(発端と背景)今川義元がしかけた北条包囲網
(戦術と経過)半年間も包囲に耐えつづけた河越城
(戦略と勝敗)謀略を駆使して兵力10倍の敵を破る
関東を支配する3つの勢力と北条氏の台頭
関東の要衝をめぐる駆け引き
氏康を追い詰める憲政の軍略
開戦、連合軍対川越城守備隊
後詰めの氏康、出撃!
激戦! 川越夜戦!
守備兵乱入、北条軍大勝利
全力をもって、敵の分力を討つ
「反北条連合軍」の結成で四面楚歌の苦境にたたされる氏康
大軍に囲まれた河越城を救出するべくついに北条軍団は武蔵へ進撃する
8倍の軍勢に怯える氏康…… しかし、それは大作戦への布石だった!
8倍の敵軍を各個撃破する電光石火の奇襲作戦が決行された!
自分のキャラクターをよく把握して立案された「必殺の奇襲作戦」!
何度もあった河越城攻防戦
8万の敵というのは本当か
北条氏康の巧みな戦略
川越城跡の菱櫓跡に立つと、ここが台地の尖端部分であることがよくわかる。現在の新河岸川(当時は赤間川)はもともと外堀だったもので堅城ぶりをうかがわせる。本丸御殿(江戸時代の建物)、隣接する川越高校には土塁も残る。
河越城(江戸時代以降、川越城)は扇谷上杉氏の重臣で城造りの名手・太田道真・道灌父子が築いた城だったが、天文六年(1537)に北条氏綱が奪って以来、北条氏の城となっていた。
天文一四年九月、関東管領の山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方の足利晴氏の連合軍は河越城奪還を目的に城を包囲した。その兵数八万。河越城の北条綱成軍は追い詰められる。
当主・氏康は八〇〇〇の兵を率いて救援に向かう。天文一五年四月二〇日夜半、夜陰に紛れて連合軍陣営を撃破した。
河越城攻めでは、城の周辺でも激しい戦いが繰り広げられた。現在は、蔵造りの家が並ぶ川越は、別名小江戸。菓子屋横丁からしばらく歩くと東明寺。「川越夜戦跡」の碑があった。
一方、砂久保古戦場は川越市の郊外にある。
連合軍側の上杉憲政は河越城南方の砂久保に、足利晴氏は東方の伊佐沼付近に、上杉朝定は入間川沿いの川島に、それぞれ陣を敷いていた。
天文一五年四月二〇日夜半に総攻撃をかけた北条軍は、まず砂久保を急襲。奇襲に動揺した憲政軍は総崩れとなる。逃げまどう連合軍を北条軍は追撃し、東明寺付近で激しい戦闘が行われ、北条軍はこの戦に勝利した。
このことから河越夜戦は「東明寺合戦」とも呼ばれている。
永正二年(1505)、顕定と朝良が和議を結び、山内・扇谷両上杉氏の抗争に一応の終止符が打たれた。伊勢長氏(北条早雲)は小田原(現、神奈川県小田原市)を拠点に、関東経略をめざして両上杉氏と対決するが、永正一六年に八八歳の生涯を閉じた。
早雲の跡を継いで関東進出の機会をうかがっていた北条氏綱は、大永四年(1524)正月、扇谷上杉朝興に仕えていた太田資高の内通を得て江戸城(現、東京都千代田区)を攻略し、武蔵支配の重要な拠点を確保した。武蔵進出の第一歩である。江戸城を逐われた朝興は河越城(現、川越市)に敗走した。
同年四月一〇日、氏綱は相模国当麻宿(たいまのしゅく)(現、神奈川県相模原市)に宛てて、玉縄(現、神奈川県鎌倉市)・小田原と石戸(現、北本市)・毛呂(現、入間郡毛呂山町)の間を往復するもので、虎の印判を所持しないものには伝馬の使用を厳禁する旨の印判状を下している(関山文書)。当時、石戸や毛呂が交通・運輸の重要拠点となっていたことや、氏綱が早くもこうしたところを掌握しつつあった状況がうかがえる。
