川越夜戦(3)


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東国武将たちの戦国史関東合戦記歴史読本745埼玉史談

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「東国武将たちの戦国史 「軍事」的視点から読み解く人物と作戦 西股総生 河出書房新社 2015年 ★★
【第五章】河越夜戦――北条氏康、勝機に賭ける
  河越夜戦は実在したか
  一、連合軍の反攻
  ■中原に鹿を追う
  ■二人の管領
  ■駿東の足枷
  ■河越城攻囲
  ■それぞれの打算
  二、戦機熟す
  ■冬来たりなば
  ■両軍の動員兵力
  ■連合軍の実態
  ■合戦を伝える史料
  三、闇の中の決戦
  ■北条軍、動く
  ■戦闘過程を推理する
  ■しなくてもよかった戦争
  ■決心できなかった憲政
  ■勝敗を分けるもの
  ■一掃された旧体制
 
  河越夜戦は実在したか
 天文十五年(1546)四月二十日、河越城を攻囲していた、山内上杉憲政扇谷上杉朝定および古河公方足利晴氏による一大連合軍は、寡兵であった北条氏康軍の急襲を受けて壊滅した――一般に「河越夜戦」と呼ばれるこの戦いは、厳島の合戦、桶狭間の合戦とともに戦国の三大奇襲戦に指折られている。
 しかし、この合戦は実態において不明な点が多く、歴史学研究者の間には、「夜戦」の実在を疑問視する意見も根強い。一大決戦とされるわりには、直接的に言及した良質の史料が乏しいこと、後世に編まれた軍記類が伝える合戦の経緯にも齟齬が多いことなどが、その理由である。
 たとえば、伊禮正雄氏は『関東合戦記』の中で、次のように論じている。すなわち、軍記類の伝えるような大規模な夜戦は実在せず、北条氏康は河越城をめぐるいくつかの戦闘に総体的な勝利を納めることによって、結果として連合軍の撃退に成功した。氏康の劇的な勝利という「河越夜戦」の伝説は、複数の戦闘経緯をもとに後世に創作されたものではないか、と。
 近年、さまざまな史料集が公刊されたことにより、少しずつではあるが「河越夜戦」に関係する史料を見出すことができるようになってきた。また、戦後史研究が進展したことにより、この合戦の当事者たちの動向も明らかにされてきている。
 では、その日、河越城外の闇の中でいったい何が起きたのか。そして、「河越夜戦」とはそもそもどのような戦いであったのか。まずは、河越城が戦局の焦点となったいきさつから見てみよう。

「関東合戦記」 伊禮正雄 新人物往来社 1974年 ★★
 第五章 有名だからといって真実であるとは限らないこと(河越夜戦)
        

 これまで、私は、関東戦国時代の合戦と城との話をしてきたが、この時代の立役者後北条氏についてしばしば触れてきた以上、同氏にとってのみではなく、関東戦国時代史上どうしても採り上げなくてはならない戦争がある。――これが史上名高い天文十五年(1546)四月二十日のいわゆる河越夜戦である。
 延徳三年(1491)秋、堀越公方家の内紛に乗じて伊豆国を侵略した伊勢長氏入道宗瑞が、扇谷上杉定正とその重臣小田原城主大森氏頼との死を待っていたかのように、彼らの死の翌年の明応四年(1495)二月、突如として小田原城を攻めて大森藤頼を追い、相模国に確実な一歩を印してから、天文十五年まで五十一年間、後北条氏五代百年間のほぼ真中の時期まで、長氏・氏綱氏康三代にわたる、急がず焦らずの関東進出がなされてきた。それは、一つの核が次々に拡大分裂しつつ、やがては大きな有機体に生長していくような、小田原を中心とするゆっくりした、しかも着実な前進過程で、中央集権的に内政を整えながら外に向かっては必要以上に武力を用いず、巧みな外交交渉で次第に版図を拡げていく一方では、体制が充実し、客観状勢が熟したと見ると、飛躍的に積極攻勢に転じていく面も備えている、という見事な合理主義に貫かれた歩みである。
 すなわち、伊豆を根拠に、今川氏の客将という地位と関東に対する今川氏の立場とを巧みに利用して、両上杉氏の度重なる紛争に干与するという形で、武蔵相模両国の地理・人心・政情をあの老人とも見えぬ鋭いまなざしで観察してきた宗瑞は、小田原奪取後十七年も待ちに待った末、機熟すると見た永正九年八月、相模国の政治的中心――そこは地理的にも同国のほぼ真中である――岡崎城に三浦氏を攻めてこれを追い、直ちに武蔵国境に玉縄城を築いて上杉氏に備え、四年後に新井城を落して相模一国を掌握する。相模の南隅を手中にしてからこれまで、じつに二十一年を要したのである。
 如何に乱世とはいえ、何の伝統的足掛りもないのに二ヵ国を完全に手中にする、という偉業に満足したのか、三年経った永正十六年八月十五日に八十八歳をもって宗瑞は死んだが、嫡子氏綱はすでに三十三歳の壮年、父のなし終わったところから出発し、早くも翌々大永元年(1521)二月、一つには保守的な関東での外所者たる自家の地位を確実にするため、一つには武蔵を侵略するための牽制策として、武蔵を隔てた彼方下総国古河にいる関東の宗主足利高基の嫡子晴氏に女を容れる。さらに三年後の大永四年(1524)正月、ついに扇谷上杉氏を江戸城から追い出し、翌年二月には岩槻城を落して扇谷家の重臣で文字通り柱石ともいうべき太田資頼に一撃を与える一方、古河公方家に次いでの名門武蔵国荏原郡世田谷城の吉良氏に同じく女を容れてこれを己の傘下に置き、江戸・小机(横浜市港北区小机町)両城を修築して南武蔵経営の拠点とする。そうして、勢力回復を企てて反撃してきた扇谷朝興を、享禄三年(1530)七月、武蔵国多摩郡小沢原(東京都稲城市矢野口あたり)で撃破してその夢を挫き、七年後の天文六年(1537)七月、当主朝興の死によって動揺する扇谷家を最後の居城河越から追放する。さらに翌年下総の葛西城を落して旧族大石氏――岩槻太田氏と姻戚関係にある――を追い、十月七日、その侵略を阻止しようと北上してくる小弓御所ならびに里見義堯の軍と国府台に戦って勝ち、多年宿願の鶴岡八幡宮の造営も完了して、十年七月五十五歳で死ぬが、このとき嫡子氏康は二十七歳、氏綱も後顧の憂いなく瞑目したことであろう。
 しかし、とにかく氏康は二十七歳に過ぎぬ。この時点を利用して、反撃に出るために反北条勢力は活発に動き始める。まず、久しく犬猿の仲だった両上杉氏は、気が付いてみると、自分たちの足元に火が付いているので、直ちに和を結んで一致協力北条氏に当る決意を固め、氏康と義兄弟でありながら北条嫌いの古河公方晴氏を説いて、己れの陣営に迎え入れる。利根川以東の旧大族は、すでに同盟関係に入っている千葉氏を除いて、もちろん(小田氏さえこの頃は)何処の馬の骨とも知れぬ北条氏に好意を抱くはずはない。こうして、有名無実の関東管領職に飽き足りぬ年少(たぶん十九歳くらい)の山内上杉憲政は、彼より若い扇谷上杉朝定とともに、青年客家の勢をもって精力的な策謀を数年間つづけ、天文六年(1537)以来奪われたままの武蔵国の中心河越城を取戻して過去の栄光を再現すべく、かつては北条氏の旧主であった駿河の今川氏を動かし、伊豆と駿河との接点にある北条氏の前衛基地長久保城(静岡県駿東郡長泉村下長窪)を攻めさせた。氏康は駿河に注目せざるを得ない。その隙に、氏康の義兄弟綱成が三千の兵をもって固守している河越城に、古河公方・両上杉氏およびその連合軍は殺到する。その兵力じつに八万、綱成らの運命は文字通り風前のともしびである。
 当時の河越城は、江戸時代のそれに比べると三分の一くらいの広さで、後の本丸・二ノ丸や八幡曲輪くらいであろうが、西から東に突き出た台地の先端部を占め、北から東、さらに南へと城の裾を赤間川が流れ、その向こうは三方とも低湿地であった。この要害の地に九十年以前に築城したのは戦術の大家太田道真道灌父子で、今これを守るのは関東に勇名高い黄八幡の北条綱成である。寡兵よくこれを守ってはいるが、しかし、如何せん、数年間の籠城で兵糧は尽きようとしている。もし河越城が落ちるならば、北条氏の二代にわたる武蔵経営は一朝にして崩れ去り、敵は大挙して相模に迫るであろう。最良の場合でも、北条氏は永正九年(1512)の線に押し戻されるおそれなしとしない。そこで、氏康自身後詰として河越付近まで出陣するから飽くまで城を死守するよう、綱成の弟勝広――当時二十七歳であるが、少年時代は弁千代という美少年で、氏康の寵童であった――の大胆不敵な包囲軍突破によって、その意図を城内に伝える。そうして、彼は、直ちに八千の兵(恐らく当時の北条氏の全兵力であろう)を率いて北上、八〇キロ余りの道を進んで河越城に迫る。すると、城を包囲するため城南四キロの砂窪に宿営していた上杉方の一部は、もともと退嬰的な上に、氏康の進軍にいささかたじろいだのか、柏原の本隊に合流すべく西方へ撤退する。九年前の天文六年(1537)七月、ここから西方四キロの三ツ木原(狭山市)で氏綱・氏康父子に手痛い打撃を受けた上杉方は、何とはなしに入間川の向う岸へ移る気持に駆られたのかも知れない。そこで入れ替わって氏康が砂窪のあたりに陣取り、何回かの小競合いの後に、史上名高い天文十五年(1546)四月二十日の河越夜戦となるのである。
 
