小江戸・川越は、秩父と並んで埼玉県を代表する観光地だ。その川越の総鎮守・氷川神社の境内には、柿本人麻呂をまつる人麿神社があり、その隣りには山上憶良がつくった「惑へる情(こころ)を反さしむる歌」の歌碑が建っている。万葉集を代表とする二大歌人が、どんな理由から川越と関係をもっているのか。人麿神社からみていこう。
人麻呂は、万葉集に長歌18、短歌66の84首を残している。枕詞や対句構成を巧みに使って、長歌に、短歌に王権を重厚壮麗に讃え、また地方への旅の悲しみをイメージ豊かに、そして愛する人との別れを切々とうたい上げた。
中でも私が最も好きな歌は、旅の歌の中の、
ともしびの明石大門(おほと)に入らむ日や榜(こ)ぎ別れなむ家のあたり見ず (巻3 254)
スケールの実に大きい歌であり、家郷恋しの感情が圧倒的な迫力で伝わってくる。人麻呂は実体がはっきりしないところがあって、持統朝の宮廷に仕えた官人でありながら、吟遊詩人として各地を回ったとする見解もある。
ところで、川越氷川神社の人麿神社については、同神社名誉宮司山田勝利著『柿本人麻呂と川越』に詳しいので、同著を借りて紹介したい。
川越の旧家綾部家に伝わる家系図によると、同氏は石見国美濃郡戸田の出生とも伝える人麻呂の子孫で、平安期に丹波国何鹿郡綾部庄の下司となり、綾部氏を名乗った。下って永正2年(1505)に綾部庄から近江国を経て川越に移住、その際始祖人麻呂を氷川神社境内にまつった。家系図では人麻呂の命日は3月18日だが、現在例祭は1月おくれの4月18日。この日には綾部一族が同社に集まって、氏神祭をとり行っている。
ここの御神体は、えぼしをかぶり、直衣(のうし)を着け、脇息(きょうそく)に身を寄せ筆を手にした人麻呂が、詩想をこらしている姿の木彫像。高さ16.5aほどの杉材で、作は鎌倉時代の歌人で彫刻家の頓阿(とんあ)法師といわれる。
人麻呂研究は、江戸時代の国学者契沖(けいちゅう)以来今日まで、多くの学者によってなされ、人麻呂が没した土地は万葉集2・223「辞世の歌」の題詞から、石見国とみるのが多数説だ。出生地は大和国とする人が多いが、明白な証拠があるわけではない。川越綾部家の系図では、出生地は石見国美濃郡戸田である。その戸田にも綾部家があって、柿本神社をまつっている。
また、戸田の綾部家は語家(かたらい)とよばれているという。折口信夫はその著書の中で、人麻呂は柿本人麻呂という歴史的実在の詩人のほかに、柿本族の中に人麻呂≠ニ称する同名の吟遊詩人が複数存在したと想定した。山田はこれを受けて、東西の綾部家の遠祖もこうした詩人の一人として、諸国を巡遊したのではないかと記しているが、おもしろい見解である。つまり、その一人の漂着地が川越というわけだ。
これらのことは伝説や推測にすぎない、といってしまえばそれまでだが、人麿神社が川越氷川神社の境内にあって、490年もの間、綾部一族によって奉斎され続けてきたことも、また事実。
いま安産の神、学業成就の神と崇拝されている人麿神社が、本来の歌の神様として歌人や文学愛好者に崇められるようになってほしいと願うのは、私一人だけであろうか。
川越市宮下町の氷川神社境内に「山上憶良(やまのうえのおくら)の令反惑情(まどえる こころを かえさし むる)長歌碑」がある。「三芳野名勝図絵」の著者中島孝昌の孫、芳嶺の建てたもの。みずから揮毫した碑で、高さ1.7メートル、幅1メートル。明治十六年五月建立。碑陰記に、芳嶺は家号を絹屋といい、世々、鍛冶町に住し維新の際町役人となったが、老を以て職を辞し、家に清閑した。資性考順磊(らい)落奇敏、学を好んで詩を好くし、漢隷(れい)に妙を得、という意が記されてある。学者で、詩人、書家というわけだ。
碑面の憶良の長歌は、万葉集巻五に載っているもので、序と反歌がついている。序は、漢文体、長歌反歌は万葉仮名で、その通りに筆写彫刻されている。
序には、父母妻子を顧みず、いたずらに空想にはしり、本来の君臣・父子・夫婦の道にもとる一部の人をいましめ、惑える心を歌でひるがえさせようとしたという意が述べられている。万葉仮名は避けて読みやすく表記すると、次のようである。父母を 見れば尊し 妻(め)子見れば めぐしうつくし 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ 行方(ゆくえ)知らねば うけぐつを ぬぎ棄(つ)るごとく ふみぬぎて 行くちふ人は 岩木より成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へゆかば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす日月(ひつき)の下は 天雲の むかぶすきはみ 谷ぐくのさ渡るきはみ 聞こしをす 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか山上憶良が、筑前の国府にいた時、神亀五年に制作した。あのころは、律令時代。戸口を基準とする賦役が国家収入の大部分だったわけで、兆口は厳しく罰して、責を隣保近親同戸者にも負わしているほど。それにもかかわらず、そうした行為に及ぶものがいたのは、いろいろの理由があろうが、ひとつには老荘思想が歓迎されたためらしい。それを国守の憶良が儒教の道徳観で歌をもってさとした。だが実際にはどれだけの効果があったかは、すこぶる疑わしい。こうしたことは、昔も今も同じだ。
(反歌) ひさかたの天路(あまじ)は遠しなほなほに家に帰りて業(なり)をしまさに
「その声調が流動性でなく、むしろ佶屈(きつくつ)ともいふべきである。」斎藤茂吉の評の一節であるが、憶良の歌は、思想的な内容をもったものや、それを直接表現したものが多い。だから、散文の調子をもちやすい。漢文の教養も深かった。それも輪をかけ、漢文口調のかたい調べが出た。
氷川神社の境内は、あまり広くない。が、砂利を敷きつめて清潔だ。欅の巨木が多い。陰に腰をおろして、思う。憶良には自然の歌は少ない。彼の眼はいつでも、俗世に悪戦苦闘する人間にそそがれていた。彼もまた、官位・富への執着はつよい。だから生と死と、富と貧を歌って、泥くさい歌になる。だが、それが憶良の歌の魅力だ。
頭上から、音がふってくる。
欅の梢が、高い空で風に鳴る音である。
文学碑の碑文は、その土地と何らかのつながりがあるものであろうが、凡そ縁のないと思われる川越市宮下町の氷川神社境内に、「山上憶良の令反惑情(まどえるこころをかえさしむる)の序、長歌、反歌」を刻む碑がある。
万葉集巻五に載っているもので、序は漢文、長歌、反歌は万葉仮名で、その全文を隷書で、篆(てん)書の題額とともに表に書き、陰は楷書で記している。碑表の意を大略書くと、
まず序には、父母妻子を顧みず、いたずらに空想にはしり、本来の君臣・父子・夫婦の道にもとる一部の人をいましめ、惑える心を歌でひるがえさせようとした、というのである。次いで、その長歌は、父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見ればめぐしうつくし 世の中は、かくぞことわり―と歌い出し、だから父母妻子を捨てて行く人は、人間ではない。天へ行くならば、お前の心のままにすればいいが、地上には天皇がおられる。その立派な国の中でしたい三昧にするのは道理に外れるぞ―と結んでいる。そして、反歌、山上憶良が、筑前守として国府にいた時、神亀五年に制作した。律令時代、戸口を基準とする賦役が国家収入の大部分で、兆口は厳しく罰して、隣保近親同戸者にも責を負わせているほどであった。それにも拘らず、そうした行為に及ぶものがいた。それを国守の憶良が、儒教の道徳観で歌をもってさとした。実際に、どれほどの効果があったか疑わしいが。
