川越の文学散歩1


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武蔵野探勝
「埼玉の文学めぐり」 関田史郎 富士出版 1972年 ★★
武州かわごえ
 「矢張、大きな町ですね」「何うしても昔、小江戸と言はれたところですからね。ここの藩主には大抵江戸の内閣に一員を占めた人がなることになってゐましたからね。この町は関東平野の中で、一番江戸の風を真似るところですよ」――田山花袋の「東京近郊一日の行楽」で、川越を語っている一節だ。この時の川越は、大正末年の武蔵野の城下町の静かなたたずまいをもっていた。しかし、川越街道も国道254号線となって、車があふれ、市街化のすすんだ街も、そして周辺も団地や工場地域の拡大と大きく変貌しつつある。その中にあって、初雁城址も喜多院も、蔵造りの家並みも鬼瓦・白壁・時の鐘と川越の誇る文化遺産は、皆ひそかに生きつづけている。そしてから訪ねる文学のふるさとも。

 喜多院と武蔵野探勝
 藤村義母の墓
 山上憶良の長歌碑
 万葉占肩の鹿見塚
 子規と川越の宿
 伊勢物語・三芳野遺跡
 川越補遺

 喜多院と武蔵野探勝
 川越の街は、あてどないぶらぶら歩きが、楽しい。歴史の匂い。それが、街のたたずまいにある。

 喜多院高浜虚子一門の「ホトトギス」同人が訪れたのは、昭和六年である。
 虚子一門によって書かれた「武蔵野探勝」は、百回に及ぶ記録で、近代俳人の見た昭和初期の武蔵野の姿である。桜井正信氏は、「近代の歌仙」とまで評価する。
 第十七回を「落葉の庭」として、ここを描いている。富安風生の文である。
――裏町の狭い通りが卒然として大きな森にぶつ突かる。落葉しつくした欅や、鴨脚(いちょう)樹やみどりの椎樫の大木が
  常磐木と枯木の幹は違ひけり   蚊杖
 いったやうに立ち交ってゐた。それが喜多院の森であった。――最初の印象をこんなふうに描く。
――濠に添って後ろの方にずっと杜が深くなって居るらしい。杜の中から――杜の空からといった方がいいかも知れない――鵯鳥(ひよどり)の声が鋭く落ちて来る。乾いた空気の中に鉦のやうに響き渡って、この大きな杜(もり)の静かさを幾倍にもして居る。
  鵯一羽鳴けば五六羽こたへたる  虚子
  鵯鳥のさわぐ大樹の下を行く  拓水
 俳人の、こまやかな眼がとらえた、昭和初年の喜多院である。
  肅条と枝垂れ桜の枯れにけり  青 邨
  からからに枯れてかがやく落葉かな  素 十
  又少し焚火煙の濃くなりぬ  夢 香
  永く居て薄き秋日にあたたまる  草田男
  落葉池時々水のふるへ居る  立 子
  散紅葉深きところに踏み入りぬ  風 生
――喜多院へもう一度行ってみたいやうな気がしてゐる。――と結んでいる。

「新埼玉文学散歩・上」 榎本了 まつやま書房 1991年 ★★
 川越高麗入間/川越市
 武蔵野台地の北東端の部分と、台地の北から東にかけて流れる入間川およびそれと合流する荒川のつくった沖積平野の部分とからなる。台地と低地の境には比高数メートルの崖があり、湧水がところどころにある。川越という地名については、肥沃な沖積平野をあらわす「河肥」から起ったとか、入間川に面しているので「川越え」の場所であったからとかの説がある。川越にが築かれたのが長禄元年(1457年)で、江戸時代には江戸の北の守りとして重要な役割を果した。大正十一年に埼玉県で最初の市となった。
 喜多院
 山上憶良歌碑元杢網歌碑
 正岡子規句碑
 島崎藤村義母の墓
 万葉遺跡・鹿見塚(ししみづか)
 伊勢物語遺跡・三芳野の里

