼ばれ、蔵づくりの町並みが残るので有名だ。ここに関係団体が集まって「町並み委員会」をつくり、自分たちのまち≠規制する「町づくり規範」をつくった。ハードの問題だけでなく、子育て、コミュニティ、祭りなどの問題も入っている。
   (中略)
 「まちづくり」というものは、多くの主体の絡みで実現するものである。それをバラバラにさせないで、ひとつの目標に向かわせるシクミが求められている。

「観光を読む 地域振興への提言 溝尾良隆 古今書院 1996年 ★★
T観光地域の動向
 街並み観光地
  観光と街並み保存が両立、川越
 川越のかつての中心地一番街には、明治26年の大火以降、建設した蔵造りの建物が多く残る。一番街の人たちが率先して建物保存に取り組んできた一方、外来者である観光客が蔵造りを評価して、蔵造りの店舗に観光客が訪れて買い物をしている。この状況を察知して、最近、建物の改装や新築が、蔵造りの建物と調和するようになっている。地域でも、地域にふさわしい建物のデザインコードを自ら確立した。
 川越には近距離からの旅行者が多く、宿泊に結びつかず、観光の効果が少ないというが、近距離の旅行者は、川越だけを目的にして、川越の良さが理解できる人が訪れている。近くからの来訪者は、必ずしも観光地によくある土産品を購入する必要はなく、良い日常使用する品物があればそれを土産に購入する。こうした例がある。市内の割烹料理店に海産物を卸していた店に、観光客が立ち寄り、買い物するようになってから、この店は小売り店としての品揃えをするようになって売り上げを増している。菓子屋横丁は、かつてはすっかり寂れた駄菓子製造・卸しの店であったが、テレビで放映されてから観光客が訪れて駄菓子を購入しはじめてから完全に復活して、いまでは中心地区にある店舗の売り上げを上回る店も出ているほどになったのである。
U新たな観光と地域の対応
 テレビドラマと観光地
  工夫する大河ドラマ地域
    (前略)
 「春日局」は具体的な歴史的事実が判明しないこともあって、ゆかりがあると思われる各地が、その効果を得ようと名乗り上げた。もっとも積極的だったのは川越市であった。川越市では、当初から大河ドラマのもつ効果の限界を知ったうえで、いかに大河ドラマを利用するかを考えた。その結果、一つは、市民に観光の経済的な効果の大きさを知らせること、二つめには、これまでの懸案事項であったトイレ、駐車場などの旅行者の受け入れ施設を整備すること、三つめには、新たに春のまつりをつくること、四つめには、観光の推進体制を確立することであった。「春日局」の効果は予想した通りの効果をあげ、当初かかげた目標もすべて達成した。川越春まつりは定着し、その後も年々盛んになっている。
 川越市のように、大河ドラマのもつ効果と限界をわきまえたうえで、地域がすでにもつ観光の戦略目標を達成する手段として、大河ドラマを地域に取り込んで、これまでの地域の課題を解決することが望ましいといえよう。」

「観光まちづくり 現場からの報告 新治村・佐渡市・琴平町・川越市 溝尾良隆 原書房 2007年 ★★
第4章 景観づくりと観光振興に取り組む町並み保全   ―川越市―
はじめに
第1節 川越市一番街商店街地域における商業振興と町並み保全
 (1)研究目的と対象地域
 (2)中心商業地の立地変化
  江戸時代から大正時代/昭和時代前半(1945年まで)/昭和時代後半(1946年以降)
 (3)一番街の町並み整備の進展
  @1970年代:調査・研究期/A1980年代〜1998年:事業実施期/B町並み整備の組織
 (4)観光による商業振興
  観光の特性および現状/店舗業種の変化/観光関連売上げの現況(@店舗別観光売上げ比率、A通り別観光売上げ比率の空間分布)
 (5)町並み景観の変化
  行政による景観整備とその評価/個店の建物景観の変化

第2節 景観からの地域づくり――川越市蔵造りの町並み整備を語る
  1997年3月に、新潟県大島村(現在の上越市)で行なわれた景観シンポジウムにおいて、著者と川越市在住の中嶋健司氏(C.A.E設計代表)との対談の記録
  写真で見る町並みの変化/川越との関わり/外部の学者・建築家の役割/蔵の会、町づくり規範と町並み委員会/景観条例、デザイン形成事業/蔵造りの町並み形成とその特徴――なぜ残ったか、なぜ壊れたか/新しい動き――小江戸巡回バスと福祉バス、ボランティア・ガイド/銀座通り商店街への波及、ポテンシャルとネットワーク化/課題と評価――観光と商業、蔵造り/一方通行の問題/地域主導の町づくりの方向/

