家康は関東に入封した1590(天正18)年11月に、忍(行田市)付近で鷹狩りを行って以来、盛んに各地で鷹狩りを目的とした巡遊を行った。これは、単に趣味というだけではなく、領内の民情視察、地形把握、家臣団の軍事調練などの意味があったと考えられる。
家康は川越・忍・岩槻方面を中心に、10〜12月の冬場に数日間から半月間ほどにわたって巡遊した。当初、鷹場()はその都度臨時に制定され、その地の各城や社寺、土豪の屋敷で休泊することが多かった。埼玉郡大相模郷(越谷市)の大聖寺もこのような場合の一つで、葵紋付きの多くのゆかりの品々とともに、家康が使用したと伝えられる豪華な「垢つきの寝衣(ねごろも)」が残され、市指定文化財になっている。また初期の鷹狩りでは、農民の直訴を受けたり、在地の土豪・功労者を家臣に登用したり、苗字帯刀を許可するなどの行動も行っている。後には、主要街道沿いに専用の御殿や御茶屋(おんちゃや)が設けられるようになり、天正末頃には鴻巣・増林(ますばやし)(越谷市)に、慶長年間には浦和・蕨に新設され、また先の増林を越谷に移すなどした。
家康は、鷹を最高権力者の象徴と考え、他の大名・公家には使用を許さなかった。1601(慶長6)年、唯一、伊達正宗に幸手・久喜一帯の鷹場を与えているが、これは関ヶ原の戦後の勢力分析を考えた特別の懐柔策と考えられる。
1605(慶長10)年4月に家康は将軍職を秀忠に譲り大御所となったが。以後もたびたび鷹狩りを行った。1611(慶長16)年10月下旬には駿府から川越に出向き、さらに忍に進み、ここで参勤途上の伊達正宗と面会している。一方、秀忠も家康に促されて鴻巣で鷹狩りを催し、川越で家康と会っている。翌年には鴻巣で父子は面会しており、鷹狩りを利用して直接情報交換をしていたことが想像できる。
しかし、その政治的必要性からだけでなく家康は鷹狩りそのものが好きだった。彼の死後に遺体が久能山から日光に移された時、12対の木彫りの鷹を行列に加えたほどであった。上図(略)は、岩槻城主阿部重次が家康の冥福を祈って狩野探幽に描かせ、仙波東照宮に納めた12枚の鷹絵額の一つである。このことからも、家康の鷹狩り好きがうかがえる。
家光は1618(元和4)年以降、川越を中心に遊猟している。彼の場合は、桜の開花期に合わせて出向き、養竹院(ようちくいん)(川島町)で休息し、周辺の花々を見ながら、宴や茶会を催すというケースが多かった。現在、同院には家光が作った桜の和歌の石碑が建立されている。
1637(寛永14)年には、江戸から五里四方が将軍鷹場と設定され、該当の村々に五カ条の「放鷹場制札」が掲げられた。さらに5年後、幕府鷹場の外側に徳川御三家の鷹場が設定された。この頃には、鷹を扱う鷹匠、鷹の餌である小鳥を調達する餌指(えさし)、放鷹場の管理や情報収集にもあたったとされる鳥見役(とりみやく)などの職制も確立した。
しかし、鷹場に設定された地域に住む農民や、得物となる野鳥の無断捕獲を禁じられたり、これらの動物を驚かすおそれのある行動を限定され、加えて、時には鷹匠の横暴も我慢しなければならなかった。
14.再び長崎へ の中に、川越の知人に宛てた源内の手紙が紹介されています。
自分の西洋博物書の蒐集に触れ、その上にそれにならったあの日本物産譜シリーズの企てにまで言及している貴重な文面である。明和四年(1767)と推定される年の十一月十九日付け、川越藩六万石秋元但馬守涼朝の儒臣で旧知の間柄である河津善蔵にあてた手紙で、当時の源内の生活の内外の様子をもうかがわせるものがある。河津善蔵がなにか物産について同年春と五月とに問い合わせの手紙をよこしたのに対し、「大取込の訳御座候テ」返事がこれまで延引してしまった詫びをいう一節から始まるが、長文なので前後をはしょり、城福氏の読み(『平賀源内の研究』、創元社、昭和51年)に送りがななどを補って引くこととする。