喜多院

 国鉄川越線で川越駅下車、東武東上線でも同じ川越駅下車、市内を東北方へ歩いて約千メートル、バスの便もある。喜多院は徳川家康の政治顧問であった天海僧正が再興した寺である。東京上野の寛永寺とならんで、古くより関東の二大寺と称されていた。古代にはこのあたりまで海が湾入していたので、仙芳が竜神を封じこめて弁天社を創始し、水を干したのがこの寺の縁起とされている。
 喜多院へ、高浜虚子一門の「ホトトギス」同人が訪れたのは、昭和六年である。近代の歌仙とまで評価される、虚子一門によって書かれた「武蔵野探勝」は、百回におよぶ記録であり、近代俳人の見た昭和初期の武蔵野の姿が描かれている。第十七回「落葉の庭」に、喜多院のことが書かれている。文は富安風生である。
 「裏町の狭い通りが卒然として大きな森にぶっ突かる。落葉しつくした欅や、鴨脚樹やみどりの椎樫の大木が
  常磐木と枯木の幹は違ひけり  蚊杖
といったやうに立ち交ってゐた。それが喜多院の森であった。」「濠(ほり)に添って後の方にずっと杜(もり)が深くなって居るらしい。杜の中から――杜の空からといった方がいいかも知れない――鵯鳥(ひよどり)の声が鋭く落ちて来る。乾いた空気の中に鉦(しょう)のように響き渡って、この大きな杜の静かさを幾倍にもして居る。
  鵯一羽鳴けば五六羽こたえたる  虚子
  鵯鳥のさわぐ大樹の下を行く  拓水
  肅条と枝垂れ桜の枯れにけり  青邨
  からからに枯れてかがやく落葉かな  素十
  又少し焚火煙の濃くなりぬ  夢香
  永く居て薄き秋日にあたたまる  草田男
  落葉池時々水のふるへ居る  立子
  散紅葉深きところに踏み入りぬ  風生
――喜多院へもう一度行ってみたいやうな気がしている。」と結ばれている。
 そして、虚子一門の一人、山口青邨は十数年後の春に訪れ、
  糸桜天より垂るる端の花
と詠っている。この桜を背景に築山ができ、中央の自然石に
  秋風や直ぐなる故に道さみし     東丁
の句が刻まれている。市内の刀圭(とうけい)俳人東丁のものである。

吟行入門 私の武蔵野探勝」 深見けん二・小島ゆかり NHK出版 2003年 ★★
 7 小江戸川越 蔵の町
―――― 引用文 ――――
 ――寺林の外はすぐ風流の一廓になつてゐて、そのひつそり閑とした昼の街に、紙芝居が女子供を集めて声色を使つてゐた。そして二階の手摺(てすり)に友禅の蒲団(ふとん)が干し掛けてある景色まで、さつき、僕は、大木の隙からしかと見ておいた――
 そこで僕も、枯萱(かれかや)の中に一歩踏み込んで、すれ違ふ彼の女に道をよけてやりながら「君のうちどこ?」「君の名前何ていふの?」ぐらゐなことは、ちよつと聞いてみる気にもなつたのである。いや、聞いて見る方が、その場合、却(かえ)つて自然なような気が、実際、したものである。
虚子編『武蔵野探勝』 富安風生「落葉の庭」(第十七回)より

 今回は、江戸の面影を今に残す埼玉県川越市。太田道真・道灌父子によって川越城が築かれたのは長禄元(1457)年。江戸時代には、百万都市・江戸への物資の供給地として繁栄を極めた。  高浜虚子一行が川越を訪れたのは、昭和6(1931)年12月だが、今回は梅雨さなかの蒸し暑い晴天。深見先生は夏帽子、小島さんは日傘を持参して準備も万全だ。土蔵造りの商家の町並を折れると、四百年前からこの町に時を知らせてきた「時の鐘」がある。傍らに、白い半夏生(はんげしょう)の花が咲いていた。このあと徳川将軍家と縁が深い古刹、川越大師喜多院を訪れ、風の吹き抜ける縁側で、枯山水を包み込む青葉の風景にしばし涼を取った。
(2001年6月29日)

