川越夜戦(1)


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「勝つ武将 負ける武将」 土門周平 新人物文庫 2013年 ★★
第一章 河越野戦 北条氏康◆山内憲政
 河越城の危機
 北条軍の兵法の根底
 「戦国大名」と「守護大名」の対立
 山内憲政の対北条戦略計画
 氏康の政略と足利晴氏の判断
 城中との連絡に決死の包囲網突破
 敵陣にむけた氏康の心理戦
 両者の状況判断のプロセス
 十倍の敵に対する必勝策
 寄り合い大大軍のもろさ

三択クイズで読み解く 「戦国合戦」武将たちの決断」 小和田哲男監修 PHP文庫 2008年 ★★
第一章 奇策が冴え渡る五つの名合戦
北条氏康の巧みな心理戦が際立つ一大夜戦
河越城の戦い
●北条氏の前に立ち塞がる大軍!仇敵を前に氏康がとった行動とは?

「古戦場往来」 大阪毎日新聞社学芸部 文有堂書店 1940年 ★★
 昭和15年発行の古い本です。あまり目にする機会のない本だと思うので、「川越の夜戦」の全文を記載します。最後に60年前の川越の様子も記されています。

川越の夜戦 北条氏関東制覇の鍵 八千騎で敵八万を粉砕す
     (一)
 日本歴史が三大夜戦と呼ぶものに厳島の夜戦桶狭間の夜戦。それと川越の夜戦がある。川越というと今日では東京の近所のおいもの産地としか知られていないが、四百年ほど昔、足利時代末期の川越は江戸とならんだ関東きっての大邑だった(といっても当時の江戸が僅か四五百戸の漁村に過ぎなかったのだが)川越は当時の関東管領上杉氏の地盤である上野、越後方面と鎌倉とを結ぶ交通の要地だったからである。この要衝なるがゆえに武蔵野は戦雲を呼び川越城はまさに一戦あるべき地となった。天文15年4月20日の夜から払暁に亘って行われた川越の夜戦は僅々八千騎の北条軍が扇ヶ谷山内の両上杉氏と古河公方足利氏との連合軍八万余騎を一挙に粉砕した戦史に稀なファインプレーだった。この一戦によって北条氏の関東制覇は成ったのである。だが今日のわれわれにとって時代は少し古きに過ぎる。まず当時の関東の情勢から歴史を辿ってみよう。

 南北朝合一の後に室町時代が来た。さきに鎌倉時代は幕府が鎌倉にあったため関東一帯はその統制下によく秩序を保っていたが、室町時代になって足利氏の幕府が京都に開かれたため鎌倉には別に関東管領が置かれ、その権力の衰えるにつれて群雄の角逐場となった。ことに応仁、文明の大乱には関東も麻のように乱れ、管領足利氏は下総の古河に走って古河公方といい、その家老の上杉氏も扇ヶ谷と山内の両家に分かれてそれぞれ相対峙した。川越城はこのころ文明年間に扇ヶ谷上杉氏の命でその家老の太田氏が築いたというに諸家の説が一致しているが太田道真とその子道灌のどちらだったかは明らかでない。文献によると「三の楼台、十二の城門備りて本丸は岡に寄り外廓は池水を背にし西南の二面のみ平地にして兵家のいうところの平山城の構えなり」とあり、江戸城に劣らぬ堅固な縄張りだったことが知られる。
 地理的にはちょうど武蔵国の中央。武蔵野大平野の北端にくらいし、地勢一帯平坦で西と南は遠く入間の平野に連接し東は荒川沿岸の低地となっている。その平地の一点に僅か数尺の丘陵の上に築かれた城だったが、本丸、二丸、三丸ほか曲輪、旧曲輪、新曲輪と分れた大規模の要塁で、上杉持朝以来扇ヶ谷家の居城として重きをなした。

 そのころ関東衰乱に乗じて彗星のように現れたのが小田原城の北条氏で、二代氏綱にいたって兵を武蔵野に進め、大永4年江戸城にあった扇ヶ谷上杉朝興を攻撃した。朝興脆くも敗れ江戸を捨てて川越城に入り天文6年4月陣没した。その子朝定は健気にも叔父朝成とともによく城を守り父の遺言によって仏事作善を廃し氏綱を攻めて江戸を回復しようとしたが、これを聞いた氏綱は機先を制して同年7月大軍を率いて来り攻めまず朝成を虜とした。朝定必死に防戦したがついに支ふる能はず川越城を捨てて松山城に入ったので、氏綱は部下剛勇の誉れある北条綱成を川越におき兵を引いて小田原に帰った。
 こうして旧勢力の上杉氏から新勢力の北条氏へ関東の形勢はまさに一変しようとした。狼狽したのは旧勢力の諸将である。宿怨を捨て同盟を結びもって侵入者に当ろうとした。そのリーダー格は、山内家の上杉憲政で、まずさきの敗将扇ヶ谷上杉朝定と連盟し他面、駿河の今川義元および古河公方足利晴氏と連衡して北条氏包囲の体制を整えた。そのころ小田原では北条氏綱没しその子氏康が継いだので、両上杉の連合軍は時機来ると見て関東諸州の兵を募りまづ常陸鹿島神社に戦捷を祈った後、八万余騎の大軍をもって川越城を包囲した。足利晴氏もこれに加わって出陣したので川越はいよいよ重囲中に陥った。
 晴氏はその妻が北条氏綱の娘だったのに敵方に加勢したのも北条氏の伸張を恐れたからで戦国の慣いとして是非もなかった。

 この雲霞の大軍を迎えて川越を守る城将は剛勇に聞えた北条綱成だった。
 綱成はもと遠江土方城主だった福島正成の子だが、父が今川義元に殺されたので小田原に走って北条氏綱に仕えしばしば武功を立てたので、氏綱はこれに娘を与え養子として北条氏の名を許したほどで、いつも黄染の練絹に八幡の二字を大書した旗を背標とし、戦いごとに勝ったので世間で黄地八幡と呼び恐れられていた。
 そこで大兵来襲と聞いても一向驚かず、手兵僅か三千騎をもって天文14年10月から翌年4月まで半年の間よく守りを固めてついに屈服しなかった。もっとも川越の名は河肥≠ノ起源するといわれるように農産物豊饒の地であり兵糧の貯えには事欠かなかったであろう。
     (二)
 川越城の危急を知った小田原には祖父の早雲、父の氏綱に優るとも劣らぬ智謀の氏康があり、上杉氏と今川氏から挟撃の窮境にあったが、まず西部の今川氏には駿河長窪に寡兵を遣して防戦せしめ、自ら手兵を率いて川越城救援の東方作戦に専念することとした。ところが敵の本陣とする川越南方一里の砂窪に近づき敵勢のあまりに多く到底味方に勝算ないことを知り和議を乞うほかに途ないと覚悟した。氏康はまづ叔母の夫に当る敵軍の一翼、足利晴氏に使者を遣して和親を求め、一方敵の主翼である上杉憲政には家臣菅谷隠岐守を使者として「川越の城兵の命を許してくれれば開城させる」と平和提唱(?)を持ちこんだ。
 だが氏康弱しと見た憲政、晴氏はともに和議を一蹴してこの際北条氏の息の根を絶とうとした。進退谷まった氏康はかねて同盟関係にあった武田信玄に相談したが、かねて駿河に野心のある信玄は「この際駿河はすてて川越を死守するがいい」と教え氏康をしてその駿河の侵地を今川氏に返還せしめた。もはや氏康に残された途は玉砕の外はない。彼は一夜沈思して起死回生の奇策を謀した。

