仙 波 氏


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「軍記 武蔵七党 (上)(下)」 川又辰次編 川又タケヨ 1985年(非売品) ★★
 仙波氏 村山党
 「姓子家系大辞典」に、桓武平氏村山党、武蔵発詳の大族にして、入間郡仙波庄より出づ。武蔵七党系図に「村山家継―家信(仙波七郎)―信平」と見え、史料本には
平太太兵兵太
(仙波)家信(仙波七)┬信平┬信恒─高詮─高綱
太左
├景平┬重信
│ 
└守平└長高
二入  中務亟  内舎人
├安家┬時家┬時宗┬家氏
└時綱
二兵
├盛安┬氏安
  属平時村誅
├暹曜┬盛直
兵二彦六
└盛経├盛勝
└泰盛
├安成┬行成
└氏成
弥二右近将
├光時├時員┌行氏
弥四左入左近将
├時安└康高┴光泰
馬充    小太
└安行┬行盛─行重
  孫三
└家茂┬資行
孫二
└家綱
      掃部左
├家行─忠行─行恒─時行─盛行
│ 三承久宇治流死
├信高
│ 
└行高┬光家─□□─経家
└俊家─□□─俊盛 と見ゆ。

 氏人は保元物語巻一に「武蔵には云々、村山に「仙波七郎」(仙波高家)とあるを初めとして、東鑑巻五、十に仙波次郎、十に仙波平太、其他、承久三年六月十三日条に「仙波太郎、同左衛門尉、仙波弥次郎、新太郎」等見ゆ。(高家は、仙波系図には仙波七郎家信と載す)。下りて、結城戦場物語にはせんばん五郎(結城勢)とあるも此の族か。又長禄寛正記に仙波二郎(河内勢)見ゆ。そのうち結城物語には「結城がせいが中にてはおぐしの弾正あきひさ、平日鹿のぎやうぶよしすけ、はんばの五郎、長井□、小貫、杉山、吉居、高田、高橋、尾奈の六郎、水谷たう、糟屋のたうぢ、藤本、平田の五郎を初として枕をならべてうたれたり。」とも、又、関東合戦記には「京勢の仙波常陸介中申しけるは」とあり。
 「武蔵武士」には、山口家俊の弟、家信は仙波七郎と云。保元の乱義朝に従て大矢新三郎を斬り勲功を著り、家信の長子信平は仙波平太郎、次子安家は仙波二郎、三子家行は三郎左衛門尉、皆頼朝に仕へて軍功あり。信平の子仙波太郎信恒及家行は承久の役宇治川に戦死す。今入間郡に仙波村あり是旧地なり。「武蔵野歴史地理」には、此処は鎌倉時代の初め武蔵七党の一なる村山党仙波氏の居った処であると記し、又「案ずるに仙波氏は河越氏と比較して大身者ではなかったが、何れかといへば小身物で、鎌倉に仕へても決して枢要の地位に就かなかった如くである。されどその子孫は漸次各地に蔓延して長く其系統を続けた。永禄の分限帳にも其の名が諸所に出ている。○仙波七郎は相模高座郡打戻三十貫文を知行。仙波藤七郎、伊豆に百三十五貫文の知行、何れも先祖は武蔵仙波の出であろう。○徳川氏に仕へた旗本仙波氏の先祖、肥前守久種は、仙波家信の後裔で、小田原北条氏に仕へ、其子兵部少輔次種は北条氏政に臣事し、相模高座郡遠藤村に住し、文禄四年八月十六日死して遠藤村芳泉寺に葬ったと伝えられる。其子孫数家に分れて幕末まで継続した。或は思う。北条分限帳の仙波弥七郎と云は肥前守久種に相当するであろうか。久種の子孫吉種も弥七郎と称した。」とある。また、仙波盛直、六波羅探題北条時村に連座して誅せらる(文永九年)ともある。
 然れども仙波は永く仙波氏の所領では無かった。徳川時代に至っては小仙波の寺領を除いて大仙波の大部は勿論川越城附の地であった。又仙波の地内には小字城の内、堀篭、弾正屋敷、今町、上ノ町など呼ぶ処がある。城の内、堀篭は古城址らしく、とある。