       

 さて、初め上杉方は、河越南方四キロの砂窪(川越市砂久保)と、その西六キロを隔てて入間川左岸の柏原(狭山市)、およびここから東北六キロの同じ入間川沿いの上戸(川越市)に陣営を置き、さらに後方十四キロの松山城(当時、扇谷上杉氏の本拠)との連絡のため、広谷(川越市下広谷)の居館址を陣地に用いる(現在ここに歴史の不明な三つの居館址があるが、恐らくこのようにして活用されたものであろう)。河越城の周辺は深田であり、それを隔てて四キロ北方の入間川沿いにある井草・三保谷(比企郡川島村)方面の微高地は、扇谷上杉家の重臣岩槻の太田氏の直轄領であり、表の養竹院(太田家の菩提寺)を後方兵站基地とし、さらに城の東方四キロ、湿田地帯を隔てた下老袋(川越市)には古河公方晴氏が本陣を置く。『新編武蔵国風土記稿』によると、ここに御所といわれる所があって、土地の領主道祖土氏の居城があったのであろうか、といわれているが、同氏は――幸い後裔は川島村八林に現存する――太田氏の被官であって御所とは関係を付け難い。やはり、ここに古河公方の陣所があったため、後世御所という地名も生れたのであろう。その南西四キロ余の所に、北条氏康が晴氏への連絡に使った諏訪氏の寺尾城がある。 
 このように、六キロ前後の間隔を置いて、南から西、西から北、北から東と古河公方、両上杉およびその与党の軍勢が駐屯し、それぞれ連絡を保ちながら河越城を包囲したのである。
 その総数八万、小田原方の十倍の大軍である。尋常の手段ではこれに勝つことはほとんど不可能であろう。そこで氏康は得意の調略を始める。――まず、公方晴氏に対して、両方に親しい寺尾の諏訪左馬助をもって、「城兵を助命してくれれば城を進上して退却する」と申し入れ、上杉方には常陸の小田左京大夫政治(天庵氏治の父)の老臣菅谷隠岐守をもって、「城将綱成を助命してくれるなら直ちに開城し、今までの上杉北条の争いについては、しかるべき和議の上、相ともに公方家に仕えよう」といわせる。
 もちろん、大軍を擁して意気盛んな公方・管領ともにこれを退け、北条氏が寡兵を憂い敗北を恐れているとして、いささか油断する。無理もない、彼らはこの一戦よく北条氏を敗るであろうと思い、かつ、この機を逃しては二度とこのような態勢で北条氏に臨むことは不可能であることを知っているので、妥協する遺志は毛頭なく、上野・下野・常陸・武蔵の大軍を河越に集結せしめて、久しく味わわなかった旧体制の実力――かどうか間もなく判明するが――に自己陶酔しているからである。このとき、晴氏は三十五歳にはなっていないであろうし、山内憲政は二十四歳くらい、扇谷朝定は二十二歳に過ぎない。千軍万馬の氏康の三十二歳とでは、精神年齢も段違いである。このように、相手の心理的優越感を巧みに煽って油断させるのは、国府台などで初めの小競合いで一度は負けたことをかえって最大限に逆用した作戦と、同一の効果をねらったものであろう。
 そこで、先方が油断していることを得意の間者を使って見届けた彼は、宵闇のころから手配りして、月夜ではあるが曇りがちの天候に乗じて敵陣に突入し、十倍の敵に対して大勝利を得る――という段取りであるが、ここでは戦記物の記事や地理等を考え合わせて、こうもあったろうかという戦いの経過を、簡単に記してみよう。