ひさかたの天路(あまじ)は遠しなほなほに家に帰りて業をしまさに(天への道は遠い。素直に家へ帰って生業に励み給え)
さて、この碑の建立者は、中島与十郎である。その事は、陰にくわしく記されてあって、書いたのは、氷川神社祠官山田衛居である。与十郎は、『三芳野名勝図会』の中島孝昌の孫で、芳嶺と号し、家号を絹屋といい、鍛冶町に住み、維新の際町役人となったが、老いて職を辞し、家に清閑した。性は磊落(らいらく)で、学を好み詩を善くし、漢隷に妙を得、と記されてある。学者で、詩人、書家というわけだ。
そして更に詳しく、与十郎の人物を称え、二人が十年来の親友であることを述べている。
碑陰はもともと建碑の趣意を記すことが主目的であろうが、この撰文はやや与十郎素描に傾斜した感じがある。この事に着目して、疑問を投げかけ、建碑の経緯をくわしく考究したのは、埼玉大学の山野清二郎教授で、明治前期の川越の文学サロンの力が結集して、輪を広げ、川越の町に文学的な盛り上がりを喚び起した一つのあかしとしてとらえられる碑だと、その論文の終りに述べる。(埼玉史談33巻、3号)細かく紹介できぬが、憶良の歌と碑のつながりが、納得できるような論考をすすめており、貴重な研究であった。
建碑は明治16年5月。高さ1.76b、横1b、厚さ14aの根府川石に、中島与十郎が精魂を込めたと思われる筆致で隷書が書いてある。タテ2.5、ヨコ3.5a大の字だ。そう思わせるのは、刻字のうまさである。彫りは、浅い丸彫りで、ていねいに刻んでいる。いくら名手の書でも、刻字が悪ければ、その書のよさを伝えることは不可能である。それくらい刻字は生命だという事である。彫工は山崎太右衛門。明治の実直な職人なのだろう。職人芸が生きて今に伝わる。碑は、鳥居をくぐって左側、舞殿の傍らに建っている。
神亀五年七月二十一日、筑前国守(つくしのみちのくにのかみ)山上憶良上(たてまつ)る
惑(まど)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首 併せて序
或(ある)人、父母を敬ふこと知りて、侍養(じよう)を忘れ、妻子を顧みずして、脱しよりも軽(ゆるがせ)にし、自ら倍俗先生と称(なず)く。意気は青雲の上に揚(あ)がれども、身体は猶し塵俗の中(うち)に在り。未だ得道に修行するの聖(ひじり)に験(しるし)あらず、蓋しこれ山沢に亡命する民ならむか。所以(このゆえ)に三綱を指示し、五教を更(あらた)め開(と)き、贈るに歌を以てし、その惑ひを反さしむ。歌に曰く心の迷いを直させる歌一首と序父母を見れば尊し 妻子(めこ)見ればめぐし愛(うつく)し 世の中はかくぞことわり もち鳥のかからはしもよ 行くへ知らねば うけ沓(くつ)を脱き棄(つ)るごとく、踏み脱きて行くちふ人は 石木(いはき)より生(な)り出し人か 汝(な)が告(の)らさね 天(あめ)へ行かば汝がまにまに 地(つち)ならば大君います この照らす日月の下は 天雲の向伏(むかぶ)す極み たにぐくのさ渡る極み 聞おし食(を)す国のまほらぞ かにかくに欲しきまにまに 然(しか)にはあらじか(五巻 八〇〇)
ある人がいて、父母を尊敬することは知っているが、孝養を尽くすことを忘れ、妻子のことは考えないで、あたかも脱ぎ捨てた履物よりもこれを軽んじ、倍俗先生と自称している。盛んな意気は空の青雲の上にも上らんばかりだが、自分自身は相変わらず世の塵の中にいる。仙道修行を積んだ聖人の証拠もまだない。いうなれば山中に亡命した民か。
そこで三綱を示し、五教をさらに説くべく、こんな歌を贈り、その迷いを直させることにする。その歌というのは父母を見ると尊いし、妻子を見るといとしくかわいい。世の中はこうあってあたりまえ。もち鳥のように寄りかかりたいものだ。行く末もわからぬのだから。穴のあいた沓を脱ぎ捨てるように、蹴り脱いで行くという人は、石や木から出て来た人なのか。おまえの名をいいなさい。天へ行ったら勝手にすればよいが、地上には大君がいらっしゃるのだ。この照らしている日や月の下は、天雲のたなびく果てまで、ひきがえるの這いまわる境までも、大君の治められる秀れた国だ。あれこれと、自分勝手にそうすべきではあるまい。反歌
ひさかたの天路(あまじ)は遠しなほなほに 家に帰りて業(なり)をしまさに(五巻 八〇一)天路は遠い、おとなしく家に帰って家業をしなさい。
歌は、令反惑情歌(惑える心を反えさしむる長歌)といわれるもので、山上憶良が筑前国司(国の長官)として国府にいた時の神亀五年(七二八)の作である。当時国家収入の大部分である賦役をごまかす者は厳しく罰し、責任は隣保近親同戸者にも負わせたが、なかなか不正をなくすことは難しかった。そこで憶良は、儒教の道徳観で一部君臣・父子・夫妻の道に反する人たちを、歌でいましめ、さとしたものである。
歌碑は川越市宮下町の氷川神社(図(略)上部、川越市役所北)境内の柿本人麿を祀る人麿神社右側にある。
明治十六年五月に『三芳野名勝図会』の著者中島孝昌の孫芳嶺が、自ら揮毫して立てたもので、高さは一・七b、幅一bの自然石で、序は漢文体、長歌と反歌は万葉仮名で刻んである。
中島孝昌は、川越鍛冶町に住む学者、詩人、書家で、町名主を務めて苗字帯刀を許されていた。享和元年(一八〇一)、郷土地誌の前掲書を書き、川越城主に献納したのである。文化五年(一八〇八)一月十日、四十三歳で没し、墓は川越市喜多町広済寺の中島家墓地にある。
孝昌(ママ)は、憶良の歌に感じて碑をつくり、『万葉集』の偏者である柿本人麿を祀る人麿神社に奉納したもので、歌がこの地と関係あるということではない。
人麿神社は、室町時代の永正二年(一五〇五)丹波(京都府)の綾部から近江を経て移住してきた綾部氏一族が、始祖柿本人麿を奉斉したものである。
近くで見るべきものを示すと、次のものがある。
・氷川神社本殿(県指定文化財、建造物)
・八坂神社社殿(氷川神社境内、同右)
・時の鐘(市指定史跡)
・大沢家蔵造り住宅(重文・建造物)
・蔵造り町並み
・蔵造り資料館
川越市宮下町の氷川神社境内に「山上憶良の令反惑情(まどえるこころをかえさしむる)長歌碑」がある。
「三芳野名勝図絵」(ママ)の著者中島孝昌の孫、芳嶺の建てたもので、みずから揮毫(きごう)した碑である。高さ一・七メートル、幅一メートル。明治十六年五月の建碑である。碑陰の記に、芳嶺は家号を絹屋といい、世々、鍛治町(ママ)に住し、維新の際、町役人となったが、老を以て職を辞し、家に清閑した。資性孝順磊落(らいらく)奇敏、学を好んで詩を好くし、漢隷に妙を得、という意が記されている。学者で、詩人、書家であった。
