川越舟唄
・ハァー 押せや押せ押せ エー 二挺艪で押せや (アイヨノヨ)
押せば千住が 近くなる (アイヨノヨトキテ ヨサガリカイ)
・九十九曲がり 仇では越せぬ 通い船路の 三十里
・千住出てから 巻の野までは 竿も艪櫂も 手につかぬ
・船は千来る 万来る中で わしの待つ船 まだ来ない
・追風吹かせて 早や登らせて 今度下りは 待つわいな
・川越辺りを 夜更けて走りゃ 可愛いあの娘の 声がない
・主が竿さしゃ 私は艫で 舵をとりとり 艪をば押す
◆1638年(寛永15)の川越大火で、川越仙波東照宮が消失した時、その再建資材を江戸から新河岸川を利用して運んだのが、新河岸川舟運の始まりである。翌1639年、川越藩主になった松平信綱が、1647年(正保4)に河港を開設、領内の伊佐沼から流れる川に多くの屈曲をつけ、舟の運行に適すよう水量保持の工事をし、当初は藩米を江戸へ運び出すのを主目的にした。
川越は小江戸≠ニ称され江戸との交流はまことに緊密だった。川越からは米、木材、茶、繭、鋳物などが、江戸からは肥料、油、石灰、酒、小間物など日用雑貨が運ばれ、天保のころ(1830〜44)から乗客を扱うようになった。当時は川越を午後3時ごろに出発すると、翌日の昼下りに着くという気の長い舟運であったが、東上鉄道が開通すると積荷を鉄道に奪われ、次第に衰微して行った。
◆川越から江戸へ物資を運ぶ高瀬舟は、7、80石の積載量で米なら350俵(1俵は16貫、約60キロ)積めた。新河岸川水路から荒川を経て江戸の浅草花川戸に至る九十九曲がり、36里(144キロ)の水路を通った。「川越舟唄」は、この往来の乗客にせがまれたり、眠気覚ましに歌われた「新河岸川舟唄」のことで、艪を漕いでいる二人の船頭は、一人が歌えばもう一人が合の手を入れ、艪の軋む音に合わせてゆったり続けられた。
この舟唄は「千住甚句」とも呼ばれ、千住宿(現足立区千住)の遊廓の酒席で歌われた二上り甚句の騒ぎ唄で、それだけに埼玉の特色は薄く、小江戸的で粋な味がある。
江戸時代の千住は日光街道を中心として奥羽地方に通ずる起点の宿場であり、荒川舟運の船着場でもあったので遊廓も大いににぎわった。1975年(昭和50)4月29日に新河岸川の川岸に「川越舟唄」の記念碑が建てられた。
なお現在、小沢千月、原田直之、斎藤京子らがレコーディングし、重要なレパートリーに入れている。
踊りの師範や名取のお姉さんが、地元で途絶えかけている長唄「四季の川越」の踊りを受け継ぐという。19日には伝承式があると聞き、芸者さんらに指導を受けているすし屋さんの2階のけいこ場にお邪魔した。
三味線に太鼓。舟橋さんと長谷川さんの舞いは小江戸情緒にぴったりのお座敷芸だ。わがご主人の表情は緩みっぱなし。紅葉舞う舞台で舞いをめでる川越城の殿様の気分を味わっているようだ。
芸者さんが三味線を「ねこ」と呼ぶと知って、僕は落ち着けなくなってしまった。
「四季の川越」 昭和8年創作
作歌 土岐善麿 作曲 町田嘉章
それ、紫のゆかりも深き大江戸に、
名さへ小江戸の色 添えて、
今こそ花と埼玉に、代々の栄えの川越や、
四通八逢繁盛は、めでたくも又ありがたき。
夏は仲よし川辺の花火 浪もきらきら橋の上
流れ星かやもつれて消えて
うはの空なる二人連れ
夏はたのしや祗園のまつり
かざす花傘あですがた
踊り屋台の囃子につれて 胸も時めくさんざめく
「柳橋から」
あさりや採れたかはまぐりは
まだかいな、あわびやくよくよ片思い
さざえは悋気で角ばっかりしょんがいな
柳橋から小舟を急がせて
舟はゆらゆら波まかせ
舟から上がって吉原へご案内