 砂窪に着陣して和平交渉の間に敵の態勢をひそかに観察していた氏康は、公方方と上杉方との陣営がやや離れている上に、途中に自然の障害などが横たわっていて、連絡に欠けるところのあるのを見て、半月形に城を包囲している敵の連合軍の右翼であり最も有力な柏原陣営を、寡兵ながら全力を挙げて猛攻する。それも、上戸陣の上杉方との連絡や救援をあらかじめ不可能にするため、北条軍は、西進して上戸と柏原との中間あたりで入間川を渡り、北方から柏原の陣を攻めたに違いない。主戦場がここであって砂久保でないことについては、『新編武蔵国風土記稿』の砂久保村の条では、陣所の位置や合戦の伝えなど問うても、土地の人間から得るところはなかった、とあり(ただし、編者はその理由をこの辺が近世に入って開拓されたからであろうとしているが)、柏原村の項では、砦あとが二つも挙げてあって、一つは元弘三年(1333)の新田義貞軍に結び付けてあるが、一つははっきり上杉憲政と北条氏康との合戦のあった所としている。砦が二つというのも、上杉方の主軍が大勢をなしてこのあたりに駐屯していたからであろう。
 とにかく、柏原陣が上戸と連絡の思うように取れぬ間に、柏原の上杉方すなわち上杉の主力は潰走し、ひきつづいて氏康軍は北上して上戸方面の敵勢力に襲いかかる。しかし逃げ込んでくる敗走兵に心理的に撹乱された上戸勢も,同じように崩れ立ち、急を聞いて八キロの道を駆け付けた岩槻の太田美濃守資正(のちの三楽斎入道道誉)も「手前之人数悉討死、漸々主従九騎罷成、松山へ立帰」(霜月十三日付太田資宗あて太田資武書状)る仕儀に立到る。
 このころには、上戸から四キロ東の河越城にも戦争の様相は伝わり、櫓の上から四方を眺めていた城将の北条綱成は、最も遠くにあって孤立した位置にあり、情報も遅れているらしい公方の陣営(下老袋)に向かって進軍する。もちろん、綱成は歴戦の勇士、黄地八幡の旗指物を風に靡かして「勝ったぞ勝ったぞ」と連呼して進めば、脾肉の嘆に堪えなかった三千の城兵も、一斉にこれに呼応して「勝った勝った」と叫びつつ進み、その勢いは、相手を侮って無為に陣屋暮らしをしてきた烏合の衆の公方方の防ぎ得るところではなく、瞬く間に雪崩を打って東方へ敗走する……。
 このような経過を採って、有名な河越の戦は終ったのであろう。

 この合戦の結果はういまでもない。
 実質上の武蔵国の守護扇谷上杉氏は文字通り滅亡し、山内上杉氏は上野国平井に逃走して、もはや二度と武蔵に進出することはできず、この一戦で過去の栄光を挽回しようと夢みた古河公方は間もなく北条氏の政治的傀儡と化し、今まで形勢傍観というよりも、やはり上杉方であった同家の重臣武蔵の大石・藤田らは、初めて北条氏に帰属し、岩槻の太田氏を除いて、武蔵国は北条氏の手中に入る。そうして、利根川以東の関東の旧族――宇都宮・佐竹・小田・結城等――は、身をもって北条氏の力を思い知らされ、もはや北条氏の存在を瞬時も無視することはできなくなったのである。一言もってこれを蔽えば、この戦によって関東の戦国時代はその様相を一変する。このときから、関東の主役は、伝統と断絶して、新興の北条氏となる。
 しかし――この合戦は、本当に天文十五年(1546)四月二十日に起こったのであろうか。
 「何事モ疑ハナクテハナラヌ」というのは西哲の金言であるし、わが国徳川時代の天才町人学者も「……疑ハシキハ疑ヒ、議スベキハ議ス。即チ天下ノ直道ニシテワガ私ニアラズ」といっている。もちろん、おおよそのことは疑おうとおもえば疑えるものであるが、それにしても、実のところ,有名な合戦のなかでこの戦くらい疑わしいものはないのである。
 
      

 まず第一に、この合戦の意義を改めて注目しなくてはならない。それは、ちょうど徳川家康における関ヶ原合戦のようなもので、北条氏にとっても関東の戦国史にとっても、決定的な分水嶺であった。そして、公方・管領対北条氏という、いわば質的に常識を超えた対立だけでなく、八万対八千という話半分にしても当時としては未曾有の量の大きな対抗で、この兵力の点からだけでも(勝敗の結果は別として)、現在のわれわれに想像もできない強烈な印象を当時の人々に(特に政治関係者に)与えたはずである。ところが、これほどの大合戦なのに、それに言及ないし関連し・あるいは暗示した文書は管見の及ぶ限り一通もなく、信用のできる史料も存在しないのである。合戦についてわれわれが今日まで史的常識として受け入れてきたのは、すべていわゆる軍記物の記述を基にしているに過ぎない。

 第二に、当時の仕来たりとして、合戦が終われば勝利者からも(滅びない限り)敗北者からも感状が臣下に出され、従軍した武士の恩賞の保証書になるが、これほどの大戦争に一通の感状も見出されていない(一通だけあるそうであるが、それは偽文書だとのことである)。
 たとえば、二度にわたる国府台合戦については、有名な松戸市平賀の『本土寺過去帖』や鎌倉鶴岡八幡宮の『快元僧都記』等にそれぞれ記載があり、これら信頼度の高い記録を疑うことはほとんど困難なことであるし、感状や制札等も現存する。また、永正十三年七月の新井落城についても、勝利者伊勢宗瑞の三島大社への報賽状や敗北者の縁者扇谷上杉朝良の書状が存在する。しかるに、これほどの大合戦に関して信用すべき記録も文書も一つとしてない、ということは信じられぬことではなかろうか。