 氏康はまず城主綱成の弟の弁千代を密使として城中にやり内外呼応して起つべき時を定め20日の夜月もようよう上るころわざと松明を持たず鑓じるしをつけ合言葉をきめ、大道寺、印浪、荒川、諏方など氏康麾下の将士たち上杉軍の砂窪の本陣めがけて一度にドッと斬り入った。 
 かねて手はずの城内でも黄八幡の旗翻した綱成以下決死の面々。城門を押し開いて斬って出で足利晴氏の陣地を急襲したので、晩春ものうき武蔵野の夜は一挙に矢籟雄叫の修羅場と化した。連合軍にあっては氏康の平和提唱から全くこれを軽蔑し戦意ないものとして全軍心を緩めていたので不意の夜襲に周章狼狽、扇ヶ谷上杉麾下の驍将として響いた難波田弾正をはじめ防戦つとめたが叶わず、弾正は阿修羅のように奮戦して城門に迫ったが、ついに刀折れ矢尽きて東明寺口の古井戸に落ちて死し、弾正の子隼人佐はじめ上杉軍三千余騎枕をならべて討死した。
 また父の遺志を奉じ川越城奪還を専念した上杉朝定が家老の太田資頼とともに悲壮な戦死を遂げ扇ヶ谷上杉家の滅亡を見たのはあわれであった。山内上杉の憲政は逃れ公方足利晴氏また綱成に破られて古河に退いた。

 この一戦は全く関東の運命を決定した。上杉方に属した松山城、鉢形城など附近の小さい城はみな北条氏に降り、また多摩郡瀧山城の大石氏、秩父郡大神山城の藤田氏らもみな風を望んで屈従した。氏康は勝に乗じて平井城に軍を進めたので憲政城をすてて越後に走りここに関東は全く北条氏の手に帰した。上杉氏は建長4年宗尊親王が将軍として下向されるに従って祖重房が関東に来てから永く名族として知られたがここに空しく後を絶ち、越後に逃れた憲政は長尾景虎(後の上杉謙信)に頼り上杉の姓と関東管領の職名とをこれに譲って北条氏への復讐を託し、自分は入道して余生を春日山に送った。
 その景虎が関東を管領しようとして越後から南下し、たびたび北条と戦ったのはこの因縁によるもので、暫く関東は北条、上杉、武田の角逐場となり、下って秀吉の小田原征伐によって関八州が家康の領となるまで戦国群雄の複雑怪奇を持続した。

 さて川越城は上杉壊滅の夜戦の後、大道寺直繁が綱成に代って城将となったが北条氏の民政よく長く戦禍を逃れ、これまでの外敵に備える意味を失って一の都市としての城と化し武蔵の中心地として物資集散所となった。天正18年徳川氏江戸に移るにおよび川越城は酒井重忠に与えられ、後に松平伊豆守信綱が城主となって大修理を加え城下町についても経営するところあり、その後たびたび城主をかえたが奥州棚倉より移った松平家の時代に維新を迎えて廃城となった。
 今日川越城の名残りとしては当時の玄関であった建物が武徳殿として僅かに昔をしのばせるのみで、城壁の一部−といっても石塁でなく土盛がソレと教えられてやっとわかる程度に残り、それも中学校や商業学校のグラウンド工事で影を失おうとしている。市のまん中どころ東明寺の境内には、川越夜戦難波田弾正戦死の地として標札が立ち、また川越郊外砂久保の南方福原村には氏康の陣地を記念して「陣場跡」と呼ぶ地名が残っている。武蔵野いっぱいに秋日和の美しい日、遠い昔のつはものを偲びつつ川越城趾を訪れると、今はグラウンドと化した古戦場は青年団の運動会で模擬演習の銃声が稲田の雀群を驚かせていた。
※川越夜戦の様子は、永岡慶之助の小説「北条氏康」の中で描かれています。
※この川越夜戦を題材にした推理小説が、松本清張の「黒い空」です。

「日本の歴史11 戦国大名」 杉山博 中公文庫 1974年 ★★
  不敗の将氏康
 天文十四年(1545年)八月、山内憲政らは連合して、一挙に北条氏康を潰滅しようとした。 今川義元は、氏康方の駿河長久保城を包囲し、甲斐の武田晴信もまた今川をたすけて氏康方を攻めようとした。 一方、憲政は扇谷朝定とともに北条綱成が守る武蔵河越城を奪いかえそうとしたのである。 その手はじめに、古河公方足利晴氏のもとへ使者を送って、晴氏に河越城攻略に加わるようにと、話をうまくもちかけた。 十月二十七日、晴氏は氏康に宣戦した。以後河越城は半年にわたって憲政・朝定・晴氏の八万余の大軍に包囲され、まったく孤立して、落城は目に見えていた。 天文十五年(1546年)四月、氏康は、周囲の敵に対し、長久保・小田原・三浦とその兵力を分散していたが、馬廻りの手勢八千余騎をかきあつめ、河越城に急いだ。 砂窪まで来てみると、城は今にも落ちそうであったが、兵力の差は十対一である。尋常では勝ち目はない。一計を案じた氏康は、晴氏・憲政それぞれに 「籠城の兵の命ばかりは助けてくれ、そのかわり城と領地は進上する」と、懇願した。 敵は氏康がすっかり参ったと思い、油断した。四月二十日の夜、計略の当たったところで、軽装の精兵で斬込み隊を編成、敵陣深く潜入させ、一度にどっと駈けまわり、切りまわらせた。 落城も近いと油断していた晴氏・憲政・朝定の連合軍はあわてふためき潰走した。 扇谷朝定は二十二歳で戦死、憲政は上野平井城へのがれ、晴氏は古河に逃げ帰った。 世に名高い「河越の夜討ち」(天文の乱)の概略である。

「戦国史疑」 桑田忠親 講談社文庫 1984年 ★★
歴史は時によって、その視野に意外な死角をもたらす。この視野狭窄は、動乱の時代であればあるほど、多様な疑惑や謎の深淵を残すことになる。戦国時代!その一見確からしき史実の裏に何が隠されているか。不明のまま置きざりにされた戦国史の闇に、著者は鋭い光を当てる。(カバーのコピー)
  戦国七人の首取り武将/北条氏康の河越夜襲戦