一 御尋ねの別紙、存寄り荒ゝ書付け申上げ候。然し乍ら産物の儀ハ兎角直ニ見申さず候て兎や角考ヲ付け候得バ、存じの外相違の儀出来仕り候。之により私流ニてハ何ニても其物ヲ見申さず候内ハ決して考ヲ付け申さず候。外より形状書付け参り候ても、御答申さず。古今諸家共、此地獄へ落ち候事多く相見へ申し候。本草綱目中御覧なさるべく候。然れ共、遠方仰せ遣され候儀故、ざつと存寄り加筆仕り候得共、御書面ヲ見候迄ニて形状直ニ見申さざる品故、決してそれとハ定め難く御座候。「書は言を尽さず」ニて、いか程上手ニ書取り候ても、直ニ其物ヲ見る様ニハ書取りがたく御座候。能く書取り置き候ても、見る人の心ニて違ひ申し候。此以後共、珍物御取出しなされ候ハゞ、何卒押葉ニて御見せ下さるべく候。石薬類ハ勿論少シヅヽ御こし下され候得バ、随分相分り申し候。紙上の空論ハ、私物産の制禁ニて御座候。
ここまでの一節は、源内の物産学における即物実証の基本的立場の表明と強調である。それは城福氏も指摘するように、すでに『物類品隲』でも「イケマ」の項その他に繰返し述べられ、物産会で一貫して実践されてきた態度であった。かの『本草綱目』でさえ、実物を見ずに誤った判断を下してしまうという「地獄」に陥っている、というのである。だから、本来ならばあなたの問い合わせに対しても、実物が伴っていない以上、答えるべきではないのだが、遠方川越からの御依頼だから特別に「ざつと存寄り加筆仕り候」というあたり、源内の、自分の権威を高く売りつけようという気持がほの見えないでもない。しかし、文章ではどんなにうまく動植物あるいは鉱物の特徴を述べたつもりでも、それはやはり記述者の主観に左右される、などというのは、源内の物産学徒としての長年の経験に裏づけられた、さすがに傾聴すべき意見ではなかろうか。「紙上の空論ハ私物産之制禁ニ而御座候」とは、なかなか格好のいい台詞である。次の一節に日本物産図譜のことが出てくる。―
一 序ながら申上げ候。右申上げ候通り、古人其物ヲ見ずして人の書置きし糟粕ヲねぶり、さまざまの億説生じ申し候故、本草綱目と申す古道具屋書物出で申し候故、肝心の薬用二相成り候薬相知れ申さず候。并び二唐土二産せず、外国より渡り候物十ニ三四相見え申し候。是ハ猶以て唐人どもめつそうの億説ヲなし、甚だ憂べき事二御座候。之により、近世私儀紅毛人へたより蛮国の種類心掛け申し候。幸なる哉、紅毛のドヽ子ウスと申す本草手に入れ、且又極彩色の紅毛花譜并二介譜、虫譜などハ各 日本二一部の書と秘蔵仕り置き候。形状真二セまり、実に古今の珍物二御座候。何卒御覧に入れ度く存じ奉り候。右の通り図面仕り候得バ文章ハ効能のミ二テ相済み候故、甚だ弁利二御座候。夫より思ひ立ち火浣布略説ノ末二出し候書目取立て候積り二御座候得共、私力二てハ参り難く、当時助力の人も御座無く候故、止むを得ず秩父山中二て金山ヲ思ひ立ち候処、いまだ時至らず、金ハ出でず、剰へ少ゝのたくわえも皆二仕候。然れ共何ぞ二テ取付け右の著述成就さへ仕り候得バ、唐、紅毛へも渡り、肝ヲ潰させ申すべく候存念二御座候。夫故近年ハ所謂山師二相成り、昼夜甚だ多用故、貴報も申上げず候。其段、何分御呵り下さる間布候。扨ゝ、存ずる儘二参らぬ世の中二御座候。
『本草綱目』がいまとなっては時代遅れの書である上に、他の中国本草書にも、中国に産しない「外国」≒西洋産の物産がかなり多く記載されている。そこで西洋の博物書によって確かめ、研究をひろげようと、ドドネウスをはじめ貝譜、花譜、虫譜などのみごとな図入りの珍本を入手した、というのだが、すでにみたように、この手紙の明和四年までに彼は右の四種の蘭書を「秘蔵」するにいたっていた。手紙のあて名人河津善蔵は、川越藩儒者で川越に在住していたから、源内は「此以後、秩父往来の序で二ハ紅毛の書物共持参仕り、御覧に入れ申すべく候」と、手紙の結びの部分に書いている。実際にそうしたかどうかはわからないが、これで彼は秩父往復には川越街道をたどっていたことがわかる。
