川越は江戸期、城主松平信綱が川越街道を整備、新河岸川を作って舟を走らせ、物資を江戸へ運ぶようになってから大いに栄え、江戸文化を吸収、大江戸に対して小江戸と呼ばれた。それが今日の川越祭りに影を落としている。
氷川(ひかわ)神社の祭礼も、松平信綱が慶安四年(1651年)神輿(みこし)と獅子頭を寄進して以来、次第に盛んになったといわれ、元禄十一年(1698年)に踊屋台。天保十三年(1842年)には十カ町に人形山車。その後、火事で焼失したり新調したり、付け祭りにも変遷があって今日に至っている。
現在、市内にある山車は新造されたものを含めて二十四台。いずれも各町自慢の見事なものであるが、その中で江戸天下祭りの伝統を受け継ぐものとして県の民俗文化財に指定されたもの、いわゆる造りが古い正統派が十台ある。最上段に人形を飾った二重鉾の構造をもち、前面に唐破風又は欄間仕立てのはやし台があり、そこには大太鼓一人、締太鼓二人、笛一人、鉦一人の五人ばやしが揃いの浴衣姿で色てぬぐいを頭巾のように頭に乗せ、正調江戸ばやしの軽快なテンポではやしている。はやしに合わせて巧みなひょっとこ踊り。面も面白いが所作も見事。思わず見とれて時の経つのも忘れさせられる。山車には、埼玉県指定文化財、「俵藤太秀郷の山車」などと書いてある。見あげると高さ八メートルもの上に小さく人形が見える。
人形は又各山車によって異なり、ここでも神話、歴史、民話などから題材を選んでいる。人形の表情や装束も見事な逸品揃いで江戸の著名な人形師の手によって作られたものという。上下の鉾に張り巡らされた美麗な水引や後幕の色が鮮やかで美しい。各木部の彫刻も精巧で、黒や赤の漆で塗られ、金箔もふんだんに使われ山車が祭りの華であった江戸時代の名残りがうかがわれる。
十五日が本祭り。朝から市の中心部中央通りへ背の高い華麗な人形山車が続々と現れる。これらの山車は、江戸時代、天下祭りと呼ばれた頃の東京の山王祭や神田祭りの山車の伝統を引き継ぐもので、山車の形、はやし、先頭を行く手古舞姿や引き子たちの装束まで昔のままである。失われた古き良き時代の祭りの華が、川越祭りで今も再現されている。加えて街の風情にも蔵造りの町屋などに江戸情緒をたっぷり残しているところだけに、江戸ばやしを源流とする祭りばやしを耳に、昔をなつかしむ懐古派にはたまらない魅力をもった祭りである。
祭りには新旧おりまぜ十台前後参加するのが近年の状況である。昭和五十七年(1982年)市制六十周年記念には、市内の全山車が参加したが、特別の催しがあると各町の山車の参加も多くなる。
各山車は長い引き綱を道幅一杯に張って「ぎいーぎいー」と車の音をきしませながらゆっくりと進む。先頭は華やかな手古舞姿の少女たち数十名が集団で金棒を地面に引きずりながらやってくる。その後から引き綱をにぎった祭り半天(はんてん)に鈴だすき、花笠を背にした可愛い小若連。更に揃いの祭衣装を片肌脱ぎにした若衆たちと続き、山車のまわりには、とび職姿の男たち数名が山車の動きに目を光らせている。
御神体の人形を最上段に、華麗な飾りで精巧な造り、洗練されたしかも親しみ易いはやし。笑いを誘うこっけいな面踊り。揃いの装束の引き子たち。さすがに祭り文化の一つの時代を象徴する貫録をもって山車が一台また一台と迫って来る。そこかしこに江戸情緒を今なお残している町並みが、山車を一層引き立てる。今では川越市を訪れる人たちの人気の的になっている蔵造りの町屋(商家)がそれで、明治二十六年に大火があり、蔵造りの町屋がすべて江戸時代のものではないが、寛政四年(1792年)造られた大沢家(国の重要文化財)をはじめ、江戸様式の蔵造りの町屋が三十軒を超える。本川越駅から中央通りを北へ仲町から幸町にかけては多く、ざっと十数軒。近くには寛永年間にはじまるという「時の鐘」の巨大な木造やぐらも目立ち、この道は山車がもっともよく通る道でもある。とはいえ、いざカメラを向けると、電線、信号、看板、建物をはじめ今風な不協和音が多いのに改めて驚かされるが、一枚で駄目なら二枚、三枚に分けて撮るという手法もある。いわゆる組写真、山車と建物、表情と装束。静と動、華麗さと渋さ、江戸の残影を写真に結晶させその写真を起爆剤に読者の想像をいかに豊かにさせるか、作者の腕の見せどころである。