 つぎに、小田原北条氏三代目の当主北条氏康の場合を紹介しよう。小田原北条氏は、伊豆の北条を根拠として相模に進出した早雲をもって一代目とし、相模の小田原城を本拠とし、武蔵へ進出して、関東管領扇谷上杉氏の居城河越をおとしいれた氏綱をもって二代目とするが、三代目の氏康は、天文十年(1541)、二十七歳で、跡目を相続し、同じく扇谷上杉氏の居城である江戸城をも奪い取った。そのため、扇谷上杉氏は次第に衰微していったが、上野の平井城(群馬県藤岡市)を居城とした山内上杉氏の当主憲政も、時勢の推移に関する認識にうとく、関東管領の虚名に酔いしれ、京都から白拍子を招き、日夜、遊興に耽っていた。ところが、北条氏康が聞きしにまさる名将であり、上杉氏の属将が殆んど氏康に内通しているという噂を耳にすると、上杉憲政は、当時、北条氏と敵対関係にあった駿河の守護大名今川義元と結び、同十四年(1545)の八月、扇谷上杉朝定と協力して、河越城の奪還をはかったのである。古河公方足利晴氏も、憲政に味方した。
 九月になって、上杉憲政は、六万五千の大軍を率いて上野の平井を出発し、武蔵の河越城を包囲した。十月に入ると、足利晴氏も二万の軍勢で河越に着陣し、憲政を援助した。寄せ手は合わせて八万五千。十重、二十重に包囲された河越城は、糧道を断たれ、城将北条綱成以下三千余の兵士が城門を開いて降伏するのも、時間の問題と思われた。寄せ手の軍勢は、いまは、ただ、時間を待っていればよかったが、それだけに、余暇を持て余した。そして、酒宴と遊興に耽溺した。しかし、実は、これが北条氏康の仕かけた謀略であった。酒と女を上杉方の陣中に送りこみ、戦意の低下と軍律の弛緩をはかったのである。が、それに気がつかない上杉憲政は、長陣にあきて、平井館から自慢の白拍子の美女を呼びよせたりしている。
 いっぽう、北条氏康は、河越城を守る北条綱成の弟で氏康の小姓をつとめていた福島勝広という若侍を河越城内に忍びこませ、城を固守して援軍の到着を待つようにという氏康の意向を城将に伝えさせた。城内の将兵は、これを知って、急に元気づいた。そこで、氏康は、駿河の今川義元に使者を送って、交渉をかさねた末に、義元と和睦し、後顧の憂いを除くことにも成功すると、天文十五年(1546)の四月、八千の精兵を率いて、河越城の救援に向かった。
 氏康は、上杉憲政の本営のある砂窪から一里余南の三ツ木に陣取ったが、弱音を吐いて上杉方を油断させ、さらに、入間川の南に少数の兵を出して、戦いをいどみ、上杉方が攻勢に出ると、一戦にもおよばずに、南方へ遁走させた。しかも、そんな小細工を四度も行ない、敵の大軍を慢心させることに成功した。氏康は、なおも、忍者に敵情をさぐらせ、北条軍が一両日中に三ツ木から退散するだろうとの噂が流れていることを確かめると、四月二十日の夜、八千の軍勢を四隊に分け、そのうちの一隊を三ツ木に残し、あとの三隊をもって、砂窪の上杉憲政の本営に近づくと、大喊声をあげて突入したのであった。不意を衝かれた上杉軍は、たちまち大混乱に陥り、総大将憲政は一戦も交えずに上野の平井に遁走し、扇谷上杉朝定は討死をとげた。河越城将北条綱成は、城外に撃って出て、古河公方の大軍を潰走させた。
 この夜襲戦に、北条氏康は、自ら薙刀を振るって奮闘し、敵将十数騎を斬った。上杉軍の戦死者は、名将三十数騎を含めて一万六千人に達したが、北条方の損害は百名に満たなかったという。名将氏康の首取りぶりのすさまじさは、言語に絶するものがあったのである。

「日本の合戦なぜなぜ百貨店」 歴史読本特別増刊 新人物往来社 1985年 ★★
 少兵力の北条氏康軍が河越夜戦で勝てたのはなぜ?
 天文十四年(1545)から十五年にかけて北条氏と上杉氏が対抗していたが、ついに扇谷朝定山内憲政の両上杉連合軍が、古河公方足利晴氏を奉じて、北条氏康の将北条綱成が守る武蔵河越城を攻めた。
 河越城はもと上杉朝定の居城であったが、氏康の父氏綱に攻め落とされ、その奪還を図ろうとしたものであった。城将綱成は三千余騎で立て篭ったのに対し、上杉連合軍八万余騎は十重二十重に包囲し、糧道を断って孤立させた。小田原の氏康は援軍を派遣しようにも城中に入るすべがない。
 氏康は、晴氏や憲政へ和解の申し入れをしたが、優勢な上杉軍は受け入れない。氏康はその後、入間川の南まで進撃して様子をうかがうと、上杉軍が攻めかかってきたので、戦わずして小田原へ引き揚げた。スパイを放って敵はどう思っているかと調べさせると、氏康は逃げたとあざけっているという。
 その後も氏康はしばしば入間川まで出陣しては引き揚げる。敵方は、氏康が出てきても、いちいち相手にするな、という情報である。
 敵の油断をみすますや、氏康は馬廻以下八千余騎を集め、白い紙を肩衣のように作り、それを鎧の上にかけさせ、「わが軍はつねに力を合わせ、寡をもって衆にあたってきた。皆はただわが向かうところについてこよ。白い紙をつけていない者はただ斬れ、首は斬り捨てにせよ。また斬りかけている最中でも、貝の音が聞こえたら即刻引き揚げ、集合せよ」と厳命した。
 四月二十日の子の刻(夜中の十二時)、上杉軍に斬り込みをかけた。憲政軍は一戦にも及ばず敗走した。城中の綱成はこれをみて城戸を押し開いて打って出、晴氏軍を敗走させた。
 ほら貝の合図で全軍引き揚げたが、すでに早朝に及んでいた。敵の反撃があるだろうと、氏康は河越城に入らず松山城へ引き揚げた。
 討ち取った敵は朝定はじめ一万六千、味方の討死は百人にみたなかったと、古記は伝えている。篭城者の論功行賞を行い、氏康は小田原に凱旋した。
 以後、関東の諸氏は北条氏に誼を通ずること多く、覇権を確立するもととなった。

「日本合戦史100話」 鈴木亨 中公文庫 1997年 ★★
39川越城の合戦−北条氏康、決死の夜襲
 川越城は代々扇谷上杉氏の居城であった。天文6年に扇谷朝興が死ぬと、わずか13歳の朝定が城主となった。このころすでに武蔵に進出して江戸城を奪っていた北条氏綱は、いまこそ扇谷氏を討つ好機とばかり川越めざして進撃した。
 7月11日に両軍は三ツ木原で対決したが、扇谷方は大将扇谷朝成(朝定の叔父)が捕らえられて敗走した。氏綱は進んで川越城に襲いかかり、ついにこれを陥れた。そして一族の北条綱成を城代として入れた。
 氏綱は天文10年に没して、その子氏康が三代当主となった。北条氏の勢力は日に日に盛んになって行く。
 これに脅威を抱いた平井城(群馬県藤岡市)の山内上杉憲政は天文14年9月、6万5千の兵をひきいて川越城の攻略に向かった。つづいて古河公方足利晴氏が2万の兵をひきいて出動し、扇谷朝定の手勢もこれに加わった。 山内は城の南方砂久保に、扇谷は北方の東明寺付近に、古河公方もその近くに布陣して、ここに川越城の大包囲網が完成した。
 このころ北条氏康は駿河の今川氏と事を構えていたが、天文15年(1546)に入って今川氏との和睦が成ると、ただちに川越城の救援に赴いた。 しかし古河公方と両上杉の連合軍8万余にたいして、北条方はわずかに8千で兵力の差がありすぎた。
 そこで氏康は調略を用いる。足利晴氏にたいし、城兵の命を助けてくれるならば城を明け渡すと和議を申し入れたのだ。 相手を小敵と侮る連合軍はこの申し出を一蹴した。北条氏なにするものぞとの傲りが陣中に満ちた。
 次いで氏康は一部の兵を出撃させたが、上杉憲政の兵が攻撃してくるとたちまち退却した。 このために連合軍はますます北条方を侮るようになった。
 そこを見すまし、4月20日の夜半、氏康は果敢な攻撃を決行した。鎧に白い布をつけて目印とし、敵を倒しても決して首級を挙げないことを徹底させ、連合軍の陣中に突入したのだ。
 不意を衝かれて連合軍はたちまち大混乱に陥った。城内からも北条綱成の手勢が討って出て、北方の東明寺に布陣する扇谷朝定の陣に襲いかかった。 乱戦の中で朝定は討死し、扇谷上杉氏は滅び去った。山内憲政も3千余人の死者を出して平井城に逃れた。 足利晴氏も古河へ引き揚げた。この合戦は厳島の合戦桶狭間の合戦と並んで戦国三大合戦の一つに数えられている。
 こうして氏康はわずか8千の兵で十倍余の連合軍を打ち破り、武蔵の前線基地を守り抜いた。そしてこの勝利をきっかけに、北条氏の関東制覇に一段と拍車がかかって行った。

