川越の歴史(3)


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歴史の断片
「大江戸死体考 人斬り浅右衛門の時代 氏家幹人 平凡社新書016 1999年 ★★
花のお江戸には死体がゴロゴロ!?
水辺には土左衛門、道端には行き倒れ、
検死マニュアル≠烽キでにあった江戸時代。
そして、死体を使った刀剣試し斬りを家業にし、
生きギモ≠ナ富を築いた、浪人・山田浅右衛門――。
コワくて不思議な世界がそこに見えてくる。
史料はホラー小説よりも恐ろしい!
知られざる江戸のアンダーワールドへご招待。

 川越に関する記事は長いので、別のページにしました。 をクリックして下さい。 

「日本史人物事典」 児玉幸多監修 講談社+α文庫 1995年 ★★
 山田浅右衛門(やまだ あさえもん)七代  首切りを業とした達人
 1813〜84(文化10〜明治17)
経歴 浪人。山田家は、代々浅右衛門を名乗り、罪人の首切り役を努めた。職名は「将軍家御試御用」と称されるが、正式な幕臣でなく、身分は浪人であった。
逸話 山田浅右衛門家は、将軍家や大名家の刀の試し斬りを依頼され、罪人の首を実際に斬って多額の謝礼を受けた。また、罪人の生き肝を奉行所から下げ渡され、これを薬として売ったことから、大名並みの収入があったともいう。一方では、多くの罪人を冥土へと送ったことから、その罪滅ぼしのため、死者のための供養塔を建てたり、貧民の救済をするなど、浄財を心がけている。
その後 明治十四年に斬首の刑が廃止され、七代吉利は御役御免となった。

「みて学ぶ埼玉の歴史」 『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編 山川出版社 2002年 ★★
  ・コラム 徳川三代と鷹狩り
 家康は関東に入封した1590(天正18)年11月に、忍(行田市)付近で鷹狩りを行って以来、盛んに各地で鷹狩りを目的とした巡遊を行った。これは、単に趣味というだけではなく、領内の民情視察、地形把握、家臣団の軍事調練などの意味があったと考えられる。
 家康は川越・忍・岩槻方面を中心に、10〜12月の冬場に数日間から半月間ほどにわたって巡遊した。当初、鷹場()はその都度臨時に制定され、その地の各城や社寺、土豪の屋敷で休泊することが多かった。埼玉郡大相模郷(越谷市)の大聖寺もこのような場合の一つで、葵紋付きの多くのゆかりの品々とともに、家康が使用したと伝えられる豪華な「垢つきの寝衣(ねごろも)」が残され、市指定文化財になっている。また初期の鷹狩りでは、農民の直訴を受けたり、在地の土豪・功労者を家臣に登用したり、苗字帯刀を許可するなどの行動も行っている。後には、主要街道沿いに専用の御殿や御茶屋(おんちゃや)が設けられるようになり、天正末頃には鴻巣・増林(ますばやし)(越谷市)に、慶長年間には浦和・蕨に新設され、また先の増林を越谷に移すなどした。
 家康は、鷹を最高権力者の象徴と考え、他の大名・公家には使用を許さなかった。1601(慶長6)年、唯一、伊達正宗に幸手・久喜一帯の鷹場を与えているが、これは関ヶ原の戦後の勢力分析を考えた特別の懐柔策と考えられる。
 1605(慶長10)年4月に家康は将軍職を秀忠に譲り大御所となったが。以後もたびたび鷹狩りを行った。1611(慶長16)年10月下旬には駿府から川越に出向き、さらに忍に進み、ここで参勤途上の伊達正宗と面会している。一方、秀忠も家康に促されて鴻巣で鷹狩りを催し、川越で家康と会っている。翌年には鴻巣で父子は面会しており、鷹狩りを利用して直接情報交換をしていたことが想像できる。
 しかし、その政治的必要性からだけでなく家康は鷹狩りそのものが好きだった。彼の死後に遺体が久能山から日光に移された時、12対の木彫りの鷹を行列に加えたほどであった。上図(略)は、岩槻城主阿部重次が家康の冥福を祈って狩野探幽に描かせ、仙波東照宮に納めた12枚の鷹絵額の一つである。このことからも、家康の鷹狩り好きがうかがえる。
 家光は1618(元和4)年以降、川越を中心に遊猟している。彼の場合は、桜の開花期に合わせて出向き、養竹院(ようちくいん)(川島町)で休息し、周辺の花々を見ながら、宴や茶会を催すというケースが多かった。現在、同院には家光が作った桜の和歌の石碑が建立されている。
 1637(寛永14)年には、江戸から五里四方が将軍鷹場と設定され、該当の村々に五カ条の「放鷹場制札」が掲げられた。さらに5年後、幕府鷹場の外側に徳川御三家の鷹場が設定された。この頃には、鷹を扱う鷹匠、鷹の餌である小鳥を調達する餌指(えさし)、放鷹場の管理や情報収集にもあたったとされる鳥見役(とりみやく)などの職制も確立した。
 しかし、鷹場に設定された地域に住む農民や、得物となる野鳥の無断捕獲を禁じられたり、これらの動物を驚かすおそれのある行動を限定され、加えて、時には鷹匠の横暴も我慢しなければならなかった。

「平賀源内」 芳賀徹 朝日選書379 1989年 ★
 18世紀の江戸、物産学に戯作に油絵に鉱山開発に、八面六臂の大活躍をした、風来山人こと平賀源内。 神出鬼没、江戸の知と感性の枠組みを痛快にゆさぶった「非常の人」の生涯を鮮かに描く。朝日評伝選の選書版。

14.再び長崎へ の中に、川越の知人に宛てた源内の手紙が紹介されています。

 自分の西洋博物書の蒐集に触れ、その上にそれにならったあの日本物産譜シリーズの企てにまで言及している貴重な文面である。明和四年(1767)と推定される年の十一月十九日付け、川越藩六万石秋元但馬守涼朝の儒臣で旧知の間柄である河津善蔵にあてた手紙で、当時の源内の生活の内外の様子をもうかがわせるものがある。河津善蔵がなにか物産について同年春と五月とに問い合わせの手紙をよこしたのに対し、「大取込の訳御座候テ」返事がこれまで延引してしまった詫びをいう一節から始まるが、長文なので前後をはしょり、城福氏の読み(『平賀源内の研究』、創元社、昭和51年)に送りがななどを補って引くこととする。

