川越の地誌2・地名(1)

川越の地名に関する本(その1)です

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川 越
「川越の民俗 川越叢書第4巻 山田勝利 国書刊行会 1982年 ★★★
 民俗学の話/川越といふ地名
 国史学、国文学と民俗学との関係については柳田先生が明かにせられてゐますが、民俗学はその学問の補助学としても大きな業績を果して来ました。
 川越という地名も既に史家の研究対象になつてゐますが、必しも定説があるとは申せません。その有力なる意見の一つは、川越というふ地名が文献に表れた当時河肥と文字に表現されてゐますので、河肥は入間川、小畔川等によつて肥沃な土地格から名付けられたといふ有力な説と、川越を入間川を越える地点による地名とする二つの対立的意見に分れてゐます。何れにもそれぞれ理由があるのですが、幸ひ遠隔の地に同じ地名が相当あります。私の知つてゐる範囲では
(一)島根県邑智郡川越村
(二)山口県玖珂郡川越村
(三)河内国河内郡川越村
(四)三重県三重郡川越村 →川越町ホームページ
(五)熊本県下u城郡東砥用村大字川越
(六)山形県南置郡万世村大字片子字川越
(七)福島県信夫郡水保村大字櫻本字川越
 この外にも探せばまだあるのではあるまいかと思ひます
 (一)はカハゴエと称し、江川の辺りにある村落であり、その地点に橋がかけられてゐます。昔は渡舟場でありました。(二)も三瀬川といふ川があり、これは広瀬といふ旧村と瀬越しといふ村とが合併して川越村と称したとのことです。(三)は吉田東吾氏の地名辞典にあります。(四)は朝日川の河口にあって、街道の渡しの処のやうです。明治時代の地名といひます。(五)は下矢部川の辺りで、カハコシといつてゐます。(六)はやはり川の辺りであつてカハゴエと呼びます。昔は徒歩で川を渡つたといふことです。その地点に聚落が出来たのが字川越であつたといひます。(七)も水保村といひますので川に関係がありませう。
 このようにその多くは、何れも渡舟場又は橋梁の附近に名付られた地名であることをみますと、或は川越も入間川を越える地点の聚落の名称ではなかつたかと思ふのです。
 江戸時代東海道の酒匂川、興津川、安部川、大井川等を旅人が越えることをカハゴエといひ、川越所といふ役所が出来又川越輦台といふ輦台を用ゐてゐますが、何れもカハゴエと称してゐるのです。
 三芳野名所図絵の著者中島孝昌は「日の本は名先づ有て、文字は後に当てたることおぼしければ」とて河肥、河越、川越何れも「時のよろしきに応じて書くべきにや」といつてゐます。また「河越の名の起りは入間川を越る謂か」と述べてゐることは他国の例に徴して私は卓見と思ふのです。河肥といふのは河越荘が平安期に於ける皇室御料であり、荘園といふ特殊の事情に基いて、中央で嘉字を選びカワゴエを河肥と記録し、また文応年間の鐘銘にもその侭用ゐられたのであらうと想像してゐます。
 河肥荘成立以前に入間川の辺りにカハゴエと称する聚落があり、其の聚落を中心として河越荘が成立し、その荘司が河越氏を称したと私は推測してゐます。外にも問題はありますが、只ここでは同じ地名が諸国にあつて比較研究をなし得るといふことを申し述べたかつたのです。この比較といふことが郷土研究の重要な方法であり問題解決の鍵でありませう。

「川越歴史小話」 岡村一郎 川越地方史研究会 川越歴史新書5 1973年 ★★★
 26.河肥か川越か
 川越の地名の起りについては入間川を越える意味だという説と、入間川の氾濫によって土地が肥沃だからという説と、二通りある。これは川越の地名が古くは河越、河肥などとも書かれたために、このような見解の相違が出たのである。
 河肥の文字はご承知のように市内南町養寿院にある文応元年(1260)の銅鐘の銘に「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」として出てくる。それと吾妻鏡にやはり河肥庄と記したものが数ヵ所みられる。しかしよく注意してみると、これは必ず「新日吉領武蔵国河肥庄」というふうに河肥庄が新日吉山王の社領であることを示した場合だけに用いられている。社領を謳わないときはたんに「武蔵国河越庄」と書いて肥の字を使っていない。この例が二ヵ所ほどみられる。
 さらにおなじ吾妻鏡でもただ川越の地名や河越氏の姓を記す場合は、いつでも越の字を使っていて肥は用いていない。これはよほど考えてみるべきことではなかろうか。私の考えではこれは後白河上皇が永暦元年(1160)京都東山に創建した新日吉社に河越庄を寄進したときの荘園寄進文に、嘉字を尊ぶ習慣から越の代りに肥を当てたのではないかと思っている。
 「前太平記」には河越氏発祥の頃からの記述がみえて、内容的には吾妻鏡より古いが、編述はずっと後のことであるから、河越もしくは川越と書いており、肥の字は見当らない。これ以後のものでは「永享記」「廻国雑記」は河越、「鎌倉大草紙」「関東合戦記」「北条記」は河越、川越の両者を使用している。これから考えて鎌倉時代は普通河越であるが、特殊な場合にだけ河肥を用いた。室町時代には河越、川越の両者を併用し、江戸時代になって川越が一般化してきたといえるであろう。
 河によって肥えたとする説は、「入間郡誌」の安部立郎先生あたりに始まるようで、「三芳野名勝図会」も「入間川を超るの謂か」と述べて、川越説をとっている。しかし安部先生も無条件に河肥説をとったのではなく、「今仮に多数説に従う」と軽々しい判断を戒めている点は留意しなければならない。
 私は肥の字が特別な場合にだけ使われている点から考えて、これを地名考察の根拠にすることは無理だと思う。それにもうひとつ地名研究にとっては、他所との比較が欠くべからざることであるが、この場合はどうも川越説の方が有力なのである。全国に川越を村名または大字名にしている所は相当数に上っている。吉田東伍の「地名辞典」その他により、これらの地名を調べてみると、いずれも川の近くにある聚落であって、渡し舟の出る所や昔徒歩で川を渡った場所などが多い。
 反対に川の氾濫によって土地が肥沃になることは、河の下流ならどこでもみられる現象であるから、これを地名の起源にしたところが、他にもあってよさそうなものであるが、その実例はみつからない。また江戸時代に東海道の安部川、大井川などを旅人が越えることを、カワゴエといっていることも参考にして考えてみる必要がある。
 それやこれやで私は川越説を採るのであるが、恐らく河越荘が成立する以前、入間川西岸の上戸辺にカワゴエと称する聚落があって、それが後に荘園に発達し、その荘司が河越氏を唱えるようになったのが自然の経過であろう。面白いのは三芳野天神縁起に「抑此所を河越と名附けることは、昔鷲宮明神太刀と琴とを持て女神男神相供ひて川を渡り給ひし由緒なり」とあることだ。勿論これはたんなる神社縁起にすぎないけれども、学問的な地名研究の方向と暗合するようなことをいっているのは注目してよいことである。