「戦国合戦事典 応仁の乱から大阪夏の陣まで 小和田哲男 PHP文庫 1996年 ★★
 合戦とは、人間が己れの生死を賭けた興味尽きぬ極限ドラマである。本書は、「川中島の戦い」「関ヶ原の戦い」など著名な合戦から、その地方にしか知られていない小さな戦いに至るまで、140余りの合戦を収録。 戦いの背景・経過・結果に加え、イラスト、合戦図、史跡案内なども付して、戦いの様子が手にとるようにわかる。 歴史小説、時代劇が10倍楽しめるコンパクト事典の決定版!(カバーのコピー)
河越の戦い(河越夜戦)  天文15年(1546)
 筆者は、下記のような史料を示して、つぎのように記述しています。
 史料によっては、合戦のあった年および月日に相違があり、果たして天文15年4月20日に、このような戦いがあったかどうか疑問が提起されるようになり、 最近では、前後におこった何回かの戦いが、天文15年4月20日の一日の戦いに集約されたのではないかとする考え方が有力である。
 「史料にあらわれた河越の戦い」
  [戦いの年月日]         [出  典]
・天文10年(1541)       北条氏康感状(大藤文書)
    10月末〜11月初       〃     (平之内文書)
                  北条氏康感状写(諸州古文書)
                     〃     (須藤并重田文書)
                     〃     (古今感状集)
                     〃     (感状写)
・天文12年(1543)4月      歴代古案
・天文12年(1543)9月26日   北条記・関八州古戦録
・天文13年(1544)4月20日   北条記
・天文14年(1545)9月26日   関八州古戦録・鎌倉九代後記・喜連川判鑑   
・天文15年(1546)4月15日   太田家譜
・天文15年(1546)4月20日   上杉憲政書状写(武家事紀)・鎌倉九代後記
                   ・関八州古戦録・喜連川判鑑・北条五代記

「歴史おもしろかくれ話」 小和田哲男 知的生きかた文庫 1990年 ★★
 ・日本三大夜戦の一つ、河越夜戦の顛末は?
 「河越夜戦のことを深く調べていけばいくほど、河越夜戦そのものが遠くにいってしまうという矛盾がある」として、 関東戦国史に詳しい伊禮正雄氏の考えを紹介しています。
(1)関連文書が皆無であり、河越夜戦があったことを裏づける信用できる史料がない。
(2)大合戦にはつきものの信用できる感状もない。
(3)軍記物の記述はそれぞれ相違しており、敵味方の陣地の記述もまちまちである。
(4)天文6年(1537)7月20日に討ち死にしたはずの難波田弾正が再度登場している。
(5)『北条五代記』の合戦の記述は夜戦ではなく、日中の戦いの描写である。
(6)戦いの時期の記述がいろいろあるのも不思議であり、これは同一の大戦争ではなく、いくどかあった戦いを編集創作したものであろう。
(7)元来、合戦に慎重な北条氏としては、理屈に合わないところがある。 味方に十倍する戦いを北条氏が仕掛けたことは理解にくるしむ。
 このように7点にわたって矛盾点をあげ、(6)のところで結論的に述べているように、何回かの河越付近を舞台にしてくりひろげられた戦闘が、 天文15年の4月20日の1日に集約されたと考えたわけである(『関東合戦記』新人物往来社)。
 著者は、「伊禮正雄氏の考え方が、存外真実だったのだではないかと考えている」と述べています。

「戦国武将 知れば知るほど 小和田哲男監修 実業之日本社 1996年 ★★
 北条氏康・必勝の戦術 持久戦の雄は奇襲戦にも長ず
 河越の合戦 烏合の衆の虚をつく乾坤一擲の夜襲
 ◆北条・上杉、対立の構造
 天文十五年(1546)の河越の合戦と呼ばれる戦いは、北条氏康が敵対する関東管領の山内上杉憲政の一瞬の隙をついた奇襲で勝利を収めたことで有名であり、北武蔵の覇権を握った画期的な合戦であった。
 しかし、河越の合戦はこの一夜の夜襲のみで語られるものではなく、まずはここに至る経緯を簡単に説明しておこう。
 早雲の跡を継いだ二代氏綱は、大永四年(1524)には武蔵進出を果たし、これまで扇谷上杉朝興が支配していた江戸城を攻略した。これと同時期に氏綱は、早雲の代には称することがなかった北条姓に改姓した。
 この理由は、鎌倉幕府の執権で、武蔵及び相模の国司を歴任した鎌倉北条氏の伝統を継承することで相武支配の正当性を主張し、室町幕府の関東支配体制である関東公方―関東管領ラインと対抗しようとしたためと考えられよう。つまり双方の対立は、まさにこの両者のゆずらぬ権威主義に争点があったといえるのである。
 
 ◆失地回復を策す上杉憲政を越後へ逐う
 さて氏綱は、天文六年には扇谷上杉氏が本拠としていた河越城の奪取にも成功した。そしてこれ以後、河越城は北条綱成が守り、北条氏の武蔵における前線基地の役割りを果たすことになった。
 天文十年、北条氏の家督は嫡子氏康に相続された。これに対し上杉憲政は、関東公方足利晴氏を擁立し、失地回復を賭けて北条氏に抗戦を挑んだのであった。
 北条氏の侵攻をくい止め北武蔵を確保しようとする憲政は、同十四年、駿河の今川義元と盟約し、北条氏が支配している駿河長久保城を今川氏に攻撃させ、これに時期を合わせて河越城を奪還しようと出陣した。六万あまりともいわれる関東の諸将を大量に動員した上杉勢は、河越城の四方を完全に包囲した。城内には北条綱成以下数千の城将が籠城していたが、これらは兵糧攻めによって、はなはだしい困窮に陥った。
 そのため十五年四月、氏康は、いったんは城の明け渡しを条件に籠城者を助命する講和を申し出た。この提案に合意はなかったが、これはむしろ敵を油断させる謀略で、八〇〇〇という救援軍が、砂久保という地に陣を敷いた。
 対する上杉勢は、六万の大軍である。そこで氏康は、夜討ちの作戦を考えた。笠原信為に命じて敵陣へ忍びを放つと、上杉方は安心しきっているとの報であった。この一瞬の隙が、この先の展開を左右したといえるかもしれない。
 氏康は二十日の夜中、上杉勢の虚をついて城内外から上杉勢に夜襲をかけた。敵と味方を区別するため、白い布か紙切れをつけての襲撃だったという。次々に上杉方に斬り込んだ。そしてこれに励まされた綱成以下の籠城兵も三〇〇〇の兵で一気呵成に城外へあふれ出て、足利晴氏の陣所を襲った。不意をつかれた上杉勢は、烏合の衆があわてて同士討ちする混乱もみえ、上杉朝定ら名のある武将も討死となり、大敗を喫したのであった。
 この戦勝ののち、氏康はさらに上杉氏の支城・松山城をも攻め陥し、河越、松山の両城は北条氏のものとなった。上杉憲政は平井城を拠点に抵抗したが、天文二十一年、越後の上杉謙信のもとへ救援を依頼するほかなかったのである。

