二
(前略)
〔(ロ)川越版〕 拙修斎叢書本に次いで現われたのが桑名本を底本とする『校刻日本外史』で、川越藩博喩堂(江戸藩邸の学舎の名)蔵版、保岡孚(元吉、嶺南)の序と、校刻本例言を附ける。いわゆる川越版がこれである。蔵版主はのち旧藩主・松平氏(楽翁公の家系とは別)となる。
『校刻日本外史』12冊・中本、10行22字、弘化1・12・初刻、明治18・3・第9刻本、松平氏蔵版
川越版によって外史は普及した。光吉元次郎氏の実査による「校刻日本外史出版表」が、市島『随筆頼山陽』158ページ以下に出ている。明治6年6月の第3版からの改版(板木の摩滅によるもの)は誠に早く。明治32年4月の第14版で木刻版は終った。第9版に偽刻があり、表紙の具合でわかる由。明治9年以後の川越版の刻本から、奥付に「版権免許・□刻御届」の文字が現われ、蔵版主が藩の学舎名から松平氏に代る。(これは版権法によるものらしい。)第3版から第4版にかけてが、この変化の時期であるので、光吉氏の表をたよりに一層の精査が必要と思う。(ついでながら、外史の版権は明治39年で切れたという。)
木版時代が終り、洋装活版時代になってからも川越版の出版は続いている。以下、実見したもののみを記す。
『校刻日本外史』松平基則、洋仮46・1冊、15行30字・712ページ、明治42・5・再版本(初版年月不明)、岡本偉業堂等
『校刻日本外史』松平基則、洋菊・1冊、14行24字・946ページ、明治39・7・初版、明治42・4・再版本、交盛館等
『校刻日本外史附字解』久保得二(天随)、洋46・2冊、15行30字・724ページ、明治44・2序刊本(奥付切断不明)、岡村書店
『校刻日本外史』松平基則、洋46・1冊、14行30字・760ページ、明治39・1・初版本、郁文舎
『校刻日本外史』浜野知三郎、洋46・1冊、14行30字・760ページ、大正4・5・初版、大正9・12・第31版本、大盛堂書店
最後の二種は、多分同一紙型のものであろうが、徹底した調査はしていない。
外史出版について、『日本外史大危機』(安政4・10以降)と題する文書の写本(保岡孚の写)が上野図書館に収められていたが、いまは亡佚本となっている。これを転載した始めのものは、菅谷勝義(秋水)『頼山陽』(明治36・1、臥竜堂等)97―109ページであったと思われる。なお、これに先行する文書の写し一通も伝存する。
(後略)
職人尽絵
近世初期風俗屏風の全盛のなかにあって、かつての職人歌合に触発されて制作されたと思われる職人尽絵がある。色紙形のものと、六曲屏風に貼りこんだ職人尽図屏風との二種類がある。
(中略)
「職人尽図屏風」は、川越の喜多院蔵のものがもっとも有名である。六曲屏風一双に各扇二図ずつ貼り込み、計二四図からなる。屋並みの方向が右向と左向とほぼ半数ずつになることは、もとは現在の貼込みと異なる構図をとっていたことを暗示しているのではあるまいか。画の一隅に各々「吉信」の壺印があり、作風のうえから狩野派の作家と判ぜられ、狩野吉信(宝永十七年<1640>没)に当てられ、この絵は桃山期のものとされている。
ここに描かれた職人の階層性は屋根に見られるといってよい。洛中洛外図屏風の屋根は、寺院を除き町屋はすべてとんとん葺きに石をのせて重しとしたものであったが、ここでは瓦葺きが二四図中八図の多きを数える。それらは甲冑師・矢細工師、馬具や調度の蒔絵師、陣羽織や袴をうる向縢(むかばき)師、機織師・糸師・纐纈(こうけち)師・扇師であり、当時の新興武家階級にまつわる業者の隆盛を思わせるものがある。
この屏風には、風俗図の盛行する時代にあって、職人歌合絵巻に見られる職人尽の古い意識を復活させながら、服装や持物によって職種が識別される歌仙系構図はとらず、当代職人生活の実態を、店頭を背景として描こうとしたところに斬新さがあり、しかもこれらを連続して通覧するとき、洛中洛外図屏風店頭の一駒を連想せざるをえないのである。この作家の眼は歌合と異なり、職人の生態を描くとはいえ、けっして店内に立ち入ろうとはせず、店頭を屋根をも含めて描いていく。この意識は洛中洛外図屏風と同様である。すなわち洛中洛外図屏風の画面から一部を切りとり、職種を集めるという、切り張り的意識のため、その安易さから構図の本質的変化は見られず、画面のバックに屏風の店景をそのまま背負いこんでしまったのである。ここには歌合絵巻を脱皮し、屏風に踊り出るみずみずしい生命力は見られないが、さきの天理図書館本より低く、店頭と平行的な視点から、店内を巨視的にとらえるところに、近世的特色がうかがえる。従来職人絵といえば、洛中洛外図屏風の存在を無視して、直接職人歌合絵巻と職人尽図屏風と呼応しあったために、この喜多院の近世的な構図の新しさがとりあげられたが、洛中洛外図屏風の存在こそ、職人絵の系譜のうえに、職人歌合から職人尽図屏風への重要な媒介点として捉えられねばならないのである。
