平林寺に残る武蔵野の面影
江戸から川越までの道は平坦な武蔵野台地を北に走る。かつては雑木林がいつまでもつづく道だった。
現在朝霞(あさか)市の膝折(ひざおり)はこのような雑木林がつづく街道におかれた、小さな宿場町であった。ところが江戸時代末期のころから、町を流れる黒目川に水車がつくられはじめると、にわかににぎわいをみせるようになった。水車の動力を利用した伸銅工場が、いくつもできたからである。
武蔵野台地は、飲み水や灌漑(かんがい)用の水が不足していた。川越城主松平信綱(まつだいらのぶつな)は明暦(めいれき)元年(1655)に、野火止(のびどめ)用水を開削(かいさく)し、街道沿いの米の増収をはかるため新田開発に力をそそいだ。武蔵野の雑木林は、このようにして少しずつその姿を変えていった。今、かつての雑木林は、大和田の近くの平林寺の広大な境内に面影を残すだけとなってしまった。雑木林を切り開いてできた田畑からは、米はもとより、川越いもや野菜類が江戸に向けて送られた。川越街道は江戸の台所を賄う道としての性格が強かった。
「小江戸」の家並み
しかし、川越は江戸の北西の守り地としても幕府から重く見られていた。松平信綱をはじめ老中級を川越城主として送ったことでもこのことがうかがわれる。江戸の中ごろには、新河岸(しんがし)川の舟運の便もひらけ、江戸と川越はいっそう密接なつながりをもつようになった。今も残る白壁(ママ)の土蔵造りの家並みや、明治時代に再建されたものとはいえ、江戸の初めから時を告げてきた鐘楼は、「小江戸」の面影を伝えてくれる。
この街道筋には、まだ武蔵野の面影が残っている。何しろ野火止≠フ水路や土堤がいまも残っているのだから異常なる巨大都市東京の近郷としては珍しい。
野火止について、『…むかしは火田といいて、原野に火をはなち、草を焼きて肥とし、種を下すを焼畑ともいいしなり』と、江戸名所図会では説明し、『その火のさかんなるにいたりては、 人家におよぼさん事のおそれあれば、堤または塚などを築きて、その野火をさえぎり止むる料とする故に、野火止の名あるならん』
とその由来を語っている。伊勢物語にある野火止の話は他人の娘を盗んで武蔵野に逃げこんだ男が、盗人として捕えられたとき、女を草むらにかくしておいた。人たちが盗人を追い立てるため草原を焼こうとしたら、女が「武蔵野はけふはな焼きそ若草の妻もこもれり吾もこもれり」とうたったので助けられた……という事になっている。つまりそれが「野火止」の由来だというわけだが、この説話は余り面白くないし、野火止の由来としても無理なようだ。やはり火田≠フ火を止めようとしたという方が誰にでもうなずける話であろう。
畑という字は、この火田から来たものである。
川越城主だった松平伊豆守信綱も武蔵野の開拓に努力し、明暦元年(1655)に玉川上水から水を引いて野火止水路をつくった。この水路を「野火止用水」または「伊豆殿堀」とよんだという。
知恵伊豆≠ニよばれた信綱が川越城主として入封して来たのは寛永16年(1639)で、川越繁栄の基礎は、やはり知恵伊豆のかれがつくったようである。
川越は「小江戸」と称された…というから、およそ、その繁盛ぶりがうかがえるが、信綱は新しい城下町づくりと共に新田開発や新河岸川の舟運をひらいて江戸との通行の便をはかるなど、大いに善政≠しいた。
江戸幕府にとって川越は信越方面に対するおさえの地で、きわめて重要と考えられ、歴代城主には譜代の重臣があてられている。酒井重忠、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保、松平斉典、松平康英などといった顔ぶれである。
川越に残る『時の鐘』(川越城趾から市役所に向う途中にある時鳴鐘。五丈三尺五寸=約16bのやぐらにある鐘で何度か火災にあい、現在のは明治27年に作り直したもの)や、『喜多院』(川越大師で知られている。 三代将軍家光の命で江戸城紅葉山にあった将軍の別殿をそっくりここに移築した)など、街道にかかわるものとして愉しく見られるが、『通りゃんせ』の天神さま(三芳野神社)もそのうちの一つ。
