小説・物語の中の川越(6)

江戸時代の小説(その3)です

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「ちよの負けん気、実の父親 物書同心居眠り紋蔵 佐藤雅美 講談社文庫 2014 ★
 八丁堀小町と呼ばれているちよは、料理茶屋・観潮亭の看板娘として評判を得ていたが、抜群の三味線の腕を持つみわに看板娘の座を取って代わられる。さらに、みわの出生の秘密に負けん気を起こしたちよが「あたいは公方様のお姫様かもしれない」と思い込み……。表題作他全8編収録の人気捕物帳11弾。

取り逃がした大きな獲物
       四
 左兵衛の家は平屋ながらも四部屋あった。その一番上等の部屋に、平吉があっけにとられているのを尻目に、左兵衛は強引にこんを引き取った。
 五郎兵衛店に住む女房さんの一人、さんは左兵衛と与兵衛の話を立ち聞きしていた。さんは左兵衛の家に押しかけ、こんの世話を焼きはじめた。
 どんな様子なのか。平吉は心配で、左兵衛の家を訪ねる。左兵衛とさんは申し合わせて平吉を追い返す。それは紋蔵が訪ねたときもおなじ。さすがに川越の御城下の云々と紋蔵には打ち明けたが、あとはお任せくださいと、なるべく紋蔵を関わらせないようにした。
 川越の御城下の云々という話は、さんが黙っていられずに亭主に打ち明けたものだから、たちまち界隈に広まった。世話を焼くのにいい顔をしなかった女房さん連中三人も浮足立った。左兵衛の家に押しかけ、むりやにこんの世話を焼いた。それをまた他の女房さん連中が見逃さず、なんでもいい、世話を焼こうとする。界隈は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 川越へは中山道の板橋宿から川越街道をとる。江戸から十里ちょっと。長日なら朝早くに発つとなんとかその日に着ける。短日のいまは難しい。
 あの日、与兵衛が五郎兵衛店を後にしたのは五つ半(午前九時)ごろ、その足で川越に向かったとしても、やはり途中、どこかで一泊しなればならない。御城下に着いたのは、おそらくそのつぎの日ということになろう。
 しかじかですと埼玉屋の当主平左衛門の耳に入れる。平左衛門はびっくりして旅支度をととのえる。
 川越から江戸へは夜船がでている。夕刻に川越を発つ。翌日の五つ(午前八時)ごろ、浅草花川戸の船着き場に着く。
 だから与兵衛がその足で川越に向かったのなら、三日目の昼ごろには、当主平左衛門は訪ねてこなければならない。
 三日目の昼ごろから、左兵衛は平左衛門が訪ねてくるのを、そわそわしながら待った。さんをはじめとする女房さん連中もそれはおなじ。だがその日、とうとう平左衛門は訪ねてこなかった。
 翌日、四日目。この日はどんなことがあっても、平左衛門は訪ねてこなければならない。念には念を入れ、下にもおかぬ持て成しでこんを遇しながら、いつくるかいつくるかと来訪を待った。こない。
 五日目、ひょっとしたら、与兵衛と名乗る男にしてやられたのではないか? 左兵衛の胸に不安がよぎった。
 川越の事情は箱崎辺りの荷受問屋が詳しい。川越に埼玉屋平左衛門なるお大尽がいるのかどうか。お袋に違いないこんという隠居がいるのかどうか。でかけていって確かめたい。しかし、その間にも平左衛門が訪ねてきて、さっさとこんを連れ帰ると、戴けるものを戴けない。
 左兵衛は身動きがとれず、いらいらしながら待った。やはり、平左衛門はこない。
 与兵衛にしてやられた。左兵衛はそう確信した。
 左兵衛と同様、さんをはじめとする女房さん連中もそう考えはじめたようで、だったら馬鹿を見ることになる。全員が潮を引くように、顔を見せなくなった。
 六日目。左兵衛はこんを連れ合いに任せて箱崎にでかけた。箱崎には利根川、江戸川、中川、荒川などの河岸場と取引する荷受問屋が軒を並べている。川越は荒川の支流新河岸川の先にある。おもに川越屋が川越方面の荷を扱っているということだった。
 「ご免ください」
 左兵衛は朝早くに川越屋を訪ねて聞いた。
 「川越に埼玉屋平左衛門というお大尽はおられますでしょうか」
 「なぜ、そのようなことをお聞きになる」
 応対した川越屋茂左衛門は逆に聞く。左兵衛はいった。
 「しかじか です」
 「たしかに川越に埼玉屋平左衛門というお大尽はおられます。しかし、おこんという御隠居さんがおられるかどうかは存じません」
 左兵衛はいくぶん勇気づけられ、平左衛門はすでに訪ねてきているかもしれないと、気もそぞろに家に帰った。
 それでも、訪ねてきていなかった。
      (後略)

剣客商売 新妻」 池波正太郎 新潮文庫 1990年 ★★
 秋山大治郎のことを思いながら夕暮れの根岸の里を歩んでいた佐々木三冬は、背中を斬られて逃げてきた女に小さな品物を託される。それが密貿易に係わるものだったため、三冬はその一味から狙われ、捕らわれて地下蔵に押し込められる。鬼神のごとくなって探し回った大治郎が奇蹟的に三冬を救出すると、父・田沼意次は、いきなり三冬を嫁にもらってくれと頼むのだった。シリーズ第6弾。
 川越中納言
 「川越中納言」はじつに淫靡な事件の物語である。これだけのストーリーだったら顔をそむけたくなるところだが、作者は新妻三冬の滑稽なところを巧みに描いていて、それが息抜きになっている。グロテスクとユーモアをまじえた一編で、やはり池波さんは無類のストーリーテラーだったと思わないわけにはいかない。
 隠宅へ呼びだされた三冬が小兵衛に「一肌ぬいでいただきたのじゃ」と言われて、「何を勘ちがいしたものか、顔を赤らめて、「うつ向いて」しまうシーンなど、小兵衛と三冬のやりとりだから、おもしろい。三冬なら「本当に、肌をぬぐ」と思うからである。(解説:常磐新平)

「黒白(上) 剣客商売 番外編 池波正太郎 新潮文庫 1987年 ★
 祖父の代から目黒に道場を構えていた小野派一刀流の剣客・波切八郎は、御前試合の決勝で敗れた秋山小兵衛に真剣勝負を挑み、小兵衛は二年後の勝負を約した。それを待つ身でありながら八郎は、辻斬魔に堕ちた門弟に自首を促すことができずに成敗してしまう。道場を出奔し浪々の身となった八郎は、想いを通じた座敷女中のお信にそそのかされるまま、お信の敵、高木勘蔵を討つ。
 野火止・平林寺

「はやぶさ新八御用帳(四) 鬼勘の娘 平岩弓枝 講談社文庫 1995年 ★
隠居するまでは、鬼勘と仇名されていた名御用聞き勘兵衛は、今も新八郎の老練な手足である。その娘で、利発なはねっかえりの小かんが、「一刻も争う」と、御用部屋を訪ねて来た。奉公先の佐竹右京大夫家に異様な内紛が生じて、次男の命が危いという……。武家の面目を保つ、意地と苦悩の難事件等八編を収録。
  金唐革の財布

