川越の人物誌5(画家2)


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岩崎勝平
「埼玉の画家たち」 水野隆 さきたま出版会 2000年 ★★
 第四章 その他の洋画家たち/岩崎勝平[いわさき・かつひら]1905−1964

「川越の生んだ鬼才 岩崎勝平」 川越市立博物館 1991年 ★★★
岩崎勝平(1905―1964) ―その生い立ちと画業―
川越市立博物館 小林誠
1 生いたち
 岩崎勝平は、明治38年(1905年)8月15日、川越町大字川越862番地(現在の川越市幸町7番地)で、育太郎、満つの七男として生まれた。男8人、女2人の10人兄弟であった。父、岩崎育太郎は、洋物商を営み、川越商業会議所の副会頭を勤めた地元、川越の有力者の一人であった。
 父方の親族には、慶応義塾の創設者である福沢諭吉の長女ふさの婿となり、松永安左ヱ門とともに電力事業に活躍した福沢桃介(1868―1938)が伯父として、また伯母としては女流歌人の杉浦翠子(1885―1960)がいる。翠子の夫は、アール・ヌーボー様式やアール・デコ様式のデザインで知られ、また洋画家として光風会の創立にも参加した杉浦非水(1876―1965)である。
 大正7年(1918年)、川越北尋常小学校(現川越小学校)を卒業し、川越中学校(現県立川越高等学校)に入学した。在学中の美術担当教師は、郷土画人として知られる日本画家の久保提多(1885―1955)であった。在学中から絵画の世界に情熱を傾けるようになり大正11年(1922年)頃から伯父、杉浦非水の紹介により岡田三郎助(洋画家1869―1939)の指導する本郷洋画研究所へ通い始め、画家を志すようになった。大正12年(1923年)3月川越中学校を卒業すると、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科を受験するが、失敗し、東京渋谷の杉浦非水宅に寄宿しながら、本郷洋画研究所へ通ったという。
 2年間の浪人生活の後、大正14年(1925年)東京美術学校西洋画科に入学した。同級生には、山口薫(1907―1968)、須山計一(1905―1975)らがいた。第3学年から卒業するまで、当時浪漫主義絵画の旗頭であった藤島武二(1867―1943)の教室に入り、師の薫陶を受けた。
 
2 画壇への登場
 昭和5年(1930年)東京美術学校西洋画科を卒業し、画家としての第一歩を歩み始めた。卒業制作は、「自画像」(P12号)と「鏡と鏡奩」(P80号)である。
 東京美術学校時代の制作年代を特定できる作品は、他に、「二人の子供」(1929年、P100号)と「老婆と子供」(1929年、P80号)の2点しか現在のところ知られていない。当時の友人達の話によると、在学中から帝展などに出品していたらしいが、記録がなく、出品記録が残っていて詳細を確認できるのは、昭和7年の春台展と光風会展からである。
 東京美術学校卒業後、旺盛な制作を行い、記録が残っているものだけに限っても、昭和7年の春台展及び光風会展から昭和16年の第4回新文展まで、春台展、光風会展を中心にほぼ毎年出品を続けている。詳細は表(略)のとおりである。
 画業のうえで特筆されることは、昭和11年の文展に出品した妙高高原、関温泉に取材した「小憩」が選奨を受け、また続いて翌12年の第1回新文展に出品した同じ主題の「焚木はこび」が特選となり、同年第13回春台展で「砂上裸婦」が特賞、昭和16年の第16回春台展では「父の霊に捧く」が師、岡田三郎助の名に因んだ岡田賞を受け、昭和10年代の画壇への華々しいデビューをとげ、新進画家として将来を嘱望されるに至ったことである。
 たびたび朝鮮にも取材旅行し、「薬水を汲む」に代表されるような佳品を残している。昭和14年には、従軍画家として北支から中支にかけて従軍し、戦地から送った挿絵が新聞に掲載されている。
 この時代は、一生の間でも、特に恵まれた時代で、父親からの経済的支援と、特に伯父、福沢桃介からの援助もあったといわれ、淀橋区柏木3丁目(現北新宿1丁目)に居を定め平穏な画生活を送っていた。札幌、横手、妙高山周辺、西伊豆、関西方面、瀬戸内に取材した佳品を多く残している。
 昭和14年には光風会会員に推挙され、文展無鑑査となり、地元川越でも、昭和17年までの間に6回の個人展覧会を開催している。
 