 軍記物語に、「保元物語」「吾妻鏡」等。
 「保元物語」上 官軍勢汰へ
 其後義朝甲の緒をしめ・・とて、白旄の旗をなびかし、黄鉞の鉾をかゝやかし、魚鱗・鶴翼の陣を全し、星旄電戟の威をふるっていさみ進てうち出し、刑勢ことがら、あっぱれ大将軍也とぞみえし。相随ふ輩は誰々ぞ・・村山には金子十郎・山口六郎・仙波七郎(家信・高家)・・これらを初として、宗との兵四百余騎。都合一千余騎にて馳向ふ。
 古活字本保元物語中 白河殿攻め落す事。
 常陸国住人中宮三郎、同国住人関次郎、村山党には山口六郎・仙波七郎、轡をならべてかけ入ば、三町礫紀平次大夫・大矢新三郎己下防ぎ戦けるが、新三郎は仙波七郎に弓手の肩きられ、紀平次大夫は、山口六郎に右のうで打落されて引き返す。
 「吾妻鏡」 (全釈吾妻鏡による)
 第五 勝長寿院落慶供養頼朝臨む。
文治元年(1185)十月廿四日 癸酉 天霽れ風静かなり。今日、南御堂供養なり。行列随兵六十人、西方、仙波二郎(家行)
 第十 頼朝入洛す
建久元年(1190)十一月七日 丁巳 雨降る、午の一尅、晴れに属す、その後風烈し。二品御入洛、その行列、先陣の随兵 四番、仙波次郎(安家)後陣の随兵 卅一番 仙波平太(信平)
 第十五 頼朝南都東南院に入る
建久六年(1195)三月十日 乙未 将軍家、東大寺供養に逢はしめんがために、南都東南院に着御、行列、後陣の随兵に仙波太郎(信恒)
 第廿五 宇治合戦に敵を討つ人々の交名
承久三年(1221)六月十八日 辛未 六月十四日の宇治橋合戦に手負の人々。仙波太郎、同左衛門尉。六月十四日の宇治橋合戦に河を越して懸かる時御方の人々死する日記の中に、疵を被りて三箇日巳後に死す。仙波弥次郎。
 大仙波村「風土記稿」入間郡之八河越領、大仙波村は河越の巽五町余にあり、山田庄三芳野里に属す。江戸へ工程十里余、土人語の伝に、当所は往古入海なりしを、仙芳仙人と云もの来りて陸地となしたれば、仙波の名は起りしと云へり、いと覚束なき説なり、保元物語に仙波七郎高家と云人見ゆ、仙波系図には仙波七郎家信とのす、又、東鑑に仙波平太、仙波太郎、同次郎、同弥三郎、同左衛門尉など云人出たり、これその在名をもて氏とせしなるべし、大仙波の唱へは尤後世のことゝ見えし、「北条役帳に関弥次郎仙波の内沼野五貫文、中松幸松仙波内平七郎新三郎拾貫文あり。
 村の大きさ東西の径り十二三町、南北七八町に過ぎず、東は大中居に続き、南は田島村扇河岸及び岸村に隣り、西は新宿・脇田の二村に接し、北は小仙波村なり、江戸より河越への往還村の西にあり、南の方岸村より入て仙波新田に達せり、村内陸田少くして水田多し、家数は六十七軒あり。
 小名、城の内、寺畑、堀篭、いはらいと、秋柄谷、しゝみ塚、弾正屋舗(後に記す)宿屋舗 今の街道の東裏を云、この処昔山田の町と呼びて、宿駅のありし地なりと云ふ。今も礎石瓦などまゝ掘出すことあり、又古井の跡も残れり、按に「和名抄」御名の条に入間郡に山田とありて、此辺山田庄と唱ふる時は、かの昔山田の町といひし所と云は、その名の由で起る処の本なるにやあらん。小屋ノ後、上ノ町、内袋、会下ノ下、滝ノ上、雀川、塚田 今町 なかま屋敷 うとう 坂上、塚三 六角堂塚・猫山塚等の名あり。愛宕社 円径五十間、四方の塚上に立つ、この社頭よりの眺望東南の方打開けた、最も勝景の地なり、又爰より坤の方二三町を隔て浅間の社立る塚あり、土人いかなる故にや其塚を母塚と呼び、当所のを父塚とわかちいへり、又当所の塚は仙波七郎高家を葬し所なりと云へど、更に正しき処とすべきことなし。
