仙波東照宮


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仙波東照宮
「家康公と全国の東照宮」 高藤晴俊 東京美術 1992年 ★★
四 社寺境内の東照宮
(1)寺院境内の東照宮
 仙波東照宮
 江戸時代に仙波御宮と称された当社は、元和三年、天海によって喜多院(川越市小仙波町)の境内に勧請された東照宮である。
 喜多院は天長七年(830)円仁によって開かれたと伝えられる天台宗の寺で、天文六年(1537)河越合戦の兵火によって焼失。天正十六年(1588)天海が入山し、同十八年家康公が江戸入城した後に再興された。慶長十七年(1612)鷹狩りの途中同寺に立ち寄った家康公は寺領三百石を寄進した。このと家康公は、関東の所化(僧侶)は天海の指導に従うよう命じた。これによって天海は、同寺において後年の勢力を生み出す地盤を固めたのである。また喜多院は東叡山を号することになり、後に寛永寺が成立するまでの間、関東天台の総本山の位置にあった。
 元和三年三月、東照宮の日光遷座の折、十五日に久能山を発った神柩は、二十三日同寺の大堂に入り、二十六日までここに留まっている。その四日間、天海は衆僧を集め、自ら導師となって丁重な法要が行われた。その後、同年九月に至り、家康公の神像をつくり、大堂の中に祀ったと伝えられる。
 当社が独立した社殿を有する東照宮として成立するのは、寛永十年(1633)である。天海は大堂の南東(現在地)に高さ五間の岡を築き、その上に社殿を建立したという。十一月十六日に遷座式が行われ、十二月二十四日には後水尾天皇より東照宮大権現の勅額が下賜されている。これ以後喜多院は東照宮の別当寺、大堂は本地堂と位置づけられていた。
 しかし寛永十五年一月の川越大火で、東照宮をはじめ喜多院の堂塔や門前まで、ことごとく延焼した。これを聞いた将軍家光は、東照宮の再建のために川越城主堀田正盛に造営奉行を命じている。同十七年工事は竣工して六月十五日に遷座祭が行われている。家光は堀田正盛と高家の吉良義冬を遣わし、太刀を奉納している。これ以後、社殿の修理などは幕府の手で行われるようになり、寛文元年(1661)には東照宮領二百石が寄進された。
 現在の本殿・唐門・瑞垣・随身門などはこのとき造営された。石鳥居(一基)は堀田正盛の奉納で寛永十五年の刻銘がある。拝殿・幣殿(一棟)は、明暦二年江戸場内から移築されたもので、もとは寛永十四年造営の江戸城二の丸東照宮の拝殿であったと推定されている。その他、境内には江戸城から移された石造の手水鉢や代々の川越城主が奉納した石灯籠二十六基がある。
 社宝としては、寛永十七年に家光が奉納した岩佐又兵衛画・青蓮院尊純法親王筆三十六歌仙額(重要文化財)・同十四年阿部重次奉納の狩野探幽筆の鷹絵額(十二面・県文化財)などがある。
 明治二年、喜多院から分離された後は、数軒の崇敬者によって維持管理されてきた。その間、社殿の傷みも進んだが、昭和二十一年には本殿のほか計六棟が重要文化財に指定され、同三十五・三十六年には解体修理も施され、造営当初の姿に復元された。
三 大名が祀る東照宮
(3)親藩の東照宮
 前橋東照宮
七 家康公巡行の地の東照宮
(3)鷹狩りと東照宮の勧請
 野田新田東照宮
全国東照宮総覧(都道府県別)
【埼玉】

日本三大東照宮の一 仙波東照宮」 ★★★
一、鎮 座 地 埼玉県川越市小仙波町1の21の1
一、御 祭 神 徳川家康公
一、東照宮祭典 1月17日、4月17日、8月17日

