上松江町・松江町 かみまつえちょう・まつえちょう
上松江町(松江町2)。松江町(松江町・新富町1)。江戸時代の地誌に、このあたりから仙波にかけては満々たる滄海であったとか、渺(びょう)々たる大沼であって漁民がB(どんこ)をたくさん採り、その味が「唐土松江之巨口細鱗」にも劣らぬほど美味であったから松江町といった、とある。有史以前仙波あたりまでは海であったろうし、久保町は大正のころでも、コイ、フナ、ドジョウ、ウナギが採れる水たまりがあったようだが、「渺々たる大沼」ではない。伝説にすぎないだろう。おそらく「松郷(まつごう)」を「松江(まつごう)」のあて字で通用させているうちに混乱して、松郷分から独立した町を松江(まつえ)町と呼ぶようになったのではないだろうか。町内の日本聖公会キリスト教会の礼拝堂は、大正10年の建造。日本建築学会が調査を行い、明治・大正建築の代表例として保存の必要性が強調された。上松江町は大字川越に属し、下松江町は大字松郷のうちであるが、隣接しており町名の由来は共通である。(相曽)
上松江町はもと松郷に所属し、松郷がさらに、上・中・下の各松郷に分割されていた。このうち上松郷だけが、十ケ町の下五ケ町に編入されていた。『新編武蔵風土記稿』によると、
「上松江町ハ城ノ未ノ方ニテ江戸ヨリ城下町ヘ入ル所ナリ。北ノ方ハ江戸町ニ続キ(現・市役所方面)東ハ南北ノ久保町ニ接シ、西ハ志義町及ビ松郷ニ境ヒ南モマタ松郷ノ地ナリ。相伝フ往古コノ辺ヨリ、仙波ノ辺ニカケテ大ナル沼アリ、コノ沼ニ生ル鱸(すずき)魚其ノ味殊ニ美ニシテ、カノ唐ノ松江ノ巨口細鱗ニモ劣ラズトテ、松江ト名ヅケシガ唱ハ字ノ訓ヲ用フルコト語呂(ごろ)ノ便ナルヨリ、カク号ストイヒ伝フレドモイカガアラン。古ヨリコノ地、月ゴトニ四日廿日ノ市立シガ、近キ頃(近頃)ハ五月四日、十二月二十四日ノフタタビノミ立リ」
とあり、久保町は字のごとく低く、大正のころでも雨が降ると水がたまり、こい・ふな・どじょう・うなぎなどがとれたので、川魚料理として「市の屋」や「小川藤」があり、天保のころから、うなぎの蒲焼料理を売りものにしてきた老舗である。
また芋菓子の店として、「芋十」が古く、松江町から連雀町に行く街角に、その老舗の貫禄を示している。「東洋堂」も川越名物の芋菓子を製造販売して、百年の歴史を誇っている老舗だ。
〔近代〕
県南部、新河岸川流域の低地・台地上に位置する。地名は昔近くの沼からとれる鱸魚が大変美味であったことから中国の淞江に擬して松江といわれた地が松郷と誤記されたことによるという(『新編武蔵』)。
〔近世〕松郷
〔近代〕松郷
上松江町は松江町の上にあたるのでこの名がある。「風土記稿」によると往古この町の東から仙波の辺にかけて大きな沼があり、そこの鱸の味が美味で支那の松江の細鱗にも劣らないので、松江と名づけたと記している。「入間郡誌」では松江町の起源は松郷の草字体から転じたものであろうとしている。市内東方の浮島や遊女川の入江伝説と対比してみると、この松江の伝説も必ずしも荒唐無稽だと捨て去ることはできない。この関係で上松江町の山車の人形は入江の魚釣りに因んで浦島太郎が採用されている。
上松江町は十ヶ町の内で、昔は江戸への往還にあたり、市日を五月四日、十二月二十四日とする松江市が別に立てられていた。なお春の市は草市とも云った。横町に御薬園の跡があり、今では鉄砲町と呼んでいる。昔江州国友村より鉄砲鍛冶の国友某がこの地にきて永く住んでいたので、この町名となったのである。
松江町は上松江町の下にあたり松郷分に属する。松郷は昔から上、中、下と呼名されていた。ここらあたりが大字松郷の本拠であろう。町名の由来は上松江町の項に述べた通りである。
久保町よりの突当りを今は広小路と称している。銀杏久保には古くから出世稲荷があり、町内の氏神として祀られている。社前に川越一の大喬木である銀杏の大樹があるので、町名に冠したものと思われる。