「四季の川越」は川越最後の芸妓さん(小松きん子)きん子姐さんの代表的持ち唄のひとつでもある
14才で半玉としてお披露目以来、芸歴は60年以上。
長唄松島流名取り。
勘三郎の舞台で歌舞伎座にも出演。
川越小唄 西条八十作詞 町田嘉章作曲
春はうらうら
多賀町あたり
鐘も霞のヤンレヤレコノ
中で鳴る
鐘も霞の中で鳴る
時の鐘で有名な、鐘突堂の入口に「川越小唄」という小さな石ぶみがあります。この唄は、昭和の初年、丁度川越で初めてのエレベーターのあるビルディング「山吉デパート」が開業した頃で、その賑わいと共に軽妙なお座敷唄として一世を風靡しました。今では歌える人も七十代以上に限られるでしょう。ともかくその後、次々と作られたご当地ソングの先駆けとなった唄で、最も長く愛唱されました。
地元の人が思いを込めて末長くと歌詞をここに残して下さいましたが、さて肝心の歌声はとなりますと形のないもので、なかなか一筋縄ではゆきません。数年前NHKの浦和放送局で当時のSPレコードを捜した事がありましたが、時間的な関係もあって、思う様な状態のものは、発見出来なかったと聞き、歳月の厳しさをひしひしと感じさせられました。
(中略)
何はさておき、消えゆく父母達の時代の歌声が、邦楽の舞台に、又鐘突堂の歌碑に残ってゆくのは嬉しい事だと思います。(会長 宮岡正一郎)
川越小唄の碑
《表》
川越小唄 西条八十 作詞
町田嘉 章作曲
春はうらうら
多賀町あたり
鐘も霞のヤンレヤレコノ
中で鳴る
鐘も霞の中で鳴る
昭和四十五年一月十二日
旧多賀町薬師講 桃林書
山崎石材刻
《裏》
昭和二十六年四月川越地区改正にもとづき
多賀町百二十戸を大手町幸町松江町と
分散したので多賀町と言う町名を永久に遺
したく議員協議して此処に建立す
薬師講世話人 八木泰一
中野 清
小鹿野三之助
《所在地》 薬師神社 幸町十五
盆唄は昔は踊りが伴つたものといはれますが、今は子供の管理になりました。哀愁感のある唄ですが昔の川越地方の子供達はこんな唄を唄つたのです。
盆が来たそで蓮の葉が売れた
死んだ母(かあ)やが逢ひに来る
×
盆、盆、出やれ
盆、盆、出やれ
今年の盆に出さない親は
精霊棚にでつち上げておいて
蓮の葉で水をくれるぞや
蓮の葉はたかい
芋の葉で水をくれるぞや
×
盆にや牡丹餅、お昼にや饂飩
夜は米の飯、南瓜汁よ
盆が来たならお里へ行つて
命の洗濯して来たい
盆踊りは丸くなつて踊る方式と、列を組んで行進する形式があつて、盆の精霊を慰め、またこれを送るための踊と考えられてゐます。川越でも二百年前には
七月朔日より盆後迄町方の少女五人十人打つれはり太鼓を持て歌うたひありく之を盆踊と云(多濃武の雁)
と記されてゐます。少女のみの踊りのようにとれますのは、仔細があるのではないかと思はれます。
今は川越古来の盆踊りはなく近在の村々でも新しい盆踊りが、古いものに替つてゆきつつあるようです。
ハー
盆はナ ヨイサ
盆はうれしや、別れた人の
アラセ ヨホホイ
晴れて今宵は逢ひに来る
ハー
打つかナ ヨイサ
打つや踊りの、太鼓の響
アラセ ヨホホイ
娑婆の苦労は消えてゆく
ハー
来たよナ ヨイサ
来たよ踊り子、山から野から
アラセ ヨホホイ
盆の踊りに馬で来た(豊岡町)
×
盆のヨー
盆の牡丹餅ちや 心から米だよ
米は米でも陸稲だよ
ヤツサカヤツサカヤツサカナ
樽番叩きはどうしたんだ
死んだか生きたか、沙汰がない
死んだら早桶買つてやる
早桶買つても死にてがない
そんなら私が、死んでやる
ヤツサカヤツサカヤツサカナ
ァー
ヤツサカ叩いて子が出来た
矢張りその子もヤツサカぢや
ヤツサカヤツサカヤツサカナ(鶴瀬村)