小島 『武蔵野探勝』の当日、虚子が読んだ句に、
 よくひびく小鳥の声と人声と     虚子
がありますが、それが後に出た虚子の『句日記』では、推敲の結果でしょうか、
 よく響く小鳥の声も人声も      虚子
となっていますね。
深見 「と」が「も」に直っていますね。「も」を重ねたほうが、「と」で切るよりも、空間の広がりが出るのではないでしょうか。
小島 私、この二句を何度も読み比べてみました。良し悪しは分かりませんが、原句のほうが、小鳥の声、人の声ともに、読者によく聞こえてくるような気がしたんですね。一方、推敲句は、声そのものよりも、声を含めた風景が見えてくるように思いました。
深見 「風景」は、いい言葉ですね。
小島 虚子のほかに、『武蔵野探勝』でいいなとお思いになった句はございますか。
深見 私の師でもある山口青邨(やまぐちせいそん)の、
 草じらみ人につかんと立ち枯るゝ     青邨
 この句は、「草じらみが人につく」という擬人法で当たり前なことを言いながら、「立ち枯るゝ」とぴたりとまとめたあたり、さすがにうまいと思いました。
小島 『武蔵野探勝』の川越吟行記の中でとりわけ興味深いのは、前半は、筆者の富安風生らしい緻密(ちみつ)で情感のある文章なのに、途中から風流な女性の話が出てきたりして、急に人間くさくなる点です。虚子が冬景色を詠もうと、かすかな物音に耳を澄ましたり、ささやかなものを見つめたりしているのに対して、門人たちは、風流の世界の女性とすれ違っては、声をかけたり、名前や家を聞いたりしているんですね(笑)。このくだりは、本当に笑いました。
深見 川越には風流なお蕎麦屋さんやお茶屋さんがあって、一種の色町を成していたわけです。昔からの城下町は、表面は観光地でも、そういう裏側にも歴史があるもので、そのあたりまで入り込めれば、もっと趣きが感じられるのでしょうね。私も川越はずいぶん来ていますが、なかなか、そこまでの句ができません。歌なら詠めるのではないかと思ってみたりしますが、俳句では、特に吟行の場合、風土へ深く入るまでに十分準備もし、繰り返してその土地を詠まないと、非常に難しいと思いますね。
小島 今回の句づくりは今までよりも難しいと思いました。確かに、蔵町は情緒があって、興味は尽きないんです。生活にまつわるものや、時代の匂いがするものもたくさんあるんですが、それを盛り込むのに、俳句はあまりに短いんですよ。
深見 よく分かります。私にしても、ここでなかなか詠めないのは、眼前の見たものを詠む吟行俳句の限界なのかもしれませんね。ただ、そういうものが身の内に溜まっていって、それがまた、次の機会に川越で句をつくるときにきっと役に立つと、私は思っています。
   (後略)

「武蔵野探勝」 高浜虚子編 有峰書店 1969年  ★★
 落葉の庭 (第17回)
    ――昭和6年12月6日――
                            富安風生

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 高浜虚子(たかはま きょし)
1874〜1959(明治7〜昭和34)明治・大正・昭和期の俳人・小説家。
(生)愛媛県。(名)本名清。
正岡子規に師事。1896(明治29)「国民新聞」俳句選者となり、’98に「俳句入門」を出版。「ホトトギス」を主宰した。同誌に句作・俳論を執筆したほか1907頃から主力を小説に注ぎ、「風流懺法」「斑鳩物語」「大内旅館」などを発表。’08最初の短篇小説集「鶏頭」を出版。同年長篇小説「俳諧師」、’09「続俳諧師」を連載して小説家としての才能を示した。ほかに長篇「柿二つ」、短篇集「虹」などが知られる。’13(大正2)俳壇復帰の決意を表明するとともに<守旧派>と称し<新傾向俳句>に挑戦する姿勢を示した。「俳句の作りやう」「進むべき俳句の道」などの評論集を出版、定型と季題の遵守、客観写生の尊重を説いた。その後、俳句は<花鳥諷詠>の詩と規定、終始俳壇における保守的役割を果たした。子規のあとを受けつぎ<ホトトギス派>の隆盛に寄与、多くの優れた俳人を育成したが、昭和期にはもはや俳句界での推進的役割を果たすことはできなかった。’51(昭和26)「ホトトギス」雑詠選を長男高浜年尾に譲り、以後次女星野立子主宰の俳誌「玉藻」に力を注いだ。’37芸術院会員となる。’54文化勲章を受章。
(著)「定本高浜虚子全集」全15巻、別巻1、1974〜75。
(参)山口誓子他「高浜虚子研究」1974。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 山口青邨(やまぐち せいそん)山口吉郎(やまぐち きちろう)
1892〜1988(明治25〜昭和63)大正・昭和期の鉱山学者・俳人。
(生)岩手県。(名)俳号を青邨。(学)東大工学部。
1921(大正10)東大助教授をへて、’39(昭和14)教授。’53定年退官、名誉教授。この間、選鉱学の分野で多くの論文を発表、’31工博。一方、’22俳句を高浜虚子に師事。<東大俳句会>に参加。’30(昭和5)から「夏草」主宰。名文家として知られる。
(著)「選鉱学実験法」1934、「浮遊選鉱法」1935、句集「雑草園」1934、「雪国」1942、「露団々」1946、「冬青空」1957。