「埼玉史談 第15巻第2号」 埼玉郷土文化会 1968年7月号 ★★
 かわごえという地名に就ての一考察  有山余志三

「川越の地誌」 岸伝平 川越市 1952年 ★★★
二、川越の沿革
 川越の名称
 川越は昔河肥と書き、また河越とも記し、のちに川越と書き改められた。養寿院の文応元年(1260年)の銅鐘の銘文にある河肥之庄のことや、「吾妻鏡」の文治2年(1186年)8月の條に河越荘の文字が記されていることはすでに述べたが、古来より山田の庄、三芳野の里と唱えたのもまさしくこの地方でかなりに広い地域であった。
 山田の庄は鎌倉時代になって河肥荘として河越重綱などの一族の力により開拓が行われて発展したものである。そしてついにこの地方が武蔵において優勢な土地として皇室御領となり、また日吉山王社領の荘園となって発達したもので、荘司であった河越氏の勢力も大きなものであった。そこで当時の中心地であった上戸地方が河川によって土地が肥沃なところから河肥と称したものであろうと考えられる。八代博士の説にも「河肥の名称は河に因って肥されし土地」とある。従って河越の名の起りは従来説かれてきたように入間川を越えるからだと云う説は当っていないと思われる。
 郷庄制時代は自然の山河などによって境界を定めたもので、地理的にもまた歴史的にも山田の庄と河越荘とはその地域が遠く逢距ったものではなく、同じ土地と考察される。時代の変遷などにより山田郷の山田の庄が河肥荘となったものであろう。後年の河越三十三郷の地域より想像してもそうしたことが云える。その時代の推移や、支配者によって盛衰があり、またその発達の中心地が兵乱時代には城将や築城などによって幾多の変遷を見たことであろう。今は川越の名称を広義に考えて、河に因り肥された土地として考え、なほ後日これに関する史料の発見されることを期待しておこう。
 近世にも入間郡の一部が、入間川の流域によって入西、入東郡の二つに別れたことがあり、江戸時代になっては再び元の入間郡となった史実もある。これらから考えても河肥に関する史料がいつ出現するかも知れない。古い社寺や荘園資料が郷土を離れた遠い処で発見されることもあり得るからである。

「校注武蔵三芳野名勝図会」 校注/山野清二郎 川越市立図書館 1994年 ★★★
目録上之巻
河越之文字并名之事

「川越歴史点描」 岡村一郎 川越地方史研究会 川越歴史新書7 1982年 ★★★
 6.九里四里うまい−江戸と川越の里程−
 昔の焼芋屋の看板はどこでも「○焼十三里半」または「八里半」と書くのが普通であった。これはその味が栗よりうまい、栗に近いという洒落であることはいうまでもない。べつに説をなす人はこの裏に甘藷の名産地川越と江戸の里程を利かしたのだというが、これはあまり当てにならないようで、実は十三里より少し短かったようである。
 川越本町の名主榎本弥左衛門「萬の覚」をみると、松平輝綱が江戸から川越までの里程を実測した話がでている。
 江戸日本橋より川越御城大手迄十一里一丁。松平甲斐守様御けんをうち被成候。承応四(1655)未三月廿五日か六日かに、江戸より御越ながら御馬の先にて御うたせ被成候。おとう坂の大塚より二町も川越の方迄十里也。くいうって有。
 これによるとその距離は十一里一丁である。善知鳥(うとう)の大塚というのがはっきりしないが、もと岸村の熊野神社では川越に近か過ぎるし、高階中学校裏の治兵衛塚では江戸に寄り過ぎるようだ。多分不老(としとらず)川に架けられていた御代(ごだい)橋よりは北だと推定されるが、昔この辺に大塚と呼ぶ古墳か一里塚のようなものがあったのではなかろうか。
 検を打たせたとあるからには、恐らく検地に用いる道具を使用したものであろう。そこで検地用具にくわしい幕末の代官手附安藤博の「県治要略」をみると間竿(けんざお)、尺杖(しゃくずえ)、水縄などを用いたことがわかる。間竿は一間六尺一分で、長さ二間のもの一本と、壱間のもの一本を用い、一尺毎に墨線が施されている。水縄は麻縄に渋汁を塗り、緊張して伸縮を防ぎ、縄首五六尺を力縄(ひきしろ)と唱え、そのあと壱間、弐間と順次間札が附けられている。
 もちろんこうした道具ではある程度の誤差が出るのはやむを得まいが、「県治要略」にはそれをできるだけ少くするための規定もある。一例をあげると縄だるみの規定がそれで、五間迄はそのままだが、六−一〇間は五寸引、一一−二〇間は二尺引、二一−三〇間で五尺引、三一−四〇間で九尺引、四〇−五〇間ではなんと一丈二尺も引くことを定めている。これは二地点の距離を測るとき土地の高低、傾斜による誤差をなくすために、一定の高さの所に縄を張る必要から考慮されたものと考えられる。
 それにしてもこれは幕末の「県治要略」による測量方法である。江戸初期の松平輝綱の時代にどのような検地技術があったかは不明だし、どこまでも当時を類推するための参考に過ぎない。したがって十一里一丁という数値をどの程度信頼してよいものか、率直にいって若干の疑問を残しておくほかはなかった。
 その後の資料としては「川越藩日記」の天保四年(1833)十二月十三日の項に、松平大和守の家臣伊藤源五兵衛が御勘定前野弥兵衛に差出した「川越御城下ヨリ御上屋敷迄往還行程調帳」の写が載っている。
 