「戦国武将の情報戦略」 大西文紀 アイペック 1986年 ★★
 四章 情報戦のテクノラート/関東の乱波・風魔党
    (前略)
 乱波風魔がいかに脚が速かったかという話がある。
 北条氏康河越城合戦で山内・扇谷上杉氏を攻めおとしたのは天文十五年(1546)である。氏康は鉄砲と乱波を用いたことで有名である。このとき活躍した乱波風魔の一人に二曲輪猪助という忍者がいた。
 かれは仲間うちでも「骨張り」といわれて怖れられていた。忍びの名人で、また気骨のある忍者であった。猪助は氏康の命をうけて、北条綱成が守る河越城を取り囲む敵陣に忍び込んだ。城はすでに敵の上杉方によって厳重に包囲されていた。敵軍の構成は上杉軍と古河公方の連合軍である。潜入するのに都合よく、猪助は雑兵の一人をひそかに襲って、その衣類に着がえ扮装し、上杉方の者になりすまして、連合軍の状況を詳細に氏康のもとへ報告した。
 ところが戦線が膠着し、両軍のにらみ合いが長くつづいているうちに、猪助は「怪しい奴」と正体を見破られてしまった。
 かれは敵の包囲を破って一目散と、小田原目指して駆けに駆けた。これを古河公方の忍者太田犬之助が追いかけた。この犬之助がまた早い。猪助のすぐ後まで、またたく間に迫ってきた。猪助も早いが犬之助も韋駄天だ。
 猪助は前もって見つけていた家に来ると、繋いであった馬にまたがり腹を蹴って疾駆し、ようやく犬之助を振りきって味方のいる小田原陣地へ逃げのびることができた。
 それからしばらくして猪助は奇妙な噂を耳にした。敵陣地内で落首が話題となっているという。
「かり出され、逃げたる猪助卑怯もの、能くも太田が犬之助かな」 
 この一首の中の「太田」は「追うた」に掛けた意味である。
 これを知った猪助は口惜しくて仕様がない。ある日、矢文を放って、犬之助に「早足勝負」を申し込んだ。太田犬之助も挑戦を受けてたった。二人は十里(約四十キロメートル)の道を駆けくらべした。
 結果は猪助がみごとに勝利を得た。犬之助は力つき、ゴール寸前で息絶えた。
 猪助はその後、伊賀へ行き、風魔乱波の忍術を伝えたといわれている。

「日本忍者列伝」 縄田一男編 大陸文庫 1992年 ★★
 暗闇の中に妖しく光る眼、山野を風のように疾る黒い影……。伊賀、甲賀、風魔、そしてお庭番と、いづれ劣らぬ強者どもが、鍛え抜かれた忍術、あるいは妖術で技を競う。歴史の裏側に生き、主命に殉じていった忍びたちの生きざまを描く秀作八編を収録。時代小説の醍醐味にふれる珠玉の名作、傑作、いま蘇る!!(カバーのコピー)
伊賀者大由緒        五味康祐
   一
  (前略)
 服部半蔵の場合は、師匠は父の服部保長(通称半三)であることに間違いなさそうだが、半蔵以上の術者だった久蔵のそれは、今ではもう分らない。一説には二曲輪猪助だろうかと言われる。
 二曲輪猪助というのは、相州の風間小太郎から忍術の指南を承けた忍び者で、こんな挿話がのこっている。
 天文十二年のことだった。
 河越の城上杉憲政が大挙して攻め囲んだとき、上杉を援けて出陣した足利晴氏の陣中に河越城から密命を受けて忍び入っていた三人の忍者があった。その中の一人が猪助である。
 猪助は忍び仲間でも骨張りと言われた敏捷の人物で、なかなかに腕も立った。敵陣へ忍び込んで以来、諜報をさぐっては巨細に河越城主(北条綱成)へ報じる。
 ところが、月を重ねているうちについに露顕してしまい、その居所を襲われて将に捕らわれんとした。しかし、猪助もさる者で、かろうじて敵の重囲を逃れて南を差して駆け出した。その捷さ、飛鳥の翔けるが如くであった。
 ところが、敵軍の中にも太田犬之助という足の速い者がいて、逃がしてなるものかと猪助の跡を追う。
 猪助は関東道を五、六里も駈け続けたが、後れず犬之助は追って来た。忍者の本意として、犬之助を待ち受けて、これと闘うことは採るべからざる策である。功名手柄は無用であって、ただ命をまっとうして逃げのびるが忍者の面目だ。
 猪助は何とかして逃げきろうと努力したが、次第に精根も尽き果て、まさに捕われようとした、その時ふと、道の脇を見ると農家に馬が一匹つないである。
 「やむを得ぬわい……」
 猪助は一言叫んで、刀を抜いて綱を切るが早いか、ヒラリと馬に打乗ってヒタ走りに走り、ついに犬之助を引離した。忍者は普通、一日約四十里を走る。標準は笠を胸に当てて落ちない捷さである。それでも四つ足の馬には及ばぬ道理だから、常人が馬で逃げたのなら分るが、忍者ともあろう者が敵に追われて馬を用いたというのは、大変な恥辱である。
 猪助はそれで、このことを非常に恥じ、城主北条氏に願い出て、以来役目を辞した。そうしてあらためて単独で犬之助との術の勝負を申込んだ。当時、猪助が馬で逃げた噂は上杉方に伝わって、
 「駆出され、逃げたる猪助比興もの、能も太田(追うた)が犬之助かな」
 と、いう落首が陣中に張られていた。
 犬之助はいさぎよく猪助の挑戦を受けた。両人は同時に河越から西へ向って走り、精根のつづくまで走った。ついに犬之助は疾走しつつ息絶えたという。
 武士とちがって、その狡猾を忌み嫌われた忍者達にも、当時はまだそういうユーモラスな風格があったのであろう。さて猪助はこののち北条氏康の懇請を拒けて伊賀に移り住み、両張久蔵を指南したわけである。
 久蔵が、服部半蔵とほぼ同年とすれば服部の没したのは慶長元年十一月十四日で(この日付を彫った墓がもと東京四谷区寺町六番地西念寺に現存している)その時、服部半蔵五十五歳だったというから、猪助が犬之助に追われた天文十二年ごろ、久蔵わずか二歳ぐらいの見当になる。
 それでも年代的に猪助が久蔵の師であっても不自然でないから、稀代の忍者と謳われた久蔵の師を二曲輪猪助とするのは至当だろう。

