川越の喜多院は、およそ千百年ほど前に、慈覚大師が建てたといわれる、古いお寺です。この喜多院には、次のような、七つのふしぎな話が伝えられています。
(一)山内禁鈴
だいぶむかしのことになりますが、喜多院に、ある晩おそく、一人の女がやってきて、
「おしょうさんに会わせてください。」
とたのみました。おしょうさんは、こんな夜おそくどんな用事だろうと、ふしぎにおもいながらも、話を聞くことにしました。女は、
「とつぜんのことで、びっくりなさるかもしれませんが、このお寺の鐘を、きょうから百日の間つかないとやくそくしていただきたいのです。もし、このやくそくを守っていただければ、この鐘の音をもっとよくしますから。」
と、熱心に話すのでした。おしょうさんは、おかしなことだなと思いましたが、何かわけがあるのだろうと考え、ひきうけました。女は、喜んでおしょうさんに何度もお礼を言って帰っていきました。
さて、おしょうさんが女に、鐘をつかないというやくそくをしてから百日めの晩のことです。
「こんばんわ。」
女の声がしたので、おしょうさんが出てみますと、今まで一度も会ったことのない人が立っていました。おしょうさんが、
「何か、ご用でも……。」
とたずねますと、
「じつは、おしょうさんにお願いがあってまいりました。」
と言うのです。女の人の美しいすがたと声に引きこまれるように、おしょうさんは、
「どんなことでしょう。わたしにできることでしたら。」
と言ってしまいました。女の人は、
「今夜、このお寺の鐘を一回だけでも鳴らしてくださいませんでしょうか。」
と、美しい顔にえみをたたえて言うのです。おしょうさんは、前にたずねてきた女の人に、きょうまで鐘をつかないとやくそくしたことが、頭のすみにありましたが、
「はい、つきましょう。」
と、思わず言ってしまったのでした。
おしょうさんは、小僧さんにいいつけてすぐに鐘をつかせました。
「ゴーン。」
鐘の音が鳴り終わらないうちに、おしょうさんの前にいた美しい女の人は、みるみるうちに竜となって雲をよび、風を起こして天にのぼっていきました。
このようすを小僧さんは知ってか知らぬか、もう一つ鐘を鳴らしました。ところが、鐘は、
「ゴン。」
という音がするだけで、ひびきがないのです。小僧さんは、ふしぎに思い、何回も力いっぱいついてみましたが、いい音がしませんでした。
そのときです。とつぜん、お寺の上に黒雲がたれこめてきたかと思うと、大つぶの雨がふりはじめ、かみなりがとどろきわたりました。
このことがあってからというもの、喜多院では、けっして鐘をつかず、そのうえ、境内では、鈴の音をたてることも禁じたということです。
(二)琵琶橋
ある日のこと、喜多院の尊海というえらい坊さんが、何人かの弟子たちといっしょに、用事があって出かけました。ところが帰るとき、道に迷ってしまいました。あちこちと歩いているうちに川の岸に出てしまいました。運の悪いときは悪いことが重なるもので、川に橋がかかっていないのでわたることもできません。坊さんたちがとほうにくれていますと、そこに一人の琵琶法師がたまたま通りかかりました。そして、
「わたしが橋を作りますからわたってください。」
と言うやいなや、自分の持っている琵琶を川にうかべました。すると、ふしぎなことに、琵琶が、みるみるうちに橋になったのです。尊海をはじめ、坊さんたちは、その橋をわたり、ぶじにお寺に帰ることができたということです。
それから何年かして、この琵琶をうかべたところに橋がかけられましたが、「仙波琵琶橋」とよばれるようになりました。
(三)おばけ杉
喜多院の閻魔堂のわきに、ふつうのスギとちょっとかわったスギの木があったそうです。木のはだが、そのへんに生えているスギとはちがって、ヘビのうろこのようなもように見えるので、蛇紋スギともよばれていました。