 川越御城下ヨリ大井町迄道法弐里半
    江戸町、上松江町、下松江町、通町、大仙波新田、大仙波村同新田入会並木、岸村、砂新田、
    藤間村、同村並木、鶴間村、亀久保、同村並木、苗間村、大井
 大井町ヨリ大和田宿迄道法壱里半
    藤久保村、並木同村之内、小名家村、竹間沢村並木
   松平右京亮様御領分
    大和田宿之内字中野、大和田宿 
 松平右京亮様御領分
 大和田宿ヨリ膝折宿迄道法壱里
    野火止村、下片山村、膝折宿
 御代官山本大膳様支配所
 膝折宿ヨリ白子宿迄道法壱里
    溝沼村、岡村、台村、根岸村、下新倉村之内字原新田浅久保白子宿
 右同断
 白子宿ヨリ下練馬宿迄道法壱里拾丁
    上赤塚村、下練馬村
 右同断
 下練馬宿ヨリ上板橋宿迄弐拾六丁
    上板橋宿之内字七軒家、上板橋宿野久保、台宿
 右同断
 上板橋宿ヨリ江戸上屋舗迄道法三里
    雑司ケ谷、高田町、天満下町、市ケ谷町、四ッ谷町、赤坂町、江戸上屋舗
 川越城下ヨリ江戸溜池上屋舗迄
  里数〆拾里三拾六丁
 右之通御座候巳上
   八月十一日     御名家来
                 伊藤源五兵衛
 これでみると拾里三拾六町つまり十一里である。もっともこれは上板橋宿から池袋、雑司ケ谷、市ケ谷、四ツ谷を経て、赤坂溜池に出た経路であるし、松平輝綱の十一里一丁の記録は、上板橋宿から本来の川越街道である巣鴨を廻り、本郷追分、神田旅籠町を通って日本橋に達した里程だろうから、両者に相違があるのは当然である。そのうえこの「川越藩日記」の記録はきわめて大ざっぱである。各宿駅間の里程に端数もないし、これでは当時の旅行者が使用した「道中記」や「細見絵図」の類とさして変らない。しかし考えてみればこの頃はこんな程度の里程表でも、実用上それほど不便は感じなかったのであろう。
 さてつい最近のことであるが、大学南校から明治三年に開板された伊能忠敬の「大日本実測録」に、江戸と川越の里程を測量した結果が収録されているのを知った。熊谷市立図書館長で和算の研究をしておられる野口泰助氏からご教示を仰いだもので、必要な部分を複写して送っていただいた。伊能忠敬といえば幕末の測量の大家で、天体観測や三角測量によって最初の精密な日本地図を作成したことで有名である。距離の測定には量程車といって、引いて歩くと数箇の歯車が廻転して目盛で表示される器械も使用している。したがってこの計測はきわめて正確だといえよう。詳細はつぎのとおりである。
 武蔵国東京日本橋
    四町一十間半
 同本町
    一十三町五間
 同神田旅籠町
    二十一町三十間
 東京駒込追分町
    一里一十四町五十一間
 豊島郡板橋宿平尾
    二十町四十一間
 上板橋村
    二十五町三十七間
 下練馬村至金乗院、六丁一十二間
    一里五町五十四間
 新座郡白子村、三十五度四十七分
    一里三町一十一間
 膝折村
    三十四間三十六間
 大和田町
    一町一十三町二十一間
 入間郡大井町
    二里一十一町二十五間
 松郷至仙波喜多院一十三丁九間
    七町五十四間至川越松郷町、五十四間、自松郷町、至志義町、三十九間
 川越本町歴大手前、至江戸町、二丁三十六間 北極高三十五度五十五分
 右のように起点は東京日本橋である。これはご承知のように日本橋の中央に「東京市道路元標」があって東海道、中仙道その他全国の道路の元標でもあった。駒込追分はここから川口、鳩ケ谷、大門を経て幸手で日光街道と合流する。俗に岩槻まわり日光道が分かれていたので追分と称したのである。板橋宿は中山道の第一宿で江戸四宿の一つに数えられて栄えた宿場町で、宿は上宿、中宿、平尾とにわかれ、川越街道はこの平尾の追分から中山道と分岐した。現在の板橋四丁目の東光寺のあたりで、三丁目に昔あった遊廓の少し手前である。
 川越街道に入って最初の宿場が上板橋宿で、あとは下練馬、白子、膝折、大和田、大井を経て、仙波新田から川越城下町となり、松郷から志義町を通って札の辻で測量を終っている。これは札の辻が川越城下町の道路の基準になっていたためで、南町、喜多町という町名もこの札の辻からみて南北に当るためつけられたものだ。つい十数年前までこの十字路の東北角にある榎本家の前に「川越市道路元標」というコンクリートの標柱が建てられていたが、いつの間にか片づけられてしまったようだ。
 この伊能忠敬が測定したそれぞれの区間の距離を合計してみると、東京日本橋から川越札の辻までの里程は十里三十二町十五間半ということになる。いずれにしても「九里四里うまい」の説が実際と違うことはこれではっきりした。さらに松平輝綱が測った十一里一丁という数字が、案外これに近いのには驚かされた。ただ輝綱の場合は大手前まで測量しているのにたいし、忠敬の場合は本町札の辻で止めている違いがある。忠敬は本町から大手前、江戸町までの距離を二丁三十六間としている。そこでこれを前記の十里三十二町十五間半に加算すると、十里三十四町三十三間半となって、十一里一丁との差はさらに僅少なものとなる。
    (後略)

「日本地名さんぽ」 浜田逸平 朝日文庫 1997年 ★★
 生れた県名や、いま住んでいる土地の名前の由来を知っていますか。それぞれの地名には、さまざまないわれがあり、歴史がつまっています。本書では、ちょっとした“さんぽ”の途中にであった町の話題、忘れられていた顔を紹介しました。あなたの街の表情が豊かにかわります。(カバーのコピー)
 川 越(かわごえ)
 入間川を越える意味、はんらんで肥えた土地、渡しからなどの説がある。
 川越城は太田道灌が築いた。江戸時代は北を守る拠点として代々、幕府の重臣が藩主となり「小江戸」と呼ばれる繁栄ぶりだった。市内に蔵造りの街並みが残る。川越まつりは、江戸の風情を伝える祭りといわれる。川越の総鎮守氷川神社の例大祭で、江戸ばやしにのって、7.5トンもある豪華な山車十数台が引き回され、昔を伝える。喜多院には「家光誕生の間」や春日局「化粧の間」のある建物が残る。大火の後、家光の援助で復興する際に江戸城から移築された。名物に川越イモ。十代将軍家治にも献上され、江戸と川越間の距離をもじって「九里四里うまい十三里半」といわれ評判だった。 

