お福が、思いもよらぬ人と再会したのは、翌慶長十七年の初冬であった。
この年も、秋の深まりとともに大御所家康は、渡りの白鳥や寒鴨を求めて東行し、閏十月十二日に江戸城西丸へ着駕した。
数日の休養の後、茶会を催したり、浦和・古河・忍の方面まで気ままな狩りに興じている様子であった。
旅先の家康から、お福に使者があったのは十一月一日の夕方である。
使者は、駿府から随従してきている、顔見知りの松平正綱であった。長四郎の養父であり、直訴のときの陰働きの一人である。
「川越の喜多院へ参られたし」
という家康の口上を伝え、
「明朝は夜明け立ちになりまする」
と、付言した。
江戸から川越まで十三里。払暁に立てば、日没前に着く道程であった。
「川越へ……。はて、どのような御用でありましょう」
「上様は、ただ今、忍城を宿所となされており、明日、川越へ発たれまする。喜多院にて何か慶賀のことがあるやに漏れうけたまわりまするが、くわしくは存じませぬ」
喜多院とは、今年の四月まで、星野山無量寿寺北院と号していた古刹である。家康は、この天台宗八檀林の一つを関東天台宗の本山に決めて、喜多院と改称させ、老朽した堂宇の修築を急がせていた。
慶賀とは、その落成の祝いであろうか。
(それにしても……)
真意がわからないまま、翌早朝、駕籠の人となった。
松平正綱が手勢を率いて、護衛と案内をつとめる。戦乱が収まって久しいとはいえ、都邑を離れれば、まだ野伏せりや盗賊のたぐいが出没するからであった。
川越路は、武蔵野平原をふみ固めた細道で、左右に水田は少なく、わずかな畑と雑木林がどこまでも続いている。途中、ところどころで、火煙が遠望された。焼き畑づくりの野火である。
「伊勢物語にございまする野火止め塚の由来をごぞんじでしょうか」
野火留という聚落で休息したとき、お福は松平正綱に話しかけた。
「伊勢物語でございまするか。手前、いたって無骨者、平家物語ならば少々ひもといたことがございまするが」
才女の聞こえ高い将軍家世子御傳役に、正綱は恐縮している。
「ほんに、伊勢物語は軟弱なものゆえ、武人には似つかわしくございませぬな」
お福は小さく笑い、野火止の一節を語った。
昔、ある男が、懸想した娘を親から奪って武蔵野へ逃げこんだ。だが、盗人として捕り方に包囲される。男は娘を草むらにかくして、姿をくらました。
捕り方が、いぶり出しのため草原に火をつけようとしたところ、娘が飛び出して哀願し、一首詠んだ。
武蔵野は けふはなやきそ 若草の
妻(夫)もこもれり 吾もこもれり
役人は感じ入って、二人を許した――
「その、野火止めの塚は、どこか、この近くにありまする平林寺という禅寺の境内に残っているはずでございまする」
「ははぁ、なるほど……」
正綱は、まじめ顔でうなずいたが、目を冬枯れの草原へ移し、
「手前は、この川(河)越路をたどるときは、やはり、河越合戦を思いうかべまするな。天文十四年と覚えまするが、上杉管領家と古河公方家の連合軍八万余騎を、北条氏康の八千の兵が破った夜戦でござる。主戦場だったと伝わる東明寺の境内には、大きな首塚が残っておりまする」
「ははぁ、さようでございまするか」
今度は、お福が浮かぬ顔でうなずいた。
川越喜多院には、黄昏前に着いた。
山門のあたりに大勢の人が集まっている。その中心に、短躯肥満の家康と長身の老僧、それに公家が数人、四脚門の額とりつけ作業を見上げていた。額は「星野山」と大書されてある。
「おや」
駕籠からおりたお福は目を凝らした。
公家の一人が、三条西実条に似ているのである。色艶のよい顔がふっくらと変わっており、全体に肉がついて重々しい風格であるが、猶兄の実条にまぎれもない。
大御所がわざわざ川越まで自分を呼び寄せたのは、このためだったのか、とお福の胸は高鳴った。
正三位中納言であるが、来春早々、大納言に昇進するはずだという手紙を受けとっている。文通は絶やさないが、一別以来、八年の歳月がたっていた。実条は三十八歳になっているはずである。
(ご立派になられて)
四つ年下の自分は三十四歳になっている、と、あらためて思い知らされ、お福は急に容貌の衰えが気になり、足が前へ進まない。
(殿方は年をとるごとに味わい深くなられるが、女子は概して醜く老いるもの)
お福らしからぬこだわりは、少女のころ、ひそかに実条を恋慕したことのあった名残であろうか。
松平正綱の復命で、家康はふりかえり、駕籠のそばにたたずんだままのお福を笑顔で手招いた。
「よう来られた。京都の上皇(後陽成上皇)から御宸筆の山号額が贈られたのでな、早速、お掲げしたところじゃ。明日、奉戴の法要がおこなわれる」
語った家康は、なつかしそうに微笑している三条西実条をちらっと見やって、お福に、
「驚いているようじゃが、三条西卿は、御勅額を奉じてまいられた」
御城を離れているせいか、家康は気さくである。心身ともに健康のように拝される。
「お福どの」
実条のややかん高い声は変わらない。