馬琴は、『吾仏乃記(あがほとけのき)』に家譜を書き、滝沢家の家系について書き残した。木村三四吾氏が、その解説に滝沢家の略系図を加えている。
出羽の最上義光の家臣滝沢覚伝を祖とする。ついで秋円、武蔵川越藩主松平伊豆守信綱に仕えた興也、真中氏から養子に入った興吉、馬琴の父の興義と続いた。
興也は、信綱に仕えたあと、信綱の四男堅綱の分知にともなって、千石の旗本の家老となった。滝沢家中興の祖とする。
(後略)
(前略)
文政10年正月、野田屋又兵衛が薪を届けた。馬琴は、去年の冬から気に入らなかったので、受け取らなかった。自分で白川屋へ注文に行った。堅木八束を買った。2月、地主杉浦方から川越の薪が来た、と知らせてきた。馬琴は、百に行かせた。杉浦老母の世話で、薪を買い入れた。4月、老母から薪の積送状を見せてもらった。川越からの田舎炭も世話してもらった。老母の世話で田舎炭5俵を買った。路に受け取らせた。薪も届いた。薪割人足が来ない。杉浦方の下男が割った小束12把を借りた。その後、薪割人が来た。割った薪を百と路が物置に入れた。馬琴も手伝った。五月、田舎炭の代金を川越の薪屋が受け取りに来た。老母からその知らせを受けた。馬琴は、百に金1両を杉浦方へ持っていかせた。老母が、炭がよくないので、半俵分を値引きさせた。車力代76文ずつであった。馬琴は、釣銭164文を受け取った。
8月、老母から炭が会所へ運ばれてきた、と案内を受けた。馬琴は早速、日雇人足を出した。すでに売り切れていた。馬琴は、2月にも人足に会所へ行かせたが、川越からの舟が来ない舟間(ふなま)で、炭を買えなかった。無駄な人足賃を払っていた。
12月、馬琴は鉄砲洲本湊町(現中央区湊1丁目)の炭問屋松本三郎治から、炭1駄8俵を買った。代金2両と銀4匁2分8厘であった。本郷の餅屋笹屋伊兵衛の世話であった。川越の田舎炭より直段が高かった。田舎炭はよくなかった。百がその炭粉を利用して炭団200個を作り使っていた。路は四谷宅で、角炭団を200個買って使っていたことがみえる。炭より安価で、経費を節約できた。
天保2年正月、老母から川越の薪屋が来た、と知らせを受けた。薪代金2朱と車力代64文を、老母からの使いに渡し、新たに薪を追加注文した。2月、炭問屋松本三郎治方の手代忠八が来た。馬琴は近頃、炭入れが悪く、1俵を4日ほどで使ってしまう。炭入れをよくよく調べるように、と忠八に厳しく注文をつけた。10月、手代忠八が炭の注文を取に来た。8月に来るところ、三郎治が病気で来ていなかった。金1両につき炭15俵であった。馬琴は路に応対させ、1駄を注文した。11月に入って、忠八が1駄8俵を届けてきた。納める日が10日も遅れていた。中旬に忠八が炭代を受け取りに来た。駄賃が224文であった。馬琴は、炭代と駄賃を路に渡して支払わせた。
(後略)
(前略)
安永七年(1778)の七月に、はじめて六十人の無宿者が、信濃路を経て、佐渡に着いた。一人一人囚人なみに唐丸籠にのせられていた。
島送りの発案者は、勘定奉行の石谷備後守であった。石谷はもと佐渡奉行だった。鉱山の仕法改革で業績をあげたひとだが、計画をゆるしたのは、老中松平輝高だったらしい。有名な田沼意次が、将軍家治のもとで権勢を誇っていた田沼時代に、この島送りが発案される。松平は田沼派に属していて、田沼の重商政策をおしすすめた一人だった。鉱石を掘る大工や穿子は、ある程度熟練した技術がいる。水替なら腕力や体力があれば勤まる。そうしたことで、無宿者は水替人足に使役することがきまった。「二十歳位から三十四、五歳位までの丈夫な者」と、佐渡奉行は条件をつけて、幕府の要請に応じたのである。
