川越の地誌4


<目 次>
苗字・名字埼玉の苗字思わず人に話したくなる 埼玉学あなたの知らない 関東地方の名字の秘密
風 水風水でつかむ お金・健康・仕事・恋愛
地 学地下水の世界日曜の地学日本地図探検術
武蔵野武蔵野ものがたり武蔵野日本地図探検術

 トップページ  サイトマップ  → 地誌(1)  地誌(2)  地誌(3)  川越索麪  川越学  川越大事典  川越叢書・歴史新書
苗字・名字
「埼玉の苗字 名前風土記 大澤俊吉 さきたま出版会 1983年 ★
 

思わず人に話したくなる 埼玉学」 県民学研究会編 歴史新書 2013年 ★★
第1章 自慢したい埼玉県の風土
 4 埼玉に多い苗字と埼玉発祥の苗字とは?

あなたの知らない 関東地方の名字の秘密」 森岡浩 歴史新書 2013年 ★★
第1章 一都六県 名字のランキングと特色
 B埼玉編
  武蔵七党の本拠地・埼玉県
第2章 関東地方の名字秘話
 C「あらい」さんが利根川流域に多い理由
 E名字の歴史に欠かせない武蔵七党
 J北条氏と後北条氏の関係とは
第3章 一都六県別 ゆかりの名字
 B埼玉ゆかりの名字
  ・井上 いのうえ
  ・河越 かわごえ
  ・小島 こじま
  ・仙波 せんば
  ・松井 まつい
  ・矢沢 やざわ

風 水
「風水でつかむ お金・健康・仕事・恋愛」 陳希夷 王様文庫 2000年 ★★
 風水は、四千年も前に中国で生まれた、確実に幸運をつかむための知恵であり、学問です。本書は、風水の一般的な解釈である「インテリアなどによって運を上げる方法」にとどまらず、方位≠ニ大地のもつエネルギー≠読み取る「ほんとうの風水」について書いています。あなたもこの本にあるほんものの風水哲学を実践すれば、必ず運がよくなり、幸福が舞いこみます。(カバーのコピー)

一章 風水の基礎を知って、強運をつかむ!/大地と水のパワーの秘密を知る

  東京の運気を左右する重要スポットとは?

 では、東京の「龍穴」はどこにあるのでしょうか。
 「龍穴」には、四つの種類があります。政治の表舞台となるエネルギーをもつ「陽穴」、文化的な発展を促すエネルギーをもつ「隠穴」、土地全体に精神的に強いパワーを与える「明堂」、地域のリーダーとなる人が住むのに適したエネルギーを与える「点穴」です。
 東京の陽穴は、もちろん江戸城(現在の皇居北の丸)にあります。
 そして、精神的なパワーを与える明堂はどこかというと、私は、埼玉県川越市にある喜多院ではないかと考えています。
 川越は、徳川家康の軍師であった天海僧上という人が住んでいた場所です。彼は、家康の政治的な方針にアドバイスを与え続け、家康を日本一の座に押し上げたといわれている人物です。
 この喜多院の南東に、東宮御所(江戸城)があります。南西には、富士山の脇の小富士、 真北には、日光男体山。南には、三宅島。西には、埼玉県日高市の高麗神社。これは、大磯の高来神社を移転させてつくった神社で、歴代の首相が必ずお忍びで参拝するといわれているほど、御利益のある神社です。
 こうしてポイントを押さえて地図を見ると、江戸は、喜多院を中心に考えられた街のように思えてきます。川越は、当時「小江戸」と呼ばれていました。これも、川越が江戸に次いで重要な場所だったからではないでしょうか。
 風水的に見ると、江戸の街を動かす決定権をもっていたのは、江戸城ではなく、天海僧上がいた喜多院なのです。知恵者の天海僧上は、表向きの実権は家康に握らせたものの、実は自分で天下を動かしていたのかも知れません。
 また、喜多院のある川越から南に向かう国道16号線は、京都の朱雀大路にあたります。八王子を通って、相模原に抜けるこの国道沿いには、強い運気が走っており、郊外の大型店舗などは、この道路沿いに出店すると必ず成功するといわれています。
 ただし、東京の中心部は、国道16号線よりはるかに東側です。つまり、京都でいえば左京側に、企業や官庁など都市の中心機能が集中しているのです。
 いま、都市機能が一部に集中しすぎたため、首都を他の土地へ移そうという遷都論が起こっています。しかし、風水的な見方からいえば、この国道16号線に着目してほしいのです。現在はその東側ばかりが発展しているのですから、今度は西側を開発すればいい。国道16号線の西側に企業を誘致し、官庁を移動させれば、大規模な遷都をしなくても問題は解決するはずです。四神に守られたすばらしい関東平野を捨てる必要などありません。風水の理論は、こんなふうに活かして使うべきものです。