川越祭りのクライマックスは夜の「引っかわせ」である。山車が各町内の会所前にさしかかったり、他の山車とすれ違う時は、山車の正面を向けてはやしの儀礼打ちが行われる。山車はそのために車の上のせいご台から前後左右に動くように作られている。夜になると各山車は提灯ぼんぼりで飾り、灯をともし若者たちが中心の、はやしの音も急テンポで見るからに活気づく。辻で山車と山車が出会うとたちまち向き合い、時には三台、四台とにらみ合って力一杯のはやしの打ち合い、ひょっとこ、おかめ、白狐に獅子が狂ったように山車から飛び出さんばかりに踊り狂い、引き子や群衆が盛んに声援して、熱気むせかえる興奮の場となる。はやしの競演に勝負はないので、しばらく続けては山車を動かし、また別の辻で他の山車と出会っては「引っかわせ」を繰り返しつつ夜がふける。
祭礼の中心となる氷川神社は川越の総鎮守として歴代城主の崇敬を受けてきた古社。祭日には神輿が神事の後午前中神社を出発して市内を巡行、札の辻で休息し、午後、市内を再び還幸、四時ごろ神社に戻る。
【月日】10月14日、15日
【場所】川越市
【交通】JR川越線、東武東上線川越駅下車 → (東武東上線川越市駅、西武新宿線本川越駅が抜けている)
高橋樓美子
全国的に有名な祭りは、とかく観光客のためにのみ挙行されている観がある。その地域の人々が、現在まで守り育ててきた祭りの心意気が直に感じられてこそ、観るものに大きな感動を与える。
■氷川神社の例大祭
川越祭りは、小江戸≠ニ呼ばれている埼玉県川越市の最大の祭りである。鎮守氷川神社の例大祭で、毎年十月十四日、十五日の両日、華麗な屋台(山車)が数十台、市内の各町内を曳き回し、江戸の天下祭りを再現した祭りとして、全国でも有数のもの。
総鎮守の氷川神社は、欽明天皇即位二年、武蔵国足立郡から分祀されたと伝えられる、古い神社である。歴代の川越城主の厚い崇敬を受けていた。祭りの当日、正面の拝殿には御神酒が並び、清々しい四手が印象的であった。
各家々の軒下には、水引幕が張りめぐらされ、町全体が祭り一色になる。各町の会所から響き渡る笛、太鼓、鉦の囃子の音に、心踊るものを感じる。
山車は鉾山車で、三つ車または四つ車を持ったせいご台の上に、二重の鉾が組まれている。上層には、等身大の人形(スサノオノミコトや源頼朝(?)など)が乗っている。この人形は江戸人形師の原舟月や仲秀英などの名人の作。下層部分は囃子台で、囃子連中が囃子を奏で、手踊りを見せてくれる。
この山車の特徴としては、せいご台の上の部分が回り舞台となっていることである。また、囃子台の欄干やその周辺には、精巧なけやきの彫りものが施されている。山車は、赤や黒の漆塗りが多く、金箔などで絢爛豪華さを出している。
この山車の先達をつとめるのは、手古舞娘である。十二、三歳の少女が紅をさし、色あざやかな着物にモンペ姿。その可憐さがこの祭りを一層引き立てていた。紅白の引き綱の先頭には小若の子ども達が、揃いの祭り半纏に鈴のたすき。その音色も可愛らしく、片手を親にあずけながら、嬉しそうだ。
その後に続くのが、いなせな祭り衣装の若人連、粋な女鳶も混えて、意気盛んなところを見せてくれる。
この祭りの面白味は、「曳っかわせ」である。これは、山車と山車がすれちがう時、または、各町内の祭り会所の前にさしかかった時に、山車の正面をたがいにむきあわせる。一種の儀礼行為。この祭におたがいの山車から威勢のよい急テンポの曲が奏でられ、天狗、おかめ、ひょっとこ、狸、猿などの面をつけて踊り出す。
この「曳っかわせ」が最高潮に達するのが、辻での出会いである。数台が集まり、各山車があっちに回転、こっちに回転で、競演がくりひろげられる。山車の引き手も見物人も、歓声をあげて応援する。踊り手が一心不乱のあざやかな踊りを披露し、カメラを持った人が右往左往する場面でもある。
なお、この祭りの囃子は江戸囃子で、大太鼓一人、締太鼓二人、笛一人、鉦一人となっている。川越にはいろいろな囃子があるが、中台と今福が一派をなしている。中台は「王蔵流」で、祭りには仲町の山車(羅陵王)に乗る。旧藩時代に川越城主の松平大和守の上覧に供し、激賞されたということで「上覧ばやし」ともいわれている。曲目には、鎌倉、鎌倉攻め、宮聖伝、インバ、子守歌、数え歌、シチョウメ(四丁目)神田丸、屋台ばやしなどがある。