松郷と云う名の起立を示す史料としては騎西町大英寺に蔵する弘治2年(1556年)の北條家の文書および正保(1644年〜)改めの郷帳があり、入江の辺りに松並木があったところから名付けられたとも称されている。
上松江町は城の未の方にて、江戸より城下町へ入る所なり、北の方は江戸町に続き、東は南北の久保町に接し、西は志義町及び松郷に堺ひ、南も又松郷の地なり、相伝ふ往古此辺より仙波の辺へかけて大なる沼あり、この沼に生る鱸魚其味殊に美にして、かの唐土松江の巨口細鱗にも劣らずとて、松江と名づけしが、唱は字の訓を用ふること語路の便なるにより、かく号すといひ伝ふれども、いかがはあらん、古よりこの地月ごとに四日・廿日の市立しが、近き頃は五月四日・十二月廿四日のふたたびのみ立り、
松郷は仙波新田より城下町への取付にあり、江戸への行程は十二里に及ぶ、三芳野里山田庄に属す、村名の義は既に上松江町に記せしごとく、古は松江と書て漢土の松江に擬せしと云説あれど、現に埼玉郡騎西町大英寺に蔵する、弘治二年北條家より出せし文書及び正保改の郷帳にも松郷と載たれば、全く郷江字草書体相似たるより、たまたま松江と誤り記して附会せしものなるべし、今村内を中松郷・下松郷と分ち呼べり、上松郷は後年町となりしゆへ、中下の名は残リしなりと、又下松郷の内に六軒町・大工町など云小名あり、ここはかの城下町に続きたれば、いつとなく町屋軒をならべて町名の唱あれど、尚郷村に隷すと云、下小名の條見合すべし、村の広さ東西二十八町余、南北七町許、民家二百九十余、かの町並に住し、農耕のいとま種々の物をひさぎて生産を資く、村の四境東は伊佐沼村に及び、南は大仙波・脇田・野田の三村に接し、西も亦野田村にて、北は志義町・上松江町、及町郷分にいたる、土地平にて水田多く陸田少し、水の便あしきを以てしばしば旱損す、領主のことは城に付て遷りかはれば是に贅せず、検地は慶安元年松平伊豆守領せし頃糺せり、夫より後延宝三年・元禄七年松平美濃守武蔵野新墾の地を検せり、其他は当所より南の方一里許をへだてて、今福中福砂久保等の村々にそひてあり、
川越は明治以降、すでにふれた如く数度の町村合併を経て今日に至っている(第一編総説7頁参照)。町村合併と町制から市制施行に伴って川越市内部の行政組織もまた大きな変化をとげた。とくにその変化が大であったのは明治22年(1889)の町制施行時であった。(中略)
明治22年(1889)の町村制施行とともに川越には新たに「区」がつくられた。これは基本的には近世以来の町を基礎とするものであったが、これに手を加えて整備したものであった。明治8年(1875)と記された大字川越の戸籍簿15冊には表6に示すように、十か町を含めて35の町名(飛地であった中台を除く)が記載されているが、これが町村制実施とともに22区に整理され、大字川越以外の8区を加えて、合計30区に再組織された。この過程を通じて古くから由緒あるいくつかの地名が消え去った。その後大正11年(1922)の仙波村合併・市制施行の際にはさらに5つの区を加えて計35区となった。35区のうち旧川越町の区は以前のものをそのまま継承したものであった。この区は昭和36年(1961)、全国に先がけて川越の町名地番整理が行われるまで存続した。いま町制施行以前の町が、どのように35の区に再編成されたかを見れば表7の如くである。これによれば十か町はその地域にほとんど変化が見られないが、いくつかの区においてはこの区の再編成に際して、以前の町の地域に細かく手が加えられている。明治22年(1889)12月12日付の川越町長名の文書には、
「本町(川越町)行政区域中町会ノ議決ニ依リ左ノ通リ相定ム」
として六軒町区・連雀町区・松江町区・志義町区・多賀町区・南町区・相生町区・鷹部屋町区・橘町区・境町区・新田町区・猪鼻町区・上松江町区・通町区・中原町区・江戸町区・石原町区の17町区についてその区域の変更が記されている。その一例を六軒町に見ればつぎの如くである。