そのうえ、木はだを切りつけますと、真っ赤な血が流れたというのです。このために、人よんで「切血出杉」とか「おばけ杉」といったのです。
しかし、かれてしまったのか、切りたおしてしまったのか、今はありません。
(四)三位稲荷
喜多院の住職実海僧正は、たいへん徳の高いお坊さんでした。あるとき、鈴を鳴らしながらお経を読んでいるうちに、からだが空中にうきあがり、あっという間に妙義山(群馬県)の方に飛んでいってしまったということです。
弟子の三位という小僧さんは、そのとき、たまたま食事のしたくで、みそをすっていました。
三位は、実海僧正が天にのぼったと聞いて、すぐに後を追いかけようと、近くにあったほうきを持ってとびあがったのですが、法力がたりず、お寺の庭の築山の上に落ちてなくなりました。
お寺では師をしたって命をおとした三位をあわれに思い、三位の落ちたところに「三位稲荷」を建てたのです。これが、いま、喜多院の築山の上にある稲荷です。
(五)潮音殿
喜多院の本堂は、別に「大師堂」ともよばれています、これは、慈恵大師をまつったお堂だからです。
さて、この「大師堂」にはいってすわっていますと、どこからともなく潮のひびきがしてくるのです。そのために、いつのまにか「潮音殿」ともよばれるようになりました。
お堂の中には、天海僧正が、「潮音殿」と書いた額が、今でも残っているということです。
(六)底なしのあな
むかし、日枝神社の境内に、いろいろなものをすてるあながあったそうです。今では、石の囲いがしてあるだけで、あなはありません。
さて、このあなに何か投げ入れると、それが、かならず喜多院の双子池にうかんでいたということです。
また、どんなにごみをはきこんでも、一夜明けると、すっかりなくなってしまうということで「底無掃溜」ともよばれています。
(七)明星の井戸と明星の杉
永仁四年(1296)のことといいますから、今からおよそ七百年も前のことです。尊海僧正が、牛車に乗って井戸のそばまで来ますと、牛車をひいていた牛が、どうしても動かなくなってしまいました。僧正が、牛車から下りると、かたわらの井戸がとつぜんかがやき出し、井戸の中から明るくかがやく星が現れて、近くの古いスギのこずえにしばらくかがやいていたということです。
明星がかがやいた井戸を「明星の井戸」といい、明星が、こずえにかかったスギを「明星の杉」とよぶようになったということです。
この井戸とスギのあったところは、いま、駐車場になっています。
名刹に秘められた知られざる怪異
平安時代、慈覚大師によって開かれた喜多院は、川越大師の名で親しまれている天台宗の関東総本山。日々、参拝客でにぎわう境内は、ミステリームードとはいささかそぐわない感じもするが、じつはここは奇談の宝庫ともいえるほどの不思議がいっぱいの地で、そのなごりは、いまも七不思議として喜多院の裏面史を彩っている。
この七不思議は、伝えによっていくらか内容に相違があるが、ポピュラーなものを選ぶとなるとつぎのようになる。
(1)山内禁鈴
鎌倉時代のこと、喜多院に大変蛇好きの僧がいて、近くの池のほとりで見つけた小さな蛇を寺にもち帰って育てはじめた。そのうちに蛇はだんだん大きくなり、僧ももてあますほどになった。そこで僧は「私が鈴をならすまでは、決して姿を現わしてはならぬ」と申しつけて、蛇を五重の塔(一説には多宝塔)の下に封じこめた。ところが、やがてその僧も死んでしまい、わけを知らない僧がうっかり鈴を鳴らしたところ、大蛇が現われてたけり狂った。以来、喜多院では鈴を鳴らすのを固く禁じ、縁起ものの鈴を売るようになっても振子をつけないようにした。
(2)潮音殿
喜多院の本堂は、鎌倉時代に慈恵大師(元三大師)を勧請したことから大師堂と呼ばれているが、別名潮音殿≠ニもいわれ、ここに入って耳をすますと潮の音を聞くことができるという。
(3)五百羅漢