今福は「芝金杉流」の一派をなし、六軒町の山車(三番叟)に乗って、その代表的な囃子を奏でてくれる。
祭りの当日は、数十万人の観光客がこの市街地をうめると聞くが、町の人達、老若男女ともに、この祭りを楽しんでいた。孫の手を引きながら、沿道に立ち並んだ人など、全国から集まったのではないかと思われるほどである。わた菓子、焼きそばなど各種の屋台に、むらがっている。
また、市内の中央にある蓮香寺(ママ:蓮馨寺?)の境内には、昔なつかしい見せもの小屋が多立ち、もの珍し気に立ち止まる人の姿があった。この寺は、関東十八壇林の一つに数えられる古寺である。毎月八の日が縁日で、「お呑龍さまの縁日」として、近所の人々の参詣が多く、一つの憩いの場となっている。祭りの日も、本堂の両端に腰かけながら、世間話をしている老人達の安らいだ顔が並んでいた。
■江戸文化を残す市内
川越市は、江戸文化の歴史を残す城下町で、市街のあちこちに、史跡や文化財が点在している。祭りを楽しみながら、周辺の文化財となっている建造物を、短い時間内で見学できるのも魅力のひとつである。
祭り囃子に送られながら見られる、土蔵造りの商家の並ぶ蔵造りの町並み≠ヘ趣きがある。この通りは、重要文化財に指定されている「大沢家」や、煙草元売捌所だった「蔵造り資料館」、それに川越のシンボルともいえる建造物である「時の鐘」など、見るべきものが多い。祭りの山車が、この蔵造りの町並みを練り歩く様は、舞台装置がぴったりという感じで、なかなかの風情がある。
この蔵造りの町並みの路地裏には、寺院が多い。養寿院には河越太郎一族の墓が静寂な中にあった。また、養寿院の山門を右へ行くと、川越の名所になっている菓子屋横町があり、現在でも十数軒の店で、手づくりのアメや生菓子を作っている。素朴さのただよう通りである。
祭りの渦から一歩でて、少し足を伸ばすと、川越城跡や喜多院も訪れることができる。川越城の本丸御殿の一部が、当時の風格そのままを残している。県指定文化財の建造物で武家風の格式高い大建築。内部の見学もできる。
地続きにある三芳野神社はお城の天神様≠ニいわれた古社で、境内に、「通りゃんせ」の歌詞発祥の地としるされた石碑が建っている。
星野山喜多院は通称川越大師喜多院と呼ばれている。関東天台宗の中心寺で、無量寿寺と名づけられている。広い境内には、客殿、書院、庫裡、慈恵堂(本堂)などの重要文化財、あるいは県指定文化財の建造物が建っている。いずれも堂内拝観ができる。客殿には「三代将軍家光誕生の間」などがある。
山門の北に五百羅漢がある。これらの石像は、それぞれ表情豊かで、何回足を運んでも興味がつきることがない。身内や知人の顔に出会ったような錯覚にとらわれてしまう。
■市民総ぐるみで祭りを味わう
主な建造物をかけ足で巡りながら、再び祭りのざわめきの中に入る。川越名物の焼だんごをほおばりながら、山車のあとにくっついて行く若者グループ。この例大祭のために、嫁ぎ先から里帰りしてきたのか、祭りの輪の中で、知人を見つけて、笑い合っている情景をいくつか目にした。
引き綱も荒々しいいなせな若者達は、「祭りが好きでしょうがねえや」という顔つきだ。自分の曳く山車が一番、という気持がこちらにも、ビンビン伝わってくる。
老いも若きも祭りに参加し、市内総ぐるみでこの伝統ある祭りの醍醐味を一人一人が味わっている。そんな温かいものを感じながら、市街地を歩いてきた。
江戸城のあった東京を「大江戸」と呼び、江戸と交流の多かった川越を「小江戸」と呼ばせているこの町には、たしかな城下町としての雰囲気がただよう。今や、「大江戸」には本当の江戸の祭りはない。山王祭りや神田祭りが、その影をかすかに残しているが、その昔は、この川越祭りのような、江戸職人の手による山車が多くでたと聞く。この古式ゆかしく民俗行事を、町の人々の手で守られていることを知り嬉しい。
やがて、祭りは夜へと移って行く。山車の提灯に灯が入り、山車の豪華さがいっそう浮きでてくる。秋の澄み切った夜空に、囃子の音が響き渡り、祭りの興奮がいよいよクライマックスとなる頃である。(フリーライター)
川越市史民俗編 | 川越市史編纂室 |
朝日之舎日記 | 川越市史編纂室 |