3 孤独と放浪のはじまり
 昭和16年(1941年)、画学生であった斎藤百譽と結婚したが(数ケ月後に百譽が死亡したため未入籍)、この結婚は岩崎勝平の後の人生に大きな影響を与えた。百譽は光風会の会員で、師岡田三郎助の弟子でもあり、後に挿絵画家として活躍した斎藤五百枝(1881―1966)の娘であった。
 結婚披露の数ケ月後、懐胎した百譽は、事故により体調を崩し、実家へ帰りそのまま不帰の人となったのであるが、その死因をめぐって、実家との間でトラブルが生じた。事故の原因としては、知人宅での食事による食中毒、夫婦喧嘩による暴力などがいわれているが、詳細は不明である。
 しかし、画壇の先輩である父五百枝との争いが、他にも理由は考えられるが、昭和17年以降、亡くなるまで画壇を離れる大きな原因の一つであったことは事実である。後年、昭和32年(1957年)ころに、一時画壇への復帰を考え、先輩の辻永(1884―1974)や、中村研一(1895―1967)に光風会への復帰を依頼したが、受け入れられなかった。特に、妻と子を失ったことは、精神的にも非常に大きな影響を与え、以後淀橋区柏木の住居も引き払い、以後、画壇との交渉を断ち、屈折した、孤独と放浪の生活を送ることとなったのである。
 また、もう一つ大きなでき事として、最大の経済的な庇護者であった父、育太郎の死があげられる。岩崎育太郎は、昭和15年(1940年)12月に亡くなったが、以後、経済的支援が途絶え、新婚生活は、質素であったという。勝平の母、満つは後妻で、長兄達とは異母兄弟であったため、兄弟間は、不仲であった。そのため父の死後は、兄弟達による援助もなく、昭和39年に亡くなるまで困窮した生活を送ったのである。
 また、画壇を去った昭和17年以降は、戦時色も強まり、絵具などの絵画材料の統制もあり、画を描くことは大変困難な時代であった。この時代の、制作年代を確認できる作品は残っていない。残された資料によると、従軍画家として中国で行動を共にした東部第六十二部隊に戦争画の壁画を献納するため有志が中心となって後援会が設立されたことが知られる。しかし、この留守部隊が駐屯していた川崎市が空襲に遭ったこともあり、戦争画の完成を見ることはなかったようである。 

