川越の民話と伝説(2)


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「武蔵川越昔話集 全国昔話資料集成20 鈴木棠三編 岩崎美術社 1975年 ★★★
 本書は、埼玉県立川越女学校の生徒諸嬢が、昭和十一年の冬期休暇の宿題として提出された昔話の採集より抜萃したものである。
 この採集事業の経緯は、別掲の山田勝利氏の文に詳しいが、同地方の郷土研究が山田氏らの指導によりすでに緒について居り、昔話採集もその事業の一環として企てられたものであった。
 私は、柳田国男先生の御指命により、一日同校へ出向いて、全生徒に昔話採集の必要、研究の現状、将来、また採集上必要な注意などについて講演をし、さらに翌春集まった宿題の原稿を整理して一書にまとめる用務を仰せ付かったのであった。
 川越女学校では、山田勝利教諭と野本米吉教諭とが直接この仕事の指導監督に当られ、生徒提出の原稿をすっかり浄書までされて、柳田先生の手許に提出されたもので、原稿の量は千余枚に達した。
 これを選択整理して、四六判一五五ページの冊子にまとめたのが、旧版の『川越地方昔話集』で、昭和十二年四月、民間伝承の会から発行された(その後、昭和五十年二月、『日本民俗誌大系』関東篇に再録)。(序より)

   −目 次−
1、桃太郎1・2・3・4・5・6・7/2、瓜姫1・2/3、子育て幽霊/4、一寸法師1・2・3・4/5、親指太郎/6、寝太郎婿聟入り/7、歌詠み聟1・2/8、鶴女房/9、狐女房1・2/10、猿聟入り1・2・3・4・5・6・7/11、蛇聟入り/12、蛙報恩1・2・3/13、蟹報恩1・2/14、皿々山1・2/15、姥皮/16、継子の椎拾い/17、お花お雪/18、継子と笛/19、八石山1・2/20、取り付く引っ付く/21、笠地蔵1・2・3・4/22、黄金の斧1・2・3/23、塩吹き臼1・2・3/24、文福茶釜1・2/25、腰折れ雀/26、舌切り雀1・2・3・4/27、鼠浄土1・2/28、地獄浄土/29、灰蒔き爺/30、竹伐り爺1・2/31、鳥呑み爺/32、猿地獄/33、瘤取り話1・2・3/34、三枚のお札1・2・3・4/35、天道様金の鎖1・2・3・4/36、牛方山姥/37、食わず女房1・2・3・4・5・6/38、宝化け物/39、化け物問答/40、運定め話/41、親捨て山1・2・3・4・5/42、たのきゅう1・2・3/43、首のすげ代え/44、鈴鹿山の盗人/45、鼠経1・2/46、まのよい猟師/47、源五郎の天昇り/48、三人片輪/49、法螺くらべ1・2/50、無言くらべ/51、長い名の子供/52、一家の馬鹿揃い/53、聞き違い/54、魚屋と小僧/55、嘉兵衛鍬/56、愚か村の話 1都言葉 2無筆の願書 3長頭を廻わせ/57、愚か聟(息子)の話 1団子団子(1)・(2)・(3)・(4)・(5) 2茶栗柿 3章魚とカマス 4嫁の実家 5一のくろと二のくろ/58、笑いの初め/59、平林/60、頓知彦八/61、和尚と小僧 1食わぬ仏様 2和尚の好きな毒の酒 3灰の中の餅 4はい、お代り(1)(2) 5歌詠み小僧(1)(2) 6言い損い 7頓知小僧/62、雲水の餅問答/63、暗闇から牛でござる/64、団子といま阪/65、月日のたつ間/66、月が三貫、日には百/67、拾い物分配/68、味噌こしと笊と卵と蛙と炭1・2/69、動物の餅取り1・2/70、金魚と泥鰌と目高と蛙/71、牛と熊の争い/72、鼠の嫁入り/73、海老の腰の曲がったわけ/74、雀と継子/75五、時鳥と兄弟1・2・3・4・5・6/76、雲雀金貸し/77、雁と亀1・2/78、海月骨無し/79、藁と炭と蚕豆/80、古屋の漏り/81、動物競争/82、尻尾の釣り1・2・3・4・5/83、猿と蟇/84、猿と蟹1・2・3・4/85、かちかち山1・2・3・4/86、牡丹餅の落ちた音/87、果てなし話1・2・3・4・5・6/88、長い話1・2・3/89、はなし1・2・3・4