 第三に、この戦争についての唯一の報道源である軍記物の記述であるが、その記事がまたそれぞれ相違していて、記述の対象が同一の戦争であろうとは考えられぬくらいである。
 『鎌倉公方九代記』『北条記』『北条五代記』『関八州古戦録』等の記述で共通しているのは、敵の兵力が氏康側の十倍であったこと、こちらが一応敵に慢心を起こさせて油断させてその不意を襲ったということ、だけであって――しかしこれは国府台合戦も同様である――、合戦の経過についてもまちまちであるし、陣所の位置もほとんど相違している。『九代記』と『北条記』とでは砂久保である上杉方の陣営が、『古戦録』では砂久保と柏原――ただし、後になると柏原に集結する――となっており、氏康の陣営まで『九代記』では同じ砂久保である。また、『古戦録』『北条記』『九代記』では、公方と上杉との陣所は別々であるが、『五代記』の記述では同一らしく、さらに不思議なのは、扇谷上杉朝定がこの合戦に参加して――常識からすれば当然過ぎるくらい当然であろう――戦死するという記事は『古戦録』にあるだけで、他の書には全く彼につてそのような記述がないばかりではなく、『五代記』では、この合戦を「北条氏康と上杉憲政一戦の事」といい、朝定は九年も前の天文六年(1537)七月十五日の河越合戦で敗死した、と明記しており、その上、彼の河越没落後の居城である松山城は『北条記』『九代記』では、すでに北条氏の持城として記載されている。
 ところがこの朝定とはちょうど逆な例があるのであって、軍記物すべてにおいて共通しているのは、難波田弾正左衛門とその甥の隼人正の活躍ぶりとその戦死であるが、じつは彼らはすでに九年前に死んでいるのである。すなわち、『快元僧都記』の天文六年(1537)七月の項では、十六日に「河越没落之由」つまり北条氏綱に攻められて河越城が落ち扇谷上杉氏が松山に逃亡したことを記し、ついで二十二日には「一昨日廿日、松山之働、難波田人数州余人討捕之由……今度敵三百余人滅亡……難波田弾正入道善銀同名隼人、佐々木并子息三人打死、都鄙惜之」とある。しかるに河越夜戦でも、九年前の戦死者が再び現われ、「難波田入道……父子三人、おいの隼人正をはじめ、皆ことごとくうちとられぬ。」(『五代記』)とは、一体どういうことであろうか。
 驚くべきことはそれだけではない。そもそも、この合戦が有名なのは、じつは「夜戦」という点にあり、常識でも日本三大夜戦の一つとされているくらいである。当時の戦争の常道として、敵味方ともに夜は戦いをしないことになっていたのを、氏康が自家兵力を考慮して敢えてそれを行なった結果、大勝利を得たということであるが、これは、戦争であるから已むを得ないこととはいえ、氏康にとって余り晴れがましいことではなかったのである。それかあらぬか、北条家の遺臣三浦浄心の著『五代記』では、夜戦らしい記述は一切ないどころか、「天文十五年四月廿日午の刻――つまり真昼である!――に至て合戦し」と明記しているくらいで、事実その記述も明らかに日中の戦の描写で、しかも不意を襲ったわけではなく、「太鼓を撞てせめかゝる。城中上総守是を見て門をひらき、三千余騎いさみすすみ切て出る。公方も憲政も、兼て催す合戦、たがひに鬨の声をあげ、天地をひゞかし、討つうたれつ、半時たゝか」っているくらいである。
 時刻といい、陣営の位置といい戦争の仕方やその経過といい、これほどにも違っているのである。同一の大戦争を一貫した記述の中でまとめ上げた、とは到底考えられないのではなかろうか。

 第四に、右の点に関連するが、この戦争の時期についていろいろの説があることが不思議である。『新編武蔵風土記稿』巻百八十高麗郡之五、柏原村の砦跡の項で編者はいう、「按るに河越夜戦の年月区々の説あり、或天文七年七月廿五日、或は十一年七月十五日、或は廿年とも云。」しかし、こんな決定的大合戦の年月にこれほど区々の説がある、などということは考えられないことである。
 考えられることは唯一つ――後に再び述べるように――いわゆる河越夜戦すなわち天文十五年(1546)四月二十日の決戦はそのような形では存在せず、何回かの(複数の)河越近傍での合戦が繰り返された、それを後の人々が一回の合戦として編集創作した、ということではなかろうか。

 第五に、仮に軍記物のような決定的合戦があったとしても、この合戦の内容にはいろいろ理屈に合わない点があって、理解に苦しまざるを得ないところが少なくない。
 元来、北条氏の戦争のやりかたは、苦労人の宗瑞以来きわめて合理的であって、その特徴の一つは、こちらの兵力が相手より大きくないときは戦闘を避ける、ということである。敵がたとえ烏合の衆であろうと、とにかく兵力が圧倒的に大きいときは、永禄四年(1561)の例に見られるごとく、退いて城に籠もり、こちらからは決して攻勢に出ないのである。八年後の永禄十二年(1569)十月の三増峠合戦では積極的に出撃したようであるが、初め武田軍の兵力が正確に掴めないままに籠城したが、包囲されたため相手の兵力も分かり、こちらも伊豆方面からの援兵も集まってかえって量的には優勢となったので、引き揚げてゆく甲州勢を三増峠まで追跡していったわけである。ところが、河越では、とにかく十倍の敵兵と対陣したことになる。少なくとも何倍かではあろう。籠城軍を加算しても到底比較できないはずである。だからこそ謀略を使って夜討にしたというかも知れないが、夜討そのものが本当であるかどうかも既述の通りである。
 それに、如何に寄せ集めとはえ、また、寄せ集めでしかも大軍というのは始末に悪いとはいえ、攻城軍の戦争はだらしなさ過ぎはしまいか。氏康とは縁者で「不便に思召す事尤」(『北条記』)な古河公方は別として、このころの両上杉氏の自家衰退の実感・勢力回復への熱望と焦慮とは、後にもちょっと触れるように、並々ならぬものがあり、河越攻撃とそれに伴って起こり得る氏康との正面衝突は、彼らの充分覚悟しているというよりも、むしろ望むところだったはずである。特に、扇谷上杉朝定は――もし彼がこの合戦に参加しているならば――、十三歳で父朝興を失い、亡父の遺言で少年ながら北条討滅の心を持ちながら翌年には河越城まで追出されて、わずかの家臣に護られて八年間も細々と松山城に逼塞生活をしていたのであるから、常識的に考えれば、その戦闘意識は火のように燃え上がって、敵を全滅させなければ再び天日を仰がないくらいの意気込みであったろう。それにしては何とだらしがない戦いぶりであろうか。単に四月二十日当日の戦いぶりだけではない。そもそも、その意気込みがありながら、如何に名城とはいえ、三ヵ年もの間一つの城を攻めあぐねていること自体、不可思議なことではないか。河越城の面積では三ヵ年間も三千(否、千でもよい)の兵士が籠城することなど、到底考えられることではない。
 戦争は(すべての競技も含めて)常識外の結果を生ずることが少なくないのも事実である。しかしそれにしても、この戦争の記述は余りにも疑わしいところが多すぎる。この戦争――もしあったとして――意義が決定的に重大なだけに、ますますその念が深いのである。
 