4 素描画家として新境地を開く
 戦争が激しくなった昭和17年ころから川越市内小ケ谷に居を定める昭和23年ころまで、秋田県横手市周辺、長野県内、関西方面を放浪していたらしいが、足取りは不明である。
 しかし、昭和23年(1948年)には、2回程、上野のアサオ画廊で小品展を開催した記録が残っているので、各地を旅しながらも、制作活動を行っていたものと思われる。
 戦後、生まれ故郷の川越に戻り市内岸町の長田寺にしばらく起居していたが、昭和23年(1948年)ころから川越市小ケ谷44番地の内田一正氏宅の離れに転居し、以後、昭和39年(1964年)に死去するまで、ここが、生活の本拠となった。しかし、貧困の中での孤独な生活は変わらず、兄弟はもとより、知人にさえ、自分の住所を教えなかったほどである。
 昭和20年代前半から東京京橋の古美術商繭山龍泉堂に足繁く通うようになり、そこで作家の川端康成の知遇を得、また、美術評論家の河北倫明を知ったのもこのころのことである。両氏との交友は、亡くなるまで続いたが、このことは、後の制作活動にも大きな影響を与え、精神的な支えともなった。この時代は(昭和22年頃から)柿、海老、魚などをモチーフにして日本画も制作しており、正確な制作年代は不詳であるが、佳品が残されている。
 戦後の岩崎勝平の代表的な仕事として、鉛筆による素描の東京百景の連作と木炭・パステルによる、同じく素描の、婦人をモチーフにした連作、女十二題が挙げられる。この両シリーズの誕生には、川端康成、河北倫明らの大きな支持と力添えがあったといわれる。
 昭和25年(1950年)、川端康成、河北倫明らが発起人となって岩崎勝平デッサン東京百景頒布会が、鎌倉市長谷の川端康成宅に組織された。これは、困窮の中で思うように制作に没頭できない画家の画才を惜しんだ両氏らが美術愛好家から東京百景の注文を集め、経済的にも絵を落ちついて描ける環境をつくるために行った配慮であった。また、すぐれたデッサン力のある、鉛筆の素描による東京百景シリーズの完成は、将来、岩崎勝平の優れた仕事として評価されるであろうとの確信から勧めたことでもあった。
 しかし、川端康成の勧進の言葉にみられるように遅筆で、一枚のデッサンを仕上げ、納得のいくものが出来あがるのに大変な努力と時間を要したため、すべての注文をこなすのは並大抵の事ではなかった。昭和26年(1951年)、上野松坂屋で第1回東京百景展を開催し、その成果を発表している。また、続いて昭和30年(1955年)には、東京丸の内の中央公論画廊で第2回目の東京百景展を開いている。東京百景は、非常に好評で、イギリスの桂冠詩人、エドマンデ・ブランデンが帰国する際、イギリス大使館と東大構内の2点を持ちかえったほどである。東京百景シリーズは、その後昭和39年に亡くなるまで、細々と描き続けられ、今回の展示では、昭和25〜30年ころ描かれたものは残念ながら東大構内・ニコライ堂など数点を除いて所在を確認できなかったが、第2回東京百景展後の昭和32年以降に制作されたものが数多く展示されている。晩年作は、鉛筆ではなくパステルを使用したものが多くなるが、経済的な、また健康上の理由から、シリーズとしての完成をみることなく終ったっことは非常に残念なことである。
 また、この時代は、東京百景シリーズと並行して女十二題と題して木炭やパステルによる婦人像をシリーズとして制作している。ここには、特に人物画家として本領を発揮した岩崎勝平の真髄をみることができる。昭和29年(1954年)と昭和31年(1956年)の2回、それぞれ東京丸の内の中央公論画廊で女十二題展を開催しその成果を発表している。この当時のエピソードとして、電車の中で美しい娘を見つけると家まで付けて行き、モデルになってくれるように頼んだという話が残っている。女流書家の町春草の肖像もこうして描かれたが、残念ながら、現在までのところ所在が確認されていない。今回の展示では、続女十二題展後の昭和32年以降に制作されたものが数多く展示されている。東京百景シリーズと同様に、初期制作の展覧会出品作が、今後、発見されることを祈りたい。

5 貧困の中の死
 岩崎勝平は川端康成や河北倫明らの支援にもかかわらず、結局、画家として天性の才能に恵まれながら世に出るチャンスをつかみきれなかった。肺ガンに蝕まれ死を予感した昭和38年(1963年)、画家・岩崎勝平として認められて死にたいと、かつての仲間が数多く在籍していた新制作協会(昭和10年の帝展改組に反対した、小磯良平、猪熊弦一郎らが光風会を脱退して設立した)へ、入院していた日大病院での取材による100号の大作5点を出品するが、受け入れられず落選し、失意のうちに翌昭和39年(1964年)9月、入院先の都立大久保病院で肝臓ガンにより59歳で死去するのである。没後、地元川越で、伊藤長三郎など、川越中学校時代の同級生が中心となって、10月に川越市立図書館で第1回目の遺作展が開催されている。翌昭和40年(1965年)にも第2回目の遺作展が開催され、かつひら会という岩崎勝平を顕彰するための会も組織されたがその後、回顧展も開かれることなく、会も消滅してしまった。
 東京では、川端康成、河北倫明、繭山龍泉堂の関係者たちの協力により銀座の兜屋画廊で昭和43年(1968年)に遺作展が開かれ、非常に好評であった。引き続き遺作展の開催が期待されたが、諸般の事情で開催されることなく現在に至っている。今日では、岩崎勝平の名も一般には忘れられているが、その強烈な個性は没後27年を経過した今日でも、関係者の脳裏に強く焼き付いているという。
 墓所は、市内、宮元町の真行寺にあり、墓は死後4年たった昭和43年に建立された。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 岡田三郎助(おかだ さぶろうすけ)
1869〜1939(明治2〜昭和14)明治・大正・昭和期の洋画家。(生)佐賀県。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 藤島武二(ふじしま たけじ)
1867〜1943(慶応3〜昭和18)明治・大正・昭和期の洋画家。(系)薩摩藩士藤島賢方の3男。(生)鹿児島県。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 川端康成(かわばた やすなり)
1899〜1972(明治32〜昭和47)昭和期の小説家。