職人尽図屏風の喜多院本の系統は、ほかに前川道平氏、中島庸治氏、サントリー美術館など諸本が多く、きわめて流布されたものと思われる。江戸時代に入るや『和国諸職絵尽』(菱川師宣 貞享二年<1685>刊)は職人歌合をつぎ、元禄三年(1680)に刊行された『人倫訓蒙図彙』は職業がさらに細分化され、百六十余種の職種を数えるに至っている。また文化・文政ころには、江戸職人歌合・職人尽狂歌合・今様職人尽歌合・職人尽発句会などの版本が刊行され、蒔絵、染織、刀装具などの工芸品にまで職人の姿が写されるなど、近世職人絵はさまざまな様相を呈しながら展開する。
(後略)
職人絵一覧表
喜多院職人尽絵
212仏師・213傘師・214矢細工師・215甲冑師・216筆師・217経師・218糸師・219革師・220扇師・221檜物師・222研師・223畳師桶師・224弓師・225刀師・226数珠師・227番匠師・228向縢師・229蒔絵師・230縫取師・231纐纈師・232形置師・233鍛冶師・234機織師・235藁細工師
職人の姿を知る好史料として「職人尽絵」(しょくにんづくしえ)があるが、その最古のものは室町中期に描かれたとされる『東北院職人歌合絵』である。その後、『鶴ヶ岡放生会職人歌合絵』『三十二番職人歌合絵』『七一番職人歌合絵』などが描かれた。歌合せとは、歌人を二手に分け、題に応じて各自一首詠んだ歌(左右各一首を一番という)を、判者がその優劣を決める文学的遊技である。職人歌合絵では、職人を左右に分け、それぞれの職種に応じた内容の歌を詠み、絵を描いたものである。この形式から、しだいに町の繁栄のありさまや、職人の仕事の背景に道具や工房を描くようになり、「洛中洛外図屏風」の出現につながっていった。喜多院(川越市)の職人尽絵は、こうした背景の中で描かれたものと思われ、職人の姿だけでなく工房や家々の様子などもうかがうことができ、中世末から近世初頭の庶民の生活を知る上からも貴重なものといえる。この絵の作者は狩野本家を相続した安信の後見を勤めた吉信で、彼の作品として知られるのはこの絵のみといわれている。
この絵(略)の中で、室内で作業しているのは畳師で、へりをつける作業をしている。畳は室町時代以前にあっては、板敷きの大部屋の中で人の座臥(ざが)する場所にのみ薄縁(うすべり)のようなものを敷いていたが、室町後期に小部屋が多くなると、畳床(たたみどこ)をつけ部屋全体に敷き詰める現在のような畳となった。一方、外で作業しているのが桶師で、青竹の肉を剥ぐ作業と、桶にたがをはめる作業が描かれている。桶は、洗い桶・手桶・米研ぎ桶・担い桶・飯櫃(めしびつ)・漬け物桶など多様な用途の桶がつくられていた。そのほかに乳飲み子を抱く女房と子供が描かれていて風俗画的な要素がみられる。ここに掲載したのは、桶師・畳師だが、このほかに、鎧(よろい)師・刀師・研師・弓師・矢師・革師・行縢(むかばき)師(武士が狩猟や騎乗のときに腰から足にかけた毛皮衣料)・糸師・機織(はたおり)師・型置(かたおき)師(衣服の染めなどの模様を切り抜いた型紙で表すもの)・纐纈(こうけち)師・(しぼり染)・縫取師・番匠(ばんじょう)師(大工)・鍛冶師・傘師・檜物(ひもの)師(曲物(まげもの)つくり)・筆師・蒔絵(まきえ)師・扇師・仏師・経師(きょうじ)・数珠(じゅず)師・藁細工(わらざいく)師などが24図・25種類描かれている。
参考文献 川越市立博物館編 『職人絵 姿絵にみる匠の世界』 1990
網野善彦 『日本中世の民衆像』 岩波書店 1980
この「三十六歌仙額」(重要文化財)は、寛永17年(1640)に再建された仙波東照宮の拝殿に掲げられていたものです。平安中期の歌人藤原公任(きんとう)が、柿本人麿から中務にいたる36人の和歌を選出した「三十六人撰」に基づき、絵を岩佐又兵衛、書を青蓮院第48世尊純法親王がそれぞれ担当しています。
仙波東照宮は、徳川家康の柩を久能山から日光へ移す途次、天海僧正の所縁をもって仙波喜多院で法要が営まれたことにより、寛永10年に創建されましたが、同15年の大火で焼失したため、現在の堂宇は将軍家光の命により再建されました。
「三十六歌仙額」は、再建工事竣功と時を同じくして奉納されたもので、36面のうち柿本人麿と中務の2面の額の裏に「寛永拾七庚辰年六月十七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」と銘文が記されています。この日付は、仙波東照宮再建が成った時に納められた棟札のそれと一致しています。