碑面の憶良の長歌は、万葉集巻五に載っているもので、序と反歌がついている。序は漢文体、長歌と反歌は万葉仮名で、その通りに筆写彫刻されている。序には、父母妻子を顧みずいたずらに空想にはしり、本来の君臣・父子・夫婦の道にもとる一部の人をいましめ、惑える心を歌でひるがえさせようとしたという意が述べられている。父母(ちちはは)を 見れば尊し 妻子見れば めぐしうつくし 世の中は かくぞことわり もち鳥のかからはしもよ 行方知らねば うけぐつを ぬぎ棄(つ)るごとく ふみぬぎて 行くちふ人は岩木より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天棄(あめ)へゆかば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月(ひつき)の下は 天雲の むかぶすきはみ 谷ぐくの さ渡るきはみ 聞こしをす 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか (八〇〇)山上憶良が筑前の国府にいた時の神亀五年(七二八年)の作である。当時は律令時代で、戸口を基準とする賦役が国家収入の大部分であった。逃口(ちょうこう)は厳しく罰して、責を隣保近親同戸者にも負わしていた。それでもそうした行為に及ぶ者がいたのは、いろいろの理由があろうが、一つには無為自然の老荘思想が歓迎されたためらしい。それを国守の憶良が、儒教の道徳観で歌をもってさとしたのである。
ひさかたの天路(あまじ)は遠しなほなほに家に帰りて業(なり)をしまさに (八〇一)
「三芳野名勝図絵」(ママ)の中島孝昌の墓は、喜多町広済寺中島家墓域にある。孝昌は川越鍛治町(ママ)の人で五代目絹屋与兵衛と称し、町名主をつとめ苗字帯刀を許されている。俳諧狂歌に長じ、号を桜斉基馨と称し、また桜花を愛賞し桜曙園とも号した、享和元年(一八〇一年)、郷土史の白眉とされ、後世に大きな影響をあたえている「三芳野名勝図絵」(ママ)を書き、城主に献納した。文化五年(一八〇八年)一月十日、四十三歳で没した。その辞世の句に、
消えてこそ誠なりけり雪仏
とある。
→後半は、元杢網歌碑へ
川越氷川神社境内の人麿神社の右隣りに建っている山上憶良の歌碑は、高さ1.7b、幅1bほどの自然石が使われている。
碑表の上部に「令反惑情歌碑」と篆(てん)書で浮き彫りにされ、その下に序、長歌、反歌を併せ、400字からの文字が原文で刻まれているから大変読みにくい。
序の意味は、ある人は父母は敬うことは知っていても孝養を尽そうとせず、妻子を脱ぎすてた履物よりも軽んじて、かえりみない。自ら「倍俗先生」(ばいぞくせんじょう)と称して、空疎な思想にとらわれている。これは生業を捨て、山沢に逃げ込む民と同じで、惑える情をもつ者である。このような者に歌を贈って、そのころをかえさせようとするものだ。
長歌は、三段の内容から成っていて、まず父母を尊敬し、妻子をいとおしむのは世の中の道理である。それはいくらもがいても逃れがたい。二段目は、それにもかかわらず破れたくつをぬぎ捨てるように、現実を遁れようとする者は名を名乗れと、問い詰める。最後は天上ならば勝手だが、この地上は天皇が統治する最上の国だ。そうしたものではあるまいと訓戒する。(巻5 800、801)
憶良がこの歌を作ったのは、神亀5年(728)7月21日、当時国守をしていた筑前国嘉摩郡(今の福岡県嘉穂郡)。このころ律令政治のきびしさから、農民の浮浪逃亡や課役忌避が多くなり、朝廷ではたびたび禁止令を出して取り締まったが、効果が上がらなかった。
領民に対して生業を督励し、敬老など善行者の表彰を行い、民衆の声を聞くことは、国守の任務であったから、歌人である憶良は歌をもって、領民をさとそうとしたというのが通説。
では、どうして憶良のこの歌が、川越のこの地に建てられたのか。歌碑の裏側に回わると、碑の建った明治16年(1883)5月、氷川神社祠官山田衛居によって「碑陰記」が記されており、建碑の経緯がわかる。
それによれば、碑は友人の中島守謙(通称与十郎)が建てた。守謙は、川越鍛冶町の絹屋の当主で、学を好み詩をよくし、ふだんから酒を愛した。また歴史を語るのを好み、忠孝の話になると、感激して涙を流した。先ごろ古歌一編を書き、これを産土神の境内に建てようとの相談をうけた。それに賛同して、同志を募って建てた、と読める。
この碑陰記については、埼玉大学の山野清二郎教授がさらに詳しい研究(「埼玉史談」33巻3号)をしており、実際の歌の選択は、古典に深い知識をもっていた山田衛居が、当時の世情や人心にふさわしいものとして憶良の歌を選んだ、と述べている。
山野教授はさらに、明治前期の川越に生まれた、中島らの文化人を中心とする文学サロンの盛り上がりがこの碑を建てたものとみて、その意義を評価している。
憶良の令反惑情歌については、国司の立場から人の守るべき道を説いたものとする従来の説に対し、現在では嘉摩三部作の「子等を思へる歌」「世間(よのなか)の住(とどま)り難きを哀しめる歌」と関連づけて、人間憶良の悩みと、国司憶良の立場との相剋から出たもので、憶良の孤独と苦悩を読みとるべきであるという説が強く述べられている。
それはさておき、「山柿の門」ともたたえられる万葉の二大歌人の神社と歌碑が、うぶすなの杜(もり)に相並んで建つ川越という地に、私は敬愛の気持ちを抱き続けている。
一
川越市宮下町の氷川神社境内に、万葉歌人山上憶良の歌を刻んだ碑がある。その存在は一部に知られているものの、何故、この地に、憶良の歌碑が建てられるに至ったのかは、ほとんど知られていない。ここでは、その碑文の紹介を兼ねて、碑の出来た経緯等について、探ってみることにしたい。
(後略)
二
山上憶良の歌を、この碑の創建当時、訓まれたであろう訓みで、平仮名交じり文に直して示すと、次のようになる。
(後略)
三
『佐久良能仁保比』は、この碑の建設にあたって、醵金した人々の伝記や、式の様子、決算一覧などを主内容としているもので、自作の詩なども載せるが、碑建設の経緯を、私的に語ってくれるものではない。
(後略)
四
ここで、もう一つの問題点、碑の歌として、山上憶良の「令反惑情歌」がどのようにして選ばれるに至ったのかを考えてみよう。
(後略)
五
かく見てくると、この碑は、ある個人や結社の一員が建てる顕彰的な、また記念碑的な歌碑や句碑とは、大いに趣を異にしていることがわかる。言うなれば、川越とのつながりは全くない古人の歌を、示し残すに足るものと認め、地元の有力商人たりがこぞって財を出しあって作りあげた健気な碑と評することができよう。
(後略)
川越線の川越駅で下車して東北方へ約十分あるいてゆくと富士浅間神社がある。その境内には埼玉県指定史跡となっている万葉遺跡の鹿見塚歌碑がある。碑は母塚と呼ばれる円墳のぼる石段の左傍に建てられている。この古墳丘陵上に富士浅間神社はまつられているのである。この地には今でも上代の古墳がかなり残されている。
古くこの地に住んだ上代の東国人は武蔵野に棲息していた鹿の群れを狩りしては食料のひとつとしていた。また慣習としてその鹿の肩骨を焼いて、さまざまの卜占に用いていた。すなわち焼いた骨の裏面にできるいろいろな割れ目の形により、占いをおこなっていたのであり、これが世に鹿ト(かぼく)と称しているものである。
そして、このことから万葉集に占肩灼(うらえかたやき)の歌が遺っており、またここの地名が鹿見(ししみ)塚として古くより伝わることになった。
その万葉集の歌は、巻十四の東歌のところに、
武蔵野に占(うら)へ肩灼きまさてにも告(の)らぬ君が名占に出にけり
とあるものである。これは相聞(恋愛)の歌であり、意味は「武蔵野で鹿トをして、鹿の肩骨を焼いてみたので、今まで人々には決して告げないでいたあの人の名がまさしくその占いにあらわれて、知られてしまった」というのである。