一 御尋ねの別紙、存寄り荒ゝ書付け申上げ候。然し乍ら産物の儀ハ兎角直ニ見申さず候て兎や角考ヲ付け候得バ、存じの外相違の儀出来仕り候。之により私流ニてハ何ニても其物ヲ見申さず候内ハ決して考ヲ付け申さず候。外より形状書付け参り候ても、御答申さず。古今諸家共、此地獄へ落ち候事多く相見へ申し候。本草綱目中御覧なさるべく候。然れ共、遠方仰せ遣され候儀故、ざつと存寄り加筆仕り候得共、御書面ヲ見候迄ニて形状直ニ見申さざる品故、決してそれとハ定め難く御座候。「書は言を尽さず」ニて、いか程上手ニ書取り候ても、直ニ其物ヲ見る様ニハ書取りがたく御座候。能く書取り置き候ても、見る人の心ニて違ひ申し候。此以後共、珍物御取出しなされ候ハゞ、何卒押葉ニて御見せ下さるべく候。石薬類ハ勿論少シヅヽ御こし下され候得バ、随分相分り申し候。紙上の空論ハ、私物産の制禁ニて御座候。

 ここまでの一節は、源内の物産学における即物実証の基本的立場の表明と強調である。それは城福氏も指摘するように、すでに『物類品隲』でも「イケマ」の項その他に繰返し述べられ、物産会で一貫して実践されてきた態度であった。かの『本草綱目』でさえ、実物を見ずに誤った判断を下してしまうという「地獄」に陥っている、というのである。だから、本来ならばあなたの問い合わせに対しても、実物が伴っていない以上、答えるべきではないのだが、遠方川越からの御依頼だから特別に「ざつと存寄り加筆仕り候」というあたり、源内の、自分の権威を高く売りつけようという気持がほの見えないでもない。しかし、文章ではどんなにうまく動植物あるいは鉱物の特徴を述べたつもりでも、それはやはり記述者の主観に左右される、などというのは、源内の物産学徒としての長年の経験に裏づけられた、さすがに傾聴すべき意見ではなかろうか。「紙上の空論ハ私物産之制禁ニ而御座候」とは、なかなか格好のいい台詞である。次の一節に日本物産図譜のことが出てくる。―

 一 序ながら申上げ候。右申上げ候通り、古人其物ヲ見ずして人の書置きし糟粕ヲねぶり、さまざまの億説生じ申し候故、本草綱目と申す古道具屋書物出で申し候故、肝心の薬用二相成り候薬相知れ申さず候。并び二唐土二産せず、外国より渡り候物十ニ三四相見え申し候。是ハ猶以て唐人どもめつそうの億説ヲなし、甚だ憂べき事二御座候。之により、近世私儀紅毛人へたより蛮国の種類心掛け申し候。幸なる哉、紅毛のドヽ子ウスと申す本草手に入れ、且又極彩色の紅毛花譜并二介譜、虫譜などハ各 日本二一部の書と秘蔵仕り置き候。形状真二セまり、実に古今の珍物二御座候。何卒御覧に入れ度く存じ奉り候。右の通り図面仕り候得バ文章ハ効能のミ二テ相済み候故、甚だ弁利二御座候。夫より思ひ立ち火浣布略説ノ末二出し候書目取立て候積り二御座候得共、私力二てハ参り難く、当時助力の人も御座無く候故、止むを得ず秩父山中二て金山ヲ思ひ立ち候処、いまだ時至らず、金ハ出でず、剰へ少ゝのたくわえも皆二仕候。然れ共何ぞ二テ取付け右の著述成就さへ仕り候得バ、唐、紅毛へも渡り、肝ヲ潰させ申すべく候存念二御座候。夫故近年ハ所謂山師二相成り、昼夜甚だ多用故、貴報も申上げず候。其段、何分御呵り下さる間布候。扨ゝ、存ずる儘二参らぬ世の中二御座候。

 『本草綱目』がいまとなっては時代遅れの書である上に、他の中国本草書にも、中国に産しない「外国」≒西洋産の物産がかなり多く記載されている。そこで西洋の博物書によって確かめ、研究をひろげようと、ドドネウスをはじめ貝譜、花譜、虫譜などのみごとな図入りの珍本を入手した、というのだが、すでにみたように、この手紙の明和四年までに彼は右の四種の蘭書を「秘蔵」するにいたっていた。手紙のあて名人河津善蔵は、川越藩儒者で川越に在住していたから、源内は「此以後、秩父往来の序で二ハ紅毛の書物共持参仕り、御覧に入れ申すべく候」と、手紙の結びの部分に書いている。実際にそうしたかどうかはわからないが、これで彼は秩父往復には川越街道をたどっていたことがわかる。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 平賀源内(ひらが げんない)
1728〜79(享保13〜安永8)江戸中・後期の本草学者・戯作者。
(系)高松藩足軽白石良房の3男。家督後先祖の平賀姓となる。(生)讃岐国支度浦。(名)国倫、字は士彜、通称元内・源内、号を鳩渓、戯作号を風来山人・天竺浪人・紙鳶堂、浄瑠璃号を福内鬼外、俳号を季山。
1752(宝暦2)藩命により長崎に留学、医学・蘭学を学ぶ。'54家督を妹婿に譲って江戸に出て、田村藍水につき昌平黌にも籍をおいた。藍水に勧めて物産会を開き大いに世人の注目をひいた。'60ころには本草学者として名声をえ、薬坊主格4人扶持を給された。しかし封建的な束縛の故か、高松藩を辞して浪人、一時は田沼意次に仕えた。'63本草研究を整理して「物類品隲」を発刊、ついで火浣布・寒暖計・羅紗の製作、鉱山開発・油絵などあらゆる分野に才能を発揮、エレキテル(摩擦起電機)は最も人を驚かした。文学面でも滑稽本「風流志道軒伝」「根南志具佐」や「放屁論」をはじめとする「風来六々部集」などで鬱屈した感情と当時の社会や思想に対する鋭い批判をj行った。「心霊矢口渡」などの戯曲も書いたが、ありあまる才能を持ちながら世に迎えられぬ生活のいらだちから'78(安永7)2人を殺傷、翌'79牢獄で病死した。
(著)「平賀源内全集」全2巻、1932〜34。(参)城福勇「平賀源内」1971、水谷不倒「平賀源内」1977。