絵師の岩佐又兵衛(1578生〜1650没)は、戦国武将荒木村重の遺児で、長じて後は京都ついで越前福井にあって絵師として活躍していましたが、寛永14年(1637)将軍家光に招かれ江戸に下り、慶安3年に同地で没しました。彼が江戸に下ったのは、当時江戸城の改築が行われており、狩野派だけでは絵師が不足したことに加えて、狩野派にはない「彼の身に染みついた濃厚な京都の香りが生みだす、独特の画風が求められたからであろう」という宮島新一氏の指摘があります(注)。
一方、書を担当した尊純法親王は後陽成天皇の猶子(養子)で、天台座主に補された宗教貴族です。和歌や書に堪能で、家光が日光東照宮に奉納した重要文化財「紙本著色東照宮縁起」の書も尊純法親王の筆になるものです。
(注)川越市立博物館「仙波東照宮宝物特別展観」所収
『岩佐又兵衛筆三十六歌仙扁額について』宮島新一
柿本人麿(かきのもとのひとまろ)
生没年未詳。七世紀後半〜八世紀頃
人麻呂とも。官位未詳。天武、持統、文武天皇の頃に活躍。『万葉集』を代表する歌人
ほのぼのとあかしの浦のあさぎりに島がくれゆく舟をしぞおもふ(『古今集』)
ものやわらかな夜明けの明石の浦の朝霧のなかを、島がくれに舟が漕ぎ進んでいく。しみじみと旅情が身にしみることだ。
《出光美術館》
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
生没年未詳。九世紀後半〜十世紀頃
和泉権掾、淡路権掾など。『古今集』の撰者の一人。貫之と並び称される
いづくとも春のひかりはわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる(『後撰集』)
世の中にはわけへだてなく春の陽光が降り注いでいるというのに、吉野の山にはまだ寒々しい雪が降っております。
《某氏》
大伴家持(おおとものやかもち)
716?〜785年
大伴旅人の子。従三位中納言、持節征東将軍。卓越した歌人であったが、政治事件に巻き込まれ、解任等の憂目にも遭った。『万葉集』の整理・編纂にも携わったとされる
さをしかの朝たつ小野の秋萩にたまと見るまでおける白露(『万葉集』)
さ牡鹿がたたずんでいる朝の野辺の萩に、珠と見紛う美しい露が結んでいることだ。
《松下幸之助(松下電器創立者)》
在原業平(ありわらのなりひら)
825〜880年
平城天皇の孫。従四位上右近衛権中将兼美濃守。才たけた美男であったといい、『伊勢物語』のモデルとされる。六歌仙の一人。通称・在五中将
世の中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし(『古今集』)
この世にいっそ桜という花がなかったならば、いつ散ってしまうかと気をもまずに心安らかにいられるだろうに。
《湯木貞一(吉兆創立者)》
素性法師(そせいほうし)
生没年未詳。九世紀後半〜十世紀頃
僧正遍昭の子。雲林院権律師、のちに大和石上の良因院に移住
いま来むといひしばかりに長月の有明の月をまちいでつるかな(『古今集』)
あなたがいますぐに行きますとおっしゃたから、長月の長い夜を有明の月が出るまで待ち明かしたのですよ。
《某氏》
猿丸大夫(さるまるだゆう)
生没年未詳
伝説的人物。実在が疑問視されるが、猿丸大夫詠とされる歌は「百人一首」などに多く残る
おちこちのたつきもしらぬやま中におぼつかなくも呼子鳥かな(『古今集』)
あちらもこちらもどこを見てもおぼつかない山の中に、心細げに呼子鳥が鳴いていることだ。
《愛知・某氏》
藤原謙輔(ふじわらのかねすけ)
877〜933年
従三位中納言兼右衛門督。加茂川堤に邸があったことから堤中納言と呼ばれる。同邸は文人のサロンとなっていたという
人の親のこころはやみにあらねども子を思ふ道にまよひぬるかな(『後撰集』)
人の親のこころは闇のように物事のわからぬものではないが、子を想うと、ときに平静を失って道に迷ってしまうものだ。
《某氏》
藤原敦忠(ふじわらのあつただ)
906〜943年
権中納言従三位。才能豊かな人物だったというが早世。風流の貴公子として『大和物語』や『今昔物語』などにも登場
あひみてののちのこころにくらぶれば昔はものを思はざりけり(『拾遺集』)
願いかなってあなたと結ばれたいま、ただ憧れてのみいた以前とは比べものにならぬほどくるおしい慕わしさが募っております。
《中埜又左エ門(中埜酢店社長)》
源公忠(みなもとのきんただ)
889〜948年
光孝天皇の孫。源信明の父。従四位下右大弁
行きやらで山路くらしつほととぎすいまひとこゑの聞かまほしさに(『拾遺集』)
ほととぎすの鳴き声をもう一度聞きたいという思いから山路を去りがたく、とうとう一日を過ごしてしまったよ。
《萬野裕昭(萬野汽船会長)》
斎宮女御(さいぐうのにょうご)
929〜985年