また同年八月二六日、氏綱は三室郷(現、浦和市)に宛てて、軍勢甲乙人(ぐんぜいこうおつにん)などの濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)を停止させる旨の制札(せいさつ)を発給しており(氷川女体神社文書)、江戸城攻略から半年余りのちには、後北条氏の勢力がこのあたりまで及んできていたことが知られる。こうしたなかで、翌大永五年二月、江戸城を出陣した氏綱は、太田資頼が拠る岩付城(現、岩槻市)を攻めて陥落させた。
河越城に逃れた朝興は、越後(現、新潟県)の守護長尾為景に支援を要請するいっぽう、失地回復をはかって反撃に転じ、大永六年六月には後北条氏支配下の蕨城(現、蕨市)を攻略するなど(「本土寺過去帳」)、各地で後北条氏勢力と激しい合戦をくりひろげた。享禄四年(1531)、太田資頼は岩付城を奪回した。
天文六年(1537)四月、朝興が河越で没し、当時まだ一三歳の朝定が扇谷上杉氏を継承した。しかし同年七月、朝定は氏綱の猛攻を受けて河越城を放棄し、老臣難波田憲重を頼って松山城(現、比企郡吉見町)に退去した。
同年七月二三日、氏綱・氏康父子は鶴岡八幡宮に対し足立郡佐々目郷(現、浦和市・戸田市)を安堵する旨の連署判物を発給しているが(鶴岡八幡宮文書)、そこに「諸願成就、皆満足せしむるところ」とあるのが注目される。これには、長年にわたる上杉氏との抗争に一応の決着をつけ、河越城を奪取したことの重要性と喜びが示されていよう。河越城には城代として北条綱成(氏綱の養子)が配置された。
天文一〇年(1541)、氏綱が没し、後北条氏の家督は氏康が継承した。
河越城の奪回に執念をもやす朝定は、関東管領上杉(山内)憲政や古河公方足利晴氏らに支援を要請するとともに、駿河(現、静岡県)の今川義元とも結んで、後北条氏の勢力を東西から挟撃しようとした。こうして朝定は、天文一四年一〇月ごろから、憲政・晴氏らの軍勢を合わせて八万騎(六万五〇〇〇騎ともいう)の大軍を率いて、北条綱成以下三〇〇〇余の将兵が籠城する河越城を攻囲し、城の南に位置する砂窪(現、川越市)に前線基地を置いた。
それに対して氏康は、まず、今川義元と和議を結んで後顧の憂いを断ったうえで、精兵八〇〇〇騎を率いて来援し、天文一五年四月二〇日の夜、夜陰に」まぎれて奇襲攻撃をかけ、河越城を包囲していた両上杉氏および古河公方の連合軍を撃破し、大勝利を収めた。この電撃作戦が、世に名高い「河越夜戦」である。
この戦いで連合軍の盟主であった朝定が討死し、扇谷上杉氏は滅亡した。かつて太田道灌が死に際に残したあの「当方滅亡」という恨みの言葉は、ここに現実のものとなったのである。
いっぽう、領国の上野国平井城(現、群馬県藤岡市)に敗走した憲政も、やがて後北条氏の圧迫を受け、その衰退はもはや覆いがたいものとなった。その結果、憲政は天文二一年に越後の守護代長尾景虎のもとに逃れ、上杉氏の名跡や重代の太刀・系図などの重宝を譲り渡すことを条件に、その支配と協力を要請した。こうして代々関東管領職を継承してきた関東随一の名門、山内上杉氏は滅亡し、その名跡は新たに長尾景虎(上杉輝虎=謙信)に引き継がれたのである。
また河越夜戦に破れて古河に退去した古河公方足利晴氏は、その後、北条氏康に攻められて大敗し、その子義氏(母が北条氏綱の女)が古河公方を継承して後北条氏の支配下に置かれるようになった。
こうして河越夜戦は、山内・扇谷両上杉の命運を決するとともに、古河公方の失墜を招き、以後における後北条氏の武蔵支配の確立を決定的なものとした。
(前略)