山門の右側にある石の羅漢像。全部で535体あり、つくられたのは江戸末期のことでさほど古いものではないが、表情の豊かさに定評があり、ひとつとしておなじ顔をしたものがない。こうしたことから、深夜ひとりで行ってひとつひとつ顔をなでてゆくと、必ず一体だけぬくもりをもつものがあり、それに印をしておいて朝方来てみると、その顔は亡き親の顔、あるいは自分の顔にそっくりだという。残念ながら、現在は昼間しか拝観が許されていないのでためすべくもないが、じっくり見ていくと、たしかに親の顔や自分の顔に似た像にお目にかかれる。
(4)底無しの穴
享保十九年(1734)九月、川越藩の普請奉行が本堂の修理をしようと調査をしていたところ、床下に四〜五尺の穴が見つかり、そこから四本の横穴が東と西と北と北西にのびていた。寺の話では、その昔、尊海僧正が竜を封じこめた穴だろうというので、それ以上の調査はされなかったが、先に述べた潮の音というのは、あるいはこの穴と何か関係があるのかもしれない。
(5)三位稲荷
喜多院では箒を寝かせて置いたり、柄を上にして置かない。また、すり鉢とすりこぎを使ったあと、いっしょに置かない。もしそれを破ると寺に凶事が起こるからだ。これは第二十七代住職の天海僧正をしたって童子に化けた三匹の狐が使った道具を供養する意味があるという。その狐をまつった三位稲荷が、書院の築山の上にある。
(6)鐘楼門の鷹
山門を入った左側に慈眼堂の山門だといわれる鐘楼型の門がある。この門には、前面に竜、背面に鷹の彫刻が二体ずつはめこんであるが、名工・左陣甚五郎の作と伝えられ、あまりのできばえに、境内の鳩は恐れをなしてか、この門にだけは寄りつくことがない。
(7)お化け杉
閻魔堂のかたわらにあった杉で、これを切ると血が流れ出たので、この名がつけられたという。またここには、人が死ぬと新しい足跡がつくという亡者杉なる奇木があったが、現在はお化け杉ともども失われてしまったとのことだ。
「喜多院の龍」
そのむかし、川越は「小江戸」と呼ばれ、たいそうにぎわった城下町であった。その町の中ほどに、千何百年もまえに建てられた喜多院という、たいそう古い大きな寺がある。 なんでも、徳川様にもゆかりのある寺だともいう。
この話は、今からずっとむかしにさかのぼることで、もういつのことであったか…。
この喜多院のがっしりした門を、外からトントンと、ま夜中にたたくものがあった。 月夜とはいえ、あたりはうっそうとした森で、ひとっこひとり通らないさみしい場所である。
「もし、この門をあけてくださいまし。」
美しく、すんだ声が山門から境内へと伝わり、おどろいて和尚が出てみると、そこには、やさしく美しい女が立っていた。
「このま夜中になんのご用でござらした。それにあなたは見かけないひとじゃが、どちらからやって来なすったのじゃ」
と、和尚がたずねると、女は、
「はい、わたしはこの近くにうつり住むものでございます。 こんなま夜中にさぞおどろかれたことでございましょうが、わたしは和尚様にお願いがあってまいったものでございます。 どうか、お聞きとどけになって下さい。」
と、真剣な顔で言う。
「その願いというのはなんですか。まあ、話してごらんなされ。」
和尚もつい、その女の言うことに引き込まれ、そう言うと、女は、
「はい、ではお話しいたします。ほかでもござりませんが和尚様、この寺にある鐘を今日から百日の間つかないという約束をわたしにして下さい。 そのかわり、約束をはたして下さいましたら、この鐘をもっと鳴りのよいりっぱな鐘にしてさしあげます。」
とたのむ。その様子があまりにも熱心なので、和尚はしばらく考えていたが、この願いを聞きとどけてやらなかったならば、この女がどんなに悲しむことだろうと思い、
「いかにも承知しました。それでは百日の間、かならず鐘をつかないと約束しましょう。」
とかたく約束してしまった。すると、その女はたいそう喜んで、
「このご恩は決して忘れはいたしません。」
と言って、いそいそと帰っていった。