「袖ノ下捕物帳」 胡桃沢耕史 文春文庫 1989年 ★
 下谷黒門町の岡っ引・越生の猪之吉は生まれついての醜男で、人はおこぜのぶたきち≠ニ呼ぶ。岡っ引にはお上からのお手当がない。出役ごとに小遣いが出るだけだ。後は自分で才覚する。平たくいえば脅しである。脅し取った袖の下を猪之吉は床下のかめの中にしっかり貯めこんでいる――。哀しくも滑稽な収賄専門捕物控°纔b。
 川越唐桟

「塙保己一推理帳」 中津文彦 光文社KAPPA NOVELS 2002年 ★
 年明け早々からしばしば烈風に襲われた、享和二年(一八〇二)の江戸市中。検校・塙保己一は、幼なじみの河田屋善右衛門を訪ねた根岸の里で、不審な失火事件を聞いた。大店の隠居所が焼けて、若い母親と赤子の二人が逃げ遅れて死んだ、というのだ。両眼は光りを失って久しいが、保己一には、とぎすまされた感覚と、群を抜く記憶力があった。杖代わりの和三郎とともに焼け跡に足を運んだ保己一が「見た」ものは何か!――時代小説に新風を吹き込む塙保己一シリーズの幕開きを告げる傑作中篇小説「観音参りの女」ほか、著者渾身の書下ろし連作時代小説!
 第二話 五月雨の香り

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 塙保己一(はなわ ほきいち)
1746〜1821(延享3〜文政4)江戸後期の国学者。
(系)農民萩野宇兵衛の子。(生)武蔵国児玉郡保木野村。(名)幼名寅之助、のち千弥、保木野一、雨富検校の本姓をうけて塙保己一と改名、号を水母子。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 根岸鎮衛(ねぎし やすもり)
?〜1815(?〜文化12)江戸後期の随筆家。
(系)安生太左衛門定洪の3男、母は河野氏、根岸衛規の養子。(名)通称銕蔵・九郎左衛門。
1763(宝暦13)評定所留役となり、勘定組頭、勘定吟味、佐渡奉行、勘定奉行などをへて’98(寛政10)町奉行となる。その間に書き集めた奇談集「耳嚢」10巻を著した。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 太田南畝(おおた なんぽ)
1749〜1823(寛延2〜文政6)江戸後期の文人。
(系)太田正智の子、母は杉田八郎兵衛の養女利世。(生)江戸牛込。(名)覃、字は子耜、通称直次郎、晩年七左衛門、南畝は号、狂号を四方赤良・蜀山人など。他に筆名多数。

