川越の人物誌4(画家1)


<目 次>
江野楳雪埼玉県の不思議事典
舟津蘭山川越大事典
淡島椿岳川越閑話川越大事典
橋本雅邦新県民読本 さいたま92日本の画家埼玉の明治百年(下)名画の値段埼玉の画家たち川越夜話埼玉事始
小茂田青樹新県民読本 さいたま92埼玉の画家たち小茂田青樹展
小村雪岱新県民読本 さいたま92埼玉の画家たち日本橋檜物町日本橋檜物町

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江野楳雪
「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★★
市井の絵師・江野楳雪(えのばいせつ)が俄然注目されてきたのはなぜ
 幕末期、主として北武蔵の各地、川越、入間、坂戸、東松山、鴻巣方面の寺社を中心に需要に応じて仏画、山水、花鳥、風俗画を描き続けた絵師がいた。その人、江野楳雪は松山町本町(現・東松山市)の穀商江野家八代目の次男として生まれ、壮年期には川越の北町に居を構え、活発な作画活動を展開した。その画技は、まことに秀逸で、単に郷土の絵師≠ニいった水準にとどまるものではない。
 楳雪が若くして画業の道を選んだ人生の契機も、小江戸川越に起居の地をさだめ、実兄の子楳青(ばいせい)を養子に迎えて、時には共作の筆をとったのも、百万都市江戸との文化交流のさかんなこの地一帯に広がった爛熟期の文化活動と無縁ではあるまい。全長18メートルの長巻「川越氷川祭礼絵巻」(埼玉県指定文化財)は、楳雪の人物・風俗画の代表作であり、「越辺川通入間郡赤尾村出水之図」は養子楳青が遺した時事色の強い風俗画として特色を発揮している。
 東松山市の広済寺に伝わる「十六羅漢図」は絹本著色の仏画、菩提寺である曹源寺には「涅槃図」「十界図」などの本格仏画が遺されている。「十界図」にみられる特徴のあるリズム感を、楳雪の真骨頂とみる論説も公にされつつある。鴻巣市法要寺、入間市蓮華院の大天井画は入魂の謹写で、見あげる者を圧倒する。百聞は一見に如(し)かず≠フ最たる一例か。後者は、楳青との合作でもある。掛軸、襖絵、板絵、天井画等々、楳雪の技倆は、あてられたキャンバスと一体となっていた。
 藤原英信(てるのぶ)、英信楳雪、楳雪英信、松仙斎とも号し、多数の落款が用いられた。今日確認される遺作の数倍にもあたる作品が存在した可能性が考えられ、今後の研究に期待がかかる。画技から推して、狩野派を習得したとみられるが、その系譜はほとんどわかっていない。たしかなことは、その並々ならぬ力量と主題に応じた筆づかい、ならびに色調の配分の冴えである。
 楳雪は明治元年(1868)、養子楳青に先立たれたこともあって横浜へ転居、明治6年同地で歿した。61歳であった。
(宮内 正勝)

舟津蘭山
「川越大事典」 川越大事典編纂会編 国書刊行会 1988年 ★★★
第14章 人物/近世以前
舟津蘭山(ふなつ らんざん)
生年不詳〜明治六年(1873)。絵師。蘭山の家系は代々旧岸村(現川越市岸町)の名主である。したがって蘭山は川越藩御用絵師と岸村名主を兼ねていた。現存の川越城本丸御殿内の杉戸絵は、蘭山の作である。弘化三年(1846)川越城が火災にあって復旧新築の際、城主松平斉典の命により、七カ年余にわたり彩管をふるって画きあげた。杉戸絵の「松上の鷹」など狩野派の骨法をうかがうことができる。蘭山の作品はそう多くはつたわっていないが、養寿院本堂に画かれた雲龍は有名である。古谷の潅頂院の杉戸に唐獅子や四季の花鳥があり、中でも「神々風来」は蘭山の傑作と言われている。 
<松橋>