第3節 地域ブランドとしてのサツマイモのイメージ形成
 (1)川越いもの歴史
 (2)川越のサツマイモ生産状況
 (3)芋掘り観光の経緯
 (4)サツマイモ商品関連業者の取り組み
  いも菓子加工・販売業者(@芋せんべいと亀屋、A芋松葉と亀屋栄泉、B芋納豆と井口屋)/焼き芋のふたみと平本屋/芋うどん製造と舟運亭/サツマイモレストラン――いも膳/サツマイモビールと葛ヲ同商事/関連商工業者の原料の仕入れ
 (5)サツマイモ関連の情報発信
  川越いも友の会の活動/川越サツマイモ商品振興会の活動/サツマイモ資料館の活動

第4節 追録 1997年〜2005年までの景観・商業施設の変化
 (1)伝統的建造物群保存地区の指定と中核施設の整備
 (2)町並み景観と店舗・業種の変化
 (3)今後の観光に変化を与える開発整備

平松伴子のやさしい論文集 この町が好きだから」 平松伴子 さいたま〔マイブック〕サービス 2001年 ★★★
◆町づくりはハートで
 「緑と水のまちづくり」への一考察  ――伊佐沼芸術村への夢――
 川越を風力発電の町に
 並木道のある「一流のいなか町」に
 やさしい町は人の心から
◆楽しくなくちゃ選挙じゃない
 わがまち川越へ、そして埼玉県  ――真に住民の参政権を保障する「公営選挙」の提言――
 勇気ある立候補/暗中模索、「K子丸」の船出/たたかい終えて/1136票の重さ/白い杖の女の子/選挙が残したもの/他の市町村では/提言
 傍聴席から見た市政
 はじめに/(1)初めて座った傍聴席/(2)選挙条例を変えさせて、また選挙/資料/これからの議会は/おわりに
 傍聴席から議場へ  ――八年目の春――
 ためらい/福祉でがんばる/役割分担/地域の代弁者/議場へ/
◆食を考える
 食べること、生きること  ――私の学校給食論――
 生きる力/先割れスプーン/味覚も個性、食生活は文化/学校給食はタブー/うどんは箸で食べるもの/カレーの日なんてナンセンス/給食人間/ファミリーレストランは学校給食の味?/女性の自立と学校給食/作る人がみえる給食に/
 夕食作りはみんなで
◆女もつらいよ
 骨が危ない  ――骨粗鬆症の現場から――
 人生第二の関門
 はじめに/母の苦しみ/微妙な女のからだ/ややこしい病名/嫌われる「更年期障害」/日本人に合った治療法を/おわりに
◆菓子屋横丁の100年
 味の匠・菓子に命をかけた男たち
 菓子屋横丁を支えた女たち
 はじめに/「須田春」のぎん/「松陸」の千代・さき/「カステラ屋」のまつ/「森善」のヨシ/「池田屋本店」のよし・れい・とし/「玉力」の嘉津・喜代・西/おわりに
あとがき

「江戸東京学への招待[2]」 小木新造・陣内秀信 NHKブックス751 1995年 ★★
T 江戸東京の土地と空間     内田雄造
 小江戸・川越のまちとすまい
  はじめに
  川越のまち
  徴発物件書類・家屋取調書をめぐって
  明治初期における川越の住人とすまい
  町屋と土間の空間
  喜多町の復元
  川越以外の埼玉県下の集落の状況
  おわりに

「失われた景観 戦後日本が築いたもの 松原隆一郎 PHP新書227 2002年 ★
 視界を遮る電線、けばけばしい看板、全国均質なロードサイド・ショップ群……生活圏における景観がこれほど貧しく醜い国もない。その荒廃こそ経済発展を全てに優先させた戦後日本の姿ではないか。同時に、歴史・風土・と断絶した景観は、人間から過去の記憶を抹殺し、「豊かさ」を奪ってきたのではないか。四つの事例(郊外、神戸市、真鶴町、電線地中化問題)を通して、日常景観を汚しても省みない日本社会の実像を映し出す。景観保全が活力ある未来を生むと説く、異色の社会経済論。

  川越蔵の会   全国伝統的建造物群保存地区協議会(伝建協)


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作成:川越原人  更新:2016/10/11