村山党と金子十郎家忠
野与党と問題の村山党は、『武蔵七党系図』によれば野与基永の弟頼任にはじまる。『相馬系図』では、この頼任は平忠常の子恒親の孫とされている。いずれも、あまり信憑性は高くない。いずれにしても武蔵国村山郷に開発地を有した在地領主が、その系譜を桓武平氏に仮託したことから生まれたものであろう。
ところで、当時の村山郷とは、西多摩郡の東端から北多摩郡・入間郡の両郡にまたがる丘陵一帯を含む地域であった。これを現在の地名で示せば、西は西多摩郡瑞穂町の箱根ヶ崎・石畑・殿ヶ谷地区から、東にのびる狭山丘陵・狭山湖・多摩湖の地域を含んで、北は所沢市の山口・北野、東は東村山市の野口町・久米川町に至る地域ということになろう。
この村山郷を発祥地とする村山党であったが、その分布・発展は東北方の入間郡を中心として行われた。中世初期において党を構成する武士団は十数氏にのぼるが、その主なものは宮寺氏(入間市宮寺)、山口氏(所沢市山口)、須黒氏(旧勝呂村地区、現在の坂戸市東部の赤尾・島田・石井・塚越を含む地域、北及び東は越辺川)、仙波氏(川越市仙波町地域)、久米氏(所沢市久米)、荒幡氏(所沢市荒幡)、大井氏(入間郡大井村)、難波田氏(富士見市上南畑・下南畑地区)、金子氏(入間市金子)などである。
この村山党については、『吾妻鏡』治承四年(1180)八月二十六日条に、「金子・村山の輩」が河越重頼・江戸重長らとともに、三浦氏の衣笠城を攻撃した記事があり、この時期にすでに強力な武士団を作り上げていたことと推定される。また元久二年(1205)六月の畠山重忠討滅の戦いにも、「児玉・横山・金子・村山党の者共」と見えていて、金子・村山党が児玉・横山両党とならぶ武蔵の代表的な党的武士団の一つであったことがわかる。
(略)
村山党の諸氏のうち、まず山口氏は村山頼家の第三子家継が山口(所沢市上山口及び山口)に居住し、山口七郎と称したことに始まり、家継は保元の乱に源義朝に従っているから、いわゆる源家譜代の家人であったと思う。この山口の地は狭山丘陵を割って流れる柳瀬川の流域で、この地域にはいまも居館址と伝える児泉城や堀之内の地名が残り、また山口氏の菩提寺の瑞岩寺がある。
この家継の子、山口六郎家俊の孫が須黒太郎恒高で、その館跡と伝えるものが坂戸市石井にある。この恒高は弟の家時とともに承久合戦に従軍し、宇治川で負傷している。
また、家俊の弟家信は仙波七郎といい仙波氏の祖となるが、この家信も保元の乱で、義朝に従っている。そして彼の長子仙波平太信平、次子の仙波二郎安家は『吾妻鏡』に頼朝の随兵として名を見せる。また承久の宇治川合戦における負傷者の中に、仙波太郎・仙波左衛門尉、そして戦死者の中に仙波弥次郎があり、それぞれ信平の子太郎信恒、信平の弟三郎左衛門尉家行、そして安家の次子弥二郎光時と推定し得る。ただし『武蔵七党系図』には、信恒・家行ともに宇治川合戦で溺れ死んだと註記されている。いずれが正しいかは断定できない。
(略)
さて南に下って武蔵に入ると、山寄りの地帯、谷間の小平野や、荒川などの氾濫原や扇状地、また台地の縁辺などに、それこそ無数といってもよいほどの館がつらなり、武士団がきそいあっている。 「武蔵七党」などとよばれる横山(小野)・猪俣・野与・村山・西(日奉)・児玉(有道)・丹(丹治)・私市・綴など多くの同族が、さらに次々と細胞分裂をおこすように繁延していった中小武士団である。