徳川家康は慶長5年(1600)に関ケ原の戦で大勝し、ほぼ天下が統一できたことを見定めると翌6年には江戸を中心とする伝馬の制度を定めて東海道に宿駅を出したのを手初めに、やがて五街道の制をととのえたのであった。この制度は次第に地方にも及び川越街道でも、川越から大井、大和田、膝折、白子の四宿が設けられ、板橋で中山道に連絡するようになったのである。
この街道は本街道からは外れていたが、川越の地が幕府の戦略上極めて重要な位置にあり、城主も常に親藩か譜代大名が据えられたことから、ますます街道の重要性が認められたのである。このような状況から街道は早くから人馬の継ぎ立ても行われ、街道沿いの宿場や村落は賑わいを見せるようになり、大仙波新田も街道筋がちょっとした宿場のようになった。とくに村は川越の表入口として、六塚稲荷社の前には木戸があり、領主などは、この前を通過するときは拝礼するとともに、江戸へ向うときは、ここで略装に替え、反対に川越へ入るときは略装を正装に替え、槍などの武具をととのえ威儀を正して木戸を通過した場所であった。
また、元禄7年(1694)、柳沢保明が川越城主に封せられた後は、同城主の領地が浦和や蕨方面にもあったことから、同地の名主など領民の川越城伺候の便を図るため、大仙波新田に旅宿を設けさせたと言われ、このため当時相当の賑わいを見せていたの伝えられている。しかし、この旅宿も柳沢保明が宝永元年(1704)に甲府へ転封になってからは廃止されたと言われ、その後は街道筋の準宿場として、また、そのころから始まっていた新河岸川の舟運による荷駄などの通貨地として賑わいをみせるようになった。
こうした状況について、「川越素麺」……「寛延2年(1749)頃編」には次のように記載されている。
「仙波新田 江戸入口 長百八十間
百姓商人入込の所、七八十年以前迄は居屋敷面々、家作堅に一屋敷宛放れて、外は生垣竹薮なりしが次第に当所繁花に随い町並軒をならべ、年々いとなみの便も出来て繁昌す、元禄年中より松平美濃守殿御領地に成り泊り宿被仰付、夫より暫の間旅人の泊、一つには江戸入口、一つには其頃美濃守殿御領分足立郡蕨浦和辺に有之、仍而彼蕨浦和の名主百姓等公用として川越へ来る時は、道法七八里の所故是非一宿也、彼等為に泊り宿の此所に御免許なりしが、当御代に至り又昔の泊り屋相止」
注 松平美濃守とは元禄14年に柳沢出羽守保明が改名したものである。
次に大仙波新田について、享和元年(1801)著作の「武蔵三芳野名勝図会」には、次のような記載があり、これ又当時を物語っている。
「大仙波新田
元禄年中柳沢侯之時蕨宿浦和宿辺迄御一領之時分此仙波新田に泊り屋被仰付たり、宝永年中甲府へ御移封之後泊り屋相止たり」
一 はじめに
二 川越街道の概要
三 旧江戸街道
四 川越街道の成立
五 街道の呼称
六 川越街道の里程と一里塚
七 主要往来者
八 川越藩主の通行
九 おわりに
・国道254号……「コスモス街道」
254号は、東京の文京区から長野県松本市まで行く全長200キロメートル以上の長距離国道。東京から川越までの区間は、川越街道としてお馴染み。
「コスモス街道」と呼ばれるのは、長野県佐久市の区間。ここでは9月から10月にかけて、道路の両側に約9キロメートルにわたって色とりどりのコスモスが咲き乱れる。毎年、この時期には街道筋のコスモス広場を中心に「コスモス祭り」も行われている。
・埼玉県川越市・川越街道/国道254号
国道16号との交差点が話題の場所で、花嫁衣裳をまとった若い娘の幽霊が、フラフラ歩いているという。その霊を一目見ようと、県外からやってくる人も多い。ちなみに地元の人はこの幽霊を「川越街道の花嫁」と呼んでいるとか。
@ | 国道409号・東京湾アクアブリッジ | 4.424km | 千葉県木更津市 |
A | 国道28号・明石海峡大橋 | 3.911km | 兵庫県神戸市〜津名郡淡路町 |
B | 国道298号・幸魂大橋 | 1.803km | 埼玉県和光市 |
