アズキババア 道の怪。小豆婆。夜中に小川の辺とか小暗い所で小豆をといでおり、人を化かしたり捕って食ったりしたという(『民間伝承』12)。
オイテケボリ 水の怪。川越地方に置いてけ堀というところがあった。魚を釣るとよく釣れるが、帰ろうとすると「置いてけ、置いてけ」と声がかかる。魚を全部返すまでこの声は続くという(『民俗語彙』)。
カッパ 水の怪。河童。北足立郡志木町。旧称館村の引又川の河童が、宝幢院の飼馬を引こうとして失敗、和尚(おしょう)に許された。お礼に翌朝早く、大きな鮒(ふな)二ひきを和尚の枕元に運んだ(林笠翁『寓意草』上)。
ケッカイ 動物の怪。出産時に現れるという。血塊と書くが結界(けっかい)の意味の転じたものか。浦和地方では、出産の時屏風(びょうぶ)をめぐらせるのは、ケッカイが縁の下に駆け込むのを防ぐためといっている。駆け込まれると産婦の命が危ないという(「愛育会調査」)。
ソデヒキコゾウ 道の怪。袖引小僧。比企郡中山村。夕方、道を歩いていると、後ろから袖を引くものがある。驚いて振り返るが、誰もいない。歩くとまた引かれる(『川越地方郷土研究』1―4)。
タヌキノカイ 動物の怪。狸の怪。鉢形(寄居町)のある寺に、人々が集まって連歌の会を催した。一人がなかなか出来ず。丑(うし)二つ頃になると火桶を埋めた板敷の下で笑い声がし、黒い獣(けもの)が飛び出した。朝になると仏の頻羅果(びんらか)を開いて笑ったので、勇気ある者が竿(さお)で叩こうとすると、螺髪(らはつ)が黒い獣に変わって逃げた。狸だという(建部綾足『折々草』)。
テングタオシ 音の怪。天狗倒し。飯能市。ブナ峠の裏の椚平へ久通、栃屋谷の上の三角点の置かれる山などでは、夜、山小屋で泊まっていると、外で木を伐ったり、ドカンとそれが倒れる音がする。朝に見ると、小屋の周囲にはなにもない。入間郡南高麗村の細田でもいう(神山弘『ものがたり奥武蔵』)。
ヤナ 動物の怪。川越市。川越城の三芳野天神の下にある外濠(そとぼり)は伊佐沼の水と通じている。この泥深い濠の主で、この城危急の際、敵兵が搦手(からめて)の堀端まで迫ったとき、霧を吐き雲を起こし魔風を吹かせて暗夜とし、洪水をおこして寄手に方角を失わせた(柳田国男『山東民譚集』)。
あとがき
(前略)
項目の選択にあたり、いくつもの困難があった。第一に妖怪とはなにかという問題である。妖怪と幽霊の区別について柳田国男の定義がある。@妖怪は出現する場所がだいたい一定しているが、幽霊はこれと睨んだ相手のいるところならどこにでもやってくる。A妖怪は相手を選ばないで出現するが、幽霊はこれぞと思う相手にだけやってくる。B出現時間は幽霊は深夜だが、妖怪はだいたい宵と暁の薄明かりである。これはあたりまえで、妖怪は夜更けて人の通らない時刻に出ても仕事にならないのである(『妖怪談義』)。
この事典でもだいたいこの定義に乗っ取って項目の選択をおこなっている。しかし問題がないわけではない。第一に神と妖怪の区別が難しいということだった。柳田国男がいうように、もともと妖怪は零落した神の姿であるとすれば、これもしかたがない。たとえば全国に見られる「子隠し」は「隠し神」であるというし、主に西日本に多い飢餓感を覚えさせる「ひだる」も神という。姫路城の長壁(おさかべ)姫や東北のザシキワラシは神か妖怪か。亡霊の火は幽霊に類するのではないか。そのうえアイヌ民族の妖怪、沖縄県の妖怪はもっと分類が困難なものが多い。より神に近い存在として妖怪があるというべきか。おなじ土俵で論じるには無理があると何度も思わせられた。このことはまた、柳田国男の定義だけではくくれない妖怪の多様な面を表してもいるようだ。また学問としても妖怪学は隅っこのほうにあって、最近になって小松和彦氏が取り上げるまではあまり真剣には論じてこられなかったことにも原因があるのではないだろうか。