「そなた、昔と少しも違わぬのう。いや、かえって若返ったように見ゆる。江戸の水が合ったようで、重畳」
「あれ、まあ、実条さま……」
お福は、まっ赤になって身をくねらせた。
「これは、どうじゃ。女豪傑の色っぽさよ。積もる話は、のちほど、ゆるりとなされよ」
家康は上機嫌である。
「乳母どのを、遠路招きよせたのはな、今一人、昔のそなたをよく知るという御仁に、早よう会わせたかったからじゃ」
その言葉が終らぬうちに、住職らしい面長の、魁偉といえる骨太の矍鑠とした老僧が、
「お福どの、久しいのう」
と、目を細めている。
「はい……」
お福は、長身の老僧を仰ぎ見て、しきりに思い出そうとする。
家康が愉快そうに笑って、
「乳母どのが、今菩薩とうやまわれる天海僧正と知りあいであったとは、それを聞いて、わしも驚いたものじゃ」
「天海僧正さま……」
お福は、焦る。
大奥にとじこもっているお福は世相に疎くなっていた。だが、天海僧正の高名は耳に入っている。僧正は、徳川家の関東入国前から、星野山無量寿寺の北院に住していたようであった。数年前に、総本山の比叡山延暦寺の探題職に任じられ、南光坊に兼住して仏教界の浄化にあたっているとも聞く。
家康は、この南光坊天海の人柄と法話にことのほか感銘し、
「天海僧正は人中の仏なり、恨むらくは、相知ることの遅かりしを」
と、側近に嘆いたという逸話も、お福は思い起すことができた。
しかし、そのような高僧と、どこで知り合いになったのであろうか。心当たりは、全くない。
お福の困惑に、天海僧正は底力のある声で笑った。気持のよい哄笑である。
「無理もない。わしのほうは、よく知っておるが、お福姫は、まだ四、五歳じゃった」
(四、五歳……)
お福は懸命に幼時の環境をよみがえらせようとする。
(坂本城……粟田口……)
「さよう、坂本城。琵琶湖にうかぶ美しい城であった。落城の折り、女子供らは舟で逃れ出たのじゃが、わしは、お福姫を肩にのせてな……」
「そのお坊さまは、髄風さま。亡き母から、くりかえし聞かされました」
叫ぶようにお福は言った。
「その髄風が、この天海じゃ」
天海僧正は大口をあけて笑う。
「あ、あ、あ」
お福は絶句し、土下座した。
「これ、これ、着物が汚れるではないか」
天海は身を屈め、お福を立たせようと持ち上げたかに見えたが、そのままひょいと、重ね着でさらに肥った大女を自分の肩にのせたのである。
一同が度肝をぬかれた怪力であり、傍若無人、無邪気きわまる所作であった。
「こうしての、舟を押して、湖を渡ったのじゃ」
その恰好をしてみせて、大笑いである。
「あれ、あれ、お許しを、僧正さま……」
お福は袖で顔をおおって哀願している。
「陸へ上がったところで、槍ぶすまに迎えられ、黒田官兵衛どのに誰何されもうした」
「ほう、如水に。そういえば、坂本城攻めに加わっていたようじゃな」
家康もあっけにとられていたが、すぐに平常にもどり、今は亡き智謀の将の名に興味を示した。
「近々、長政に会ったら、話してやらずばなるまい。そのほうの父は、今をときめく天海僧正と竹千代どのの母代を脅したのだ、とな」
家康も愉快そうな笑いをたてる。
長政は、晩年に如水と号した黒田官兵衛孝高の嫡男で、筑前五十二万石の太守である。
「その黒田官兵衛どのと問答しているうちに、湖の風でお尻が冷えたのでごじゃろう、お福姫がの、わしの肩で少水をたれ流しおった」
お福の臀部をたたいての哄笑である。
「あれーっ」
身も世もない声をあげて倒れかかるお福を抱きとめて、
「つい、昔話に熱が入ってしもうた」
悪びれず、地上へおろす。
お福は、うずくまったままで、泣きじゃくった。
天海僧正は、平気な顔で、
「さあ、さあ、斎(食事)の用意ができているころじゃろう」
と、まだ呆然と立っている三条西実条をはじめ、賓客をうながして、客殿のほうへ向かう。
家康が、お福のそばにしゃがみこんで諭した。
「お福、僧正を恨んではならぬぞ」
「は、はい」
「そなたも、これから、好むと好まざるとにかかわらず、権勢を強めてくる。将軍家世子の母代ゆえに、な。権力というものは、魔物じゃ。自分で自分を滅ぼしてしまうことにもなる」
家康は、思い出して笑いをかみしめた表情で、
「この世に、弱味をにぎられている恐い人がおる、というのは、ありがたいことじゃ。そう思わねばならぬ。僧正は、そなたの行く末を見透されて、温かい説法を垂れなされたのじゃ。わかるな」
「はい、肝に銘じましてございまする」
お福は端座して平伏した。
今日は慈父のような家康である。
翌十一月三日、伽藍修築落慶と勅額奉戴の祝いを兼ねた大法要が営まれた。
そのあと、自然の野趣を残した広い庭園で、茶会が催された。
大御所家康と上皇使者・三条西実条が主客であるが、天海僧正は集いくるものは貴賎を問わず招き入れたので、にぎやかな茶の湯となった。
その天海僧正の姿を目で追うお福は、人の縁の不思議さに夢心地であった。七十七歳になっているという僧正の、頑丈な肩の温もりが、まだお尻に残っている。