鹿トは亀トと共に古来のト占法の主要なものであるが、ともに非常に早くより大陸から伝来したもので、古事記神代巻にも記されている。(I)
万葉集巻十四は全巻東歌(あずまうた)だから、埼玉で詠まれたと思われるものが、いく処にも出てくる。
武蔵野の占(うら)へかたやきまさでにも告(の)らぬ君が名占に出にけり (三三七四)
――武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ったが、まことにには打ちあけもしないのに、愛していることが占に出てしまいました―東国処女はこう嘆く。
万葉では、君とは、相聞の場合、女から男へむかって呼んだ例が多い。古来、占には亀ト(きぼく)鹿トなどあった。ここでは、鹿ト。鹿の肩の骨を焼いて、裏面にできる裂け目によって占った。人には告げ得ぬ相手の名が、人目に立ってしまった。恐らく母にも告げない心持――と私注で土屋文明はいう。
このころ、妻問婚(つまどいこん)である。子は母と同居。成長しても同じだから、妙齢の娘は、母の厳しい監督下にある。戸主やその他の戸内でも恵まれた人たちだけが、妻を自分の家に迎えられた。だから、普通は夫婦同居は望めない。愛するもの同志は、ひそかに逢って制約をかこつばかりである。
恋は、障害の中でこそ、激しく燃焼する。相逢う束の間の歓喜は大きい。東国相聞歌の生活背景は、ふつう、物言う牛馬の生活である。激しい労働と、貧困。人間らしさを感ずるのは、恋愛の時だけではなかったか。
だから、自由な解放的と称する、現代紳士淑女の恋愛百態の中にあの激しさを見い出すことはない。だが、どちらが、魅力的だろうか。
万葉時代、彼らは、武蔵野に群棲した鹿を狩猟した。食用。毛皮は衣類。骨は器具、卜占用にしていた。その鹿狩りの時、鹿の群れを発見する物見台が鹿見(ししみ)塚、という。「鹿」を「シシ」というのは狩りの場合。「シシ」とは肉の意である。それ以外、万葉集では、カ、シカ、サヲシカなどと詠んだ。
だから、鹿狩りが行なわれ、鹿見塚の望まれる所に住む、娘の歌ということになる。でも、武蔵野はもともとそういうところなのだから、どこにでもあてはまりそうな気がする。ただ、現在いわれている武蔵野と、あの当時の武蔵野とは、範囲の規模が違う。――それは、国府の所在から考えても、府中市から狭山丘陵へかけてを中心とする一帯であろう。――田辺幸雄の学説である。
この東歌の誕生の地は、ここであるという碑が、川越市富士見町に建っている。東上線と川越線に川越街道(254号)が交差するあたり、東方に小高い丘がある。古墳である。頂上に浅間神社をまつり母塚と、いう。
2メートルほどの仙台石に、「埼玉県指定史蹟、万葉遺蹟、占肩之鹿見塚」と大書刻字されている。元知事、大沢雄一の筆による。
建碑の由来を碑陰に記している。
――前略――往古東国の人々が、武蔵野に棲んでいた多くの鹿を狩して、その肩骨を焼いて吉凶を占う風習があった。この故事から情緒深い占肩の歌が遺され、地名をシシミ塚と称していた。然るにいつしかシロミと転訛して城見塚と書改められたこともあったが、今もシシミ塚として一町七畝余もある。また新編武蔵風土記にも遺跡としてその小名が地籍に記されている。この地には上代の古墳が遺存し、父塚、母塚と呼ばれ、母塚の丘陵上には、富士浅間神社を祀り――後略――
柴田常恵、小川元吉、岸伝平三氏の調査によって、昭和二十一年に県指定史蹟となったとつけ加える。ただ、これだけでは、母塚そのものが鹿見塚と誤解される、と郷土史家の岡村一郎氏はいう。
街道の西側で線路に接しているあたりに、東西五十間に及ぶ一大古墳があった。ただいつ頃か取り崩されてしまった。当時の調査書では、これが本当の鹿見塚だという。――鹿見塚の真の所在地が忘れられることを恐れるのである。この場合重要なことは万葉集の歌と関連があるなしではなく、これだけ大きな古墳があったということ自体が、川越地方の古墳の分布状態を考えるうえに学術的価値をもっていることである――と書いている。だから、その旨を記載すべきだとつけ加える。
「かたやき」は鹿トである。と考えてくれば鹿見塚のあるところが、発祥地の候補にはなるが、契沖の代匠記のいう「カタヤクト云ハ亀ヲ焼ナリ」となると、全く事情が違ってくる。諸説のわかれるところだ。この歌も、個人の感動から詠われ、やがて農耕歌謡――大勢で歌われる民謡へと発展していったものであろう。
母塚に登る。雑然とした川越の街路は、ただただ車の洪水を見せるだけである。
埼玉県指定史蹟鹿見塚の碑が浅間神社母塚前に建てられているが、鹿見塚のあった所はあそこではないのにどうしてだ、という質問を受けることがある。まことにごもっともなことなので、この際そのいきさつを記しておきたい。
鹿見塚が県指定をうけたのは昭和二十一年三月十九日附である。まず当時の調査書によってその見解を聞いてみよう。川越市大仙波にほぼ平行して走っている東上線と国鉄川越線に、川越街道が交叉するところがある。その陸橋の五十米ほど手前で、街道の西側に新井八九造氏の私宅がある。また街道の東側には古墳があるが、頂上に浅間神社がまつられ、浅間塚とも称している。
この辺一帯約一町七畝余の小字を城見塚といい、通称シラミ塚とよんでいる。だがこれは本当は鹿見塚が正しいのであって、後世城見塚となり、さらに通称のシラミ塚に転訛したものだ。もともと鹿見塚という塚があったから、この地名が出たのだが、いつの頃からかその塚は取崩されてしまった。よってその所在をたずねたところ、新井八九造氏の邸がちょうどその古墳の東端にあたり、西端は線路に接した桐畑のところだそうだ。それから想像すると東西の直径は約五十間余におよぶ楕円形の一大古墳があったものと思われる。
これが多分万葉古歌にのこる鹿見塚に相違あるまい。その当時この辺はいわゆる武蔵野の曠漠たる平原であって、鹿もたくさん群棲していたに違いない。この鹿見塚は鹿狩のとき群棲する鹿を発見するには絶好の展望台であったろう。そして巻十四の歌
武蔵野にうらへ肩灼(や)きまさでにも
告(の)らぬ君が名占(うら)に出にけり
を引用し、たとえ塚はとり壊されて無くても、万葉遺跡として地方的に保存すべき価値のあるものだと調査書は結んでいる。
さてこれからが問題であるが、「新編武蔵風土記稿」をみると大仙波村の小名にシシミ塚がある。また市土木課の地籍台帳にもシロミ塚と出ているし、シラミ塚という通称のあることも事実だ。しかしそうした各様の読みかたを、鹿見塚が本当で、他はその転訛だと断定してしまう根拠はどこにもないのだ。シシミ塚自身だってあるいは蜆塚が正しいのかも知れないではないか。
また万葉集の歌の意味は、鹿の肩骨を焼いて占ってみたろころ、まだ誰にも明かさぬあなたの名前がまさしくでてきたということである。これは単なる恋歌であって、当時の武蔵野ならどこでも通用する歌である。べつに特定の場所は必要でないし、まして鹿見塚という地名は万葉集のどこにもでていないものである。この点おなじ埼玉県の万葉遺蹟である小崎沼、大家カ原、浅羽野などと同一に論ずるわけにはゆかない。
大体史蹟名勝などというものに牽強附会はつきものである。史蹟のひとつも殖そうという郷土愛の発露ならば、あえて咎めることもない。したがって私のいいたいのは、そういうことではなく、鹿見塚の真の所在地が忘れられることを恐れるのである。この場合重要なのことは万葉集の歌と関係があるなしではなく、これだけ大きな古墳があったということ自体が、川越地方の古墳の分布状態を考えるうえに学術的な価値をもっていることである。