地 学
「地下水の世界」 榧根勇 NHKブックス651 1992年 ★
第五章 武蔵野台地の地下水を探る/湧水がそこにあるわけ
 現在私たちが見る武蔵野台地は、扇状地としてはいびつな形をしている。この成因を、これまでは埼玉県側の相対的な沈降に求めていたが、 立川断層の存在が明らかになったいまでは、むしろ東京側の相対的な隆起を考えたほうがよさそうである。青梅から井の頭池までの距離は約30キロメートル、青梅から川越までが約25キロメートルである。 川越付近は荒川の側刻作用で少し削られているので、かつては青梅を扇頂とし吉祥寺から川越付近までを扇端とする「いびつでない扇状地」が存在したと考えてよいであろう。50メートルの等高線上に位置する湧水は、 そのころの扇端湧水帯に湧き出す泉だったと思われる。
「日曜の地学 埼玉の地質をめぐって 堀口萬吉編著 築地書館 1968年 ★★
3.川越付近
 みどころ
江戸時代、松平氏の城下町として栄え、いまなお、ゆいしょ深い寺院や古い家なみを残している川越は、浦和や大宮と同じように、関東ローム層でできた台地の上にのっています。きょうは、この関東ローム層と、その下にあるれき層を見学して、川越台地の生いたちをさぐってみましょう。

 コース
川越駅―1.2km→大仙波―0.8km→岸―1km→川越駅

 大仙波(おおせんば)のがけ
 仙波小学校のうらの道を東に曲がり、お宮の坂をくだって左に折れると、人家のうらに大きながけがあります。このがけの上から約4mは、褐色のローム層で、このローム層の下限近くに、東京浮石層がレンズ状にはいっています。東京浮石層がはいることから、これをはさんでいるローム層は、武蔵野ローム層であることがわかります。くわしくは、浦和付近の項を参照してください。褐色ローム層の下には、灰褐色のたてわれの目立つ粘土層、その下は約50cmの厚さで灰色粘土層となり、粘土層の下は、がけの下までつづくれき層となっています。れき層の上限から約1mのところに、砂がはさまっています。このれき層は、武蔵野ローム層に整合的に重なっていくものです。
 つぎに、がけぞいに南西の方向に行きましょう。昔は、れき層が帯水層となり、がけの下から、泉がわき出していましたが、いまではわき出していないようです。

 岸の露頭
 岸の北の、神社と食堂の裏手に露頭があります。大仙波のがけは、台地の末端のために、上部のローム層がはっきりしませんでしたが、ここでは、上部のローム層がよく観察できます。地表から約1.5mのところに、黒色帯があります。黒色帯の上は浮石質のややかたいローム層で、鉱物組成を調べてみると、黒色帯より下のローム層は、かんらん石が多いのに対して、上のローム層には、かんらん石が少なく、おもに、しそ輝石、普通輝石が多く、特徴的な火山ガラスがみられます。このローム層は北方に追跡でき、浅間火山の噴出物と考えられ、とくに大里ローム層とよんでいます。大里ローム層は南方に行くにつれて、かんらん石を含む立川ローム層の上部層とまじり合うようになります。
 地表より約4m下のところに東京浮石層があり、その下はれきまじりのクラック帯、れき層と、大仙波のがけとおなじように重なっています。
 終りに、きょう見てきたことから、台地の形成の歴史を想像してみますと、川越台地は、武蔵野ローム層の降るころに作られたものと考えられます。すなわち、いまから約5〜7万年前、下末吉海進後の海退とともに、入間川はしだいに延長して、運んできたれきや砂を堆積して、大きな扇状地をつくっていました。そのころ、箱根火山の噴火のさい、噴出した火山灰が西風で運ばれ、この付近に厚く堆積しました。これが武蔵野ローム層です。その後も海面の低下はひき続き行われ、入間川はそれまでつくられていた扇状地を浸食して、段丘をつくるようになりました。この段丘が川越の台地です。また台地の南側は不老川(としとらずがわ)の浸食によって一段低い段丘がつくられました。そのころ、立川ローム層が堆積し、台地では、さらに関東ローム層が厚くなったわけです。