C | 北海道縦貫自動車道・長流川橋 | 1.773km | 北海道伊達市 |
D | 県道豊橋渥美線・三河港大橋 | 1.750km | 愛知県豊橋市〜渥美郡田原町 | E | 国道199号・若戸大橋 | 1.734km | 福岡県北九州市 |
F | 国道30号・南備讃瀬戸大橋 | 1.723km | 香川県坂出市 |
G | 国道28号・大鳴門橋 | 1.629km | 兵庫県三原郡南淡路町〜徳島県鳴門市 |
H | 国道30号・北備讃瀬戸大橋 | 1.611km | 香川県坂出市 |
I | 国道16号・新上江橋 | 1.604km | 埼玉県川越市〜大宮市 |
・掲示板(現在無し)に、上江橋についての質問がよせられました。
上江橋に関する質問 No: 362 [返信][削除]
投稿者:まわりみち 05/03/05 Sat 18:53:39 はじめまして、 小生、国道16号線関連のサイトの制作を計画しておりまして、 その一環として上江橋について調べております。 近年解体された旧上江橋は昭和32年に架けられたのですが、 古い地形図等によるとそれ以前に木橋か何かの橋があったようです。 この橋について何か御存知の方、御教授願えればと思います。 具体的には次のような情報が欲しいです。 1)どんな橋だったのか(木橋 or コンクリート橋?) 2)自動車は通れたのか、大型車は通れたのか? 3)上江橋ができてからは、廃止されたのか?歩行用に残されたのか? 上江橋開通時の新聞記事によると 「治水橋経由だったのが、上江橋経由で川越−大宮間が約4km短縮」 となっており、この記事からは「上江橋ができる前は橋がなかった」と解されます。 しかし、地形図等には記載がありますし、現地には残骸が残っているようです。 なお、質問の橋は川越グリーンパークの西側にある、 現在「江遠島上江橋」とよばれている、荒川の旧河道上に架かる橋とは異なります。 これは明治期に初代の木橋が架けられたもので、 質問の橋は昭和以降の荒川の流路変更後に新河道に架けられたものです。 近々、川越市に赴きまして図書館等で調査しようと思っていますが、 その前に何か情報が得られればと思いまして、投稿させていただきました。 長文、失礼しました。 |
消えていく「絹の道」
幕末から明治にかけて、前節で述べた三つの地区から横浜へ流れた生糸は、どのルートを通ったのだろうか。第一の福島地区については福島、白河、宇都宮といわゆる伊達家参勤交代路をへて日光街道に入り、江戸経由で横浜に向ったとみるのが自然である。一応江戸廻し令が守られたのかもしれないが、史料が見当らない。
第二の前橋・富岡地区については牧野氏の報告「日本のシルクロードの究明」(註1)がある。この報告は創業初期の郵便事情を足がかりに、このルートを割り出そうとしている。郵便輸送人が往来したルートなら、生糸商人も大いに利用したに違いない。ところで東京―京都―大阪を結ぶ東海道筋郵便路線が開設されたのが明治四年三月一日、また東京―横浜路線の郵便物受付の始まったのは同年七月十五日。これに先立つ七月三日つぎの太政官布告が出ている。
「東京を除くの外、横浜より各地への仕立便緩急により賃銀高下有るべく候え共、先規の基き一里六〇〇文の定額を以て請取り、夜行は倍増其余時宜に寄るべきこと。」
この布告には各地別仕立賃銀表が附記され、近から遠へとつぎの十地名が書かれている。
武州長津田、同原町田、相州横須賀、同浦賀、武州八王子、同川越、上州桐生、同高崎、同富岡、信州上田
横浜と蚕業地とのかかわりが歴然とあらわれている。牧野氏はこの表から考えて、横浜から神奈川、長津田、原町田を経て八王子に至り、さらに川越経由で、桐生、高崎、富岡地方に達するルートを確からしいものとした。川越は狭山茶の集散地であるが、当時茶は生糸につぐ輸出品だったから、ここを中継地と考えることに無理はない。またこのルートなら幕府の目をかすめることができたかもしれない。