「裏稼ぎ 莨屋文蔵御用帳 西村望 光文社時代小説文庫 1996年 ★★
 女房の火遊びに亭主の浮気、一張羅の晴れ着を盗まれてくやしがる娘――。岡っ引き莨屋文蔵は、子分たち(テレコの松に横丁の留吉)が拾ってきた、一見たわいのない町のもめごとの裏に、妖しい悪事の気配を嗅ぎつけた。
 江戸の片隅に生きる男と女の、はかない夢と挫折、ゆがんだ愛欲のもつれが生み出した奇怪な事件の謎に立ち向かう。
 著者の新境地、裏稼ぎ捕物控。
 面腫れ稲荷
 意外な事実が出てきた。
 友次郎の口からだった。
 「文七などとしゃらくせえ名を名乗っているが、ありゃ女。それもおめえの種を孕(はら)んだ女、それに相違あるめえ、どうだ」
 と文蔵がキメつけたのに対し、
 「そこまでおわかりなら」
 と、膝に揃えて置いた両の手をふるわせながら、「実は」と語り出した友次郎の白状が文蔵にとっては意表外のものだったのだ。
 友次郎の語るところではこうだ。
 文七というのはまぎれもなしに女。それも本名はなつ。なつには長六という夫がいて、長六、なつの夫婦、それに友次郎の三人とも川越在のものであるという。
 武州川越は江戸から十三里
 板橋宿から西にはいる川越街道を行く方法もあれば、浅草の花川戸から夜船に乗って、隅田川、荒川、そして川越藩が開削した新河岸川と流れを乗り継いでいく川の道もある。
 武蔵野の台地がいまも往昔(おうせき)のまま残っていて、一歩足を城下から外に移すと、そこらはもう雑木の大きな林であるという。
 文蔵はそう聞いている。
 松平直恒の十五万石のお城下だそうだが、近年町の景気はいまひとつパッとしない。
 そうも耳にしている。
 その川越在でなつの亭主の長六というのは回り髪結いをしていた。回り髪結いというのは簡単にいえばこちらから出向いていく髪結い。行けば所定の料金の上にご祝儀も出、頃合い次第では食事も出してくれるという結構な仕事で、収入もよい。そういういい手職を持っているのに長六はそれにはあまり精を出さず、飲む打つ買うをする。
 家にもあまりよりつかない。
 なつはそういう亭主に不満を持っていたが、その不満が浮気に転じた。
 近所の農家の倅(せがれ)の友次郎とふとしたことで知り合い、そのまま不倫の関係にはいった。
 それが去年の二月。
 それから二人は昼間でも忍び合う仲になったが、それが長六の耳にはいらぬはずがない。
 やはり去年の四月。
 長六の不在をいいことになつと友次郎はなつ方の納戸(なんど)で折り重なっているところを、長六に見つけられた。
 「やい、うぬらそこでなにをしてる」
 だしぬけに納戸の戸を引き払った長六は凄み、友次郎、なつの両名は半殺しの目にあった。
 ただし殴られ蹴られただけではない。長六は友次郎に、
 「触り料三百を出せ」
 と迫った。三百とは銀三百匁。金貨になおしたら五両二分。五両二分が女房の「汚され料」として世間相場になっている。
 しかし、そんな大金などもちろん友次郎では工面(くめん)がつかない。
 「親に相談してみる」
 といって、とにかく友次郎はその場を逃げ出したが、そんなこと親になんかいえたものではない。思案に窮した友次郎は川越から逃げることとし、川越十三里、川越ではそれを江戸道というのだが、それをひたすら走って江戸にき、この裏町長屋に居(きょ)を得た。と知ったなつもまた川越から逃げてき、ヒト月ほどは二人、同居した。だが、やがて長六に嗅ぎつけられそうになり、身の危険を感じたなつは厩新道の一膳めし屋に働きに出た。しかし、
 「あたしの子を身籠っていたとは知らず、ましてや男になっていたなどとは思いもよらぬことでした」
 友次郎はそういって、吐息した。
 「なつはな、その一膳めし屋の二階でおめえの子を生み、その子をほうり出したまま逃げているんだ」
 どうだと文蔵が友次郎を睨み据えたとき、どこかでコトリという物音が起きた。と、その物音がするなり友次郎が、
 「ア」
 という、うろたえた目で文蔵を見た。
 文蔵のカンは友次郎の目で触発されたが、それは松も同じであったとみえ、松はものもいわずに居間に飛び上がり、壁際に立っていた破れ屏風を蹴倒した。するとどうだ、屏風の向こうは幅半間ほどの物入れになっていて、そこに野郎頭の若い男がうずくまっているではないか。
 男はてめえのものらしい履物を抱えていて、見破られたと知るなり文蔵の顔を仰いだ。
 その目つきはやはり女だ。
 「こんなところに隠れやがって、さあ、出るんだ」
 松が女をつまみ出した。
 つまみ出された女は友次郎と膝を並べてかしこまった。
 「おめえはなつだな」
 文蔵が問うと、女はこくりと一つ、うなずいた。
 もう、すっかり観念したらしい。
 「なんだっておめえ、世話になった喜蔵夫婦に後足(あとあし)で砂をかけるような真似をした。そういうことをせずとも、実はこうこうしかじかと、頭を下げてあやまればそれですむことじゃねえか」
 「すみません」
 文七はもうなつなる女に還って、か細い声でわびをいい、そこに両手を突いた。だが、文蔵の追及はそれですむというものではない。
 「それともなにか、尻に帆かけて逃げなきゃならねえような、そんな重い荷でも背負っているというのかい」
 「いえ、とんでもありません」
 「ならなぜ逃げた」
 だが、なつはそれには返事をしない。
 ただ、うつむいているだけだ。
 文蔵は問いを変えた。
 「ところでおめえの亭主の長六だが、長六はいまも川越の在にいるのかい」
 これは訊くまでもないことだった。なつの旧夫がどこにいようが、そのことと、なつが間男(まおとこ)の子を生み捨てにしたこととは直接のかかわりはない。なのに訊いてみたのはまあ、その場の勢い、その程度のものだったが、訊かれたなつは、
 「いえ……」
 と、ちょっとと曖昧な返事をした。
 「いえ」というのは「いない」ということでもある。
 「それならどこだ」
 「知りません」
 なつはそういったが、「知らない」といいながらも文蔵を見た目にはためらいのようなものがある。
 「知ってるな」
 と文蔵は思ったが、だからといって問い詰めたところで仕方がない。そうも思う。
 なにかあるのではないかと、日本橋からここまでやってきたが、どうも文蔵のお手柄になるような材料はみつからないし、小遣い稼ぎになるようなネタも掘り出せそうにはない。
 「犬も歩けばというけれど、な」
 口の中で文蔵は呟いた。
 歩いて、当たった棒がこれではサマにならない。文蔵は引き上げることを考えたが、そこでふと思いついて、なつの竹葛籠から出てきた二つ割れの木札をとり出し、
 「お前の荷物の中にこういう物がはいっていたが、こりゃなんだ」
 そういってその木札をなつの膝の前に投げ出した。投げ出してなつの表情を注視した。
 「はい、これはやどの髪結い札です。川越の会所に札銭を払って請けたものです」
 なんのこと、髪結い鑑札だったのかと文蔵は合点したが、
 「それなら長六が持っているのが筋じゃねえか。それをなぜお前が持ってる。それと、見りゃそいつは片割れだが、なんのために判割れになっている。なんぞのいわくがそれにはあるのか」
 べつになんにも期待しないで訊いてみたのだが、おかしなことになつはそこでピタリと口を閉ざした。
 文蔵が睨むと、あわてて面を伏せる。
 友次郎も似たようなものだ。文蔵の目線を感じるとこれも顔を伏せてしまった。
 「おかしい」
 腑に落ちぬものを文蔵は感じた。なにも秘密にするほどのものではない。要するにただの商い鑑札。それがたとえなつの荷物の中にあったとしても、髪結い長六となつはもともと夫婦。どっちの荷物の中にあったところでそうおかしなことではないはず。にもかかわらずそれに対するはかばかしいこたえができぬというのは異常。
 文蔵はふところを探って、坂下の茶見世でもらった塩の包みをとり出した。
 この塩は友次郎が正直にこたえないときのおどかしとして、茶見世の小女からもらってきたのだが、それをいま使ってみようと思い立ったのだ。
 「おい、おなつ、これはな葛西金町は半田稲荷の御神水の素だ。こいつを水で解いて飲むと、隠しごとをしているやつはたちどころにその面が腫れ上がる。こりゃ面腫(めんば)れ薬という珍薬だ。どうだ、ものはためしだ、こいつをひとつ服(の)んでみるか」
 文蔵はおどしにかかった。葛西金町の半田稲荷は江戸でも有名だが、もちろん面晴れ薬などとはなんのかかわりもない。文蔵がそんなことをいい出したのは、先年、煩(わずら)い除けだといつわってニセ薬を売っていた男が捕まって、江戸お構いの咎(とが)めを受けた。それを知っていて、そいつの悪知恵をちょいとばかり借用してみたのだが、そういうからくりなど知るはずもないなつは、いともたやすく文蔵のこの詐術(さじゅつ)にはまってしまい。
 「いいます、いいますからそればかりはカンニンしてください」
 と、たちまちにして打ち萎(しお)れてしまった。お産のあげくに一里から上の道を逃げてきて、その上にへんなものを服まされてはかなわない。そう思ったのかもしれない。
 なつはなにもかも正直に打ち明けるという姿勢を示した。

「本所深川ふしぎ草紙」 宮部みゆき 新潮文庫 1995年 ★
 近江屋藤兵衛が殺された。下手人は藤兵衛と折り合いの悪かった娘のお美津だという噂が流れたが……。幼い頃お美津に受けた恩義を忘れず、ほのかな思いを抱き続けた職人がことの真相を探る「片葉の芦」。お嬢さんの恋愛成就の願掛けに丑三つ参りを命ぜられた奉公人の娘おりんの出合った怪異の顛末「送り提灯」など深川七不思議を題材に下町人情の世界を描く7編。宮部ワールド時代小説篇。
 第三話 置いてけ堀
     