相原求一朗
「新県民読本 さいたま92」 グループ92 さきたま出版会 1986年 ★★
 相原求一朗
 北国の原野を好んで描く洋画家。

「埼玉の画家たち」 水野隆 さきたま出版会 2000年 ★★
 第四章 その他の洋画家たち/相原求一朗[あいはら・きゅういちろう]1918−1999
 相原求一朗は印象派風の作品からマティスなどのフォーヴィスム、さらにキュビスムにも接近し、抽象に取り組むが、自分の進むべき道が見いだせず煩悶した。そこで北海道に渡り、北の大地に広がる雄大な風景に接して、それが抽象そのものであり、しかも形があることに気づいて迷いがなくなり、以後、北海道とフランス北部を繰り返し訪れ制作した。厳寒の荒野や湖、断崖、烈風吹きすさぶノルマンディーの港、果てしないブルターニュの広野の彼方に消えていく道など、いくたびも訪ね歩いたさまざまな風景には、寒さに耐えて懸命に描く相原の執念と、ロマンティストである彼の内面の詩的情感が画面に流れている。

生い立ち 相原求一朗は大正七年(1918)十二月三日に茂吉、よしの長男として川越町(現・川越市)に生まれた。生家は代々農産物の卸問屋を営んでいた。本名は九太郎であるが、幼児期病弱だったので、姓名学上吉兆である求一朗に改名した。画業でも初めは九太郎、昭和四十年(1965)から求一朗に改めた。雑穀専門卸問屋になった家業を継ぐべく川越商業学校(現・川越商業高等学校→市立川越高等学校)に入学した。そこで商業美術担当教師から、本格的に絵を描くことを学び油彩も始め、絵の魅力に引かれて東京美術学校進学を考えるようになった。その気持ちを父に打ち明けたが父に激怒され、画家志望を断念し家業を継ぐことになった。
 卒業後、実業を学ぶべく、東京の雑穀問屋に奉公に出され苦労をしたが、一年間で許され実家に帰った。十八歳から二十歳まで家業に従事しながら独学で油彩を学んだ。十五年、応召し大連に渡り、南満州の公主嶺の重爆撃機戦隊に入隊する。軍務の余暇に制作もできた。十九年、フィリピンから帰還の途次、搭乗の飛行機が沖縄付近の海上に不時着するが、奇跡的に生還するこができた。

猪熊弦一郎に師事 二十三年、大きな転機が訪れた。仕事の関係で、新制作派協会展に出品していた大国章夫と出会ったことである。彼との出会いで絵画熱は再燃し、日本橋の北荘画廊に通いデッサンやクロッキーを行った。大国が指導を受けていた猪熊弦一郎を訪れ師事することになり、猪熊が開いていた田園調布純粋美術研究所に通うことになる。新制作派協会展に二十三年、二十四年と出品するが落選し、二十五年、同展第十四回展に「白いビル」が初入選する。
 猪熊に師事するようになってからは、それまでの見たものを素直に写実的に描くことから、対象を簡略にとらえ、造形の組み立てを重視する構成主義的な作風になった。猪熊はマティスへの傾倒とともにピカソにも影響を受けており、相原もその影響を反映した「船台」「メリーゴーランド」などを描いた。形態の平面化と分割、その再構成といったものだが未消化の感は否めない。