徽子女王。醍醐天皇の孫。八歳で伊勢斎宮になり、のちに村上天皇の女御。のちにその娘・規子も斎宮となる
琴の音に峯の松風かよふらしいづれの緒よりしらべそめけむ(『拾遺集』)
琴の音色のうちに松の葉音が混じっているようだ。松風の琴はどの糸から音を奏ではじめたのだろうか。
《日野原宣(日野原節三夫人)》
源宗于(みなもとのむねゆき)
?〜939年
光孝天皇の孫。従四位下右京大夫。『大和物語』には官途の不遇をかこった逸話が載る
ときはなる松のみどりも春くればいまひとしほの色まさりけり(『古今集』)
永遠に色の変わらない松の緑ですが、春にはいっそう色鮮やかに、美しく冴えて見えています。
《服部栄三》
藤原敏行(ふじわらのとしゆき)
?〜901年
従四位上右兵衛督。宇多天皇時代の代表的な宮廷歌人。能書家としても著名
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(『古今集』)
秋の訪れは目にははっきりとは見えないが、風の音のなかにかすかな違いが現れていて、ああ、季節がめぐってきたよと気づかされることだ。
《関戸佳基(第十三代)》
藤原清正(ふじわらのきよただ)
?〜958年
藤原兼輔の子。従五位上紀伊守
子の日しにしめつる野辺のひめこ松引かでや千代のかげを待たまし(『新古今集』)
子の日の祝いに引こうと思っていた姫小松だが、やはり根引きするのはやめ、千代の松として生い育ち、豊かなかげを落とす日を待つとしようか。
《某氏》
藤原興風(ふじわらのおきかぜ)
生没年未詳。九世紀後半〜十世紀頃
上野権大掾、下総権大掾など。卑官であったが歌作・管弦などに才能を発揮した
たれかをも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(『古今集』)
この私も老いて、親しい人びとに先立たれてしまった。老松として名高い「高砂の松」ですら昔からの友ではないのに、いったいいま誰を友とすればよいのか。
《兵庫・某氏》
坂上是則(さかのうえのこれのり)
生没年未詳。九世紀後半〜十世紀頃
坂上田村麻呂の末裔。従五位下加賀介
みよしのの山の白雪つもるらしふる里さむくなりまさりゆく(『古今集』)
冬が深まって吉野の山に雪が白く降り積もっていっくようで、ここ旧都奈良は寒さが日1日とつのりつつあります。
《愛知・某氏》
小大君(こだいのきみ)
生没年未詳。十世紀後半〜十一世紀頃
左近ともいう。三条院が東宮のときの女蔵人
岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城の神(『拾遺集』)
葛城の神はみずからの容貌を恥じて暗い夜しか通い路の岩橋造りをせず、結局完成しませんでした。それは私も同じ。朝の明るい光の中で私の容姿を知れば、きっとあなたのお通いも絶えてしまうことでしょう。
《大和文華館》
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)
921〜991年
大中臣頼基の子。伊勢神宮の祭主。正四位下。『後撰集』の撰者。大中臣家は代々伊勢神宮に奉仕する家柄
千とせまでかぎれる松もけふよりはきみに引かれてよろつよや経む(『拾遺集』)
千年の寿命を持つとされる松も、子の日の今日、あなた様に根引きされたからには、万年の齢を持つことでございましょう。
《長野・A社》
平兼盛(たいらのかねもり)
?〜990年
光孝天皇の曾孫。従五位上駿河守。歌作にあたっては沈思し苦悶するタイプであったと『袋草紙』にいう
かぞふればわが身に積るとしつきを送りむかふと何いそぐらん(『拾遺集』)
ひととせ、ひととせ、歳月は身のうえに確実に積っていくのである。その送り迎えにいちいちあくせくして何になるというのだろう。
《MOA美術館》
住吉大明神(すみよしだいみょうじん)
摂津国住吉神社の神(和歌はおそらく同社の神官の詠)
夜や寒き衣やうすきかたそぎの行きあはぬ間より霜や置くらむ(『新古今集』)
夜のせいか、衣の薄いせいか、しんしんと寒さがつのる。片方を削ぎ落とした千木(住吉造りの社殿の特徴)の隙間から霜が降りてくるようだ。
《東京国立博物館》
紀貫之(きのつらゆき)
868?〜945年?
従五位上木工権頭。『古今集』の撰者で「仮名序」を執筆、当時の和歌界の第一人者。土佐守時代の著『土佐日記』でも知られる
さくらちる木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降りける(『拾遺集』)
桜の木の下を吹く風は冬の風のように寒くはない。なにしろ、ここには空からの雪のかわりに、花びらの雪が舞っているのですから。
《耕三寺博物館》
伊勢(いせ)
877?〜940年頃?