     

 断わっておくが、私は、新旧勢力の間に正面衝突があったことを否定するわけではない。ただ、天文十五年(1546)四月二十日に戦記物にあるような決定的一大合戦があった、という点を疑うのである。
 今、茨城県の鹿島神宮に、この戦いの当事者山内憲政の願文が残っている。そこで、彼は、平宗瑞が悪をもって善を乱し邪をもって直を枉げ、国家を劫し郷党を挫いて、すでに子孫連々として氏綱・氏泰三代に至っている。しかも彼らの関八州併呑の野望は一向に止まない、と述べ、しかしながら彼らもすでに三代経ったからその勢いもそうそういつまでも続くまい、と希望的観測をしながら一転してわが身を顧みて、「哀いかな、憲政、八州執政の家伝となって、天生不幸、弓箭の功を彰しがたく、人間謀略の力已に尽きぬ」と嘆き、頼むところは神慮のみで、それがなければ戦を千里の外に決することはできない、といい、実体なくしてよく感応するのが神であるならば、まして鹿島の大神は藤原氏の主神であり、憲政も――彼は観修寺藤原氏の子孫――その末葉である以上は、「弘誓の海浅からず、争でか慈悲の神力を蒙らざらむ」と訴え、「仰ぎ冀ふは、怨敵数百万の軍旅を衝破し、君を堯舜に致し民を塗炭に救ふことを得しめむ」と祈願し、もしこれが達成されるなら神領一所を奉献すること「日を刻んで待つものなり、願書の旨趣斯の如し、再拝々々」と結んでいる。日付は天文竜輯壬寅六月吉日、すなわち天文十一年(1542)夏である。時に憲政はちょうど二十歳、彼が如何に北条氏の侵略を払いのけて父祖の遺業を回復しようと焦慮していたか、よくその文面からも理解できるし、また、来るべき決定的合戦を予期し覚悟していることも窺える。ちょうど一年前に氏綱が死んで氏康が立ち、北条氏の代変わりがあったことも、憲政にこのような願文を書かす動機の一つであろうが、上杉氏としては、この際北条氏に決定的一撃を与えたい、否、与えなくてはならぬ、という気持はじつに切実なものがあったに違いない。
 それから十四年八月憲政が今川義元に伊豆への攻勢を執らせるまでの三年余、両者の間に何があったのであろうか。もし通説のごとく上杉氏が三年も河越城を包囲したとすれば、右の願文から一年以内に行動を起こしたことになり、如何にも有り得べきことと納得はできるが、それでは包囲三ヵ年というすでに述べたような理解できない事態が生ずる。また、逆に、古河公方の説得や関東諸侯との関係、さらに今川氏との折衝や武田氏への考慮等、要するに攻略上の運動に年月をかけたとすれば、それはたしかに当然ともいえようが、憲政という人物――彼は、父憲房五十六歳のときの子で二歳で父を失い、傾いていく管領家の当主たるべく余りに無能な教育係や近臣に取り巻かれて成人したようである――には、このような高い見地からの息の長い手立てを一つ一つ積み重ねていくということは、期待できないことではなかろうか。
 すると、この戦いがあったとしても、天文十五年(1546)よりはもう少し前の時代にあったことになろうが、ここにこのような想定にとって甚だ厄介な――というより決定的に反対の――記述がある。それは、前に一言したことがあるが、太田安房守資武が同族太田備中守資宗に宛てた、いわゆる資武状である。
 そのなかで、彼は、自分の家すなわち岩槻系太田氏のことを――老父三楽斎から聞いたり自分の経験したことなどを織り交ぜて――、江戸系太田氏の資宗(新六郎康資の孫)に語っている。一応、紀伊大納言頼宣が三楽斎のことを聞きたいという希望を資宗が取り次いだ形であるが、資宗自身幕府の命令で寛永諸家譜を編纂しているくらいであるから、本来は彼自身の希望であったに違いない。
 河越合戦の条は次のように記されている(便宜上、読み下しに書き改める)――「然らば河越の城には、箱根の源南北条上総、両武主として籠め置かるゝ旨、扇谷官領方の大名共数輩談合せしめ、天文拾四年乙巳九月より河越へ押寄せ、翌年四月まで取りこめ候ところに、後巻の為氏康河越へ出馬、寄手還って前後より取包まれ、日々夜々の戦滞りなきうち、親に候者槍を合はせ候義廿四度に及ぶ由申候」そうして、「然りと雖も、四月廿日合戦あり、官領方敗北、親に候者も手前の人数悉く討死、漸々主従九騎に罷り成り、松山へ立帰り候へども、城堅め難きによって自焼仕り、上野国新田へ取除き、高林と申す所に蟄居。」
 これは天文十五年(1546)四月二十日合戦の重要な証拠といえよう。
 しかし、これもまた仔細に検討すると、通説といろいろ矛盾してくる。ここは包囲軍の三本柱のうち(彼の主君であるから当然とはいえ)扇谷家が出てくるのみで、山内上杉家も古河公方も出ていない。それに、籠城軍の大将として、今までのどの書にも出てこない箱根の源南すなわち氏康の叔父長綱入道幻庵が挙げられている。軍記物では(『古戦録』を除いて)攻城軍に扇谷朝定が現われず、資武状では他にみられない幻庵が籠城軍の大将として出てきたわけである。そうして、資武状では夜戦という点には全く触れていないし、包囲軍も三年越しではなく七ヵ月くらいとなっている。さらに、ここでは包囲軍は軍記物ほど大軍ではないようで、籠城軍と氏康とに取り包まれているくらいであり、戦争も――氏康来着後――何十度も繰り返されることになる。こういうものの性質上、軍記物よりは書状の方に信憑性が大きいのは当然であるから、資武の言い分が正しいといえそうであるが、問題はそう簡単にはいかない。
 というのは、一つには、資武のいうことは父親三楽斎からの聞書きであるということである。しかも七十歳で三楽斎の死んだのは彼の二十歳の年で、彼が老父からいろいろと昔話を聞かされたのは、父が六十歳代に入ってからであろう。その彼が、太田資宗に書状を書いたのが、寛永十六、七年(1639−1640)とすると、かれは六十八、九歳になっており、父の死後五十年ほど経過したことになる。この五十年間の遽しさは容易ならぬものであり、世相の転変の目まぐるしさは単に送迎するだけでも非常なものであったと思われる。当然、資武の記憶もいくらか混雑してくるはずであるが、それにしては、この書状では、他の出来事をも含めて、一つ一つの事件の年月日が余りに正確すぎるようである。事件の内容はかなり明瞭に記憶していても、老人の記憶からまず薄れていくのは、年月日とか細かい前後関係などではなかろうか。にもかかわらず、この点が正確であるばかりか、年号には必ず干支まで記入されているのは、何か少し不自然な感じを免れないであろう。現在この書状の原物は伝わっていない上に、すでにこれは当時から有名なもので、多くの人々の手によって伝写されたものである。それらの伝写の間に、後人が書状の正確さをいやが上にも高めるために、本来一々記入されていなかった年月日や干支を書き加えた可能性は、決して少なくないであろう。
 しかも、資武がこの書状を書いたころは、幕府では諸家の系譜を編纂しようとしたり、また一応安定の萌しを見せた武家社会に懐古的風潮が起こり、なお生存していた戦国生き残りの武士たちの懐旧談がしきりに流行し、合戦その他めぼしい出来事の内容が潤色され固定化されていく気運にあった(その後数十年内に有名な軍記物はほとんどすべて成立するのである)。
 資武自身も、このような傾向に逆に影響されなかった、とはいい切れないであろう。世上で半ば創作されてくる面白い合戦や武将の物語に、遠く故郷を離れて過去の栄光を偲んでいる老人の正確であるはずの記憶が、動かされ色付けされて、いささかの歪みを見せることもあり得るはずである。資武の話が一から十まで正しい、とはいえないことは、軍記物の話が逆に一から十まで疑わしい、とはいい切れないのと同様である。
 繰り返すようであるが、私は河越城をめぐって新旧両勢力の興亡戦のあったことを否定はしない。それが、ただ、一回だけの――特に天文十五年(1546)四月二十日という日付の――決戦それも夜戦によるものではないこと、恐らく、天文十一年(1542)以降十年間くらいの間に、河越地方を中心に何回かの戦が繰り返され、その過程のなかで、いつの間にか――というのは、つまり余り目立たずに――扇谷上杉氏が――たとえば朝定が病死するか何かで――消滅したのではないか、ということを考えているのである。
 しかし、それでは、武蔵の支配者扇谷上杉氏の滅亡、大石藤田以下諸豪の北条氏への帰属、武蔵の北条氏による掌握等、要するに回り舞台でも見るように時代の華々しい転換を期待する、当時の武士や後の軍記物の愛読者にとっては、甚だ物足りないことである。そこで、作者ないし編纂者が、たまたま何度かの戦いで最も華やかな戦いを中核にして、それに前後の合戦のエピソードなどを巧みに統合し、(先に述べた天文六年七月に死んでいるはずの難波田弾正などを再登場させるなどその一例である)、現在、われわれの見るような河越合戦記を創り上げたのではなかろうか――私の推論は現在こんなところに落ち着いている。