 「もし本当にそうならば、どうにかして成仏できるように供養してやらなくちゃあ」
 ことの次第を話すと、おとよは力強くそう言い切った。
 どうもこのところおしずの様子がおかしいと、気にしていたという。今夜も、そっと出ていくおしずを途中まで追いかけたのだが、とうとう見失ってしまったのだという。
 「でも、どうしてあげたらいいのかしら」
 まだ涙をぬぐいながらつぶやくおしずの手をとって、おとよは言った。
 「明日の晩は、あたしもいっしょに行ってあげよう。そして、もっとちゃんと庄太さんと話をするんだよ。あの人に、どうしてあげればいいのか教えてもらうのさ」
 そこで翌晩も、同じ時刻に、今度はおとよと手を握りあうようにして、おしずは置いてけ堀へと向かった。角太郎は、おとよが背中におぶってくれている。
 そしておしずは、今夜は提灯のほかに、ざるに入れた鯉の切り身をいくつか持っていた。
 貧乏世帯でめったに口にすることはできなかったが、庄太は鯉のあらいが好物だったのだ。今夜も、一匹まるごとはとうてい無理な話だが、せめて頭と切り身のいくつかを食べさせてやったらと、おとよが勧めてくれたのだった。
 昨夜と同じ柳のそばに立ち、おしずは思い切って、
 「おまえさん。おしずが来ました」と呼びかけてみた。
 「おまえさん、あさましいなんてことはない。おまえさんなら、どんな姿になっていたってあたしは平気です。角太郎も連れてきました。どうか顔を見せてくださいな。せめて声を聞かせてくださいな」
 おとよに目顔で促されて、おしずはざるのなかの鯉を堀に向かって投げた。
 ぼちゃん。ぼちゃん。ぼちゃん。
 水の輪ができては消えていく。
 と、そのとき、おとよがおしずの袖をひっぱった。
 「し、誰かきたよ」
 明りを吹き消し、二人はあわてて芦の茂みに隠れた。
 提灯が二つ、揺れながら近づいてくる。じべたをするようなその足音は、堀の近くまで来て、なんどもためらったように止まった。
 「帰りましょうよ」と、女の声。
 「いえ、そうはいかない。とにかく正体をたしかめないことには」と、男の声。
 おしずはそろそろと顔を上げた。(川越屋のご夫婦だわ……)
 庄太の出入りしていた、菊川町にある小間物問屋の主人夫婦である。女房のお光(みつ)というのがなかなか難しい人で、庄太がときどきこぼすことがあった。
 (どうも、ああいう女はいけすかねえ、じっと黙ってながめられると、蛇ににらまれているようだぜ)
 主人の吉兵衛はいたって小心者、お光にしかれているという噂も聞いた。
 その夫婦が、さっきまでのおしずとおとよのように、互いにしがみつくようにして堀端に立っている。
 と、あの声が聞こえてきた。
 「川越屋」
 おとよが身を縮める。おしずははっと胸に手をあてた。
 お光は提灯を取り落とした。燃え上がる。急に明るくなった堀端に、夫婦の顔ばかりが青白い。
 「川越屋」
 もう一度呼ばれて、吉兵衛が及び腰になりながら、ようやく声を出した。
 「わたしらだ。わたしらだ」
 お光は吉兵衛の背中に隠れようとし、吉兵衛はお光を前に押し出そうとしている。
 「置いていけ」と、声が続けた。
 「なにを置いていけばいい」
 震える吉兵衛に、声は間髪を入れず答えた。
 「お光」
 お光は悲鳴をあげた。逃げ出しかけたその襟首をつかんで、吉兵衛が引き戻す。
 「こいつを置いていったら勘弁してくれるか」
 「冗談じゃない、あたしじゃない、あんたを殺させたのは、あたしじゃないんだよ!」
 お光がわめく。おしずとおとよは芦の葉の陰で顔を見合わせた。
 「殺させた?」と、おとよがつぶやく。
 狂ったように手を振り回しながら、お光は叫び続けた。
 「あんたを殺したのはあたしじゃない。この亭主さ。ひょっとしたらあんたに、あたしが富士春に毒を飲ませたところを見られたかもしれないと言ったら、気の小さいこの人は、あんたが番屋に訴え出るんじゃないかと気をもんで――」
 おしずは目を見張った。富士春。茂七親分と麦飯屋に来ていた。喉を病んで、一言も話をしなかった常磐津(ときわず)の師匠だ。
 「――夜もおちおち眠れなくて、それで、地回りのたちの悪いやつらに金をつかませて、あんたを殺させたんだ。あたしは知らないよ。みんなこの人のやったことなんだよ!」
 おとよがおしずの袖を引いた。
 「行こう。茂七親分に知らせるんだよ」
 おしずとおとよが立ち上がりかけたとき、もみあっていた川越屋夫婦も、てんでにお互いを押しのけるようして逃げ出した。おしずたちはそれをやり過ごし、別の方角へと走り出した。
 その後ろで、置いてけ堀の方角から、なにかを噛み砕くばりばりという音が聞こえていた。
川越の妖怪

「かまいたち」 宮部みゆき 新潮文庫 1996年 ★
 夜な夜な出没して江戸市中を騒がす正体不明の辻斬りかまいたち=B人は斬っても懐中は狙わないだけに人々の恐怖はいよいよ募っていた。そんなある晩、町医者の娘おようは辻斬りの現場を目撃してしまう……。サスペンス色の強い表題作はじめ、純朴な夫婦に芽生えた欲望を描く「師走の客」、超能力をテーマにした「迷い鳩」「騒ぐ刀」を収録。宮部ワールドの原点を示す時代小説短編集。
 迷い鳩