この夜更け、なんの必要があって、このようなことを願いにきたのであろうか、考えれば考えるほどおかしなことばかりなので、和尚はそっと女のあとをつけていってみた。 女は月の薄明かりに灯もともさずに、なれた足どりでひたひたずんずん歩いていく。 そしてやがて、喜多院の南のすみにある深い堀のあたりまで行くと、すっと姿が見えなくなってしまった。
はて、不思議なこともあるものだと思いながらも、和尚は約束を守って、つぎの朝から鐘をつくのをぱたりとやめた。 そして、日はたって九十九日間が過ぎた。 ところがあと一日で百日になるというその日の夕方のことであった。 ひとりの女がまた喜多院をたずねてきた。
みるからにうるわしく静かそうな女であった。 しかも、いつぞや鐘をつかないでほしいと頼んだ女とはまるっきり違っている女であった。この女も、
「和尚様、お願いがござります。どうか、お聞きとどけくださいませ。」
と、前の女と同じようなことを言う。打掛けにかつ衣姿で、いかにも気高いこの女に和尚は魅せられてしまって、つい、
「はい、なんでも」
と返事をしてしまった。
「これは、まことにありがたいことでござりまする。 では、ご無理でもございましょうが、今夜、一夜だけでもよろしゅうございます。どうか、この寺の鐘をおつきになって、わたくしに聞かせてくださいませ。」
と、こんどの女は前の女と反対のことをたのむのである。 和尚は前の女との約束もあり、もう一日でその日もあけるので、その訳を話してなんとか日を延ばしてもらおうかと思ったが、その女の、やさしく哀願するようなその様子をみて、 どうしても断ることができず、ついにまた、
「よろしゅうございます。」
と返事をしてしまった。女は喜んで、
「ああ、ありがたや、和尚様。なんと心のやさしい方でござりましょう。 では、さっそくですが、今すぐ鐘をついてくださいますでしょうか。」 と催促する。おしょうは、はて困ったことになったものだ。前の女がこのことを知ったら、どんなに悲しむことであろう。 わしはなんということを約束してしまったのだろうと、心の中で思いながらも、口では、
「よろしい、ついてしんぜよう。」
と言って、小坊主に言いつけて、久しぶりに鐘をつくこととなった。 小坊主はかしこまって、鐘楼の石段をとんとんと登ると、柱にしばりつけてあった撞木(鐘つきのぼう)をとりはずすと、静かに一呼吸してから、 鐘を打ち鳴らした。鐘は九十九日ぶりに
「ゴオーン。」
と一つ長く尾を引いて川越の町屋から遠く入間野のはてへすいこまれるように鳴りひびいていった。 と、まだ、その余韻が和尚の耳に残っている間に、突然、和尚の前にかしずくようにして立っていた女は、そのときたちまちおそろしい龍の姿となった。 そして雲を呼び、そのからだを幾重にも折り曲げ、目を金色にこうこうと光らせ、風をおこし、和尚が驚く間もなく、天に昇っていってしまった。 これは、あっという間の一瞬の出来事であった。
このものすごいありさまを知らない小坊主は、また静かに呼吸をととのえ、腕に力をこめ、からだを後ろに引いて、二つめの鐘を撞いた。 すると、どうだろう。今まで余韻じょうじょうと鳴りひびいていた鐘が、
「ゴン!」
とまるで木のかたまりでもたたいたかのように、にぶい音を出して鳴るだけであった。 小坊主は自分の耳を疑いながら、なおも鐘をつきなおしてみた。やはり、鐘のひびきはにぶいのだ。 小坊主が不思議に思っているおりしも、今まで雲一つなかった天がにわかにかきくもり、突然烈風がおこり、雨が降り出し、閃光がひらめき、ときならぬ雷が、ろうろうと鳴りわたった。 雨と風はごうごうと阿修羅のようにこの喜多院の広い山内をあれまわった。
しかも驚いたことに、小坊主の目にうつったのは、この嵐の中で和尚がこまのようにくるくる回りころげている姿であった。 走りよって止めようとしたが、手の出しようがなく、ただただ、見ているのみであった。