戦国時代の数多い逆包囲作戦のうちで、籠城期間、そして規模が最大のものは天文十四年(1546)に始まった武蔵河越城(川越城/埼玉県川越市)の攻防戦でしょう。もともと、この城郭は反後北条氏方の上杉朝興(ともおき)の持ち城でしたが、相模小田原城(神奈川県小田原市)の戦国大名・北条氏綱が天文四年八月に河越城を攻撃。翌天文七年七月に本格的な攻勢を掛け、朝興を放遂し、氏綱はここに城代として北条綱成(つななり)を入れて守らせました。
この間、氏綱は江戸城まで駒を進め、武蔵北部(埼玉県)の諸城を次々と攻略。天文七年秋には足利義明・里見義堯(よしたか)の連合軍を下総国府台(しもふさこうのだい)(千葉県市川市)で撃退し、義明を討死に追い込むなど、破竹の進撃が続いていました。そのようななかで、天文十四年八月、上杉朝定(ともさだ)・上杉憲政(のりまさ)ら反後北条氏方の勢力が結託して河越城を攻めます。氏綱の側にも少し油断があったのでしょうが、同年十月には河越城が敵方に包囲され、孤立しました。城代・北条綱成は防禦を強化して、六ケ月間守り抜きました。そして、翌十五年四月二十日、北条氏康の率いる大軍が、河越城外で上杉朝定、上杉憲政、足利晴氏(はるうじ)らの連合軍を撃破しました。これが世に名高い河越城の戦いで、河越夜戦、天文の乱とも呼ばれます。
河越城に籠城していた兵力、包囲していた兵力の総数はそれほどでもなかったでしょうが、おたがいに敵方の動きを知って、双方ともに救援軍が駆けつけた結果、戦国時代を通じても最大規模の逆包囲作戦が展開されました。この合戦における上杉・足利連合軍の総兵力は詳しくは伝えられていないのですが、四月二十日に駆けつけた氏康の軍勢は八千人といわれています。他に、後北条氏方には城内に綱成の兵など三千人がいたといわれています。
この夜、上杉勢は砂窪(すなくぼ)(川越市内)に布陣。足利勢はやや離れて布陣しており、相互に連絡を取り合うことをしてなかったばかりか、陣の周辺に斥候(せっこう)(偵察部隊)を出して警戒することも怠っていたといわれています。上杉・足利連合軍のこの体たらくを知った氏康は、上杉勢、足利勢の順に攻撃。不意を衝かれた上杉勢は大混乱に陥り、瞬時に三千人もの将兵が打ち取られました。この戦いの結果、朝定が討死し、晴氏は古河(茨城県古河市)へ、憲政は上野(こうずけ)平井(群馬県藤岡市)に逃走。扇谷上杉氏は滅亡し、室町将軍家の支族である関東公方の権威も失墜。関東における後北条氏の覇権が確定しました。
なお、綱成は大永元年(1521)に甲斐(山梨県)に侵入して武田信虎(のぶとら)(信玄の父)を苦しめた福島正成(くしままさしげ)の子で、江戸時代に兵学者として活躍をする北条(福島)氏長(綱成の五代後)、福島国隆(氏長の甥)・国勝(国隆の曾孫)らは綱成の子孫に当たります。
北条氏が関東を制圧した戦いを探る
少ない軍がはるかに多勢の敵軍を見事に討ち負かした例として、よく出されるいくさが三つある。新しい順にあげると、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間(おけはざま)の戦い、その5年前、弘治元年(1555)10月1日の厳島(いつくしま)の戦い、そして天文15年(1546)4月20日の河越夜戦である。
桶狭間の戦いについては、あまりにも有名である。厳島の戦いについても、NHK大河ドラマで毛利元就(もうりもとなり)が取り上げられてから広く知られるようになった。しかし、北条氏が小説やドラマに登場することがごく稀なせいか、河越夜戦のことはあまり知られていない。