第三の岡谷・諏訪地区については、秋吉氏の報告「まぼろしの道を訪ねて」(註2)がある。岡谷から甲府、塩山、大菩薩峠を経て八王子に達するルートを、秋吉氏がみずから踏査された報告である。明治十一年の新道完成までは、生糸商人の大菩薩峠越えが盛んで、沿道の養蚕農家は彼等に託して、生糸を横浜へ売込んだという。
(後略)
註1 牧野正久「日本のシルクロードの究明――横浜郵便役所は何のために創られたか」、郵和会機関誌『郵和』昭和38年10月号所収。
註2 秋吉「まぼろしの道を訪ねて――日本のシルクロード」『アサヒグラフ』1965年11月5日号。
中央と地方とを連絡する幹線道路(駅路)は、目的地に最短距離で到達するために直線的路線をとって設定され、既存の集落とは無関係に三〇里(約16キロ)を基準に均等な距離をとって「駅家」(中央と地方を往復する駅使とよばれた役人が、休憩や宿泊、馬の乗り継ぎなどをする施設)を配置した。
武蔵国が東海道に所属がえになる以前、東山道から武蔵国府に至る官道は、「……枉(ま)げて上野国邑楽郡より五箇駅を経て武蔵国……」へ達する「東山道武蔵路」とよばれ、そのルートには諸説があった。ところが、近年この東山道武蔵路に比定される遺跡が、東京都府中市・国分寺市、そして埼玉県所沢市東の上遺跡で発掘されている。また、群馬県においても新田駅から分岐して武蔵国へむかう駅路は、群馬県新田町小金井地内(入谷遺跡)から南東下して太田市にはいり、大泉町仙石付近で利根川左岸に沿って、群馬県千代田町五箇で渡河して武蔵国にはいる説が有力になっている。千代田町五箇で渡河して武蔵国にはいる説によると、武蔵国へ踏みこんだ最初の地は行田市の東部、現在の利根川大堰付近である。
また、「五箇駅」を地名とせずに武蔵国内の「五カ所の駅」とすると、利根川を渡河する地点は、群馬県大泉町寄木戸付近から埼玉県妻沼町付近と想定できる。武蔵国の最初の駅が妻沼町付近とすると、武蔵国府所在地の府中市まで約80キロあり、一駅間が一六キロで、武蔵国府を含めて五駅あることが算定できる。
ここで、試みに利根川渡河最初の駅家から所沢市の東の上遺跡まで直線で進んでみる。妻沼(埼玉郡)の駅をでると直線三〇里は鴻巣市内(足立郡)か、荒川を渡河した吉見町地内(横見郡)に至り、荒川の渡河手前か、渡河した所に一駅が想定される。そこから直線三〇里の地点が川越市内(入間郡)の入間川左岸にあたる。この地区には大規模な霞ヶ関遺跡(川越市)がある。霞ヶ関遺跡付近では、八幡前・若宮遺跡(川越市)で、駅家との関連を推定させる「駅長」と書かれた墨書土器が発掘されている。このほか井戸から、曲物、稲の出納を記録した木簡、硯、檜扇(ひおうぎ)片、「水」「入卅」の墨書土器が出土している。また、霞ヶ関遺跡では、近年の発掘調査で大型の掘立柱建物跡五棟と、これにともなう溝と柱穴列が発見され、溝と掘立柱建物の柱穴からそれぞれ「入厨」と墨書された平安時代初頭の土師器、竪穴住居跡から暗文(あんもん)のある土師器や馬具(轡(くつわ))が発掘されている。このほか五畑東遺跡で「入主」、会下(えげ)遺跡で「入間」と墨書された土器が発掘され、入間川左岸に位置する霞ヶ関遺跡を中心に、入間郡関連の役所の存在が想定される。
霞ヶ関遺跡からつぎの直線三〇里の駅家所在地は所沢地内である。この地区には、側溝を設けた幅員12メートルの直線道路が発掘されている東の上遺跡があり、竪穴住居跡から細かく割れた漆紙(うるしがみ)が出土した。断片を接合し復元したところ「具注暦(ぐちゅうれき)」の一部であることが確認された。暦は、天皇から賜わるもので、都で暦を作成し書き写したものである。天皇が定めた同じ月日で中央も地方も動いていたのである。この具注暦を廃棄したのちに、紙背を利用して馬の戯画が墨描してあり、東の上遺跡が駅家であった可能性がよりいっそう補強された。
この官道「東山道武蔵路」の周辺には、流通・交易と関係する集落がある。勝呂廃寺の東方の宮町遺跡(坂戸市)では、道の近くの家と解釈できる「路家」の墨書土器や棹秤の金具と、石製の権(おもり)が出土している。光山遺跡(日高市・川越市)では、掘立柱建物をとりいれた集落が規則的配置をもって展開しており、馬具(轡)、鍵、漆の付着した土器、「馬」「袈」などの墨書土器、計量器として使用されたコップ形須恵器が出土している。宮ノ越遺跡(狭山市)では、馬具・鈴・計量器や、馬骨・馬歯が出土する。これらの遺跡からは、度量衡関係の遺物や馬具類の出土品があり、遺跡の性格を特徴づけている。