紅葉が散る季節である。彼方の築山が落ち葉で赤と黄の段だら模様をえがき、それが冬麗らの光に映えて、お福の目にはまぶしい。
八
川越松平家の忍び組三組のうち、江戸の組頭山下領右衛門、中馬伊右衛門ほかふたりからなる二組は、山伏に変装して上州路へむかった。高崎から三国峠を北に越えて越後長岡、新潟湊を経由し、海ぞいの庄内街道をゆく手はずである。
これとは別に布沢太兵衛・丹波多三郎組は、行商人となって福島までは奥州街道、米沢までは米沢街道をゆき、その先の赤湯から鶴ヶ岡街道に入って庄内藩の城下町鶴ヶ岡をめざすことにした。
隠密御用の旅はもし先方との間に悶着がおこり、身もとが露見したなら殺されて無縁仏あつかいされてもやむを得ない。そんな危険と背中あわせの旅だけに、一網打尽となることを避けてあらかじめ二手に別れておく必要があった。
武士が公用の旅に出る場合、川越松平家の者ならば、
「松平大和守家中」
と書かれた木製将棋の駒形の往来切手(通行手形)を身につけてゆけばよい。
太兵衛と多三郎もこれを持って出府してきたのだが、隠密御用とあっては、身もとを明記した往来切手を持ってゆくわけにもゆかない。
「では、この書式を真似て、それぞれ往来切手を作っておけ」
と山下領右衛門が三十日のうちに配った見本には、麻布飯倉六本木町の町役人の名義でこう書かれていた。
一、この□と申者、生国は□国□村、親は□にて、たしかなる者にて御座候。このたび日本廻国のためまかり出で申し候。国々お関所、相違なく御通し下さるべく候。
一、この者もし相患ひ候ひて、何国にても相果て候はば、その所においてお葬ひ下さるべく候、この方までお届けには及ばず候。宗旨は代々□にて、御法度の切支丹にては御座なく候。
一、右の者につきいかようのむつかしき儀出来つかまつり候とも、われらいづ方へもまかり出で、きっと埒あけ申すべく候。後日のため、往来切手くだのごとし。
空欄を思いおもいに埋めて往来切手を偽造しろ、というのだった。
六本木町は、徳川四代将軍家綱の時代には老松が六本しか生えていなかったというめだたない町方支配地で、そんなところの町役人の名前の真偽など、近在の者以外には察しようもない。公儀お庭番も諸藩の忍び組も、往来切手の発行元まで調べる者などあり得ないことを前提として隠密御用に旅立つならわしなのである。
(後略)
一
(前略)
「外記よ、ちと心配なことがある」
家慶は深編み笠をわずかに上げた。
外記は無言でうなずく。
「越前が三方領地替の実施を上申してきた」
越前とは、老中水野越前守忠邦のことである。
三方領地替とは出羽庄内藩酒井忠器、越後長岡藩牧野忠雅、武蔵川越藩松平斉典のあいだで領地替(国替え)をおこなうというものである。すなわち、酒井家を長岡へ、牧野家を川越へ、松平家を庄内へ転封させる。
この計画はもともと、川越城主松平斉典の懇願からはじまった。斉典は、嫡子典栄を廃嫡までして、第十一代将軍で大御所となった徳川家斉の二十五男斉省を養子に迎えた。
それには、逼迫した藩財政事情が背景にあった。川越藩は、元来領内の土地が痩せ、米や作物が実りにくかった。そのうえ、文政三年(1820年)以降、幕府から相模湾防備の夫役を負担させられた。これに、天保の饑饉という未曾有の大飢饉が追い討ちをかけ、四十三万両におよぶ借財を背負ったのである。
松平斉典は傾いた藩財政を立て直すには、肥沃な領地への転封以外にないと考えた。そこで、豊かな米どころを領内にもつ庄内への転封を、斉省の母お以登の方を通じて家斉に願い出たのだ。
家斉は側室お以登の方の願いを聞き入れ、水野に領地替を検討するよう命じた。
水野は庄内藩、川越藩という二つの藩の領地替では、世上に川越藩への贔屓が露骨に過ぎる印象を与えると考え、長岡藩も加えた三方領地替を計画した。
ところが、三方領地替を実施すると庄内藩は領地十四万石が七万石に半減してしまうことになる。このため、世論は庄内藩に同情的だった。
また、庄内藩の領民は酒井家の善政を慕い、新領主松平家の苛烈な年貢徴収を恐れ、領地替反対で一致団結し、前年の暮れからこの四月にかけて、たびたび嘆願書をたずさえ江戸に上ってきた。
庄内藩への同情、領民の歎願運動に加え、家斉、斉省が死去したことをきっかけに、家慶は三方領地替中止を考えている。
「越前は公儀御庭番を庄内領に派遣するよう求めてきた。越前のねらいはわかる。自分も配下の者を隠密として派遣し、領内で騒動を起こして御庭番の目に入れようという肚じゃ」
「水野さまは、庄内領不穏、という報告を御庭番に持ち帰らせ、酒井さまのご失政を転封の口実になさるのですね」
「そうじゃ。酒井にとっては領地半減となるこたびの転封、それ相応の落ち度がなくては、天下に示しがつかん。越前は酒井の酒田湊の管理に不行き届きがあったと理由をあげておるが、とりたてて不祥事など起こしておらんことは天下周知の事実じゃ。酒井に同情の声があがっているのも、なんの落ち度もなく領地半減されることの理不尽さゆえ」