しゃぶきばばあ

「現代に生きる民話」 大川悦生 NHKブックス 1975年 ★
第二章 笑いと諷刺の民話
 九助ばなしと農民一揆
  民話にみる諷刺精神
 諷刺の民話は、江戸時代の中期から明治初年へかけて、農民生活のなかで着実に成長してきた。例をあげればきりがないが、関東地方のを一つだけあげておこう。やはり《おろか村話》のうちに入っていて、鈴木棠三編『川越地方昔話集』(1937)に載っている「無筆の願書」というのがおもしろい。
 昔ある村に飢饉があって大変に困った。代官様に願い書を出すことになったが、誰も字が書けぬ。中で一人が、わしに考えがあるからといって引受けた。代官所では、願い書を受取ってひらいてみると、
 一二三四五六七八九十
とあって、終りに三と書いてある。何のことか判じようがないので、書いた百姓を呼出してたずねると、「一つ一つ申し上げます。二は苦々しく、三年この方、非常(しじょう)な飢饉で、五穀も、ろくろく稔らず、質に置くやら、恥をかくやら、食わずに苦しむ、十ケ村の難儀」とよんだ。代官は「それで判ったが、終わりの三は何か」というと、百姓は、「願い 人横川三蔵」と答えた。(女学校生徒らの採集によるもの)
 最初にだれが考えだした話かわからないが、これを伝えた農民たちは無筆なおろか者どころではなかった。「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」と治められ、「百姓は筆を持つより、くわを持て」といわれた世の中で、皮肉たっぷりに自分たちの知恵を語ったのである。

「日本昔話100選」 稲田浩二/稲田和子 講談社+α文庫 1996年 ★★
日本人はいつの時代も、物語を聞いて想像力を養い、人の心を学んできた。怖い話、滑稽な話、幸運が舞い込む話、何百世代にわたって語りつがれてきた昔話には、それを伝えてきた人々の思いが潜んでいる。
本書は、北海道から沖縄まで各地に伝わる代表的な昔話を土地の言葉を生かして編纂した名著であり、今こそ語りつぎたい決定版昔話集である。
 蟹問答
 むかし、偉い坊さんが修行の旅に出ておったと。ある日山の中で日が暮れてしまったので、どこか泊めてくれるところはないかしらん、と見回しておると、小さな木樵小屋が見つかったそうな。おう、あれに泊まれば雨露だけはしのげるわい、と思って、「もうし、もうし」と一夜の宿を頼んでみた。ところが木樵は、
 「こんなせまくるしいところには、とても泊められねえ。お前さん、坊さんならもう少し先まで歩かれたら古い寺がある。そこへ泊まったらどうかの。何でもおっかねえ化けもんが出るという話を聞いたから用心しなされ」
 と言って道を教えてくれた。それはありがたい、と坊さんは、その古寺を探して行った。行ってみれば、それは人が何年住んでないことかわからんような、荒れ寺であったそうな。坊さんが暗い本堂に寝ておると、真夜なかに、ガタガタガタガタ音をさせながら、何やら光るものが近づいてくる。そいつは、こわれ座板をのっこのっこ踏んできて、坊さんの前にどかんと坐ったと。みればまっ赤な面をして、目のきろきろ光る、取って食わんばかりの大入道だ。それが、
 「やあ、やあ、問答をいたそう。負ければお前を取って食うつもりだ、ええか」
 とどなるように言うそうだ。「よし」と答えると、大入道は、
 「小足八足、大足二足、色紅にして両眼天に輝く日月の如し、これ何人」
 と問答をかけてきた。坊さんはすかさず、
 「蟹っ」
 と答えるが早いか、杖で大入道の頭をガンと力まかせにはたいてくれた。相手は、「ギャッ」というて、ガタガタガタガタ音をたててどこかへ消えうせた。
 それから夜明けまでは何のこともなかったので、明るくなってから大入道の逃げた方に、血のたれたあとを辿って行ってみれば、縁の下に大きな古蟹が、赤さび色の甲羅を割られて死んでおった。
 それ以来というもの、この寺には化け物が出ないそうな。     ―埼玉県川越市
 
 *解説 「蟹の報恩」の話でもわかるように、いにしえ蟹は、水神の威光を背負う蛇に勝つほどの、精霊ある生物であった。旅僧がその蟹の化け物に問答で勝てたのは、相手の正体をあばきたてたからである。「山寺の怪」「大工と鬼六」なども同類の話である。禅問答などに刺激されたあとが感じられ、もと旅僧などが管理してきたものか。

「日本の昔話(下)」 稲田浩二編 ちくま学芸文庫 1999年 ★★
 落ちる木の実 埼玉県
 ある森の中に、一つの大きな古い池がありました。その池のそばにそれはそれは大きな、古い柿の木が一本生えておりました。その柿の木には、春になると花が咲き、夏から秋になると、たくさんな柿の実が、枝が折れんばかりにすずなりになっておりました。
 風が吹いてきて実が一つコロコロところがって、池の中にポッチャーンと落ちました。また風が吹いてきて実が一つ落ちてコロコロころがり、池の中にポッチャーンと落ちました。また風が吹いてきて、実が木から落ちてコロコロころがって、池の中へポッチャーンと落ちました。また風が吹いてきて……。