やがて和尚は、九十九度ころげて、ようやくからだが止まったという。
このことがあってからのち、和尚は気がふさぎ、部屋にこもったまま考えこむ日が多くなった。
ある日、和尚は小坊主に向かって、
「なんでも、前にきて百日鐘をつかぬ約束をした女は、この南の堀の主で、鐘ぎらいの龍であり、わずか、あと一日で願いがかなわなかったので、昇天することができず、落ちてしまった。 つぎに訪ねてきた女は鐘が好きな龍で、伊佐沼の主であったにちがいない。」
と語ったという。
喜多院では、このことがあってからことのほか鐘をつくことを忌みきらい、今でも山内での鈴ふりをかたく禁じ、もし鈴をふったものあっても鳴らないようにと、 どの鈴にも振り子をつけていないという。
川越城内にある三芳野神社の裏には大きな杉の老木があった。しかし、枯れてしまったので伐り倒され、それが、つい最近まで神社のわきに置いてあった。
この辺は三芳野の里といわれ、『伊勢物語』に詠(うた)われている次の歌のように、むかしから有名な歌枕だった。三芳野の田面(たのむ)の雁はひたぶるにこの歌に詠われる雁と、三芳野神社の杉について次のような言い伝えがある。
君が方にぞよると鳴くなる
わが方によるとなくなる三芳野の
田面の雁をいつかわすれむ
いつの頃からか、三芳野の田面(たのむ)の里に、毎年北のほうから初雁が、少しも時を違えず飛んできた。そして、いつも杉の真上まで来るとガアガアと三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。この故事によって、川越城は一名初雁城ともいわれている。
また、太田道灌がこの杉のこずえに旗を立てたということから、旗立の杉ともいっている。
―参考―
・口碑伝説第一輯 川越之部其の一 埼玉県立川越高等女学校郷土室 昭和10年10月
・「初雁の杉」川越の伝説第一輯 川越史料調査研究会 昭和14年2月
川越城の東北のすみ、現在は農業センターになっている、その前に、石で囲いのしてある井戸がある。これが、むかしから語り伝えられている霧吹きの井戸である。
ふだんはふたをしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、このふたを取ると、中からもうもうと霧がたちこめて、すっかり城のまわりを包んでしまう。城は霧に隠れてしまって、敵からは見えなくなったという。したがって川越城は一名霧隠(きりがくれ)城ともいわれている。
―参考―
・「霧吹の井」川越の伝説第一輯 川越史料調査研究会 昭和14年2月
・「霧吹の井戸」口碑伝説第一輯 川越之部其の一 埼玉県立川越高等女学校郷土室 昭和10年10月
太田道真・道灌父子が川越城を築いたさいに、次のような悲しい物語があった。
川越城の三方(北・西・東)の水田は泥深く、また、ことに城の南には、七ツ釜という底なしといわれる深い所が七ヵ所もあった。こんな泥深い所だったから、築城に必要な土塁がなかなか完成せず、道真父子の苦心はたいへんなものだった。
ところが、ある夜、竜神が道真の夢枕に立っていわく、
「この地に城を築くのは、人力のとうてい及ぶところではないが、どうしても汝(なんじ)がここへ築城しようというのなら、一つよい方法がある」
道真、これを聞いて非常に慶び、
「では、そのよい方法とは?」
と問えば、竜神は、
「その方法とは、汝が人身御供(ひとみごくう)を差し出せば、必ず神力によってすみやかに成就する。それには、明朝一番早く汝のもとに参った者を、われに差し出せ」
道真は事の意外さに驚き、かつ不審に思いながら、明朝のことを考えていると、ふと思い浮かんだのは、毎朝だれよりも早く自分のもとに尾をふってくる愛犬の姿であった。ふびんとは思ったが、これも築城のためにはやむを得ない。
「承知しました。仰せのとおり明朝私のもとへいち早く来た者を、必ず犠牲(いけにえ)として差し上げます」