正岡子規
「川越閑話 川越叢書第1巻 岸伝平 国書刊行会 1982年 ★★★
 雁燈夜話/子規居士と川越
 明治文壇の露伴紅葉らが川越城下町に来遊しており、中に正岡子規があつて一泊している。旅情の一句と、蓑や菅笠が永く根岸の子規庵に飾られ、晩年病臥中の人となつた子規に旅の思い出に雅情をそそつて蓑笠の句が数多く詠まれている。「寒山落木」に
    蓑一枚笠一個、みのは房州の雨にそぼち笠は川越
    風にされたるを床の間にうやうやしく飾りて
  蓑笠を蓬莱にして草の庵
とある。子規庵を訪れた人には先づ眼につくものが墨竹画幅に蓑と笠であつたという。笠にはいろいろと句が書いてあつたと伝えられ、草の庵の一句は明治二十五年歳旦の句であり、その前年に子規が旅した時の蓑と笠を記念に、これを掛蓬莱にして初春を向えて祝つた、
 居士の筆になる「我室」に
 「柱に掛けたる蓑笠は明治二十四年の暮、蕨の駅あたりに買い求めて忍、熊谷、松山、川越、吉見の百穴を見て帰りたる昔のなごり、笠の上の句はこのごろに消して取りたり
  武蔵野のこがらししぬぎ旅行きし昔の笠を部屋に掛けたり」
と詠んで記されている。旅で買求めたこの蓑笠が、かくて子規庵の什物となつたわけだ。旅中に熊谷では小松屋旅舎に泊した。翌日は比企郡の松山町に来り、吉見の百穴を見物して
    松山百穴
 神の代はかくもありけん冬籠
と作句している。
 かくて川越に来て一泊した。当時の川越城下町は県下第一の繁華なる商業都市で、土蔵造りの商店街が櫛比していた。ここに川越は子規の印象をたかめて「三日旅」に足を留め一泊させた。宿屋は江戸町の今福屋(川越ホテル)であつた。その句集である寒山落木に、「川越客舎」と題され
 砧うつ隣に寒き旅寝かな 
とある。当代に今福屋旅舎の南隣りに吉百(栗原氏)という異国張物屋があつた。その頃の川越は縞織物の産地で、張物屋は夜仕事にトンカントンカンと砧打つ槌音が隣の宿屋に一泊した子規に旅情を添えたものであろう。後に「笠は川越の風にされ」と印象を手記されて、この三日旅は子規の永く思い出となつた。帰路は武蔵野の風趣を賞して所沢より田無街道に出て学友を訪ねて帰庵したという。
 この年の冬に居士は勉学のため大宮公園に来て泊つた。その宿に竹村黄塔や夏目漱石が訪ねている。付近を散歩した偶作であろうか、
 一日の旅おもしろや萩の原
の句が残されている。蓑笠の句は居士が写生句に自然に入つた頃の作句と評され、貴重とされている。川越の題詞もあつて郷土人としてなつかしいが、また埼玉行脚の三日旅に足跡を印した子規居士に、平凡なるうちに美しい武蔵野の冬景色が、居士の俳味を如実に喚発せしめたものであろう。