島送りは、幕府の崩壊(明治)まで続いた。おおよそ百年間である。はじめは江戸市中の無宿者の捕縛に限っていたが、のちには長崎や大坂の天領地からも送られるようになり、その数は二千人を超えた。百年間に二千人だから、一年平均が二十人ほどになる。そう多い数ではない。が、常時二百人近い水替を確保できることになったから、鉱山はずいぶん助かったことになる。
一茶(俳人)は、生れ故郷の信州柏原宿で、「五月晴れや 佐渡のお金が通るとて」。こう詠んだ。佐渡でとれた金銀荷を満載した馬の行列が、家の前を通っていく。
無宿を目籠(唐丸籠)にいれて佐渡まで送るのに、信州路と三国路と、奥州会津通りの三つの道があって、三道をほぼ隔年交代で送った。そうした沿道に住んでいたひとたちは、この行列を眺める身体の向きをかえると、こんどは別の光景をみた。佐渡へ送られる唐丸籠の長い列である。多い年は、それが六十梃もホコリをあげて通った。
(中略)
駕籠の無宿たちは、足かせ、または手鎖、腰縄がしてあった。食事のほうは「握り飯、タクアン、湯茶」に限るとされた。道中はなるべく手軽にすませる、というのが道中奉行や勘定奉行の指令である。
かつぐ人足や泊りのときの不寝番は、宿場人足や近郷からかり集めた助郷人足が、無賃同様で運ぶのだが、この苦労がなみたいていではない。信州、三国、会津の三道交代で送ったのは、沿道の宿場からの苦情が絶えなかったためである。江戸からだと三百キロもあるから、早くて十五、六日、事故があると三週間もかかった。
この長い道中を、なぜ流人なみに目籠で送ったか。一人ずつ歩かせたほうが、手軽に輸送できたのであって、そうしなかったのは「見懲り」の効果を考えたためらしい。つまり見せしめで「市中引き回し」とか「晒の刑」のように、囚人を威嚇することで、犯罪の広がりを防げると考えていた。だから沿道のひとたちは、無罪または軽罪の無宿たちを「囚人」(流人)だと考えていたらしい。信州永井宿の記録(天保十三年)に「囚人賄いの義は、握り飯、香の者、湯茶限り、勢(瀬)戸物不用」と、彼らを囚人に見立てて書いている。
目籠は琉球ゴザでつつみ、下の台は板で、大小便のぬける落し穴がある。前後に穴があって、食事のさし入れをする。そこから「東男」たちに手を出させて、握り飯をつかませる。だから茶碗の用意など無用、という宿々への申し送りであった。
(中略)
☆
無宿の名前をしるした送り状が、佐渡にはほとんど残っていない。が、ふしぎにも安永七年に送られた第一陣の六十人については名、年齢、出生地などしるした留書が残った。
金井町泉の藤村家で相川からもとめたという古い屏風の下張りから出てきた。珍しい例で十七枚の和紙で綴ってある。
江戸より被遣候水替人数名前 □ 助 二十七才 品川無宿・あんま 市五郎 二十九才 藤沢無宿・入墨 要 助 二十才 上総無宿・入すみ 新 平 二十八才 (中略) 甲斐守掛り 神田 小三郎 三十二才 下谷 孝 順 四十八才 上総 吉五郎 二十二才 伊勢無宿・はなびろ三之助事・入すみ 三次郎 二十九才 (中略) 土屋帯刀掛り 越後無宿・三ヶ月小僧・入墨 長五郎 二十六才 上総・入すみ 次郎吉 弐十才 浅草小姓・入すみ 吉五郎 二十八才 深川・入墨 与 市 二十二才 八丁堀・入すみ 金兵衛 四十三才 橋川・入すみ 勘太郎 三十六才 川越・千次郎事・入墨 権次郎 二十八才 神田・入墨 甚 八 三十二才 (後略)
文化11年(1814)は姫路から北上し、西脇、生野をへて1月26日福知山、2月4日宮津に達したのち2月26日京都に戻る。 東海道を下って3月19日津まで行ってから北上し、岐阜、大垣をへて下呂から4月16日高山に出る。 古川まで行って反転し、4月20日野麦峠を越えて木曾谷に入る。薮原、洗馬から松本に出て善光寺に参詣。 さらに飯山城下まで進んでから南下して、須坂、松代、追分、富岡、大宮、川越をへて5月23日(7月10日)黒江町に帰着した。