「巷でも水野さまのごり押し、と評判が立っております」
「越前としては、庄内領で一揆でも起これば、またとない口実となる」
家慶は唇を固く結ぶと、外記に鋭い視線を向けた。外記の目に緊張の色が浮かぶ。
「外記、御庭番といっしょに庄内領へおもむき、越前の隠密の動きを見張れ。そして、隠密が不穏な動きをいたせば、かまわん、排除せよ」
(後略)
当時の江戸八百八町は、人口百万人とも百二十万人ともいわれた世界最大の都市である。したがってその排泄物の量たるや、厖大なものであった。しかしこれこそ、江戸の近郊農民たちにとっては天の助け、江戸市民の喰べるおびただしい量の野菜をその市場へと送り込むのには、どうしてもそれにみあうだけの肥料が必要だったのである。
しかも江戸市民の下肥は、喰べるものに贅沢をしているだけあって、すこぶる優秀だ。またそれは、江戸の中心部に近ければ近いほど優秀とされ、当然のことながら、長屋の下肥よりは武家屋敷の下肥と、その値段も何段階かにわけられていた。そして武家では、各屋敷の三太夫、家令などが、下肥汲み取りの権利を握っていて、農民に年何両と金をおさめさせていた。
長屋の共同便所の下肥は、その家主である大家に料金が払われた。荒川へと流れる新河岸川は、関東奥地の物資を江戸に運ぶ江戸―川越間の重要な水路であり、千住大橋の近くに問屋が並んだのもその影響だ。
当時川越の人々の間で、「江戸のやつらは、川越の恩を尻で返す」というはやり言葉が囁かれていたように、江戸に物資を運んだその川越船が、帰りに江戸市民の下肥を積んで川越に戻った。葛西方面の連中は。京橋、芝浦まで隅田川を下ったり、中川を下って湾内に出る。品川に船を寄せて、そこから大量に積み込んでは葛西方面に運搬した。一艘いくらという値段で、農民に売るのである。また、水路を使わない方面の農民たちは、大八車や馬の背に乗せて、貧しいものは天秤をかついだりして運んでいた。
こうして江戸の下肥は、各近郊農民たちに肥料として最高の下肥として売られていたわけだが、この上等な下肥を、江戸近郊農民ばかりか、各方面の農民までが争って買い入れるという状況にまでいたった。そうなれば当然、下肥の値段は上がりはじめる。寛政の初めで一艘三分、やがて天保には一両三分から二両二分と、うなぎのぼりに上がっていったのであった。
浮世絵界に東洲斎写楽が突如として登場するのは寛政六年五月。百数十種におよぶ浮世絵を残しているにもかかわらず、活躍した時間はわずか九ヵ月に過ぎない。そして翌七年正月を最後に写楽は姿を消してしまい、その後の消息はいっさいわかっていない。
写楽はいったいどういう経歴をもつ人物だったのか、多くの説が出ている。もっとも有力だったのは能役者・斎藤十郎兵衛説。しかし残された過去帳(徳島市本行寺)が後世のものであることが判明するなど、今日では否定的な見方が強い。以下主なものを挙げると、同時代の画家の変名説(丸山応挙、葛飾北斎、歌川豊国、酒井抱一らがその候補)、写楽の浮世絵の版元だった蔦屋重三郎自身が描いていたという説、あるいは十辺舎一九、山東京伝といった作家がその正体という説など、じつにバラエティに富んでいる。
別の画家の変名説は、筆使いの異なる画家が多く、また、版元・蔦屋と関わりがあったのかという点でも疑問符がつく。そこで蔦屋自身が描いたいう説が浮上するのだが、しかしそもそも彼が絵を描くことができたのかどうかがまず問題だろう。蔦屋と関わりのあった一九や京伝、とくに京伝は絵にも才能を見せたのだが、彼の場合はなぜ変名を使ったのかが不審点になる。このように各説一長一短があり、まだ定説はない。数年前に、他の浮世絵師の画の版木の裏に写楽の浮世絵の彫られたものが見つかり話題になったが、もとよりこれ自体は正体探索の証拠になるものではない。この他、小説ではさらに怪説もあり、清水義範『黄金の夢』には、外国人画家シャイロック=写楽説も登場する。
みずから「珍説・奇説の類い」と言うのは松本清張。彼の推理では、写楽は梅毒患者だったのではないか、という。つまり梅毒によって視神経がおかされ、その結果写楽独特のゆがんだ描線、デフォルメされた人物像が生まれた、というのである。写楽が十ヵ月で姿を消したのも、梅毒で人知れず没したためという。遊里が発達し性病も蔓延していた江戸時代だけにあり得る話ではあるが、視神経を患うと人物があのように見えるのか確認しようのないところだが……。
結局のところ決定的な手がかりが残っていない今日、清張も述べているように「写楽」は『写楽』でよいのです。具体的にはその画を見ているだけでよろしい。そこに『写楽』が存在しているからです。その不明な経歴を無理に詮議することもない。『科学的』と称して僅かな資料を拡大してみせ、その上に解釈を歪めることもありません」というのが我々にとって正しい態度なのかもしれない。(杉下元明)
早舟と呼ばれる、船底が浅く平たい高瀬舟には、すでに三十人ほどの乗客が乗り込んでいた。