私の幼い頃も盆といへば八木節の樽叩きの音が聞えて来ました。川越の盆踊り大会や、近村を集めた芸能大会も、戦後のお盆を賑やかにしたっことですが、今後も折々はさうした催しが行はれることは民芸保存の上からも望ましいことでせう。
室町時代から戦国時代にかけて、僧侶や文人などで地方に下向するものも多く、地方の武将たちのあいだにも短歌や連歌が愛好されるようになった。「川越千句」は文明元年(1469)春、太田道真が河越城に心敬や宗祇らの著名な連歌師や禅僧らを交えて連歌会を催したときの作品である。この会の主座となった心敬は十住心院の僧侶であり仏典や儒学に通じ、和歌・連歌に長じて著書も多い。また宗祇は、応仁の乱がおこってから西行の跡を慕って諸国を遍歴して諸所に連歌を伝播し、「吾妻問答」「老のすさみ」の著作のほか、勅撰集に準ずべき「新撰菟玖波集」を選んだことは広く知られている。つぎに掲げるのは「川越千句」の一部であるが、連歌師や道真のほかに武士たちも参加しており、いかに歌道を求める者が多かったかがわかる。
梅園に草木をなせる匂ひ哉 心敬 庭白妙の雪の春風 道真(太田) 鶯の声は外山影さえて 宗祇 野辺にうつれる道の春けさ 中雅 さても猶春は遠山雪ふりて 長敏(鈴木) かすむいづくぞ武蔵野の原 道真(太田) 夕日影入間の里は見えわかず 満助(鎌田) いさよふ月も夜をや侍らん 修蔵(大胡)
太田道灌も父道真にまさる文学者であり、僧万里集九を招聘して学問の友としたことが「梅花無尽蔵」に書かれている。また飛鳥井雅世・雅親について和歌を学び、その技は後花園天皇に賞賛されるほどであったという。文明六年(1474)に道灌は江戸城において歌会を興行している。これが有名な武州江戸歌会≠ナ、判者は十住心院心敬、講師は平盛、連なる面々は道灌をはじめ資雄・資常・資忠の太田一族および増上寺長老音誉や木戸孝範らの十七人であった。この木戸孝範は堀越公方政知の一族で、政知とともに関東にくだって道灌の民政顧問をつとめた人と伝えられている。
なお道灌は文明十八年(1486)六月、万里集九とともに越生に隠棲した父道真を訪ね、その居館自得軒で詩歌の会を催した。その翌月道灌は非業の死をとげた。集九はその後もしばらく江戸にいたが、その間、越生の道真を訪れたり、道灌の子太田資康を菅谷の館(嵐山町)に訪ねたりしている。
県内を訪ねた文化人には右のほかに、道興准后や宋長らがある。道興准后は関白房嗣の子で聖護院門跡となった人であるが、文明十八年(1486)武蔵に来遊し入間郡大塚(川越市)の十玉坊に滞在して付近を巡遊した。その間、上戸(川越市)の上杉氏館で催された連歌の会へ出向いたり、地侍のまねきに応じて歌会を開いたりしている。道興の来遊は県内における本山派修験の教勢拡大に大きな影響をあたえたといわれるが、その他の教養面でも、県内の武士たちに大きな影響をあたえたことと思われる。
(後略)
拝金主義を批判
杉浦翠子(本名翠(すい))は、明治十八年(1885)五月十七日、川越町大字川越(現川越市幸町)に、父岩崎紀一、母サダの三女として生まれた。家業は提灯屋であった。父は、明治十一年(1878)に川越に設立された、埼玉県における最初の第八十五国立銀行に勤務していた。母は川越の富豪から金を借りてそれを貸し、その歳取(とり)で子供の教育費を捻出した。
明治二十年(1887)翠子二歳の時に父が、翌年母が死亡し、祖母ミキに育てられた。川越高等小学校卒業後、東京赤坂の次姉てるの嫁ぎ先に身を寄せ、国語伝習所に通った。その間、次兄桃介が慶応義塾卒業後、福沢諭吉の二女と結婚し、福沢に入籍した。(杉浦翠子『杉浦翠子全歌集』)。