この点を考慮してか、前記の調査書はその末尾に保存要領を述べて、碑は便宜上浅間神社の鳥居前に建てるが、その碑陰に鹿見塚の解説と所在を略記すべきことを指示している。それだのに昭和二十九年に建てられこの碑にはその所在について一言もふれていない。これではあの母塚がすなわち鹿見塚だと思いこむのは当り前のことである。浅間神社の母塚は愛宕神社の父塚と並称される全然別箇の円墳である。大いに一考を要する問題だとおもうが、どんなものであろう。
武蔵野に占部かた焼きまさでにも 告らぬ君が名占に出にけり
(十四巻 三三七四)
武蔵野の占い師で占った時、今まで一度も口外したことのないあなたの名が卦に出てしまったのよ。―「知れてしまったのは卦に出てしまったからで、しかたがなかったの」と秘密が知れてことを占にかこつけて弁解している女の歌であろう。
隠し切れない恋人の存在が知れてしまっても、誇り気に無邪気に喜んでいる姿が出ている。
「占部かた焼き」とは、鹿の肩の骨を焼いて割れるひびの形で日常の吉凶を占うことである。また、「占へ形焼き」と読むべきで、春の野焼で自然に火が広がって焼けた部分の複雑な形で吉凶を占う方法だと説く人もある。
この歌は、東歌(あずまうた)といわれるものの国土判明歌で、関係碑は川越市富士見町の母塚古墳前にある。
母塚古墳は高さ五b、周囲四二bの円墳で、古くは周濠があり、六世紀中頃土地の豪族を葬った墓である。頂上に後世祀った浅間神社が建っている。碑は神社へ上る石段の左手にあり、高さ約二bの墓碑型で、揮毫は小川平三郎である。
古墳は、昭和二十一年三月埼玉県指定旧跡になった。そして二十九年十一月、埼玉県教育委員会は仙波町公民館と共同で鹿見塚碑を立て、裏面に建碑由来と万葉歌を刻んだ。この碑は正確には歌碑ではなく、万葉歌の解説を兼ねた「占肩之鹿見塚」標識碑である。
この地方には、母塚古墳のほかに東北方には愛宕神社を祀る父塚古墳があり、東上線と川越街道との交差点付近にも今はないが古墳があり、総称して仙波古墳群といわれていた。
川越街道の古墳はシシミ塚といわれ、小字(あざ)名にもなっていた。シシは鹿のことであるから、シシミ塚とは鹿見塚で、古代人は武蔵野に多く棲んでいる鹿を獲る時、見張台に古墳を使ったのであろう。吉川町にも鹿見塚の地名がある。碑に刻まれている鹿見塚とは、川越街道筋にあった古墳のことであるから、その古墳が、もし現存していたら、そこへ立つべきものであった。
鹿は食料にし、肩の骨を焼いて日常生活の吉凶を占っていたのである。古代人は台地周辺に集落をつくって住み、台地下の湧水を利用して稲作をした。仙波古墳群をつくった台地周辺の集落は、『和名抄』に記載の郡家(ぐうけ)郷であろう。郡家とは郡司のことであるから、仙波には郡司がいて、それが喜多院前身の無量寺(ママ)が建つ時、開基になった人物ではなかろうか。
古代・中世の川越を通る道は、図(略)のようであったろう。
○
この地が古い地名で郡家郷にも推定され、鹿見塚もあるので、この歌のふる里として推定はされたけれども、この歌がここで詠まれたかどうかは分からない。著者はこの万葉歌のふる里は、東京都稲城市大丸あたりに求めたい。
国鉄川越線、東武東上線の川越駅東口を出る。東南方へ歩いて約十分、鹿見塚、富士浅間神社がある。その境内には、埼玉県指定史跡となっている万葉遺跡の鹿見塚と歌碑がある。歌碑は鹿見塚、母塚とも呼ばれる円墳にのぼる石段の左傍に建てられている。この古墳丘陵上に富士浅間神社がまつられている。この地には今でも上代の古墳がかなり残されていて、近くに父塚と呼ばれる古墳もある。
古くこの地に住んだ東国人は、武蔵野に棲息していた鹿の群れを狩りし、食料のひとつとしていた。また、慣習としてその鹿の肩骨を焼いて、卜占(ぼくせん) に用いていた。焼いた骨の裏面に出来るいろいろな割れ目の形により、占いをおこなっていたのである。これが世に鹿ト(かぼく)と称しているものである。そして、このことから、万葉集に占肩灼(うらえかたやき)の歌が遺(のこ)っており、またここの地名が鹿見塚として古くより伝わることになったのである。万葉集巻十四の東歌、
武蔵野に占へ肩灼きまさてにも告(の) らぬ君が名占に出にけり
がその歌である。これは相聞の歌である。この歌は、「武蔵野に占へかた灼き」と、部落全体が武蔵野の広場に集って、占いし、形に焼き露(あらわ)し、私はたしかに言わなかった恋人の名前が、あわれや占いに言いあてられてしまったという女心の悲しみが、切々たる哀感をもって、素朴な姿で歌われているのである。ここに我が郷里の、祖先達の社会生活の中に、占いというものが、いかに絶対的なものとして信じられていたかが知らされる。それは素朴な祖先達の心であり、幼稚な思考のわりきり方であるのを知り、単純な社会への郷愁を呼ぶものである。そうして今、私達の周囲には、この占いへの信頼に似たものが数多く残されていて、貧しい心の奥深くに根をはっている。私達はこの種のものに、日々の生活を、かけがえのない生命さえも、左右される愚かしさを持っているのである。
万葉集巻14の230首ほどの短歌は、「東歌(あずまうた)」と呼ばれ、作者名は記されていない。国名の分かっている歌、不明の歌と分けられているが、埼玉に関係すると思われる歌もいくつかある。次の歌は、武蔵国のものである。
武蔵野に占(うら)へ肩灼(や)きまさでにも告(の)らぬ君が名うらに出にけり (3374)
(武蔵野で、鹿の肩の骨を焼き占いをしたら、今まで決して口に出さないあなたの名前が、占いにあらわしてしまいましたよ)というほどの意である。万葉集では、「君」とは女性から男性にむかって呼んでいる例が多いので、女性の歌であろう。占いは「裏ナフ」の意で、裏の目には見えない部分を知ること、つまり分からないことを神に問うことから、当時随分多く行われたと思われる。骨を焼くものに、亀ト、鹿トなどがあったが、ここでは鹿の肩の骨を火にあぶり、そのヒビ割れの形によって判断する鹿トである。
「占に出にけり」は、占いに出てしまったという意だけではなく、占いで分かって、ああどうしよう困ったなあという嘆きなのである。人の噂と、何より母親に知られることを恐れたのではないか。夫が妻の家へ、男が女の許へ通う妻問い婚の時代、娘は母と同居しており、重要な労働力の娘は、母の厳しい監督の下にあった。この占いは、村の若い衆が集まって、この女の思っている男の名をあらわした、というふうな場面も想定できるが、娘が身ごもって、相手の男を母親が占うというようなことではなかったかと思う。
このころ、人々は武蔵野に群棲していた鹿を狩猟し、肉は食用、皮は衣類に、骨は器具、そそてト占用にした。その狩りの時、鹿を発見する物見台が、鹿見(シシミ)塚だった。「シシ」は肉の意で、鹿をシシと言ったのは狩りの場合で、それ以外は、カ、シカ、サヲシカと詠んでいる。
鹿狩りが行われ、鹿見塚のある場所は、武蔵野のどこにもあてはまりそうな気がするが、この東歌の誕生の地はここであるという碑が、川越市富士見町にある。前回の父塚の近くにあって、頂上に浅間神社を祀る母塚で、高さ約5bの円墳の前である。
碑の高さ190、横93、厚さ11aの仙台石で、高さ40aの台石にのる大きな記念碑である。表の中央に「萬葉遺跡 占肩之鹿見塚」と大書し、右肩に「埼玉県指定史蹟」とする。元埼玉県知事大沢雄一氏の書。刻字は仁村仲氏。陰に建碑の由来を記している。