川越の山車 | 岸 伝平 著 |
まつりごと | 井上彦二郎 著 |
祭の社会学 | 松平 誠 著 |
江戸型山車のゆくえ | 千代田区教育委員会編 |
高沢町祭礼趣こう | 元町二丁目自治会 |
元町二丁目祭礼記録 | 元町二丁目自治会 |
一、まつりの沿革1 まつりの起源
まず話の順序として、まつりの由来について郷土史家たちの調べを取りまとめてみよう。
札の辻に店を構えていた豪商、榎本弥左衛門が書き残した『万之覚』には「慶安四卯年(1651)九月廿五日に、まつり渡り初り申候」とあり、続いて時の城主松平伊豆守信綱が藩領の殖産を奨励した政治的意図がかなり反映して、豊作を領民と共によろこんでまつりが始められた様子が書き残されているのがもっとも古い記録のようである。
その後に書き残された地誌では、寛延二年(1749)の『川越索麺』、宝暦三年(1753)の『多濃武之雁』があり、「氏子屋台をしつらい、時の踊を催し、領主入国の時は是を遠覧あり」と城主上覧をほのめかしている。
また享和元年(1801)の『三芳野名勝図会』には氷川祭礼のこととして、九月十日頃より氏子の町々は幟(のぼり)を建て、九月十五日の祭礼神輿巡行は隔年に行ない子、寅、辰、午、申、戌の年には祭礼を行ない、丑、卯、巳、未、酉、亥の年は休年とある。
すでに元禄十一年(1698)九月、初めて高沢町(現在の元町二丁目、即ち私共の町)より踊り屋台を出したことを記録し、これより年々数寄(すき)を好んで、時代の流行をたくみにとり入れた色々の造り物や風流を、上五か町(北町、高沢町、本町、江戸町、南町)下五か町(志多町、鍛冶町、鴫町、上松江町、多賀町)と練行の列を定めて十二日、十三日は町揃い試踊り、十四日十五日町々引渡し、十六日は笠脱きといってその町々において踊りを催して終わると記してある。
昔は境内で田楽、角力や力自慢、あやつり狂言などを催していたが、次第に神社から独立して町の行事として神事に並行して行なわれるようになり、まつりが式典と余興の部分から成り立っていることが推測される。
また現存する川越の祭礼絵画についても、安永六年(1777)の屏風絵「川越の四季」や、文政九年(1826)の「祭礼絵巻」に各町の趣向催物の姿が描かれて、まつりの変遷をうかがい知ることができるが、現在に引き継がれているまつりの仕来たりや様式の基は文化、文政期にできあがったようである。2 町方衆と祭礼趣こう
このような祭礼形態が生まれた背景には、江戸時代の中期以降、地位は低いけれども経済的に恵まれた商人たちが能力に応じて、町方の文化を創造してきたことにある。まつりも次第に宗教的色彩を薄めて町方衆の行事として催された姿がみられ、神社の祭礼神事は毎年であったが、町方衆の「みやびやか」で趣向をこらした山車や屋台の巡行や、風流と呼ばれた附け祭を伴うまつり行事は、数年間隔で時勢の推移に応じて催されてきたようである。
では川越のまつり様式はどこの影響をうけているのだろう。徳川氏が江戸に開府すると、川越は北門の守りとして重要視されたようだ。そして歴代に渡り譜代親藩の大名が城主となるとともに、大消費都市江戸近郊の穀倉地帯の物資集散地として栄えた。陸路では川越街道によって江戸日本橋に通じ、水路では新河岸川の舟運によって浅草花川戸へと結ばれていた。
私どもの高沢町(現在の元町二丁目)も一枚摺の『川越年代記』によれば、承応二年(1653)の頃に「高沢町は両側皆索麺を作りをり川越そうめんという」とあるごとく古くから商人の町として栄え、寛政、享和(1789〜1803)の頃より小川屋清兵衛や、丹波屋勘兵衛などが、江戸に出店して、御三卿と呼ばれた清水家や水戸藩、浅草寺の御用を勤めるほどに活躍していた。
川越商人の財力が豊かになるとともに江戸の文化は川越へと流れ込み、「小江戸」とよばれるほど繁栄して、「蔵造り」を残し、「まつり」を盛んにした。
天下祭(徳川家康が江戸に入府した当時の江戸総鎮守神田明神と徳川家が産土神とした山王権現両社の祭礼を隔年交互に催し、天下人である将軍が上覧という行為によって、祭礼に参加するという意味を持つことから生じた呼称であると聞く)といわれた赤坂山王や神田明神の華麗な屋台芸術が花ひらいた祭礼様式、宮神輿の前後を各町の山車が警護する形で行列をつくり巡行した特徴ある祭礼の姿も川越の地に伝えられている。