と、道真は竜神にかたい約束をしてしまった。
やがて夜が明けて、道真は昨夜の不思議な夢のことを思い出し、竜神に差し出す約束をした愛犬がかわいそうでならなかった。が、不本意ながら、城のため約束をはたそうと愛犬の来るのを待った。
ところが、どうしたことか、けさにかぎってなかなかやって来ない。と、その時道真の前に現れたのは、愛犬ではなくて、最愛の娘の世禰(よね)姫のつつましやかな姿であった。
さすがの道真も、失神せんばかりに驚き、姫がやさしく朝のあいさつをしたのにも応(こた)えられないで、眼には早くも玉の露を宿していた。
姫は父の前へつつましく両手をつき、昨夜見た夢の一部始終を物語るのであった。それは、くしくも父と同じ夢だった。姫はかたい覚悟をきめ、城のため、人のために一命を捧げようと、いつもより早く起きて来たといい、犠牲になることを父にお願いするのだった。
天下にその名を知られた勇将太田道真でも、いかに築城のためとはいえ、わが最愛の娘を竜神に捧げることは、たとえ竜神がどんなに怒ろうとも、とうていできないことであった。だが、姫のかたい決心には変りがなかった。
このうえは、父に内密にするよりほかはないと姫はある夜、家人のすきをうかがって館を出て、城の完成を祈りながら、七ツ釜のほとりの淵に身を投げて果てたのであった。このとうとい犠牲があってからのち、川越城はまもなく完成したという。
参考=「人見供養」川越の伝説第一輯 川越史料調査研究会 昭和14年3月
浮島稲荷社の裏手一帯は、つい十年ぐらい前までは、水の湧き出る池が何カ所もあって、萱(かや)や葦(あし)が密生した湿地帯だった。自然の湧水を「釜」といったので、そういう所が七つあったところから、一名「七ツ釜」ともいわれている。
最近では、地下水位が下ったり、下水道が完備されたり、埋め立てが進んだりして、そこには川越市の診療所ができたり、住宅や商店などが建ち、かつて七ツ釜といわれた沢地のおもかげはうすれてきている。
この辺一帯の沢地は、田面(たのむ)(多濃武)の沢といい、むかしから『新古今集』などの歌によっても有名な所である。
ここに生える葦は、不思議なことに片葉で、次のような話が語り伝えられている。
たぶん戦国時代の出来事であったろう。川越城が敵に攻められて、落城もあすに迫ったときのことであった。
ときの城主に一人の姫があった。その夜、乳母に導かれてそっと城から逃げのび、ようやくこの七ツ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずして釜の中へ落ちてしまった。驚いた乳母は懸命になって助けようとつとめたが、女一人の力ではどうすることもできなかった。
周囲を敵にとり囲まれているのも忘れて、大声で救いを求めた。けれども、だれ一人助けにきてくれる者はなかった。かわいそうに姫は、浮きつ沈みつ、ただもがくばかりであった。やっとのことで、川辺の葦にとりすがることができた。そこで、葦にすがって岸へはい上がろうとしたが、葦の葉がちぎれてしまい、また水の中へ戻されてしまった。とうとう力尽きた姫は、葦の葉をつかんだまま、暗い深い水底へ沈んでしまい、哀れな最期をとげたのであった。
だから、この沢地には生える葦は、姫のうらみによって、どれを見ても片葉である。
参考=「七ツ釜と片葉の葦」川越の伝説第一輯 川越史料調査研究会 昭和14年2月
むかし、川越城主にたいそう狩猟の好きな殿さまがいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。この殿さまのお供をして、いっしょに出かけていた家来の一人に、たいそう美男子の若侍がいた。
ある小川のほとりを通るたびごとに、きまって一人の美しい百姓の娘に出会った。名前をおよねといった。若侍はいつの頃からか、この娘を恋するようになり、娘もまた、若侍の姿を待ちこがれる身となった。