これらのなかで「党」の武士団とは区別され、一段とぬきんでた勢力を張っていたのが秩父氏から出た一族である。 秩父盆地におかれた牧場、秩父牧の管理者であったこの一族は、やがて荒川・入間川にそって次々と下流に進出し、畠山庄・河越庄による畠山氏・河越氏をおこし、江戸・小山田・稲毛の各氏など荒川から多摩川の流域にもひろがった。 大井川と隅田川にはさまれた三角州である下総の葛西御厨を根拠地とする葛西氏も同族であるといわれる。 武蔵国府の政庁にも関係をもち、一族で有力な在庁官人のポストを相伝していたから、いざというときには「武蔵七党」の武士たちを動員することもできた。
最初に名字を名のった家は明らかではない。多分、11世紀に日本的家が徐々に形成されてくるなかで、あちこちで思い思いの家をあらわす名称が使われるようになったのであろう。
11世紀はじめの公家社会で、藤原道長の一家を九条流、それに対抗する立場にあった藤原実資の一家を小野宮流という呼称が作られた。これは、小野宮邸に住んだ藤原実頼とかれの弟で九条邸を本拠にした藤原師輔とが勢力を競いあったことをうけたものである。
道長は、師輔の孫であった。それに対して実資は師輔の兄実頼の養子だったため、実頼が自分の家は道長より藤原氏の嫡流に近いといい事あるごとに道長の政治を批判した。
このような、「九条」と「小野宮」を発生期の名字とみる学者もいる。しかし、藤原道長も実資も公家の中の名門の出である。中流の公家が、かれらを尊んで実名をよぶのをさけて「九条」のような通称でよんだとみるのがよい。公家全体が名字を用いた時期を公家の名字の成立期とすべきである。
中世の名字の原形になる呼称を最初に用いたのは武蔵七党ではなかったろうか。大事なところなので詳しく説明しよう。武蔵七党は、武蔵野の開墾者で鎌倉幕府の重要な構成員になった中流武士の集団である。
かれらは、平安時代後期に京都から下ってきた中流貴族の子孫だと唱えている。横山党と猪俣党が小野氏、野与党、村山党が平氏、西党が日奉(ひまつり)氏、児玉党が有道氏、丹党が丹比(多治比)氏とされる。この七党の他に私部(きさいちべ)氏から出た私市(きさいち)党もかれらと同一行動をとっている。
厳密には「武蔵八党」とよんでもよいのだろうが、私市党の勢力が大してのびなかったために、一般には「武蔵七党」とよばれる。武蔵七党には傑出した棟梁がおらず、中流武家どうしの横並びの友好関係が形成されていた。
そして、七党(実際は八個の集団}の構成員すべてが同族的友好を保っていた。源頼朝が反平氏に立ったとき、かれらは早い時期にこぞって頼朝のもとに集まっている。
武蔵七党は小領主の集団である。横山党が57家、猪俣党が32家、野与党が23家に分かれている。かれらより有力な児玉党、丹党の構成員は7、80家に及ぶ。村山党、西党が20家余り、私市党はやや小規模で10数家である。つまり300余りの中流武士が武蔵七党を構成しているのである。
一例として野与党の構成員を上げておいた。かれらがすべて小地名を名字にしていることに注目したい。武蔵七党の分布の範囲は、武蔵国とその周辺の関東地方西南部に限られている。
なかでも本庄、児玉、秩父地区の狭い地域には、異なる30余家が分布している。それは、児玉党という大勢力の中に、丹党と猪俣党からなる数家が混在する形をとっている。多摩地区にも横山党と西党が入り乱れている。ところが、武蔵七党の構成員どうしの争乱の事例はない。このことは、つぎのように推測すると理解しやすい。
かれらは、互いの勢力範囲を協定して平和共存したのだろう。そのさい、各自の領地の地名が名字にされた。つまり、「野与」の名字を名のる武蔵七党の構成員がいれば、野与の地に武蔵七党の他の者が干渉することはなかったのだ。