 蘭山記念美術館

淡島椿岳
「川越大事典」 川越大事典編纂会編 国書刊行会 1988年 ★★★
第14章 人物/近世以前
淡島椿岳(あわしま ちんがく)
文政六年(1823)〜明治二二年(1889)。幕末から明治初期の画家。川越市内小ヶ谷の旧家の一つ、内田善蔵の末子に生れ、十七歳のとき江戸蔵前で札差伊勢屋を営んでいた兄を頼って江戸に出て、その手代となって働いたが、御家人の株を買って小林城三と改姓した。幼時より絵を好み、その道に憧れていた彼は、その頃江戸で軽妙洒脱な画風で評判だった四条派の画家大西椿年(寛政四〜嘉永四)について学び、師の一字をもらって椿岳と号し、しだいに趣味の世界にのめり込んでいくことになる。そうした折、日本橋馬喰町の豪商、淡島屋服部喜兵衛の娘を見初めて、同家に婿入りした。生来自由奔放な椿岳は一男をもうけると間もなく同家を出て別居し、愛人とともに浅草寺境内の淡島堂に住み、その頃庶民の間で人気のあった泥絵による、軽妙な筆致の洋画風の風景画を描いて評判になった。椿岳の泥絵は浅草近辺の風景や風俗を写したものが多く、いわゆる浅草絵という新機軸の画風である。晩年も奔放な生活を送った。絵も南画風に変り、あるいは印象派風の作品を描くなどして活躍し、明治二二年九月、六七歳で東京に没した。後年元禄の才人井原西鶴を世に紹介した文人淡島寒月は、彼の息子である。
<大沢>

「川越閑話 川越叢書第1巻 岸伝平 国書刊行会 1982年 ★★★
 竹隣居史談/淡島椿岳の生家

橋本雅邦
「新県民読本 さいたま92」 グループ92 さきたま出版会 1986年 ★★
 橋本雅邦(天保6(1835)-明治41(1908))
 橋本雅邦は川越藩の御抱絵師、橋本晴国養邦を父にもち、本県との関わりも深い。雅邦はアーネスト・フェノロサや狩野芳崖とともに、衰退した日本画の再興をはかり、岡倉天心の新しい日本画運動に協力して東京美術学校の主任教授となり、 自由な個性を伸ばす指導を行った。横山大観、菱田春草などの俊秀を育て、近代日本画の礎石を築いた重要な画家である。「白雲紅樹図」や「秋景山水」にみられるように狩野派の伝統的な筆法に加えて遠近や明暗など西洋の合理的な空間処理を施した格調の高い作品が多い。

「日本の画家−近代日本画− 細野正信 カラーブックス263 1973年 ★★
 10.「龍虎図」(紙本着色/六曲一双 部分/各160×370cm/明治28年) 重文
 橋本雅邦 武州川越藩のお抱え絵師、橋本養邦の長男。芳崖と同日の入門であった。気迫のこもった一作で、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に出品された。川合玉堂がこの絵に感動して雅邦に師事した話は有名である。温厚な人柄で東京美術学校では流派にこだわらない自由教育を施し、大観、観山、春草ら、個性ある画家を育てた。しかし東京美術学校騒動の時は一歩も引かず、天心らとともに日本美術院の創立を果たした。
 11.「時 頼」(紙本着色/53×72cm/明治36年頃/フォッグ美術館蔵)
 12.「寒山拾得」(紙本着色/122×58cm/明治30年代/フリア・ギャラリー蔵)