 富士浅間社 此社地も一丈余の塚にて、則前にしるせる母塚と云ものなり、仙波中院の持なり。下宮、氷川社、弁天社共に長徳寺の持、稲荷社、当山派の修験、萬人坊の持と云へり。
 長徳寺 天台宗 仙波喜多院末、冷水山清浄土院と号す、開山は慈覚大師なりと云へり。当寺に伝ふる古き過去帳の序に、永正甲戌仏涅槃天台沙門実海と記したれば是人もし中興開山の僧などにや、本尊は弥陀を安ず、観音堂、観音は白衣の坐像にて長二尺、毘首羯摩が作と云。
 天然寺 是も喜多院の末寺なり、自然山大日院と号す慈覚大師の草創の地と云、今按に「所領役帳」に勝瀬孫六十九貫文は仙波内天念寺分なる由を載す、この天念寺と云は恐らくは当寺のことなるべし、本尊弥陀を安置せり。大日堂、此大日は慈覚が作なりと云。
 仙波氏の館は今の長徳寺の場所に在ったと伝えられ県史でも、仙波氏館跡、川越市仙波町三丁目堀ノ内一〜三一台地となっている。
 弾正屋舗「風土記稿」この処は昔筑後弾正と云し人の住居の跡なりといへど、其年代及びいかなる人と云ことを伝へず。恐らくは難波田弾正など居しあとなるべしとおもへり。県史四巻に、館は仙波町一丁目1213番地。川越(東上線)下車徒歩13分。市有地(市営住宅)台地、東西1町40間、南北2町30間、小名は弾正と記されている。
 長徳寺については「武蔵野歴史地理」に次のように記される。氷川社の北方数町を離れて寺院長徳寺がある。此の寺は天台宗、小仙波喜多院末、冷水山浄土院と号する。開山は慈覚大師と云へる。古過去帳の序に「永正甲戌仏涅槃天台沙門実海」と記してあったともいへば、或は星野山諸院と同じき古寺であろうか、元禄十五年十二月十六日仙波東照宮正遷宮祭の時高家戸田中務大輔氏興は将軍名代として来り詣で、其の夜此寺に一泊した。・・寺は崖上にあり東荒川沿岸の田圃を見下し眺望誠に美しいから其の為宿坊に選ばれたのであろうか。今も当寺の宿札を蔵する。庭前に枝垂桜がある。(今も同じ風景が思われる。)
 次も高橋源一郎著「武蔵野歴史地理」からの転載である。
愛宕社は仙波河岸の上崖にあり、高さ五六間、直径数十間に及ぶ大古墳で、周囲には昔堀があったと思はれる跡も残っている。頂上に愛宕神社を祀ってある。愛宕神社創始の年代は不明であるが、文禄二年正月十一日山城愛宕山長床坊内、東光坊より仙波万仁坊に与へた書状に「武州河越愛宕山建立に就て万仁坊差置云々」の文句があったと云。其の真偽は容易に分らぬ。されど万仁坊は、徳川初代より相当に大きな坊であった。その所在は愛宕山南鱗の地で、今も畑中に当時の碑が残っている。其の碑石の内には「武州入東郡川越大仙波愛宕別当、権大僧都源良法印之峯霊、寛永八辛未天四月十一日寂」と刻せるものなどがある。元和・寛永の頃既に相当の住職が居ったことが是れにて分る。其の後寛文・元禄の時代までも万仁坊は相当に盛んであった。されど何時の間にか廃絶して文化・文政の頃には既に其建物も無かった。
 (愛宕神社)今の社殿は立派ではなく、境内の塚上塚下また樹林繁茂するが故に展望の勝も無けれど、崖下樹林の間には清水混々として湧出し、之を引いて小さき滝も設けてあるから、夏期に一遊するも一興である。昔より此処に来遊する好事家も少くは無かった。