翌文化13年1月26日(1816年2月23日)に熱海を出発して、御殿場、裾野、吉原(富士市)、大宮郷(富士宮)、厚木、長津田、川越、松山、熊谷、など富士山周辺から江戸から江戸の北西方面の各地を測って、4月12日に江戸亀島町の地図御用所に戻った。この第九次測量は、長い船旅をともなうので高齢の伊能忠敬は参加をしていません。
なんとも目的が理解できない測量旅行である。伊豆七島でさんざん苦労した骨休めであろうか。熱海に一ヵ月も滞在している。
(前略)
時がたちますと、何もかもわからなくなるもので、まことに僅かな年限でも、さすがに名高い赤穂義士の事柄も、すぐに知れなくなったものとみえて、妙海のような贋物が通用するようになっております。これにはいろいろおかしい話もございますが、秋田侯のお医者で小田島元良という人がございました、これが間喜兵衛と親戚であって、その息子の新六の妻というのは、堀部弥兵衛の娘である、その娘が後に出家して妙海になった、という話がある。これは明和の頃のことでありますが、殿様が元良をお使いにして、泉岳寺の内に庵を拵えて住っておりました妙海のところへ、昔話を聞きにお遣しになりました。その時、妙海はただ落涙を致すだけで、何事も申さなかった。秋田侯からの賜り物はありがたくいただきましたけれども、何のお話もせずにしまった。これは秋田藩の伝えであります。それはこれっきりの話のようでありますが、間喜兵衛の親類書の中を見ますと、小田島元良などというものは書いてないのみならず、間新六は無妻であります。堀部弥兵衛に娘が二人なかったことは、いうまでもない。これだけのことは、親類書を一見すればすぐにわかるはずである。しかるに、秋田の殿様が騙されたというのは、いかにもおかしいのですけれども、名高い赤穂浪士のことは知っていても、その親類書にちょっと手をつけてみるということだけもしていなかったことが、これでよくわかります。それからもう一つは、小田島元良なるものは、妙海婆さんと何かの続き合いでもあったんではなかろうか、と推測される。婆さんは、もと二本松侯のところに、弥兵衛の妻が御奉公している時使った小女だったのですから、東北人でありそうな話で、その辺から考えますと、妙海の身許がわかってきそうにも思われます。この妙海のことのみならず、安兵衛の妻の成行きにしても、まだつきとまったことはわかっておりませんが、もっと手をかけてまいりましたならば、しまいには明白になるであろうと思います。
義士の娘の行方につきましては、こういう問題になった人のほかは、すべて知れないのでありますが、気をつけておりますうちに、ただ一つ見つけました。それは岡島八十右衛門の娘で、切腹当時には、八十右衛門の妻とともに赤穂においてあったのですが、それが後に、秋元但馬守喬房(たかふさ)の家来安藤源五右衛門というものの方に嫁入りを致しました。この安藤の家は、秋元家で代々勘定役をつとめております家でありますが、この人の曾孫に吐菩加美講(とほかみこう)の祖になります井上正鉄(まさかね)が生れました。これは井上正鉄が生れたことによって、岡島の娘の曾祖母が、書物の上に現れてくるようになったのであります。昔の世の中は、女が出しゃばらない方がいいとしてあったのでありますから、義士の娘達も、つづまやかに目立たない方がいいと思っておったので、子孫に格段な人が出来ない限りは、世間に知れないようになってまいるのも、不思議はなかろうと思います。
きぬの物語
吉原に売られる
徳兵衛との再会
解放を勝ち取る
井上正鉄と中庭蘭渓
天保十(1839)年七月。深緑の秩父路を幾人かの旅人が秩父郡日野沢村(皆野町)をめざして急いでいた。ときは天保大飢饉のさなかであり、幕府の政治も崩壊のきざしをしめし始めた頃である。この旅人とは禊(みそぎ)教教祖井上正鉄(まさかね)と、その家族と門人であった。幕府の追及からのがれるために、正鉄は日野沢村に住む門弟の中庭蘭渓のもとに、身を寄せようとしていたのだ。