それによれば、万葉集には本県に関するものが14首あり、この歌もその一つで、東国の人々が鹿を狩り、その肩骨を焼いて吉凶を占う風習があった。ここにシシミ塚があり、柴田常恵、小川元吉、岸伝平三氏の調査で昭和21年3月に埼玉県指定史跡に決定した、という内容である。それを記念して、碑は昭和29年11月に建立された。
ただ母塚が鹿見塚ではなく、ここから少し離れた西側に、東西50間に及ぶ一大古墳があって、東上線が大正3年に開通する際、破壊され消滅してしまったが、土地の小名に「シシミ塚」「シロシ塚」と記録されていたという。
「鹿見塚」という地名だけで、この歌の誕生地とするのは問題があろうが、記念碑の建立によってこの相聞歌が後代の多くの人々の口辺にのぼるとすれば、それは喜ばしいことに違いない。
巻14の東歌・武蔵国の歌の中には、武蔵野を詠んだ歌がもう2首ある。
武蔵野に占へ象灼(かたや)きまさでにも告らぬ君が名ト(うら)に出にけり (3374)
(武蔵野で占いのために、鹿の肩骨を焼いたので、現実には私が口にしたことのない君の名が、占いに出てしまいました)
武蔵野の小岫(おぐき)が雉(きざし)立ち別れ往(い)にし宵より夫(せ)ろに逢はなふよ (3375)
(武蔵野の小山のほら穴に住むキジのように、立ち別れて行ってしまった夜から、あの人に逢わないことよ)
二つの歌とも、生活風習や環境の中から具体的なことを序詞に用いた、東歌らしい歌だ。
前の歌の<占へ>は、占いをする意の動詞ウラフの連用形。<象灼き>は鹿の肩骨を焼いて、割れてできた形により判断する占い。鹿ではなくて亀甲とする説もあるが、往時武蔵野の原野に鹿が群棲していたことを考えると、鹿の肩骨とみてよいのではないか。両親に内緒で、恋心を寄せた男をもった女性の、ため息の聞こえる作でもある。
ところで、この歌の遺跡を記念する碑が、川越市富士見町の浅間神社境内に建てられている。高さ約2bの碑面には「万葉遺蹟 占肩之鹿見塚」と彫られている。碑の裏面の由来によると、<往古東国の人々が武蔵野に棲んでいた多くの鹿を狩して、その肩骨を焼いて吉凶を占う風習があったこの故事から、情緒深い占肩の歌が遺され、地名をシシミ塚と称していた……シシミ塚の地域が万葉占肩歌の遺跡鹿見塚として柴田常恵、小川元吉、岸傳平の三氏の調査によって、昭和二十一年三月に埼玉県指定史蹟に決定した……>
この由来記では、当地に地名として残っているシシミ塚と、万葉の歌との関係がはっきりしない。その原因は、歌の中に「鹿見塚」が詠み込まれていないことにある。<占へ象灼き>が行われた可能性は、鹿の棲む武蔵野なら、「鹿見塚」の地名の有無にかかわらず、各地で考えられるからだ。
このあたりが新河岸川右岸の台地で、父塚、母塚などの古墳が散在し、古くから開けた土地であり、鹿を見張る「鹿見塚」の地名があったことは理解するにしても、それだけでは万葉の歌が、ここで詠まれた唯一つの場所とは決められないのではないか。本県の万葉遺跡で、歌に地名が詠み込まれている「小埼の沼」や「おほやが原」などとは、同列には論じられない点が、ここにある。
さて、当時武蔵野とは、どの範囲を指していたのか。今日では埼玉県一円から東京都下までの広域で使われているが、7、8世紀の頃、そんなに広い地域を武蔵野と呼んだとは考えられない。
だいたい武蔵野は安房、上・下総、常陸など東海道に属した国々や上野、下野の東山道諸国に比べると、開発がおくれていた。国内に利根川、荒川、入間川、多摩川などが広い原野を奔放にあばれまわっていた。それらの川の乱流地帯には湿地や沼沢が散在し、水田耕作や畠作には不敵地が多かった。
こうしたことから考えると、武蔵野と呼ばれたのは、武蔵国府(府中市)周辺から北へ向かって、入間郡南部あたり(狭山市・入間市)までの範囲ではないだろうか。
2首目の「武蔵野の小岫が雉」の歌の<小岫>とは、山の洞窟や岩穴を意味するが、「占へ象灼き」の歌と合わせ、狭山丘陵あたりの山野が、舞台にふさわしいと私はみている。
ほかに武蔵野の歌は次のようにある。
武蔵野に 占部かた焼き まさでにも 告らぬ君が名 占に出にけり (巻14−3374)
ウラへを「占部」とみれば、占いを職とするものをあらわす。いわば占い師である。「占へ」とみてウラフの連用形とする説もある。カタ焼キは、鹿の肩甲骨や亀の甲を焼いてそのひび割れの形によって吉凶を判断することで、カタは肩とも兆(卜象)ともみられる。武蔵野で占い師が鹿の肩の骨を焼き、まさしく、口に出したことのないあなたの名が、占いにあらわれてしまった、というのである。それで途方にくれているというのではなく、共同体の承認を得ようとする女のてだてだったのかも知れない。
川越市富士見町に、国道16号線をはさんで2百bほど離れた位置に、父塚と母塚という古墳がむかい合っている。ここにそれぞれ碑がある。碑自体には関連はないが、父母という対称の名前なので二つとも訪れてみたい。
父塚は、6世期中ごろの円墳といわれ、愛宕神社を祀っているが、境内に次の句を刻んだ芭蕉句碑がある。
名月に麓のきりや田の曇 はせを
碑の高さ227、横105、厚さ18aの根府川石で、表には句の左下方に、三芳野連という建立者が、左側面には、安政四年丁巳夏六月 法眼董斎正祐書 宮亀年鐫と揮毫者と石工の名が刻まれている。
陰には、その発企人の良雪庵原里暁、大中居の新井高成、そして三芳野連の三芳野庵原葎斎、以下柳澤里水、市川進斎、原田東丘、岡本里發、原田旭、福岡里榮、稲生里悦らの名が列記されている。建碑の経緯は分からないが、芭蕉句碑には直接芭蕉に関係のある百回忌、二百回忌という時、あるいは曾遊の地などの他は、自分たちのグループや宗匠の何かの記念にはやはり「俳諧の祖芭蕉」の句を刻んで、その徳にあやかろうとしたのであろう。天保14年の百五十回忌は、芭蕉句碑建立の空前の盛り上がりがあったといわれているが、安政4年は、その14年後であり、気運の高まりが続いていたのかも知れない。
書は、碑面をいっぱいに使った流麗なもので、能筆というべきだろう。その書を江戸に住んだ宮亀年が彫っている。年代から考えて恐らく初代であろうと思われるが、筆太の箇所を平たく彫り、深彫は避けている。筆勢をよく見ており、筆のかすれなどもていねいに神経を働かせて刻んでいて、なかなかのもの。刻のよさを存分に見せてくれる。
この碑は、建立時から140年に近い年月が経過しているが、汚れや罅(ひび)、瑕(きず)がなく、いい状態で保存されている。路傍の草の中に崩(く)えなんとする古碑の風情もわるくはないが、やはり原景が保たれればそれは一番いいことだと思う。
芭蕉の句は『続猿蓑』の中にあるもの。名月が照りかがやいているが、麓は薄霧が立ちこめて、そのため田圃が曇っているように見えるという美しい叙景の句である。
元禄7年8月15日、伊賀上野の兄半左衛門の邸内に新築した「無名庵」で月見の会を催した時の句といわれている。この時、次の句も作られている。
名月の花かと見へて棉畠