江戸の天下祭も明治維新によって徳川三百年間に渡って培われた「徳川色」をぬぐいさることに全力を挙げた明治政府によって天下祭は解体されて、まつりのありかたも大きく変化してしまった。祭礼の主役的役割を果たした山車や屋台も、その後は次第に地方に売却されたり、関東大震災や戦火によって失われ、昨今では川越の町方衆によって引き継がれている川越まつりが天下祭のおもかげを偲ぶ祭礼として珍重されるようになってきている。
私どもの元町二丁目の旧家に残されていた『高沢町祭礼趣こう』と表書きされた記録書に文化十一年(1814)より明治二十年(1887)までの七十三年間に催された大祭や、現存する山車の新装諸掛り等、祭費の支出や経費の分担拠出を書き綴ったものがあるが、そのまつりの担い手はというと、土地持ち家持ちの本町人と呼ばれた人たちで、まつりは富裕な商人を頂点とする多額な寄付によって催され、借家人以下の人々は町のまつりに関与することなく、手伝人として参加していたようで、あとはまつりを見物する傍観の地位に甘んじていたのではなかろうかと推測される。
その記録書によると、昨今の世情で想起するような祭礼は文化十一年甲戌(1814)から明治七年甲戌(1874)の六十年間に七回を数え、おおむね十年に一回程度であった。
まず文化十一年の祭礼には、江戸より藤間勘十郎師匠の一行を招いて三十三両の礼金を払い、町内の大蓮寺に一か月も宿泊し、本町人の婦女子弟が稽古のうえ唄や踊りを披露して総額八十両を費やしたと記録している。
十二年後の文政九年(1826)は祭礼絵巻(県指定文化財)として記録されたほどの大祭で、準備のためか、五十両の借用までして実に総額二百五十七両という多額な祭費を費やして、猿と呼ばれた山車を造り、いわゆる附け祭と称する「二見が浦」の曳き物、「松之木」の造り物、地走り、底抜け屋台に踊り屋台など、絵巻によれば総勢百八十九人を繰り出している。この時の祭礼形式は宮神輿を各町の山車が供奉する形で行列をつくり巡行した江戸の山王権現や神田明神の特徴を引き移したもので、川越氷川まつりの一つの様式として伝承されたもので、天下祭の形態を今に伝える祭礼として尊重されるところである。
引き続いて十八年後の天保十五年申辰(1844)の祭礼記録によるとこの年は弘化と改元、初めて本町人以下借家の人々も町の公事の大きなものの一つであるまつりの担手として登場し、それまで祭礼のたびに仮設であった山車などを恒久化するようになり、七月より始めて積立拠出をして現在の山車に引き継がれている昇り竜の胴掛け幕(水引幕との呼称は不適と思う)を調製し、総額百六十両の祭費を費やしている。そして町衆一同が祭礼後も引き続き不足祭費を分担拠出している姿を察するに従来の本町人の「見せる」まつりから町組の共同生活意識の行動として民衆のエネルギーを爆発させる「する」まつりへと変貌する動機となり、現代に続くまつりの原型になったようだ。
続いて嘉永五年壬子(1852)と十年後の文久二年壬戌(1862)と記録し、大同小異のまつりを重ねて次第に山車を主体として町を練り歩くまつりへと変っていったようである。やがて各町でも順次に山車の新改装が進むなかで明治維新という改変があり、町組から町内会という地域集団にまつりの主導権が移っても多額の費用が必要なために江戸藩政期と大異なく町内の富裕な人達の了解を得なければまつりの施行は困難で、誰々さんが首を縦に振らねば山車がでなかったという話も数多く残っている。
時代は明治へと流れ込んで明治五年壬申(1872)、暦は太陽暦に変わってもまつりは依然として陰暦によって行なっていたようで、明治七年(1874)十月二十二日より二十四日まで「御祭」と書き留めてあるのみで祭費の拠出や諸掛りの記載はないが、氷川神社祠官山田衛居日記集『朝日之舎日記』には「十七日晴、本日明日御大祭也。諸式之如くうるわしく相スム。」とあり、十八日の項に「志義町・江戸町・高沢町等五ケ町山車ヲ出ス。高沢ハ宮下・坂上まで引来る」とあり山車の練行も各町の事情に応じて上・下十か町のうち半数が練り回したことを知ることができる。