  原話語り手 吉田キヨ――埼玉県川越市
  出典 『武蔵川越昔話集』281ページ

解説〕本土全域で最も人気のある果てなし話で、語り手がその座の昔語りをしまいにしたいときに語るタイプの一つ。『伊曾保物語』中巻四の「伊曾保帝王に答ふる物語の事」に、ネタナオ王がいくらでも話をせがむので、眠けのついたイソップが千五百匹の羊を小舟で一匹ずつ川渡しする果てなし話を始めて、うまく逃げだす話をのせる。つまり狡猾者譚の「話堪能」の中身となっている。
 

「昔話十二月 六月の巻 松谷みよ子編 講談社文庫 1986年 ★★
柳は青み、ホトトギスが鳴き、鮎が躍る。しとしと降る雨はすべての生命を成長させ、梅の実の熟す頃になると、村には山菜売りの婆さまもやってくる。昔話歳時記の六月は、梅雨、竜宮、父の日などにちなんだ昔話、「雨蛙は親不幸」「大工と鬼六」「鮎かみすり」「浦島太郎」「舌切雀」「藁しべ長者」などを収める。
 雲水の餅問答

 ある所に立派なお寺があったの。とてもお寺は立派でも、その中のお坊さんは怠け者のちっとも修行なんかしない、檀家などのご機嫌とりがうまく、勉強なんかちっともしない和尚さんだったのよ。
 そこに餡餅屋の六兵衛さんという人があった。その人は毎日毎日の信心で、お寺へ来てはお経をあげておりました。その晩も例によって来て見ると、和尚さんがいつになく青くなっているので、六兵衛さんはどうしたときくと、怠け者のお坊さんも自分が勉強しなかったとは言えかねたのか、
 「私はこのごろ病気で困っているところへ、旅僧が来て禅問答の試合に来ると言うので、もし出なければ卑怯だと言われるし、出れば負けかもしれない。負ければこのお寺にいることができないのだ」
 それを聞いた律義なやさしい六兵衛さんは、
 「それでは私を出してください。もし私が旅僧より勝ったならば、和尚さんより偉いのだし、負ければ私の恥で和尚さんの恥ではない」
 もう和尚さんはどうしようもないので、六兵衛さんを本堂へ連れて行って、座禅の組み方を教え、合掌の仕方を教えて、和尚さんはかげに隠れて見ておりますと、六兵衛さんは盛んに、
 「ムニャムニャ」
 いつから習い覚えたお経を唱えておりました時、旅僧が入って参りました。入りながら旅僧は、
 「白扇さかしまにかかる東海の天」と言いました。
 餡餅屋の六兵衛さんは何も知りませんから黙っておりましたら、旅僧は、
 「はっはあー、ここの和尚は、無言の行でおわすか」と言って自分も無言の行をなされた。
 六兵衛さんは黙って細く目を開けて、旅僧の方を見ていると、旅僧は手で小さい輪を作りましたから、六兵衛さんはなんのことかわかりませんが、かまわず大きな輪を作りました。すると旅僧は「うえっ」てお辞儀を致しました。
 また六兵衛さんが細く目を開いて、旅僧の方を見ていると、今度は旅僧は人差指を一本出しましたから、六兵衛さんは五本の指をひらいて出しました。
 それを見た旅僧はまた「うえっー」てお辞儀をし、今度は三本の指を出しましたから、六兵衛さんは アカンベーをしましたら、旅僧はまた「うえっー」とお辞儀をしてさっさと逃げ出しましたので、不思議に思ったのでさっそく小僧に後をつけさせました。
 旅僧は、宿屋でえいわーえいわー息をきらして汗をふいているところだったので、きいて見ると、
 「今日ぐらい偉い和尚さんに逢ったことはない」
 「どうしてですか」と小僧がきくと、
 「私が太陽はと言って小さい輪を作ると和尚さんは世界を照らすといい、三仏はと三本出すと目の下にありと言った」
 それを聞いて、小僧がお寺へ帰って来ると、六兵衛さんは頭から湯気を立ててぷんぷん怒っているので、小僧は、
 「まあまあそんなに怒りなさんな。どうしたのか話をきかせてくれ」と言うと、
 「今日ぐらい太い和尚に逢ったことはない。お前の家の餅はこれくらいかと小さい丸を出したから、おれの家はこんなに大きいと大きな丸を作って出したら、一ついくらだと言うから五厘だと五本の指を出すと、三厘にまけろと言うからアカンベーとしたら、旅僧の奴さっさと逃げ出した」ということであるよ。
 これでこのお話は市が栄えだ。
                            (埼玉県・「武蔵川越昔話集」・鈴木棠三・岩崎美術社)

「日本の民話4 関東」 谷本尚史・柾谷明・丸山久子編 ぎょうせい 1979年 ★★
動物昔話
昔語り
 まま子のくり拾い   埼玉県川越市 長沢ヨネ
笑い話
 長い名の子ども   埼玉県川越市 長沢ヨネ