「日本名城紀行2 南関東・東海」 小学館 1989年 ★★
 川越夜戦
 川越(河越)城は長禄元年(1457)に、扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築かれたといわれる。初雁の城だ。
 道灌は築城の名手で、彼の縄張りした城は「道灌がかり」とまでいわれている。しかしじっさいはどの程度のものだったか、虚名のみ高く具体的な伝承に乏しい。有名な足軽戦法にしても、かなり訓練した常備兵だったとは想像されるが、よくわからない。だが築城といい足軽戦法といい、ともに太田道灌の戦術家としての面を象徴するものであり、先駆的な武将だったことがわかる。
 長禄元年といえば、道灌が家督を継いだ2年後にあたる。当時道灌は武州荏原(えばら)郡品川(東京都)に居を構えていたが、翌年には江戸城の構築にとりかかり、1年でほぼ完成しているから、それと前後して川越城を築いたものと想像される。川越城の構築は、利根流域の古河地方に根拠をもつ古河公方足利成氏に対抗するためのもので、江戸・川越・岩槻(岩付)などを結ぶ防御線の一環をなした。
 以後6代、80年の間、川越城は扇谷上杉氏の居城だったが、朝定の代に、関東へ進出してきた小田原の北条氏に敗れ、朝定は松山城に走った。こうして川越城は北条氏の属城となり、氏康の将北条(福島)綱成が守備することとなる。
 扇谷上杉朝定山内上杉憲政は、ながく確執をつづけてきたが、北条氏の関東進出に対しては共通の脅威を感じており、古河公方足利晴氏を味方に引き入れ、川越城の奪還作戦にのりだした。そして8万の大軍を動員して川越城に迫るのは天文(てんぶん)14年(1545)9月のことだ。
 城の守将、北条(福島)綱成はすぐさまそのことを小田原の北条氏康に連絡した。急報に接した氏康は、翌天文15年に入ると、手兵8千を従えて救援に赴いたが、両上杉・古河公方の連合軍はそれを迎え、入間川を間にして両軍は対峙(たいじ)した。
 しかし氏康は、なぜか一戦も交じえずに兵をもどしたので、上杉方の将兵は、
 「さしもの北条勢も、大軍に恐れをなし、戦わずして逃げた。氏康はかねて名将の誉れ高い人物と伝え聞いていたが、この腰抜けぶりはどうしたことか」
と、あざ笑った。
 このうわさは、やがて人を介して氏康の耳にも入ったが、それを聞くと、
 「敵はわが計略にまんまとはまった。驕(おご)りたかぶった彼らのさまこそ、思うツボだ」
と膝をたたき、夜襲の計を部下のものに授けたという。
 『常山紀談』(じょうざんきだん)(岡山藩士湯浅常山が32歳のときにまとめた名称勇士の武勇伝)には、そのおりのもようをつぎのように述べている。
 「氏康の云ふやう敵既に驕(おご)る時こそ喜(よ)しと。其夜将士を集(つど)へ親(みずか)ら之に誓って曰く。吾れ聞く戦ひの道衆(おお)しと雖(いえど)も未だ必ずしも勝たず。寡(すくな)しと雖も未だ必ずしも敗れず。唯(ただ)士の心の和すると否との如何(いかん)を顧みるのみ。……」
 敵は10倍近い勢力だが、寡勢だとみてあなどっている。入間川の線まで進出しながら、兵を返したのは、敵を油断させる計略だった。相手が10倍の兵力なら、ひとりが敵の10人を倒せばよい。――氏康はそのように部下をさとし、鎧の上に白い布をゆわえつけるよう全軍に命じた。夜戦となれば、敵味方の区別がつけにくい。白布をつけていないものはすべて敵とみなして倒せというわけである。
 また巧名(手柄)をたてようとして、敵の首級(これが当時は巧名の証拠とされた)を取る余裕があったら、ひとりでも多くの敵兵を倒すよう心がけよとも下知(げじ)しており、夜戦の心得としては、みごとなものだった。
 こうして油断しきった上杉勢の寝込みを襲い、闇のなかであわてふためく相手をつぎつぎに倒し、敗走させた。不意をくらった上杉勢は、つないだ馬に鞭打ったり、弦(つる)の切れた弓を取ったり、あるいは一本の槍を2、3人で相争ったり、てんやわんやの大騒ぎで、上杉朝定は混乱のなかで討死、上杉憲政は上野平井(こうずけひらい)(現在の群馬県藤岡市)へ敗走、足利晴氏も兵をまとめて古河へもどるといったさんざんな目にあったのである。
 上杉勢を破った北条氏は、川越城を確保し、つづいて松山・岩槻・忍・本庄などの諸城を従え、半世紀余にわたって関東に勢威をのばすが、この北条時代も豊臣秀吉の小田原攻めで終止符をうたれる。
 入間川で対峙したとき、たんに兵を返しただけでなく、ひそかに上杉連合軍へ使者を送り、和睦(わぼく)を申し入れ、二重・三重に対手を油断させたとか、いよいよ夜襲をかけるというときに、北条勢に病気がひろがり、死者が続出したが、突然、牛頭(ごず)天王(疫病を除く神)が現われ、氏康が必死に祈ったかいがあって回復、総攻撃にかかったなどという伝承も残っている。
 三大夜戦のひとつに数えられる「川越夜戦」の激戦地は、東明寺のあたりだという。大きな銀杏の樹の下に戦跡を示す標柱が立っている。