 平賀源内&志度寺

「馬琴一家の江戸暮らし」 高牧實 中公新書 2003年 ★
 いわずとしれた伝奇小説『南総里見八犬伝』の作者滝沢馬琴は、実に具体的かつ詳細な日記を残している。長男の嫁の路(みち)も、馬琴のあとをついで同様の日記を書き続けた。下級とはいえ武士であることを意識し続けた馬琴も、隠居後の生活は町人のそれにほぼ近い。家族の結婚、お産、離縁、死別から台所事情、近所づきあい、祝義のやりとりまで、十九世紀中頃を生きた江戸市井人たちの四季折々を垣間見る。
 
滝沢馬琴家の家族
 馬琴の家系
 馬琴は、『吾仏乃記(あがほとけのき)』に家譜を書き、滝沢家の家系について書き残した。木村三四吾氏が、その解説に滝沢家の略系図を加えている。
 出羽の最上義光の家臣滝沢覚伝を祖とする。ついで秋円、武蔵川越藩主松平伊豆守信綱に仕えた興也、真中氏から養子に入った興吉、馬琴の父の興義と続いた。
 興也は、信綱に仕えたあと、信綱の四男堅綱の分知にともなって、千石の旗本の家老となった。滝沢家中興の祖とする。
   (後略)
馬琴の財布、路の財布、男の家事
 財布を握る馬琴

   (前略)
 文政10年正月、野田屋又兵衛が薪を届けた。馬琴は、去年の冬から気に入らなかったので、受け取らなかった。自分で白川屋へ注文に行った。堅木八束を買った。2月、地主杉浦方から川越の薪が来た、と知らせてきた。馬琴は、百に行かせた。杉浦老母の世話で、薪を買い入れた。4月、老母から薪の積送状を見せてもらった。川越からの田舎炭も世話してもらった。老母の世話で田舎炭5俵を買った。路に受け取らせた。薪も届いた。薪割人足が来ない。杉浦方の下男が割った小束12把を借りた。その後、薪割人が来た。割った薪を百と路が物置に入れた。馬琴も手伝った。五月、田舎炭の代金を川越の薪屋が受け取りに来た。老母からその知らせを受けた。馬琴は、百に金1両を杉浦方へ持っていかせた。老母が、炭がよくないので、半俵分を値引きさせた。車力代76文ずつであった。馬琴は、釣銭164文を受け取った。
 8月、老母から炭が会所へ運ばれてきた、と案内を受けた。馬琴は早速、日雇人足を出した。すでに売り切れていた。馬琴は、2月にも人足に会所へ行かせたが、川越からの舟が来ない舟間(ふなま)で、炭を買えなかった。無駄な人足賃を払っていた。
 12月、馬琴は鉄砲洲本湊町(現中央区湊1丁目)の炭問屋松本三郎治から、炭1駄8俵を買った。代金2両と銀4匁2分8厘であった。本郷の餅屋笹屋伊兵衛の世話であった。川越の田舎炭より直段が高かった。田舎炭はよくなかった。百がその炭粉を利用して炭団200個を作り使っていた。路は四谷宅で、角炭団を200個買って使っていたことがみえる。炭より安価で、経費を節約できた。
 天保2年正月、老母から川越の薪屋が来た、と知らせを受けた。薪代金2朱と車力代64文を、老母からの使いに渡し、新たに薪を追加注文した。2月、炭問屋松本三郎治方の手代忠八が来た。馬琴は近頃、炭入れが悪く、1俵を4日ほどで使ってしまう。炭入れをよくよく調べるように、と忠八に厳しく注文をつけた。10月、手代忠八が炭の注文を取に来た。8月に来るところ、三郎治が病気で来ていなかった。金1両につき炭15俵であった。馬琴は路に応対させ、1駄を注文した。11月に入って、忠八が1駄8俵を届けてきた。納める日が10日も遅れていた。中旬に忠八が炭代を受け取りに来た。駄賃が224文であった。馬琴は、炭代と駄賃を路に渡して支払わせた。
   (後略)

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 滝沢馬琴(たきざわ ばきん)
1767〜1848(明和4〜嘉永1)江戸後期の戯作者。
(系)滝沢興義(おきよし)(臧)の5男。母は吉尾門左衛門の娘お門。(生)江戸深川。(名)解(とくる)、字は瑣吉、馬琴は号、別号に曲亭・著作堂・蓑笠・玄同・閑斎・■斎・信天翁・狂斎・愚山人など。
1776〜87(安永5〜天明7)の間、はじめ松平、次に戸田、水谷、小笠原、有馬の各家に仕えたが持前の傲慢な性格と不遜な野望が禍をして、いずれも短期で仕を辞している。

(墓)東京小石川の深光寺。
(著)洞富雄他編「馬琴日記」全4巻、1973〜78。
(参)麻生磯次「滝沢馬琴」1943。

「佐渡金山」 磯部欣三 中公文庫 1992年 ★
 歴史小説や日本近世史の記述で暗いイメージを付された佐渡金山。金鉱を重視した秀吉は佐渡を直轄領とし、家康は天領として佐渡奉行を置いた。封建政治が内部矛盾を深めていった時代、幕府は大都市に溢れる生業のない浮浪者を鉱山に送りこんだ。苦役を強いられる無宿者と彼らに性を提供する遊廓の女たち。底辺に生きる人々、金山の過酷な歴史、および佐渡文化の断面を克明に描く。