「埼玉の手話(地名編)」 『埼玉の手話』作成委員会編 (社)埼玉県聴覚障害者協会 1997年 ★★
 2県西地区/川越市  Kwagoe-City
手話表現の解説――本では、写真1・2に下記の解説がついています。
 @とAで「川越(かわごえ)」を表現する。
 @「川」 漢字の川を3本の指で表現。
  (3本の指を上から下へ下す)
 A「越」 片手の甲をもう一方の手が越えていく様子で表現。
  (両手とも手刀の状態を作り、水平にした片手の甲を、垂直にしたもう一方の手が乗り越える)
  ( )内は、私が追加しました。

 なお、埼玉県は、次のように表現するそうです。
「玉」を両手で撫でるしぐさ。以前には、「さつま芋(特産物)」を両手で折るしぐさで埼玉を表現したが、現在はこの表現で定着した。
地名の由来
 面積109.1平方キロ、県内第3位の広い市域を有する川越市は、昔から城下町として栄えてきた。川越の地名の由来については、「神様が二神をつれて川を渡った」、または「河肥」(鎌倉時代)から「河越」となり、現在の「川越」になった等様々な伝説がある。いずれにしても、入間川や荒川、小畔川、新河岸川が周囲を取り囲むこの地は、大昔から川と縁が深く、地名もそこから起こったと考えられる。

烏頭坂と他の坂
「川越歴史小話」 岡村一郎 川越地方史研究会 川越歴史新書5 1973年 ★★★
 38.烏頭坂考
 川越街道を岸町から大仙波新田に上ってくる所に鳥頭坂という大きな坂がある。ときにおとう坂とも呼ぶのはこの地方のなまりに過ぎない。この鳥頭坂は川越でもっとも早くから知られている地名のひとつで、文明十八年(1486)の書き出しで始まる道興准后の「廻国雑記」にもう見えている。
  これより武士の館へまかりける道にうとう坂といえる所にてよめる
 うとう坂こえて苦しき行末を
 やすかたとなく鳥の音もかな
とあるのがそれだ。この歌はうとう坂という地名を聞いた道興准后が、それを歌枕に用い、鳴き声のやすかたと苦しい行末をかけて詠んだまでのことで、別に名歌でも何でもない。
 うとうという鳥は動物学の方では善知鳥と書き、海雀科に属する中型の海鳥である。比較的寒冷な地方に分布し、北海道および本州北部で繁殖するが、冬季には四国、九州の沿岸にも渡来する。ことに昔は津軽の安潟浦がその繁殖地として有名であった。それにしても海鳥であるから川越地方にせい息したとはちょっと考えられない。また、親の鳴く声がウトウで、子の啼声がヤスカタだなどというのは、単なる俗説でとるに足りない。
 それでは何でこんな所にこんな地名があったのか。善知鳥の習性をみてみよう。この鳥の繁殖期は五―七月であるが、その巣は海岸の丘の斜面に穴を掘ったもので、穴の入口は一升樽くらい、深さは六尺から十二尺もあり、その奥に枯草を敷いて卵を産む。そのうえ善知鳥は群棲を好むから、沢山の仲間が巣をつくった所は、まるで松山の百穴を小型にしたような感じがするそうだ。
 善知鳥の名称の起りもじつはこの穴を掘る習性からきたらしいことは、猪川城氏の「野鳥襍記」などによって注意されている。猪川氏は穴を意味する方言にウト、ウツ、ウトロなどがあるところからこの説を唱えたのである。私も方言辞典を調べてみたら、洞、ほら穴のことをウトまたはウドといっているのは淡路島、兵庫、岡山、四国、宮崎、鹿児島、大分地方など、ウトーと呼んでいるのは岩手、会津、長野、三河地方にある。
 してみると今は方言に名残を留めているに過ぎないけれども、かつては穴のことをウトというのはかなり一般的な呼び方だったのかも知れない。宮崎県宇土浜にある鵜戸神宮も、その御神体は日向灘に面した絶壁の岩窟にまつられていることから考えて、鵜戸すなわち穴であることは自明の理である。
 そこで思い当ることがある。この鳥頭坂のある岸町から大仙波の鷲の木、富士の腰あたりが古墳地帯だということだ。「三芳野名勝図会」を引くまでもなく、昔は百塚といわれるほど沢山の古墳があったところで、とりわけ大きなのが現在でも遺っている父塚、母塚であった。もちろんこうした大小の円墳は当時の豪族の墳墓であるが、同時にこれより少し規模の小さい横穴古墳や庶民の竪穴住居址も無数にあったことはいうまでもない。現に城南中学校の下から昭和三十六年に横穴式古墳が発掘されているし、第一中学校では二十八年の発掘によって多数の土師式住居址があらわれたことがそれを立証している。
 ことに横穴の場合は地形からいっても、鳥頭坂から大仙波にのぼる台地の斜面に密集していたと考えるのは決して無理な想像ではあるまい。土地の人に話を聞くと、普請などによって土を掘ると、時どき大きな穴がぽっかり口を開けることがあり、また土を踏んだだけで、何か地中に空洞のあるようなぼこぼこ音のする所がかなりあるといっている。したがって昔の鳥頭坂の景観はこの無数の横穴によって、きわめて特異な印象を人びとに与えたものと思われ、それが地名の起りになったのではなかろうか。