 由 緒  仙波東照宮は、喜多院27世住職天海僧正が徳川初代将軍家康公を祀ったものである。家康公は、元和2年4月17日75才で薨去されると、一旦、静岡県の久能山に葬られたが、公の遺言に従って、二代将軍秀忠は、元和3年亡父家康公の遺骸を更めて日光に移葬しました。その時久能山から日光に至る道中、同年3月15日に出発して、継々と道中の各宿に泊り泊りして、同23日仙波喜多院の大堂(薬師堂、のち東照宮本地堂とも云った)に到着した。此所で天海僧正は親しく導師となって、同26日まで、実に4日間、衆僧を集めて、丁重な法要を厳修した。この長い法要を済して、次宿行田忍に御送りして後、天海僧正は家康公在世の渥恩を謝せんが為、且つは遺柩止留の跡として、家康公の像(高さ8寸8分)を作って、大堂に祀ったのが、元和3年9月16日で、ここ東照宮の初めである。
 かくて天海僧正は、この東照宮を広く大方の皆様に崇拝して貰う為め、現在のこの地に高さ5間の丘陵を築きあげて、立派な社殿を造って、寛永10年11月16日遷祀した。同年12月24日後水尾天皇は宸翰御神号として「東照大権現」の勅額を下賜されました。ところが寛永15年1月28日、川越街に大火起り、仙波の神社、堂塔、門前屋敷まで延焼してしまった。之を聞いた三代将軍徳川家光は、直に東照宮再建の計を立て、同年3月川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として、寛永17年5月竣工したものが現在の社殿である。この時以来、社殿並に神器等は総て幕府の営む所となったが、もともと自祭であって、祭資を頂かなかったので、喜多院第29世住職周海僧正(天海の高弟)は祭典の完備を期して、寛文元年松平信綱(川越城主)を介して以聞、同年3月、四代将軍徳川家綱は、大仙波の地二百石を祭資に供せられた。爾来幕府の手で属々修理を加えられたが、弘化4年が最も大修理であった。かくて明治2年諸領一般上地の令に依て社領を奉還し、逓減制となり、同年又神仏分離令があって、爾来喜多院の管理を離れた。
 当社は当地小仙波の鎮守ではないから氏子がなく、参拝者も寥々たるものであった。そうした中で古い社殿は破損する、玉垣は朽廃する。捨て置けないので、昭和6年8月から同年8月(ママ)にかけて、奥州白河から石材を切り出させて、石正門、石玉垣の新築、石段階敷替等をなし、同13年6月から同8月には拝殿土台入替、柱の根つぎ工事を行い、寛永17年以来の社殿の建築様式を損せずに行いましたところ、やがて大東亜戦争となった。幸い川越市は戦災を免れたので喜多院・東照宮の建造物は徳川初期のものとして、国宝調査会の認むる所となって、昭和20年10月から文部技官大岡實工学博士、同乾兼松先生の調査するものとなり、昭和21年11月29日左記の通り、建造物全部が国宝に指定され、昭和25年8月29日付国指定重要文化財となったが未だ修理に取りかからないでいたところ昭和34年9月26日台風15号襲来、玉垣外の大木が倒れて、神殿の屋根から唐門を破損、瑞垣を押し潰して志まつのが(ママ)契機となって、総ての建造物の総修理の運びとなって、昭和36年3月から同38年3月にかけて復元修理されて、文部省はじめ、県や市から補助金を頂いて、今や立派に復元修理され、寛永17年再建当時の社殿其侭を忍ぶことが出来るようになった。
 最近文化財に対する世間一般の関心がだんだん高まって、文化財を鑑賞旁々神社を参拝するものが、頗る多くなったことは喜ばしい事である。

「仙波東照宮」 監修/柳田敏司 文/小野塚克之 写真/有坂よしかず さきたま文庫36 1992年 ★★★
・はじめに
東照宮の成立とその信仰
 東照宮の成立/各地に勧請された東照宮
・仙波東照宮の勧請と創建
・寛永大火と東照宮再建
 川越大火と東照宮/江戸城二の丸東照宮の移転説
・仙波東照宮の神社経営
・文化財と社宝
 本殿・唐門・瑞垣(3棟)国指定/弊殿・拝殿(1棟)国指定/石鳥居(1棟)国指定/随身門(1棟)国指定
 三十六歌仙額(36面)国指定
 わが国の伝統的な画題の一つ、三十六歌仙を檜の板(縁とも縦48センチ、横30.3センチ)に胡粉を塗り、金箔・極彩色に仕上げている。 上半部に御家流の祖・青蓮院宮尊純親王筆と伝える和歌が墨書されている。
 特に柿本人麿図、中務図の裏面にある「寛永拾七庚辰年六月十七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」の朱漆銘の存在によって、寛永再建完了時に 奉納されたことが知られる。また、なぞの絵師岩佐又兵衛の晩年の代表作として学界に話題を呼んだ。
   鷹絵額(12面)県指定
 金箔地に極彩色で、精かんな鷹の生態を描いた12枚の絵額(木製・各縦64センチ、横52センチ)。 その姿態を異にした生々しい写実性は高く評価され、狩野探幽筆とも伝える。1枚ごとに墨書された「寛永十四年九月十七日」の記名が、 二の丸東照宮遷宮の日と重なっているところから、岩槻藩主阿部重次が家康の冥福を祈って二の丸東照宮へ奉納し、のち空宮となったことから承応3年の拝殿移築の際に、 川越へ運ばれたとする説が有力視される。

証言と記録 川越文化ものがたり」 川越文化会編 さきたま出版会 1993年 ★★★
9 仙波東照宮
 東照宮創建の由来/廃仏毀釈と東照宮の管理/伊勢湾台風と社殿の修理計画/重要文化財の指定について/東照宮大権現の勅額と宝物の修理/サイレンが鳴ると身震いした/東照宮への昇殿と絵額の序列/隼の絵額と県博物館への引き渡し拒否/修理を担当した櫻井洋氏と川越市立博物館/三十六歌仙たった七日の里帰り/顎を突き上げて返礼した東照宮の守り神/虎の旦那と早稲田大学総長高田早苗/柳沢吉保奉納の灯籠と石積みのこと/天海と家光の出会い/東照宮の創建と寛永の大火/天海が勝った東照権現説と朱子学者林羅山/泥棒橋の由来と濠の鯉/東照宮の賽銭と奉加帳のこと/結婚式場に狙われた東照宮/アベックがしでかした東照宮のぼや/権現さまと登校拒否児/大嘗祭と東照宮の警備