「歴史読本745 特集 戦国7大合戦の謎と新事実 2001年12月号」 新人物往来社 2001年 ★★
真説 戦国7大合戦/河越夜戦
北条氏康のIT$略と深遠な水面下工作とは?
 「日本三大合戦」の一つに挙げられる河越夜戦。数的不利を覆した北条氏康の勝因ははたして何処にあったのか? 情報の収集・分析力の重要性に着目する。
島遼伍(しま・りょうご)
河越夜戦のあらまし
 北条早雲氏綱父子わずか二代で伊豆、相模、南武蔵を制圧され、危機感をつのらせる関東管領上杉(山内)憲政は、北上を続ける北条勢に武州の要衝河越城を占拠されると、同族の上杉(扇谷)朝定と同盟し、さらに駿河、遠江の太守今川義元と連携し、壮大な北条氏挟撃の戦略を企てた。
 天文十四年(1545)七月、駿東の北条方の支城長久保城攻略に出陣した今川勢に呼応した上杉憲政は、関八州諸将に大号令を発し、上野、下野、北武蔵、常陸、下総の兵六万五千を率い、九月二十六日に『地黄八幡』の異名をとる北条方の猛将北条(福島)綱成以下三千の将兵が守備につく河越城を包囲した。
 今川勢の急襲に苦慮していた北条方首脳部にとっては、まさに『寝耳に水』の一大事で、三代目当主北条氏康は、病床から妹婿である古河公方足利晴氏に、「両上杉には決して加担せぬよう」と釘を刺したが、血気盛んな晴氏はいったん了承しておきながら、十月二十七日、下総、常陸の直属の旗本二万余を従え、河越城に駒をすすめた。
 八万五千(三万説、五万説)という途方もない大軍に十重二十重に城をかこまれた綱成勢の防戦は越年八カ月におよび、天文十五年四月一日、氏康はようやく重い腰をあげ、出陣した。だが、駿河、下総方面に備える将兵をのぞくと、氏康が指揮可能な全将兵は八千、公方、管領連合軍の十分の一以下に過ぎなかった。
 管領上杉憲政が本陣をおく砂久保から南西約四キロの三木に陣場をかまえた氏康の態度は相変わらず消極的で、公方晴氏や両上杉に和睦を申し入れては蹴られ、連合軍が攻め寄せると武蔵府中に退却し、ほとぼりがさめた頃ふたたび三木に陣を敷くという不可解な動きを四月二十日まで続ける。
 が、これは氏康の敵を油断させ、厭戦感をさそい、その間に敵軍の情報収集、分析をするという戦略眼に裏づけられた行動だった。
 すでに敵軍の配置、士気、合言葉すら知りつくしていた北条氏康は、四月二十日夜半、八千の軍勢を四隊に編成し、夜間の同士討ちを避けるため白紙を袖印とし、侍大将以下の首級(しるし)はすべて打ち捨てることを厳命し、後詰めの多米大膳亮(ためだいぜんのすけ)の隊を残し、砂久保の夜陣に突入した。
 油断し、北条勢を侮りきっていた管領勢は、案の定大混乱におちいり、同士討ちする者、裸で逃走する者のなかを氏康自身も長刀をもって十余人を斬り伏せている。
 またこの光景を城中の井楼(せいろう)から夜眼ながらに遠望していた河越籠城衆も、勇躍して公方晴氏の陣所に一丸となって斬りこみ、浮き足立つ敵兵を追い討ちした。
 この戦いの結果、かつての河越城主上杉朝定は討死。連合軍の戦死者は難波田弾正以下侍大将三十四名、士卒の合計は一万三千にのぼり、管領上杉憲政は居城の上州平井へ落去。公方晴氏も古河城へ遁走し、武蔵六十七万石は北条氏の版図に併呑された。