「六軒町之内137番地ヲ境町ヘ編入シ、64番地ヨリ66番地マデヲ連雀町ヘ編入セシメ、其他一般、六反町之内1509番地ヨリ1514番地マデ」
近世においてもそうであったが、明治以後においても、川越の町はこうして町の区域を徐々に変更してきた。この変化が最も激しかったのは昭和36年の町名地番整理による変更であった。
(後略)
川越市役所から川越街道を南に行くとかぎ型に折れ曲がり、さらに進むと南通町の交差点にさしかかる。その信号機の下には「三番町」の標識板がある。「三番町」―現在の川越市街地図にはこの町名はでていない。
東武東上線の川越駅のことを「西町」駅と呼ぶ人は意外と多い。日常会話の中にも「高沢町」「南町」「鍛冶町」「志義町」という町名はわりと多く出てくる。これらの町名もまた現在の地図の中にでていない。
昭和36年(1961)3月1日、川越市は旧市街地を中心に町名地番整理を実施した。これにより伝統ある前記の町名をはじめ、その殆んどが行政上からは消滅してしまった。この町名地番整理は、市街地の町名地番整理を実施するための法律―「住居表示に関する法律」(昭和37年5月10日公布)が施行される1年以上も前に実施されていた。川越市は法律を施行するための実験的都市として全国から三か所(東京都荒川区、宮城県釜石市、川越市)選ばれた中の一つで、全国に先がけて実施したのである。特に町の人たちの生活と深く結びついている町名の変更は、市民生活にも大きな影響を与えた。
町名地番整理について『川越市史第五巻現代編T』では次のように記述している。
「川越市の町名および地番は封建時代の城下町の遺風を受けつぎ、きわめて複雑であった。とくに市の中心部のいわゆる市街地およびそれに準ずる地域では大字16、小字213の多数があり、小字の一つもしくは数か所をもって通称区名をなのり、これを単位に旧町内会のちの自治会がつくられていた。これら町の境界線は筆割りで入り組んでおり、例えば大字は各地に飛び地をもっていたり、数個の大字の中に同じ小字名があったりした。しかも地番もそれに応じて異なったものがいりまじっているという有様であった。このようなことから町内地番の整理は早くから望まれていた。」しかし、戦争など、様々な理由により実行されずにきた。それが、昭和35年(1960)になって、首都圏市街地開発地域都市として指定をうけるため、自治省の実験的都市の指定を川越市は申請した。これにより、当然、伝統的な町名変更には多くの反対があった。主な反対理由は、次の如くである。「三久保町では北久保町が分離して郭町一丁目及び大手町に編入されることになった。宮元町ではこれまで管理していた妙義神社が志多町に編入されることになった。同様に浅間神社は大仙波町から富士見町へ、八幡神社は通町から南通町へ、氷川神社は宮下町から宮下二丁目へ編入せざるをえなくなった。この外、町の分離合併によって、公民館、集会所あるいは祭りのダシ等の帰属もしくは使用権が問題になる所もあった。」町名地番整理は住民の社会生活の変更までも強いるものであった。
町名地番整理はおおよそ次の様な原則で実施された。
(1)町割は街郭式、結合式、路線式を採用する。
(2)町の大きさの基準は、商業地は1万坪以上で200〜250世帯、住宅地は2万5千坪位で200世帯等とする。
(3)町の境界は、道路、河川、水路、鉄道等明確なものを利用する。
(4)町名は特に由緒のあるものを用い、その他は理解しやすいものを用いる。
(5)丁目は1〜3を原則とし、やむをえない時は5までとする。
(6)地番は町、丁目を区域として街郭式にし、公道その他に囲まれ各街郭ごとにつけるなどである。