明治三十七年(1904)、翠子は一九歳で画家の杉浦非水と結婚した。翠子の経済的に恵まれた家庭生活を裏づけるように、明治四十二年(1909)の『女子文壇』には、裕福な身分の人妻の自己陶酔的な気分を書いた日記文「初めて丸髷(まるまげ)に結ふ」(十一月増刊号『家庭日記』)が掲載されている。
その四年後の大正二年(1913)、翠子は前述の日記文とは一転して、拝金主義を痛烈に批判した一文「貴婦人に與ふる書」(『女子文壇』四月増刊号「婦人文藝」)を発表した。
この文の中で翠子は、「金力に輝く」婦人を「貴婦人」と皮肉って呼び、貴婦人は「何でも打算的で二萬圓の金持は一萬圓の人より豪(えら)いやうに單純な観察で、物質より貴(たっと)いものは外にないものゝやうに、一にも二にも富の話」ばかりすると批判した。貴婦人の部屋を「御調度御飾物の悉くが俗悪紛々で、何ひとつ純藝術品といふのはなく。まあ金貨の變形體(へんけいたい)を見るとでもいふのでせうか」と冷笑した。そして「飽く事を知らない物質の榮華に代へる富を、もう少し公共的事業にでも使ふとかしたら如何(どう)でせうか」と、今の世をも見越したような、痛快な提言を投げかけた。
外面的には恵まれた家庭婦人のように見えた翠子の内部で、外面的な豊かさと内面的な豊かさとの葛藤が既に始まっていたのである。
歌の道へ
結婚後一二年目、三一歳の大正五年(1916)に、翠子は斎藤茂吉に師事し、『アララギ』に入会した。その動機を、次のように書いている、「四五年前の大患(注・明治三十九年パラチフスに罹患)の後の私の体はどうしても、元の健康に復す事が出来なくなりました。薬を離れては一日も生きることの出来ない虚弱な肉体を持つ、私の眼に映る凡の物は何ひとつ悲みの種でないものはありませんでした。私の慰むべきところ私の行く可き道がほとほとこの世に無いもののやうに、遣瀬ない生を倦みあぐんだすゑに、私は歌を作ることを覚えたのでありまし」(第一歌集『寒紅集』大正6)と。
虚弱な身体の上に、翠子は、子どもにも恵まれなかった。その悩みを自分の内奥にかかえ込み、自分の存在感にすら、疑念を感じていた。これらの悩みと向き合った歌を二首紹介しよう。
眠り薬飲みて寝(い)につくそのひまもかなしき君のおもほゆるかな (『寒紅集』大正5)
子を産まねば容(い)れられざらむ命かも我れをみなこの生きを疑ふ (『アララギ』大正10・2)
「アララギ」退会
大正十年(1921)、アララギ歌人原阿佐緒と石原純との恋愛問題が公にされた。この問題に関して、翠子は、三ケ島葭子とは立場を異にする「原さんへの公開状」を発表した(『新家庭』大正10・9)。翠子はこの公開状の中で、「あなたはいつも石原先生から道ならぬ戀(こひ)を訴えられて困ったと被仰(おっしゃ)るけれど、すこしも困る場合と思はれません。無い袖は振られぬ。といふはっきりした返詞(へんじ)もありますが、あなたのお心持の一が二で容易(たやす)く解決のつく、非常の場合であったらうと思ひます」と異存を述べた。そして「心ためらひつゝ許すなどといふのは、娼婦よりまだ卑しいのみか、さうしたお言葉は實に傲慢な淫婦か浅墓(あさはか)な見榮としか思はれません」と、阿佐緒を手厳しく非難した。
この件の翌々年の大正十二年(1923)、アララギ同人の藤澤古實は、『アララギ』の批評欄で、同年四月号に掲載された翠子の短歌を「一種の狂態をあらはしたに過ぎなくなる」(『アララギ』大正12・5)と評した。これは、一種の退会勧告であった。
大正十二年十二月、翠子は、ついに「アララギ」を退会した。後に翠子は、古實の批評に対して「まるで『攻撃』にもひとしいあの物の言方に、どこに指導のあとがあるでせう。残念ながらあの批評は私の不明を開く導火線にはなりませんでした」(「巻末の言葉」第三歌集『みどりの眉』大正14)と述懐している。