「日本地図探検術」 正井泰夫・中村和郎・山口裕一 PHP研究室 1999年 ★★
第3章 地形の探検
 ◎不老川の放射状集落
武蔵野台地の北の部分に、家が一軒ずつ縦に並んで、列をなして放射状に広がる集落がある。いったいどのような理由があって、そのような集落ができたのだろうか。
・“まいまいずの井戸”は“ほりかねの井”か?

・新しく開拓された村を示す放射状に広がる集落

・中新田の開拓は、慶安3年、川越藩の藩士たちによった

・水が得られる確証を得てから開拓は始まった

武蔵野
「武蔵野ものがたり] 三浦朱門 集英社新書0035F 2000年 ★
 国木田独歩が『武蔵野』を書いてから百年以上がたった。
 東中野で生まれ、武蔵境、高円寺、立川で青春時代を過ごし、三多摩を故郷と思う著者が、懐かしい友人「武蔵野インディアン」たちとの交流を通して、移りゆく武蔵野の姿を描き出す。
 中央線沿線のものがたりなので、川越に関する直接の記述はありませんが、第一部 私にとっての武蔵野/二.上水と鉄道/荒川と多摩川 の冒頭に、一箇所だけ川越がでてきます。
 東京都下の武蔵野とは、言ってみれば、東京都の区部を巨大な頭にした、亀のような地形をしている。甲羅の部分が三多摩で、その尻の部分は立川あたりであろう。それより西になると、丘陵から山になり、武蔵野の背景を作る部分になる。
 武蔵野は富士山系の火山灰が堆積した台地である。武蔵の国と言えば、今の埼玉県も含まれていた。中学時代の多摩の豪族の子弟に言わせると、
「埼玉はな、あれは、昔は先多摩といって、多摩の外れという意味よ。同じ武蔵の国として、府中の大国魂神社の氏子だが、まあ、遠いから場末ということかな」
 ということになる。もっとも、埼玉の豪族にいわせれば、そんなことはないであろう。稲荷山古墳から出土した鉄剣を見ても、三多摩のほうが場末ではないか、と言うかもしれない。 しかし何れにせよ、武蔵の国を南北に二分し、後に埼玉県と東京都にわけた、自然の境界としての荒川の存在は大きい。荒川は川越から江戸まで舟で物資を運んだ水の街道であり、これを越えることは色々と不便で、武蔵の国を南北に二分したのである。 亀の甲羅の左の輪郭はこの荒川が作る。
   巻頭の地図「明治時代の武蔵野」を見ると、上記の亀の甲羅の例えがよく分かるようになっています。
 また、この地図には、川越街道と、川越鉄道が載っていますが、終点の川越は図の外になっています。
 川越鉄道は、(川越)、入間川、入曽、所澤、東村山、小川、国分寺を結んでいます。当時は甲武鉄道(現:JR)が営業を管理していましたが、現在の西武新宿線と西武国分寺線です。

「武蔵野」 国木田独歩 新潮文庫 1949年 ★
 浪漫主義と抒情に出発した初期の名作17編を収録した独歩の第一短編集。詩情に満ちた自然観察で武蔵野の林間の美をあまねく知らしめた不朽の名作『武蔵野』、自然を背景にした平凡な生活のうちに広大な一種の無限性を感じさせる『忘れえぬ人々』。ほかに『源叔父』『河霧』『鹿狩』など、簡勁で彫りのふかい文体と、内容にふさわしい構成の秀抜さを示す作品を収める。(カバーのコピー)
       