地底の水替
  (前略)
 安永七年(1778)の七月に、はじめて六十人の無宿者が、信濃路を経て、佐渡に着いた。一人一人囚人なみに唐丸籠にのせられていた。
 島送りの発案者は、勘定奉行の石谷備後守であった。石谷はもと佐渡奉行だった。鉱山の仕法改革で業績をあげたひとだが、計画をゆるしたのは、老中松平輝高だったらしい。有名な田沼意次が、将軍家治のもとで権勢を誇っていた田沼時代に、この島送りが発案される。松平は田沼派に属していて、田沼の重商政策をおしすすめた一人だった。鉱石を掘る大工や穿子は、ある程度熟練した技術がいる。水替なら腕力や体力があれば勤まる。そうしたことで、無宿者は水替人足に使役することがきまった。「二十歳位から三十四、五歳位までの丈夫な者」と、佐渡奉行は条件をつけて、幕府の要請に応じたのである。
 島送りは、幕府の崩壊(明治)まで続いた。おおよそ百年間である。はじめは江戸市中の無宿者の捕縛に限っていたが、のちには長崎や大坂の天領地からも送られるようになり、その数は二千人を超えた。百年間に二千人だから、一年平均が二十人ほどになる。そう多い数ではない。が、常時二百人近い水替を確保できることになったから、鉱山はずいぶん助かったことになる。
 一茶(俳人)は、生れ故郷の信州柏原宿で、「五月晴れや 佐渡のお金が通るとて」。こう詠んだ。佐渡でとれた金銀荷を満載した馬の行列が、家の前を通っていく。
 無宿を目籠(唐丸籠)にいれて佐渡まで送るのに、信州路と三国路と、奥州会津通りの三つの道があって、三道をほぼ隔年交代で送った。そうした沿道に住んでいたひとたちは、この行列を眺める身体の向きをかえると、こんどは別の光景をみた。佐渡へ送られる唐丸籠の長い列である。多い年は、それが六十梃もホコリをあげて通った。
  (中略)
 駕籠の無宿たちは、足かせ、または手鎖、腰縄がしてあった。食事のほうは「握り飯、タクアン、湯茶」に限るとされた。道中はなるべく手軽にすませる、というのが道中奉行や勘定奉行の指令である。
 かつぐ人足や泊りのときの不寝番は、宿場人足や近郷からかり集めた助郷人足が、無賃同様で運ぶのだが、この苦労がなみたいていではない。信州、三国、会津の三道交代で送ったのは、沿道の宿場からの苦情が絶えなかったためである。江戸からだと三百キロもあるから、早くて十五、六日、事故があると三週間もかかった。
 この長い道中を、なぜ流人なみに目籠で送ったか。一人ずつ歩かせたほうが、手軽に輸送できたのであって、そうしなかったのは「見懲り」の効果を考えたためらしい。つまり見せしめで「市中引き回し」とか「晒の刑」のように、囚人を威嚇することで、犯罪の広がりを防げると考えていた。だから沿道のひとたちは、無罪または軽罪の無宿たちを「囚人」(流人)だと考えていたらしい。信州永井宿の記録(天保十三年)に「囚人賄いの義は、握り飯、香の者、湯茶限り、勢(瀬)戸物不用」と、彼らを囚人に見立てて書いている。
 目籠は琉球ゴザでつつみ、下の台は板で、大小便のぬける落し穴がある。前後に穴があって、食事のさし入れをする。そこから「東男」たちに手を出させて、握り飯をつかませる。だから茶碗の用意など無用、という宿々への申し送りであった。
  (中略)
   ☆
 無宿の名前をしるした送り状が、佐渡にはほとんど残っていない。が、ふしぎにも安永七年に送られた第一陣の六十人については名、年齢、出生地などしるした留書が残った。
 金井町泉の藤村家で相川からもとめたという古い屏風の下張りから出てきた。珍しい例で十七枚の和紙で綴ってある。
 
江戸より被遣候水替人数名前
 □ 助 二十七才
品川無宿・あんま市五郎 二十九才
藤沢無宿・入墨要 助 二十才
上総無宿・入すみ新 平 二十八才
   (中略)
甲斐守掛り
神田小三郎 三十二才
下谷孝 順 四十八才
上総吉五郎 二十二才
伊勢無宿・はなびろ三之助事・入すみ三次郎 二十九才
   (中略)
土屋帯刀掛り
越後無宿・三ヶ月小僧・入墨長五郎 二十六才
上総・入すみ次郎吉 弐十才
浅草小姓・入すみ吉五郎 二十八才
深川・入墨与 市 二十二才
八丁堀・入すみ金兵衛 四十三才
橋川・入すみ勘太郎 三十六才
川越・千次郎事・入墨権次郎 二十八才
神田・入墨甚 八 三十二才
   (後略)

「伊能忠敬の歩いた日本」 渡辺一郎 ちくま新書206 1999年 ★
 日本地図をはじめて作り上げた人物、伊能忠敬。事業家として成功した人生にピリオドを打ち、49歳で引退。そのまま楽隠居せず、なぜか55歳から地図作りにのめり込む。 伊能の測量は、深川・浅草間での試行にはじまり蝦夷地まで歩測した第一次測量から2度の九州測量まで、合計8回にもおよんだ。 17年にわたる気の遠くなる道程に、伊能を駆り立てたものはいったいなんだったのか? 伊能の地図を丹念に読み、測量隊が歩いた道のりをたどりながら、その謎に迫る。 伊能測量隊の各地でのエピソードを盛り込みながら、実り豊かな第2の人生の歩みを考える、待望の一冊。

 伊能測量隊は二度、川越に来ています。

 第8章九州ふたたび/九州第二次測量の経路
 文化11年(1814)は姫路から北上し、西脇、生野をへて1月26日福知山、2月4日宮津に達したのち2月26日京都に戻る。 東海道を下って3月19日津まで行ってから北上し、岐阜、大垣をへて下呂から4月16日高山に出る。 古川まで行って反転し、4月20日野麦峠を越えて木曾谷に入る。薮原、洗馬から松本に出て善光寺に参詣。 さらに飯山城下まで進んでから南下して、須坂、松代、追分、富岡、大宮、川越をへて5月23日(7月10日)黒江町に帰着した。
 第9章伊豆七島、江戸府内/大島を測り熱海で越年
 翌文化13年1月26日(1816年2月23日)に熱海を出発して、御殿場、裾野、吉原(富士市)、大宮郷(富士宮)、厚木、長津田、川越、松山、熊谷、など富士山周辺から江戸から江戸の北西方面の各地を測って、4月12日に江戸亀島町の地図御用所に戻った。
 なんとも目的が理解できない測量旅行である。伊豆七島でさんざん苦労した骨休めであろうか。熱海に一ヵ月も滞在している。
 この第九次測量は、長い船旅をともなうので高齢の伊能忠敬は参加をしていません。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 伊能忠敬(いのう ただたか)
1745〜1818(延享2〜文政1)江戸後期の測量家。
(系)神保貞恒の3子、伊能長由の嗣子。(生)下総国山武郡小関村。(名)幼名を三治郎、通称は三郎右衛門、隠居して勘解由(かげゆ)、字を子斎、号を東河。
18歳のとき佐原の名門伊能家に入り、家業の酒造や米取引に才を発揮した。のち名主となって、利根川の洪水、浅間山噴火による降灰、天明の飢饉などに際して私費を投じて村政に力を尽くし、苗字帯刀を許された。この間、算術・天文などに興味を示したが、1794(寛政6)長男の景敬に家を譲って隠居して江戸に出、研究を専らにするようになった。’95幕府の改暦事業のために大坂より江戸に来た暦学家高橋至時(よしとき)に入門して西洋天文学などを学び、また自ら天文観測を行なった。次に地図製作を志し、高橋至時の推薦によって1800幕府の命を受けて蝦夷(えぞ)南部を測量、以後17年間測量に従事し、’16(文化13)にいたって全国の沿岸測量を終えたが、地図の編纂は死後3年目の’21(文政4)に完成し幕府に上呈した。この「日本沿海與(よ)地全図」は<伊能図>と呼ばれ、わが国の実測図の最初である。「求割円八線法」「地球測遠術問答」など算術・測量の著がある。遺言により、江戸浅草清島町源空寺の高橋至時の墓の傍らに葬られた。1883(明治16)贈正四位。
(参)大谷亮吉「伊能忠敬」1917。