 文政二年の頃、江戸の十方庵釈敬順が此処に遊んだ。左は其の当時の紀行文である。
 社内広く大仙波のあたごと称す、此東の崖際より眺望すれば東南の耕地を一面に見晴し、その見渡す広さ凡そ二三里、四方絶景いふばかりなし。此地高き事凡三四丈、社地の樹石天然にして面白し。愛宕の社は左りの方石階三十三間を登りて宮造りす。大さ三間、愛宕社と竪に認めし額は左文山の筆なり。本殿の北後へ廻りて見れば古絵馬の数々ある中に、宝永二年の古絵馬あり。猩とかいう獣を左右に立て中央には酒をたたえし壺を置き、後には松竹梅を彩色に画し様惣体の画風、古雅に見ゆ。此山の広さ頂上は漸く六七間四方、山下みな一面熊笹明間なく生茂れり。東の方山下桟に滝二すじ漲り落。但し樋弐筋より送り流る。是垢離場にして滝下には弐間に五間に箱を埋めたり。深さ凡三尺ばかり。水一盃に湛て四方より溢れ流る。左の方に腰の物かけ。衣服の置所、行人の腰かけ処等あり。又滝の落口にはくりから竜の古碑を建て、その備へ一風ありて面白し。(今も此の当時の有様に余り変りはない。)
「万仁坊の所在は判明したが野草の繁茂した荒地である。杉が数本と榊がある。多くの墓石と共に住職の墓石らしいものも倒れていた。もう幾年も手を入れていないようである。さきに記されている「武州入東郡川越大仙波愛宕別当権大僧都源良法印峯霊寛永八辛未天四月十二日寂」の墓石の他に、「寛文十三癸丑天施主権大僧都法印秀算霊九月晦日敬白」の一基も見られた。
 「大日本地名辞書」嘉吉記に、長禄五年(1461)広感院殿生年十四歳におはしけるが、太田入道に命じて武州川越の南、仙波の城を今の川越三芳野の地に移し要害の縄張り終りて云々と見ゆ、然らば今の城跡は、嘉吉記、並に大草紙に随ひて長禄元丁巳年四月、扇谷修理大夫持朝の命に依て、長臣太田備前守入道道真縄張して、仙波の古城を三芳野の里に移したりと知らる。」この記事からみると、「仙波の古城」は上戸の常楽寺の地に在った川越氏の城ではなく、中世に活躍した武蔵七党の一つである村山党仙波氏の城であると考えられる。また「武蔵野歴史地理」に、仙波と云地名は旧川越村とは一渓を隔て南にある台地の周囲の部落であった。此処なる武蔵仙波の其の名は早く鎌倉時代に顕われて居った。」とみえる。
 長徳寺「川越観音長徳寺」の柱が建っている。寺は赤間川沿いである。川越の町中だけを歩いているとこんな良い田園風景が近くに見られるとは考えも及ばない。赤間川べりから見れば、長徳寺即ち仙波氏館址は台地である。冷水山長徳寺。青銅色の屋根で美しい寺である。山門の屋根も同じく青銅色。寺の屋根には□の紋がある。大きい枝垂桜がある。樹林は少いが広い敷地である。「仙波館跡」の掲示板がある。曰く「この長徳寺付近は堀の内といい、仙波氏の館跡と推定される。仙波氏は鎌倉時代の武士で、武蔵七党の村山党に属していた。村山党はここに、村山、大井、宮寺、金子、須黒、仙波の諸氏に分れ武士としてのつとめを果しながら、入間地方の開発につとめた。この館は、一一五〇年頃(藤原末期)仙波七郎高家(家信)によって営まれ、その勢力は南方宗岡、西は永井に及んだと推定される。なお、この寺は仙波氏の持仏堂であったと推定される」
 山門の近くに「川越湯けむり会碑」という婦人の湯浴の像がある。碑の由来は判らない。