「埼玉の伝説」 早船ちよ・諸田森二 角川書店・日本の伝説18 1977年 ★★
 埼玉伝説散歩/小江戸の賑い・川越
 川越は古くは河肥といい、鎌倉末期には河越、近世になって川越となった。秩父を除いて、もっとも早くから開け、県西部の中心都市として発展してきた。長禄元年(1457)に太田道灌初雁城(川越城)を造築してから城下町としての基盤ができた。そして江戸時代に入ると徳川幕府は、江戸城の北西の前線基地として重要視し、代々の城主には、徳川の譜代大名や重臣をあてた。柳沢吉保などにその好例を見ることができる。川越街道は、この地と江戸を結ぶ重要な道だった。加えて江戸中期から新河岸川による水上交通もひらけ、ますます江戸と密接な関係が保たれようになり、大江戸に対して小江戸とよばれるほどの繁栄ぶりだった。明治期に入って大火の炎にのみこまれ、姿かたちは変わったが、袋小路、T字路、土蔵造りの商家などに、城下町としてのたたずまいを色濃く残している。
 市内の小仙波町には三代将軍家光公ゆかりの喜多院がある。以前は寺の東北隅に明星の杉があった。この杉にまつわる伝説は、昔、尊海という坊さんがこの地にきたとき、牛車が少しも進まなくなったので、やむなく宿をとることにした。その夜、不思議な光が池の近くから輝いたと思うと、たちまち明星となって、老杉の梢にしばらくとまっていた。そこで尊海は星野山と名づけて堂を建てたという。もちろん星野山とは喜多院のことである。喜多院の正式名は天台総本山、星野山無量寿寺喜多院といい、慈覚大師の開祖と伝えられている。
 山門をくぐると、右に五百羅漢の石像群が安置され、さらに進めば多宝塔、慈眼堂がある。庫裏、書院、客殿は慶長期の建物で、いずれも長い歴史と高い格調を誇っている。境内の東(南西?)に、全国でもただ一つといわれるどろぼう橋がある。今ではコンクリートのりっぱな橋だが、もとは細い木橋だった。この橋の由来は、悪行を重ね、町奉行に追われたどろぼうがこの橋を渡って大師さまにおまいりし、罪を深く悔い改めて救われ、善人になったことによっている。
 喜多院から北へ500メートルほど、城下町の細い露地を抜けて城跡に向かおう。初雁城太田道真・道灌父子の手になるものだが、城を築くにあたり、うるわしくも悲しい一つの物語がある。
 地形的に三方が田で泥は深く、南は底の知れない淵があって、土塁を築くことができずに困っていた。ある夜、道真の夢枕に竜神がたち 「この地に築城することは人力では及ばない、神通力が必要だ。明朝、汝のもとに一番早く来た者を人身御供としてさし出せ」 といった。道真は事の重大さに驚き、不審に思ったが、いつも一番早く自分のところにくるのは愛犬だったから、ふびんとは思ったが承知した。
 翌朝、いつもより早く起きた道真は、愛犬のくるのを今か今かと待っていた。と、そこに現れたのは娘のよね姫であった。これを見た道真は涙を流して立ちすくむばかりだった。われにかえった父道真は、昨夜の竜神の話をしたところ、娘もまた同じ夢を見て、覚悟をきめ、城のため、人々のために自分が犠牲になろうと思って来たという。しかし、いかに築城のためとはいいながら、最愛のわが子を人身御供にできるはずがない。そこで道真は静観することにした。しかし、ある夜のこと、人目をしのんで館をでたよね姫は、城の完成を祈りながら淵に身を投げて、みずから貴い犠牲になってしまったのである。
 初雁城は一名霧隠城ともいわれ、敵の攻撃を受けても、城中の霧吹きの井戸の蓋を開ければ、無限に霧がたちこめて城といわず町までも包みこんでしまったという。現在野球場の一角に、その霧吹きの井戸は残っている(現在は市立博物館にあります)
 当時この井戸を毎年二月二十五日の天神様の祭日に限り一般にも拝観を許し、両側に白い幕を張って役人がついていて、通る人をしらべたという。それを歌ったのが、
   ここはどこの細道じゃ
   天神様の細道じゃ
   少し通してくださんせ
   ご用のないもの通しません
   この子の七ツのお祝いに
   お札を納めに参ります
   豆どん豆どん、豆どん豆どん豆どん。
といったものであったという。
 城跡から市役所の前を通り元町の十字路に出る。右に曲がって200メートルほどの所に喜多町の広済寺がある。山門の右手に、あごなし地蔵しやぶき尊が安置されている。歯痛に悩む人がおまいりすると霊験があるとされ、なおったお礼に柳の枝で作った楊子をお礼に奉納するのだといわれている。
 埼玉伝説十三選/ススキっ原の六地蔵
 タケサクは、そのころ十歳の鼻たれ小僧でした。きょうも、一日、からっ風のなかを、凧あげして、あそびつかれて、ぺこぺこに腹をすかすと、ススキっ原へすっとんで行きました。
 ススキっ原の吹きさらしには、六地蔵さまが、寒そうに、ふるえて立っています。
 「地蔵さま、地蔵さま。おいらに小づかいをくんな」