「初ものがたり」 宮部みゆき 新潮文庫 1999年 ★
 鰹、白魚、鮭、柿、桜……。江戸の四季を彩る「初もの」がからんだ謎また謎。本所深川一帯をあずかる「回向院の旦那」こと岡っ引きの茂七が、子分の糸吉や権三らと難事件の数々に挑む。夜っぴて屋台を開いている正体不明の稲荷寿司屋の親父、霊力をもつという「拝み屋」の少年など、一癖二癖ある脇役たちも縦横無尽に神出鬼没。人情と季節感にあふれた時代ミステリー・ワールドへご招待!
 太郎柿次郎柿
 船宿「楊流」は、亀久橋を渡ってすぐの、大和町の一角にあった。堀に面して、宿の名前の由来なのか、二階家の屋根まで届くほど丈がが高く、ほっそりとした柳の木に囲まれて建っている。青葉のころなら、この柳もさぞかし美しいのだろうが、枯れ葉の舞い散る今の季節では、血色のよくない幽霊がおろおろしているのを見るようで、なんとも興醒めに、茂七には思えた。
 楊流のおかみは、小柄で勝ち気そうな目元のきりっとした女だったが、たぶん四十を越えているだろう年齢に似合わぬ甲高い声の持ち主で、茂七の顔を見るなりしゃべりだした。
 「お願いですよ親分さん、うちとしちゃこんなことに巻き込まれちゃ商売あがったりだしあたしは借金しょってる身だし亭主は行方知れずだし――」
 まあまあと両手でおかみをなだめて、茂七は訊いた。「で、仏さんと下手人はどこだい?」
 「階上(うえ)です。階段をあがったすぐ右手の座敷で、うちじゃいちばんいい部屋なんですよ。畳替えだってしたばっかりだし……」
 どうでも、おかみは愚痴をこぼしたいらしい。
 「今は、誰がいっしょにいる?」
 「うちの船頭がひとりついています。逃げる気遣いはなさそうだけど、やっぱり心配ですから。いちおう、しごきで手首だけしばったけど、文句も言わないし、眠ったみたいに目をつぶってじいっとうなだれてます」
 茂七は二階にあがる階段の一段目に足をかけた。権三を促して、先に階上にあがらせる。権三も心得たもので、足音もたてずに階段をのぼっていった。
 「ここのほかには、階上にあがる階段はねえんだな?」
 「ええ、ありません」
 「じゃあ、しばらくは大丈夫だな。先に訊かせてもらおう。おかみ、殺された客はどこの誰だい?」
 おかみは一瞬ぐうと口をつぐみ、それから「知らない」と言おうとした。が、茂七は笑ってそれを止めた。
 「俺はここへ足踏みするのは初めてだが、評判は聞いて知ってる。楊流は、一見(いちげん)の客を入れるようなところじゃねえ。少なくともおかみ、おまえさん、仏か下手人のどっちかを知ってるはずだ」
 おかみは目を伏せた。わずかに顔をしかめながらくちびるをなめていたが、やがてほっと息を吐いた。
 「嘘をついたってしょうがありませんね。ええ、知ってますよ。よろずやの清次郎さんです」
 「よろずやってのは?」
 「猿江(さるえ)神社の近くにある、小間物問屋です。清次郎さんはそこの手代さんですけどね、商いのできる人なんでしょうね、旦那さんにも可愛がられてるみたいですよ」
 手代風情(ふぜい)が、昼日中お店を抜けて船宿にしけこむなどとは、たしかに、よほど旦那にひいきにしてもらっているか、よほど図々しいか、どちらかでないとできないことだ。
 「ここへ来るのは初めてかい?」
 「いえ、もう四度目くらいです」
 「いつもこの時刻かい?」
 「そうですね、たいがいは」
 「相手は決まった女か?」
 おかみはちらりと微少した。「いつもね」
 「じゃあ、その女が清次郎を殺したというわけか」
 するとおかみは目を見開いた。「とんでもない。清次郎さんを殺したのは女じゃありませんよ」
 「女じゃねえ? じゃ、男か?」
 「ほかにあります?」
 「ふたりきりかい?」
 「はい」
 落ち着き払って、おかみは言う。
 「清次郎さんは、今日は兄さんを連れてきたんですよ」
 「兄弟か――」
 おかみは頷く。「清次郎さんは、もとは川越の出なんです。次男坊だから江戸へ奉公に出されて、兄さんが家を継いだんだって、水呑み百姓だから、奉公に出されてかえってよかったって、言ってたことがありますよ」
 「じゃ、貧乏な兄貴が弟を訪ねて出てきたわけか」
 「そうでしょうね。兄さんて人は、見るからに粗末な身形(みなり)だったもの。髷(まげ)のなかまで泥水が染み込んでるようなね」
 おお嫌だ――というように、おかみは身震いをしてみせた。江戸の船宿のおかみにとっては、近在の百姓など、そんなものでしかないのかもしれない。
 あとは本人にじかに訊いたほうが早い。茂七は一段抜かしで階段をあがっていった。目的の部屋は唐紙(からかみ)が開け放してあり、廊下からもよく見えた。出入口のところに権三が正座し、窓にもたれて若い船頭がひとり、困ったような顔をしている。そして座敷のほぼ真ん中に、羽織をきちんと着た町人髷の男が、座った姿勢のまま上半身を座卓の上にうつ伏して倒れている。この姿勢では頭の後ろと背中しか見えないが、前に投げ出された両手の指が、座卓をひっかこうとするかのように歪んでいることが、死に際の苦悶のほどを物語っていた。
 ひとつ、茂七の目をひいたことがある。死体のすぐ脇に、小綺麗な箱がひとつ、ふたをとられてひっくり返っているのだ。どうやら菓子折りであるらしい、中身が飛び出して畳の上に散らばっている。色も形もとりどりの干菓子(ひがし)であった。
 目を転じてみると、弟を殺した兄である男は、押し入れの唐紙の前に両足を投げ出して座り込み、両手を背中でくくられたまま、首をうなだれて目を閉じていた。権三が黙って茂七に頷きかけた。
 茂七は若い船頭に礼をいい、彼を部屋から出した。唐紙を閉め、男のそばまでかがんで近づくと、目の高さをあわせて呼びかけた。
 「おいおめえ、名前はなんていう?」
 男は目を開けた。白目の濁った、生気の感じられない目だった。
 「俺はこの土地の岡っ引きで、茂七という者だ。おめえがここで弟を殺(あや)めたというから駆けつけてきた。ここで死んでいるのは、たしかにおめえの弟、よろずやに奉公している手代の清次郎か?」
 男は、のろりと首を動かして頷いた。
 「おめえは清次郎の兄貴で、川越から弟に会いに出てきたらしいな。ここで会う約束だったのか?」
 また、頷く。たしかにおかみの言ったとおり、垢じみて擦り切れかかった着物と股引(ももひき)、首に掛けた手ぬぐいの端はぼろぼろだ。身体からは汗の匂いがする。
 「おめえの名前は?」
 すう……と音をたてて息を吸い込み、乾いたくちびるをひきはがすようにして、ようやく男は答えた。「朝太郎」
 「おめえが弟を殺したいうのは確かか?」
 「へい」
 「殺したあと、おかみに、人を殺めたと知らせにいったのもおめえか?」
 「へい」
 「どうして弟を殺したりした?」
 朝太郎の瞳が、とろんと脇に動いた。大儀そうに首を動かすと、いやいやをした。
 「わからねえのか?」
 朝太郎は首を振り続ける。
 「言いたくねえということか?」
 朝太郎は頷いた。そして、言った。「あっしがやりました。理由は訊かねえでくだせえ。あっしがやりました。ひっくくっておくんなせえ」
 彼の口調は、のし棒でのしたみたいに、平たくて抑揚がなかった。茂七はひと膝乗り出した。
 「そうはいかねえんだ。おめえがどうしてこんなことをやったのか、その理由がわからねえことにはどうにもならねえ。おっつけ検使のお役人さまもおいでなさる。俺のようなやわらかい訊き方はしてくれねえぞ。今のうちに、有体(ありてい)に話しておいたほうが身のためだ」
 朝太郎には、茂七の言葉が聞こえていないかのように見えた。視線はどろりと下方にさがったまま、譫言(うわごと)のように繰り返す。
 「あっしがやりました。ひっくくっておくんなせえ」
 ちょうどそのとき、階段の下のほうから、かしましい女の声が聞こえてきた。おかみと誰かが言い合いをしているらしい。権三に合図を送ると、彼はつと立って階段のほうへ向かったが、すぐに階段を駆けあがってくる軽い足音が聞こえ、権三が後退りながら座敷のなかに引っ返してきた。
 権三を突き飛ばしかねない勢いで座敷のなかに飛び込んできたのは、若い娘だった。茂七は最初、誰だかわからなかった。黒襟をかけた半四郎鹿の子の小袖の裾から、派手な京友禅の腰巻をぞろりとのぞかせている。こりゃまあ洒落娘(しゃれっこ)だと思っていると、彼女が大きく口を開いて、
 「清次郎さん!」
 と叫ぶなり、うつ伏せの男に飛び付いた。その声を聞いた瞬間、茂七は彼女が上総屋の娘おりんであると気がついた。
 「上総屋のお嬢さんじゃねえか」
 どうしてあんたがここに――と言いながら、茂七が彼女に近づいたそのとき、ほんの一瞬の隙をついて、朝太郎が素早く立ち上がった。さっきまでの、牛のような鈍重な仕種(しぐさ)からは想像もつかないような身軽さで、さあっと窓のほうへと飛んでゆく。
 しまったと思う間もなかった。茂七より一瞬早く、権三が朝太郎に飛びついて着物の裾を捕えようとしたが、薄い布地は軽くはためき、権三の指は空をつかんだ。
 「兄弟でなけりゃ、よかったのに」
 表の空に向かって、朝太郎は吠えるようにそう言うと、開け放たれた窓から外へと躍り出た。茂七の目に、揺れる柳の枝を背景に、秋の日差しのなかへと飛び出した朝太郎の姿が、くっきりと黒い影になって焼きついた。
 どすんと、鈍い音がした。
 茂七は窓に駆け寄った。二階の高さだ、死ぬとは限らねえと思ったが、一目見るなり、無理とわかった。朝太郎は頭から落ちたのか、生身の人間なら到底できない格好に首をねじ曲げて、さっきまでと変わらないうつろな目を、茂七のほうへと向けていた。
 駆け降りた権三が、朝太郎のそばに跪(ひざまず)く。すぐに顔をあげて、駄目だと首を横に振った。
 茂七の傍らで、おりんがわあっと泣き出した。