 長徳寺は三丁目の三十一、そこから西に向って一番地になるまでが館跡となるわけである。川越市には仙波氏の館跡と中世の河越氏の城址と江戸時代の城との三つの城址があるわけである。
 愛宕神社は市の指定史跡「父塚」となっている。次々と枯れるらしい樹木を切り倒している作業が進められていた。三十七段を登った本殿は丹塗で屋根も赤い。敷地には松、楓、樫、欅の大木が生えており、塚を廻っての東側は鬱蒼たる大木の林である。笹が密生している。塚の下方は人家、道路、又は畑と開けているが、塚だけは別世界のように荒れている。本殿は改築されたのであろう古絵馬は見られず、滝は勿論、見られなかった。塚の前に大きな框、松。それに芭蕉の句碑。神社も四囲の状況は変っていても、ここからの眺望は紀行文そのままに素晴らしい。曇ってはいたが東南は開けていた。下方に池がある。社地を削って造ったのであろう塚下の広い道路がひっきりなしに通る。
 浅間神社 本殿の囲りの狭いうちに松、椢などの大木が密生していた。「万葉遺蹟古肩之鹿見塚」の碑がある。
 仙波氷川神社「本殿腰廻り欄間の彫刻は名工島村源蔵の作」と記しているが、それは見当らなかった。古い杉が数本。大木の切株がいくつも見られ敷地はただ広くみえた。
 先日、川越湯けむり会碑の由緒について海老沢さんから「昔日、仙波城は地下からの湯けむりによって城は覆われたので敵の攻撃から免かれることが出きたと云う」と教えられた。それで再度、長徳寺を訪れる。その説明には功労者中久木品五郎氏を記念するもので画像は佐藤美舟氏の創作画にして裸婦の曲線美は人の和を示し六人の婦像は六観音、六地蔵を表現せり、と。全く曲線美の豊かなものである。また、趣、長徳元年一条天皇の御代阿弥陀如来浄光を放ち、山麓に霊泉湧出の不思議ありて伽藍を建立、以来壱千年に及び。ともある。六地蔵前、枝垂桜の下の庚申塔と並んで、□拾□□の文字の菱形の塔がある。本堂、山門共に青銅のこけら葺きである。
 「角川日本地名大辞典」 仙波氏は鎌倉期には当地を本貫としたと思われ、在地武士の活躍がうかがわれる。地内の喜多院、中院、南院は天長七年慈覚大師の開山、永仁二年尊海の再建と伝える。康暦二年卯月七日什覚の注記とある恵心流相承次第には「武州仙波ノ尊海ハ、上総国ノ人也」と見える(逢口寺文書・茨城県史料中世1)。うち川越地方を中心として近郷一帯は扇谷上杉家の支配を受け、福徳(延徳)二年三月二日の曽我豊後守に宛てた上杉定正書状写には上杉朝良のかたへ「山口・小宮・仙波・古尾谷・面々被越候」と見え、当地の仙波氏は扇谷上杉氏に重用されていたと思われる。
 仙波荘(近世) 「新編武蔵」に見える荘名。入間郡のうち。中世末期頃から用いられたと思われる。属した村々は、古市場・牛子・寺尾・砂・扇河岸・上新河岸・下新河岸・亀窪・大井・苗間・鶴岡・北永井・竹間沢・藤久保・駒林・福岡・福岡新田・川崎・針ヶ谷・水子・大久保・勝瀬・鶴間・宗岡の二四か村。現在の川越市・大井町・三芳町・上福岡市・富士見市・志木市のあたり」とある。

小江戸 川越歴史散歩」 広瀬瑛 鷹書房 1991年 ★★★
 仙波氏館跡・長徳寺(仙波町3-31)
 喜多院や光西寺のある一帯を小仙波町というが、その南側が仙波町である。もとの「大仙波村」で、小仙波と一緒であった。仙波郷の発祥の地であり、鎌倉時代に仙波氏一門が地頭として支配した根拠地である。