 39.鹿見塚のあった所

「校注武蔵三芳野名勝図会」 校注/山野清二郎 川越市立図書館 1994年 ★★★
下之巻
 烏頭坂

続 日本の地名―動物地名をたずねて― 谷川健一 岩波新書(新赤版559)1998年
 地名はいつも私たちに不思議な興趣を呼び起こす。とりわけ狼森、犬卒塔婆、狐塚、磯鶏、猫魔ヶ岳といった動物地名が鮮やかな記憶を焼き付けるのは、これらの地名が古くからの伝承や信仰、人々の暮らしと深く結び付いていて心の奥底の思いをかきたてるからに違いない、アイヌ地名から南島地名まで日本全国のさまざまな動物地名を訪ねての旅。
 第八章 翼あるもの/[ウトウ]善知鳥
  ウトウはウミスズメ科の海鳥で、東北や北海道の沿岸に棲息し、草地に巣を営む。繁殖期には上嘴の付け根に著しい角状の突起が見られることから、アイヌ語で突起を意味するウトウの名称が起こった。
 室町頃に流布された伝承では、猟師は蓑笠をかぶって巣に近づき「ウトウ」と親鳥の鳴き声を真似すると、子鳥は「ヤスカタ」と答えてしまう。だから所在がすぐにわかって捕らえやすい。子鳥を捕らえるとき、親鳥は空の上から血の涙をふりそそぐ。それが身体にかかると身を傷めるので、猟師は蓑笠を脱がない。
 この俗伝をもとに謡曲「善知鳥」は作られた。諸国一見の僧が越中立山の湧泉地獄に苦しむ亡者から、自分は生前ウトウヤスカタの鳥を殺して生計をたてていた外ヶ浜の猟師だが、廻国の砌、陸奥外ヶ浜に行くことがあれば、そこにすむ自分の妻子を訪ねて、罪ほろぼしのために、自分の手許にある蓑笠を手向けてほしいと頼まれ、僧はその約束を果すという趣向である。
 陸奥外ヶ浜は、今の青森市のあたりであるが、寛永二年(1625)に青森の名が起こる前は、善知鳥村と称した。葦の生い茂る沼を安潟と呼び、そのまわりに猟師の家がわずかに点在する侘しい漁村であった。いま青森市に安方という地名があり、そこに善知鳥神社がある。さきの話は、安潟という地名が存在したことから、ウトウと呼べばヤスカタと答えるという不自然な作り話が生まれたものと思われる。
 青森市浅虫にも善知鳥崎がある。そこは海岸に突出した岬であるから、アイヌ語のウトウ(突起)から名付けられたもので、つまり鳥のウトウとは関係がない。また新潟県佐渡島の相川の善知鳥郷をはじめ、善知鳥地名が日本各地にあるが、それらがすべてアイヌ語に由来するとは限らない。ウツとかウトは、狭い谷や洞窟を指す地形地名で、それに善知鳥の字が宛てられた場合が少なくないからである。

「川越歴史渉猟」 新井博 西田書店 1987年 ★★★
新田義貞の一騎坂・駒止めの原
 城南中学校のグランドの脇から、岸町の方へ降りる急な坂がある。もとは非常に狭いいわゆる野道だったが、現在は拡張されて自動車も通れるように広くなっている。ここの南斜面からは古墳時代後期といわれる横穴古墳が点在していて、度々人骨が発見されており、考古学上でも著名な場所だ。
 この急な坂道は一名一騎坂といわれている。鎌倉幕府打倒の兵をあげた新田義貞が、上野国新田から鎌倉へ向う途中、ここまでくると道がたいへん狭くて曲っているうえに、非常に急斜面の坂なので、先頭の馬が止まってしまい動かなくなってしまった。乗っている武士もあまりの急坂と、眼下に広がっている広漠たる草原や森林に思わず、馬をすすめるのをためらってしまった。
 義貞はすぐさま最先端に馬をすすめ、自らただ一騎で、鞭をあて、疾風のごとく駆け降りて、はるかかなたにある草原まで一気に馬をとばして見本を示したのである。ふり返って軍扇を広げて、自分に続くように手招きした。それを見た家来たちは、続々と馬をとばして駆け下りて、義貞に従った。その間ただ一騎も落馬する者もなく、また怪我をした者もなかった。
 こうして軍勢が全部そろった所で、入間川を渡って一路鎌倉を目ざし、遂に北条高時を鎌倉東勝寺で自刃に追い込み、鎌倉幕府を滅亡させたのである。後にこの坂を一騎坂と呼ぶようになったという。また駆け降りて止った場所が現在の給食センターのあたりで、ここを駒止めの原というようになったという。  (木村千代氏談話)

その他
「地名の博物誌」 谷口研語 PHP新書026 1997年 ★
 地名は、わたしたちの祖先が生み出し、育て、数百年、千数百年にわたって守りつづけてきた貴重な<文化財>である。
 本書では地名の表記用字に着目し、漢字表記に使われる事物を用いて地名を分類・解説するというユニークな試みを行う。
 <獣><身体><位置><数>の用字を読み解くなかから、それぞれの地域の豊かな歴史が見えてくる一冊である。(カバーのコピー)
 群を抜いて多い鹿の字の地名
 日本列島における狩猟・漁労・採集の縄文時代、縄文人たちの狩りの獲物は主に鹿と猪だった。古くは鹿・猪ともにシシともいい、猪に対して鹿をカノシシともいった。肉のこともシシというから、日本においては、古くより食肉用として、猪と鹿が重要な位置を占めていたことがうかがえる。
 平安時代最末期の平家全盛のころ、「鹿ケ谷事件」という政変が起こった。治承元年(1177)五月、後白河上皇の近臣たちが、京都東山鹿ケ谷の僧俊寛の別荘に集まり、打倒平家の謀議をめぐらして失敗した事件である。この地名は「ししがたに」と読み、現在、京都市左京区に冠称として名を残している。
 鹿は列島の殆んどの地に生息していたから、鹿の字の地名は市町村名だけでも、
  北海道鹿部町・鹿追町  秋田県男鹿市・鹿角市・平鹿町
  宮城県鹿島台町・牡鹿町  福島県鹿島町
  茨城県鹿島町  栃木県鹿沼町
  埼玉県小鹿野町  新潟県鹿瀬町
  長野県大鹿村  石川県鹿島町・鹿西町
  三重県鈴鹿市  兵庫県八鹿町
  鳥取県鹿野町  鳥取県鹿島町・鹿足郡
  山口県鹿野町  佐賀県鹿島市
  長崎県鹿町町  熊本県山鹿市・鹿本町・鹿央町・鹿北町・菊鹿町
  鹿児島県鹿児島市・鹿屋市・鹿島村
 など、これだけの数があり、動物の字を使ったものでは群を抜いている。
 ただし、これらすべてが動物の鹿に由来するものではない。というより、鹿とは関係ない場合の方が多いようである。古い地名で動物の鹿に関係するものは、どちらかといえば、シシとよまれる方が多かったかもしれない。鹿の字をシシと読む地名には、
  宮城県気仙沼市に鹿折  埼玉県吉川町に鹿見塚
  埼玉県川越市鹿飼  山梨県都留市に鹿留
  滋賀県高島町に鹿ケ瀬  奈良県西吉野村に鹿場
  石川県富来町に鹿頭  香川県三木町に鹿伏
  高知県吾川村に鹿森  福岡県古賀町に鹿部
  長崎県上県町の鹿見
 などがある。 