 自分と一所に小金井の堤を散歩した盟友は、今は判官になって地方に行ているが、自分の前号の文を読んで次の如くに書て送て来た。自分は便利のためにこれを此処に引用する必要を感ずる――武蔵野は俗にいう関八州の平野でもない。また道灌が傘の代りに山吹の花を貰ったという歴史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している。その限界はあたかも国境又は村境が山や河や、或は古跡や、色々のもので、定めらるるように自ら定められたもので、その定めは次の色々の考から来る。
  (中略)
 そこで僕は武蔵野は先ず雑司谷から起って線を引いて見ると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一篇に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などという駅がどんなに趣味が多いか……殊に夏の緑の深い頃は。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子は決して武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。
 東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到て止まる。この範囲は異論が有れば取除いても宜い。しかし一種の趣味が有って武蔵野に相違ない事は前に申した通りである――

「日本地図探検術」 正井泰夫・中村和郎・山口裕一 PHP研究室 1999年 ★★
第1章 地名の探検
 ◎武蔵武士発祥地と地名
 ◎武蔵野が荒地だった頃
武蔵野が一面ススキの原の荒地だったことは、古典の歌や紀行文などでしばしばとりあげられている。では、それがいつごろから現在の武蔵野のイメージの雑木林に変わったのだろうか?
・上部に火山灰によるローム層を頂いた武蔵野の地
・人間が住めない武蔵野台地の不毛地帯
 ◎武蔵野夫人とハケ地名
大岡昇平が書いた小説『武蔵野夫人』の冒頭にハケという言葉が登場する。現在では一般に段丘の崖線そのものをハケと称するようになっているが、大岡昇平は、崖線に直角に刻まれた細かな谷筋だと推測している。本当にそうなのだろうか?
・「ハケ」が指すものを史料から探ってみれば
・「ハケ」は『武蔵野夫人』で意味するものだけではない
・『武蔵野夫人』での「ハケ」の使われ方はやはり変
第2章 地図の探検
 ◎国木田独歩が見た地図
国木田独歩は、幕末の古地図によって、名作『武蔵野』を書くきっかけをつかんだ。文政年間に作られた地図は、いったいどんな地図だったのか。そして、独歩が断じた古戦場跡“小手指ケ原”は、ほんとうに“武蔵野”だったのか。
・雑木林に覆われた独歩の「武蔵野」
・古戦場・小手指ケ原と武蔵野は別の場所である
・独歩が見た古地図の「武蔵野」とは何なのか
第3章 地形の探検
 ◎不老川の放射状集落

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 国木田独歩(くにきだ どっぽ)
1871〜1908(明治4〜41)明治時代の詩人・小説家。
(系)国木田収二の兄。(生)千葉県。(名)本名哲夫。(学)東京専門学校(早大)中退。
大志を抱きながら恵まれず、キリスト教に入信、地方で教師となり、のち日清戦争の従軍記者となる。その後佐々城信子との恋愛結婚から離婚へと波乱に満ちた生活を送った後、1897(明治30)「独歩吟」を発表、まず詩人として認められた。同年の処女作「源おぢ」に次いで「武蔵野」「忘れえぬ人々」「河霧」「鹿がり」を発表、それらをまとめて1901第1創作短編集「武蔵野」を出版、浪漫的詩人から小説家へとその才能を示したが、反響は少なく生活は苦しかった。作風は次第に写実的なものに変わり、'02「富岡先生」「少年の悲哀」「「酒中日記」「空知川の岸辺」「運命論者」、'03「正直者」「第三者」「女難」、'04「春の鳥」「夫婦」を発表。'05第2創作集「独歩集」も出された。その間、矢野龍渓に招かれ、'02近代画報社に入り編集に従事、'06から同社のあとをうけ<独歩社>を経営した。同年出版した第3創作集「運命」によってようやく作家として広く認められた。'07<独歩社>破産後の作品としては「窮死」「竹の木戸」「二老人」などがある。自然主義文学の先駆者といわれ、その作品には明るい肯定的系列と、暗い哀感・運命感をもつ作品群がある。現世的なものと超越的なものとの共存が常に見られる点でも独自な作家である。
(著)「国木田独歩全集」全10巻、1964〜65。(参)福田清人「国木田独歩の生涯」1952。

 ▲目次  サイトマップ  トップページ  → 地誌(1)  地誌(2)  地誌(3)  川越索麪  川越学  川越大事典  川越叢書・歴史新書


作成:川越原人  更新:2015/9/1