さらに、前に上げた、藤原秀郷の流れをひく佐藤家のような別系統の有力な武家が、野与に侵入する可能性もあろう。そのばあいは、同盟関係にある武蔵七党の構成員がこぞって野与家に援軍を送ったろう。
当時の公家はまだ藤原、源といった同姓の集団が一つの共同体であるとする考えをもっていた。どんな傍流でも藤原氏や公家源氏の流れをひく者は尊いとされ、秦、和気、小野など中流の姓をもつ者は低くみられた。ところが、ばらばらの姓をもつ者が武蔵七党を構成した。かれらのあいだでは、名字をもつことが一人前の武蔵七党の構成員であることを示すと考えられた。
このようなありかたは、鎌倉幕府の東国支配にきわめて近い。それは藤原氏であろうが郡司の後裔であろうが、御家人となれば、同じ独立した武士としてあつかわれるからだ。源頼朝とその周囲の人びとは、武蔵七党を手本に御家人組織を作り上げていったのだろう。
武蔵七党の名字が作られた時期は、朝廷の東国支配の後退がはじまる11世紀なかばごろではなかったろうか。そして、かれらの名字を知って、千葉家、三浦家などの関東地方の有力な武士がしだいに所領の地名を名字として名のり、そこに対する支配権を主張するようになっていったのであろう。
野与党の構成員 野与家 多名家 金家 思窪家 柏間家 道智家 多賀谷家 道後家 笹原家 大蔵家 南鬼窪家 西脇家 白岡家 箕勾家 柏崎家 戸田家 大相模家 須久毛家 渋谷家 金重家 野崎家 利江家 高柳家
横山党 横山・椚田・海老名・藍原・平子・野部・山崎・鳴瀬・古郡・小倉・由木・室伏・大串・千与宇・伊平・樫井・古市・田屋・八国府・山口・愛甲・小子・平山・石川・古沢・小野・古庄・中村・大貫・田名・小沢・小俣 猪俣党 猪俣・荏原・河勾・太田・人見・甘糟・藤田・山崎・岡部・内島・蓮沼・男衾・横瀬・野部・木里・尾園・無動寺・友庄・木部 野与党 野与・多名・鬼窪(北・南)・白岡・渋江・菅間・道智・多賀谷・大蔵・西脇・箕勾・大相模・利生・柏崎・須久毛・八条・金重・野崎・高柳 村山党 村山・大井・宮寺・金子・山口・須黒・横山・仙波・広屋・荒波多・難波田 西 党 西・長沼・上田・小川・稲毛・平山・川口・由木・西宮・由井・中野・田村・立河・狛江・信乃・高橋・清恒・平目・田口・二宮 丹 党 桑名・中村・古郡・大河原・塩屋・岡田・長田・坂田・大窪・栗毛・弥郡・薄・織原・横瀬・秩父・勅旨河原・新里・安保・瀧瀬・長浜・青木・榛沢・小島・志水・相原・高麗・加治・桐原・肥塚・判乃・白鳥・岩田・韮山・山田・竹淵・小原野・黒谷・堀口・南荒居・由長・藤矢淵・野上・井戸・葉栗 児玉党 庄・本庄(西・東)・具下塚・若水・四方田・宮田・蛭河・今居・阿佐美・小中山・塩屋・児玉・富田・薦田・長袖・新生・中条・新里・鳴瀬・黒岩・岡崎・入西・浅羽・堀籠・長岡・大河原・小見野・栗生田・小代・越生・高坂・平児玉・秩父・与嶋・岩田・竹沢・多子・小幡・倉賀野・大類・稲嶋・柏島・片山・新屋・大淵・島方・真下・御名・大浜・奥平・白倉・吉嶋・山名・鳥名・小河原・木西
川越の起原
河越氏の起源
川越城の成立
上杉時代の川越
北條氏時代の川越
“関東は武士の発祥の地”という言葉は、よく聞かれる。なかでも武蔵の国では、武士にちなむ地名が少なくない。系図を調べれば、その土地がいつごろ開発されたかが分かるほどである。いったいなぜそうなったのだろうか。
・武蔵最大の武士集団、秩父党の分布図を読む
・三角州の湿地は水田開発に魅力ある場所だった
・武士集団の進出密度が最も高い本庄台地
平河天神 千代田区平河町1丁目7/国電(現JR)四ッ谷、地下鉄麹町下車