正鉄は武州足立郡梅田村(春日部市)神明宮の神官であった。館林藩の下級武士の家に生まれた彼は、諸国行脚の旅に出てそのなかで医術学び、さらに四十歳を過ぎた頃、神道の教説に学び、禊教を創案した。それは天照皇大神の前で禊をとなえ、宝祚無窮(ほうそむきゅう)(天皇の位が永遠に続くこと)、天下泰平、万民安穏、五穀豊穣を祈るものであった。また「とほかみえみたま」とくり返し高らかに唱え、呼吸をととのえる修行法を教えた。強烈な修行をまじえた行動的、神秘的、復古的なこの神道説は、幕藩制からの解放をのぞむ民衆にとり、幕府の崩壊を予測させた。そして正鉄自身も、時にふれ門人たちに幕府の衰亡を予言した。幕府はだから正鉄の禊教を弾圧した。
中庭蘭渓の家は、代々中日野沢村の名主をつとめた旧家で、兵左衛門を襲名していた。彼は天保の江戸で、和漢の学と医学を身につけ帰郷して、名主のかたわら医者と私塾をいとなみ、その名声は近在に知れわたっていた。在府中、彼は正鉄門下に加ったのであろう。幕府のきびしい追及にたえてきた師正鉄を彼は手厚くもてなした。多感な青年名主蘭渓にとり、師の存在は、いながらにして教示をうけ、江戸の様子などを聞くのに願ってもない好機であった。
だが正鉄は体を休める間もなく、祓(はらい)をとなえながら、自然石にみずからのみをふるい碑をきざむきびしい大祈願を始めた。おそらく神道の興隆と、倒幕への祈願をこめてのことであったろう。その後、井上正鉄は幕府にふたたび捕えられ、三宅島に流された。その地で流人頭ともなり、蚕種を上州からとりよせ養蚕指導にあたった。正鉄はまた飲料水確保のため貯水池の築造を計画した。そして島民に親われつつ五十九歳の生涯をその地でとじた。
秩父山中に蒔かれた禊教という種子は、中庭蘭渓の手により、山深い日野沢の地を中心に、上州甘楽地方にまでひろがっていった。中庭蘭渓にとり、禊教とは、文字通り民衆救済の教理であった。山間の痩せた土地を開りひらき、そこを豊かな土地にする課題も、師正鉄から学んだ精神であった。
その後秩父山中で、明治維新の政治変革をみとどけた蘭渓は、後年(明治十五年)自民党に入党する。時に六十八歳。そして秩父自由党員第一号として村の自由民権運動に重要な役割りを果たすことになる。一切の私欲邪念をすて、天地、国王、父母、衆生の四恩に報謝し、皇室を尊ばねばばらないと教えた禊教に、村人は「世直し」の理念を発見したのであろう。
「浅草霊験記」などの実録本に伝えられた細川家の「血ダルマ事件」というのがある。
江戸も中期の宝永四年、十四万石を加増された肥後細川家の江戸邸では、新たに奉公人を召抱えた。その時の応募者に、河越秋元家の浪人で大川友右衛門という兄弟がいた。兄を三百石、弟を二百石で召抱えてほしいというので、
「何か、とくにすぐれた能力でもあるのか」
と重役が訊いたところ、
「何ごともみな人並みで、別にすぐれた芸はありませんが、私たちは一生のうちに一度でも何か人のやりえぬことえをしたいと常に心がけていますので、それを目的にご奉公仕りたいと思います」
という。なかなか面白い答えであるというので、望み通り大川兄弟は召抱えられ、まじめにつとめた。
数年たって、細川の上屋敷が失火全焼の憂き目にあった。火のまわりが速く、主従一同身ひとつで避難したが、その時、主君綱利が残念がっていうには、
「日ごろだいじにしている達磨の掛軸を取りだすことを忘れた。だが、もう術もない。致し方ないことだ」
それをきいて大川兄弟が申しでた。
「われら両名に仰せつけくださらば、必ずぶじに取りだしてこらんに入れます」
「いやいや、これではとても入られぬぞ」
と綱利はとめたが、兄弟はどうしてもきき入れない。で、綱利も、危うい時はすぐ引き返せといって二人の願いを許した。