「さきたま紀行」 埼玉新聞社出版部 1973年 ★★
・仙波東照宮

「埼玉史談 第5巻第1号」 埼玉郷土文化会 1958年5月号 ★★
 江戸城東照宮の川越移建について  山田勝利
はしがき
江戸城二丸東照宮の造立
仙波東照宮本殿移建説
三芳野天神外宮の建立
天神外宮紅葉山古宮移建説
二丸東照宮移建とその史料
仙波東照宮石手水鉢と十二鷹絵額の移転
むすび
附記

「雑学・日本なんでも三大ランキング」 加瀬清志・畑田国男 講談社+α文庫 1997年 ★
 第三章 日本人は江戸時代から「三」が大好き
  家康、最期の「三」
 元和2年(1616)、徳川家康は駿府城で75歳の生涯を閉じたが、死に先立って病床に呼びよせられた者が3人あった。
 本田正純、天海、崇伝の3人である。
 家康はこの3人に、三つの遺言を伝えた。
 「遺体は久能山、葬礼は増上寺、位牌は三河の大樹寺へ
 この遺言は忠実に実行された。一周忌が過ぎた後、日光に東照宮が建立され、家康は「大権現」として祀られることになる。
 ここに徳川家三大聖地として、寛永寺、増上寺、日光東照宮が誕生する。
 三つの聖地はそれぞれ、祈願寺の寛永寺、菩提寺の増上寺、家康を祀った東照宮、と三者三様の機能を分けもちつつ、日光東照宮には、家康と家光の二体、寛永寺には六体、増上寺にも六体、と歴代将軍の遺体が三聖地に分けて埋葬されている。
 日光に祭られた家康=東照大権現とは、どんな神なのだろうか。
 天海の唱える山王一実神道は、三諦=仮、空、中を説いている。
 これは、仮=人間=徳川家康、空=仏=薬師如来、中=神=東照大権現のことを表す。
 人間・家康は一度死んで、まず久能山で仏=薬師如来となり、1年後、日光で東照大権現という神になり、徳川300年の歴史を守護神として、じっと見守っていくのである。
 その三大東照宮は、日光東照宮(栃木県日光市)、久能山東照宮(静岡市)、川越東照宮(埼玉県川越市)の3カ所である。

「日光東照宮の謎」 高藤晴俊 講談社現代新書1292 1996年 ★
 絢爛豪華な日光東照宮は徳川家康を「神」と祀る。なぜ日光の地なのか。東照大権現とはいかなる神か。創建にまつわる謎と、彫刻群が伝える壮大なコスモロジーを解読。
 川越の東照宮に関する記述ではありませんが、日光遷座の行列が、川越を経て日光山へ向かったことが記されています。
第1章東照宮創建の謎/4.聖地・日光のコスモロジー/日光遷座と渡御祭
 元和三年(1617)三月十五日、日光山において造営が急がれていた東照宮の社殿が予定どおり竣工すると、久能山から神柩が遷座されることになった。
 神柩は金輿に移され、これに供奉(お供)する行列は、きらびやかに装った騎馬武者三百騎、雑兵千人にも及んだという。三月十五日に久能山を出発した行列は、 東海道の平塚から座間・府中・川越・行田・佐野・鹿沼を経て四月四日に日光山の座禅院に到着した。神柩は、お釈迦様の誕生日に当たる同月八日、奥院の岩窟内に安置され、 次いで十四日には「神位」(神霊)が御仮殿に移され、さらに十六日の夜には神霊を本殿に移す正遷宮の儀式が行われ、翌十七日には将軍秀忠も参列して「小祥」(一回忌)の御祭が行われ、 ここに正式に日光東照宮が鎮座したのである。
 このとき、元和三年(1617)三月二三日から二六日までの四日間、遺骸を喜多院にとどめ、喜多院住職である天海大僧正が導師となって大法要を営まれました。 その因縁により境内に東照宮が祀られ、寛永十年(1633)に東照宮が創建されました。
 しかし寛永十五年(1638)川越大火のため、喜多院とともに延焼してしまったので、家光が川越城主堀田正盛を造営奉行として直ちに再建に着手、 寛永十七年(1640)五月に完成したのが現在の仙波東照宮です。

 川越の東照宮に関する記述は1カ所あります。
第2章東照宮の彫刻に秘められた謎/4.動物彫刻の意味/鷹は家康のシンボル
 鷹は、さらに特徴的である。使用箇所は本殿内の御空殿の正面、内陣の組物間、および法親王着座間、本地堂の御空殿正面、御旅所本殿正面など、最重要箇所にのみある。このような扱いを受ける主題は少ない。 これは、鷹が家康のシンボルと見なされていたことによるであろう。
 (中略)
 日光以外でも、群馬県の世良田や金沢の東照宮(尾崎神社)にも鷹の彫刻があり、また日光や川越の東照宮には鷹の絵の額が奉納されている。これらも、家康が鷹を好んだゆえのことであろう。

東照宮の写真

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作成:川越原人  更新:2020/11/20