「唐棧幸次郎疾風旅」 北条小路 永田社 2000年 ★★
 その一 幸次郎の旅立ち
   (前略)
<このまま商人で一生を送るより、旅をして自分なりに他国を見れば、何かが見つかるかもしれない。
 どうせ短い一生だ。自分なりに自由に生きるもよいだろう。
 世間には必要な悪もあろうが、悪を許さず弱者の味方となって生きるのもよいだろう。>
 こう考えた幸次郎は、可愛い妹のせんに、「婿をとって父母に孝養を尽くしてくれ」と言い残して、武州川越を後にするのである。
 時あたかも、ぺりーの浦賀来航(嘉永六年=1853年)により、川越藩と忍藩で、品川沖台場の防備に当たったり、武州世直し一揆が川越城下に迫ったりと、世情穏やかならざる頃であった。彼の旅立ちの日は、春の風が表の布看板をばたつかせる朝のことであった。
 周知の如く、江戸時代、人間は平等ではなかった。武士は刀を差せるが、農・工・商の人々は、刀が差せない。
 したがって江戸屋五兵衛は、いつ暴漢に襲われても応戦できるように、銀煙管の中に刃物を仕込み、護身用とした。表向きは煙草を吸う煙管(きせる)であるが、この頑丈な煙管の中に刃渡り五寸の鎧通し(鎧のすきまから、敵を刺し通すほど鋭利な刃のこと)が仕込まれている。尖端が鋭く尖っていて諸刃で血流し(血糊が流れるように彫られている、峰=刃の背、の部分にある溝)が入っている、いわゆる仕込煙管である。
 五兵衛は、この煙管を家では長火鉢の上に置き、外では煙草入れの中に入れて腰に差し、片時も手元から離さなかった。
 この仕込煙管を、幸次郎はすでに父親から譲り受けていた。以後一人旅を続けることになる幸次郎は、けっしてこの武器を手元から離さなかった。事に及べば仕込煙管を自在に操り、相手の眉間、盆の窪(頭の後ろの部分)、目などに打ち込み、ある時は手裏剣の如く投げ付けるのである。
 幸次郎の旅装束はというと無論、川越名産の唐棧織だ。濃紺に銀鼠の縦縞模様の、粋な筒袖仕立ての着物である。
 帯は木綿の道中帯、着物の下には、襟元や袖口から入る風除けの腹掛付きの道中着、そして紺染厚手の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、裁っ着け(たっつけ)に革仕立の足袋を履き、腰には武州川越鍛治町の刀匠照吉が鍛えた鎧通しを仕込んだ頑丈な銀煙管、同じ照吉が鍛えた業物(わざもの)の道中脇差を腰に差している。
 手荷物は、肩に掛けて持ち運べるように、紐でしっかり振り分けて結び、手には道中笠を持ち、これも粋な縦縞の道中合羽(どうちゅうがっぱ)を羽織って、いつ果てるともない旅に立ったのである。
 以後彼は、旅先で「武州川越無宿 唐棧幸次郎」と名乗る。
 さて、江戸時代の街道の宿場には、物資輸送のための馬や人夫が常駐して、宿場付近の村は、馬を提供させられた。この役を助郷(すけごう)といった。ちなみにこれら世話役の農民が起こしたのが、有名な明和元年(1764)の天馬騒動である。
 戦国時代、川越城は、小田原の後北条氏の支城であった。
 この頃は、所沢から府中を経て小田原へ至る道、東松山を経て熊谷方面へ向かう道、などの道が発達していたが、家康の関東入府以来、江戸と川越をつなぐ川越街道は、大井宿(現埼玉県・大井町)、大和田宿(現新座市大和田)、臑折宿(すねおりじゅく)(現朝霞市臑折町)、白子宿(現和光市白子)の四宿を経て、板橋宿(現東京都板橋区)に至り、中仙道につながっていく。
 幸次郎もこの道を通って江戸に入る。
   (後略)
著者プロフィール
本名、柿沼宏(かきぬま ひろし)。埼玉県川越市生まれ。明治大学政治経済学部卒。作詞家。誰よりも川越を愛し、「川越音頭」「川越まつり」「小江戸桜音頭」「川越伝説合唱曲集」などを作詞、市の文化・観光に寄与。(社)日本作詞家協会会員。「川越音頭推進会」主宰。故郷音楽普及協会会長。日本・ミャンマー歴史文化交流協会理事。小説は「唐棧幸次郎疾風旅」が第一作。「御家人侠七郎・江戸雑記」(仮題)、近々刊行予定。