宇多天皇の皇后温子に仕え、のちに宇多天皇の寵を得る。女流としては『古今集』以後の三代集で最多収載された
三輪の山いかに待ち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば(『古今集』)
恋しい人を待つ場所として知られる三輪山で、私はどのように待てばよいのでしょう。幾年待っても訪ねてくれる人はいそうにないのに。
《岡崎恒雄(岡崎鉱産物社長)》
山部赤人(やまべのあかひと)
生没年未詳。八世紀頃
官位未詳。聖武天皇の頃に宮廷歌人として活躍。主に叙景的な騎旅歌が名高い
わかの浦に潮みちくればかたをなみ葦辺をさしてたづ鳴きわたる(『万葉集』)
和歌の浦に潮がひたひたと満ちてきたので干潟に遊んでいた鶴たちは足場がなくなり、葦の生い茂った岸辺を目指して、鳴きながらいっせいに飛び立っていくことだ。
《東京・某氏》
僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
816〜890年
遍照とも。素性法師の父。仁明天皇に近侍し崩御とともに出家。洛東花山に元慶寺を創立
すゑの露もとのしづくや世の中のおくれ先だつためしなるらん(『新古今集』)
葉の先に宿る露と元のほうに宿る露と、遅い早いの違いはあれどもいずれは地に落ちる。人の命もこれと同じ習いなのであろうよ。
《出光美術館》
紀友則(きのとものり)
?〜905年?
紀貫之の従兄弟。大内記。『古今集』撰者の一人で優れた歌人であったが長く官途に恵まれなかった
夕されば佐保のかはらの川霧に友まよはする千鳥なくなり(『拾遺集』)
夕刻になって佐保川の河原に立ちこめた川霧のなかに、仲間とはぐれた千鳥が心細げに鳴いているよ。
《野村文華財団》
小野小町(おののこまち)
生没年未詳。九世紀頃
仁明天皇の更衣ともいう。六歌仙の一人。伝説的な美女として数々の説話に彩られている
いろ見えでうつろふものは世の中の人のこころのはなにぞありける(『古今集』)
色にさえ見えないうちにいつの間にかはかなく移ろってしまうものは、人の内側に咲いている心の花なのですね。
《藤木鉄三(藤木工務店社長)》
藤原朝忠(ふじわらのあさただ)
910〜966年
従三位中納言。通称・土御門中納言
逢ふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をもうらみざらまし(『拾遺集』)
誰かに想いを募らせ、想いを遂げたいと懊悩する恋の苦しみがこの世に存在しなかったら、人の心のつれなさも、わが身の頼りなさも嘆くことなく、どんなに楽なことでしょう。
《三浦一宏(三浦商会社長)》
藤原高光(ふじわらのたかみつ)
940〜994年
従五位右近衛少将。比叡山横川で出家。のちに多武峯に移ったため多武峯少将と呼ばれる
かくばかり経がたく見ゆる世の中にうらやましくも澄める月かな(『拾遺集』)
私の生きる世の中はこんなにも辛いことが多いのに、月は憂さもなにもないがごとくに澄みきっている。うらやましいことだ。
《逸翁美術館》
壬生忠岑(みぶのただみね)
生没年未詳。九世紀後半〜十世紀頃
壬生忠見の父。正六位摂津権大目。官位は低かったが歌作に優れた。『古今集』の撰者の一人
春立つといふばかりにやみよしのの山もかすみてけさは見ゆらん(『拾遺集』)
立春の日を迎えたからであろうか。春の訪れの遅いあの吉野山も今日はほのかに霞が立っているように見える。
《某氏》
大中臣頼基(おおなかとみのよりもと)
886〜958年?
大中臣頼宣の父。伊勢神宮の祭主。従四位下
筑波山いとどしげきに紅葉して道みえぬまで落ちやしぬらん(『三十六人撰』)
筑波山は鮮やかな色彩に紅葉して、通い路が見えぬまでに葉が散り敷いていることでしょう。
《遠山記念館》
源重之(みなもとのしげゆき)
生没年未詳。十世紀頃
清和天皇の曾孫。従五位下肥後守、筑前守など。父は陸奥の受領で、かの地にいる重之の妹たちを平兼盛が「安達原の鬼」に擬して戯れたという話も有名
吉野山峯のしら雪いつ消えてけさは霞のたちかはるらん(『拾遺集』)
吉野山に積っていた白い雪もいつの間にか消えて、今朝は春霞に変わっているようです。
《岡崎恒雄(岡崎鉱産物社長)》
源信明(みなもとのさねあきら)
910〜970年
陸奥守、信濃守など。従四位下。中務との恋で知られ、家集の『信明集』は彼女との贈答歌が多い
こひしさは同じこころにあらずとも今宵の月をきみみざらめや(『拾遺集』)
あなたと私が同じほどの恋心を抱いているとは思われませんが、今宵はあなたも私と同じく、天空に宿っているあの美しい月を眺めていることでしょう。
《住友吉左衛門(第十六代)》
源順(みなもとのしたごう)
911〜983年
従五位上能登守。『後撰集』撰者の一人。学才に秀で、編著『和名類聚抄』がある
水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のもなかなりける(『拾遺集』)
水面に月が明らかに照り映えています。光を散らすさざなみを数えてみれば、そう、今日はまさに八月十五夜なのでした。
《東京・某氏》
清原元輔(きよはらのもとすけ)
908〜990年
清原深養父の孫、清少納言の父。従五位上肥後守。『後撰集』の撰者。当意即妙でユーモアのある人物と伝える
秋の野の萩の錦をふるさとに鹿の音ながらうつしてしがな(『元輔集』)
萩の花に錦のように覆われたこのめずらかな情景を、鳴く鹿の声もろともに私の住む里に移し替えたいものだ。
《五島美術館》
藤原元真(ふじわらのもとざね)
生没年未詳。十世紀頃
従五位下丹波介
年ごとの春のわかれをあわれとも人におくるる人ぞしるらん(『元真集』)
毎年、行く春を見送る寂しさは、世の人々に遅れをとっている者こそいっそう身に染みて感じるに違いありません。
《頴川美術館》
藤原仲文(ふじわらのなかふみ、なかふん)
923〜992年?