(後略)
小豆婆。埼玉県大宮市(現さいたま市)、入間市、川越市、比企郡、児玉郡、大里郡でいう小豆洗いの妖怪。川越市下小坂では、西光寺(現在の下小坂公民館あたりにあった)という新義真言宗智山派の廃寺跡に現れたといわれ、雨の降りそうな夕方にギショギショ、ザクザクと小豆を磨ぐ音をたてたという。この地方では言うことを聞かない子供を脅しつけるのに「小豆婆にさらわれてしまうぞ」などといって、子供を食べてしまう妖怪のように語っていたという。神奈川県横浜市都筑区川和町でも子脅しの妖怪として語られ、小豆磨ぎ婆ともよばれた。
『埼玉県伝説集成 下』 韮塚一三郎編著
『埼玉県の民話と伝説 川越編』 新井博編著
『民間伝承』通巻12号「小豆婆あ」 福田圭一
置いてけ堀。本所七不思議の一つに数えられる。よく魚が釣れる堀があり、そこで釣りをしていると、どこからともなく「置いてけ、置いてけ」という声がする。空耳かと思ってそのまま帰ると、必ず足がすくんで、釣った魚がいつのまにかいなくなってしまうという。本所とは現在の東京都墨田区の南部あたりのことで、置いてけ堀は錦糸町駅前の江東楽天地あたりだとか、横網のあたりだとかいわれるが定かではない。同様の話は東京都では足立区、台東区に伝わっている。足立区では東武伊勢崎線堀切駅近くにかつて池があり、置いてけ堀とよばれていた。千住七不思議の一つとされ、釣った魚を三匹戻せば無事に帰ることができるが、一匹も返さないでいると、葦の草原に迷いこんで帰れなくなったり、魚籠をひっくり返されて魚をすべて取られてしまうという。台東区では蔵前一丁目の榊神社付近にかつておいてけ堀とよばれるため池があり、そこで河童の皿を釣り上げた農民がいて、河童が皿を返して欲しくて「置いてけ」といったそうである。また、埼玉県川越市では、小畔川の堀になったところの話として置いてけ堀の伝説が伝わっている。山形県西置賜郡小国町では、瀬見のあたりの河原を釣り人が通ると「置いてげ、置いてげ」とよぶ淵があったそうで、これはカワワラス(「河童」)が同族である魚を返せと叫ぶのだという。
置いてけ堀の正体は、河童、川獺、狸、狢など様々にいわれ、変わったところではギバチという鯰の一種だとか、追い剥ぎだったという説もある。
『すみだむかし話』 東京都墨田区広報室編
『両国錦糸町むかし話』 岡崎柾男著
『上野浅草むかし話』 末武芳一
『羽前小国郷の伝承』 佐藤義則
『埼玉県の民話と伝説 川越編』 新井博編著
大蓮寺。埼玉県川越市石原でいう怪火。雨の降る晩などに田んぼの小道を歩いていると現れ、目の前に来ると幾つにも分かれて見える。それに構わず過ぎれば、火の玉は自然と遠くにいってしまうが、驚いて騒いだりその火を消そうとすると、目の前を遮り、傘に取り付いて酷い目にあわされるという。その際、傘は燃えないそうである。現れる季節も決まっており、九月から二月の小雨の夜に多かったという。かつてこの地にあった大蓮寺という寺より出たため、この名でよばれているという。
『日本伝説叢書 北武蔵の巻』 藤沢衛彦