 タケサクがねだると、右はじの地蔵さまが、にっと笑ったように見えました。そばへよってみると、地蔵さまの足もとに一文銭が、だいじそうに供えてあります。
 「貰ってっていいかい? ほんとに、いいかい。ねっ、もらうぜ」
 地蔵さまの耳に口をおっつけてどなると、
 「ありがとうよ。おいら、飴ん玉買ってしゃぶるべ」
 タケサクは、一文銭をしっかり握って、村の駄菓子屋のあるほうへ走って行きました。
 タケサクが行ってしまうと、こんどは妹のハナが、風におっとばされるように走ってきました。ハナは、末の弟のトメキチをおぶっています。
 「地蔵さま、おら何かたべたい、ぜにおくれ」
 ハナは、まっ赤の頬っぺたを、もっと赤くして「おねげえだ」と、拝みます。
 ようく拝みながら、よこ目で見ると、二番めの地蔵さまの後の草むらに、一文銭がころがっているのが見えます。
 「やあい、一文ひろったぞ! 地蔵さま、おら大好きだぞ」
 地蔵さまは、子ども好きで、タケサクやハナがねだるといつも小づかいをくれるのでした。ハナは、ただで一文もらうのも気がすまないので、おんぶしているトメキチのよだれ掛けをはずして、二番目の地蔵の首にゆわえてつけました。
 「やあ、似合うぞ、地蔵さん。一文より、そのよだれ掛けのほうがよかんべ」
 ハナは、トメキチにもすまなくなります。
 「泣くなよ、トメ。まんじゅう買って、あんこ食わすべ。おう、よしよし」
 ハナが行ってしまって、しばらくして。――タケサクのおっ母が、小走りにきました。日ぐれの凩が、ひゅうんと、母のすそをめくって、やせた足のすねはまるだし、足袋もはいていません。
 「おうーい! タケサクやあ! めしだどう」
 母は、せきをしてから、また叫びました。
 「ほうーい、ハナにトメやあーい! めし食いにけえってこいよーう!」
 おっ母は、ぶるんと首をすくめて、なにげなく三番めの地蔵さまのほうを振りむきました。とたんに、「あ、あーっ!」と悲鳴をあげ、腰をぬかしそうになりました。
 ――く、首がねえだぞ! 地蔵さまの首が、もぎ取られてるだぁ。
 おっ母は、つんのめるように、足駄の音をカタカタさせて走っていきます。
 「なんてもってえねえことするだ。首もいで盗んだやつ、つかめえてやらにゃなんねえだ」
 三番めの地蔵さまは、おっ母にとって、身内とおなじことでした。トメキチの下に、ステという女の赤んぼうが生まれたのは、つい半年まえのことです。タケサクとハナとトメキチの、三人の子どもだけでさえ、貧乏ぐらしで育てるのは、たいへんなことです。そこへ女の子が生まれたので、おやじは悪態をつきました。
 ――やい、てめえは、ステだ。ススキっ原の六地蔵さまに育ててもらえ。
 産後の肥立ちがわるくて、おっ母がねているまに、おやじはほんとうに、赤んぼうをススキっ原へ捨ててきたのです。おっ母が気づいて、気が狂ったようにススキっ原へ行ったとき、ステは三番めの地蔵さまの足もとで、すやすやねむっていました。月の明るい晩で、おっ母がステを抱くと、にこっと笑い顔になりました。そのときの笑くぼが、いまでも、おっ母の目に、はっきり思い浮かびます。ステは、まもなく、風邪の熱がもとで、あっけなく死にました。三番めの地蔵さまの顔はあどけなく、どこかステのねがおに似ています。
 おっ母が、ススキっ原の一本みちを、凩におっとばされて走っていくと、一本松の下につぐんでいる怪し気な男を見かけました。
 頬かむりのその男は、半纏に何かをくるみ直してから、だいじに脇へかかえこみます。
 「見たぞ、そこのろくでなし野郎!」
 ぎょっとして、男は顔をあげました。バクチ打ちのゴンタです。おっ母は、声を荒くして、ゴンタにせまります。
 「おう、ぬすっと野郎め。三番めの地蔵さまの首、すぐ返せ」
 「しまった! 見られちまったか、ついてねえや、こんちくしょう!」
 ゴンタは、ちっと舌打ちをして、半纏からごろりと首をころがしてよこします。
 この川越あたりでは、野の仏の首をもぎとって、人に見られぬように持ち去れば、賭けや勝負事にツキがくる、バクチに勝つ、という言い伝えがありました。
 ゴンタは、うまく地蔵の首をもいで運んだと思ったら、おっ母に見られたのでした。
 おっ母は、重たい首を抱きかかえるようにして、ススキっ原へもどりました。 
 あたりは、うす暗くなって、冷たい小雨がふっています。おっ母は、地蔵さまの首を胴体の上にのせ、かぶっていた手拭いで、ていねいにほうたいしてあげました。
 「やれやれ、お地蔵さま。これで、首なしの正月でなくて、けっこうなことだね」
 ――あすは正月。さて、考えてみれば、じぶんの家の正月は、どうなることやら……。おやじが町から、まもなく、もどってくるはずです。笠は売れたろうか。笠を売った金で、もち米を買ってくるといって、けさがた家を出ていったのでした。はやく帰って、もちつきの支度をしなくちゃ。タケサクやハナも、正月の支度を待ちくたびれているだろうに。
 