長七は船縁に近い一角に座った。いかにも、人に話しかけられたくないという風に、他の乗客に背を向け、じっと隅田川の川面を見つめている。
長七のすぐ近くに、小粋な年増が座っていた。ほこりよけに、手ぬぐいを米屋かぶりにしている。それが妙に似合って色っぽさが増し、舟の中の男たちはみな無遠慮な視線を投げかけていたが、長七だけは女の存在すら気づいていないようだった。
舟の中に座ると同時に、治助がさっそく竹の皮の包みを開き、声をかけた。
「旦那様、おひとついかがですか」
柏餅だった。お熊が気をきかせて持たせたのか、それとも先ほどどこかで買ってきたのだろうか。
しかし、長七は一瞥しただけで素っ気なく、
「いらん。おまえが全部食うがいい」
そして、再び視線を川面に移した。
治助もすでに長七の無愛想には慣れていたから、べつに驚きもしなかった。長七は特に不機嫌なわけではなく、ただ考えごとに集中したいだけなのである。
それがわかっているだけに、治助はあっさり主人を見捨てると、今度は隣の乗客に愛想のよい声をかけた。
「どうだね、ひとつ」
「おや、これはありがたい。では、遠慮なく」
風呂敷包みと柳行李を前に置いた行商人らしき男が、柏餅に手を伸ばした。
そしてさっそく頬張りながら、
「おまえさんは、どちらまで」
「おらは千住までなんですがね、おまえさんは」
「千住ならすぐだ。あたしは川越まででしてね、今晩はこの舟で寝ますよ」
男は笑った。話し相手ができてうれしそうだった。
もとろん、治助もよい話し相手ができて満足そうだった。
袖をつめた印半纏を着た船頭たちの動きがあわただしくなった。まもなく出発であろう。
竿を手にした四、五人の船頭は、みな三尺帯を堅く締め、足に夏にもかかわらず足袋をはいていた。船頭が年中足袋をはいていたのは、夏は船板が陽射しで焼けつくため。冬は凍った船縁で足を滑らせるのを防ぐためだった。
「川越くんだりまで、この舟が行くのかね」
治助が感心したように言った。
「荒川から新河岸川をさかのぼり、舟で川越まで行けるんですよ」
柏餅をふるまわれた男は、舟でひんぱんに川越と江戸を行き来しているらしい。相手が船旅に慣れぬと見て、得意気に説明を始めた。
「川越街道を歩いても、江戸から川越まで十二里ほど。しかし、舟は夜の間も進みますからな。浅草花川戸から川越の新河岸まで、寝ているうちに着くと言うわけです。このため、川越夜舟と呼ばれていますがね」
川越と江戸との水上交通は、松平伊豆守信綱が川越藩主となり、正保四年(1647)、新河岸川の改修を行ない、船着き場を整備したことにより本格的に始まった。
岩淵水門(東京都北区)のやや下流で隅田川に注いでいる現在の新河岸川とは異なり、水上交通全盛時の新河岸川は、埼玉県川越市街の東にある伊佐沼を源流とし、全長約三十キロ、入間台地の東を蛇行しながら南下し、埼玉県和光市新倉の付近で荒川(隅田川の上流、現在の都内を流れる荒川は大正期に開削された荒川放水路)に注いでいた。
このため、川越と江戸は新河岸川、荒川、隅田川を通じ、舟で直接結ばれていたのである。
「舟にも四種類ありましてね。並舟は荷物を運ぶ舟で、そうさね、米俵なら二百五十から三百俵は積めましょうよ、日本橋箱崎町や浅草花川戸、両国、それに神田川筋の問屋をまわるから、特に川越への上り荷物の時は手間がかかります。早舟は四、五日で川越と江戸を往復し、乗るのは人間が主で、五十人くらいは乗れましょう。急舟は急ぎの荷物を運ぶ荷舟で、往復に二、三日しかかかりません。飛切舟というのもあり、これはすごい。今日川越を出て明日には川越に戻っているという速さ、日本橋の魚河岸で鮮魚などを積み込み、川越のお大尽に届けているというわけです」
男は、あたかも自分が飛切舟を利用しているかのように自慢した。
舟はすでに河岸を離れ、船頭は竿から櫓に切り替えていた。
「この早舟で、江戸から川越までどのくらいかかるものかね」
「下り舟では、川越の新河岸を夕方に出て、翌日の朝には千住、浅草の花川戸には昼ごろには着きます。もちろん上りの時は、もうちょいとかかりますがね」
男の饒舌は続く。
「川越から江戸への下り荷物は、なんといってもさつま芋、それに米・麦・雑穀などの俵物や、木材ですな。江戸から川越への上り荷物は、日用品や衣類、それに百姓が使う干鰯や下肥などの肥料です。下肥をたっぷり積んだ葛西舟まで川越に上って来るのですからな。そのため、あたしらはよく、『江戸のやつらは川越の恩を尻で返す』と言っていますよ」
話しを着ていた周囲の乗客の間から、笑い声が起きた。
船頭が帆柱を立て、帆が張られた。
船足が早くなった。
ふと長七のことが気になり、治助はさりげなく視線を投げた。そして主人の様子を見るや、愕然となった。
長七は袖にでも入れて持ってきたらしいサイコロを床に置き、人差し指で倒しては、じっと賽の目を見つめていた。真剣な表情は、ほとんど外界の音が聞えていないようであった。