「鬼道裁き 裏火盗罪科帖四 吉田雄亮 光文社文庫 2004年 ★★
 江戸の巷を震撼させる相次ぐ打毀。暗躍する強賊「黒桔梗」が出没場所に残す黒い桔梗の描かれた絵馬の意味するところは何!?
 火盗改メ・長谷川平蔵が組織した「裏火盗」の御頭・結城蔵人の必死の探索も虚しい。高まる町民の怨嗟と不安の声に応えて探索に乗り出す仙波東照宮御宮番の狙いとは!? 謎は謎を呼び、血を招いて……。
 大好評の裏火盗罪科帖第四弾!
   ■取材ノートから■
 埼玉県川越市は、東京のベッドタウンである。JR川越線・埼京線、地下鉄有楽町線、りんかい線が川越駅に、本川越駅に西武新宿線が乗り入れていることからその繁栄ぶりが想像できる。
 江戸幕府開府に多大な功績を残しながらその過去が明らかでない天海大僧正に興味をいだいた筆者は、天海のことを調べ始めた。
 天海は比叡山で出家したのち各地を彷徨して修行し、再び比叡山に帰山して探題奉行に任じられた。その後、徳川家康の知遇を得、肝胆相照らす間柄となり、徳川家康の知恵袋として歴史の表舞台に登場して、活躍する。
 天海は、密教の曼荼羅図を基に江戸の町づくりをなした。その代表的なものは江戸城の鬼門封じのために創建した平将門塚、神田明神、上野・東叡山寛永寺の建立、とつたえられている。さらに、この鬼門封じの直線は、遠く日光東照宮までつらなっているといわれている。
 意外と知られていないことだが、寛永寺が建立された地には、もともと小野照崎神社が建てられていた。しかし、天海の、
 「京の都に御所の鬼門封じの役割を担って比叡山があるように、江戸の鬼門封じの地としては上野の山こそ最適」
 の一言で、小野照崎神社は下谷へ移転させられる。小野照崎神社は小野篁と菅原道真を祀る神社である。
   (中略)
 そのことを進言した天海が寛永寺に入山する前に住職を勤めたのが、武州川越に存在する喜多院である。
 天海は徳川家康の死後、久能山に安置してあった遺骸を日光東照宮へうつす際、喜多院大堂に家康の霊柩を安置し四日間にわたって法要をいとなんだ。このことが喜多院に隣接するかたちで仙波東照宮が創建されるきっかけとなった。
 仙波東照宮は日光東照宮、久能山東照宮とならんで三大東照宮にひとつとされてはいるが、その規模は日光、久能山に二宮にくらべるとはるかに小さい。
 筆者は、取材のため喜多院を拝観し、仙波東照宮へ足をのばしたのだが、日光東照宮の壮大さ、豪華さからは予測もつかないほどのものであった。
 かつて喜多院は天台宗の関東大本山として君臨していた。その片鱗は、喜多院の大師堂、客殿、鐘楼門など随所にうかがえる。
 『鬼道裁き』の作品中には出てこなかったが、境内の一角にある五百羅漢には圧倒されるものがあった。羅漢の石像が向かい合って対話をしたり、隣り合っている石像が談笑をかわしたりしている。孤独を愛してか、黙々と読書をしている羅漢がいる。千変万化の人の表情、様相が特徴を際だたせて彫られていて、一日見ていても飽きないのではないか、とおもわれた。
 五百羅漢がつくり始められたのは天明二年(1782)で、その後、五十年をかけて五百四十体の羅漢像が完成した、といわれている。天明二年から五十年にわたって製作がつづけられたということになると、松平定信が老中首座に任じられたのが天明八年、長谷川平蔵が加役石川島人足寄場取扱の任についたのがその二年後の寛政二年のことであるから、裏火盗の一員・柴田源之進も、川越探索に出向いたおり、黙々と羅漢の石像造りにはげむ者たちの姿を見いだし、羅漢像に見入ったりしておおいに感動し、世に住む人々のさまざまな生き様におもいを馳せたかもしれない。
 川越取材の収穫は、時の鐘の建造物がそのまま残っていたことである。時の鐘といえば、江戸時代、当時の人々に時を知らせた貴重な建築物で、武士町人にかかわらず日々の生活には欠かせないものであった。川越の[時の鐘]の櫓は奈良の大仏と同じ高さで、いまでも、午前六時、正午、午後三時、午後六時の一日四回、時鐘を響かせ、平成八年に環境省(当時は環境庁)主催の[残したい日本の音風景百選]のひとつに選ばれている。
 川越の街々を歩きまわって感じるのは[袋小路][鉤の手][七曲り][丁字路]など戦国の頃、敵の侵入を妨げる目的でつくりあげらた道々の名残があちこちにあることである。
 喜多院から少し離れたところにある中院は喜多院創建当時の威風が偲ばれ、蔵造りの町並みからは、当時の川越の賑わいぶりが想像できる。
 川越はさつま芋の産地でもあり、取材のさなかに立ち寄った駄菓子横町で食したさつま芋アイス、芋コーヒーなどなかなかの味わいのものだった。
 川越城は江戸時代、代々重職に就いた大名の居城であり、明治維新後、次第に解体されて、いまでは本丸御殿の玄関と大広間を残すだけの無惨な有様を呈している。城内敷地のほとんどが公園や住宅と化しており、当時の川越城の面影は皆無といってよい。
 まさに栄枯盛衰、すべて夢のまた夢、と世の無常を感じつつ、筆者は川越の取材を終えた。

丁半小僧武吉伝 賽の目返し」 沖田正午 幻冬舎文庫 2006年 ★★★
 江戸は天保年間、八歳の少年武吉は兄・幸次郎の影響で一端の壺振りとなっていた。だが悪童たちとの賭博遊びが露見し、川越の呉服問屋・庄田屋へ奉公に出されてしまう。一方川越では博徒組織・竜神組による庄田屋乗っ取り計画が進んでいた。主家の危機を救うため、勝負の場で武吉が壺を振る――丁半博打の天才少年武吉の活躍を描く痛快時代小説。

 第一章 小僧の博奕
       五
 武州川越は、江戸の西北に位置する城下町である。道のりはおよそ十里と江戸から至近のため、幕府の重要な拠点となっていた。藩主も代々幕府重鎮が務め、三代将軍の懐刀といわれた知恵伊豆こと、松平伊豆守信綱が藩主となり、新田の開拓、新河岸川の改修にあたったことでも知られている。
 川越城の南には、三代将軍家光と、その乳母であった春日局にゆかりのある古刹、喜多院がある。川越は『小江戸』とも言われている。江戸大川沿いの花川戸から川越をつなぐ新河岸川の水上交通が発達し、江戸との物資、文化の交流が盛んになり、その呼び名がついた。政治、文化、商業の街として大いに栄えていたのである。
 川越は古くから絹織物の産地としても有名であった。とくに、帯地でよく使われる斜子織(ななこおり)が『川越斜子』と称されて全国に広まっていた。木綿では、一般庶民の着物生地となる『唐桟織(とうざんおり)』の生産が盛んで、それらを取り扱う商店が軒を連ねていた。
 幸左衛門が訪ねようとしている庄田屋は、その中でも一、二を競う呉服太物(ふともの)問屋であった。
 上州藤岡、秩父、地元川越、その他の織物産地から名産絹織物、木綿唐桟生地、麻太物などを仕入れ、それを中山道は、浦和から熊谷に至るまでの各宿場と、北は松山、寄居、南は所沢、狭山、飯能まで、武州一帯の呉服太物小売店や、担ぎ商人に卸すのが庄田屋の商いである。
 享保三年の創業というから、百年以上経つ老舗(しにせ)である。創業以来これといった商いのしくじりもなく、各時代の当主たちが徐々に身代を伸ばし、ここに至った商家であった。
 