次に明治二十年(1887)十月、祭費百三十円三銭五厘を費やし一枚の記念写真を残したまつりを最後に『祭礼趣こう』の記録は終わっている。3 明治から大正年代へ
明治となって新時代の機運に即応した川越商工業の繁栄は、県下第一と称されていた。ところが明治二十六年(1893)三月に、未曽有の大火災の厄にあい当時の戸数三千三百十五戸のうち中心街千三百二戸を焼失し、本町の関羽玄徳、多賀町の諫鼓鶏の山車が全焼した。また上松江町の浦島も人形を残して鳥有に帰してしまったが、町民は決然と立ちあがり今に残る蔵造りの町並みを形成し、大火より八年目の明治三十四年(1901)には氷川神社の石造り玉垣竣工を祝って、漸く省略の姿であった天下祭様式の祭礼を復活し、これが明治期一番の大祭であると語り継がれている。
当時の『風俗画報』第二百五十八号に八木橋仲秋氏の紀行文と共に山本松谷(f雲)氏の画く挿絵によって広く報道されている。「近郷の者は申すも愚か、遠郷遠里集まるもの雲の如く織りなす群衆引きも切らず、さすが目抜きの場所柄なれば、鍛冶町、志義町の角あたり、爪も立たざる賑ひとは、近来稀なる大祭というの外なし。殊に今年は古(いにしえ)の例に立ちかえり、旧九月十四、十五日の秋の月夜を当て込みたれば、さやけき光は又一入の眺め増してぞ賑しける」とまつりの状況を記述している。
これに続いて明治三十七年、県下ではじめて電灯がともり、日露戦争奉祝祭から山車も提灯を初じめて点じて夜間も練行するようになったと古老は伝えるが、高沢町の祭礼記録は紛失して確認ができない。
ついで大正四年十一月十日、大正天皇御即位が行なわれ十三日まで御大典の諸式をとりおこない聖寿の万歳を祝った。引続いて十四日より十六日までの三日間にわたり、山車の正面には万歳の文字を染め抜いた奉祝旗を二流交叉し、各戸、軒ばを揃えて奉祝提灯を点じた。町役場には奉祝万歳のイルミネーションを点じ各町は山車に引き物等思い思いの趣向を凝らし、その賑わい無比の壮観にして、町内一同揃いの衣裳にて練り回し、美観雑踏なりと記録し、祭費五百四十二円三十六銭と記している。
次に大正十一年(1922)十二月の川越市制施行記念奉祝祭となり、これまた市役所の奉祝イルミネーションや各町の趣向を凝らした飾り物、華道の活花も展示され、その賑わい全市に漲るとある。山車も十六日から十八日まで三日間の練り回しであったと「み組」の鳶頭(とびがしら)、渡辺覚造さんも回顧され、山車小屋から軒ば揃え、底抜け屋台やら引綱造り、会所から旦那衆の店先桟敷と準備に大わらわだったそうである。
まつりには鳶とのつながりも重要であるので、ここで鳶とのかかわりに触れてみたい。まつりのあるところの町には地縁が強い結束力をもっている。一口に言って下町情緒の中には地縁的人情をふくんでいてかなり強い自治力をもっていた。その中心は消防組織ではなかろうか。江戸は大都市になる程に火事が多発して自衛から「いろは四十八組」の町火消しの制度が生れたが、川越も寛永十五年の大火の翌年に松平信綱が城主となって十か町四門前の町割をしたことによって、地縁が結ばれ江戸と同様に町火消が組織されて火災の場合の防火や後始末の作業はもちろん、平常は町内の建築の地形や道路の修繕、ドブの掃除は必然的に彼等の仕事であって、これらは各建築主の財布から出るのと、地主の支出する町内入費から出るのと二つであった。出入場、旦那場といって年々の盆暮には心付と出入の半天がでた。各家の吉凶慶弔には町内の頭が呼ばれ、年始廻りのお供に、嫁入り荷物の宰領や、歳の暮の門松たてや、花見遊山や娘や子供のまつりのお供に出て途上警護の役目の仕来たりは昭和初期まであり一部は戦後まで名残りがあった。町内のまつりの作り物や山車の組立ては彼等の独壇場であり、そんな時の彼等の表情は喜々として、江戸ッ子気質の代表とされまちの地縁社会の姿を見ることができた。
ところで大正初期になって町火消の存在は消えて、彼等が破壊消火にトビ口を用いて消火したところから生れたという鳶という名が残り、鳶職となり土木建築を生業とするようになったが、まつりには地縁的結びによって相伝する鳶職の出入場としていまも行なわれている。4 昭和年代の歩み
その後に「山王の山車」が現在までに練り回された記録を調べてみると、まず
昭和三年(1928)天皇御即位式御大典奉祝祭