その人品骨柄から、まさか博打打ちのやくざ者とは見えないであろう。それにしても、込み合った舟の中でサイコロをじっとひとり見つめている図は、とても正気の沙汰ではなかった。
治助はもうほとんど、泣きたい気分だった。
(一)
おふさは横坐りし、
「あたしは一生宿場女郎で客をとるさ」
と呟いた。歳ははたち、頬のふっくらした受口の女だった。
おふさは二階の窓に寄りかかり、じっと外を見ていた。街道の一里塚の榎と並んで欅も芽をふき春雨にけむっている。誰がうたうのか、千住節が風にのってくる。
千住女郎は錨か綱か
上り下りの舟とめる……
ここは江戸と日光街道を結ぶ宿場、人馬の往来が頻繁になった昨今、女郎を置く飯盛旅籠は五十軒あまり建ち並んでいる。
この宿が賑やかになりはじめたのは寛永頃からである。川魚の市場や野菜の市場も立ち、日光廟が建つに及んで大事な宿になった。
お上から飯盛女制度の布令は度々出たにもかかわらず、江戸末期まで宿場は繁栄を続けた。
おふさの耳に誰かが階段を上ってくる音が聞えた。
「姉さんおりてきてよ、あたいは客を呼びこめないよ」
妹のこきんという女郎だ。おふさはわれにかえった。
(四)
「お寒いでしょう、着物を貸してあげます。ご贔屓にしてくださいな。あたしはおふさと呼ぶ女郎ですわ」
そう言って戸棚から袷と帯をだした。帯の上に新しい犢鼻褌も一本置いた。着物は古物だが値打ちものだし、犢鼻褌は百文する。玉代のほかに銭のとれる客にしか貸さないものだ。
客はうしろを向き、胴巻の中身をかくすように着物を着替えた。肩先と裾がじっとりと濡れている着物を足元に脱ぎ捨てた。
「この降りによくおいでなさいましたねえ。あたしはお客さんの男前に惚れちまいました」
ねっとりした声で言い、おふさは客の心の内をそっとうかがった。こちらへ向けた背中を見ると、心の臓がだくっと波うっているようだ。おふさは濡れた着物をとった。窓を開けて庇の下に干そうとすると、生臭い血の匂いが鼻をついた。雨はすっかりあがり、外はしめった風が立ちはじめていた。
「明日までに乾くといいですわねえお客さん。今夜はこのあたしを抱いて寝てくださるんでしょ。嬉しいねえ、しっぽりと濡れておくれ」
客の着物の血なまぐさい匂いを吸いながらおふさはつくり笑いした。
「そこから着物は飛んでいかねえかよ」
「竹竿に通したから飛びはしませんが、水気が切れたらなかへ入れましょう」
それからおふさは客のすさんだ気持をやわらげるように語りだした。
「ここは昼間ならばとてもいい眺めなんですよ。荒川も見えます、夜は川越夜舟の船明りの、のぼりくだりがよく見えて……ほらお客さん櫓の音がしますでしょ。ここにはじめておいでなのねえ」
ふり向くと客は胴巻をとり、金らしい包みを小行李に入れている。おふさは知らぬ顔で外を見ていた。
「江戸の方から来て小塚原の汐入堤を過ぎると千住大橋、それを渡るとこの千住新宿の宿場です」
客は金を小行李にしまい終えた。
「やっちゃ場のせりも朝から聞えます。掃部宿の一里塚を過ぎるあたりは奥州道や日光道、佐倉道へ往く者還る者が馬や駕籠でよく通り、宿場の女郎に呼びとめられます。江戸へ荷を運ぶ船頭も舟を繋いで遊びにきますわ」
と言っておふさが振り向くと、客も外の暗がりを眺めた。そしてつきだした庇の両端をのびあがって見た。
すぐに身をひいた客はやにわにおふさの腕を掴み、赤い蒲団の上へ引き摺りあげた。
「色白の綺麗な女郎だな、おめえみたいな女に逢うのを地獄で仏と言うんだ。こっちへこい、おれも惚れたぜ」
「あれそんな、お客さんまだ早いわよ、窓も閉めずにさ」
客は押しつけて寝かしたおふさの下腹めがけてぐいぐい頭で押してきた。顔を遮二無二おふさのふとももにこすりつけた。
「おれのしてえことをさせろ」
客は言った。
そしておふさの女の匂いをぞんぶんに吸いこみ、くるっとおふさの腰を持ちあげた。いきなり男のものをはめこむと、一刻も惜しげに激しくゆききさせた。
「おお乱暴な、お客さん、あたしのお腹がやぶけるじゃないの
おふさは枯れ葉のようにもみくちゃになり、引き裂かれる思いだった。
怖い男だと思いながらも客のするままに息を合わせてまじわっていると、すさんだ果ての寂しげな男の心が伝わってきた。
おふさは思わずしっかりと客を抱きかかえてやり、その身の奥の奥まで、客の男のものをすっぽりと入れてやった。泥棒だって決して憎くはない。客にかわりはないのである。
気がつくと客はおふさの上で息を吐き、ぴたぴたの頭からしずくを垂らして、おふさに抱きついて離れなかった。男の体から人肌のぬくみがしっかりと感じられた。
「じきにこんな風にぐったりとなっちまうのに、強がりばっかり言ってるのよ男さんは」
おふさは言った。
「さあはなしておくれ、夜は長いのにお客さんときたら、明日の生命も知れぬみたいにせっかちだこと。またあとでゆっくり濡れとくれよ」
暫らくして客はむっくり起きあがり、枕元のてぬぐいで額の汗をまず拭いた。