 雪が、ちらちら降ってきました。おそくなって、おやじが、しょんぼりと、もどってきました。笠は、ひとつも持っていません。
 「おかえり。笠は売れたようで、よかったね」
 「あーあ、くたびれもうけさ。笠は、ひとつも売れなかっただえ」
 上がりかまちに、どてんと、おやじはあおむけにねました。
 「それで、笠をどうしたの」
 「ひとつも売れん、しょんぼり戻ってきたのさ。ススキっ原までくると、あの六地蔵さまの頭が、雪でまっ白くなってるだえ。えれえ寒げなので、笠をひとつずつ進上してしまったわい」
 「そうかね、進上してきただかね」
 おっ母は、ほうっと大きなため息をつきました。
 「そうかね。まあ、とにかく、災難にあったのでなくてよかった。わらじをぬいでお上がりよ」
 おっ母は、そういったものの、子どもたちのがっくりした顔をみるのがつらくなりました。そうかといって、このまま、ねてしまうのも、おもしろくありません」
 「しかたがねえから、景気づけに、餅つきのまねでもするか」
 おやじも、むっくり起きあがって、
 「そうだ。それがよかんべ。それ、おっ母。手をかしてくれ。臼を庭さきへころがすべ」
と、声をかけます。タケサクとハナは、キネを、重たい、重たいと、いっしょに、かつぎだします。それ、せいろうだ、水桶だ。のし板は、どうした、と、家じゅうでひとさわぎしてから、家族みんなで、大根ぞうすういをすすって、ねました。
 ところで、あくる朝。まだ夜明けまえの暗い闇のなかです。
 家のまえのほうが、がやがや、わやわや、さわがしいのです。おっ母が起きて、雨戸のすきまからのぞいてみると、どうでしょう。
 ススキっ原の六地蔵が集まって、餅つきをはじめているところです。
 ――おっ母、それ、へっついの下のまきを燃してくれ。
と、一の地蔵さん。
 「はい、はいっ!」
 おっ母は、すぐにとんで出て、かまどの下を燃やします。
 そこへ、おやじが、よっこり寝呆け眼で庭さきへでてきました。
 「それ、おやじ。せいろうのもち米は、ふけたかね。ふけたら運びな」
 よだれ掛けを下げた二の地蔵さんは、臼のまえに立ちはだかって、「早いとこ、早いとこ」と、せかし立てます。
 「へっ! へえ、へえ。いま、すぐ運びます」
 おやじは、急にいさみたって、たちはたらきます。
 一の地蔵さんはじめ、首をほうたいした三番めの地蔵さんでさえも、みんなそろいの笠をかぶって、六地蔵さんがかいがいしく先にたって働いています。
 タケサクも、ハナも、とび起きました。トメキチがねどこからはいだして、土間へ落ちて泣きだします。ハナが、びっくりして、「おう、よしよし、泣くな、なくな」と、おぶってやりました。
 せいろうのもち米が、さかんに湯気をたて、うまそうな匂いが流れてきます。
 タケサクは、水をくんだり、火をもしたり、大忙しで手つだいます。おやじも、おっ母も、きりきり働きました。
 「このへんで、ひといきいれて、味をみるべえ」
 「ほいきた、よくきた、さあ食いねえ」
 六地蔵さんは、そういいあって、タケサクやおっ母、おやじともすっかり仲よくなって、大根おろしのからみ餅や、あずきのあんころ餅を食いました。黄粉のあべ川も、食いました。――そして、六地蔵さんたちは、俵に六つのもち米を、つぎつぎにつきあげていくのでした。
 白い餅。緑の草餅。黄色い粟餅。
 あんこの入った大福餅に、豆餅。
 どっさり、つきあげたとき、コケッコーと、にわとりがなき、朝日がぱっとさしました。
 すると――六地蔵は、あっというまに姿を消してしまいました。
 「あっ、あれえ。夢じゃないだべ。ついた餅が、こんなにたんとあるもん、な」
 「めでたいことだ、いい正月だ」
 そこで、一家そろって、ススキっ原の六地蔵さんへ、餅を供えにいきました。かえってから、みんなにこにこ、雑煮をいわいましたとさ。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 早船ちよ(はやふね ちよ)
1914〜 (大正3〜 )昭和初期の作家。(生)岐阜県。(名)旧姓住田
1929(昭和4)最初の童話「松葉牡丹の種子」を生活綴方の小砂丘忠義編集「鑑賞文選」に発表。東洋レーヨン・片倉製糸などの労働体験から、労働する生産現場の青春像を描いた作品が多い。’62に映画化された小説「キューポラのある街」)5部作)のほか、評論・随筆・児童文学などの著書がある。