乱波二曲輪猪助
 河越夜戦のあと武田信玄と会見したおりというから、天文二十三年(1554)の善徳寺会盟(三国会盟)≠フ席と考えられるが、夜戦の顛末を信玄から絶賛された氏康は、
 「あれは某(それがし)の手柄ではござらん。すべて左衛門大夫(北条綱成の官名)の忠義でござるよ」
 とすこしもみずからを誇らなかったという。
 もちろんこれは謙遜で、氏康がいなかったら頼山陽日本三大合戦のひとつにあげた河越夜戦≠フ勝利は北条氏の頭上に輝かなかったであろう。
 勝利の主因は、なんといっても乱波、つまり忍者の活用にある。夜戦までの七カ月あまり、氏康は小田原城で毎日もたらされたであろう戦況や敵軍の士気、あるいは長陣で生じる諸将の対立といった情報の分析に務め、勝利を確信して出陣したと考えられる。
 その北条氏の諜報活動の主役を演じるのが、乱波の頭風魔小太郎配下の二曲輪猪助。
 『関八州古戦録』はこの乱波の活躍をのびのびと描いている。
 行脚僧か物売りにでも化けたであろう猪助は、公方、管領連合軍の陣立てや籠城戦の模様などを逐一小田原に報告していたが、のちにその行動を怪しまれ、上杉(扇谷)朝定の哨兵にアジトに踏みこまれる。さすがに乱波だけあって、猪助は捕縛の手をたくみにかい潜り、脱走するが、追手に太田丈之助というすこぶる健脚がいて、あわや縄目というときに、農家の庭先で草を食べていた馬を見つけ、ひらりと跳びのり、見事逃げおおせたという一段。後日上杉朝定の陣所の前に
 馳(かり)出され 逃るは猪助 卑怯もの
  よくも追うた(太田)か 丈之助 
 という落首が書かれていたという。むろんこの部分は軍記物のフィクションであろうが、猪助以外にも多数の乱波が河越城下に送りこまれていたことが、この落首の逸話からも読みとれる。なにしろ氏康は、組織的に多数の商人や遊女を河越の戦場へやり、市をひらかせ、春をひさがせ、敵軍の士気を奪い、厭戦気分をあおり立てている。このなかに、かなりの乱波がいたことは、夜戦時の北条方の水際だった戦闘ぶり、つまり情報解析力からみて、まず間違いない。
 もっとも、この四十四年後、北条氏はみずから商人や遊女を招(よ)びよせた豊臣勢という近世的な軍政組織にど胆を抜かれることになるのだが……。
 いまひとつ見逃せないのは、天文六年上杉朝定から河越城を奪った氏康の父氏綱が、初期的は『町割』を実施し、小田原や鎌倉から商人を移住させ、『ういろう』本舗の主人宇野藤右衛門を小代官に任命していることだ。籠城戦時、絶対的不利な立場におかれていた氏康にとって、これら商人からもたらされた情報も貴重なものであったろう。
 ようするに、氏康はこの時代屈指のIT(インフォメーションテクノロジー)を駆使した武将であったといえる。

氏康の水面下工作
 ただし、氏康は情報分析と連合軍の士気の弛みを待つだけのために、七カ月も河越城を放置しておいたのだろうか?
 河越城の北条綱成に関しては、『関八州古戦録』に、実弟の福島弁千代(伊賀守勝弘)が乱波から教えられた連合軍の合言葉を利用して城中にたどりつく興味深いエピソードが載せられているが、事実の有無は別にしても、当然乱波からなんらかのシグナルは送られていたものと思われる。ましてや氏康は同じ年の北条筆頭の武将の力量を高く評価していた。
 それにしても、永久に落ちない城はない。
 このとき、氏康は徳川家康が、上杉征伐£止後、ただちに関ヶ原≠ノ向かわず諸大名に調略の手をのばしたように、八州諸将への水面下工作に明け暮れていたのではないかと考えている。
 病床にあると公言したのもじつは仮病で、平定すべき関八州の大小名の旗色を鮮明にし、動向を探るためのデマゴギーだったのではあるまいか。
 妹婿の古河公方足利晴氏に、いち早く諫言の使者を送ったのも、傀儡に過ぎない公方をあやつる側近団の首魁の正体を見破るためではなかったろうか。そして晴氏はその首魁の口車に乗り、出陣。敗戦後もあろうことか再度その人物に乗せられ、天文二十三年十月氏康討伐を画策し、これを探知した氏康に逆に攻められ、古河城を取りあげられ、小田原城膝許の波多野の地に囚人同様に幽閉される。
 その人物の種明かしは、もう少し待ったいただくとして、氏康の水面下工作が色濃くただようのが、武州三木の地に陣場をかまえてから。不可解な動きと前述したが、氏康が三木の陣所から公方晴氏に和睦を働きかけたさい、使者に立ったのは公方に同心する常陸小田城主小田氏治の重臣菅谷隠岐守政貞。絶対不利な敵将の和睦をどうして公方側の菅谷政貞が、わざわざ仲介の労をとったのだろうか。あるいは合戦による三十四名の侍大将の討死のうち、大半の者は上杉憲政の本貫地である上野衆もしくは直接脅威にさらされている北武蔵衆で、常陸衆や下野衆、下総衆にはその名がみられないこと。これはいち概に水面下工作とばかりはいえず、他国の戦さという厭戦感も加味されてはいたのだろうが、なにか作為的な圧力が働いていたとも考えられる。
 さらに顕著なのは、河越夜戦′繧フ上州、北武蔵の諸将の行動。まさに総崩れといった観で、武州滝山城の大石源左衛門尉定久、同天神山城の藤田左衛門尉邦房、同松山城の上田能登守朝直、同忍城の成田下総守長泰、上州小幡城の小幡一党など両上杉恩顧の大名たちが、ただの一戦も交えず次々に北条方に降伏を願い出ている。
 あの調略上手で有名な秀吉とて、小田原征伐≠ノ三カ月を要し、忍城、八王子城ですさまじい抵抗に遭遇し、多大の損害を被っている。
 それを北条勢がまだ北武蔵に地歩をしるしてもいないこの時期に、これだけ多量の降伏者が続出するということは、なにかを想像するなというほうが尋常でない。後年、武田信玄、上杉謙信と三国志≠模して並び賞された氏康の真骨頂は、この夜戦後遺憾なく発揮されたといってよい。