迷路脱出 昭和二十九年父が亡くなり、その仕事を継いだ彼は家業に追われ制作がままならなくなる。加えて、師がニューヨークに移ったのも痛手であった。マティスやピカソの影響に加えて、抽象と具象の中間をいくサロン・ド・メ展の開催、マチューの来日で燃え上がった暗アンフォルメル旋風、アメリカのラウシェンバーグ、マーク・トビー、ジャスパー・ジョーンズなど、新しいスタイルがやつぎばやに紹介され、モダニスム路線の新制作協会にある相原も取り残されまいと思うが、いかにすべきか、なかなか見いだせない。三十五年、抽象を出品し落選、翌年も同じく抽象で落選する。煩悶が続き描けない日々が続いた。懊悩の末、ようやく一つの考えにいき着いた。「もう一度出発点に戻ってみよう」と。そのポイントをいまだ素朴で、野性的な原始が残る北海道に求めた。
 帯広行きの列車が富良野を通過しトンネルを抜けると、白樺の幹やすすきの銀色に輝く穂波、灌木の林、えぞ松の緑の森林が目に飛び込んできた。その瞬間、彼は「この風景はいわゆる抽象そのものだ。しかも厳然と形がある」とひらめいた。やがて、我に返ると、今まで抽象か具象かなどと悩んでいたことが、いかに些末なことだったかと痛く考えさせられた。早速100号の制作にとりかかった。その時の作品が「風景」である。この作品は大地が画面の大半を占め、荒れた土の肌が抽象的に塗り込められた心象風景として描かれていた。翌三十八年には「原野」「ノサップ」を新制作展に出品し新作家賞を受賞、協友に推され、五年後には会員になった。

多彩な風景表現 迷いが吹っ切れ、自分の目指す方向が決まった。その後、北海道は彼のメーン・テーマになり、三十九年から五十四年までの十五年間、北海道と海外とを交互に旅し制作することになる。世界の各地に旅行しても、自分の画風や好みに合うものとそうでないものが出てくる。ノルマンディー、ブルターニュにことのほかひきつけられた。この地も北海道も北国である。このテーマの動機は、多感な青春時代を軍務で過ごした満州の原野に酷似しており、ノスタルジーを感じたとも言う。具象に回帰し、対象を取り戻した相原であったが、当初は抽象を経過した名残で、「広場HONFLEUR」(昭和四十四年)のように対象を写すというより、構成的に造形化しているような感じが強い。そして、次第に心象風景から、実際の風景に即したとらえ方に移行していく。構図、色彩、マチエールなどに工夫を重ねて、相原特有の風景画の世界が展開されるようになる。
 ノルマンディーやブルターニュの風景は、街路を広く取った水平構図で、暗欝な雲に覆われた空に、石造りの建物や海岸の船が描かれている。例えば、「自転車のある風景」では、すべてざらついたグレーが主で、白、鈍く沈んだ褐色、青が効果的に使われている。人影はなく孤愁がひときわ強く感じられる。北海道の風景は山や海岸、湖、原野といた自然そのものが対象になるためさまざまなとらえ方ができる。海に突き出した岬にひっそりと建つ「岬の家」、同じ岬でも白っぽい道が屈曲しながら家に続く「黒い馬のいる風景」は、画面構成に変化をもたせ黒い海と対照をなす相原特有の白や褐色の大地、わずかに緑を残した草原が微妙に描き分けられ独特の趣をもつ。

荒野の道 海外と北海道との取材の繰り返しを終えて、五十五年から北海道一筋の制作が始まる。相原の北海道風景は多彩であるが、幾つかの特徴が見られる。一つは季節ごとに変わる自然の相貌である。画業を通観してみると、まず夏はなく、山も原野も木立も裸になり骨組みがあらわになる秋、厳寒の冬、そして雪解けの始まる早春である。その中で、最もドラマティックな迫力をもつのが凍てつく荒涼とした冬である。枯れ草のみの烈風吹きすさぶ雪原を描いた「大地・雪積む」、貨車一輌が線路に停車し人気のない「雪の停車場」、崖下にひっそり縮こまるように家と船が寄り合っている「漁港厳冬」など数多い。また、残雪があっても風が和み、麓の樹林や草原が芽吹く「斜里浅春」「田園待春」「富良野新緑」などの早春の風景もさわやかだ。白、グレー、褐色といったモノトナスの調子の荒涼、寂寞たる冬の風景が大半を占める相原の作品の中で、空が青みを増し、若草が萌え出すわずかの色の変化に春を迎えた喜びが表される。
 また、彼の作品の特徴にあげられるのが風景の中の「道」である。町の中を雪道が貫き画面の骨格をなすもの、また曲線を描いて彼方に消え行くもの、手前から奥に向かって一直線に遠ざかるものなど、それらは画面に奥行きを与え、広大な大地の軸になる造形上のポイントであるとともに、青年期から模索しながらたどってきた彼の画業の象徴のようにも見える。
 彼への評価は近年ますます高く、平成四年(1992)に川越初雁文化賞を受賞。同八年には川越市名誉市民となった。また、同じ年、北海道河西郡中札内村に「相原求一朗美術館」が開館した。しかし、大量の自作を寄贈し、展示が予定されていた川越市の美術館の開館を待たずに、平成十一年(1999年)八十一歳でこの世を去ったのである。