河越夜戦は、北条氏康(うじやす)が関東に覇を唱える大きなステップとなった戦いである。戦いの相手は、古河(こが)公方足利晴氏(はるうじ)を擁した、山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏。いわば関東の旧勢力が結集した大連合である。総勢8万余りの大軍だったという。
それに対して氏康の率いた軍は、わずか8千。十分の一である。その一が十を奇襲して大勝したというのだから、まさにドラマチック。もっと一般に知られてもよい戦いなのではないだろうか。
だが、この河越夜戦については、はっきりしないことが多いのである。そのため研究家たちが取り上げるのをためらい、一般にあまり知られないまま過ぎた、ということだろう。では、まず河越城攻防戦のいきさつから語ってみよう。
天文6年(1537)7月、北条氏綱は河越城に扇谷上杉氏を攻めた。城主上杉朝定(ともさだ)は防ぐことができず、城から抜け出して松山城に逃れた。河越城は北条氏のものになった。氏綱は、ここに北条(福島)綱成(くしまつなしげ)を城将として置いた。
天文10年(1541)、北条家では氏綱が没し、嫡男の氏康が家督を継いだ。その4年後の天文14年(1545)、若い氏康にとってたいへんな試練がおとずれるのである。
山内憲政(のりまさ)・扇谷朝定の両上杉氏は、駿河の今川義元(よしもと)と同盟を結んだ。やがて北条氏が駿河に確保していた長久保城が今川軍に囲まれた。ほぼ同時に、武蔵河越城も両上杉の軍に包囲されたのである。
包囲軍の中には、古河公方足利晴氏もいた。晴氏の妻は氏康の姉妹である。だが、北条氏の隆盛に我が身の危うさを感じ取り、上杉連合軍に味方したという。古河公方、関東管領の両上杉氏、それに西では今川氏も敵方にまわっている。氏康はまさに四面楚歌の状態であった。
河越城を包囲されてまもなくの10月10日、氏康は鶴岡八幡宮に願文を捧げ、勝利のあかつきには3年の月参りと万度祓(まんどばらい)いを行うことを誓っている。
氏康はただ神仏を頼みにしたわけではない。自分の置かれた現状をよく考え、適切に対処した。まず父氏綱が占領した今川氏の旧領を返すという条件で、今川氏と講和を結んだ。そして、4月、いよいよ河越城救援のため、小田原を出陣するのである。
この河越城救援軍は、たった8千だったという。小田原の本城の留守隊のほか、講和したとはいえ安心できない駿河方面、それに安房の里見氏に備えて三浦方面へと兵を割かねばならなかった。氏康が率いたのは、馬廻の手勢だけだったのである。
それにしても、河越城将の綱成はよく持ちこたえていた。というよりも、包囲軍が戦闘を嫌い、城方をただ兵糧攻めにするのみで日を送っていたのだろう。半年もの間、氏康は救援することができなかったけれど、なんとか間に合ったのである。
4月20日、深夜のうちに北条軍は行動を開始した。少ない軍を分かって、敵のそれぞれの軍に攻撃を仕掛けたのである。
油断していた敵軍は大混乱に陥った。扇谷朝定は討ち死に、山内憲政も古河公方晴氏も大敗して、戦場を逃れるのが精一杯であった。
これが河越夜戦の概略である。この勝利の後、関東の豪族たちは次々と氏康に降り、北条の勢力は関東中部に広がっていく。
さて、後世の編纂史料『北条記』『北条五代記』『関八州古戦録』などの戦記物では、これにいろいろと尾鰭(おひれ)が付けられている。自ら志願して河越城に乗り込む美少年福島竹千代(ママ)の話とか、氏康が古河公方晴氏に城兵を助命してくれれば城と領地を渡すと約束して、敵を油断させたとか、物語風な部分が多い。