「名画の値段―もう一つの日本美術史― 瀬木慎一 新潮選書 1998年 ★★
 第三部 近代の日本画家/1 明治期最高の雅邦「雪中金閣寺図」
 橋本雅邦といえば、日本の近代美術史の第一章に狩野芳崖と並んで登場する、もっとも重要な人物である。この二人無しに、岡倉天心の日本画革新はありえなかったし、横山大観、菱田春草、下村観山の成長もなかっただろう。
 二人のうち、芳崖は早くに亡くなったが、雅邦は明治四十一年(1908)、七十四歳まで長生きし、日本美術院の主幹として若い世代をよく指導した。
 雅邦は、天保六年(1835)に武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師、狩野一門の橋本養邦の長男として江戸木挽町で生まれた。二十歳にして塾頭となる才覚を示しはしたが、時代は丁度幕末の騒乱期であり、生活は容易ではなかった。やがて明治維新は成ったものの、世人は絵どころではないために艱難はさらに甚だしく、ついに妻が発狂する有様だった。幸い、明治四年(1871)に海軍兵学寮に製図教師の職を得、同十八年(1885)にはフェノロサに見出された兄弟子芳崖の推挙で、文部省の図書取調掛りとなり、天心を知り、同二十二年(1889)の東京美術学校開校以後は、その直前に亡くなった芳崖に代わって文字どおり主導的な位置に立った。
 そんなわけで、その後の雅邦は旭日のごとき輝きを放った。近代日本画の大先輩であり、画技においても雪舟を敬慕し、宗元の遺風を継承し、降っては異風の宗達や光琳をも吸収し、洋画にも触れている。諸派融合の雄渾な画風は、その時代の人々の趣好にこの上もなく適合し、最高の評価を確立した。大観、春草、観山らがまだ認められない時期に、雅邦は超然たる大家として聳え立っていた。
 さて、ここまで書いてきたのはいわば美術史的記述であり、教科書を書き、講義をするのならばこれでいいのだろうと思う。しかし本書のテーマは違う。そこで私ははたと困惑する。どうしてか。それはこれから提出する数多の資料がおのずから説明することになろう。
 『東京美術市場史』において、私が集計したところでは、明治末以来、東京市場にあらわれたこの大家の作品は、1688件で、谷文晁の1356件、探幽の1206件、山陽の1011件を上廻って断然、第一位を占める。いかに人気が高かったかが判然とするだろう。価格水準も全体的に高く、昭和十年十二月十六日の磯野枕善居蔵品展観入札会で「秋景山水図」が六万二千五百円であることに如実に示されている。これは現在、東京芸術大学所蔵の「白雲紅樹図」(重文)とほとんど全くと言っていいほど同一構図の一作で、おそらくその完成直前の下図と考えられるが、それにして、この値段である。同じ売立で、この他にも一万円以上のものが五点もあり、玉章、大観、春草、景年、広業、百穂、松園などが平均して二〜三千円であったことと比較してみるといい。当時の六万円という価格は光琳、応挙、竹田、崋山らと全く同列であった。
 雅邦の作品で高値のものを挙げると、阿褥観音図=五万一千円(大正十四年)、着色琴棋書画図=四万五千八百円(大正八年)、雪中金閣寺図=四万一千八百円(昭和十三年)、墨堤之春 滝の川之秋図=三万五千三百円(同)、中川釣舟図=三万三千五百九十円(同)、維摩図=三万一千六百九十八円(昭和十年)、寿老 夏景山水 雪景山水図=それぞれ三万一千六百九十八円(大正七年)などがある。
 これらは驚くべき高値で、大正から昭和前期の人々がいかに熱狂的に雅邦のものを渉猟したかがわかろうというものである。私の年少時には、料亭といわず、邸宅といわず、至る所に雅邦が掛かっていた。
 時代には特有の評価があり、画家の評価はそれと無縁でないことをわれわれは知っている。それにしても、と思うのは第二次大戦後の雅邦評価のいちじるしい変転である。美術館にうやうやしくかかげられ、美術史書には大きく掲載されているこの大家の歴史的評価はいささかも変わっていない。どんな場合においても、この画家無しには近代日本画は始まらない。作品の前に立って感じられるのは、なによりもその堅牢さである。
 ところがその硬骨な画風がいたっん今日の市場の只中に置かれると、全体と協和せず、浮き上がり、人目をひきつけない。時代の空気というものは恐しい。依然として人々の最高の敬意を集めているというのに、こうしたかならずしも芸術的でない要因によって、この画家の作品に与えられる価格は、昨今、極めて冷厳苛酷である。例えば、「ジャパン・アート・オークション(JAA)」の昭和五十六年(1981)十一月の秋季特別オークション≠ナ「峡流秋色図」が百七十五万円で出品されたが、不売になっている。この前後に各種のオークションで落札された例がいくつかあるが、七百万円を最高として、多くがそれ以下である。歴史的評価との差があまりにも多大であり、一種の恥辱さえ感じられるが、この大いなる困惑のなかで私は次のような疑念を抱かざるをえない。
 いかなる美術評価も、時代の趣向に左右される面が多いのは事実であるが、それではかつての評価と今日のそれとは、遠大な歴史的視野において、果たしてどちらが本当なのだろうか。より具体的に言うならば、現在における極端な低落は、今後、回復することがあるのだろうか。長年、雅邦を持ちつづけてきた人々の心中は、正直なところ、どうなのだろうか。