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年 ★★
  伊能忠敬

横から見た赤穂義士 鳶魚江戸文庫3 三田村鳶魚著/朝倉治彦編 中公文庫 1996年 ★
 大野九郎兵衛を悪人とし、赤穂浪士を義士として伝説・偶像化したのは…。浅野長矩は当世風な勘定高な殿様。大石良雄の遊興は果して敵を欺くためだったのか。四十六人の義士が切腹時どのような態度で臨んだのか。泉岳寺義士遺物の真贋。――鳶魚が気ままに監察した、赤穂義士吉良邸討入り一件の顛末。

女の子の行方/問題の堀部弥兵衛の女
   (前略)
 時がたちますと、何もかもわからなくなるもので、まことに僅かな年限でも、さすがに名高い赤穂義士の事柄も、すぐに知れなくなったものとみえて、妙海のような贋物が通用するようになっております。これにはいろいろおかしい話もございますが、秋田侯のお医者で小田島元良という人がございました、これが間喜兵衛と親戚であって、その息子の新六の妻というのは、堀部弥兵衛の娘である、その娘が後に出家して妙海になった、という話がある。これは明和の頃のことでありますが、殿様が元良をお使いにして、泉岳寺の内に庵を拵えて住っておりました妙海のところへ、昔話を聞きにお遣しになりました。その時、妙海はただ落涙を致すだけで、何事も申さなかった。秋田侯からの賜り物はありがたくいただきましたけれども、何のお話もせずにしまった。これは秋田藩の伝えであります。それはこれっきりの話のようでありますが、間喜兵衛の親類書の中を見ますと、小田島元良などというものは書いてないのみならず、間新六は無妻であります。堀部弥兵衛に娘が二人なかったことは、いうまでもない。これだけのことは、親類書を一見すればすぐにわかるはずである。しかるに、秋田の殿様が騙されたというのは、いかにもおかしいのですけれども、名高い赤穂浪士のことは知っていても、その親類書にちょっと手をつけてみるということだけもしていなかったことが、これでよくわかります。それからもう一つは、小田島元良なるものは、妙海婆さんと何かの続き合いでもあったんではなかろうか、と推測される。婆さんは、もと二本松侯のところに、弥兵衛の妻が御奉公している時使った小女だったのですから、東北人でありそうな話で、その辺から考えますと、妙海の身許がわかってきそうにも思われます。この妙海のことのみならず、安兵衛の妻の成行きにしても、まだつきとまったことはわかっておりませんが、もっと手をかけてまいりましたならば、しまいには明白になるであろうと思います。
 義士の娘の行方につきましては、こういう問題になった人のほかは、すべて知れないのでありますが、気をつけておりますうちに、ただ一つ見つけました。それは岡島八十右衛門の娘で、切腹当時には、八十右衛門の妻とともに赤穂においてあったのですが、それが後に、秋元但馬守喬房(たかふさ)の家来安藤源五右衛門というものの方に嫁入りを致しました。この安藤の家は、秋元家で代々勘定役をつとめております家でありますが、この人の曾孫に吐菩加美講(とほかみこう)の祖になります井上正鉄(まさかね)が生れました。これは井上正鉄が生れたことによって、岡島の娘の曾祖母が、書物の上に現れてくるようになったのであります。昔の世の中は、女が出しゃばらない方がいいとしてあったのでありますから、義士の娘達も、つづまやかに目立たない方がいいと思っておったので、子孫に格段な人が出来ない限りは、世間に知れないようになってまいるのも、不思議はなかろうと思います。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)
1870〜1952(明治3〜昭和27)明治・大正・昭和期の随筆家。 (生)東京八王子。(名)本名玄龍。
各地の地方新聞記者をした後、三宅雪嶺の「日本及日本人」誌上に随筆を発表。政教社社員となる。「元禄快挙別録」「芝居と史実」など江戸の風俗・文化に関する豊富な知識を語ったものが多く、没後「江戸叢書」全20巻として出版された。
(著)「三田村鳶魚全集」全27巻、別巻1、1975〜83。

「古文書を読もう」 森康彦 講談社選書メチエ 2003年 ★
第四章 特別篇
 2遍歴する女性
 <きぬという女性の欠落から帰住までの口上覚>(文化十〔1813〕年)
 きぬの物語
 吉原に売られる
 徳兵衛との再会
 解放を勝ち取る