上野介、正五位下
ありあけの月のひかりを待つほどにわがよのいたくふけにけるかな(『拾遺集』)
有明の月が出るのを待っているうちに夜はすっかりふけた。同じように、私もずいぶん齢を経てしまったことであるよ。
《北村美術館》
壬生忠見(みぶのただみ)
生没年未詳。十世紀頃
壬生忠岑の子。摂津大目。歌一筋の人で、歌合で平兼盛の負けて憤死したという言い伝えが有名
焼かずとも草はもえなむ春日野をただ春の日にまかせたらなむ(『新古今集』)
野焼きなどせずとも春日山の若草は自然に萌え出でるでしょう。ただ暖かな春の日差しにまかせておきたいものです。
《中島徳太郎(中島商店社長)》
中務(なかつかさ)
生没年未詳。十世紀頃
宇多天皇の皇子・敦慶親王と女流歌人・伊勢の娘。源信明のほか多数の男性と関係を持ったといい、妖艶な恋歌も多い
うぐひすの声なかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし(『拾遺集』)
雪溶けの遅い山里では、うぐいすの声が聞こえなければどうして春がやって来たことがわかりましょうか。
《東京・B社》
※以下の記載は「仏像・石仏」のページへ移しました。
小江戸・川越に蔵造りの町並みだけではないもう一つの魅力を楽しむコース。観光客の喧騒を少し離れると、古墳などの遺跡が数多く残されているのに驚かされます。
JR川越線と東武東上線が交わる川越駅の東口をでて最初の信号を右折し、5分ほど歩いた左手に天台宗の道人山妙善寺(みょうぜんじ)があります。妙善寺は、1788年に焼失し、1978に再建されましたが、小江戸川越七福神めぐりの第一番・毘沙門天(びしゃもんてん)の寺として知られています。駅からの道にもどって、さらに歩くと川越街道にでます。川越街道を右折し、二本目の角を左折すると、真っ正面に浅間神社の鳥居が見えてきます。神社は、土を盛りあげて、ちょうど椀を伏せたようなマウンドの上に祀られています。このマウンドの形態をよく観察すれば、円墳(えんぷん)であることがわかります。これが地元では、母塚と愛称されている浅間神社古墳です。
浅間神社の前の国道16号線の歩道橋をわたります。歩道橋の上からは、浅間神社古墳の全体がよく見えます。歩道橋をわたって、北東の方向に5分ほど歩くと、右手のおくに鳥居が見えますが、ここが愛宕(あたご)神社です。神社は、浅間神社と同様に円墳の上に祀られています。これが浅間神社の母塚に対して、父塚と愛称されている愛宕神社古墳です。浅間神社古墳と愛宕神社古墳とも、正式な発掘調査がおこなわれていないので正確な年代は不明ですが、いずれも六世紀中頃のものと考えられています。
愛宕神社古墳の裾を裏にまわって、国道16号線をくぐったトンネルの出口の右側に、急な石段があります。この石段を上ると、氷川神社の裏にでます。そして、境内の西の端に、目測で高さ約2メートル、径約15メートルの小高いマウンドがあります。これが氷川神社古墳です。氷川神社の広い境内に、鳥居と社殿、それに小さな円墳が違和感なく配置されていますので、古墳があると認識していないと見過ごしてしまうかもしれません。
氷川神社から国道16号線にもどって、北東の方向に6分ほど歩くと、右手に自然山大日院天然(てんねん)寺があります。天然寺は、天台宗で小江戸川越七福神めぐりの第二番・寿老人(じゅろうじん)の寺でもあります。
天然寺から北東に50メートルほど歩くと、住宅地に下りる小さな道があります。その道を下りて、住宅地のなかを天然寺から2分ほどで、天台宗の川越観音長徳寺があります。『新編武蔵風土記稿』によれば、「永正甲戌(1514年)天台沙門實海」の名が古い過去帳にあるということです。境内には、もと土塁があったといわれ、堀の内という地名などから、仙波(せんば)氏の館跡と推定されています。今は土塁などは残されていませんが、仙波台地の東端にあって、荒川低地を一望にできることから、居館の立地としては最適な場所です。
長徳寺の山門の前の道を東に新河岸川沿いの道にでて、そこを左折します。そして、最初の新河岸川にかかる橋の道を左折し、西の方向へ道なりに200メートルほど歩くとT字路にでます。その角を右折してから、まっすぐの道を北に向かって、長徳寺から15分ほど歩くと、左手の住宅と住宅の間に鳥居と小さな社(やしろ)があります。ここが三変稲荷(さんぺんいなり)神社古墳です。
三変稲荷神社古墳は、1962年に地元の学生によって、だ龍鏡(だりゅうきょう)と碧玉(へきぎょく)製の石釧が採集され、埼玉県内でも最古級の古墳として注目されました。その後、1985年に県史編纂室によって、周堀の発掘調査がおこなわれています。その結果、一辺が約22メートルの方墳で、墳丘に壺形土器が巡らされていることが明らかとなりました。そして、土器の年代と鏡、石釧の年代が一致することから、四世紀末から五世紀初頭の古墳であることも判明しました。