「埼玉の画家たち」 水野隆 さきたま出版会 2000年 ★★
 第一章 近代埼玉美術の先駆者たち/一 幕末・明治維新の日本画/橋本雅邦[はしもと・がほう]1835−1908

「埼玉の明治百年(下)」 毎日新聞社浦和支局編 1968年 ★★
 豊かな人脈/新日本画の道を開いた橋本雅邦

「川越夜話 川越叢書第6巻 岸伝平 国書刊行会 1982年 ★★★
 雁燈史話/橋本雅邦と扇面畫

「埼玉事始 ―さいたまいちばんものがたり― 東京新聞浦和支局編 さきたま出版会 1987年 ★★
昭和/美 術          昭和二十六年
 ●県展受章第一号に大塚堅二郎。近代画の父・橋本雅邦、川越にゆかり。
 (前略)
 川越市にゆかりの深い橋本雅邦は、近代日本画の育ての親として知られる。天保六年(1835)七月、川越藩の絵師橋本晴園義邦を父に、江戸・木挽町で生まれた。七歳のころから父に絵の手ほどきを受け、狩野勝川院雅信の門弟となった。
 油絵を手がける
 二十歳で塾頭となり、同じく塾頭となった狩野芳崖とともに勝川院門下の双へきとして腕をふるい、二十六歳で独立を許された。明治維新の際は、官軍の江戸入りを避けて、一時、川越に難を逃れた。日本画の修業のかたわら、当時盛んになり始めた油絵も手がけている。
 五十歳の時に第一回内国絵画共進会に「琴棋書画図」を出品し、銀賞に輝いたが、これを機に世に知られた。岡倉天心などの主宰する鑑画会に参加、色彩や光線に新しい工夫を加えた伝統絵画の近代化につとめた。
 東京美術学校教授や臨時全国宝物取調局監査係、帝室技芸員などを歴任、社会的地位を築いた。このころの作品に、コロンブス世界博覧会出品の「着色山水図」内国博覧会出品の「釈迦十六羅漢図」などの傑作がある。
 日本美術院を興す
 明治三十一年に日本美術院を興し、その主幹として運営と後進の指導に力を注ぎ、当時の美術界に新風を送り込んだ。
 胃ガンのため同四十一年一月十三日、東京・本郷竜岡町の自宅で、七十四歳で没したが、その画風は、和漢の古画を広く学び、穏健で格調の高い作品が多い。現在、川越市内の旧家を中心に多数の作品が残されている。
 追 記
 (略) 

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 橋本雅邦(はしもと がほう)
1835〜1908(天保6〜明治41)明治時代の日本画家。
(系)武蔵国川越藩の絵師橋本晴園養邦の子。 (生)江戸。 (名)幼名千太郎、のち長卿。
狩野勝川の門に学ぶ。維新前後から窮乏の生活がつづいたが、1879(明治12)第1回絵画共進会でようやく認められ、'84の共進会でフェノロサの知遇を得、以後岡倉天心らと日本画革新の運動を推進した。'89東京美術学校教授。'90帝室技芸員。'98日本美術院創立に参画、天心とともに、横山大観・菱田春草・下村観山・川合玉堂ら多くの逸材を育てた。古画に通じ、画風は穏健である。代表作は「白雲紅樹図」「龍虎図屏風」など。
(参)梅沢和軒「芳崖と雅邦」1920。