「人間らしい気持ちになりなさったわね」
おふさも着物の崩れを直し、風の吹きこむ窓を閉めた。
四
師走に入って、間もないころ、今木から十台をこえる大八車が荷をいっぱいに積んで川越城下・新河岸にむかった。母衣(ほろ)でおおわれた車の荷は、大小さまざまの、金勢だった。紙張子の男根が車からはみ出るほど積みあげられている。
大きいのは高さ三尺ほどもある雄大なものから、小さいものは一寸くらいの親指の太さのものまで、いずれも赤や青、黄など派手に彩色され、その上に金銀が塗ってある。金勢は『縁起』と称して、水商売、客商売の家が縁起棚にまつる神様である。男根の頭のほうを上にして棚にたてておくため、底におもりがついている。倒しても起きあがり小法師のように立ちあがるようになっていた。
天領の今木から川越城下をとおって新河岸の船問屋についた大八車は、そこで荷をおろし、今木へ取ってかえして、ふたたび金勢をはこんでくるのだった。それを三度くりかえし、荷はここで七十石の高瀬舟につみうつされて、川越と江戸をむすぶ新河岸川で江戸にはこばれる。川の終着は浅草・花川戸で、ここでいったん荷はおろされ、年の市のひらかれる深川、日本橋、神田方面へ、掘割りづたいにはこばれるのである。
年の市は、歳の暮れに、新年にもちいる注連飾(しめかざり)、海老、福俵、羽子板、破魔弓(はまゆみ)、桶類、棒類などを売る市で、江戸では浅草観音、深川八幡、神田明神、芝神明、芝愛宕権現、平河天神などに立つ市が有名だった。十四日、十五日に立つ深川八幡が皮切りで、十七日、十八日の浅草観音の年の市は江戸第一のものである。当日は浅草橋から蔵前、駒形、雷門、砂利場、山の宿にいたるまで仮屋が立つ壮観さだ。浅草の市ではとくに、金勢さまに人気があつまった。
金勢が舟便で江戸に着いて数日したころ、福次もおりつをつれて江戸へかえって来た。六月いらい半年ぶりの江戸だった。
おりつは、この秋から冬のあいだ、福次と宗七だけではとても手が足りぬので、自分から村の人手を借りあつめ、ずっと金勢づくりを手つだってきたのだった。その気持にむくいるため、まだ一度も江戸を見たことのないおりつをつれて来たのだ。四年前、福次さえ気ままをおこさなければ、当然夫婦になって子の一人ももうけていたはずの女への詫びの気持もふくまれていた。
江戸の町は、表面を見ただけでは、福次が留守にしていた半年のあいだにさほど変った様子もなかった。相かわらず町の暮しには生気があり、歳末がちかいこともあって、気ぜわしいほど活気にみちており、福次は自分の肌が江戸の町になじむのを感じた。それがまったく上っ皮だけのもので、生活(くらし)の内側がよほど違ってきているのがわかるまでに、そう日数はかからなかった。
(後略)
打ち壊しが平塚村名主・弥惣治の屋敷に及ぶと、川越城内にも緊張の度が高まった。平塚村と川越城の距離は3キロ弱の至近距離であり、一揆勢の鯨波の声もはっきり聞こえ、物見目付(見張り役)からの情報も頻繁に城内に伝えられた。大広間では城代家老・高山文左衛門が中心となり対策が練られていた。何よりも参勤交代で江戸の上屋敷に詰めている城主・秋元但馬守凉朝に委細を報告し指図を受けて行動すること、城下の入り口を厳重にして、一揆勢を一人たりとも入れぬこと、この責任者は物見頭とする、などを決めた。報告を聞いた城主の但馬守は驚いて、使者の高山孫右衛門に尋ねた。
「普段はおとなしい百姓たちが、そのような村々の名主屋敷を打ち壊すには余程の理由があろう」
孫右衛門は増助郷を依頼した名主たちに対する意趣返しだと説明した。但馬守は孫右衛門に申し渡した。
「然らば川越城に恨みはなかろう。城下まで押し寄せることもあるまい。仮に押し寄せたとしても飛び道具を使うまでもあるまい。お互いに負傷者を出さぬよう注意して護るが良い。とにかく穏やかに収めるが上策」
しかし城中では、川越城下の江戸町の問屋、久右衛門の屋敷が打ち壊されるという情報が入り、緊急事態への対応の協議が城代、月番家老等の間で行われていた。とりあえず城下の口々を厳重に警護し、飛び道具を使用せずに一揆勢を入れないようにするということだった。
これに物見たちが反発した。何千、何万の一揆勢が押し寄せたときには、弓や鉄砲の飛び道具を使わなければ防げないというものだった。しかし家老たちの説得で、飛び道具の使用は様子を見ることになった。
物見頭の寺田利左衛門は、足軽24人を引き連れ馬にまたがり、火事装束に甲頭巾という出で立ちで城下外れの宮下口を通り、道幅の狭い縄手道で防衛しようとした。一揆勢は先陣として200〜300人が歓声を挙げながら突進して来た。飛び道具を持たない足軽たちは、十手などで応戦するが、一揆勢が鎌や棒を振りかざし新手が次々に現れるので、防衛側が押された。寺田利左衛門も槍を引っ下げて奮戦する。この状況を城内の櫓の上で見ていた城代家老・高山文左衛門は持田金兵衛を縄手道に急行させた。金兵衛は川越藩中でも武術の第一人者であり、峰打ちながら狭い道での獅子奮迅の働きに一揆勢は、左右の深田に足をとられ身動きが出来ない者、逃げ惑う仲間同士の鉢合わせなど混乱し、城下内に迷い込んだ67人が捕虜となり、一人ひとり両手を高手に縛られ、番所に連れて行かれたのは、正月三日明け六ツ(午前六時)であった。