●歴史を塗り替える文字資料
「あ、じ、じ、じが出た。」「え、怪我したんですか。」この冗談のようなやり取りは、「百年に一度もない世紀の大発見」といわれた「稲荷山の鉄剣」に、初めて文字を見つけたときの逸話だ。その歴史的な大発見に、言葉が言葉にならなかったその場の研究員の興奮が、手に取るようにわかる。
稲荷山の鉄剣を例にあげるまでもなく、古代遺跡の発掘調査において、文字の書かれた遺物の発見は、時として歴史を塗り替えてしまうような大発見になる。
川越市の八幡前・若宮遺跡でも、稲荷山の鉄剣とまではいかないまでも、武蔵の国の古代史解明の、重要な鍵となるような文字資料の発見があった。
この遺跡は、川越市の西にあって、アパート建設に先立ち、発掘調査された。それまで、ほとんど注目されたことのない地域だったが、いざ調査を始めてみると、奈良時代や平安時代の遺物がたくさん発見された。逆に、通常の集落遺跡でよく見かける竪穴住居などがほとんどなく、掲載した写真(略)に見るように、重なるように掘られたたくさんの穴と、直径が10b近くもある大きな井戸跡が出てきたのである。
●予想されていた遺跡
「どうも、普通の集落らしくないな。」と思って次々と出土する遺物に注意していると、その中に、古代の国や郡の役所跡で出土するような、大型のりっぱな円面硯と呼ばれる硯の破片を見つけた。この時代、文字はすでに使われていたが、多くは政を行う者たちが、法律を記したり、税金を集めるときの記録のためなどに使用していた。そのことから、このあたりに古代の役所のような施設があったのではないかと予感した。
「入間郡衙(古代の入間郡の役所)か。いや、確かにその場所はまだ特定されていないけど、今までこの辺がその候補にあがったこともないし、では……」。
とそのとき、ふと思いついたのが、その頃注目を集めていた古代道、「東山道武蔵路」だった。「東山道」は、今から1300年余り前に造られた古代の七つの官道の一つで、都を出て近江―美濃―信濃を通り陸奥・出羽へと通じていた。その途中、上野の新田と下野の足利から枝分かれし、武蔵の国府(府中)へ延びていたのが「東山道武蔵路」だ。
ところで、みなさんは、この時代の道がどの程度のものであったと想像されますか?
江戸時代の五街道と呼ばれていた道でさえ、幅は二間(3.6b)ほどであった。それより千年近く前の道など知れたものと、思うかもしれないが、どうも違うことが、最近の歴史地理学や考古学の発掘調査により明らかになってきた。それは、軍隊の移動を考慮に入れた、驚くような規模の直線道路であった。
例えば、所沢市の東の上遺跡では、側溝の芯々距離が12bもある、七世紀後半に造られた真っ直ぐな古代の道路跡が見つかって話題となった。そのほぼ南方向の狭山丘陵の向うには、まさに武蔵国分寺や国府があり、東山道武蔵路の跡であることがわかった。この調査を受け、当時國學院大學にいた木下氏(現・長崎外国語短期大学)がそれまでの研究成果を踏まえ、武蔵国府から上野・下野へのほぼ直線に近い東山道武蔵路のルートを想定した。氏は、川越の的場で見つかった幅8〜9bもある中世の堀跡(女堀)が、東山道の側溝を拡張して堀ったものと考えルート比定の重要な根拠とした。
それを思い出して、地図に定規を当てて見ると、なんと所沢の「東の上遺跡」と「女堀」の線上に八幡前・若宮遺跡が載ったのだ。しかも距離も、ちょうど武蔵国府から三駅目くらいだ。
●「驛長」発見
「駅家か?」
駅家とは、東山道のような国の官道に16`(当時の三〇里)ごとに置かれたとされる、駅使(駅路を通り情報を伝える国の使者)のための施設で、乗り継ぐための駅馬や宿泊施設等が完備されていた。