「芳野村郷土誌稿」 大野貞/著 川越市総務部市史編纂室/編 川越市 1971年 ★★★
 第二章 地名の起因/第二節 本村地名の考察
  鹿飼
 風土記によれば昔はこの地一体は「シシだめ」(猪溜?)と称し、ご遊猟地であって、狩猟用の獣類を多く飼育したるためこの名あり、と記されてある。古来同地域は西に入間川を控え東に遠く荒川の流域を境として平方に接し入間川の下流において荒川と合し、北部だけ今日の出丸村に隣り、小規模の狩猟地としてけだし好適地であったろう。俗称「ししだめ」の名は後ついに部落名となり、更に比較的文化の向上と共に「猪溜」は「鹿飼」に改更されたものと思う。
 第五章 部落の事跡/第七節 鹿飼
  ししだめの称
 鹿飼は入間郡誌によれば正保(1644−48)の古図によると、「ししだめ」(猪溜)と称する原野なりしが、おそらく寛永(1624−44)のころまでは、遊猟ありし所にして猪、鹿もここに集め置きしにや、よって中老袋の農民、この地を開発し鹿飼をもって村名となし、元禄(1688−1704)の古図には「鹿飼」「ししだめ」共に見ゆれども、その後消滅して小字名にも存せず、里人もこれを知らざるに至れり。とあり。更に『ここに今日に至りて珍とすべきは、江戸時代の中ごろまで猪狩りの行われたりしことこれなり。植木村鹿飼は、「ししだめ」と称せられ、宮寺、三ヶ島、山口三村の境には猪落し穴あり、太田村豊田新田の大堀山には、猛獣(おそらく猪ならん)出現のおぼろ気なる伝説あり。川越郭町の北野氏の日誌には、享保年間柏原村武蔵野において猪狩を行ないたること見えたり、という。』と記されてある。これによってこれを見れば、鹿飼の狩猟地なりしことも、各獣類を捕獲し来って、飼養し居た事実も自からうなずけられる。しかし中老袋の農民が来て開墾し、鹿飼をもって村名としたということは、いかなる考証によるか不明であるが、更に一段の考究を要することと思う。

大日本地誌大系15 新編武蔵風土記稿 第9巻」 蘆田伊人 編集校訂 雄山閣 1996年 ★★
巻之187 比企郡之2
 鹿飼(シシカイ)村高札場/中島
鹿飼村も老袋村を割し地なり、正保の図には此辺ししためと載たる原野なり、よりて按ずるに寛永の頃までは、しばしば此辺遊猟ありし地にて、其時に猪・鹿を爰に溜置し地なれば、国図にも載たるにや、然るを中古老袋の民開発し、則村名にも冠らせしならん、元禄の図には鹿飼村をのせたれど、又ししための名も見ゆればその名もありしならん、今は小名にものこらざれば、土人もしらざるなり、領名及び江戸への行程領主等総て前村に同じ、戸数四十、東より南は上老袋村に隣り、西は入間の古川を限り、入間郡石田本郷に境ひ、北は川口村なり、東西三丁、南北十町、入間古川の辺りに中老袋寺と同年に改られし新田あり、

「地名の秘密」 古川愛哲 リュウ・ブックス アステ新書 2002年 ★
4章 神社の名前で歴史がわかる!?
 「霞が関」ってどういう意味だ?

「地名を考える」 山口恵一郎 NHKブックス286 1977年 ★
U地名分布と地名群落/本州中央部の地名群落
 東日本の崖地名 
 崖をあらわす語はきわめて多い。東日本的な崖地名は、「ハケ」「ハバ」「ママ」などであろう。この本の冒頭にも述べたように、「クラ」もそうだが、「ホロ」「ザレ」「ゾレ」「ガレ」「カケ」などもある。「ノゲ」「ナギ」(野毛・乃木・薙)なども崖地名という。これに対して、西日本にみられる崖地名は、「ツエ」(杖・津江など)・「クエ」(崩・久恵など)・「ハキ」(吐・葉木など)・「ホケ」「ホキ」(歩危・崩壊など)であろう。もちろん両方にみられるものもある。
 武蔵野には「ハケ」の地名が多く、□(土へんに赤)・□(土へんに占)・□(土へんに淮)・□(土へんに涯)などの、垰や乢の方言文字にみられるような特異文字を使っているものもあるが、峡・八景・八卦などと表現するものもある。狭山市の□(土へんに赤)下(はけした)川越市の大□(土へんに赤)(おおはけ)、所沢市の大□(土へんに占)(おおはけ)はこの例であるが、地形図でさえも大帖などと誤って書かれていることがあるから、注意を要する。(ただし、これは現行図では訂正された、というよりも注記を省略された。)
 「ママ」は、真間の手古奈の話で知られる千葉県市川市の真間や、群馬県の大間々などの著名な例がある。また、「ママ」の転訛した「モモ」(桃・百・百々)も当然同義に解釈すべきだが、百々は「ドウ」という「とどろく」の擬音地名もあるから、やっかいである。
 この市川市に北方というところがあり、本来「ぼっけ」といったのが、今日では「きたがた」になってしまった。四国の大歩危・小歩危と同じ明らかに「ホケ」地名である。また、堀切がしばしば「ホッキ」で、馬場や飯場が「ハバ」である場合もあると聞くに至っては、お手あげの感だが、東北に多い袰・母衣も「ホロ」「ホラ」である。「ハバ」はふつう幅・巾・羽場と書く。
    (後略) 

「こだわり地名クイズ」 楠原佑介 徳間文庫 2006年 ★
 <『こち亀』の亀有は昔「亀無村」だった。これ、ホント?>お馴染みの地名にも知られざる由来や秘密が隠されている。こだわりの地名研究家が繰り出すウンチクの洪水に、あなたの脳ミソはもうクニャクニャ。脳がどんどん若返る地名面白クイズ(カバーのコピー)

【問88】 「新宿」はシンジュクとはかぎらないヨ
 
 「新宿」という文字を見たら、日本人の10人中9人までは「シンジュク」と読むだろう。だがしかし、実はコトはそう簡単ではない。まずは、次の4カ所の「新宿」は、さてどう読むか? 読み方は全部、違うヨ。
 
 @群馬県桐生市新宿一〜三丁目
 A神奈川県逗子市新宿一〜五丁目
 B埼玉県川越市新宿町一〜六丁目
 C東京都葛飾区新宿一〜六丁目

 【答88】

 地名情報資料室・楠原佑介

「日本地図 雑学クイズ王」 博学QA委員会編 KAWADE夢文庫 2001年 ★★
 日本一低い山はどこにある?7つの県しかないのに「九州」とよぶのはなぜ?…など、日本の北から南まで旅行気分で楽しめるクイズ形式のおもしろ博識本!(カバーのコピー)