昭和七年(1932)市制十周年記念祭
昭和十五年(1940)皇紀二千六百年祭奉祝祭
が行なわれその後は大東亜戦争のため山車を出すのも忘れて戦争に突入してしまった。敗戦という終局を迎えて、ようやく昭和二十一年十一月、新しい憲法発布を記念して物資不足の苦しいなかであったが戦争の悪夢から逃れるように再起のまつりを始めた。
明けて昭和二十二年(1947)五月三日に憲法記念日奉祝祭、続いて昭和二十三年、二十四年、二十五年と戦中の反動の如く平和を謳歌して、全国茶業大会、商工会議所五十周年記念などと山車の練行の記録を辿っていくと、明治の末頃より次第に神事目的から離れて、町衆の記念奉祝行事として練行する傾向になり、いつしか商工祭的要素を色濃くしていく。そして、
昭和二十七年(1952) 市制施行三十周年記念祭
昭和三十年(1955) 市村合併記念奉祝祭
昭和三十四年(1959) 皇太子成婚記念祭
昭和三十七年(1962) 市制施行四十周年記念祭
と行なわれてきたが、ただその後は交通量の増加に伴う道路事情悪化のため、山車の練り回しも次第に制約されるようになった。また社会機構や生活環境の変化によって各地の囃子連にも後継者不足が目立ち、解散を余儀なくされた囃子連もあった。こうして人々の指向もまつりへの情熱も一時薄らいできたが、やがて古き良きものが再認識されるようになり、まつりも各地で都市の観光行事と変貌しつつ町衆の新しいレジャー要素を増して生気を取り戻してきた。
昭和四十三年(1968)「川越氷川祭山車」が埼玉県の有形民俗文化財に指定されると、交通の制約を受けながらも明治百年祭を兼ねて練行されることになった。ただ江戸期以来の本町人的役割を果たした階層も大きく変化して祭費の捻出には苦慮したが、川越まつり協賛会が発足して本町人に代わって祭礼金の一部を負担交付するようになった。昭和四十三年の祭費拠出の明細をみると、と記録し、各町が毎年半数ずつ練り回しを申し合わせるまでに成長した。私たちの「山王の山車」も隔年参加の約によって昭和四十五年は祭費五十九万六千円と記録した。翌四十六年再び半数参加によるまつりが施行されたが祭礼気分の盛り上りに欠け、観光的にも不十分な結果が反省された。
自治会祭費積立金 金 141,100円 川越まつり協賛会補助費 金 270,000円 有志報賽金その他 金 37,300円 合 計 金 448,400円
昭和四十七年には市制施行五十周年並びに市庁舎竣工記念奉祝祭が行なわれ、山車の保有全町が参加と決まり、川越まつり企画実行委員会も結成された。十月十五日には文政九年の川越氷川祭礼絵巻の再現を計画し、明治三十四年以来永年に渡って中断されていた神幸祭の鳳輦供奉の行事を起し、往年の赤坂山王、神田明神の天下祭の古事に則り、十七台の山車が順位を定めて供奉し、市庁舎前広場に勢揃いした姿はその絢爛豪華たること川越まつりの圧巻であった。その賑いは川越発祥以来の雑踏となり警備本部の発表によれば、天候にも恵まれ十四、五両日が土曜、日曜と日柄もよく延べ人出三十五万人といわれた。神幸祭斎場の市役所付近は盛儀を見んものと、朝より人々が陸続と集まり、観衆三万五千有余人と聞く。ために市庁舎付近の食堂は軽食から食品、飲料水のすべてが売り尽くされたといわれ、従来の祭礼に伴う各記録をことごとく破る盛事となった。「山王の山車」も町内一同揃いの竜を画いた長襦袢に片袖ぬいたまつり衣裳で練り回し、その一段と整頓された美しさは、参観者から称賛の声を聞く。なお祭典諸掛り報告によると九十五万円を費やしたとある。
市制五十周年の記念奉祝祭が終わると、「山王の山車」も創建以来百有余年の歳月を過ぎ、しかも近年のように毎年の練り回しとなると、各木部の固定締結補強が必要となり、さらに毀損部分の補修や漆部剥脱塗替えが自治会の議題となって、山車の耐用診断と工事費積算を依頼するため、昭和四十八年も引き続きまつりに参加し、その諸経費を六十九万位一千円と記録する。翌昭和四十九年は山車の修理工事のため(山王の山車の項参照)不参加。昭和五十年はかねて修理工事の山車も竣工し、十月十四日に修復工事竣工報告式典と披露を兼ねて市庁舎前まで古式の練行体形に木遣り歌で試し曳きを行ない、その出来あがりの華麗で見事なことが市民の称賛の的となった。十五日には川越まつりに参加して、総経費百七十三万一千四百五十円を費やした。