こうしていく度もめぐり会いを重ねるうちに、いつしかすまいを問われ、名を問われるほどの間がらとなり、やがて縁あってこの百姓の娘は、十六の春、若侍の家や嫁入りした。
二人の間はいたってむつまじかったけれども、若侍の母親、つまり姑は、武士の家へ百姓の娘は似つかわしくないといって、事ごとにおよねをいびったのである。
ある年の夏、虫干しの折、およねは片付けものをしているうちに、この家に秘蔵されていた鉢を取り落として壊してしまった。それがまた、姑がいびるよい口実を与える結果となり、とうとうおよねは追い立てられるようにして、実家へ帰されてしまった。
その頃およねは、若侍の子供を宿していたが、ところが、自分では気がつかなかった。実家へ帰ってから、はじめてそれを知ったおよねは、せめてこのことを恋しい夫に知らせれば、ふたたび呼び戻してくれるのではないかと考えた。そして、かつて夫が殿さまの狩猟のお供をしてきて、自分とめぐり会った小川のほとりで待っていれば、いつかは再会できて、子供のことを告げられるだろうと思い、毎日そこへ出かけて行った。が、ついにめぐり会うことができなかった。殿さまはその頃、病気で狩猟に出られなかったのである。
それからしばらくして、およねは殿さまの御他界のことを知った。もう夫に会うことはできないと、およねはわれとわが身をわれみ、夫と出会った思い出の小川の淵へ身を投げてしまった。
名もない小川は、このあわれな娘が身を投げたことから、やがて「よな川」と呼ばれるようになった。川の名は「およね」からきているとも、よなよなと泣く声が聞えるからともいわれている。現在は「遊女川」と書いて「よな川」と読んでいる。
いまでも若い人たちは、この小川のほとりを通るときは、
「およねさあーん」
とよんで、小石を拾って投げ込む。小石が底へ届いたと思われるじぶん、底のほうからあわが浮いて出てくるのを、およねさんの返事だといって彼女の霊を慰めている。
また、浮いてくるあわは、およねが嫁入りしたときの、定紋の形になって現われるともいわれている。
―参考―
・口碑伝説第一輯 川越之部其の一 埼玉県立川越高等女学校郷土室 昭和10年10月
・「遊女川の小石供養」川越の伝説 川越史料調査研究会 昭和14年2月
太田道真・道灌父子が川越城を築城するとき、堀へはる水を、どこから引いてこようかと毎日踏査して歩いた。しかし、これという水源も見つからず、困っていたときのことである。
ある朝、道灌が何げなく初雁の杉のあたりを通ると、一人の老人が井水に足を浸して洗っているのに出会った。見れば、そこはこんこんと湧き出る泉だった。道灌は大いに喜び、これはまさしく、日ごろ信仰している天神の御加護であったかと、改めて感謝したのだった。
しばらくして、その老人に向い、この地に城を築く決意である旨を物語り、水源となっている場所を尋ねた。すると老人は、快く承諾し、さっそく道灌を水源へ案内してくれた。そこは、満々と水をたたえた底知れぬ深さの水源地だった。道灌は手をうって喜び、老人の好意に対して、心からお礼の言葉を述べ、再会を約して別れたのであった。
こうして、はからずも懸案(けんあん)を解決できた道灌は、この地に難攻不落の川越城を完成させることができたのである。
さて、かの老人とは再会の折もなく時をすごしていた。だが、かつて井水で足を洗っていたときの姿が、気品にあふれていたので、これぞ、まぎれもない三芳野天神の化身であったかと納得し、以来この井水を天神御洗(てんじんみたらし)の井水と名づけて大事にして、神慮にこたえたという。
以来道灌は、ますます敬神の念を深くし、有名な川越城内で連歌の会を催し、千句を天神に奉詠したのである。
なお、この水源地は川越城内清水御門のあたりとも、また、八幡曲輪とも、三芳野天神社付近とも言い伝えられている。城の堀の水源となったのはもちろん、城下周辺の用水としても利用されてきたのである。