この河越夜戦については、従来は戦記物の記載通りに信じられてきたが、昭和49年(1974)に伊礼(いれ)正雄氏が疑問を唱えてから、にわかに再検討がせまられるようになった。
それはまず、この戦いが天文15年4月20日という時点で行われたことへの疑問である。つまり、これほどの大合戦だったのに、諸書がその年月日をまちまちに伝えていること、感状などの文書が残っていないこと、戦闘の行われた場所もあいまいであることなど不明な点が多い。
次には、この年月日を肯定するとしても、本当に夜討ちだったのだろうか、9年前に北条氏綱が河越を攻めた時の夜討ちと混同しているのではないか、という疑問である。
つまり、北条氏康が河越城を攻略したこと自体への疑問ではない。一つには、乾坤一擲(けんこんいってき)の戦いがこの天文15年4月20日にあったのかということ、二つには、果たして夜戦だったのかということが疑問なのである。
まず、この日に河越城をめぐって合戦があったのかという問題だが、あったことはまずまちがいあるまい。同年と思われる4月26日付けの本庄宮内少輔(くないのしょう)宛てのもの、4月27日付けの赤堀上野守の娘宛てのもの、2通の上杉憲政の手紙に河越の戦いの記載があるからである。本庄宛てのものには「去る二十日、河越の一戦において」とはっきり日付が書かれているし、赤堀の娘宛てのものには、赤堀上野守の討ち死が記されている。
さらに、戦いから70年もたってからのものだが、戦いに加わった太田資正(すけまさ)の話を息子の資武(すけたけ)が書き留めた史料がある。これには、天文14年9月からの上杉軍の河越攻囲、氏康の河越救援、天文15年4月20日の戦いが記されている。
それに、上杉軍一方の大将、扇谷朝定がこの年月日に戦死したことは、まぎれもない事実である。相当な激戦があったことはまちがいないだろう。
戦闘が行われた細かい場所はともかく、天文15年4月20日に河越城をめぐって北条軍と両上杉軍の戦いがあった、ということは認めてもよいのではなかろうか。
ただ、8千の軍が8万の大軍を打ち破ったというのは、そうとうに誇張されていると思う。両上杉軍のほうが兵力的に勝っていたのは事実だろうが、8万はあまりにも多すぎる。実際はその何分の一かだったのだろう。
次に夜戦というのはどうだろうか。
比較的信用できる史料である『喜連川判鑑』(きつれがわはんかがみ)には、次のようにある。
「天文十五、四月二十日、北条氏康管領憲政ト夜合戦」
だが残念ながら、ある程度信憑性(しんぴょうせい)の高い史料の中で、夜戦だったとしている史料はこれだけである。9年前に氏康の父氏綱が河越城攻略を果たした時には、近くの三ツ木原で夜合戦が行われた。この時の戦いとの混同だろうという説が現在は有力である。そうかもしれない。
結論をまとめよう。
天文15年4月20日、河越城をめぐっての戦いはあった。この戦いで北条氏康は両上杉氏に大打撃を与え、関東席巻の大きな足掛かりを作った。兵力的に劣勢だった北条軍が奇襲をかけた可能性が高い、ということまではいえるだろう。
だが、この戦いが、一般に伝えられているように夜戦であったかどうかについては不明としか言いようがない。
古河公方足利晴氏・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定ら八万の軍勢に対し、北条氏康が八千の兵であたった。武蔵河(川)越を主戦場とする戦い。