氏康と簗田晴助
 ところで、謎をかけた公方足利晴氏の側近であるが、名を簗田中務大輔晴助といい、古河城にほど近い下総関宿城主の座にあった。
 どうも公方晴氏を陰であやつる簗田晴助と氏康は気脈を通じている節が見うけられる。
 氏康が簗田晴助をそそのかして晴氏を夜戦に巻きこんだとはいわないが、戦後したたかな二人が結託し、古河公方家を滅亡に追いこんだのは確かなようだ。
 管領上杉氏が滅んだ天文二十一年十二月、簗田晴助は氏康と協議し、晴氏を隠居させ、氏康の甥にあたる嫡男義久を古河公方に据えた。むろんそれ以前に氏康が簗田晴助に身分保証の起請文を入れたという前提条件があってのことだ。
 その二年後の天文二十三年、簗田晴助は晴氏の次男藤氏をけしかけて打倒氏康の挙兵を企てさせ、藤氏もろとも父晴氏を波多野の地へ追いやり、公方家を事実上滅亡させたことはすでに述べた。
 ただし、公正ではあるが、同時に冷徹でもある氏康は、こうした人柄を許しはしなかった。
 夜戦で管領上杉氏を見限り、軍門に下った滝山城の大石氏には、氏康は次男源三氏照を養子にいれ、天神山城の藤田氏の跡目には三男新太郎氏邦を据え、これを無血で掌握した。
 くわえて、管領上杉氏滅亡にさいして、憲政のひとつぶ種竜若丸を差し出し、助命、恩賞を求めた上杉家中の妻鹿田新介、九里釆女正等九名も、竜若丸を斬首に処したあと、小田原一色の地で磔に処した。
 おそらく簗田晴助は、中世ドイツの神聖ローマ帝国のような大小名合議による領封体制を関東に望み、その名目上の議長(神聖ローマ皇帝)の座を北条氏に求めたようだが、『大関東北条王国』を目指す氏康の子氏政により、晴助もまた天正二年(1574)関宿城を陥され、佐竹氏を頼って落ちのびた。

夜戦の虚実
 関東の中世に終止符をうち、さまざまな悲喜こもごものドラマを生んだ河越夜戦≠ナはあるが、上杉方に二〜三通の感状しかなく、北条方にはまったく感状が存在しないことからこの合戦を架空と見なす向きもあったようだが、「太田資武状」や「行伝寺過去帳」といった一級の資料の存在により、史実であることが現在は立証されている。が、公方、管領連合軍の討死一万三千には誇張があるとみてよかろう。
 この合戦に出陣した下野唐沢山城主佐野越前守昌綱は、一族の神馬遠江守忠春以下四十六名を失ったと『佐野記』にはある。
 佐野氏の動員兵力は約一千名余。つまり死者は4.6パーセント。全体的にみても連合軍の総兵力が仮に八万五千であったとしても、三千九百余。そんなところではなかったか。
 また、戦いは夜間ではなく日中に展開されたのではないかとの声もあるようだが、いくら諸国大名の寄り集めの雑軍とはいえ、八万五千と八千の正面切った激突は勝負が見えている。
 陰暦四月二十日といえば、現在の太陽暦では六月上旬、ちょうど入梅の頃。寝苦しい宵闇をさけた氏康は、夜半に各陣所に乱波を忍びこませ、騒ぎを発生させ、それが全軍にひろがった払暁の時分、六千の主力をして不覚をとった連合軍に怒涛のごとく襲いかかったのだろう。
 だからこそ頼山陽も三大合戦≠フひとつにあげたのだろうし、画期的な戦法であったからこそ、北条氏康の名も不動のものとなった。
 河越夜戦≠ニいうハードルをクリアした北条氏は、その後四十四年間、覇王として関東に君臨した。 (了)

「埼玉史談 第19巻第4号」 埼玉郷土文化会 1973年1月号 ★★
 川越夜戦史考  栗原仲道
 上杉方八万の大軍を僅かに八千足らずの小田原北条氏康の兵が之を破り、世に日本三大夜戦と称している天文一五年四月二〇日の川越夜戦は果たして行われたのであろうか。これは従来歴史家によって論議されたところだ。その理由はいくつかある。
 ◎川越夜戦への疑問
 ◎天文十五年四月、川越夜戦を記す史料
 ◎川越夜戦を示す記録文書
 ◎結論

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 頼山陽(らい さんよう)
1780〜1832(安永9〜天保3)江戸後期の儒学者
(系)安芸国広島藩儒頼春水の長男、母は梅し(静子)。(生)大坂。。(名)襄(のぼる)、字は子成、通称久太郎・徳太郎、別号を三十六峰外史。
はじめ叔父頼杏坪(きょうへい)について学ぶ。1797(寛政9)18歳で江戸に出て尾藤二洲の塾に学ぶが翌年帰郷。学問を好み博識、そのうえ詩文をよくしたが、性格は豪放・奔放で、遊蕩の日を送り、21歳のとき出奔して罪を得る。自邸内に監禁されること3年、その間、専ら読書にふけり文章を書き、「日本外史」の草稿を作った。1809(文化6)備後国神辺(かんなべ)の管茶山(かんさざん)に招かれその塾(廉塾)の塾頭となる。’11大坂に出て篠崎小竹を頼り、ついで京都に出て車屋町に居住し、子弟を集めた。両替町、つづいて三本木に移り、多くの文人・学者と交わり、とくに梁川星巌・大塩平八郎らと親交があり、大塩の本には序文をよせたりしている。晩年肺を病み、講義に出かけた彦根で喀血し、京都に帰って没した。代表作「日本外史」は’27(文政10)松平定信に献じたものである。その他「新策」「通議」「日本政記」「山陽詩鈔」など多数あり、しかもその説はよく世間に流伝した。居号を水西荘・山紫水明処という。
(著)遺蹟顕彰会編「頼山陽全集」全8巻、1931〜33。
(参)木崎好尚「頼山陽」1941、遺蹟顕彰会編「頼山陽先生」1951、安藤英男「考証―頼山陽」1982。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 太田資正(おおた すけまさ)
1521〜91(大永1〜天正19)戦国時代の武将。
(系)太田道灌の曾孫。資頼の子。(生)美濃守、号を三楽斎。
武蔵国岩(付)槻城主。上杉憲政上杉謙信に属し北条氏康と戦う。1564(永禄7)氏康の策略により岩付を退去、佐竹義重を頼り常陸国片野城を預けられ、小田氏治を滅ぼした。

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作成:川越原人  更新:2020/11/29