埼玉県川越市川越城趾でいう怪異。『十方庵遊歴雑記』にあるもの。川越城の三芳野天神下にある外堀の堀の主は、ヤナという正体不明の怪物であるという。川越城が攻められて敵兵がこの堀まで来ると、たちまち霧を吹いて雲を起こし、魔風を吹かせて四方を暗夜のごとくにしてしまう。また、洪水を起こして、敵兵の方向感覚を狂わせてしまうという。川越城を築いた太田道灌が、ヤナを利用して城を防衛したのだという。
ヤナという妖怪について、太田道灌が川越城を築く際にヤナを利用したなどの記述は『十方庵遊歴雑記』くらいにしか見当たらない。しかし、太田道灌が川越城を築く際、主としての龍神と問答をしたという伝説はある。
太田道灌、道真父子が、川越城を築いていたときの話である。川越城の四方は水田に囲まれていたが、どこも泥が深くて、土塁がなかなか完成しなかった。とくに南面には七ツ釜とよばれる底なしの場所があったので、道灌と道真の苦心は大変なものであった。そんなある日の夜、龍神が道真の夢枕に現れ、「どうしてもこの地に城を築きたいのなら、明朝一番早く汝の前に現れた者を、我に人身御供として差しだせ」という。道真はこれを承知して、次の朝一番に来た世禰(よね)姫を差し出すことにした。世禰姫は訳を知って、自ら七ツ釜のほとりの淵に身を投げた。この犠牲により、川越城はまもなく完成したという。
この伝説の中の世禰姫のヨネが引っかかるところで、このヨネがヤナに変化し、龍神のことを指すようになったのではないだろうか。実は、このヨネというキーワードは、川越城から少し離れた遊女川、または夜奈川(ともによな川)にも見られる。こちらの伝説も少し紹介しておこう。
川越に住んでいた農民の娘およねが、川越城主につかえる武士に見染められ、一六歳で嫁いだ。しかし、その武士の母、つまり姑との間でいざこざが起き、およねは里に帰らされてしまった。しばらくは浮かぬ日々を過ごしていたが、思いあまって遊女川に身を投げた。それよりこの川を遊女川とよぶようになったという。ここを通る娘たちは、小石供養といって川へ小石を投げ入れる。そのとき「およねさん」とよべば、怪しい波紋が広がって、底の方から泡が浮き、石が底に届いたと思われる頃に、「はああい」と、か細い声が聞こえるといわれる。
世禰姫にしろおよねにしろ、水神と関係があるようで、この二つの伝説からヤナという名前が生まれたのであろう。また、ヤナは霧を吐いて雲を起こし、城の場所をわからなくしてしまうと『十方庵遊歴雑記』にあるが、これは川越城内に伝わる霧吹きの井戸のことのようである。この井戸は、敵が攻めてきて一大事というときに、蓋を取るとモウモウと霧を吹いて、城を隠してしまうといわれる。このため、川越城は一名霧隠城ともいわれていたという。どうやらヤナという妖怪は、川越城に関わる水の伝説をまとめたもの、つまり、川越城に関わる水神のことをいっているのでないかと思われるが、どうだろうか。
『山島民譚集』 柳田国男
『川越の伝説』第一号 川越史料調査研究会編
『埼玉県の民話と伝説 川越編』 新井博編著
『日本伝説叢書 北武蔵の巻』 藤沢衛彦
本所七不思議の中でも、一番有名な話である。
思いもかけぬ大漁で、鼻歌まじりに家路をたどっていた釣人が、薄暗くなった堀ばたを通りかかると、
「置いてけ、置いてけ」
と声がする。
何だろう、どうせそら耳だろうと思いながらも、やはり不安になり、足を早めて家へ着いてみると、魚籠の中はからっぽになっている。
これは本所の錦糸堀で起こった出来事であるが、埼玉県川越市にも同じような話がある。