河越夜戦は、日本三大夜戦の一つとして知られているが、それとともに、十分の一という少ない兵力で敵を破ったことも特筆されることがらである。桶狭間の合戦における信長と同じように、十倍の敵を破ったということで、寡兵で多勢を征した新記録ともなりうる戦いであった。
ところが、この河越夜戦には謎が多く、普通、合戦が終わったあとには、必ずといってよいほど軍功に対しての軍忠状とか感状というものが出されるが、この河越夜戦の場合、戦勝者北条氏康の側からは一通の感状も出されていないのである。このことは、たまたま今日に伝わる感状がないというだけではなく、感状そのものが発給されなかったのではないだろうか。
また、この合戦を描写している諸書によって、夜戦の年月も著しくくいちがっている。たとえば、『河越記』は天文六年(1537)七月、『甲陽軍鑑』は天文七年(1538)七月、『相州兵乱記』は天文十三年(1544)四月といったぐあいである。
ここでは、通説に従い、天文十五年(1546)四月二十日ということにして(伊礼正雄『関東合戦記』)、以下経過をながめてみることにしよう。
河越城には北条綱成がいる。綱成はそもそも今川の家臣遠州土方(ひじかた)城主福島正成の子で、父正成の死後、北条氏綱の庇護をうけ、「綱」の一字をもらい、氏綱の娘と結婚し、一族としての待遇をうけ、北条姓を名乗るようになったものである。
この河越城を包囲するように、東に古河公方晴氏、北に太田三楽斎資正、西・南に上杉の主力がおかれていた。攻める側総勢八万である。
河越城の救援にむかった北条氏康は、まず、相手を油断させるため、和議の申し入れを行ない、二十日の夜中、氏康の手勢で柏原の上杉勢を攻め、上杉憲政をたたき、続いて上戸にも攻撃をしかけ、この方面の上杉勢を潰走させた。
この様子を知った河越城将北条綱成は、一気に下老袋に本営を張っていた古河公方足利晴氏を攻めたて、ついに両上杉・古河公方は敗走してしまった。
この合戦の意味するところは、両上杉・古河公方といった旧勢力の衰退と、後北条氏という新興勢力の台頭を余すところなく示したことにある。
天文六年(1537)七月、是月北条氏綱上杉朝定と合戦す。(後鑑)
同年七月十一日、北条氏綱武州発向。七千余人三木原(狭山市三ツ木)にて戦ふ。合戦数刻におよび北条方河越城に押寄せ、上杉方松山城に籠る。松山城主難波田弾正父子松山城を出て戦ひ敗れて退く(関東管領記)。
早雲長子氏綱左京大夫、氏綱嫡嗣氏康(十六歳)豆相二国の甲士、武州に発し、享禄三年より天文六年まで七年の間、武州品川・神奈川・府中・高井戸・所沢・瀬田谷等の邑において上杉と挑戦。北条戦ふ毎に必ず勝つ(豆相記)。
武州の国司上杉朝興度々の合戦に討負け、如何にしても氏綱を亡ぼさばやと骨髄に徹して暮らしけるが、重病をうけて天文六年卯月下旬朝の露と消え給ふ。子息朝定生年十三歳にして家督を継て父の遺言に任せ、仏事作善をなげうって、まず武州の神大寺(調布市深大寺)と云ふ処に要害を取立て城として氏綱を退治せんとす。氏綱是を聞いて同七月十一日、河越の三木と云ふところまで打寄せたり。先騎の兵には井浪・橋本・多目・荒川を足軽大将と定め、松田・志水・朝倉・石巻を五手に備えて待縣たり。上杉朝定是を聞いて伯父左近大夫朝成に曽我丹波守を相添へ、武州上州の兵二千余騎にて懸合ひ、火の出る程戦ひける。去程に入乱れて大将上杉朝成生捕られければ、残る兵共散々に引いて行き、防ぐべき軍勢なければ、朝定は松山の城へ落ち行きて難波田弾正をぞ頼まれける。(北条記)
天文十四年九月、此月上杉憲政武州川越城を攻める。(後鑑)
九月二十六日両上杉関東公方八万余騎にて発向。憲政砂窪(川越市砂新田)へ旗立て、河越城を囲む。十月二十七日公方晴氏河越へ動座す。(関東兵乱記)