 翌日の朝、五ツに家を出た幸左衛門は、歩先を西に向けた。一面の田んぼには刈り取った稲を天日干しにする稲架(はさ)が、秋の日差しをいっぱいに浴びて連なっていた。
 出丸村から川越までは、直線距離にすると一里十町であるが、入間川をはさむのでかなり迂回しなければならない。ちょうど二等辺三角形の形になる。まず入間川に沿って西に一里歩くと、川越と桶川宿を結ぶ道にあたる。そこから南に進路をとると、ほどなく越辺(おっぺ)川と入間川を渡る橋がある。
 この二つの川は少し先の下流で合流し、入間川となる。入間川は、さらに下流で荒川と合流し、荒川と名称を変える。
 橋を渡ると一里弱で川越の城下だ。一面の田園地帯が、急に『小江戸』とおもむきを変え、人が多く行き交う町の活況を呈してくる。
 連雀町にある庄田屋は、間口十六間、奥行き三十五間もあろうかという大店であった。
 幸左衛門が、庄田屋の店先に立ったときは四ツ半近くになっていた。
    (後略)

丁半小僧武吉伝 穴熊崩し」 沖田正午 幻冬舎文庫 2007年 ★★★
川越の呉服問屋・庄田屋に奉公する武吉は、主の久兵衛とともに夜舟に乗り、江戸花川戸へと向かっていた。船上での仕掛け賭博、少女の身請け金六百両の行方、悪徳旅籠のいかさま博奕……。一難去ってまた一難。武吉の行く手にゃ、今日も明日も賽が鳴る! 賽子勝負で悪人たちを懲らしめる丁半博奕の天才少年、武吉の活躍を描く痛快時代小説!

 夜船の博奕
 吉原身請け勝負
 穴熊崩し

丁半小僧武吉伝 面影探し」 沖田正午 幻冬舎文庫 2008年 ★★
川越の呉服問屋・庄田屋に奉公する少年武吉は番頭の言いつけで使いに出る。だが、そんな武吉を待っていたのは悪徳金貸しの一味だった――。ひょんなことから出生の秘密を知り母への恋慕を募らせる武吉のもとへ、ひとつ、またひとつと災難が。降りかかる火の粉を賽子(さいころ)勝負で払えるのか!? 丁半博奕の天才少年、武吉の活躍を描く痛快時代小説。

 面影の辻
 撫子母情
 真っ向勝負

「みかえり花 <小江戸川越お恋御用控> 松岡弘一 コスミック・時代文庫 2006年 ★★★
 小江戸と呼ばれ、江戸の北の守りとして栄える瀟洒な町、川越。盗みや殺しとは縁のなさそうな平穏な町並みの裏には、表に出ないさまざまな事件や騒ぎが潜んでいた。
 毘沙門の市次郎のひとり娘、お恋は、病身の父に代わり、目明しを務めるおきゃんな町娘。父の手先である仙吉や、ぼんくらに見えながらも切れ者、剣の腕前は一流という町方同心・坂井丑之助の助けをかり、川越に巻き起こる難事件の探索に乗り出していく。
 そして、お恋には、母から受け継いだある秘密の能力があるのだが……。情緒あふれる川越の町を舞台に、お恋と仙吉、そして丑之助が、事件に秘められた市井の哀しみ、人情を探り当てていく。
 第一話 行きはよいよい帰りはこわい()
    一
 母親が行方(ゆくえ)知れずになったのは、お恋が七歳のときである。
 捜し疲れたお恋は熱を出し、三日三晩、生死の境をさまよった
 生還してからは、見えない世界が見えるようになり、聞こえない世界が聞こえるようになり、感じられない世界が感じられるようになった。
 
 小江戸川越と呼ばれる瀟洒(しょうしゃ)な町は、江戸から十里のところにある。
 川越に城が築かれたのは長禄元年(1457)で、その後、北条氏の時代を経て、城下町が徐々に整っていった。
 江戸幕府が開かれると北の守りとして重視され、藩主には酒井忠勝、柳沢吉保など幕府の重臣が配された。
 後世に伝わる川越の町ができるきっかけは、寛永十五年(1638)の大火である。翌年、城主となった松平伊豆守信綱によって川越城の整備と町割りが行われた。今でいう都市計画事業である。
 その後、江戸文化を随所に取り入れ、商業も盛んになっていき、小江戸と呼ばれるまでに発展した。
 中央通りの両端、南町、喜多町、高沢町辺りは呉服、太物(ふともの)、小間物(こまもの)、雑貨などを扱う土蔵造りの大店(おおだな)が並び、たいそう繁盛しているが、少し裏通りへ入ると、小さな町家が並んでいる。
 朝方、その中でもみすぼらしい大工町にあるぼろ家の中で、かすれた声がした。
 「お恋、ちょと来い」
 病床の父親、毘沙門(びしゃもん)の市次郎が呼んでいる。
 「やだよ、お父つぁん、しゃれなんか言っちゃって」
 「ばかやろう、しゃれなんかじゃねえ。ちょっと起こしてくんな」
 大儀(たいぎ)そうに上体を起こしかける。昔は腕のよい桶職人だったが、最近は仕事もやめ、寝たり起きたりの状態が続いていた。
 お恋が駆け寄り、背中を支えて、抱き起こす。若いころは役者も顔負けの色男だったそうだが、今は病み衰えて見る影もない。
 お恋はどちらかというと母親似らしく、誰もがほほえみ返したくなるような愛嬌(あいきょう)のある顔立ちだ。
 こんなに痩せちゃってと思い、お恋は悲しかったが、口にも顔にも出さない。いや、出せなかった。
 「おらあ、もうだめかもしれねえ」
 市次郎がため息まじりに言った。
 「そんなことないよ。すぐによくなるって」
 お恋は自分の声が浮いて聞こえなければいいが、と思った。
 「まあ聞きな。坂井の旦那か手札(てふだ)をお預かりして十五年になるが、俺の体はこんなだし、跡継ぎといっても、ひとり娘じゃどうにもならねえ。十手(じって)を旦那に返そうかと思ってるんだ」
 「仙ちゃんがいるじゃない」
 「仙吉はまだ餓鬼(がき)だ。見込みがねえとは言わねえが、ものになるのはずっと先のことさ」
 「あたしがやるよ」
 「御用聞きってえのは、女にできる仕事じゃねえ」
 「小さいころからお父つぁんにくっついて、ずいぶん厄介(やっかい)な事件を解きほぐしてきたじゃあないか」
 「子供だからできたんだ。女親かいねえのが不憫(ふびん)で、おめえを連れて歩いたのがまちげえの元、こんな男勝りになっちまったい。それじゃ嫁の貰い手もねえだろう」
 「余計なお世話だよ」
 お恋は父親の背中をたたいた。
 「痛え、背中が折れる!」
 市次郎はおおげさに痛がった。そのとき、
 「おはようございます」
 玄関先で声がした。
   (後略)

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作成:川越原人  更新:2015/9/1