戦国大名後北条氏の研究」 杉山博 名著出版 1982年 ★★
V 後北条氏の支城支配/十一 後北条氏の藤沢支配(玉縄城とその周辺)/(一)玉縄城とその城主/北条綱成とその文書
 (前略)
 周知のように、北条流の兵法は、綱成末裔の北条安房守氏長(1609〜1670)によって集大成された。そして『関八州古戦録』(享保十年〔1725〕編)などの軍書をよむと、それはまるで玉縄城主の代々のために編さんされたのではないかと思われるほどに、玉縄三代(綱成―氏繁―氏勝)のことが詳しい。おそらく江戸の初期・中期における玉縄三代への回想が、北条流の軍学の盛行とともに、流行したのではあるまいか。
 その結果、玉縄北条氏と密接な関係のあった堀内家や二伝寺などに、綱成の享禄元年(1528)の玉縄入城説や享禄四年(1531)の氏時の死没説や、天文七年(1538)の河越合戦説などが、伝播されていったのではあるまいか。とくに河越合戦については、『関八州古戦録』自身が、「異本の説にいわく」として、つぎのように述べているのは、興味深いことであろう(巻之第一「福島伊賀守勝広駈入河越城之事」の項)。
 河越の夜戦は、氏康廿四歳(したがって綱成も二十四歳)天文七年戊戌七月十五日の事なり。福島勝広も弁千代丸と号して十八歳、いまだ元服せず。氏康の小姓たりし時なりといふ。今案するに天文七年の軍は、河越の城邑三木におゐて、上杉朝定と氏綱の合戦なり。氏綱切勝て河越の城をも乗取、朝定松山へ出奔。其後、福島左衛門大夫、彼城を守て、丙午(天文十五年)に至れり。
 旧記紛擾して前後の闘戦混雑したるものなり。氏康の夜戦に於ては、この歳丙午(天文十五年)四月廿日を実説とすべし。然れば弁千代丸年齢の事、父兵庫大永元年討死、是もまた胡乱ならず。その年その日その刻(大永元年十一月三日をいう)武田晴信出生、父信虎嘉賞して小字を勝千代丸と号すと云へり。彼是を以て異同を分ち考ふべきものなり。
 北条(福島)綱成の弟の勝広が生まれ、武田信玄が生まれたのが、大永元年(1521)という年であり、綱成や勝広の実父の正成が、武田信虎の軍勢と甲斐の飯田河原(甲府市飯田町)や上条河原(中巨摩郡敷島町)で戦い、ついに戦死したのも、大永元年であった。このことは「胡乱ならずで」正しい。しかし河越夜戦については、「旧記紛擾、前後混乱」と指摘している。
 その指摘のように、天文七年(1538)十八歳となった勝広が、はたしてこの年に、諸書にみえるような活躍をしたであろうか。第一、天文七年の河越合戦などというものが、はたして行われたであろうか。この点に多くの疑問が残されている。
 快元僧都は、氏綱の武州出陣を、天文六年(1537)七月十一日とし、河越合戦を七月十六日、松山城攻撃を七月二十日のこととして記述し、天文七年(1538)の七月には、なんの合戦の記事も書いていない(『快元僧都記』)。
 この記事から考えても、天文七年の河越合戦、とくに福島勝広や堀内重親らの活躍物語は、十分に再考することが必要であろう。
 綱成が、天文六年(1537)か七年(1538)かのいずれかの年に、河越城に入城し、それより天文十五年(1547)までの九年か十年間を、河越城の城代として死守したことは考えられる。そして河越夜戦の後、玉縄城に帰城したことも事実であろう。そして天文二十年(1551)ごろからは、名実相備わった玉縄城の名将として、活躍したことも、確実な史料によって浦づけることができる。
 (後略)
V 後北条氏の支城支配/十一 後北条氏の藤沢支配(玉縄城とその周辺)/(二)藤沢周辺の武士と郷村/福島伊賀守の武勇談
 福島伊賀守は、『北条記』や『甲陽軍鑑』や『関八州古戦録』などに、しばしばその名をあらわしている英雄的人物である。とくに天文十五年(1546)の河越合戦や、天文二十年(1551)の平井城攻略のときの軍忠は、まさに殊勲いちじるしいものであった。『関八州古戦録』(巻之第一)は、「福島伊賀守勝広河越城に駈け入る事」の条で、勝広の生い立ちについて、つぎのように述べている。
 彼は福島兵庫頭(正成)甲州南の郡にて討死せし時、当歳(大永元年=一歳)の嬰児たりしを従者の扶育によって、兄綱成と一所に小田原へ立去り、童形に至て容色又なく美麗の形、氏康の膝元に狎れしめ、韓嫣戚孺が寵を得たりしかば、今以て傍輩にぬきんで出頭の利者なり。(中略)
 福島は、今年(天文十五年)廿六歳、元来美男微弱なるが、武勇は舎兄綱成にもをさをさおとるまじき健者、氏康の密旨を承諾し座を立て宿所へも帰らず、忍びの者を招き寄せ、敵陣にての相詞を尋問ひ、腹巻の上に直垂を着し、小田原を乗出して河越へぞ趣きける。すでに敵間近く馳せ着き、舎人・若党をも南方へ追戻し、只一騎大軍の打囲みたる陣中を馳通り、難なく城門へ乗り着きたり。忠義の通を感通して、軍神の加護をや蒙りけん。数万の敵兵一人として咎め怪しむ者なく、綱成が軽卒の隊長たりし木村平蔵、外張の柵際に居たりけるが、是を見付け馳来てり城戸を開いて引入たり。綱成悦びて対面し謀略の次第を一々に聞き届け、主命を諸士に伝えければ、城中たちまち色を直し、上中下に至るまで、意気揚々、たくましく後詰おそしと待ち明しけり。
 天文十五年(1546)四月二十日の河越城の戦いは、こうして福島勝広の単身城中潜入によって勝利したという。勝広が、忍者の協力によって、兄の籠城する河越城に潜入した勇敢な働きぶりは、こうしてのちのちまでも語りつがれたわけである。合戦後に、氏康は、綱成・勝広兄弟を招いて、綱成の長籠城の辛苦をねぎらうとともに、勝広の身命をなげうっての働きを賞したという。ときに氏康と綱成は三十二歳、勝広は二十六歳の若さであった。
 (後略)
V 後北条氏の支城支配/十三 江戸城とその周辺/(一)江戸衆と滝山衆/氏康の武蔵支配
 河越の夜討 氏綱の跡を継いだ氏康の三十年間(天文十年〔1541〕より元亀二年〔1571〕まで)に、武蔵は、その大半が、氏康によって支配されることになる。しかしそれは、一挙にしてそうなったのではなかった。河越城の争奪が、彼我の運命を二分した。
 天文十四年(1545)八月、山内憲政は、今川義元とはかって、氏康方の駿河長久保城を攻めた。甲斐の武田晴信も、義元にくみして長久保城攻略を支援した。憲政自身は、扇谷朝定とともに、義元・晴信の長久保城攻略の後詰として、氏康の義兄弟の北条綱成が守る河越城を包囲して、これを一挙に奪回しようとした。
 憲政は、古河公方の足利晴氏をも、この河越城攻めにだきこんだ。十月二十七日、足利晴氏は、氏康との同盟関係を破棄して憲政方に応じた。いまや北条綱成の守る河越城は、山内憲政・扇谷朝定および足利晴氏の八万余の連合軍に包囲されて、籠城六カ月に及び、風前の灯火にひとしかった。
 氏康は、当時、その兵力を長久保・小田原および三浦に分散していたが、天文十五年(1546)四月、馬廻衆八千余騎をかきあつめて、武蔵国砂窪(川越市砂久保)に急行した。到着してみると、両上杉方の雲霞の大軍が、河越城を包囲している。彼我の兵力は、まさに10対1であった。
 そこで氏康は、憲政に「河越籠城のものども御赦免候て、身命ばかり相助けられ候はば、手堅き証人をもって、要害進せ渡すべし」と申し入れた。これは氏康の撹乱戦術であったが、憲政らは、この氏康の戦術にまんまとひっかかって油断した。
 四月二十日の夜、敵を謀りすました氏康は、「わざと松明を持たず、相言葉を定めて」身軽な精兵を敵陣に突入させ、「前にあるかとせば後へまわり、四方に変化して一処によるな」(『相州兵乱記』)と命令して、大勝した。「天道の憐み故に運命を開き候、まことに不思議の次第に候」と、夜討の九日後に、氏康は述べている(『歴代古案』)。
 扇谷朝定は、この河越の夜討によって、二十二歳の若さで戦死して、扇谷上杉家は滅亡し、山内憲政は上野平井城に、足利晴氏は下総古河城に敗走するという、だらしない負け方となった。
 この河越城の夜討は、関東の戦国期の合戦史にとって、三つの注目すべき意義がある。その第一は、この合戦を契機にして武蔵武士の大半が氏康方となり、以後小田原北条氏の勢力が関八州にのびたこと、第二は、従来の合戦は、夕暮がせまると中止された昼間戦が多かったのに対して、河越攻略は夜戦であったこと。第三に、この夜戦でもっとも活躍したものが、透波(すっぱ)とか乱波(らっぱ)などとよばれた忍びのものであったことなどである。
 この河越夜討の五カ年後に、氏康は着々と自力を武蔵にうえつけ、天文二十年(1551)七月には、山内憲政を平井城に攻め、翌二十一年正月には、憲政を遠く越後に追放することができた。こうして両上杉氏の勢力は、相・武・上の三国から排除されてしまった。