早速、整理室で遺物を洗ってくれている人たちに、墨書された土器があるかもしれないから気をつけてとたのんだ。なぜなら、古代の役所関係の遺跡では、その役所名や性格を示す文字の書かれた土器が、よく出土するからだ。
そんな折、たまたま整理室に道具を取りに寄ったときのことだ。
「田中さん、田中さん、出たのよ、出たのよ」と、整理室のおばさんが、小走りに寄ってくる。丁度、我慢していたものだから、私はトイレに駆け込んだが、用を足して廊下に出てみると、やはりおばさんが、
「田中さん、そんなことをしている場合じゃないわよ。早く見てよ。」と急がす。
「何を、そんなに慌てているの」と思いながらそれを見せてもらうと、なんと「驛長」と墨でしっかりと書かれた土器片だ。
まさかと我が目を疑った。
駅家を管理する長である「驛長」が使っていた食器が見つかったのだ。これまで、確実な駅家の発掘調査例は全国でも一、二例しかなかった。「驛長」という文字資料の発見も五例に満たない。
●木簡発見
さあ、大変な遺跡になった。
しかし、肝心の東山道は調査区の中には、見当らない。駅家の建物の思われる跡もなさそうだし、そうするとこのたくさんの穴は、何なんだろうということになった。
駅長の墨書土器発見に、研究者も遺跡に足を運んでくるようになり、そんな研究者の一人から、山陽道の駅家には築地塀が巡っていたらしいと聞いた。この穴は、築地塀を造るための土取り穴ではないかという意見も出てきた。
そして、いよいよ大きな井戸が気になってきた。後でわかったのだが、やはり駅家の施設として、井戸が設けられていたことも当時の文献資料に出てくる。
「何か出てくるぞ。」という思いが作業員さんにも伝わり、重労働の井戸掘りにも気合が入った。
「木片に気をつけて!」掘った土すべて水洗して、小さな遺物から有機質の遺物まで見落とさぬよう掘り進んだ。
そんなある日、作業員さんの一人が、長さ30a余りの細長い薄い板材を掘り出した。「木簡か? でも、よく出る木簡に多い、端部に紐を結ぶ抉れがないし、とりあえず水に漬けておこう。」と、土のついたまま、ほかの木片と一緒に水漬けしておいた。
木簡とは、税などの荷札や伝達文書帳簿等に使われた墨書のある木片。それまで、旧武蔵国の遺跡では、行田市小敷田遺跡でしか発見されていなかった。その性格から、当時かなり使われていたはずだが、ほとんど腐って残っていない。
井戸は、予想に違わず下の方から、長さ1b、厚さ5aもある板材で井桁状に組まれた井戸側と、水溜用の曲物が現れ、その周辺からはたくさんの木製皿や「水」「入卅」と書かれた墨書土器が出てきた。そして、なんとその井戸は、奈良時代から平安時代までの約200年もの間、使われ続けられていたことが出土遺物の年代からわかった。
発掘もようやく終了し、木片の入ったコンテナーも整理室に持ち込み、さほど期待もせず。そっと土を洗い落とした。そして例の木片を手にした。
「出た。字が出た。…………木簡だ!」
まだ泥汚れの残る木片の表面に、薄らと墨の線が水の中に浮かび上がった。旧武蔵国内で二遺跡目の木簡発見だ。しかも、この八幡前・若宮遺跡の木簡は、酒を造るために度々七十束の稲を倉から出したことなどを記した、たいへん珍しい帳簿木簡であることをその後、国立歴史民俗博物館の平川南先生から教えられた。
このようにして、駅家の存在を示す「驛長」の発見、酒造りに係わる帳簿木簡の発見と、八幡前・若宮遺跡は入間郡に及ばず武蔵国の古代史を解明するうえで、貴重な遺跡となった。さらに、最近では、八幡前・若宮遺跡の北東約2`の霞ヶ関遺跡で、郡衙の建物の一部のような掘立柱建物跡と「入厨(郡衙の厨の略)」と書かれた墨書土器が見つかり、話題を呼んだ。
今、武蔵の古代史は、川越がおもしろい。(田中 信:川越市中央公民館)
まっすぐな道第5章 道路網の再編―東国
「日本古代の道路は、どのような道路だったと思いますか?」このような質問を受けて、皆さんはどんな道路をイメージするだろうか? 箱根や日光に残っていたり、時代劇に出てくる江戸時代の街道や並木道? あるいは、より古い時代だから、もっと貧弱なあぜ道のような道路?