 山崎美術館川越インターネットモールのなかにあります)

小茂田青樹
「新県民読本 さいたま92」 グループ92 さきたま出版会 1986年 ★★
 小茂田青樹(1891〜1933)
 日本美術院に所属した小茂田青樹は、42歳で早逝したのと、地味な作風のため、あまり知られていないが、僚友速水御舟とともに、小林古径、前田青邨らの先輩に伍して活躍したすぐれた画家である。
 青樹は川越市(南町)に生まれ、院展目黒派といわれる今村紫紅を指導者とする赤曜会に参加して御舟とならんで画才を発揮した。 同じ日に松本楓湖の安雅堂画塾に入門した速水御舟とは終生よきライヴァルとして、また友人として影響しあった。 代表作には「出雲江角港」「鳴鶏」「虫魚画巻」があり、堅実な写実描写に静かな抒情をたたえた作品は、自由な創作精神と、東洋の伝統を洗練された技法で現代に生かす院展のいき方をそのまま体現し、今日なお新鮮な感動をよびおこす。 (墓は北町広済寺にある)

「日本の画家−近代日本画− 細野正信 カラーブックス263 1973年 ★
 72.「出雲江角港」(紙本着色/38×59cm/大正10年)
 速水御舟も、日本美術院の異色作家であった。一回展から出品し、四回展には「洛外六趣」を出品して、大観を「うまいなあ」と感心させ、同人に推挙された。七回展の「京之舞妓」、大正一四年の「炎舞」、昭和にはいって一四回展の「京の家・奈良の家」、十六回展の「名樹散椿」など、彼の画風を代表する名作である。彼は、松本楓湖の家の向いに住んでいたので自然に画家となった。小茂田青樹も松本楓湖に学び、速水御舟と同日の入門であったという。第二回展から出品し、御舟と大の仲良しであった。岸田劉生の草土社風の影響力によって、御舟とともに、一時、写実に徹して描いたが、のちには主観的な描法に移った。大正一〇年「出雲江角港」を出品して同人に推された。特異な才能の持主であったが、御舟も青樹も数え年四二歳の若さで死んでしまった。

「埼玉の画家たち」 水野隆 さきたま出版会 2000年 ★★
 第五章 埼玉の日本画/一 院展系/小茂田青樹[おもだ・せいじゅ]1891−1932

詩情の画家―小茂田青樹展」 日本経済新聞社 1993年 ★★
 小茂田青樹―日本画革新の時代を生きた画家 [岩崎吉一]
 図版
 作品目録
 年譜
 参考文献
 作品一覧

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 小茂田青樹(おもだ せいじゅ)
1891〜1933(明治24〜昭和8)大正・昭和期の日本画家。
(生)埼玉県。 (名)本名茂吉。
1908(明治41)松本楓湖の安雅堂画塾に入り、'14(大正3)今村紫紅を中心とする<赤耀会>を結成、同年以降院展に出品、'21同人となった。近代日本画の異色作家。代表作「虫魚図巻」など。

小村雪岱
「新県民読本 さいたま92」 グループ92 さきたま出版会 1986年 ★★
 小村雪岱(1887〜1940)
 同じ川越市出身の小村雪岱もユニークな芸術を展開した。東京美術学校で下村観山に学び、卒業後は絵巻など古画の模写によって研さんを積んだ。親しかった泉鏡花の小説「日本橋」の装丁を手がけて評判をとり世にでたが、 以後鏡花の代表作のほとんどを小粋で江戸情緒ゆたかな装丁で飾っている。ほかに挿絵画家としてもすぐれた手腕をみせ、邦枝完二の「おせん」、矢田挿雲の「忠臣蔵」などに白と黒の対照の妙をきわだたせ、大胆な省略法と流麗な線で独特の世界をつくっている。 また、洗練された情趣をもった美人画や歌舞伎、新派の舞台装置も手がけるなど多方面にわたる活躍をみせた。