三変稲荷神社古墳から北に最初の十字路を右折し、仙波台地の裾を巡る道路にでます。ここを左折して、二つ目の角に小さな広場があります。この広場が市史跡の小仙波(こせんば)貝塚跡です。現在の指定地は、かつて清水が湧きでていた場所で、この湧水を中心に縄文時代前期の集落が営まれていました。
小仙波貝塚は、昭和の初期に道路建設によって、貝層のほとんどが破壊されてしまいました。しかし、現存する一部からは、ヤマトシジミやカキ、ハマグリなどの貝類の殻が出土していることから、富士見市の水子貝塚や上福岡市の川崎貝塚などとともに、縄文時代前期初頭の縄文海進最大期に荒川低地の最奥に形成された貝塚です。また、仙波台地には、今から約6000年前の縄文時代前期以降、弥生・古墳・奈良・平安時代と継続して集落が営まれています。生産緑地である畑が広がる台地上では、たんねんに歩けば土器などを発見することができるかもしれません。
小仙波貝塚跡の北側にある道を西にまっすぐ歩いて、約7分ほどで川越大師の名で知られる星野山喜多院(きたいん)の山門にでます。この山門の前の道路の北側に日枝(ひえ)神社があります。ここに日枝神社が祀られたのは、喜多院の草創期に比叡山坂本の日吉山王社を勧請(かんじょう)したものといわれています。本殿は、朱塗り三間社流れ造りの銅板葺で、国の重要文化財に指定されています。
この日枝神社の西側の道路わきが、小高い盛り土になっています。ここが多宝塔(たほうとう)古墳、あるいは仙波日枝神社古墳と呼ばれる前方後円墳です。1638年に喜多院の多宝塔再建工事の際に、直刀、管玉、切子玉、ガラス小玉などが発見されました。これらの副葬品は、翌年に多宝塔建立の成就(じょうじゅ)を願って、石製の箱とともに埋納されました。ところが1925年の新道開削工事の際に再発見され、現在は喜多院が所蔵しています。なお、現在の多宝塔は、この道路工事のために移築されたものです。
また、1982年におこなわれた周堀部分の発掘調査では、円筒埴輪(えんとうはにわ)が出土しています。この円筒埴輪の年代が六世紀中葉で、副葬品に切子玉やガラス小玉などの玉類を多量に含む組成が六世紀中葉以降の特徴であることを考えあわせると、多宝塔古墳の年代は、六世紀中葉頃ということになります。
喜多院は、関東天台宗の総本山で、淳和天皇の詔で830年に慈覚大師により創建されたと伝えられています。1638年の大火で山門を残して、ほか堂塔はすべて焼失しました。そこで三代将軍の徳川家光が援助し、江戸城紅葉山の別殿を移築して再興しました。国指定の重要文化財である客殿、書院、庫裡がそれです。また、1645年に天海僧正の御影堂(みえいどう)として建てられた慈眼堂(じげんどう)や鐘楼門をはじめとして、絵画や工芸品など多くの国指定の重要文化財があります。一方、明治の神仏分離令で別管理となった東照宮の建造物も、国の重要文化財に指定されています。なお、喜多院は、「厄除けのお大師様」として、初大師の1月3日には、だるま市が軒をつらね、小江戸川越七福神めぐりの第三番・大黒天(だいこくてん)の寺でもあります。
ところで、慈眼堂が建っている場所は、前方後円墳といわれ、その名も慈眼堂古墳と呼ばれています。墳丘の上の慈眼堂の裏には、二つの板碑が立っています。一つは、暦應の銘のある高さ237センチ、最大幅60センチの大きさで、梵字(ぼんじ)の下には、52名の喜多院の歴代住職の者とみられる名を刻んでいます。もう一つは、延文3年(1358)銘のある高さ276センチ、最大幅69.4センチの大きさで、梵字の下には、沙弥と尼という僧階が最も低い53名を含む60名が刻まれています。そこには、「一結緒衆/敬白」とあるように、在俗の人々が結衆した、いわゆる結衆板碑であることがわかります。
喜多院の参道を北に2分ほど歩くと、右手に成田山新勝寺の別院の成田山で、小江戸川越七福神めぐりの第四番・恵比須天(えびすてん)の寺があります。この成田山の前を北に大通りをわたるとT字路にでますのでそこを右折し、つぎの角を案内表示にしたがって、斜め左の道を入ります。そして、T字路に突きあたったら右折し、つぎの角を左折し、さらに80メートルほど歩いた十字路を右折すると、100メートルほどで三芳野(みよしの)神社の前にでます。わかりずらい道ですが、途中に案内表示がありますので、それにしたがって歩けば、成田山から13分ほどで間違いなく着きます。