「埼玉民衆の歴史 明治をいろどる自由と民権の息吹 中沢市朗 新埼玉社 1974年 ★★
 第1章 埼玉の夜明け前/4 幕末の民衆文化と宗教
  井上正鉄と中庭蘭渓
 天保十(1839)年七月。深緑の秩父路を幾人かの旅人が秩父郡日野沢村(皆野町)をめざして急いでいた。ときは天保大飢饉のさなかであり、幕府の政治も崩壊のきざしをしめし始めた頃である。この旅人とは禊(みそぎ)教教祖井上正鉄(まさかね)と、その家族と門人であった。幕府の追及からのがれるために、正鉄は日野沢村に住む門弟の中庭蘭渓のもとに、身を寄せようとしていたのだ。
 正鉄は武州足立郡梅田村(春日部市)神明宮の神官であった。館林藩の下級武士の家に生まれた彼は、諸国行脚の旅に出てそのなかで医術学び、さらに四十歳を過ぎた頃、神道の教説に学び、禊教を創案した。それは天照皇大神の前で禊をとなえ、宝祚無窮(ほうそむきゅう)(天皇の位が永遠に続くこと)、天下泰平、万民安穏、五穀豊穣を祈るものであった。また「とほかみえみたま」とくり返し高らかに唱え、呼吸をととのえる修行法を教えた。強烈な修行をまじえた行動的、神秘的、復古的なこの神道説は、幕藩制からの解放をのぞむ民衆にとり、幕府の崩壊を予測させた。そして正鉄自身も、時にふれ門人たちに幕府の衰亡を予言した。幕府はだから正鉄の禊教を弾圧した。
 中庭蘭渓の家は、代々中日野沢村の名主をつとめた旧家で、兵左衛門を襲名していた。彼は天保の江戸で、和漢の学と医学を身につけ帰郷して、名主のかたわら医者と私塾をいとなみ、その名声は近在に知れわたっていた。在府中、彼は正鉄門下に加ったのであろう。幕府のきびしい追及にたえてきた師正鉄を彼は手厚くもてなした。多感な青年名主蘭渓にとり、師の存在は、いながらにして教示をうけ、江戸の様子などを聞くのに願ってもない好機であった。
 だが正鉄は体を休める間もなく、祓(はらい)をとなえながら、自然石にみずからのみをふるい碑をきざむきびしい大祈願を始めた。おそらく神道の興隆と、倒幕への祈願をこめてのことであったろう。その後、井上正鉄は幕府にふたたび捕えられ、三宅島に流された。その地で流人頭ともなり、蚕種を上州からとりよせ養蚕指導にあたった。正鉄はまた飲料水確保のため貯水池の築造を計画した。そして島民に親われつつ五十九歳の生涯をその地でとじた。
 秩父山中に蒔かれた禊教という種子は、中庭蘭渓の手により、山深い日野沢の地を中心に、上州甘楽地方にまでひろがっていった。中庭蘭渓にとり、禊教とは、文字通り民衆救済の教理であった。山間の痩せた土地を開りひらき、そこを豊かな土地にする課題も、師正鉄から学んだ精神であった。
 その後秩父山中で、明治維新の政治変革をみとどけた蘭渓は、後年(明治十五年)自民党に入党する。時に六十八歳。そして秩父自由党員第一号として村の自由民権運動に重要な役割りを果たすことになる。一切の私欲邪念をすて、天地、国王、父母、衆生の四恩に報謝し、皇室を尊ばねばばらないと教えた禊教に、村人は「世直し」の理念を発見したのであろう。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 井上正鉄(いのうえ まさかね)
1790〜1849(寛政2〜嘉永2)江戸後期の神道家。
(系)上野国館林藩士安藤真鉄の次男。(生)江戸の藩邸。(名)幼名喜三郎。
神道禊教(みそぎきょう)の開祖。賀茂真淵の弟子であった父の遺志を継ぎ、1834(天保5)神祇伯白川家に入り神道を修めた。とりわけ禊祓の修行を重んじ、息の術を編み出し、これを教えの基本とした。息のはき方により身心の安定がはかれるとして、難病もこれによって治癒するとの教説を立てた。そして’40武蔵国足立郡梅田村の神明宮の神職となり、名も式部と改め、さらに教えを弘布した。江戸の武士や近在の農民の間に信者が増加するにつれ、幕府の弾圧の対象となり、一時捕えられたが、すぐ釈放され、ふたたび信者が増大すると、ついに’43三宅島に流刑され没した。’69(明治2)赦免により梅田村に改葬した。
(参)麻生正一編「神道井上正鉄翁」1933。

「歴史考証なるほど読本」 八剣浩太郎 廣済堂文庫 1992年 ★
 テレビや小説に登場する歴史ものは真実の姿を伝えていない!本書はユニークな時代風俗小説で知られる著者が、作品を書くために日本史の舞台裏を調べあげて、その成果を余す所なく解説した興味しんしんの歴史のインサイドストーリー。巻末特別書き下ろし「偽造された日本列島史・人物像」は現行日本史の虚偽に満ちた犯罪性を一刀両断にして必読!

 四.切腹について/細川の血ダルマ
 「浅草霊験記」などの実録本に伝えられた細川家の「血ダルマ事件」というのがある。
 江戸も中期の宝永四年、十四万石を加増された肥後細川家の江戸邸では、新たに奉公人を召抱えた。その時の応募者に、河越秋元家の浪人で大川友右衛門という兄弟がいた。兄を三百石、弟を二百石で召抱えてほしいというので、
 「何か、とくにすぐれた能力でもあるのか」
 と重役が訊いたところ、
 「何ごともみな人並みで、別にすぐれた芸はありませんが、私たちは一生のうちに一度でも何か人のやりえぬことえをしたいと常に心がけていますので、それを目的にご奉公仕りたいと思います」
 という。なかなか面白い答えであるというので、望み通り大川兄弟は召抱えられ、まじめにつとめた。
 数年たって、細川の上屋敷が失火全焼の憂き目にあった。火のまわりが速く、主従一同身ひとつで避難したが、その時、主君綱利が残念がっていうには、
 「日ごろだいじにしている達磨の掛軸を取りだすことを忘れた。だが、もう術もない。致し方ないことだ」
 それをきいて大川兄弟が申しでた。
 「われら両名に仰せつけくださらば、必ずぶじに取りだしてこらんに入れます」
 「いやいや、これではとても入られぬぞ」
 と綱利はとめたが、兄弟はどうしてもきき入れない。で、綱利も、危うい時はすぐ引き返せといって二人の願いを許した。
 兄弟は喜び勇んで猛火の奥へとびこみ、ぶじにその掛軸をとった。が、四面火の海で脱出は不可能になってしまった。最初から焼死覚悟でとびこんだ二人は、兄が刀をふるって弟の首を打ち落とし、その腹を割いて掛軸をおしこむと、自分もつづいて割腹し、弟の腹を覆って折り重なった。
 鎮火ののち、兄弟の黒焦げ死体を調べたところ、掛軸は弟の腹からぶじにでてきた。
 「なるほど、生涯に一度、人のやりえぬことをやったわい」
 人々は大いに感銘して、以来、その掛軸は「細川の血ダルマ」とよばれ、家宝として細川家に伝えられた―というのである。
 体の中で物を守るための切腹というのは他に類例がない。奇談といえよう。