翠子が自ら結社をつくり、本格的に活躍するのは昭和に入ってからである。
「主知的短歌」を提唱
大正十二年「アララギ」退会後、翠子は「師の精神を継がずに、ただその形骸ばかりを追ってゐる、末期職人根性にはなりたくない」として、「独立不覇の精神」(歌集『朝の呼吸』巻末の言 昭和三)を貫いた。
昭和八年、長編小説「彼女を破門せよ」を発表したあとで、歌誌『短歌至上主義』を創刊、主宰した。その頃から翠子は、主知的短歌論を唱え、時代性、社会性に着目し、批判精神をもった短歌を作るべきだと提唱した。これによって翠子は、「子規派の『ありのまま』詠風、即ち写生、絵画的、記述的、日記的、報告的短歌」(歌集『浅間の表情』巻末感想記 昭和十二)と一線を画した。そして、師であり、アララギの先輩歌人であった斉藤茂吉、島木赤彦の短歌を、自らの主知的短歌と対照して、主情的短歌とした。
このように当時の歌壇から孤高を保ち、社会事象に目を向けた短歌論を展開していく途上で、翠子は、歌壇の中の女流歌人の置かれた状況を否が応でも知らされた。そして、次のように、男性歌人のみならず女流歌人も含めて、その作歌姿勢を鋭く揶揄した。「男と同じ道を歩き、女の歌ふべき境地以外に進出飛躍して、男に負けまいとした私は、その為に虐められたこと一通りではありません。女の境地といふのは、母、妻、恋人などを歌ふ、即ち母性愛や貞女ぶりを歌って見せるのです。(略)かやうな歌を作れば男たちは褒めるものです。(略)現代に於いて女流歌人などといふものは歌などいいかげんにてよろしく、それよりも美貌と名流の地位ある社交夫人で名を宣伝する方法を考へる方が一流歌人になれるのであります」」(『浅間の表情』巻末感想記)。
『浅間の表情』から二首紹介しよう。
この山の活けるを思ふ月明に炎を孕む煙見えつつ 昭和八年
職を求めて村より村に移住する鮮人土工の群れゆく信濃路 昭和十一年
戦争と歌壇の変化
昭和二十一年(1946)、翠子は、敗戦百首歌集として、ザラ紙の謄写印刷『目の黒点』を刊行した。その巻頭言は、「日本の戦争は浪漫派の短歌の駄作のようなゆき方をした。(略)つまり現実の力、実際の力が不十分であって、大きなことを夢みたから失敗し、誇大妄想狂の誹りを受けるに至ったことは悲しむべきである」と、あくまでも主知的短歌論者の立場を踏まえて書いた。
雉子鳴けばすなはち雉子が食べたしと飢ゑたる人の耳目はあはれ
アメリカ兵につと笑ひて煙草を見せる与ふるにあらず売らむといふなり
昭和二十七年(1952)、翠子は孔版印刷で歌集『生命の波動』を出版した。そしてそのあとがきに「この歌集『生命の波動』の異色といふのは私の生活逆転の相が歌はれてゐることです」と述べ、さらに自分が「歌あそび」をしてこられた「背後の経済力」を戦争で全部失った、とも述べた。翠子は実生活面では、婢(はしため)(女中)も手離し、今までやったことのない家事も経験し、「生活を歌った」歌も書くようになった。
米を洗ふ五本の指の水づきに冬こそ来れ爪くれなゐに 昭和二十四年
婢が帰るといへば泣いてゐしそんな涙は時代が殺した 昭和二十六年
この間、昭和二十二年には、戦前の『短歌至上主義』を『短歌至上』と改名して復刊した。昭和三十五年二月十六日、渋谷区伊達町の自宅で病没した。
男子(おのこ)らと詩魂を競う三十年みちの小石も我が歌に泣け 『短歌至上』昭和三十一年
『赤い鳥』には「弱い子」が頻繁に登場する。社会の下層にあって虐待される子、運命に流されるままの無力な子、心の弱さゆえに事件を引き起こして葛藤する子……、主人公のもつ何らかの弱さや弱者の悲哀が作品の中心的テーマとなる童話は二三八編のうち七三編あり、約三割を占めている。