「続川越歴史随筆」 岡村一郎 川越地方史研究会 1966年 ★★★
 8.隣に寒き旅寝かな−正岡子規と川越−

「埼玉文学探訪」 朱樓藝文會編 紅天社 1969年 ★★
 正岡子規句碑 川越市大手町
 明治二十四年十二月に正岡子規は熊谷・松山を経て、川越に到着し、旅館今福屋に一泊した。
 今福屋の主人竹沢尚寛は、当時のいわゆる風流人で、和歌をよくした。そこで両人は意気投合して閑談にふけった。その南隣は吉田屋という洗張業であり、織物整理を業としていた。そこで織物の仕上げ行程においての砧(きぬた)打ちの音が、ものさびしく夜気をゆるがしていた。若き多感な子規にはそれが、胸をつき刺すように哀切に感じられた。そこで思わず一句を成して、手元の句帳に書きつけた。
    川越客舎
  砧うつ隣に寒きたびねかな
 やがて宿痾(あ)に悩んだ子規にとって、この川越方面の旅行は、一生忘れ得ぬものとなった。『寒山落木』にも彼は、「蓑一枚笠一個、蓑は房州の雨にそぼち、笠は川越の風にされたるを床の間にうやうやしく飾りて」と記している。
 現在今福屋は料亭「八百勘」となっている。その離れ座敷や庭石は昔のままであり、「砧うつ」の句碑はその中庭に建てられている。これは当時のことをいろいろと回想し得るよすがとなっている。
 当日はいろいろと深井照代さんにご案内頂いた。深井さんは川越第一中学校で教鞭をとって居られるが、この地方の郷土研究家として名の高い方である。近くその方面の著作を刊行されるとのことであった。私もいろいろお話をうかがいながらその豊富な知識と深い体験の内容に驚かされた次第である。
 この日は風もなく、雲一つない晴れ上がった午後のひとときであった。子規もこうした空の下を川越目ざして歩きつづけたのであろう。(I)

「埼玉の文学めぐり」 関田史郎 富士出版 1972年 ★★
 子規と川越の宿
 訪れた私達には、大変都合よく料亭「八百勘」は、休みであった。ご主人の田島嘉平さんに案内されて、薄暗い食堂を通って中庭に出る。碑は、五月の日光をいっぱいに浴びて立っている。高さ2米、幅80センチの根府川石。秩父石の巨石の上にのっている。
   砧うつ      子規
    隣りに寒き
      旅寝哉
 やわらかくて端正な書だな、と思う。後に松の木が一本あって、碑面を覆うように枝が垂れて、その陰が、ちらちら揺れる。
 正岡子規、二十四歳の時、川越のこの家に来泊した。碑陰には次のように記されている。
砧うつの句は正岡子規先生が明治二十四年十二月下浣埼玉を旅したる川越客舎の一吟である。
 この度市制四十周年記念にあたり、かつての宿舎たりし今福屋の旧跡に偶々田島氏の厚意により同志と相謀りて句碑を建立し、子規先生の俳跡を後世に伝え、以ってその遺徳を顕彰するものである。
 昭和三十七年十月一日
  川越市中央公民館長 岸 伝平しるす
 筆跡は伊藤泰吉氏、彫刻は清水柏翁氏。「子規」という署名だけは、子規自身のものである。
 「昔のことなので、よくはわかりませんが、この離れの一部と、庭石の少しが、その当時のものというんですが、――あとは殆ど、変ってしまって。碑は最初、家の前へ建てようかという話もあったんです。でも、外でなくてよかったかも知れません。」
 そういえば、表通りからの車の騒音が、ひっきりなしに伝わる。ほんとによかった。あの喧騒とは、およそ似つかわしくない。話をききながら、私は碑にカメラをむける。
 「狭い庭なので撮りにくいでしょう。」並べてある鉢植えを、田島さんは片付けてくれる。
 「子規はおそらく、ぜんべい蒲団にでもくるまって寝たんでしょうか。砧(きぬた)をうつ音は、こちら側の南隣りから、聞えてきたんですね。砧はご覧になったことありますか。」砧の実物をわざわざ、蔵の中から持ってきてみせてくれる。砧は布をやわらげたり光沢を出すために叩くもので、今は使われてないから、同行の若い友人も初めて見たらしかった。
 田島さんは親切で、誰の紹介でもない闖(ちん)入者の私達に、こんなふうな説明をしてくれる。
 