 仙波氏の居館としては、大仙波に「堀ノ内」の地名があり、台地の端上にあって喜多院の末寺長徳寺がたたずむ。喜多院から直線距離にして東南一キロ強にあたり、所々に指導標も立っている。『新編武蔵国風土記稿』によると「永正甲戌(1514)天台沙門実海」の名が、古い過去帳に記されていたという天台宗の末寺である。境内にはもと土塁があったといわれる。
 「仙波氏は村山党の出自で鎌倉幕府に仕え、代々この地方の地頭職としてこの地を領有していた。後年仙波二郎は建武中興の時、新田軍に従い武蔵武士の面目を発揮した。長徳寺はその館址で、持仏堂として建立、発展したものである」
 とは、川越市の史跡立札である。
 仙波氏の名を『東鑑』に求めると、文治元年(1185)十月、南御堂(長勝寿院。鎌倉、源義朝の墓のある所)に仏師成朝新刻の丈六阿弥陀仏供養会に、臨席する源頼朝の供奉人中に仙波次郎、さらに建久元年(1190)十一月、頼朝最初の上洛随兵中、先陣第四番目に仙波次郎、中陣三十一番三騎の中に仙波平太がある。建久六年三月、東大寺供養の行列には仙波太郎が加わっている。
 その後二十数年を経て承久三年(1221)の承久の乱には仙波太郎、同左衛門尉が宇治橋合戦で負傷し、仙波弥次郎も同じ日に傷を受け、三日後に死んでいる。宇治・勢多の合戦は、この乱を通じて唯一の戦闘らしい戦闘であった。おそらく同族一団となって最前線で働いたのであろう。
 それよりさき、『保元物語』には源義朝のもとに武蔵国住人、村山党に金子十郎家忠、山口六郎、仙波七郎と名をつらねている。白河殿の戦に金子十郎家忠(十九歳)が「いくさは今日ぞ始めなる」と名乗って、鎮西八郎為朝の矢面に立った話は有名だ。その時、山口六郎は三町礫の紀平次の右の肘を射、仙波七郎は大矢新三郎の左肩に一太刀あびせている。紀平次も大矢も、ともに為朝の名だたる郎等であった。これらの仙波氏は、たぶんこの仙波に生まれた土豪であろう。
 『平治物語』には仙波氏の名は出ていないが、義朝に従って敗れ、堅田の浦で主と別れて故郷に帰った東国武士の中に加わっていたことも想像される。その後二十年の間、力を貯えて治承の秋、頼朝の挙兵に応じたのであろう。

「埼玉の館城跡」 埼玉県教育委員会編 国書刊行会 1987年  ★★
 61 仙波氏館
種     別
所  在  地川越市仙波町3丁目堀ノ内1-31番地
交 通 の 便東上線川越駅下車徒歩15分、東武バス川越駅発宮下町行大仙波下車徒歩3分
土 地 所 有 者私有地(同所 長徳寺ほか)
立地・形態・面積台地 不明 約12000u(約3600坪)
遺     構なし。
築 造 年 代鎌倉時代
城 主・居住者不明
文 献・絵 図武蔵国郡村誌(公刊)
関 係 事 項長徳寺、地名「堀の内」
伝 承・記 録仙波の堀の内は武蔵七党村山党の仙波氏の居館という。保元物語に所蔵の仙波七郎高家や吾妻鏡の仙波平太、同太郎、同次郎、同弥三郎、同左衛門尉のいずれもこの堀の内に居を構えていたという。また「永享記」に太田道灌が川越城の築城に際して仙波の城を移築したとあるが、仙波の城の所在地は不明であるので、堀の内の仙波氏居館を移築したのかは全く不明である。

「川越の城館跡 (改訂版) T氏自費出版 2004年 ★★★
C仙波氏館(平安時代末期〜室町時代中期:仙波町3丁目31番地・長徳寺)

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作成:川越原人  更新:2020/11/02