「大江戸残酷物語」 氏家幹人 新書Y 2002年 ★
第四章 血達磨伝説
 細川の血達磨

「名字から歴史を読む方法」 鈴木亨 KAWADE夢新書 2000年 ★
 長い年月を経て、現代まで脈々と受け継がれている名字=B 日本人はどのように名字を持ったのだろうか。 名字は全国にどう伝播していったのだろうか。 名字に隠された史的意味合いを鮮やかに浮かび上がらせながら、名字という新たな視点から日本の歴史を探る一冊。(カバーのコピー)

「日本地図から歴史を読む方法」 武光誠 KAWADE夢新書 1998年 ★
 地図に記された数々の記号や線には歴史を立体的に知るヒントが隠されている。 京都、江戸が都≠ノ選ばれた地理的事情、北方の開拓と領土確定のなりゆき、古代から通商の要として栄えた港町の秘密など、地勢と時代が織りなす数奇なドラマを浮き彫りにする。

「新撰組100話」 鈴木亨 中公文庫 1996年 ★
 滅びゆく幕府に殉じ、はかなくも散っていった新撰組…。文久三年の誕生から明治二年の箱館戦争に至る新撰組の戦いの軌跡を、延べ百人余の人物を通して辿る。子母澤寛以後の研究成果を踏まえて描いた、新撰組隊士列伝であり、また同時に新撰組史でもある。研究に役立つ史料メモを付す。(カバーのコピー)
 第1章 天然理心流の群像/5 土方歳三(一) 家伝薬の行商人
 土方歳三は天保六年(1835)多摩郡桑田村石田(日野市石田)に生まれた。近藤勇より一つ年下だ。家は石田散薬≠ニいう打身の薬の製造販売を副業に営む富裕な農家だ。生家は幾分か往時の面影をとどめて現在も残っている。
 歳三は六人兄弟の末っ子で、まだ母の胎内にあるとき父を失い、六歳のとき母を失った。後に新撰組副長になったときにあらわれる酷薄な性情はこうした親の縁に薄い生い立ちからつちかわれたものかもしれない。家は長兄の為次郎が盲目だったので次兄の喜六が継いだ。
 十一歳のとき歳三は江戸上野広小路の伊藤松坂屋に丁稚奉公に出されたが、一年と辛抱できずに飛び出し、姉のぶの嫁ぎ先である日野宿の佐藤彦五郎の家に転げ込んだ。
 歳三が家伝の石田散薬の行商を始めたのはそれからだ。この薬は土方家が河童明神のお告げで作り始めたのだそうだ。土用の丑の日に多摩川の河原で摘んだ牛革草を原料にするが、製法は代々家長から口伝されて秘密になっている。これを服用するときは必ず酒とともに飲む。そうでないと効き目がないという。これは後に新撰組の常備薬となり、更には日清日露の戦役にも用いられたということだ。
 土方家に残された当時の御売の台帳を見ると、歳三が売り歩いた先は甲府、川越、横浜方面が多かったらしい。この間に剣術道具一式をたずさえ、行く先々の道場で他流試合を申し込み、剣の腕を磨いた。
 十七歳のとき、またもや江戸大伝馬町の呉服屋に奉公に出された。ところが奉公先の女中と関係ができて追い出された。
 『両雄士伝補遺』には都市像のことを眉目秀麗で、すこぶる美男子だと記してあるし、福地源一郎(桜痴)の印象では「色も白ければ、撫肩の少し猫背がかってはいたが、身長はすらりとした、あの仲間(試衛館道場の面々)うちでは男っぷりもよい方である上に、人との応対には抜け目なく、かつ如才なかった」というから、結構女性にはもてたらしい。
 やがて、佐藤彦五郎宅に入りびたっている間に近藤勇と知り合い、肝胆相照らす仲となった。彦五郎は日野宿の名主で、小島鹿之助と共に勇と義兄弟の契を結んだ仲だ。自宅に道場を持ち、勇にも出稽古を頼んでいた。歳三は、そこで勇に稽古をつけてもらっているうちに師事するようになったらしい。そして安政六年(1859)二十五歳のころには江戸の試衛館で師範代をつとめるまでになった。
  (中略)
 土方が行商中に小島鹿之助の母キクあてに出した手紙が残っているが、それには、
 「先日お届けした風邪薬がよく効くようなら、お伝えください。すぐまたお届けします」
 といった内容が記されている。土方の優しい心づかいがしのばれると同時に、彼が石田散薬以外の薬も扱っていたことがわかる。

 〔史料メモ〕
 土方歳三の略伝もやはり近藤勇と同様『両雄士伝』が最も早く書かれた。
 土方家の石田散薬については土方康氏の「曾祖父の弟土方歳三」(歴史と旅「新撰組大特集」)をはじめ、さまざまな書物に紹介されている。福地源一郎の土方の印象は流泉小史の『新撰組剣豪秘話』にある。『豊玉発句集』は土方康氏が所蔵されている。
 土方と風邪薬のエピソードは小島政孝氏の『新撰組余滴』に出ている。これは小島資料館蔵の『両雄逸事』『慎斎私言』(小島守政撰)『両雄士伝補遺』(橋本清淵編)の三点を中心に、小島家に伝わるエピソードをまとめたものである。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 土方歳三(ひじかた としぞう)
1835〜69(天保6〜明治2)幕末期の新撰組幹部。
(生)武蔵国多摩郡石田村。

「武田信玄 伝説的英雄像からの脱却 笹本正治 中公新書1380 1997年 ★
「風林火山」を旗印とする百戦錬磨の闘将・知将として強調されるあまり、武田信玄は時代を超越した極めて特異で偉大な人物になっている。しかし信玄といえども時代の子であり、社会に規制されて生きるところが大きかった。その信玄を知るには、個人を特別視することなく、戦国という時代の特徴を認識しなければ、真の人間像には迫れない。従来の伝説的な英雄論の枠組みを取り払い、社会の中の戦国大名として生きた武田信玄像を描く。(カバーのコピー)