「相原求一朗展カタログ」 日動画廊 1986年 ★★
 実り豊かな近作             田中 穣
 相原求一朗は、新制作協会の個性的な実力作家として、また冬の北海道の詩情を描く風変わりな洋画家として、定評がある。日本画で創画会の小野具定が、冬の裏日本から北海道に到る海岸を描く“北辺の画家”といった人気を集めるのと、好一対をなす。が、洋画の相原求一朗はもっぱら山と野を描き、海を持たず山を遠望する野(埼玉県川越市)に育った画家の描く絵にふさわしい特色をみせている。ちなみに小野具定は、瀬戸内の海に面した徳山の出である。
 相原さん(以下こう呼ぶ)が、《襟裳岬》や《根室の冬》など初めて北海道を描く35点のシリーズ「北の詩(うた)」展を、東京・池袋の西武百貨店の画廊でひらいたのは、1968年(昭和43年)12月のこと。従って、この人が北海道を描きだして20年近くなるわけだが、以来相原作品に登場した舞台は、函館、積丹半島、石狩とその河口、襟裳岬、十勝、阿寒、屈斜路湖、摩周湖、網走、斜里、羅臼ほか広い範囲に及ぶ。毎年のように相原さんは、11月ごろから3月はじめまでの間に1回ないし2回、10日間ほどの取材をつづけてきている。はじめのころは、青森から連絡線で北海道に渡ったが、最近は飛行機で道内の空港に飛び、そこからレンタカーで、目に写る情景との出合いを期待しながら、どこに泊るというあてのない旅をするのだそうだ。そうして描かれてきた絵である。
 
 ところが、こんどの作品は、すこしばかり趣がちがう。個展の副題「早春−富良野だより」でもわかるように、北海道の“ヘソ”といわれる材木(林業)の町富良野周辺の野と山が、主題になっている。これまで相原さんは、札幌から帯広へと車を走らせる途中、西に芦別の連山、東に十勝岳もふくむ大雪山系と、周囲を山にかこまれた丘陵地帯の中の盆地の町富良野を、よく通っていた。去年の6月、札幌のエルム画廊で個展をしたとき、画廊主の本田英夫氏から、「富良野は絶対に、先生のモチーフに合います。あこがれの女性とでも会ったような気になるかも……」といわれたものの、倉本聡のドラマ『北の国から』の舞台だということで最近若い人たちがよく行くという情報をキャッチした相原さんには、なんとなくためらう気持ちがつづいていた。
 ことしの1月と2月、相原さんは肝臓をいためて静養し、恒例の取材を遅らせた4月下旬に、旭川の空港から車で1時間南下した富良野を訪れてみて、驚いた。エルムの本田氏がいうだけの“絵になる情景”が、そこにはひろがっていたからだ。約10日間、相原さんはタクシーをやとい、助手台に座らせてもらって、スケッチによる取材をした。あるときはゆっくり走らせ、あるときはストップさせ、ときには外に出て長靴のはまりこむ畑を横切り、残雪の山の斜面を駆け上がったりして、風景との出合いにただもう感激しつづけたという。冬のスキー客用に新設されていたホテルも、シーズンの終わっていたこともあり、ゆき届いた親切で、気持よかったそうだ。
 この10日間のスケッチをもとに、川越市内のアトリエにこもった相原さんがせっせと描きつづけてきた作品が、こんどの個展の主な内容である。