麹町は、千代田区西部一帯をさし、もとは区名でもあった。山手台地の麹町台に位置し、東は半蔵門あたりから西は四谷見附にまたがり、いまの千代田区麹町・平河町、新宿区四谷1・2丁目をふくんでいる。麹町の名の出は府中にゆく道の「国府路」、小路の多い「小路町」、麹屋の多い「麹町」などの諸説がある。永田町は千代田区の南端、武蔵野台地の東端にくらいしている。江戸初期に永田姓の武家屋敷があったので名づけられたといわれる。馬場があったがのち武家地となり、現在は日本の政治の中枢地区をなしている。
昭和20年に戦災で社殿焼失、48年再建された平河天神は、1478(文明10)年太田道灌が川越城本丸の三芳野天神から江戸城内に分霊をむかえたのにはじまるといわれ、その地は梅樹を記念植林したため梅林坂とよばれたという。1590(天正18)年江戸に入城した徳川家康が社殿を城の北の平河口外にうつしてから平河天神とよばれた。慶長年間(16・17世紀)、ふたたび町ぐるみ現在地に移転させられたものだ。江戸時代は手習いの神、明治からは学問の神として尊崇された。1830(天保元)年高野長英はこの天神前に大観堂という家塾兼医院をひらき、1839(天保10)年蛮社の獄でとらえられるまで住んでいた。
(後略)
日枝神社 千代田区永田町2丁目10/地下鉄赤坂見附・国会議事堂前下車
外堀通りにめんしてたっている大鳥居をくぐって、男坂・御成坂のいずれかをのぼると、台地上に、戦災焼失後昭和37年鉄筋コンクリートに再建された日枝神社の社前にでる。文明年間(15世紀)太田道灌が川越仙波にある日吉山王権現をむかえて江戸城内に分霊したのにはじまる。1590(天正18)年江戸城にはいった徳川家康が城内紅葉山に、1613(慶長18)年秀忠が城外の三宅坂の元山王(現隼町)に移建したが、1657(明暦3)年の大火で炎上し、1659(万治2)年現在地に移築したといわれ、江戸第一の大社として、徳川将軍家の産土神として崇敬された。
江戸時代は日吉山王権現(山王社)とよばれ、本祭(現在6月15日)の山王祭は神田祭とならんで天下祭または御用祭とよばれる江戸最大の祭礼で、神輿の練りものが江戸城内にはいり将軍の観覧に供したといわれる。祭神大山咋命。明治以降日枝神社と改称した。参道入口の庭園は麹町公園の名で、1881(明治14)年開園した名残りだ。
(後略)
寛永寺 台東区上野桜木1丁目14/国電(現JR)上野・鶯谷駅下車
寛永寺というのは東叡山の総称で、一堂・一宇のことではない。天海の発議で、江戸城艮(うしとら)の鬼門にあたるこの地、比叡山にたいし、東叡山と名づけられた。子院36、祠堂32をかかえたという一山の本坊は、いまの国立博物館のあたりにあり、現在、噴水のあるところに法華堂と常行堂を渡殿でむすんだ担い堂があった。この一帯を竹の台≠ニよぶのは、慈覚大師が入唐したさい、中国五台山の竹をもちかえり、比叡山根本中堂に植えた竹をここに分植したからである。
1625(寛永2)年土井利勝が総奉行となって本坊をつくり、ついで塔・大仏殿・清水観音堂その他の堂宇がととのい、1718(享保3)年には寺領1万1790石を有し、三世以後は法親王が入山して輪王寺門跡と称して、天台宗総本山の観をていするにいたった。しかし幕末の上野の戦争は、これらの寺塔をいっきょに壊滅してしまった。現在の寛永寺本堂は、1879(明治12)年川越喜多院の本地堂をうつしたもので、慶喜が謹慎幽居した大慈院葵の間がある。この寺には、絹本著色両界曼荼羅(重文)・本尊木造薬師如来像(重文)ほか、境内には了翁道覚禅師塔碑(錦袋円という名薬を売りその利益金で文庫を開設、都旧跡)、伊勢長島城主増山正賢(画人、1819年没)が昆虫の霊をまつった虫塚(都旧跡)と慈海僧正墓(都旧跡)がある。