「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★★
 河越夜戦の戦略的意義とは
 相手に与えた損害もつかめず、味方陣営の被害程度もたしかめにくい。戦意の持続、耐久力またしかりである。自然環境、気象状況次第で、敵味方の区別すらつけにくいとなれば、史上、夜戦≠フ例がすくないのは理の当然という結論になる。恐怖感の裏返しは、ときに異常ともいえる精神の度外れた昂揚をまねく。人は鬼とも化し、勝負の過大評価、その逆の味方は総崩れになっているのではないか≠ニいう過小評価も導く。好んで夜戦を選択する将はいない。昼間の火災と夜の火事、どちらが異常な心的動揺をきたすかを考えれば腑におちるものがあろう。
 前置きが長くなった。戦国合戦史に名高い河越夜戦は、戦史上稀な一戦の好例なのである。
 2年に及んだ河越城の戦いに決着をつけたフィナーレ、河越夜戦の主役は北条氏康その人だ。早雲、氏綱に続く三代目小田原城主、というより、後北条氏の戦国大名としての確立をなしとげた人物である。戦場にあっては、向こう傷氏康と称された猛将で、領国統治、戦国外交に長けた政略家でもあった。
 天文14年(1545)10月、扇谷上杉朝定は、8年前に北条氏綱に奪われた河越城奪回を決意、山内上杉憲政と連合し、さらに古河公方足利晴氏も加えて城を囲んだのが戦いの始まり。城将北条綱成がよく持ちこたえて持久戦となったが、翌年4月20日、北条氏康率いる救援部隊が上杉連合勢に夜襲をかけ、朝定は戦死、憲政、晴氏もそれぞれ上野、下総へ敗走した。上杉朝定の包囲軍が総崩れとなった地名から、河越夜戦だけをとり出して東明寺合戦と称することもある。
 戦勝後、河越城主となった大導寺政繁は、激戦で焦土と化した城の内外の復興に尽力する。
 扇谷上杉氏の家臣だった太田資清(道真)、道灌父子によって築城された河越城は6代80年の上杉方の拠点から、4代53年の北条氏治世下で城下町の形態を整え、江戸の母ともいわれつつ、徳川280年をおくることになる。
(宮内 正勝)

「城が見た合戦史」 二木謙一監修 青春出版社 2002年 ★★
 河越城の戦い 大軍の虚を突いた北条氏康の電撃作戦
  8万5千の大軍が包囲
 河越城(川越城)は、扇谷上杉持朝が、太田道真・道灌父子に築かせた城で、「攻めるに難く、守るに易し」として関東七名城にも数えられた。代々扇谷上杉氏が城主をつとめたが、天文6年(1537)に北条氏綱に奪われていた。
 関東の虎≠ニ恐れられた氏綱は、天文10年7月に病没し、嫡男の氏康が27歳で家督を継いだ。「氏綱死す」の報に接した扇谷上杉朝定は、この機に巻き返しを図り、関東の覇権をおびやかす北条氏を一気に撃破するべく、河越城奪還へ乗り出した。
 朝定は、山内上杉憲政古河公方足利晴氏と組んで関東連合軍を結成。ついに天文14年(1545)10月、8万5千の大軍が河越城を取り囲んだ。
 河越城を守るのは、氏綱の娘婿である城将・北条綱成以下、将兵3千あまり。城方の頼みは小田原城にいる氏康からの援軍しかなかったが、そのころ氏康は駿河から侵攻してきた今川義元への対応に追われ、すぐには動けない状態だった。
 勝敗はだれの目にもあきらかで、両上杉・古河公方連合軍には、包囲した段階ですでに戦勝気分が広がっていた。しかし連合軍はすぐに攻め込まず、「いずれ降伏するだろう」という慢心からか、無駄な損害を避けるためか、兵糧攻めの策をとった。
 北条側にはこれが幸いした。綱成はその間よく守り、氏康は今川義元と和睦を結んで河越へ向かい、天文15年4月、8千の兵を率いて河越城南方に着陣した。
 包囲して半年、連合軍の士気はゆるみ、あとはいつ降伏を受け入れるかという段階にきていた。氏康からは、「城兵の助命を約束してくれれば城を明け渡す」という条件付きの降伏宣言が連合軍側に伝えられていたが、両上杉氏はこれを受け入れなかった。
 だが、この和議の申し入れこそ、敵を油断させる氏康の謀略だった。氏康は、大軍を擁しながら攻城戦も挑まない連合軍が、烏合の衆≠ナあることを見抜いていた。
  河越夜戦
 4月20日深夜、突然、氏康の軍勢8千が電光石火の動きを見せた。夜襲である。
 狙いは両上杉軍の本陣。鎧は軽装にして味方の目印に白布をつけ、「侍大将以外の首は取らずに前後左右に切り込め」という氏康の指令である。
 不意の襲撃に寝込みを襲われた上杉勢は恐慌をきたし、算を乱して逃げまどった。これを見た城将綱成は、城から打って出て足利晴氏の陣に襲いかかった。
 上杉朝定は討ち取られ、上杉憲政は上野に、足利晴氏は古河に、ほうほうの体で逃げ帰った。氏康の奇襲が8万の大軍をあっという間に潰走させたのである。
 この戦いは「河越夜戦」と呼ばれ、「日本三大夜戦」の一つに数えれている。なお、夜戦のあった日との年と日付については、いくつかの史料によって異なる。前後数回あった戦いが、天文15年4月20日に集約されたのでないかという説が有力である。
 以後、関東の両上杉氏・古河公方という旧勢力は急速に衰退し(扇谷上杉氏は滅亡)、後北条氏によって関東のほぼ全域が制覇されていく。
 河越城を救った北条氏康は名将の名を高め、以後57歳で没するまで、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信との熾烈な戦いを繰り広げながら、これを退けた。
 氏康は生涯36回の合戦に出陣し、自ら指揮をとった戦では一度も敗れたことがなく、また一度も敵に後ろを見せたことがなかったと伝えられる。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 北条綱成(ほうじょう つなしげ)
1516〜87(永正13〜天正15)戦国時代の武将。
(系)福島正成の子。 (名)左衛門大夫、上総介。
父正成は今川氏の家臣であったが、甲斐武田氏と戦って敗死後、後北条氏を頼った。元服して北条氏綱から綱の一字を与えられ、氏綱の娘をめとり、北条氏を称した。相模国玉縄城主となり、氏康の代に五家老の1人として武蔵国河越城代となった。武勇にすぐれ、「関八州古戦録」にその記録がみえる。

 →小説「北条綱成 関東北条氏最強の猛将

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 上杉憲政(うえすぎ のりまさ)
1523〜79(大永3〜天正7)戦国時代の武将。
(系)上杉(山内)憲房の子。 (名)四郎、民部大輔。
1530(享禄3)上野国平井城にあって関東管領となる。北条氏康に圧迫され、'58(永禄1)越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。'61鎌倉鶴岡八幡宮で管領職を景虎に譲り、隠退した。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 足利晴氏(あしかが はるうじ)
?〜1560(?〜永禄3)戦国時代の武将。
(系)足利高基の子。(名)幼名亀若丸。
第4代古河公方。1528(享禄1)父のはからいで北条氏綱の娘をめとり、北条氏と結ぶ。'38(天文7)氏綱を頼み、小弓御所足利義明・里見義堯と下総国国府台に戦い勝利を得る。氏綱没後その子氏康と対立、'45上杉(山内)憲政上杉(扇谷)朝定の誘いに応じ氏康に宣戦、武蔵河越城を囲んだが、'46氏康の援軍に囲いを破られ、ついで'54下総の古河城を陥され、相模国波多野に幽閉される。子の義氏に家督をゆずり、のち下総国関宿に隠退した。

河越夜戦跡の写真

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作成:川越原人  更新:2020/11/02