これらは昭和37年(1962)に制定された「住居表示に関する法律」(以下「法律」)のそれと同じである。ただ「法律」では町割は街区方式と道路方式の二通りとしているが、実際には街区方式の採用が殆んどである。
次に「法律」による住居表示の問題点を幾つか示してみる。
(1)住居表示は街区方式(道路・河川などに囲まれた「街区」単位として、その中の建物に住居番号をつける)と道路方式(道路に名称をつけて、その道路に沿って建物に番号をつける)によるとされたが実際は街区方式が半ば強制された。
(2)町又は区域の合理化がはかられたが、城下町特有の背割り式町界は否定された。
(3)町、街区の規模は一定の基準が示されたが小さい町などは合併させられることになった。
(4)町の名称は、できるだけ読みやすく、かつ簡明なものにしなければならないとされた。
これが各地で伝統的な町名を変更させる根拠になった。
その後、この法律はその行き過ぎが指摘されて昭和42年(1967)に一部改正された。しかし、多くの問題点はそのまゝで、昭和58年(1983)9月の自治省通達によって、「法律」の一律的な運要をいましめている状態である。
新しい住居表示の根本的な問題点は次のように指摘されている。それは「地番の混乱」と「町名のわかりにくさ」を一緒にして一挙に解決しようとしたことにあると。川越の場合でも旧市街地の町名と地番の複雑さを封建時代城下町の遺風として、町名地番整理の大きな理由とした。そもそも地番と町名とはその性格を異にしている。
日本の地番については、明治時代の地租改正までさかのぼる。明治5年(1872)2月、土地売買の禁止が解除され、同年7月には所有の権利書である地券が交付された。明治6年(1873)には地租改正により、全国的に土地の所有者、地目、反別、地価を確定する作業が始まった。これは明治13年(1880)までかかる大事業であった。日本の住居表示である地番は、この時土地につけられた番号を利用したものである。そのため土地の細分化がすすむと、地番に枝番がつけられ、地番台帳と住居表示とのズレや混乱が生れたきたのである。
一方町名は、城下町の場合、江戸初期の城下町建設と共に生まれたものが多い。それらの町名はその性格なり、発生を物語るものが殆んどで、まさに地域の歴史や伝統文化を継承するものであった。
こうした地番や町名の「混乱」とか「わかりにくさ」は、その実状を的確にみると、地番の混乱や、ひどい地区だけを一部手直しすれば充分解決されたことであった。町名の読みにくさ、わかりづらさは、日本語特有の問題であり、現に住民にとっては難しい読み方でも何不自由なく使っているわけで、表示や掲示方法を工夫することで大部分解決されるのである。
この様に地番や地名を全面的に変更してしまうことは各地に継承されている文化的遺産を一挙に破壊し、画一化にもつながっていくものである。町名の変更も、地域社会の文化遺産として、もう一度とらえ直すことが必要になっている。
町名変更の影響を大きく受けたのは城下町だったといわれている。城郭を中心としたその町割(都市計画)は戦時に備える形態となっていた。
城下町の一般的プランは、城の近くに侍屋敷を置き、その外側に町人地、さらにその外周に社寺地を配し、城を二重三重にとり囲むような形にした。道路はできるだけ直線を避け、T字路や折れ曲がった道が多い。そして城下への入り口には必ず足軽屋敷が置かれていた。前述した川越の一番町、二番町、三番町という町名はこれを意味する。
また町人地内でも独特の町割がとられていた。職種別の居住制である。表通りには商人をおき、裏通りに職人をおく。そして同一の職種で一町を形成するようになっていた。
川越の城下町を整備した最初の藩主は、松平信綱である。城の拡張と十ケ町四門前の制を施行した。十ケ町の内上五ケ町(本町、北町、南町、高沢町、江戸町)を商人町に、下五ケ町(志多町、多賀町、志義町、鍛冶町、上松江町)を職人町としたという。鍛冶町、多賀町などは職人の居住していたことがすぐ解ると町名であり、高沢町、志義町などは町を開いた人の名を付けたものである。