捕虜になった67人は白洲に召し出され、緊急詮議が行われた。
「お上に逆らってまで、かような騒動を何時まで続けておるのか」
「この度の騒動については、何処の誰が触れを出したのか一向に存じませんが、この加助郷免訴の行動に不参加の村あらば一軒残らず焼き払うか打ち壊すから一揆に参加せよ、との触れが村継ぎに来たので、恐ろしくて致し方なく一揆に加わった次第です」
「しかし、その方たちがこの川越城下を目指して参ったのは如何なる子細によるものか。この度の振る舞いは、お城への敵対なるぞ」
「実は、北田島村名主・六右衛門屋敷打ち壊しの次は、川越江戸町の問屋久右衛門の屋敷だ、ということが誰言うと無く触れられて、大勢の者が押し出して参り、私共もその渦に呑み込まれ、道も分からず御城下に迷い込んでしまった次第です」
「一揆の者たちが江戸町の問屋久右衛門を狙ったのは本当のことか」
「はい。口々に久右衛門めの屋敷を打ち壊すのだ、と申していました」
「して、その訳は」
「私共も一向に存じませんが、御城下の固めもそぞかし厳重であろうから、もし目的が達せられない場合は、散り散りになって町中に放火し、一軒残らず焼き払う、と触れ合っていました」
取調べの役人たちは酷く驚いて、町中の全部に厳重な警戒を呼びかけた。緊急詮議を終えた67人の捕虜は江戸の城主から指示があるまで役所に留置されることになった。平塚村名主・弥惣治、北田島村名主・六右衛門屋敷を打ち壊した一揆勢は、いよいよ川越城下の問屋久右衛門屋敷へ移動を始めた。その矢先、百名近くが川越城下の宮下口付近で捕虜となり、城内に連れ去られたとの情報が寄せられた。一揆代表の間で激しい議論が戦わされた。あくまで久右衛門の屋敷を打ち壊すべしとの主戦論者に対し、川越城下の口々が川越城の役人の厳重な警護下にあるのを突破するのは容易なことではなく、公儀にも敵対することになり、この際川越城下から手を引くべき、と言う意見の対立である。兵内は後者を主張していた。
「百人の捕虜はどうするのだ」
主戦論者が言う。兵内が応ずる。
「川越城の然るべき人物と交渉する。我々の城下への進行の中止と捕虜の放免を交渉するのだ」
結局、主戦論の勢力は北方の坂戸村や小山村(熊谷宿西15`)方面に向かうことになった。だが、坂戸村では50カ村の名主が集まり、一揆勢に対抗する申し合いを行っていた。また小山村では18カ村入会地(共有地)の名主が一揆阻止の対策を協議していた。一揆勢の打ち壊しの標的が増助郷の設置を依頼した名主と、増助郷免訴ひ非協力の村名主の屋敷の打ち壊しにあったものが、それから逸脱している事例を見聞きした名主たちが自己防衛に立ち上がったのである。
川越城内でも重役たちが一揆勢の対応を協議していた。捕虜の城下町を火の海にするという情報にも緊張していた。まずは本丸を固めることとし、藩士54人、足軽500人、弓450張、鉄砲50挺を配し城代家老・高山文左衛門が指揮し、大手門は永井清太夫が藩士35人、鉄砲5挺、弓300張で固め、南大手門は持田金五郎が、足軽150人、鉄砲50挺、弓70張で固めた。更に永山市郎左衛門入り口、高沢口、下町入り口を足軽、鉄砲、弓で厳重に警備した。鉄砲、弓はあくまで備えで見せるだけである。城内では強行派と妥協派が衝突していたが、結局、城代家老・高山文左衛門の意見に従うことになった。つまり、恨みを買っている問屋久右衛門については、数々の不審の行為もあるのでこの際、闕所(家財の没収)を行い、一揆勢の矛先を躱すというものだった。すぐさま城下の口々に高札が立てられた。
『此度、江戸町問屋久右衛門儀、伝馬助郷其外ニ関シ、数々不埒ノ致方アリ。依之、闕所追放申付候者也』
重ねて江戸詰城主・秋元但馬守より沙汰が出された。捕虜は川越城内の出来事につき、狼藉を働いた訳でもなく全員無罪放免にすべし、というものである。川越藩の役人は高札の文面を写した紙を捕虜に渡し釈放した。この紙面を渡された兵内は一揆勢の川越城下からの撤退を命じ、荒川を挟んで川田谷村と対面している三保谷村の森と河川敷に集結するよう頭目たちに伝達した。続々と三保谷村に集まった一揆勢は5,000人を越えていた。そこかしこ50人、100人と屯し、高提灯がきらめき、焚き火が赤々と夜空を焦がしていた。近くの下小坂村からは名主・小平次の指図の下、村人たちが酒樽を運び酒を注いで回り、下戸には菓子類や干し柿などを振る舞い、草履、蝋燭、鼻紙などの多くを差入れした。空腹の者には5個の大釜で炊飯し、その量は30余俵に達した。それというのもこの訴訟に不参加だった下小坂村の名主・小平次が依頼した、永命寺の住職の取りなしが成功し、打ち壊しを免れた御礼だったのである。