 二十四歳といえば、子規は文科大学国文科の学生である。年譜をみる。三月に房総めぐり、六月に学年試験を抛擲して、四国松山に帰省、途中木曽路を歩く。八月上京。九月埼玉県大宮市公園内万松楼に宿泊。十二月忍、熊谷、松山、川越方面旅行。この冬「俳句分類」に着手。また、小説家を志望。駒込に一家を構える。とあって驚くほど旅をしている。
 「寒山落木(かんざんらくぼく)」巻一には「蓑一枚笠一個、蓑は房州の雨にそぼち、笠は川越の風にされたるを床の間にうやうやしく飾りて」とある。今、遺された子規の写真の旅行姿をみると、菅笠に脚絆・草鞋ばきである。年譜にある、十二月。行田・熊谷を経、東松山からおよそ四里の川越へ着き、江戸町の旅館「今福屋」に泊ったわけである。
 このころ、子規は紅・露とくに露伴の「風流仏」の影響をうけ、小説家としての野心を賭けていた。まだ、短詩型文学に専心しようとしていたわけではなかった。青年子規の客気に溢れた一時期であったろうか。しかし、二年ほど前、結核による最初の喀血をみており、鬱勃とした雄心とはうらはらに、自分の一生がけっして長くないであろうという、悲壮感と焦燥感は、あったに相違ない。
 薄い蒲団に肌寒くかがまった子規に、夜なべの砧の音が単調に、しきりに響いてくる。
 思い千々に屈した若き子規は、しみとおるような寂しさを味わったのだろう。
 川越から帰った子規は、処女作「月の都」執筆のため、家族の反対を押しきって、常磐寄宿舎を退寮し、駒込追分町に一戸を構え、「面会謝絶」の貼り札を出してこもった。だが、心身を傾けたその小説も、批評を乞うた露伴には全く認められなかった。尊敬する作家の前で、屈辱と絶望を味わう。
  蓑笠を蓬莱(ほうらい)にして草の庵 (明治二五年作)
さびしい句である。
 短詩型文学の革新という、子規らしい活動が始まるのは、この後である。
 子規の去った後、明治二十六年三月、川越に大火があった。今福屋も類焼。砧をうった隣りの洗張業の吉田屋も焼けた。今福屋の主人は竹沢尚寛氏で、のちに廃業し、それを田島さんの先代が買い受けたのだという。

「新埼玉文学散歩・上」 榎本了 まつやま書房 1991年 ★★
正岡子規句碑
 明治二十四年十二月に正岡子規は鴻巣、吉見百穴、松山(現・東松山市)を経て、川越に到着し、旅館「今福屋」(川越市大手町)に一泊した。
 「今福屋」の主人竹沢尚寛は、当時のいわゆる風流人で和歌をよくした。そこで両人は意気投合して閑談にふけった。その南隣は吉田屋という洗張業であり、織物整理を業としていた。そこで織物のし上げ工程においての砧(きぬた)打ちの音が、ものさびしく夜気をゆるがしていた。若き多感な子規にはそれが、胸をつき刺すように哀切に感じられた。手元の句帳に一句を書きつけた。
    川越客舎
  砧うつ隣に寒きたびねかな
 やがて宿痾(あ)に悩んだ子規にとって、この川越方面の旅は、一生忘れ得ぬものとなった。「寒山落木」に、「蓑一枚笠一個、蓑は房州の雨にそぼち、笠は川越の風にされたるを床の間にうやうやしく飾り」と書いている。
 現在「今福屋」は、料亭「八百勘」となっている。その離れ座鋪や庭石は昔のままであり、「砧うつ」の句碑はその中庭に建てられたが、今は店頭に移されている。

「埼玉の文学碑」 関田史郎 さきたま出版会 1996年 ★★
旅寝にきいた砧の音/正岡子規の句碑
 川越市役所の近く、大手町の料理店「八百勘」の店先に、正岡子規の句碑がある。