その他の町名も詳細に調べると城下町の構造と深く結びついていることがわかる。
やはり町名は文化的遺産として永く残していくべきであった。(輝)
町名地番整理は市民生活に大きな便宜を与えた。その意味で、これが実現したことは、地味であるがこの時期の注目すべき成果であったといいうる。
川越市の町名および地番は封建時代の城下町の遺風をうけつぎ、きわめて複雑であった。とくに市の中心部のいわゆる市街地およびそれに準ずる地域では大字16、小字213の多数があり、小字の一つもしくは数か所をもって通称区名をなのり、これを単位に旧町内会のちの自治会がつくられていた。これら町の境界線は筆割りで入り組んでおり、例えば大字は各地に飛び地をもっていたり、数個の大字の中に同じ小字名があったりした。しかも地番もそれに応じて異なったものがいりまじっているという有様であった。このようなことから町名地番の整理は早くから望まれていた。
昭和9年7月には市民の要望により川越市地区整理調査委員会が設置されたが、戦争のため事業は中止された。昭和19年3月勅令第29号によって再びこの仕事がとりあげられ、これにもとづいて、戦後の昭和22年2月地区整理委員会が任命され、再び調査にあたったが実現にいたらなかた。市政30周年を記念して昭和27年に再び委員が任命され、調査が始められたが、市村合併事業が優先し実現しなかった。
昭和36年以降における町名地番整理の発端は、同35年6月に、自治省によって川越市が町名地番整理の実験都市に指定されたことにある。この年全国で三箇所、すなわち川越市・塩釜市・東京都荒川区が指定された。川越市が指定されたのは、首都圏市街地開発地域都市としての指定が間近であり、この指定をうけるには町名地番整理が必要であると考えられたこと、さらにこれまで地区整理に熱心であったことによる。これまで数次にわたって町名地番整理を実現しようと努力したことがむくわれたというべきである。
自治省の指定とともに調査費として国庫委託費24万円が与えられた。これに合わせて川越市は、建設部土木課に地区整理係をおき係長以下4名を配置して立案させるとともに、地区整理委員会を設け審議することにした。地区整理委員は「市の議会の議員12名」「市の教育委員会の委員1名」「市の農業委員会の委員1名」「市内の公共的団体の役員及び職員5名」「学識経験を有する者3名」「市の職員2名」によって構成された。
委員会は昭和35年8月3日から、同12月3日まで6回の会を開いて、事務局の提出案を検討したのち、各町内との話合いを経たのち最終案を作成し市議会に提出した。昭和36年1月14日市議会は社会党議員の反対をおしきって原案どおり可決した。
計画は凡そつぎの原則にのっとって作られた。(イ)町割は街郭式・結合式・路線式を採用し、町の大きさの基準をつぎのようにする。商業地は1万坪以上200〜250世帯、住宅地は2万5千坪位200世帯、工業地は5万坪位150世帯、農業地は10万坪位100世帯。町の境界は道路河川水路鉄道等明確なものを利用する。町名は特に由緒のあるものを用い、その他は理解しやすいものを用いる。(ロ)丁目は1〜3を原則とするがやむをえない場合は5までとする。その配列は放射状式および環状式により、起点は川越市の将来の発展を考慮して本川越ロータリーとする。(ハ)地番は町・丁目を区域として街郭式にし、公道その他にかこまれた各街郭ごとにつける。その数字は二桁にとどめ、地番の進行方向は街郭通し方式、直交千鳥方式および蛇行式にする、以上である。
実施は当初の計画を若干修正し図1(省略)のように8回にわたって行われた。