魚を釣るとよく釣れるが、帰りかけるとどこからともなく、
「置いてけ、置いてけ」
と声がかかり、釣った魚を全部返すまでその声は止まぬという。
現在下小坂公民館が建っている場所は、西光寺という新義真言宗智山派の廃寺跡で、樹木がうっそうと生い茂り、日中でもうす暗くてさみしいばかりではなく、うす気味悪い所だった。だから、村の人はふだんはここへは近づかず、「ならいどの捨場」といって、瀬戸物やガラスの破片、トタンの切れ端し、あるいは鳥や犬、猫の死んだのを捨てていた。いつの頃からか、雨模様の夕方などはここから、
ギショギショ ザクザク
と、まるで小豆をといでいるようないやな音が聞えるといううわさがたった。だれ言うとなく、あの音は小豆婆が小豆を洗う音で、小豆婆は子供を捕えては食ってしまう恐ろしい婆と言われるようになった。
だから下小坂では、親の言うことをきかない子供や夕方遅くまで遊んでいる子には、
「小豆婆にさらわれてしまうぞ」
と言ってしかったものだという。
参考=田中伝次郎「名細地区の伝説」昭和51年6月
小畔川が現在のように河川改修されてまっすぐになる前は、非常に曲りくねっていたために、河に沿ってたくさんの堀があった。
堀によっては、堤防の陰になっていたり、草木が多く生い繁る所は人目につきにくく、したがってこうした堀には魚がたくさん棲息していて、人々のかっこうの漁場になっていた。一度こういう堀を発見した者は、だれにも教えず、こっそり行ってはたくさんの魚をせしめて、何くわぬ顔をして帰ってくるのだった。
ある村人が吉田に魚のよくとれる堀を発見した。そこは洪水で流れてきた大木の根が、川の流れが変ったために河原にとり残された所で、下から水が湧いているが、ちょっと見ると根の下に堀があるように見えないので、人目につかなかったのである。
根の下へ入って水の中をのぞき込んでみると、いるわいるわ、ふな、はや、たなごはもちろん、こいまで見える。だれも獲(と)りにきた者がないためか、手を入れると、そばへ寄ってくるのである。
いやはや喜ぶまいことか、有頂天になって自宅へとんで帰り、網と大きなびくを持ってきた。うれしさのあまり少しふるえる手で網を入れた。簡単に入れただけだが、すぐにづしりという手ごたえがあり、ややあって上げてみると、たくさんの銀鱗が踊っている。こうして二、三回入れただけで、たちまちびくはいっぱいになってしまった。
そこで、網をかついで帰ろうとすると、突然だれかが、
「おいてけ! おいてけ!」
と、声をかけた。びっくりしてあたりを見回したが、だれもいない。ただ川の瀬音が聞えるだけで、ときどき蛙が堀へとび込むのが見えるくらいだった。
気のせいかなと思って、ふたたび歩き出すと、また、
「おいてけ! おいてけ!」
という声がするのである。またふり返ってみると、人影はもちろん、何も見えない。これは早く家へ帰ったほうがいいと思って、急ぎ足で歩き出すと、やはり例の声がする。うす気味悪くなって馳け出すと、いっそう大きな声で、
「おいてけ! おいてけ!」
と怒鳴るのである。
とうとう村人は、網もびくも放り出して、家へ逃げ帰ってしまった。不思議なことに、びくを放り出したら、とたんに「おいてけ!」という声はしなくなったのである。
翌日また例の堀へ行って獲ったが、いざ帰るだんになると、きのうと同じように「おいてけ!」の声で逃げ帰る始末だった。それからというもの、その村人は例の堀へは近づかなくなってしまった。