 《沃野芽ぶく》という50号Mがある。正面に芦別岳を遠望し、ジャガイモ畑のうねのひろがりを描いている。旭川からきて富良野にはいる道でのスケッチによるという。《薄暮十勝岳》20号Pは、《沃野芽ぶく》の芦別岳と富良野を間において向かい合う十勝岳を真正面にすえ、四つに組む描き方をした作品である。中景のカラマツ林の芽ぶきはじめのひろがりと、近景のみどりを帯びた畑地のひろがりとが、これまた奇妙にあたたかい。開墾される前の野性をのぞかした大地が主題の《高ぐもり田園》20号Pにも、画面中央に奥まってのびる人工の溝が描かれ、そこに残る雪とその向こうのきれいに植林された防風林のエゾマツのたいらな列が、高ぐもりの空とあいまって明るくあたたかい。《雲動く》100号Fは、雲間から落ちる陽ざしを受けた春近い十勝岳を描いてはいるが、どうやらこの作品だけは題名にも示されているように、作者の関心は動く雲にあったようだ。
 これらの作品を、8月下旬のある午後、私はなお作品の一部を制作中の相原さんの川越のアトリエで、見せてもらった。完成していたほかの作品で、北海道の雄大な山野の中に埋もれたような小さな田舎町富良野を遠望し、富良野とはこんなにいい場所だと作者が語りかけてでもいるような《早春の丘−富良野》20号Fなどにもひかれたが、全体的に見て今回はこれまでの相原作品とはいささか趣のちがう印象を受けた。
 それは、画面が一段と色彩的にゆたかになり、明るいやさしさを加えたことによった。が、手法上でのそうした変化よりもなにより、作者の相原さんが富良野に心底ほれこんでいるのがいい、という気がした。富良野にというより、正確にいえば、富良野盆地の周囲にひろがる野と山にである。
 
 相原さんの絵の魅力を考える場合、描くというより、削る操作が繰り返されていることに注目する必要がある。下塗りには、アイボリ・ブラック(いわゆる黒)が使われている。下塗りが乾いてから次の作業が加わるが、半乾きのときに白をおいてその上を削ったり、さらにコバルトブルー、セピア、イエローオーカー、ライトレッドといった絵の具をのせて描いてゆく。最初から中盤までパレットナイフとローラーが使われ、はけや筆は終盤になって使われる。
 やわらかい筆で、絵の具を画面にのせてゆくのはなまぬるく、シャープな線を出すためにも、画面を削ることを考えた、と相原さんはいう。下地を黒にし、その上に白やその他の色を重ね、パレットナイフで削ってゆくことで、ナイフの先で彫りおこされた黒が、筆を使ってかく形や色の限界を越えた効果をうむのを期待する。つまり、相原作品に登場する北海道の大地も、森も、木立も、草原も、雪や海も、黒い地塗りの上に何度も丹念に重ねておかれた白その他の寒暖両系統の色が、画面を削りとるパレットナイフの操作の繰り返しのあとで、その底から浮かびあがってつくるイメージにほかならない。
 版画家と呼ばれるのを嫌い板画家(ばんがか)と自称した棟方志功が、みずから構想したイメージにそい、自分で版を彫りおこしてつくる自作の木版画であるにもかかわらず、
 「わたくしは、版画をつくっているのではない。板に宿るいのちを彫りおこし、板がうみだすものの手助けをしているだけ。板画は、神サマ、仏サマが、わたくしを使ってなさることです」
 といっていたのは有名な話だが、これと似た手法上の秘密が、相原さんの絵にはかくされているように私には思える。下地の黒に、おつゆのような色を塗り重ね、その上をナイフで削りながら、なお色を重ねてゆく相原さんの手法はそっくり、朱漆を何回となく塗り重ね、これに山水、花鳥、人物などを浮き彫りしてつくる漆器、いわゆる堆朱(ついしゅ)のやり方と似ているともいえる。
 このように相原さんの絵は、油絵であって実は極めて日本画的な、ほかに類をみないほどの強い造形力と同時に深い精神性を持つ、型破りのタブローになっているのである。
 