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 武田信虎(たけだ のぶとら)
1494〜1574(明応3〜天正2)戦国時代の大名。
(系)武田信縄の子。 (名)五郎、初名信直、左京大夫・陸奥守。
1507(永正4)家督。'08叔父油川信恵と家督を争い、信恵および叔父岩手縄美を滅ぼし、ついで'15〜'16大井信達と抗争、この間信達の娘を娶る。'19居館を石和から躑躅ヶ崎に移し甲府の発端をつくる。'21(大永1)駿河より侵攻した今川氏の臣福島正成を上条河原に敗死させる。'24上杉憲房の軍と猿橋に戦い、'31〜'32(享禄4〜天文1)今井・栗原氏を鎮圧し領国支配を達成。'35都留郡に北条氏綱と戦い敗北。'36以後信濃国佐久郡に進出、'37娘を今川義元に嫁す。'40娘を諏訪頼重に嫁し、佐久郡を制圧したが人心が離反し、'41嫡子晴信(信玄)に追放され今川に食客となる。'63(永禄6)信玄へ内通の疑いにより今川氏真に追われ上洛、将軍足利義輝の相伴衆となる。信濃国伊那郡で没した。
(墓)甲府市の大泉寺。
(参)渡辺世祐「武田信虎の駿河退隠について」1929、武田洲満「信虎」1972。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 武田信玄(たけだ しんげん)
1521〜73(大永1〜天正1)戦国時代の大名。
(系)武田信虎の長男、母は大井信達の娘。 (生)甲斐国石水寺。 (名)晴信、号を徳栄軒。
1536(天文5)元服、将軍足利義晴の偏諱をうけ従五位下、大膳大夫。'41父信虎を追放して自立し、'42信濃国諏訪を、'45伊那をとり、筑摩郡の小笠原長時、埴科郡の村上義清を圧迫する。'49義清と上田原に戦い敗れたが、同年塩尻峠に長時を破り、'51長時を越後に追い、ついで'53義清を越後に走らせる。同年以後'55(弘治1)・'57・'61(永禄4)・'64の5回川中島に上杉謙信と戦い北信を制圧する。'54駿河国善徳寺で北条氏康今川義元と会盟し、'58以後氏康を助けてしばしば関東に出兵し謙信と対抗する。義元敗死後、今川氏との和親を説く嫡子義信と対立、'67自殺させ、'68・'69駿河に進出する。その間、後北条氏と抗争し駿河および小田原に戦い、西上野を版図に収める。'71(元亀2)北条氏政と和し、将軍足利義昭、本願寺の顕如、朝倉氏・浅井氏らの反織田信長勢力と結び、'72西上の大軍をおこす。遠江国三方ヶ原で徳川家康を破り、転じて三河国野田城攻囲中に発病、'73帰国の途中信濃国伊那の駒場で死んだ。卓抜な戦略・戦術家で、'47(天文16)「甲州法度之次第」を発布、家臣団の編成と統制、検地・治水等、領国経営にみるべき施策が多い。法名は法性院信玄。(墓)塩山市の恵林寺。
(参)渡辺世祐「武田信玄の経倫と修養」1943、広瀬広一「武田信玄」1944、奥野高弘「武田信玄」1959。

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年 ★★
  武田信玄

「異説なるほど日本史」 河野亮&グループ 天山文庫 1992年
 重文・信玄像は実は能登の畠山氏である
信玄をイメージづけた肖像画は人違い?
 和歌山県・高野山成慶院が所蔵する『絹本著色武田信玄像』(縦29.2センチ、横69.6センチ)は、『花鳥図屏風』(妙覚寺所蔵)、『松林図屏風』(東京・国立博物館所蔵)、『枯木猿猴図』(龍泉庵所蔵)など独自の装飾画様式を確立した桃山画壇の巨匠・長谷川等伯(天文八年〜慶長十五年=1539〜1610)が描いた、わが国の重要文化財に指定されている有名な信玄像である。
 この信玄像は、信玄の晩年の姿を描いた直垂姿の座像で、戦国の乱世を生きる武士の風格ある姿を活写したものとして歴史ファンにも有名だが、歴史研究家の藤本正行氏の説によると、座像の主は信玄ではなく、能登に勢力を張っていた畠山一族の名ある武将の肖像画だという。
 藤本氏によると、この肖像画を信玄像とする最初の記録は寛政年間(1789〜1801)に、松平定信が各地に残る絵画・武具などを模写させて編纂した図録集『集古十種』で、その後、今日までそのまま信玄像として人口に膾炙してきたのだという。
 藤本氏が、この肖像画に疑問をもったのは数年前で、信玄といわれる人物の腰刀と太刀の目貫部分に描かれている家紋が、武田家の「花菱(武田菱)」ではなく、能登の畠山氏の家紋である「丸に二引き両」であることに気づいたことからだった。
 また、描かれた人物像が信玄晩年の姿といわれているが、マゲが小さく描かれており、もし信玄というのであれば、信玄が出家する三十九歳以前でなければ不自然である。
 さらに、信玄が三十九歳のとき、等伯は二十一歳で、画にある「信春」の落款は、等伯が二十代半ばから三十代半ばに用いたものである、二十一歳以前は用いていない。そればかりか、等伯は能登の生まれであるが、三十過ぎまで北陸を離れた形跡がない。等伯が北陸を離れて描いたとおもわれものは、現存する作品の中では三十四歳時のもので、その翌年に信玄は他界しているのだ。
 それに、能登を中心に活躍していた等伯が、なぜ甲斐の太守である信玄の肖像画を描かなければならなかったのかという疑問も起きてくる。
 また藤本氏は、画の右側にみられるハヤブサは北陸地方で多くみられる鳥であり、描かれた人物は畠山一族の名だたる武将にちがいない、と指摘し結論づけている。

モデル不明の肖像画ミステリー
 しかし、この説に対する反論もある。
 山梨県立美術館の守屋正彦学芸員は、
 「成慶院には、勝頼が信玄の肖像画を寄進した旨の自筆書状が残っている。丸に二引きの両は足利将軍の紋であり、西上を促した信玄に将軍家が家紋の入った刀を下賜したとも考えられる……」
 と、藤本説を否定している。長いこと日本中が、信玄と信じきっていた肖像画だけに、それを正面から否定するような説を否定したい気持もわからないではない。
 ともあれ、わが国の重要文化財にまで指定されている「信玄像」が、藤本氏のいうように畠山一族の名のある武将ということになると、いったい画像のモデルは誰なのであろうか。その興味はつきない。

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作成:川越原人  更新:2020/11/02