兄弟は喜び勇んで猛火の奥へとびこみ、ぶじにその掛軸をとった。が、四面火の海で脱出は不可能になってしまった。最初から焼死覚悟でとびこんだ二人は、兄が刀をふるって弟の首を打ち落とし、その腹を割いて掛軸をおしこむと、自分もつづいて割腹し、弟の腹を覆って折り重なった。
鎮火ののち、兄弟の黒焦げ死体を調べたところ、掛軸は弟の腹からぶじにでてきた。
「なるほど、生涯に一度、人のやりえぬことをやったわい」
人々は大いに感銘して、以来、その掛軸は「細川の血ダルマ」とよばれ、家宝として細川家に伝えられた―というのである。
体の中で物を守るための切腹というのは他に類例がない。奇談といえよう。
土方歳三は天保六年(1835)多摩郡桑田村石田(日野市石田)に生まれた。近藤勇より一つ年下だ。家は石田散薬≠ニいう打身の薬の製造販売を副業に営む富裕な農家だ。生家は幾分か往時の面影をとどめて現在も残っている。
歳三は六人兄弟の末っ子で、まだ母の胎内にあるとき父を失い、六歳のとき母を失った。後に新撰組副長になったときにあらわれる酷薄な性情はこうした親の縁に薄い生い立ちからつちかわれたものかもしれない。家は長兄の為次郎が盲目だったので次兄の喜六が継いだ。
十一歳のとき歳三は江戸上野広小路の伊藤松坂屋に丁稚奉公に出されたが、一年と辛抱できずに飛び出し、姉のぶの嫁ぎ先である日野宿の佐藤彦五郎の家に転げ込んだ。
歳三が家伝の石田散薬の行商を始めたのはそれからだ。この薬は土方家が河童明神のお告げで作り始めたのだそうだ。土用の丑の日に多摩川の河原で摘んだ牛革草を原料にするが、製法は代々家長から口伝されて秘密になっている。これを服用するときは必ず酒とともに飲む。そうでないと効き目がないという。これは後に新撰組の常備薬となり、更には日清日露の戦役にも用いられたということだ。
土方家に残された当時の御売の台帳を見ると、歳三が売り歩いた先は甲府、川越、横浜方面が多かったらしい。この間に剣術道具一式をたずさえ、行く先々の道場で他流試合を申し込み、剣の腕を磨いた。
十七歳のとき、またもや江戸大伝馬町の呉服屋に奉公に出された。ところが奉公先の女中と関係ができて追い出された。
『両雄士伝補遺』には都市像のことを眉目秀麗で、すこぶる美男子だと記してあるし、福地源一郎(桜痴)の印象では「色も白ければ、撫肩の少し猫背がかってはいたが、身長はすらりとした、あの仲間(試衛館道場の面々)うちでは男っぷりもよい方である上に、人との応対には抜け目なく、かつ如才なかった」というから、結構女性にはもてたらしい。
やがて、佐藤彦五郎宅に入りびたっている間に近藤勇と知り合い、肝胆相照らす仲となった。彦五郎は日野宿の名主で、小島鹿之助と共に勇と義兄弟の契を結んだ仲だ。自宅に道場を持ち、勇にも出稽古を頼んでいた。歳三は、そこで勇に稽古をつけてもらっているうちに師事するようになったらしい。そして安政六年(1859)二十五歳のころには江戸の試衛館で師範代をつとめるまでになった。
(中略)
土方が行商中に小島鹿之助の母キクあてに出した手紙が残っているが、それには、
「先日お届けした風邪薬がよく効くようなら、お伝えください。すぐまたお届けします」
といった内容が記されている。土方の優しい心づかいがしのばれると同時に、彼が石田散薬以外の薬も扱っていたことがわかる。
〔史料メモ〕
土方歳三の略伝もやはり近藤勇と同様『両雄士伝』が最も早く書かれた。
土方家の石田散薬については土方康氏の「曾祖父の弟土方歳三」(歴史と旅「新撰組大特集」)をはじめ、さまざまな書物に紹介されている。福地源一郎の土方の印象は流泉小史の『新撰組剣豪秘話』にある。『豊玉発句集』は土方康氏が所蔵されている。
土方と風邪薬のエピソードは小島政孝氏の『新撰組余滴』に出ている。これは小島資料館蔵の『両雄逸事』『慎斎私言』(小島守政撰)『両雄士伝補遺』(橋本清淵編)の三点を中心に、小島家に伝わるエピソードをまとめたものである。
●信玄をイメージづけた肖像画は人違い?