天文十五年四月二十日、此日北条氏康川越城を援け、上杉憲政敗走す。(後鑑)
氏康は上杉を夜討にすべしとて、まず笠原越前守を以て敵陣へ忍ばしめ、子の刻砂窪へ切って入る。上杉方は小野幡州・本間江州・倉賀野三河守・難波田弾正・同子息隼人佐ら三千人討死。(関東兵乱記)
武蔵国入間郡河越の城は、上杉朝興没落後北条氏綱の手裏に入って福島左衛門大夫綱成城代として是を守る。天文十四年の秋、憲政(二十四歳)扇谷五郎朝定を伴ひ、上野・下野・北武蔵・常陸・下野の軍勢六万五千余騎を催促して平井(群馬県藤岡市)を首途し、先ず途中の河越を攻落し、夫より長窪(駿河国)へ打越えんとて九月二十六日入間郡砂窪・柏原(狭山市)の地に押付け河越の城を囲む事稲麻竹葦の如し。
〔註〕憲政は駿河の今川氏親と相計って、北条の出城である長窪を攻めようとしていた。
古河公方晴氏上杉へ助援すべしとて、十月二十七日二万余騎にて古河の城を出馬し、河越表へ動座。然れ共楯籠るところの城主福島左衛門大夫・介福朝倉能登守・師岡山城守を始めとして三千余人義を金石に比し、命を鴻毛より軽んじて挑戦し屈する機なし。氏康は天文十五年四月朔日八千余騎を率し、武州入間川の辺砂窪に出張す。憲政氏康に物な云はせぞとて、城を囲んだる備の中より二万許り巻きほぐし大縣りに砂窪に向ふ。是を見て南方勢螺を吹いて武蔵の国府へ退く。
天文十五年卯月二十日、宵闇の色定かならず、氏康へ千余騎を四隊に分け、上杉の陣所へ子の刻押寄せ、どっとわめいて攻入りたり。
敵方寝耳に水の入りたる如く、周章騒動して崩れ立て蜘蛛の子を散すが如し。扇谷五郎朝定も討れ、難波田弾正は灯明寺口の背井へ落ちて横死す。憲政は平井をさして落られたり。然れば管領家の楯戟たりし武州高麗郡滝山の城主大石源左衛門尉定久、秩父郡井戸天神山の藤田左衛門佐邦房一番に旗を巻きて降人として出で来たれり。(関八州古戦録)
河越の夜討ち
1541(天文10)年、東国に戦雲が重苦しくただようなか、氏綱は55歳で病死し、その子氏康が27歳であとを継ぐ。父の死後、氏康は、しばらくは義兄弟にあたる古河公方足利晴氏と提携し、もっぱら民政に専念した。そして、1541、42年、かれは相模に本格的な検地を実施し、後に武蔵まで検地の手をのばして、新しい課税体制を確立することに成功した。
この間、氏康をめぐる周囲の政治情勢はむしろ悪くなっていた。出るくぎは打たれるの例えで、北条氏に対する近隣諸大名の風当たりは強かった。1545(天文14)年の秋になると、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄が共同して、背後をおびやかし、山内憲政と扇谷朝定は、北条綱成が守る河越城に攻撃を加えてきた。秋も深まった10月の末には、古河公方晴氏までが氏康と手を切り、河越攻撃に加わるありさまであった。関東平野の中枢部に進出した北条氏の勢力は、見方によっては、むしろ諸大名勢力の包囲網のなかにとらえられた形となる。それに早雲以来のやりくちに対する怨みが累積していた。氏康は文字どおり四面楚歌におちいった。
河越城は、いまや晴氏・憲政・朝定の連合軍8万に囲まれて、落城は時間の問題と見られた。しかし綱成以下城兵の奮戦で、城はどうやら年を越すことができた。攻撃軍にもややあせりの色が見えはじめた。それまで長久保・小田原・三浦に兵力を分散して苦境におちいっていた氏康は、翌1546(天文15)年の4月になって、馬廻衆(親衛軍)8千余騎をかき集め、ようやく武蔵砂窪まで進出した。しかし彼我の兵力の差は十対一、その差はあまりにも大きすぎる。