 相原さんは独特の手法の、素朴で太い造形上の骨格を持つ写実画に、主として冬の北海道のきびしい情景がみせる詩情(憂愁といってもいい)を、ひたむきに描き出してきた画家である。例えば薄化粧した周囲の山と、その下にしずまる深い湖面を黒灰色と白とで描いた1976年(昭和51年)の秀作《摩周初雪》に代表されるような、東洋の水墨画につながるモノクロームの世界で。またあるときは、例えば北海に突き出した襟裳岬そのものの巨大さを大画面にゆるぎなく構成してみせた傑作《岬の家》(1974)のような、宗達、光琳以来の、室町から江戸時代にかけての京都の商工業ならびに文化の中心勢力が“京の町衆”がうみだした琳派そのままの、ゆたかでおおらかな骨格を持つ日本的装飾感にみちた画面で。
 今回の相原さんの「早春−富良野だより」の作品は、なお制作中の相原さんの川越の画室で私が見せてもらった限りでは、明らかに琳派の面が強調されてきているように思えた。取材そのものが春に近づき、描く対象そのものにカラフルな明るいあたたかさが加わっていたことにもよった。とはいえ、ここでもその主な理由として挙げられるのは、相原さんが取材先の富良野の山野にほれこみ、これに埋没したことである。そのために富良野の山野が、相原さんを使って「早春−富良野だより」の作品を描かせ、できあがった画面に相原さん自身が自然な形で、極めてはっきりと投影されていたことである。遠く背に秩父連峰をのぞみ、周囲に関東平野のたいらな田園が何筋もの川を流してつづく、この江戸よりも古い城下町川越に育った相原さんだが。そこ川越の、先祖代々、雑穀、乾物、青果などの卸問屋を営む豪商として知られた家のせがれに生まれた、豪気でおおらかな相原さんがである。
 その人のアトリエで、私は、いよいよ完成期に近づいた現代日本の洋画家相原求一朗の異才を、まのあたりに見た気がした。
(たなかじょう・美術評論家)
 富良野取材行―――――――――相原求一朗
 今年も正月から二ヵ月ほど入院した。
 肝炎である。
 くる日も、くる日も午前、午后と点滴を繰り返し、両腕の血管も大分固くなった。ねている時間をなるべく多くとるように医師から指示されているので、食事のとき以外は、横になって単調な冬の空を見ていた。
 無為の時間が音もなく過ぎてゆく。やりきれない寂寥と焦燥の想いが胸を去来する。
 三月はじめ、近くのデパートで画廊が開設し、そのこけら落しに、私は小品の個展を催した。オープンの日、病院をぬけ出してパーティーに出席したが、身体も精神も、大分萎えていることを思いしらされた。
 四月下旬、冒険を承知で旭川行きの全日空機に乗った。全く体力に自信がもてず、一つの賭けだった。
 北海道は早春で、山も木も丘もキラキラ輝いて見え、私は久しぶりに、本当に久しぶりに深呼吸をした。
 タクシーの窓から、透き通るように美しい雪の朝日岳を見ると思わず合掌した。私は、ひどく素直になっている自分自身に些かに憐憫の情を覚えた。
 富良野は旭川の空港から車で約一時間、広々とした丘陵地帯である。よく耕された畑が緩やかな曲線をえがいて、延々と遥か遠く大雪山系の麓まで拡がっている。
 私は富良野を根拠地に、南は狩勝峠、北は天人峡の山ふところまで、車を駈って取材に走った。
 大雪、芦別の連山はまだ雪に覆われ、山裾の地表には残雪が美しい模様を見せていた。ふくよかな褐色の大地には、かげろうが立って若草が萌えはじめ、やわらかく芽吹いたから松の林は、秋の風景のように紅かった。
 私は大自然の恵みの中に、深々と身をゆだねて幸せな取材の日々を送った。

 中札内村

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 猪熊弦一郎(いのくま げんいちろう)
1902〜 (明治35〜 )昭和期の洋画家。
(生)香川県。(学)東京美術学校(東京芸大)中退。
1926(大正15)第7回帝展初入選、さらに2度特選となる。’36(昭和11)新制作派協会結成、’38〜’40渡欧しマチスの指導をうける。’51毎日美術賞受賞。’55渡米して抽象画に転じ、サンパウロ−ビエンナーレ展、カーネギー国際美術展などに出品。’64現代日本美術展で国立近代美術館賞受賞、日・米両国で制作。

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作成:川越原人  更新:2020/11/02