何の予備知識もない人は、たいてい、このようなイメージを思い浮かべるのではないだろうか。ほんの30年ほど前までは、古代史や交通史の専門家の間でも、古代の道路は、主要道路でも曲がりくねった幅の狭い自然発生的な道路であると考えられてきた。江戸時代の街道などから類推していたのだから,無理もないことではある。
このような古代道路に対する「常識」は正しかったのだろうか? もうお分かりと思うが、答えはノーである。最初に、代表的な古代道路である駅路について、現在までの研究の結論を述べてしまおう。
第一の特徴は、とにもかくにも「まっすぐな」ことである。場所によっては、10キロメートル以上にわたって、まっすぐな区間が続いていることもある。駅路(えきろ)は、このような直線的な区間を組み合わせた道路として全国的に造られている。
直線的ということは、出発地と目的地との間を最短で結ぶように、路線が設定されたということになる。このような道路は、自然発生的に何となく出来上がったものではない。明らかに、「中央政府」が設計し、その指揮のもとに敷設された道路であることが分かるだろう。
幅の広い道
駅路の第二の特徴は、その幅が極めて広いことである。
道路の幅は、京都周辺で24〜42メートル、全国的には、前期駅路が12メートル前後、後期駅路や伝路が3〜6メートルという例が多い。数字で言ってしまうと大したことがないようだが、発掘現場などに立って見ると、これは実に広い。例えば現在の高速道路の一車線が約3メートルと聞けば、その広さが実感できるだろう。現代の感覚でいえば、首都周辺で八車線以上、全国的には四車線分の敷地を持つ「高速道路」が建設されていたのである。
(中略)
律令国家では、都城と各地方を結ぶ七本の路線―駅路が設定されていた。そして、全ての駅路は、このような直線的で幅の広い「造られた」道路であったと考えられる。つまり、古代の主要道路は、倭王権・律令国家によって設計され、造られた道路―「計画道路」だったのである。
1 東国駅路網の再編第2章 古代道路の探し方
武蔵国の移籍
宝亀2(771)年10月、武蔵国は、それまでの東山道から、東海道に所属が変更されることになった。そのことを示すのが史料4である。
史料4 『続日本紀』宝亀二(七七一)年十月己卯条太政官奏す。武蔵国は山道に属すといえども、兼ねて海道を承け、公使繁多にして、きょう供堪え難し。其の東山の駅路は、上野国新田駅より、下野国足利駅に達す。此、便道なり。しかるに枉(ま)げて上野国邑楽郡より、五ケ駅を経て、武蔵国に至る。事畢って去日、また同じ道を取りて、下野国に向かう。今東海道は、相模国夷参(いさま)駅より、下総国に達す。その間四駅にして、往還便近なり。しかるに此を去りて彼に就くは、損害極めて多し。臣等商量するに、東山道を改めて、東海道に属さば、公私息んずること有り。奏可す。ことのおこりは、太政官による天皇への奏上に始まる(あるいは、もっと下の部局、例えば地元の武蔵国の上申に始まるのかもしれないが、この史料からは分からない)。その内容はつぎの通りである。
武蔵国は東山道に所属しているが、同時に東海道の交通も受け持っており、使者の往来が多くて、民衆が負担に耐えかねている。東山道駅路は、上野国新田駅から下野国足利駅につながっており、これは便利な路線である。それなのに、駅使はわざわざ行き先を曲げて、上野国邑楽郡から、五つの駅を経て武蔵国府へと赴く。そして、用事が終った後に、再び同じ道を戻って下野国に向かう。一方、東海道は、相模国夷参駅から、下総国に達している。その間には四つの駅があって、往来が便利で近い。それなのに、相模国夷参駅―武蔵国府―下総国ルートを使わず、上野国新田駅―武蔵国府―下野国足利駅を採用するのは、損害が非常に多い。私たちが考えたところでは、武蔵国の東山道所属を改めて、東海道に所属することにすれば、官僚も民衆も便利になり、人も馬も負担が軽減されるでしょう。
というわけで、天皇の許可も下りて、武蔵国が東海道に移籍することになった。ただし、太政官のあげたものは、もっともらしい理由付けではないかと見る向きもある。遠回りになるなどということは、最初から分かっていたはずだというのである。このことと、対蝦夷政策(植民や戦争)における人的・物的供給源となった東国の特性を踏まえて、陸奥国方面への交通の比重が、東山道ルートから、(太平洋水上交通路を含めた)東海道ルートにシフトしつつあったことを、武蔵国転属の要因とする見解もある。