氏康はここで一計を案じ、晴氏と両上杉に申し入れた。
「せめて籠城の兵士の命を助けてくれるならば、城と領地はそっくり進上しましょう。」
再三にわたる氏康の申し入れを受けて、半年の攻城に軍馬ともに疲れていた攻撃軍は、この降伏の申し出に、戦争はもう終わったような錯覚におちいった。そこに心理的に大きな落とし穴がかくされていることを見破る余裕がなかった。
春たけなわの4月20日の夜、氏康は、合いことばだけを決め、たいまつもつけさせず、精兵をもって暗夜敵陣のまっただなかに強襲をかけた。連戦に疲れ、落城近しの報にすっかり油断していた連合軍は、ひとたまりもなかった。扇谷朝定は戦死し、晴氏と憲政は、かろうじて古河と上野平井城に逃げのびるありさまであった。
この戦いが、毛利元就の厳島の夜襲、謙信・信玄の川中島の合戦とともに、戦国の三大合戦の一つに数えられた「河越の夜討ち」である。氏康は祖父早雲に劣らぬ謀略をたくましくして大勝をはくし、かての武名はこの一戦で、戦史に長く記録されることとなるのである。
まえがき
東明寺夜戦の意義
東明寺夜戦前の関東の情勢
上杉軍出陣と河越城の包囲攻撃
古河公方足利晴氏、上杉方総大将に
北条氏康の動静
氏康の河越攻略の戦略
野戦の状況 (1)北条軍の戦闘
夜戦の状況 (2)東明寺口合戦
川越版日本外史 河越之戦 頼山陽著
河越之夜戦想定図
教えて下さい No: 171
投稿者:Area2 04/02/28 Sat 21:32:29 河越夜戦の項に、「日本歴史が三大夜戦と呼ぶものに厳島の夜戦。桶狭間の夜戦。」とありますが、厳島合戦は1555年10月1日の早朝、桶狭間の戦いは1560年5月19日の今川軍が昼食中の急襲とされています。夜戦というのは、どのように考えたらいいのでしょうか?よろしくお願いします。 |
表 現 | 他の2合戦 | 書 名 | 筆 者 | 出版社 | 出版年 |
三大夜戦 | 厳島の夜戦 桶狭間の夜戦 | 古戦場往来 | 大阪毎日新聞社学芸部 | 文有堂書店 | 1940年 |
日本三大夜戦 | 表記なし | 川越閑話 | 岸伝平 | 国書刊行会 (川越叢書刊行会) | 1982年 (1954年) |
日本三大夜戦 | 表記なし | 関東合戦記 | 伊禮正雄 | 新人物往来社 | 1974年 |
戦国の三大合戦 | 厳島の夜襲 川中島の合戦 | 戦国の武将 | 佐々木銀弥 | 講談社 日本の歴史文庫9 | 1975年 |
日本三大夜戦 | 表記なし | 図説戦国合戦総覧 | 新人物往来社 | 新人物往来社 | 1977年 |
日本三大奇襲戦 | 厳島の戦い 桶狭間の戦い | 川越大事典 | 川越大事典編纂会 小泉功 | 国書刊行会 | 1988年 |
三大夜戦 | 表記なし | 日本名城紀行2 南関東・東海 | 小学館 | 1989年 | |
戦国三大合戦 | 厳島の合戦 桶狭間の合戦 | 日本合戦史100話 | 鈴木亨 | 中公文庫 | 1997年 |
日本三大合戦 | 表記なし | 歴史読本745 特集戦国7大合戦の謎と新事実 | 島遼伍 | 新人物往来社 | 2001年 |
三大夜戦 | 表記なし | 城が見た合戦史 | 二木謙一監修 | 青春出版社 | 2002年 |
少ない軍がはるかに多勢の敵軍を見事に討ち負かした例として、よく出されるいくさが三つある | 桶狭間の戦い 厳島の戦い | 目からウロコの戦国時代 | 谷口克弘 | PHP文庫 | 2003年 |