(後略)
志村一里塚 板橋区小豆沢2丁目16・志村1丁目12/地下鉄志村坂上駅下車
(前略)
一里塚が陸路の要所なら浮間河岸は水路のかなめになる。志村坂上駅から小豆沢神社にでて、その崖下の小豆沢公園の新河岸川べりにたおれそうな赤芽ヤナギがたっているところがそれで、舟でダイコンやつけものなど土地の産物をつみだしたので大根河岸≠ニもよばれた。新河岸川は川越と江戸の交通の便をよくするために小流を拡張したもので、陸の川越街道よりもおおいに利用されたが、いまは柳のわきに水上安全をいのる水神のほこらがぽつんととり残されている。
(後略)
茂呂遺跡 板橋区小茂根5丁目17/東武東上線上板橋駅下車
(前略)
またこのあたりに板橋城伝承地が4、5ヵ所あるが確定していない。板橋氏は平氏の子孫豊島氏の一族で鎌倉から室町時代の豪族だった。都立大山高校の西南の小丘茂呂山公園と、環七通りと新川越街道の大きな交差点(板橋中央陸橋)脇の長命寺(真言宗)あたりが有力な候補地になっている。その長命寺と対角線上を東にはいるほそみちが旧川越街道で、下頭橋から弥生町一帯の町筋が上・中・下の上板橋宿だったところ、川越街道第一番目の宿場だ。川越までの約13里(約51キロ)のあいだに上板橋・練馬宿などがおかれた。下頭橋のたもとにまつられている六蔵祠とその供養塔が、江戸時代後期の乞食六蔵の善行を伝えている。このあたりは東武東上線の中板橋駅にすぐ近いところだ。
千住の宿 足立区千住/国電(現JR)千住・北千住駅、京成線千住大橋駅下車
千住大橋は、奥州街道にかかる大橋で、1594(文禄3)年伊奈忠次(幕臣、1610年没)が普請奉行として架設した(現在のものは昭和2年に架橋)。すでに鎌倉期以降、奥州へのルートとしてひらけていたが、江戸期には、日光東照宮参拝、東北36藩の参勤交代の行列や行商、旅人の往還でにぎわった。1625(寛永2)年奥州街道の初宿として千住の宿がおかれたが、はじめ上宿(本宿)と下宿だったが、万治年間(17世紀)南宿がくわえられ、北組・中組・南組となり、江戸四宿のうちでももっとも長い宿場となった。その繁栄はたいへんなもので、宿場女郎の繁盛は吉原をしのぐものがあった。しかし千住繁栄のもうひとつの原因は、川越夜舟だった。松平定信(ママ)が、川越に新河岸川をひらいて荒川とむすび、木材・薪炭・肥料をはこんだ、その舟が千住あたりで夜明けをむかえたので、これを川越夜舟とよんでいた。
(後略)
江戸の街道
お江戸日本橋を基点として、四方に五街道が放射状につくられ、一里塚・宿駅が整備された。五街道とは東海道中・日光道中・奥州道中・甲州道中・中山道で、それから枝わかれして、いくつかの街道もつくられている。
中山道→岩槻道 本郷森川宿からわかれる岩槻道は、俗に将軍の日光社参の日光御成道とよばれる。川越街道は板橋からわかれ、江戸の西をまもる川越とをむすぶ要路だった。
甲州道中→青梅街道・五日市街道 内藤新宿からわかれる青梅街道は、成木の石灰(江戸城白壁用)をはこぶ御用街道、甲州街道ともいった。五日市街道とともに、多摩地方の産物、武蔵野を開発する産業道路だった。
大山道は相模の大山阿夫利神社(雨降山大山寺)にゆく大山講の人たちの信仰の道だった。
現在も東京の主要な幹線道路を構成しており、そのあいだを環状線がくもの網目のように連絡している。
野火止用水