三芳野神社は、平安時代の初期の創立と伝えられ、旧川越城内の天神曲輪に鎮座していたことから、「お城の天神様」として親しまれています。この天神様にお参りするには、川越城の南大手門から城内を複雑に歩かなければならなかったことから、童謡「通りゃんせ」の歌詞の発祥の地となったともいわれており、伝説の豊かな地です。
三芳野神社の参道から社殿のわきをぬけると、目の前に入母屋(いりもや)造り棧瓦葺(さんかわらぶ)きで、中央に二間の大唐破風(だいからはふ)を霧除けのついた玄関を配し、玄関の両側に瓦葺きの櫛形板塀を構えた、いかにも武家風で重厚な建物が出現します。これが川越藩が最大の領地を有していた当時、1848年に完成した川越城本丸御殿です。とはいえ本丸御殿は、全部で16棟、建坪1025坪の規模をもっていたのが、明治維新後に解体されて、この玄関と大広間の部分だけがわずかに残ったものです。
足を延ばせる方は、川越夜戦跡のある東明寺(とうみょうじ)へまわってみましょう。川越市立博物館の駐車場の横の道を北上し、200メートルほどで十字路にでます。そこを左折し、180メートルで川越の総鎮守である氷川神社の前にでます。毎年10月14・15日の二日間(現在は、第三の土・日曜日)おこなわれる氷川神社の例大祭は、十数台の山車(だし)が市内を練り歩き、今では川越祭りとして、全市をあげた観光行事となっています。
氷川神社にお参りしてから、さらに西へ歩いて、裁判所の前の信号を過ぎた最初の角を右折します。そして、150メートルほどで左に理髪店がありますので、その角を左折すると稲荷山称名院東明寺の山門の前にでます。市立博物館からは、歩いて14、5分です。
東明寺は、時宗の寺で、かつては東明寺村、寺井三カ村、寺山村などにおよぶ寺領を有し、境内も広大で、惣門が現在の喜多町の中ほどにあったと伝えられています。喜多町の古名が東明寺門前町と称されたというのも、それでうなずけます。
1546年(天文15)4月に。八万余騎といわれた上杉憲政と古河晴氏の連合軍を、わずか8000余騎の北条氏康が夜襲攻撃で打ち破った合戦は、世に名高い川越夜戦ですが、それは別名を東明寺口合戦といわれるように、この地の要路である松山街道を含む東明寺領と境内で争われたものです。東明寺境内にあった塚からは、ずっと後年までおびただしい数の髑髏(どくろ)が掘りだされたと伝えられています。
東明寺の参道を西南にバス通りにでると、ここから蔵造りの町並みとして、今や年間400万人が観光に訪れるという、重要伝統的建造物群保存地区の中心の通りになります。
蔵造りの町並みは、町の約四割にあたる1301戸を焼失した1893年(明治26)の川越大火の教訓から生まれました。この時に焼け野原に残った土蔵が耐火性に優れていることを知った川越商人は、復興にあたって当時欧米から導入され流行していた耐火建築であるレンガ造りではなく、土蔵造りを選びました。ですから、川越の蔵造りの町並みは、江戸の景観を残すといわれていますが、それは江戸の土蔵造りの様式を採用したからであって、建物の多くは明治の川越大火以降のものです。
東明寺から400メートルほどで札の辻の交差点で、ここから仲町の交差点までの約400メートルに、明治の大火でも焼失しなかった大沢家住宅(1792年建築)をはじめとする蔵造りの家が、今では和菓子屋やお土産店、資料館などに活用されて、それぞれ個性あるたたずまいを見せています。とくに400年前から城下町に時を知らせた「時の鐘」は、現在四代目といわれ、今も午前6時、正午、午後3時、午後6時の4回、市民に時を知らせています。-->
時の鐘のある路地のつぎの角を右折し、すぐの長喜院の門前を右折して、突きあたったT字路を左折します。そして、大イチョウのある養寿院の門前を右折し、つぎの角を左折すると菓子屋横丁です。
昔懐かしい駄菓子屋が並ぶ路地をぬけて、T字路を左折し、つぎの新河岸川に沿った道を左折すると、すぐに寿昌山了心院見立寺(けんりゅうじ)があります。見立寺は浄土宗で小江戸川越七福神めぐりの第六番・布袋尊(ほていそん)の寺です。
見立寺の前の道を南西に歩いて、突きあたった角を左折し、二つ目の信号にでます。この信号を右折し、妙養寺の前をとおり、最初の角を左折して、見立寺から12分ほどで、小江戸川越七福神めぐりの第七番・弁才天(べんざいてん)で知られる日蓮宗の妙昌寺(みょうしょうじ)があります。
妙昌寺の前の変形の十字路を左折して、東に400メートルほどでT字路にでます。そこを左折し、つぎの角を右折して、細い路地をぬけると、江戸時代に浄土宗関東一八檀林の一つとして栄えた蓮馨寺(れんけいじ)の境内にでます。蓮馨寺は、小江戸川越七福神めぐりの第五番・福禄寿神(ふくろくじゅじん)の寺でもあります。最後は駆け足のようになりましたが、これで小江戸川越七福神もめぐったことになります。
蓮馨寺の前の道を南にまっすぐ8分ほど歩くと本川越駅です。