和歌山県・高野山成慶院が所蔵する『絹本著色武田信玄像』(縦29.2センチ、横69.6センチ)は、『花鳥図屏風』(妙覚寺所蔵)、『松林図屏風』(東京・国立博物館所蔵)、『枯木猿猴図』(龍泉庵所蔵)など独自の装飾画様式を確立した桃山画壇の巨匠・長谷川等伯(天文八年〜慶長十五年=1539〜1610)が描いた、わが国の重要文化財に指定されている有名な信玄像である。
この信玄像は、信玄の晩年の姿を描いた直垂姿の座像で、戦国の乱世を生きる武士の風格ある姿を活写したものとして歴史ファンにも有名だが、歴史研究家の藤本正行氏の説によると、座像の主は信玄ではなく、能登に勢力を張っていた畠山一族の名ある武将の肖像画だという。
藤本氏によると、この肖像画を信玄像とする最初の記録は寛政年間(1789〜1801)に、松平定信が各地に残る絵画・武具などを模写させて編纂した図録集『集古十種』で、その後、今日までそのまま信玄像として人口に膾炙してきたのだという。
藤本氏が、この肖像画に疑問をもったのは数年前で、信玄といわれる人物の腰刀と太刀の目貫部分に描かれている家紋が、武田家の「花菱(武田菱)」ではなく、能登の畠山氏の家紋である「丸に二引き両」であることに気づいたことからだった。
また、描かれた人物像が信玄晩年の姿といわれているが、マゲが小さく描かれており、もし信玄というのであれば、信玄が出家する三十九歳以前でなければ不自然である。
さらに、信玄が三十九歳のとき、等伯は二十一歳で、画にある「信春」の落款は、等伯が二十代半ばから三十代半ばに用いたものである、二十一歳以前は用いていない。そればかりか、等伯は能登の生まれであるが、三十過ぎまで北陸を離れた形跡がない。等伯が北陸を離れて描いたとおもわれものは、現存する作品の中では三十四歳時のもので、その翌年に信玄は他界しているのだ。
それに、能登を中心に活躍していた等伯が、なぜ甲斐の太守である信玄の肖像画を描かなければならなかったのかという疑問も起きてくる。
また藤本氏は、画の右側にみられるハヤブサは北陸地方で多くみられる鳥であり、描かれた人物は畠山一族の名だたる武将にちがいない、と指摘し結論づけている。
●モデル不明の肖像画ミステリー
しかし、この説に対する反論もある。
山梨県立美術館の守屋正彦学芸員は、
「成慶院には、勝頼が信玄の肖像画を寄進した旨の自筆書状が残っている。丸に二引きの両は足利将軍の紋であり、西上を促した信玄に将軍家が家紋の入った刀を下賜したとも考えられる……」
と、藤本説を否定している。長いこと日本中が、信玄と信じきっていた肖像画だけに、それを正面から否定するような説を否定したい気持もわからないではない。
ともあれ、わが国の重要文化財にまで指定されている「信玄像」が、藤本氏のいうように畠山一族の名のある武将ということになると、いったい画像のモデルは誰なのであろうか。その興味はつきない。