昭和五十一年は地名改編による新町会結成十五周年記念として七十七万三千四百三十四円を費やし、続いて昭和五十二年の市制五十五周年記念祭に参加し祭費は九十一万五千二百九十五円と記録されている。
昭和五十三年六月、東京都千代田区永田町の赤坂日枝神社(別称赤坂山王社)御鎮座五百年式年大祭にあたり、いわゆる天下祭の際に氏子各町が使用した山車を偲んで、神社ゆかりの川越で社名にちなんだ「山王の山車」貸与の要請があり、大祭に協賛して町会より建方二十名と鳶職五名を派遣して十日より十六日まで御本社斎庭に山車を展示し囃子を奏楽した。江戸型山車の初めての展覧だったので、いわば東京から消え去った天下祭の遺物が忽然と現われたことに、氏子の人々に驚きと郷愁をそそったようであった。
引き続き昭和五十三年、祭費百十六万六千五百七十円、昭和五十五年に祭費百三十六万五千五百十五円と隔年に祭礼に取り組んできたが、この時期は経済の低成長下にあり、一方祭礼諸掛りは高騰し続けたので「まつり協賛会」の要請で観光的な要素を深める毎年の山車の練行に対して、山車持ちなるが故に祭費負担を増してまでの参加に反省や見直しの声も聞かれるようになった。こうして旧来の祭礼金を積んでまつりを楽しんできた町衆の心から、伝統に裏打ちされた「まつり」が次第に消えていくように見えてきた。その中で「山王の山車」は昭和四十九年の工事で残された人形と衣裳の補修復元工事(山王の山車の項参照)が始められ、昭和五十六年は不参加、昭和五十七年には市制六十周年記念奉祝と人形衣裳の修理完成披露を兼ねて祝い、軒ば揃いの提灯を新調し、総祭費二百五十八万四千六百六十八円と記録し、山車保有の全町が参加のもと、喜多町坂上より本川越駅に向かって山車揃いの行事を試み、この盛事をみんものと約二キロメートルの間が立錐の余地が無いほどのほ人で埋まり、山車の鑑賞に大変好評であった。
この祭りは、川越の氷川神社の例大祭で、古来旧暦9月14・15日に行われていたが、明治以後新暦が採用された際、1カ月遅れの10月14、15日に行われるようになった。 (現在は、10月の第3土曜日とその翌日の日曜日に行われています)。
◆小江戸に残る昔ながらの祭り◆
この祭りが盛大に行われるようになったのは、川越城主松平伊豆守信綱が慶安元年(1648)に神輿・獅子頭などを寄進したことによって、神輿渡御が行われるようになり、 同4年から祭礼が始まった。そして、元禄11年(1698)にはじめて高沢町(現元町2丁目)から踊り屋台が出て、以後年々盛大になっていった。文政9年(1826)の氷川祭礼絵巻には、 川越氷川祭りがいかに盛大かがよく描かれている。
それには、花山車、万度、練子、踊り屋台、山車台、だんじり、唐人揃、竜人揃、造り物が描かれていて、その豪勢さに驚かされる。
川越氷川祭りの形式は、東京の山王神社や神田明神の両神社の祭りと同様のものであったが、現在、この2つの祭りが山車から御輿に変化してしまったのに対して、 小江戸といわれる川越の氷川祭りだけに昔ながらの祭りの様子が生き続けているのである。
◆ハイライトはヒッカワセ◆
14日の宵宮には、夜明け前4時に各町内では囃子をうつ。これを朝太鼓という。 そして、各町内の人たちは山車を引いて氷川神社に参詣する。 氷川神社側では、やぐらをつくり、そこに囃子方が待っていて、迎え囃子を打つ。 そして、山車が参詣するごとにそれぞれの山車上の囃子方と囃子の叩き合いをする。 その後14日午後と15日には、各町内の人たちが山車を引いて歩くのである。 そして、祭りの興奮が最高潮に達するのが、14、15日の両晩に行われるヒッカワセである。 ヒッカワセというのは、山車が各町内の会所前にさしかかったり、他町の山車とすれ違うときに、お互いに山車の正面を向け合って囃子方が囃子の叩き合いをすることで、 とくに、札の辻、仲町交差点、連雀町交差点などの四ツ辻では、4、5台の山車がそれぞれ囃子の叩き合いをして、騒然となるのである。
15日には、氷川神社神輿渡御祭が行われる。
現在の渡御行列は、町同心や旗の数が(前記祭礼絵巻よりも)少なくなっているが、この行列も祭りのハイライトの1つである。