近所の人々が、村人のただならぬようすを察して、跡をつけ、例の魚のたくさんいる堀を発見した。大勢がその堀へ押しかけて、つぎつぎに魚を獲ったが、いざ帰ろうとすると「おいてけ!」の声がかかってしまい、だれも獲ることができなかった。
以来、この堀のことを「おいてけ堀」と言って、だれも近づかなかったという。
―参考―
・「川越地方郷土研究」第一巻四冊 埼玉県立川越高等女学校校友会郷土研究室編 昭和13年3月
・田中伝次郎「名細地区の伝説」昭和51年6月
むかし、古谷上の二ノ関の田の中に、樹木がこんもりと繁り、中へ入ると昼間でもうす暗いという塚があった。この塚に次のような話が伝えられている。
毎年夏から秋にかけて、毎晩のように大きさ一尺(33センチ)ぐらいの火の玉が、この塚から飛び出してきて、空中をゆらゆらとただよい、さらにまわりの村々までも飛びまわって、明け方になると、もとの塚に帰ってくるのである。別に、村人たちに危害を加えるわけでもないので、村人たちはだれも恐れていない。
むかし、この塚のところに大蓮寺という山伏が住んでいた。山伏は他界してから、どうしたわけか不運にもその魂が安住の地を見つけることができず、霊火となって夜な夜なさまようようになり、常に人里近くまでやってくるようになったと言われている。
これにはつぎのような後記がある。大蓮寺火と同じものに、豊後(大分県)の不知火、津国(三重県津市)の二恨坊や宮の火などがある。これは鵁(ごいさぎ)だった。大蓮寺火もこの類ではなかろうか。
河内(大阪府の北・中・南河内の三郡)には、嬉火というのがあって、いつごろだったか旅人にこれがあたり、火が顔の前に落ちた。驚いてすぐそばでよくよく見ると、鳥のような嘴(くちばし)をたたく音がしたが、たちまち丸い火の玉となって遠くへ飛び去った。
参考=太陽寺盛胤「多濃武の雁」 埼玉叢書 昭和4年3月
むかしのおはなしです。砂(すな)の扇河岸(おうぎがし)あたりから仙波(せんば)、古谷(ふるや)にかけては人家もなく、えんえんと水田が広がっておりました。このあたりでは、秋から冬にかけて小雨のふる夜になりますと、不思議な火の玉が飛びだしてくるといいます。ある日、秋の夜もふけたころ、男の人が古谷の方から砂(すな)へ帰りかけたころです。ちょうど小雨が降ってきましたので、いそぎ足で行こうとした時に、とつぜん、うわさの火の玉が飛びだしてきました。そして男の人にだんだん近づいてきます。目の前をさえぎり身体(からだ)に火がつかんばかりに近寄ってきます。あまりのこわさに、うしろもふりかえらず、かけ足で家へ逃(に)げかえりました。このことを、おじいさんに話しますと「それは、だいれんじだべえ、よくさからわずに帰ってきたな、あの火の玉をふりはらったりすると、火にとりつかれて、ひどいめにあうんだ。だまって知らんふりで通りすぎれば火の玉は小さく散っていき安心だべえ」このだいれんじは大蓮寺(だいれんじ)といいますお寺のことで、元町(もとまち)の方にあります。川越あたりで一番最初に火の玉が飛びだしたのが大蓮寺あたりだったので、それがいつか火の玉のことをだいれんじと呼ぶようになったということです。