芭蕉の門人の服部土芳の書いた『三冊子』には、この二つの句について対置させ―「名月に麓の霧や田のくもり」といふは、姿不易なり。「花かと見えて綿畠」とありしは新しみなり。―と書いている。その「不易」「新しみ」について、同書には(不易というのは、新しいとか古いとか、または変化、流行にかかわりなく、俳諧の誠に立脚した姿をいうのである)という意を書いており、また(新しみは、俳諧の花ともいうべきものであって、師芭蕉は常に新しみを願って痩せる思いをされたものである)という意を記している。芭蕉は、この句が作られた日から2カ月に満たない10月12日に、亡くなってしまった、秀句が、能筆と優れた手刻者を得て残されたという、いい碑である。
元禄七年六月、伊賀の門人たちは師のためにささやかな庵を新築した。江戸は深川、上方では義仲寺に庵があり、京は京で去来別荘(落柿舎)の便宜があるのに、肝心の郷里に身の置きどころの一つもなくてはさまがわるい、と考えたからだろう。場所は上野城下町の東北はずれ、赤坂にあった兄松尾半左衛門宅の裏手である。芭蕉は七月十日過ここに入った。わずか二か月たらずの安住だったが(九月八日大坂へ立った)、その間、寛文十二年の東下以来初て、ただ一度に終った郷里での月見をしている。自ら十五夜の献立をつくり、人々を招いて厚情を謝した。
伊賀上野は布引山地の西、柘植(つげ)川と服部川と長田川の合流地点に出来た小盆地のなかの台地で、霧が多い。句は、むこうの麓に霧がかかり田の面も曇って見える、と解してわかるが(通説はそう解している)、「名月に、麓の霧や田のくもり」という作りはあまりにも芸がない。「名月や麓の霧も田のくもり」となぜ作らなかったのだろうと考えたところで、読に気がつく。「名月に麓の霧や、田のくもり」。この「や」は並列の助詞ではなくて、切字(間投助詞)なのだ。
花と霞(春)が寄合(よりあい)の詞なら、月に霧(秋)も寄合だろう。『山家集』に、「霧隔月」という題で「たつたやま月澄む峰のかひぞなき麓に霧のはれぬかぎりは」。句の心はどうやらこれらしい。「いかでわれ清く曇らぬ身になりて心の月の影をみがかん」と詠んだ西行にとっては、かれがのこした夥しい月の歌はすべて修行のひとつだが、俳諧師にはそうはゆかぬ。「月」は心月(しんげつ)たる前にまず季語である。西行ならぬ自分には麓の霧がはれても「田のくもり」はのこる、と言いたいのだ。
二十三年ぶりである。伊賀山里の月見はやはりいいなあ、と告げて郷党に対する挨拶としている句には違いないが、この時期、一門内の不協和音はようやく耳に障り、とりわけ酒堂・之道の確執は当面の心労のたねだった。伊賀衆の相も変わらぬ沈滞ぶりについても、零している(八月九日付、去来宛)。「田のくもり」は、俳諧師なればこそ見いだした心の曇でもある、というところにこのいぶし銀のような「名月」の句の面目がある。
愛宕神社は高台の上に建っているが、東南の方に開けて、すこぶる景勝の地であった。今は国道16号の道脇にあって、こんもりと樹々の茂った一角も、車がどんどん往き過ぎてしまう。16号からの狭い道を入ると、もう神社の境内だが句碑はそこにある。社へはさらに石段を登ることになるが、古くは塚であったと伝えられる。句碑は高さ226センチ、巾111センチ、厚さ20センチ、大きく碑面も汚れていない。
<碑表>
名月に麓のきりや田の曇 はせを
安政四年夏六月 三芳野連
法眼董斎正祐書
宮亀年鐫
<碑陰>
発企 良雪菴原里建
大中居 新井高成
三芳野庵原葎斎 柳沢里水 □(ママ)里旭 ※□…有+然の脚
市川進斎 福岡里栄
原田東丘 稲生里悦
岡本里発
川越周辺は江戸の雪中庵の関係が深い。
川越市大中居を訪れたが、田植時だった。広々とした田が一面に続き、村落への道はその中を一筋、一直線に貫いている。――水田がちの地にして動もすれば水損あり。『新編武蔵風土記稿』――とあるのも肯ける。全くの水田地帯である。新井家はその道のつきたところにある。句碑は高さ150センチ、巾104センチ、新井家の庭の築山の上に建っている。
<碑表>
田一枚うえて立ちさる柳かな 翁
新井高成建
<碑陰>
上部に九州橋記とあり、近くを流れる九十川に架けた橋を九州橋と名付けたいわれを記してある。
それによれば、そのあたり眺望、まことによく、筑波、富士、二荒、武甲、浅間の山々が望まれ、九州の諸山一嘱ということから名付けたという。
この撰文は安政五年に正木龍眼によって成ったが、何かの都合で刻まれてなかった。それを明治八年五月、新井家の当主であった新井里雄が志をついで刻んだと記されいる。
新井家は大中居の豪家で、建碑の高成は俳諧への深い造詣のあったことが知られる。
今、仙波の弁財天あたりは、新しい小住宅が建ち並び、その祠のある小高いあたりも、家並に隠れて、訪ねぐねるような場所になっていた。境内は小さいながらも良く手入れされており、落ちついている。そこから見下ろせるあたりが、龍池と呼ばれるいわれの池のあったところであろう。丁度、訪れた時、鳥居の傍の民家のすだれをかけた部屋の奥から琴の調べがきこえて来たのが印象的だった。
<碑表>
名月や池をめぐりて夜もすがら
<碑陰>
寛政三年辛亥秋八月十五日
碑成而建於仙波天女祠之傍
三芳野里莫逆友出真□装以助費云
興布祢 識
寛政三年というと、このあたりはどの様な状況だったのだろうか。『三芳野名勝図会』(中島孝昌)によれば御神木之杉、太さ五六囲(ゐ)、実に奇絶之老杉也、瀑泉(タキ)、本社之東傍に有、清潔の涼泉消(涓(けん))々と湧出し夏日避暑によし ※( )内は、編者瀑泉のある池は清らかで、名月の夜など風流の極みであったにちがいない。建立者、与布祢(よぶね)は姓白川、名源恭、字子礼、又、雪歩、孤琴の号を持つ風流の人であった。
斎藤家は新河岸舟運の舟問屋として、下新河岸にある旧家だが、「伊勢安」の家号で知られる。芭蕉句碑はその邸内の庭にある、古い本では近くの紅葉館に在ると記されているものもあるが、十数年前は、一時そこにあったらしい。今は本来のところへ戻した形になったという話である。今の場所が建立時の場所と同じ所とは確言できないが、問屋場前にあったという記録もあるので、あるいは河岸にあったものかも知れない。自然石に彫られたこの句碑は、もう摩耗も進んでいるので、この庭にそっとしておいた方が良い。
<碑表>
このあたり目に見ゆるもの皆涼し
碑には芭蕉の句が刻まれているだけである。この句は貞享五年六月、芭蕉が岐阜滞在中、加島鴎歩という俳人の水楼に招かれた時に詠んだ句で、のちに芭蕉は長文の詞書を加えた。これが有名な『十八楼記』である。新河岸のあたりは眺望もよく、『十八楼記』に記すように暮がたき夏の日もわするる斗(ばかり))≠フ実景であったと思う。
みのゝ国ながら川に望て水楼あり。あるじを加賀島氏といふ。いなば山稜にたかく、乱山西に重りてちかゝらず遠からず、たなかの寺は杉の一村にかくれ、きしにそふ民家は、竹のかこみのみどりも深し。さらし布所々に引きはえて、右にわたし舟うかぶ。里人の行かひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるゝをのがさまざまも、たゞ此楼をもてなすに似たり。暮がたき夏の日もわするゝ斗、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるゝかゞり火の影もやゝちかく、高欄のもとに鵜伺するなど、誠にめざましき見もの也けらし。かの□(しょう)湘の八のながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひためたり。若、此楼に名をいはむとならば、十八楼ともいはまほしや。
此のあたり目に見ゆるものは皆涼し は せ を
貞享五仲夏