ともあれ、武蔵国は東海道所属となった。駅路の問題に限定すれば、これによって、上野・下野両国を武蔵国府(東京都府中市)を結ぶ「五ケ駅」の道=東山道武蔵路が廃止されたことになる。
ルートメモ 西武新宿線・新狭山駅下車。本田技研工場の南側へ行き、そこから南へ向かって、所沢市松葉町まで堀兼道を歩いたあと、西武新宿線・新所沢駅に出る。約8.5キロ。技研工場の南側から松葉町までが、一部を除いて全線古代官道跡だが、記事にはA地点以南のみを取り上げた。北半はクルマの往来がはげしい上、古代官道のおもかげも特になく、歩いて快い道ではない。
11月末の晴れた日、狭山市・南狭山変電所の真東の、A地点に立った。
北方の西武新宿線・新狭山駅付近にある本田技研工場から、南やや東寄りにほぼ直線に延びて同じ新宿線の新所沢駅の東方に至る、いわゆる「堀兼道」を歩いて来、富士見台集落南端の堀兼神社(堀兼の井の跡がある)で一休みしたあと、ここへやってきたのだった。
同行の一人の I さんが、この付近の大縮尺の地図を持ってきていて、それを示しながら、
「西に20メートルぐらいのところから、この道に並行な細い道がありますよ」
と言った。
A点から約700メートルの間、堀兼道の西沿いに、20メートルほどの幅で、狭山市の中に所沢市が、棒のように入りこんでいる(掲出した2万5千分1地形図(略:「川越南部(平成11年修正測量)」「所沢(平成10年修正測量)」×0.7)参照)。いちじるしく奇態な入りこみ方で、何か曰くがあるにちがいない、と思わせる。
実はこの細いベルトは、古代官道の跡だろう、と言われているのである。
それで、ぜひ歩こう、と思ってやってきたのだが、ベルトの西側にも道があるとは知らなかった。それまで頻繁かつ傍若無人なクルマの往来に悩まされてきた一同、よろこんでそちらに入る。
それは幅3メートルばかりの狭い道で、思わく通り、時折り歩く人や自転車の人を見かけはするがクルマは全く通らない。静かな裏道だった。
いやそればかりか、クルマ道との間の「所沢ベルト」の中は、木が生い茂る森だった。下草はほとんどなく、金茶の落葉が厚く積もって木洩れ日に輝き、歩くとふかふかと気持ちがよかった。ステキなグリーンベルトだ。
裏道自身にも落葉がたくさん落ちていて、簡易舗装ながら、踏み心地は悪くなかった。
このあたりは畑や平地林が多く、武蔵野のおもかげの残るところ。とはいえ狭山・所沢市内であり、ベルトの両側は金ケ崎や大河内の住宅地だ。にもかかわらずこんなグリーンベルトが残されているというのは、うれしいことである。古代官道時代以来の土地所有関係が、今に尾を引いているのだろうか? とすれば律令政府の威光は相当なものだったことになる。
途中で一部、森が切れて畑地になっていたり、小さな工場や住宅が建っているところもあるけれども、やはり圧倒的に多いのは林地。木がまばらな上にきれいに整地されていて、公園のようになっている区間もあるが、気持ちのよさに変わりはなかった。
両側に家のあるところでAさんがふと立ち止まったと思うと、
「右側の家のクルマは狭山ナンバー、左側のは所沢ナンバーですよ」
と、両側のクルマを指した。なるほどその通り、市境といったって目に見える目印があるわけではないから、これはかなり説得力のある表象だ。
所沢ベルトが終わってもグリーンベルトと裏道は、相たずさえてB地点まで、なお続いていた。
AB間は約1.7キロ。古代官道の跡はあちこちにあるけれども、これだけの長さが幅約20メートルのグリーンベルトとなって残っているのは――そしてその片側が心地よい散策路となっているのも――非常に珍しい例だろう。
堀兼道は、鎌倉時代には鎌倉街道の一部として使われたと考えられる。このことも、古代官道の跡がこれほど明瞭な形で今に残っていることに、大きく寄与しているのだと思われる。
堀兼道の名は、前記の「堀兼の井」に由来する。紀貫之の「はるばると思ひこそやれ武蔵野のほりかねの井に野草あるてふ」という歌などに出てくるほど古いものだ。実はこの名をもつ井戸は武蔵野の各地に見られたもので、貫之の歌のそれが私たちの寄った神社の境内にあったものなのかどうかは分からない。しかしそれはともかく、今ではこれが県指定の史蹟になっていて、最も名高い。
といっても今は水は出ておらず、直径7〜8メートルの石積みと木柵からなる垣根に囲まれた、1メートル四方ぐらいの木の囲いにすぎないが。
グリーンベルトから先にも、官道跡はえんえんと続くのだが、クルマがかまびすしくて、味気ない。ようやくクルマから解放されたのは、新所沢駅北方の73メートルの標高点を過ぎてからだったが、それは200メートルばかりで、すぐ駅前の繁華街に出てしまった。