一 同処古谷上村を西へ出はなれ、六七町にして渺茫(ベウバウ)たる耕地に出、路の左右は果しなき深田のみ、西の方に幽(カスカ)に秩父の山々波涛の如くつらなり、又遥の正面に川越の城を見、左りの方に喜多院の森を見る、又此遠望の風景天然にして奇々妙々たり、むかし、みよしのゝ里、と古哥によみしも理(コトワリ)かや、斯て東の方より川越の城下町にいたる、これより喜多院のうら門際に突あたる事長さ凡三町余、門内中(ナカ)の院は右手にあり、本坊は西南の隅(スミ)に四ツ門を構えたり、中央に本堂あり、大さ八間四面、常に四方を鎖(トザ)して、本尊ありといへども、厨子(ズシ)を鎖(トザ)して拝せざれば論じがたし、此本堂より南の方凡二町にして表門に出、神祖(徳川家康)の御魂屋(ミタマヤ)は右に、南の院は左にあり、境内四五町四方もあらん歟、南北の両門を通り抜るに、長さ四町あまり、松杉(セウサン)繁茂して境内日の目を見ず、両所の門の柱に木の札を打付、仮名を以て山内に於てれいをふる事堅く禁制(キンゼイ)といましめたり、此由来は、此編の上巻第七の条下に述たり、
扨裏門を出て喜多院の構えに添、西の方へゆく事弐町にして、右に川越の城の搦手(カラメテ)を見る、是より城下町にして左右軒をならべ、既にゆく町(事か)三町ばかり、目だつ市中にいたる、此城下町東西長さ凡拾弐三町、南北広さ拾八九町もあるべし、されば本町筋(ホンマチスジ)とかや、右に大手の城門あり、平坦の城郭とはいひながら、むかし太田道灌翁(オオタドウカンオウ)の縄張(ナワバリ)し工夫を以て築(キズキ)し第二ばんの城のよし、いかにも大手の城門の前に土手を築き、是に土塀(ドベイ)をしつらひ、是に矢狭間(ヤザマ)を明(アケ)、通行(ツウゲウ)の路を左右に分て両方より大手の城門へ入(イラ)しむる計策、実に道灌翁の工夫感ずるに堪たり、此城の外を取まく要害をヨナ川といえり、広さ纔(ワヅカ)に六七間に過ずして、さのみ深からずといへども、百万の逞兵(テイヘイ)もわたり越がたしとなん、是はむかしより、此堀にヨナといふ主(ヌシ)住て敵を寄付(ヨセツケ)ざるが故なり、依てよな川と呼り、それはいかなるものぞ、と土人にたづぬるに、東南の方の芦(アシ)の生茂る深き処に住みて、只女(ヲウナ)となりとばかり答え、恐怖してくわしくは物がたらず、是恐らくは大蛇(ダイジャ)の類なるべし、既に城下町の坂をくだり、北へ出ぬけるに、よな川をわたる、川幅漸(ヨウヤ)く六七間、橋の上より水底を見れば水は西より東へながれ、浅き事壱尺余もあらん、川菜(カワナ)といふもの一面に生ぜり、葉形(ハナリ)は大黄(ダイワウ)に似て青く、一枚々々に水底に生じ、流れに随(シタガ)ひ、ヒラヒラと戦(ソヨギ)動く、これ川藻の類なりとなん、東武には見馴ざる水草なり、同じ武州の内といへども拾余里をへだつれば、水草だにかくの如し、況(イワ)んやその外の事に於ておや、
一 氷川大明神(川越市宮下町)は、大手門の前通りを北へ家中町を過、右へ曲れる小路(コウヂ)にあり、古祠(コシ)又壮麗、例祭は九月十五日、但し子・寅・辰・午・申・戌にして隔年たり、此年は極(キワメ)て城主在国なれば、祭礼の練(ネリ)ものを引わたすに、善尽し美尽し、町々よりわれ劣(ヲトラ)じと伊達(ダテ)をあらそひ、要脚を費す事なり、その行粧(ゲウソウ)いかにも花美にして、東武の祭礼に十倍せり、これによりて武城(エド)よりも石原町に旅泊して見物する人又夥(オボタダ)し、
一 みよしのゝ天神(川越市郭町二丁目)、例祭は正月廿五日・二月廿五日・二月廿五日両度にして、場内本丸に勧請すといへども、此日は諸人を許して城内へ参詣なさしむ、予は此日逍遥せざれば、是非を論じがたし、なを此外川越の城の始元、城将移転の年代等は、此編の上巻第四拾六の条下に述たるがごとし、