【問039】 東京・武蔵野の雑木林は、どうしてできた?
 (A)神聖な場所として新田開発などできなかった
 (B)江戸時代の植林
 【答039】

【問245】 「小江戸」と呼ばれ観光スポットになっている関東の町はどこ?
 (A)茨城県水戸市
 (B)埼玉県川越市
 【答245】
 

「角川日本地名大辞典 11 埼玉県」 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1980年 ★★
総説
地名編
地誌編
 川越市
 現況/立地/沿革/史跡・文化財・文化施設/現行行政地名
 〔参考文献〕 安部立郎「入間郡誌」(大1)  岸伝平「川越沿革史概要」(昭7)  同「川越夜話」(昭6)  同「川越の地誌」(昭27)  同「川越の山車」(昭31)  内山留吉「河越氏と河肥庄」(昭31)  岡村一郎「川越の城下町」(昭30)  宮下辰夫「川越の蔵造」(昭30)  川越市役所「川越市制30年誌」(昭27)  川越市史編纂室「川越市史原始古代編・近代編・現代編T」「川越市史資料編民俗編・中世T・U、近世T〜V」(昭43〜53)  同「川越市合併史稿」(昭41)  同「芳野村郷土誌稿」(昭46)  同「川越の石仏」(昭48) 川越市教育委員会「川越市の文化財」(昭47)  同「蔵造りの町並」(昭51)  大館右喜「川越藩」(物語藩史3所収、昭51)  新井博「川越市今福の沿革史」(昭50)  同「埼玉県の民話と伝説―川越編」                   (新井 博)
資料編

地名編
 しゅくりゅう 宿粒 <川越市>
宿立とも書く。県南部、入間川右岸の低地に位置する。
〔中世〕宿立 戦国期に見える地名。入東郡のうちか。「役帳」に「三十八貫七百文 元山中孫七郎知行 河越三十三郷 宿立」と見え、同地域を御馬廻衆の関兵部丞が山中孫七郎から買得したことがわかる。山中孫七郎は川越衆に属している。また「新編武蔵」には応永年間と推定される10月15日の文書が「法恩寺年譜録」に所載されているといい、「武蔵国河越荘宿料郷内」とあるが、本文書は検討を要する。
〔近世〕宿粒村 江戸期〜明治22年の村名。入間郡河越領のうち、古くは山田荘に属したという。川越藩領。検地は慶元年・延宝9年、新田検地は延宝3年。村高は「田園簿」で413石余、うち田315石余・畑97石余、「元禄郷帳」372石余、「天保郷帳」397石余。村の規模は東西3町余・南北35町余。化政期の家数40軒。用水は上寺山・下寺山村の境で入間川を堰入れて利用。また村内の池は400坪ばかりだが大旱にも涸れず、旱魃に際して近隣の村も利用した。村内を江戸から秩父への往還と比企郡松山へ通じる街道が貫く。鎮守は八幡社。寺院は時宗天王山浄国寺。高札場は村の南部。小名はしたり関・たこのて・鴻ノ免など。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数41・人口210、馬17、農車2。物産は米。飛地が青柳村・奥富村(現狭山市)、奥富・増形2か村の間、大塚村にある。明治12年入間郡に所属。同22年山田村の大字となる。
〔近代〕宿粒 明治22〜40年の山田村の大字名。明治22年の戸数43・人口253(川越市合併史稿)。同40年大字山田の一部となる。
 あじろ 網代 <川越市>
県南部、入間川右岸の低地に位置する。
〔中世〕網代郷 戦国期に見える郷村名。入東郡のうちか。初見は永禄4年4月8日の北条氏康同氏政連署感状で、同状からは上杉謙信の小田原攻めに際して、小田原北条氏に加勢として参加した今川氏真の家臣小倉内蔵之助が、戦功により網代郷を宛行われたことがわかる(小倉文書)。また年月日未詳の北条氏政判物写によれば、網代郷が毛呂土佐守に宛行われたことが知られる(武文)。
〔近世〕網代村 江戸期〜明治22年の村名。入間郡河越領のうち。古くは山田荘三芳野里に属したという。川越藩領。検地は慶安元年・明暦2年。村高は「田園簿」で324石余、うち田309石余・畑14石余、「元禄郷帳」280石余、「天保郷帳」294石余。村の規模は東西5町・南北43間。村内を松山へ至る街道が通る。鎮守は山王社。寺院は本山派修験教学院。高札場は村の中央部。小名は小三田町・わたぎ・とうぎ・島の免など。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数20・人口118、馬3。物産は米・大麦。明治12年入間郡に所属。同22年山田村の大字となる。
〔近代〕網代 明治22〜40年の山田村の大字名。明治22年の戸数20・人口147(川越市合併史稿)。同40年大字山田の一部となる。
 しだれ 志垂 <川越市>
「したれ」ともいう(新編武蔵)。県南部、入間川右岸の低地に位置する。
〔近世〕志垂村 江戸期〜明治22年の村名。入間郡河越領のうち。古くは山田荘三芳野里に属したという。川越藩領。検地は慶安元年・明暦2年。村高は「田園簿」で207石余、うち田143石余・畑64石余。「元禄郷帳」205石余、「天保郷帳」216石余。村の規模は東西4町余・南北5町余。化政期の家数27軒。用水は上寺山村で入間川を堰入れて利用、あるいは宿粒村の池より引水。村内を川越から比企郡松山へ向かう街道が通る。鎮守は府川村の八幡社。神社は山王社。寺院は天台宗安養院・多門院。高札場は村の中央やや南寄り。小名は木曽目前・大段田など。明治初年安養院を仮用して公立小学校開校、生徒数69。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数31・人口163、馬5。物産は鶏卵・米。明治12年入間郡に所属。同22年に山田村の大字となる。
〔近代〕志垂 明治22〜40年の山田村の大字名。山田村役場が設置された。明治22年の戸数29・人口209(川越市合併史稿)。同40年大字山田の一部となる。
 ふくだ 福田 <川越市>
県南部、越辺川・小畔川・入間川流域の低地に位置する。
〔中世〕福田 戦国期に見える地名。入東郡のうちか。「役帳」に河越衆の川尻氏の所領として「四拾六貫七百九十三文 河越三十三郷 福田」と見える。
〔近世〕福田村 江戸期〜明治22年の村名。入間郡河越領のうち。古くは山田荘三芳野里に属したという。川越藩領。検地は慶安元年、新田検地は延宝6年。村高は「田園簿」で332石余、うち田215石余・畑117石余、「元禄郷帳」356石余、「天保郷帳」414石余。村の規模は東西6町半・南北6町余。化政期の家数58軒。用水は入間川の水を引いて利用。村内には下寺山村から高畑村につづく、入間川・越辺川の水除堤があり、また、比企郡松山への往来が通る。鎮守は赤城明神社。神社はほかに通殿権現社・牛頭天王社。寺院は天台宗星行院・長生寺・宝林寺。高札場は村の中央部。小名は櫓下・金山・二重堤など。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数65・人口348、馬22、人力車1・荷車2。物産は鶏卵・米・大麦・大豆・空豆・木綿など。入間川に渡船場がある。明治12年入間郡に所属。同22年山田村の大字となる。
〔近代〕福田 明治22〜現在の大字名。はじめ山田村、昭和30年からは川越市の現行大字。明治22年の戸数62・人口394(川越市合併史稿)。昭和45年の人口557。