「「日本昔ばなし」再発見!」 中澤天童 宝島社文庫 2001年 ★
日本の昔ばなしは、単純な教訓話ばかりではない!「勤勉な者、善人、正直者は必ず報われ、いじわるな者や嫉妬深い者は罰を受ける」という図式はもう古い。日本人が本来もっていたおおらかでアナ−キーなパワーを伝える物語として、日本昔ばなしを再発見しよう!本書に収められた27編のあらすじと、「とっておきの解釈」を含む解説は、日本昔ばなしに新しい照明をあてる試みである!(カバーのコピー)
<桃太郎の出生についての解釈>

 艶話・結婚譚に分類される話は、その前振りとして桃太郎の出生にまつわる話が出てくる。
 ――桃太郎は桃から生まれた。
 ふつうに考えたら、人間が桃から生まれるはずはない。そこで、一部の伝承者(もしくは研究者)たちは、「桃はモモ(股)という意味もあるから、これは女性のシンボルひいては妊娠。セックスの暗示にちがいない」とばかりに、一気に話を飛躍・創造してゆく。
 婆さんは川に洗濯に行ったのではなく、じつは神聖な川に入って裸でみそぎをしていた。そこへ子種の桃が流れてきて股に入り、子供を生んだ。そして、その子種を川上から流したのは、山に柴刈りに行ったはずの爺さんだった――。
 と、こういうことになってしまうのである。(岩手県紫波郡に残る『昔話研究』(第一巻十一号)や、越後や佐渡の桃太郎伝説、高木敏雄『日本神話伝説の研究』の「新桃太郎論」などによる)。
 さらに、それでもあきたらない場合は、埼玉県入間川の採話川越地方昔話集のように、爺と婆が桃を食べると急に若返って、セックスをしたら桃太郎が生まれた、ということにまで発展したりする。本当にもう、すごいことになっている。
 これらのストーリー展開を支える元は、「山は霊や生命の降りる神聖な場所」であり、川はそれを「受諾する聖域」であるという、山岳信仰および海洋他界信仰によるらしいが、ここまで来るともはや私はお手あげだ。
 もっとも、かぐや姫は竹から、瓜子姫は瓜から、親ゆび太郎は親ゆびといった具合に、昔ばなしの主人公は妙なものから生まれる傾向があるので、それには目をつむるとしても、婆さんの超高齢出産はちと酷ではないか。

「日本の怪談」 田中貢太郎 河出文庫 1985年 ★
だれもいない部屋で、赤毛の猫が頬冠りをし後肢で立って踊り出す「猫の踊」、女房にとり憑いた狐が一家を苦しめる「狐の手帳」、高知・長宗我部氏にまつわる怪異「八人みさきの話」、そして読むものに言いしれぬ恐怖を覚えさせる「竈の中の顔」など。著者が二十年余にわたって、意識下の闇に横たわる怪異の事象を蒐集した大著『怪談全集』の中から、二十七篇を抜萃収録。
 怪しき旅僧