子どもたちの示す「弱さ」には、大きく分けて外的・状況的要因によるものと、子ども自身の内的・主体的要因によるものとの二種類がある。前者はさらに、貧困家庭の子どもや孤児のように社会的弱者の境遇にある場合と、親子や師弟、友だちなどの人間関係において子どもが弱い立場に立たされている場合とに分けられる。また後者は、子ども自身が内面的・精神的に弱い場合と、病気など身体的に弱い場合とに区別される。
社会的弱者として描かれた子どもには、宇野浩二の「天国の夢」(大正十二年七月)の三太郎や、下村千秋の「曲馬団のトツテンカン」(昭和三年九月〜十一月)の幸吉、きえちゃんがいる。「天国の夢」の三太郎は鍛冶屋に拾われた孤児で、朝から晩まで働き通しに働かされ、夢のなかでまで親方に眼を潰されて虐待される。そこでもう夢だえ見たいとは思わず、ただ寝ることだけを楽しみにするようになる。また幸吉も鍛冶屋の小僧で、辛い日々に耐えかねて、ついに逃げ出して曲馬団に入る。彼はそこで象使いになり「トツテンカン」と呼ばれて人気者になるが、親切にしてくれた軽業師の少女のきえちゃんは、芸をしくじって食事を減らされ、衰弱死してしまう。これらの作品では、子どもたちは大人の下で働き、社会や大人の圧力に屈するだけの、もっとも弱い存在として描かれている。
辛い境遇にあって、健気に生きている子どもたちも、しばしば登場する。たとえば細田源吉の「都へ出てみたら」(大正十四年六月)は。そんな少女が主人公である。おときは母を亡くし、父は働きに出て留守のため、いつも弟に自分の空想で夢のような東京の話を聞かせてやっていた。やがて現実に、東京に出て下女奉公をすることになるが、忙しい日々のなかでは弟からの手紙をゆっくり読む暇もない。弟は姉が東京の楽しさに自分への手紙を書くのを忘れているとなじるが、おときは働き疲れていて、厳しい東京の生活を書き送ってやることもできない。父宛てに「ごぶさたいたしました。お父さまも平ちやんもお丈夫でなによりです。わたしもよく働いてゐますからご安心ください。なにごともしんぼうしろとお父さまがおいひでしたから、しんぼうします……」という簡単な葉書だけを書く。
実際、当時の「弱い子」の現実は、非常に過酷なものであった。子どもたちは、農村の貧困を背景に年季奉公のかたちで盛んに人身売買の具にされていたし、急速に成長した資本主義の要請に応え、都市では年少労働者として劣悪な環境の工場労働にかり出されてもいた。さらに巷間では子さらいや貰い子殺しなどの子どもの虐待事件が連日のように新聞を賑わせていた。大正期のそのような社会を背景にした、社会的弱者としての「弱い子」は、先に述べた「天国の夢」や「曲馬団のトツテンカン」は読み物的な要素が強いが、「都へ出てみたら」のおときや。同じ細田の「六やと坊ちやま」(大正十四年四月)の六蔵のような子どもたちは、現実に少なくなかったに違いない。
十歳の六蔵は、父親の日雇い賃金の足しにするため、冬のあいだ、お屋敷の二歳年下の坊ちゃまをおぶって小学校への送り迎えをしていた。だが、春になるとその仕事も失う。ある日、駅で久しぶりに坊ちゃまに会い、六蔵は彼をおぶってお屋敷に送り届ける。坊ちゃまは喜んで一緒に食事をしようとするが、お母様に六蔵はお勝手で食べるようにいわれ、おまけに坊ちゃまの洋食と違い六蔵のは女中用の貧しい食事である。坊ちゃまは怒るが、女中たちもいいつけを守っているにすぎない。お台所中がごたごたし、六蔵はその隙に逃げだして、ほっと息をつく。
(後略)