江戸前期から使用した灌漑用水路で、現在の東大和・立川・小平の三市が会するところが小平市中島町の都水道局水衛所で、玉川上水から分水して小平・東村山・東久留米・清瀬をへて埼玉県新座市野火止の新河岸川にいたる全長約22キロの用水路だ。川越藩主松平信綱が計画、その家臣で治水家の安松金右衛門(1686年没)が工事を担当し、玉川上水完成の翌年、1655(明暦元)年開通した。灌漑用としてまた流域農民の飲料水として重要な役割をはたした。松平伊豆守信綱にちなみ伊豆殿堀≠ニもよばれた。現在では新座市野火止の平林寺に、用水と信綱や金右衛門の墓碑の史跡を残している。
当時の江戸は、前島といわれるところに存在はしていたが、実際には周囲を海で囲まれていた。現在のJRに新橋、浜松町、田町は完全に海中にあった。有楽町も、海岸線に位置していた。東京駅も同じである。しかも、内陸部も大きな河川が江戸湾に流れ込んでいるので、全体に湿地帯だ。そんな湿地帯に道灌はなぜ城を築いたのだろうか。
まず、「どこに城を築くか」という、
「地点設定のための条件」
は、つぎの諸点だといわれる。
一 比較的鎌倉に近いこと。
二 上杉方の拠点である川越にも近いこと。
三 上総・下総両地方への交通上の要衝にあること。これは両総地域の武士が古河公方に味方するのを牽制する。
四 墨田川の西岸に位置させること。これは川越(河越)や岩付(岩槻)などに対するため。
五 海陸共に兵力や物資の集散に便利なこと。
六 攻められた時の強力な防御力発揮と、逆に討って出る時の強力な拠点を兼ねること。
などである。彼の城の造り方は道灌かがり(道灌がかり?)
川越が大火災にあった時の藩主は春日局の縁者だった堀田正盛だ。正盛は三代将軍徳川家光と男色の関係にあったともいわれる。家光の寵愛が深かった。しかし周りから、
「上様がご寵愛になるので、堀田殿は少し増長している」
と批判されていた。そこへ持って来て、城下から大きな火が出た。家光はやむをえず、その責任を取らせ、
「しばらくは信州の深志(松本)へ行くように」
と転勤を命じた。替わって新藩主となり、川越城に入ったのが松平信綱である。信綱はすぐ、
「川越の復興計画」
を立てた。この時の信綱は、焼け野原になった城下の町づくりで、次のような方策を展開した。
・道路は碁盤目状に整備する。
・居住区は、武家屋敷、町屋、社寺と区分する。
・町屋は、商人町と職人町に分ける。
・寺社の門前には、門前町をつくる。
こうして町の性格をはっきりさせた。この時の松平信綱の都市計画は、現在の川越市のまちづくりの原型になっているそうだ。
川越には、有名な天海僧正の喜多院がある。天海は、徳川家康以来の将軍の黒幕で、三代将軍家光のころもまだ生きていた。喜多院には、春日局の化粧部屋や、家光が生まれた部屋が江戸城から移築だれている。
松平信綱は、将来の火災や新田開発の灌漑用水を兼ねて、有名な、野火止めの用水を開発した。また、
「江戸との舟運を便利にしよう」
と考え、新河岸川を整備して、舟便を強化した。舟便には、飛切≠竍並船≠ネどという区分ができた。飛切というのは、特急便である。これらの舟便を総称して、
「川越夜舟」
と呼んだ。江戸への物資搬入が、この川越夜舟の創設によって非常に滑らかになった。逆にいえば、川越の新河岸川の港は、
「江戸への物資搬入の基地」
として、関東地方の諸産品の集荷場所にもなった。これが川越の繁栄につながった。
そういう実績のある松平信綱のことだから、彼に何か意図があると感じても、他の老中たちは、
「ぜひ松平殿に江戸の復興計画をお願いしよう」
という意見で一致した。