 ――この話は武蔵川越領の中の三ノ町という処に起った話になっているが、この粉本は支那の怪談であることはうけあいである。
 それは風の寒い夜のことであった。三ノ町の某(ある)農家の門口へ、一人の旅僧が来て雨戸を叩いて宿を乞うた。ところで農家ではもう寝ようとしているうえに、主翁(ていしゅ)は冷酷な男であったから初めは寝たふりをして返事をしなかったが、何時までたっても旅僧が去らないので、「もう寝たから、他(よそ)へ往って頼むが好い」と、叱るように云った。
 「そうでございましょうが、日が暮れて路がわからないうえに、足を痛めて、もう一足も歩けません、どうかお慈悲に庭の隅へなりと泊めてくださいまし」と、旅僧は疲れ切ったような声で云った。
 主翁は返事をしなかった。
「他へ往くと申しましても、暗くて路も判りませんし、足が痛くて一足も歩けませんから、どうぞお慈悲をねがいます……」と、旅僧は動かなかった。
 主翁はしかたなくチ(おこ)りチり起きて来た。
「……寝ておるからほかへ往けと云うに、強情な人じゃ」と、入口の戸を開けて暗い中から頭をだして、「そのかわり、被るものも喫(く)うものも何もないよ」
「いや、もう、寝さしていただけばけっこうでございます」
 旅僧は土間へ入って手探りに笠を脱ぎ、草鞋を解いて上にあがった。消えかけた地炉(いろり)の火の微に残っているのが室(へや)の真中に見えた。旅僧はその傍へ往って坐ったが、主翁は何もかまってやらなかった。
「そんじゃ、おまえさんは其処で寝るが好い、私も寝る」と、主翁はそのまま次の室へ往こうとした。
「明りはありますまいか」と、旅僧は呼びとめるように云った。
「はじめに云ったとおり、何もないよ」
 主翁は邪慳に云って障子を荒あらしく締めて寝床の中へ入ったが、それでも幾等か気になるので枕頭の障子の破れから覗いた。
 と、地炉の火の光で頭だけ朦朧と見えていた旅僧の右の手は、その時地炉の火の中へ延びて往った。明かりが欲しいので火を掻き起しているのだろうと思っていると、急に室の中が明るくなった。それは旅僧の右の手の指に、一本一本火が点いて燃えているところであった。主翁は恐れて気が遠くなるように感じた。彼は体を動かすこともできないでぶるぶる顫えながら覗いていた。
 奇怪な旅僧はやがて左の手で拳をこしらえて、それをいきなり一方の鼻の穴へ押し込んだが、みるみるそれが臂(ひじ)まで入ってしまった。そして、まもなくそれを抜いて鼻を窘(すぼ)めてくさみをするかと思うと、鼻の穴から二三寸ばかりある人形が、蝗(いなご)の飛ぶようにひょいひょいと飛び出して、二三百ばかりも畳の上にならんだ。旅僧はこれを見て何か顎で合図をすると、その人形は手に手に鍬を揮って室の中を耕しはじめた。そして、それが終ると何処からともなく水が来て、室の中は立派な水田になった。で、人形どもはそれに籾(もみ)を蒔いた。籾はみるみる生えて、葉をつけ茎が延びて、白い粉のような花が咲き、実が出来て、それが黄ろく熟した。人形どもは鎌でそれを刈りとって穂をこき、籾をつき、それを箕(み)にかけてまたたくまに数升の米にした。
 人形どもの仕事が終ると、旅僧は大きな口をぱくりと開けて、それを掻き集めて一口に飲んでしまった。そして、庭の方を向いて、「来い来い」と云うと、庭の片隅の竃(へっつい)にかけてあった鍋と、水を汲んである手桶がふらふらと歩くように旅僧の傍へ来た。
 で、旅僧はその鍋の中へ米と水をいれて、地炉の自在鉤にかけた後で左右の足を踏み延ばして、それを炉縁に当て何時の間にか傍に来ていた鉈で、膝節から薪を割るようにびしゃびしゃと叩き切って、その切れを地炉の中にくべると、火が盛んに燃えだして鍋の飯が煮立って来た。旅僧は膝節から下が切れて血みどろになった足を平気で投げだして火をみていたが、やがて飯ができると鍋をおろして手掴みで喫いはじめた。
 飯がなくなると、旅僧は手桶の杓をとって一口水を飲んだが、咽喉へ入れたあまりを地炉の火の上へ吐きだした。すると地炉は泥池になって水が溢れるようになるとともに、ふいふいと蓮の葉が浮きだして白と紅(くれない)の蓮の花が一時にぱっと咲き、数多(たくさん)の蛙が集まって来て声をそろえて喧しく鳴きだした。
 恐れて死んだ人のようになってこの容(さま)を見ていた主翁は、この時やっと気が注いたのでそっと裏口から這い出て往って隣家の者に話した。隣家の者は、「それこそ妖怪(ばけもの)だ、逃がすな」と言って、各自(てんで)に棒や鍬を持って主翁に跟(つ)いて来た。
 そして、裏口からそっと入ってみると、室は元の室になって、旅僧は地炉の傍に仰向けになってぐうぐうと鼾をかいて眠っていた。
「眠っている、眠っている」と、手引きして来た主翁が小声で囁いた。
「じゃ、そっと往って捕まえろ」と、云って十五六人の男はそろそろと入って往き、不意に飛びかかって旅僧の手足を捕えた。そのうちに一人はその頭をしかと掴んだ。
 と、旅僧は眼を覚まして皆の顔を一わたり見渡した。かと思うと、押さえつけた人びとの手の下からふっと抜けた。
「それ逃げたぞ」
「叩き殺せ」
 皆の者は用意して来た棒や鍬を持って叩き伏せようとしたが、旅僧の姿はひらひらと室の其処此処に閃くばかりでどうすることもできなかった。室の隅に酒を入れてあった大きな徳利が転がっていた。旅僧の姿はひょこひょことその中へ入ってしまった。
「妖怪は徳利に入ったぞ、しっかり蓋をしろ」と、その口へ栓をした者があった。
「代官所へ持って往こう」と、云って一人の男がそれを持とうとしたが、重くて持ちあがらなかった。
 そのうちに徳利は室の中をころがりだした。
「また逃げだしたぞ、しかたがない、徳利を打ち砕け」と、云う者があった。
 一人の男が鍬を揮りあげて徳利を微塵に打ち砕こうとした。徳利の中から黒い煙が出るとともに雷のような音がして徳利は二つに破れた。人びとは驚いて後に飛び退った。
 旅僧の姿はもう見えなかった。

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作成:川越原人  更新:2013/11/2