市内連雀町の熊野神社境内に、元杢網(もとのもくあみ)の歌碑が、たてられてある。
山ざくら咲けば白雲散れば雪
花見てくらす春ぞすくなき 落栗庵元杢網
根府川石。高さ120センチ。幅110センチ。杢網は、ここに暫く住んでいた、という。妻知恵内子は、小ケ谷町出身といわれる。
吉屋信子の小説「浅間は燃ゆる」で、紹介された歌人杉浦翠子(みどりこ)は、当市出身である。兄は福沢諭吉の女婿福沢桃介。画家非水の夫人。北原白秋、斎藤茂吉、古泉千樫などに師事。のち「短歌至上主義」を創刊。昭和三五年没。意志と知性に裏づけられた生命の真実を歌う、と主唱したが歌は叙情に勝っている。「三芳野名勝図会(ずえ)」三巻の著者中島孝昌は鍛冶町の出身。俳諧・狂歌にも勝れたが、郷土史研究によって後世に裨(ひ)益した。墓は喜多町広済寺にある。作家・考証家として活躍する稲垣史生も市に住む。
連雀町熊野神社境内に、元木網(もとのもくあみ)の歌碑がある。杢網の門人達の手によって建てられたものである。碑面には
山さくら咲けば白雲散れば雪
花見てくらす春ぞすくなき 杢網
とある。川越は杢網が巡遊した土地である。川越で有名な蓮馨寺境内にあった、地蔵堂の天井画の雲竜は、杢網の描いたものであったというが、川越の大火で類焼してしまい、今はない。
杢網は川越の松郷(連雀町)の窪に、仮住いをしていたのである。雲竜の画もその当時描いたものであろう。しかし、松郷での仮住いは、ほんの僅かな期間であったようだ。杢網と親交のあった中島孝昌の「三芳野名勝図絵」(ママ)に、杢網のことが書かれている。「三芳野名勝図絵」(ママ) 蓮馨寺門前町窪 笹の庵 近来狂歌師元杢網小ケ谷村より観瑞庵を引て爰に暫く閑居せり、後江戸に帰る。又観瑞和尚も近世の智徳大徳なり。と、わび住居を詠んでいる。小ケ谷村は川越市小ケ谷町(ママ)であり、杢網の妻知恵内子(ちえのないじ)は、この地の内田氏の娘であると言われている。
杢網笹の庵に往(ママ)ける頃雪いたう降ける日によめる戯歌
よ所の寝ざめにみぬ雪白うふりたるとき………つとめて窓明(あけ)つれば止めなくふりて、山吹の………つもりたるか、いはんかたなくおもしろく、さすかに友まちかほなれど、庭に跡つけさせしと、柴の戸をとちていひとりうちなかむるに、ちかき竹の林に雪折りの音し侍るより外に、をとなるものなきそわひしき
柴一把すみ一俵をちからにて雪もつ軒の竹の下庵 元杢網
笹の庵(いほ) 近来狂歌師元杢網(もとのもくあみ)小ヶ谷村より観瑞庵を引て爰(ここ)に暫(しばら)く閑居せり。後江戸ニ帰る。亦観瑞和尚も、近世之智識大徳也。
杢網、笹の庵に住(すみ)ける頃、雪いたう降(ふり)ける日、よめる戯歌。
よその寝ざめにミぬ雪しろうふりたるときくものから、つとめて窓明(あけ)つれバ、をやミ
なくふりて、山吹のさえだもたハヽにつもりたるが、いはんかたなくおもしろく、さすがに
友まちがほなれど、庭に跡つけさせじと、柴の戸をとぢて、ひとりうちながむるに、ちかき
竹の林に雪折(ゆきおれ)の音し侍(はべ)るより外に、をとなふものなきはわびしき。
柴一把すミ一俵をちからにて雪もつ軒の竹の下庵 元 杢網
故事「元の木阿弥」にちなむ狂名(元木網)の持ち主は、どんな人物なのか。元木網こと金子喜三郎は、享保9年(1724)、比企郡杉山村(嵐山町)に生まれた。通称大野屋喜三郎、狂名はじめは網破損針金(あみのはそんはりかね)、のち元木網と改める。別号、落栗庵(おちぐりあん)。画号、嵩松(すうしょう)。京橋北紺屋町で湯屋を営み、のち天明元年(1781)、剃髪隠居、西久保土器(かわらけ)町に庵を構えて、天明狂歌の一中心となった。「江戸中半分は西の久保の門人だよ」(狂歌師細見)と評され、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・四方赤良(よものあから)(大田南畝)らと並ぶ存在であった。妻知恵内子(ちえのないし)ことすめ(川越の出か)も高名な狂歌師であった。著書として『浜のきさご』(狂歌作法書)、『新古今狂歌集』等がある。
木網の素顔は、随筆『奴凧』(南畝)にこう描かれている。「大根太木(おおねふとき)(狂歌師)が、辻番の給金請け取りに奉行所の待合所にいた時、傍らに『湖月抄』を読むくせ者がいた、尋ねると、大野屋喜三郎といい、京橋北紺屋町の湯屋である」「木網は男前で、前髪の剃り跡が青々と鮮やかで、いつも居士衣(こじえ)のような物を着て、紫の服紗(ふくさ)で包んだ物を背負って歩いている」「時の諺では『木網は、兼好をいっぺん湯がいたようだ』と」。彼の好学ぶりや『古今狂歌袋』に描かれた姿等が髣髴と浮かんでくる。
「あせ水をながして習ふ剣術のやくにもたたぬ御代ぞめでたき」。
ここに込められた風刺は、十分に共感できる。
「又ひとつ年はよるとも玉手箱あけてうれしき今朝のはつ春」
「盃の手もとへよるの雪の酒つもるつもるといひながらのむ」。
国学の素養が深く、平明なことばを選んだ彼の狂歌は今も新鮮で理解しやすい。文化8年(1811)6月28日没。夫婦の墓所は、東京深川の正覚寺にあり、嵐山町には辞世「あな涼し浮世のあかをぬぎすてて西へ行く身はもともくあみ」が刻された供養塔(県指定旧跡)が建つ。嵐山町杉山の薬師堂に、天井画の<雲龍>が保存される。(黒沢 栄)
文学者名 | 碑 文 (表) | 所在地 | 建設年月 | 筆者及備考 |
安部 路人 | 城下町の古き鐘楼につく鐘の曇り夜空に春めきて聞ゆ | 養寿院境内 | 昭和43年3月 | 蘆笛同人兎眠書 |
一笑斉喜楽女 | 老の坂ふりさけ見れば死出の山くだらぬことをいふてなげくな | 連雀町蓮馨寺境内 | 光圃書 | |
元 杢網 | 山ざくら咲けば白雲散れば雪花見てくらす春ぞすくなき | 連雀町熊野神社境内 | ||
落栗庵高濤 | ひとりかけふたりかけたる桶の輪のたがかけぬらむあすの日もまた | 幸町多賀町薬師神社 | 昭和11年5月 | (再建) |
文学者名 | 碑 文 (表) | 所在地 | 建設年月 | 筆者及備考 |
大野 一水 | 陽を恋うて睦み合う鳩冬の寺 | 東明寺境内 | 昭和60年10月 | 自筆 |
正岡 子規 | 砧うつ隣りに寒き旅寝哉 | 大手町八百勘前 | 昭和37年10月 | 伊藤泰吉書、署名のみ子規 |
水原秋桜子 | 共に遂げしいさをを見よと鳴く雲雀 | 南台狭山工業団地 日本ヘキスト鞄熬園 | 昭和46年4月 | |
柳沢 東丁 | 秋風や直ぐなる故に道さみし | 小仙波喜多院境内 |
文学者名 | 碑 文 (表) | 所在地 | 建設年月 | 筆者及備考 |
武者小路実篤 | 武蔵野に生きている藤間の里 | 熊野町三 | 昭和45年 |
文学者名 | 碑 文 (表) | 所在地 | 建設年月 | 筆者及備考 |
(巻14−3374) | 埼玉県指定史蹟 万葉遺蹟 占肩之鹿見塚 (碑陰に 武蔵野に占へ肩灼きまさにても告らぬ君が名うらに出にけり) | 富士見町浅間神社 | 昭和29年11月 | 大沢雄一書 |
山上憶良 | 万葉集巻第五所載反惑情歌併序
(令反惑情 まどえるこころをかえさしむる) 筑前国守山上臣憶良作 或有人知敬父母忘於侍養不願妻子軽於脱履自称倍俗先生意気…… 反歌 必左迦多能阿麻遅波等保斯奈保奈保…… (ひさかたのあまぢは遠しなほなほき家に帰りて業をしまさに) | 宮下町氷川神社境内 | 明治16年5月 | 中島与十郎書 |