参考=「天神洗足の井水」川越の伝説第一輯 川越史料調査研究会 昭和14年2月
江戸時代初期の川越城主酒井重忠侯は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)や蹄(ひずめ)の音にやすらかな眠りをさまされていた。天下に豪勇をうたわれた重忠侯だったが、あまりに毎夜続くので、ある日易者に占ってもらった。すると、城内のどこかにある戦争の図がわざわいして、侯の安眠を妨げているという卦(け)がでた。
そこで、さっそく家臣に土蔵を調べさせたところ、果して、堀川夜討の戦乱の場面をえがいた一双の屏風画がでてきた。
さすがの侯も、ことの以外さに驚き、考えた末、日ごろ信仰し帰依している養寿院へ、半双を引き離して寄進してしまった。すると、その夜からさしもの矢叫びや蹄の音も聞えず、侯は安眠することができたという。
現在でも養寿院では、このときの屏風画を秘蔵している。筆者は住吉具慶筆と伝える。
―参考―
・「城中蹄の音」川越の伝説第一輯 川越史料調査研究会 昭和14年3月
・岸伝平「酒井重忠と戦陣の屏風画」川越夜話 昭和30年6月
民話には、自然界の不思議を説明したり、信仰的な要素を説いたりするものが少なくない。それらは、単独で伝承されるだけでなく、いろいろに関連付けて伝承されることもある。各地に伝わる七不思議などはその一つだ。
七不思議は、紀元前のギリシアにある七つの建造物を指したものが、世界で古いものとして知られるが、日本では、主に仏教の影響で「七」が聖なる数と意識され、のちに不思議なものを七つまとめる形が広まったようだ。
中世にはすでに信州「諏訪の七不思議」が知られ、@凍結した諏訪湖の上を氷の亀裂が走るさまを、下社の姫神が上社の諏訪明神のもとへ通うものとした「湖水神幸」、A元旦に御手洗川から蛙を採り神前に供える「元旦蛙狩」、B小正月に葦の筒に小豆粥を炊き入れ、その入り具合で五穀の豊凶を占う「五穀筒粥」、Cわずか三十日で苗が実る「御作田」、D正午になると毎日滴がしたたる「宝殿点滴」、E「高野の耳裂け鹿」、F「葛井の清池」が取り上げられている。これらは、いずれも諏訪大社の祭祀行事と深く関わっている。
「越後の七不思議」も江戸時代には記録されている。文献によって挙げられるものは一様ではないが、@加法寺村の燃風火(天然ガス)、A蓼村の臭水(くそうず)(石油)B国中の鎌いたちC寺泊の波の題目(日蓮が海上に書いた題目が波に浮かび出る)D鳥屋野の逆様竹(親鸞上人が刺した杖が成長したもの)などがある(『東遊記』『北越奇談』などに紹介)。いずれも、石油など当時の人々から見れば理解を超えた現象や、日蓮・親鸞といった聖者の行為と結び付けた伝承となっている。
東京都墨田区の「本所の七不思議」も、江戸時代にすでに知られたもので、@魚を持ち帰ろうとすると「置いてけ」と声のする「置いてけ堀」、A誰もいないのに祭囃子が聴こえる「狸囃子」、B前方にどうしても負い付けない明かりが灯る「送り提灯」、C消えたことのないそば屋の「消えずの提灯」、D天井から大足の化け物が現れ洗うと消える「足洗屋敷」などが挙げられている。ここでは、信仰的なものよりやや怪談めいた内容が、取り上げられるようになっている。
このような七不思議は、埼玉県川越市、栃木県大中寺、静岡県遠州、奈良市法隆寺、広島県宮島など、各地に伝えられている。
今日、この七不思議の場は、学校に移っているようだ。全国の学校で七不思議が語られている。「夜中に階段の数を数えると十三段に増えている」、「夜、音楽室から『エリーゼのために』のピアノが聞こえてくる」「美術室をのぞくと、モナリザの肖像画の目が動く」「学校のできる前は墓場だったので幽霊が出る」などがそれだ。中には「七つ全部知ると死んでしまう」などのタブーも伝承されるところもある。