 いまなり 今成 <川越市>
県南部、新河岸川左岸の低地に位置する。地名は川田備前守今成という人が当地を開墾したことに由来するという(新編武蔵)。
〔中世〕今成之郷 戦国期に見える郷村名。入東(にっとう)郡のうちか。天文8年2月3日の北条氏綱判物写(外郎文書)に「河越三十三郷之内今成郷」と見え、同地域を代官所として宇野定治に預け置き、百姓や下地の管理を行うことを申し付けていることがわかる。また「役帳」には御馬廻衆宇野吉治の所領として「二百貫四百六拾五文 河越 今成」と見え、宇野氏は今成の代官、今成は小田原北条家の直轄地であったことがわかる。
〔近世〕今成村 江戸期〜明治22年の村名。入間(いるま)郡河越領のうち。古くは山田荘に属したという。川越藩領。検地は慶安元年・承応2年・寛文元年。村高は「田園簿」で855石余、うち田804石余・畑51石余、「元禄郷帳」801石余、「天保郷帳」896石余。村の規模は東西8町・南北12町。化政期の家数38軒。用水は天水を利用。水田が多い。村内には当地を開墾したと伝える4人(今成・月吉・日吉・神田)の屋敷跡がある。月吉については「廻国雑記」に「河越といへる所に至り、最勝寺といふ山伏の所に一夜雨やどりて……また月吉といへるものゝふ侍り」と見える人に関係するかともいわれる。鎮守は熊野社。神社はほかに天神社・氷川社。寺院は天台宗安楽寺。高札場は村の西部。小名は川田・赤沼・石川。村の東部に安政元年建設の水車場があり、火薬製造が行われた。明治初年、安楽寺を仮用して公立小学校開校、生徒数26。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数48・人口252、馬30、荷車1。物産は米・大麦・サツマイモ・木綿織。飛地が村の西方に1か所。明治12年に入間郡に所属。同22年田面沢(たのもざわ)村の大字となる。  
〔近代〕今成 明治22年〜現在の大字名。はじめ田面沢村、昭和14年からは川越市の現行大字。明治22年の戸数60・人口307(川越市合併史稿)、昭和45年の人口2,309。昭和37年一部が月吉町の一部となる。同38年一部が石原町1〜2丁目の一部となる。
今成館

・掲示板に次のような質問が寄せられました。何か情報をお持ちでしたら教えて下さい。

教えて下さい  No: 318
投稿者:今成 行裕  04/12/28 Tue 16:34:22
今日は。神戸在住の今成行裕(ユキヒロ)と申します。そもそもは東京の出身ですが、父親は新潟県南魚沼郡六日町(現在南魚沼市)出身です。六日町には今成の名字が多く、一説では上杉謙信の家臣に今成という武家がいたとのことです。一方、偶然に山形県米沢市にも今成を名乗る方々がお住いと知りました。徳川家康によって越後から米沢へ移封となった上杉家について行った家系と、越後に残った家系かな?と想像しております。一方、川越に今成という地名が残っていることを知りました。今回のお願いは、この由来について何かご存じでしたら、教えていただきたく、メールを差し上げる次第です。よろしくお願い申し上げます。

・掲示板に次のような情報が寄せられました。

Re: 教えて下さい Prev: 318 / No: 350
投稿者:NM 05/02/15 Tue 20:50:40
当方、今成の地名が川越にあることは、20年来、ずっと、気になっておりました。というのも、当方の先祖の出身地は、今は遊水地になってしまっていますが、茨城県古河市の隣の谷中村で、そこに、今成氏が明治時代末で6軒ほどおりました。現在では、転勤で北から南まで移動しますが、戦国時代、1400〜1500年代でも、かなり、戦がらみで?移動していることがわかり、少し、なぞが解けた気がします。なお、足利市の長尾顕長家老に川田氏(川越地誌によると川田氏で今成を名乗る方が川越に今成を開いたとのことですが、この川田氏とつながるのか)がおります。当時は、古河公方、上杉方、北条方の勢力が一進一退で、豊臣秀吉の関東征伐直前は北条氏が支配しておりました。当方の先祖は、まだ、確証はありませんが、北条氏の命で、もとは川越上杉氏の家臣であるが、川崎市中原区宮内から戦のために?当地方に移動してきたようです。
以上、ご参考までに。

 ふかわ 府川 <川越市>
県南部、入間川右岸の低地に位置する。
〔中世〕府川郷 戦国期に見える郷村名。入東(にっとう)郡のうちか。永禄8年12月18日の梶原政景書状(三戸文書)に「河こへのしやうふかわのかう」ほか数か所を三戸駿河守室に安堵されていることが見える。のち天正5年5月26日の北条家印判状によれば竹谷源七郎・大野縫殿助の2人は隠田を申し出た褒美として代官職に任じられ、検地結果の増分のうちより5貫文を下された。またこの隠田摘発の検地の結果、府川郷の田は14町余、反別500文で、その分銭72貫679文、畠は24町余で、反別165文で、その分銭40貫27文、合計分銭112貫706文とあり、これより神田・井料などの引物20貫がひかれ、府川郷の定納年貢は91貫706文(ママ)と定められ、それを永楽銭(半額となる)で46貫353文を毎年岩付御蔵奉行に渡すことが命ぜられている。また天正7年と推定される卯4月29日の北条家印判状では人足1人を出し、野本より板50枚を岩付へ届けるよう「府川郷小沢図書分 百姓中」に申し付けている(竹ノ谷文書/武文)。
〔近世〕府川村 江戸期〜明治22年の村名。
〔近代〕府川 明治22年〜現在の大字名。

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作成:川越原人  更新:2020/11/02