「埼玉の画家たち」 水野隆 さきたま出版会 2000年 ★★
 第五章 埼玉の日本画/三 異色の画家/小村雪岱[こむら・せったい]1887−1940

「日本橋檜物町」 小村雪岱 平凡社ライブラリー 2006年 ★★
 女を乗せた船
 父を失つた私は、それまで住まつてゐた下谷根岸の家を畳んで、祖父母と共に川越の叔父の家に引き取られました。まだ汽車はなく、浅草の花川戸から荷物と一緒に船に乗り、途中一晩泊りで川越へ参つたのです。
 初秋の頃でありましたろうか、川には水嵩が増して、不気味な渦が無数に流れて居りました。途中で、田舎から東京へ出る一艘の船に擦れちがいましたが、矢張り引越しらしく、家財道具を積み上げて居ります。
 そしてその荷物に侘しく倚りかかつて、ぼんやり水面を凝視めてゐる女がありました。
 今にも降り出しそうな曇空の下の滔々と濁つた大川の上で、思ひがけなくも見かけた其の姿を、限りなく美しくも亦淋しく思つた事でした。
 女を乗せた船は直ぐ遠ざかり、やがて私共は田舎へ落付きました。
 其処は旧城下の郭内で、薬種や桐の花が咲く夢のような土地でしたが、船の中の女は時々思ひ出されて、その運命が儚く想像されるのでした。私の二十歳か二十一歳ぐらゐの頃のことです。

「日本橋檜物町」 小村雪岱 中公文庫 1990年 ★★
 女を乗せた船
 父を失った私は、それまで住まっていた下谷根岸の家を畳んで、祖父母と共に川越の叔父の家に引き取られました。まだ汽車はなく、浅草の花川戸から荷物と一緒に船に乗り、途中一晩泊りで川越へ参ったのです。
 初秋の頃でありましたろうか、川には水嵩が増して、不気味な渦が無数に流れておりました。途中で、田舎から東京へ出る一艘の船に擦れちがいましたが、矢張り引越しらしく、家財道具を積み上げております。
 そしてその荷物に侘しく倚りかかって、ぼんやり水面を凝視(みつ)めている女がありました。
 今にも降り出しそうな曇空の下の滔々と濁った大川の上で、思いがけなくも見かけたその姿を、限りなく美しくもまた淋しく思った事でした。
 女を乗せた船はすぐ遠ざかり、やがて私共は田舎へ落着きました。
 其処は旧城下町の郭内で、薬種や桐の花が咲く夢のような土地でしたが、船の中の女は時々思い出されて、その運命が儚く想像されるのでした。私の二十歳か二十一歳ぐらいの頃のことです。
 著者紹介
 明治20(1887)年、埼玉県川越に生れる。本名、安並泰助。明治41年、東京美術学校日本画科卒業。在学中、下村観山、のち松岡映丘に師事する。古画の模写、風俗考証を学ぶ。大正3(1984)年、泉鏡花の『日本橋』の装幀を行ない、以後、鏡花の作品を中心に装幀、挿絵の仕事を手がける。昭和8(1933)年に、挿絵の代表作となった「おせん」、翌9年の「お伝地獄」など数々の作品を発表するなど、挿絵の分野にも大きな足跡をのこした。一方、舞台美術でも異才を発揮し、「一本刀土俵入」「大菩薩峠」など、数多くの作品を制作し、舞台装置の世界で自ら一時期を画した。また国画会の同人でもあり、情趣と端麗な画風を以て、「昭和の春信」とも評された。昭和15年、死去。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 小村雪岱(こむら せったい)
1887〜1940(明治20〜昭和15)大正・昭和期の日本画家。
(生)埼玉県川越。 (名)本名安並泰輔。 (学)東京美術学校(東京芸大)。
下村観山・松岡映丘に師事。国画会同人。風俗考証に通じ、舞台装置に秀で、挿絵家としても優れていた。邦枝完二「お伝地獄」(1934〜35)の挿絵は、その代表作。

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作成:川越原人  更新:2020/11/02