町名地番整理は当然これまでの住民の生活環境をかえる要素を含んでいた。したがってこれまでの生活環境をかえたくないと考える住民の中からはげしい反対運動が展開された。この計画が発表されてから完了するまでの間に30にちかい請願書や要望書が出されたのはこのことを示している。反対の理由は種々さまざまである。反対の理由となった主なものを指摘すれば、つぎのごとくである。三久保町では北久保町が分離して郭町1丁目および大手町に編入されることになった。宮元町ではこれまで管理していた妙義神社が志多町に編入されることになった。同様に浅間神社は大仙波町から富士見町へ、八幡神社は通町から南通町へ、氷川神社は宮下町から宮下2丁目へ編入せぜるをえなくなった。この外、町の分離合併によって、公民館、集会所あるいは祭りのダシ等の帰属もしくは使用権が問題になるところもあった。
最初の昭和36年の町名地番整理計画にあたってとくにはげしい反対運動が展開された。同年1月8日には三久保町・南町・志多町・相生町・鷹部屋町・橘町・六軒町・上松江町の8町内会有志150人が、中央公民館で合同対策協議会を開き反対期成同盟を結成した。その結果、整理の決定延期と住民の意思を入れた民主的な方法による実施を市側に申入れた。
町名地番整理にあたってこのような反対があることを予想していた市当局は、住民感情を尊重し、納得のいく話合いは行なうが局部的一時的の社会現象はすべて考慮のほかにすること、さらに通学区域は将来の問題として残し、整理により新しくできる町を割ることはしないようにする。しかも都市計画の線に沿って整理は実現するという三原則を確認していた。すなわち住民との話合いはすすめるが、整理を断行するという姿勢はついにくずさなかった。川越市と同じく自治省の指定をうけた塩釜市が結局整理を行なわなかったが、それに比して川越市において整理が実現したのは、市当局が持っていた以上のような堅い態度があったからということができる。
もっとも市当局は原案作成の段階でも、また実施過程でもできるだけ住民との話合いをもった。しかもかなり市当局はサービスにつとめた。例えば妙義神社は市の費用で新宮元町地域に移転することを約束した。さらに新しい町地域がつくられてからは新しい「町づくり」を奨励した。いずれも整理実施半年後には自治会ができあがっている。
町名地番整理は結果的には市民生活に便宜をもたらすものであるだけに、このような市側の努力とあいまって、はげしい対立を生じないですんだ。市当局は当初五か年計画で531万6千坪、1万4189世帯について整理を実行する計画であったが、実際には270万坪の整理をしたに止まった。しかしもっとも整理を必要とする地域についてはほぼ終了したとみていい。現在ではむしろその他の地域で整理の要望が出されているほどである。〔図1〕川越市町名地番整理 (図は省略)
施行年月日 施行面積u 町 名 S 36.3.1 1,044,600 郭町1・2丁目、大手町、仲町、幸町、末広町1〜3丁目、元町1・2丁目、喜多町、志多町、宮下町1・2丁目、松江町2丁目 37.3.1 1,084,200 松江町1丁目、連雀町、通町、新富町1・2丁目、中原町1・2丁目、六軒町1・2丁目、三光町、田町、月吉町 〃.8.1 2,152,000 三久保町、久保町、小仙波町1〜5丁目、西小仙波町1・2丁目、仙波町1〜4丁目、南通町、菅原町、脇田町、富士見町 38.8.1 1,051,900 宮元町、神明町、石原町1・2丁目 39.2.1 767,200 岸町1〜3丁目 〃.8.1 927,200 新宿町1〜6丁目 40.2.1 761,900 脇田本町、旭町1〜3丁目 〃.8.1 1,264,700 東田町、脇田新町、広栄町、野田町1・2丁目、上野田町 計 9,053,700
1 この城下地図の特徴
2 城下町の成立と町割
3 侍屋敷と社寺領
4 町分と郷分
5 近代以後の変遷と現状