 砧うつ隣りに寒き旅寝哉     子 規

 碑高115a、横65a、厚さ20aの根府川石が、80aの台石にのる。碑は、八百勘主人の田島嘉平氏が、川越市制40周年を記念して、昭和37年10月に建てたもの。句は伊藤泰吉元市長が書き、秩父の清水柏翁氏が刻んだ。柏翁氏の手刻による句碑、歌碑は県内に多く見られるが、今殆ど器械彫りになってしまっただけに、こうした手彫りの人がいなくなって残念である。「子規」という署名だけは、自筆から採ったという。碑陰は、郷土史家岸伝平氏が、建碑の由来を簡潔に記している。関係した三氏はすでに亡い。
 
 正岡子規は、数え23歳の時、吐血し結核と診断され、鳴いて血を吐く鳥ということから、子規(ほととぎす)にたとえ、「子規(しき)」と号するようになるが、年譜を見ると、驚くほど旅をしている。房総、木曾、松山、東北、そして遠くは旅順まで及んでいる。明治24年、25歳。彼は文科大学国文科の学生であったが、11月、『猿蓑』や『三傑集』を読み感ずるところがあって、句材を求め、3日間の武蔵野旅行に出かけた。句碑の碑陰記で岸伝平氏はそれを12月下浣(かん)と記しているが、子規全集(昭53年講談社)の年譜では、11月3日より9日までの間の3日間としているため、これに従いたいと思う。
 蕨に寄り駅で菅笠を求め(この笠は後永く子規庵の柱にかけられた)、忍(行田)、熊谷、川越へ回ったが、熊谷では「小松屋」へ一泊し、『常盤豪傑譚』を書きはじめた。また、吉見へも立ち寄り、「百穴」を見学している。俳句集『寒山落木』巻一には、「松山百穴」と題して、神の代はかくやありけん冬籠(ふゆごもり)という句があり、当時まだ百穴は古代人の住居跡説だったので、彼もそういう思いで詠んでいるようだ。同集には、「川越客舎」として、碑の句が載っている。
 砧うつ隣りに寒きたひね哉
 この時の吟行で、写生についての眼が開かれたようだと、子規は後に書いている。
 このころ、彼は、尾崎紅葉幸田露伴などの刺激を受け、小説家としての野心を賭けていた。まだ、短詩型文学に専心しようとしていたわけではない。青年子規の客気に溢れた一時期であったろうか。小説『月の都』の執筆にとりかかるのは、この直後である。
 しかし、彼はしばしば喀血し、そのころ不治の病といわれた結核と診断され、鬱勃(うつぼつ)とした雄心とうらはらに、自分の一生がけっして長くないであろうという、思いはあったに違いない。旅館の薄い蒲団に肌寒くかがまった子規の耳に、夜なべにうつ単調な砧(きぬた)の音が響いてきた、というのである。ひとり旅寝の若き詩人が捉え得た、寂しい、いい句だと思う。
 この時の宿屋が「今福屋」であり、その南隣りに異国洗張業の吉田屋があったと考証したのが、岸伝平氏である。砧は、織物の仕上げ工程で幅出しや光沢を出すために、夜うったという。当時、川越は人口2万、戸数3千4百ほどの町で、明治26年に大火があり、今福屋、吉田屋とも類焼してしまった。今福屋は、ただちに再建され大正末年まで営業をつづけていたが、のちに廃業し、それを田島さんの先代が買い受けたのだという。

「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★★
 正岡子規を「武蔵野旅行」に誘(いざな)ったものは?
 『病牀六尺』の世界。病歴(結核菌を主因とする喀血・脊椎カリエス等)からくる苦悩に充ちた印象とは異なり、正岡子規はまことに行動的で、旅をよくした。
 明治24年(1891)2月、東大の哲学科から国文科に転科。この年の旅譜は、3月の房総行脚で始まる。6月、木曽路をまわって、松山に帰省する。8月、宮島・尾道・小豆島を廻り上京。そして、11月の武蔵野旅行。子規は、この年の秋冬のころからライフワークの<俳句分類>に取り組み始め、さまざまな古典に触れるなかで芭蕉に出会った。「はじめて『猿蓑』を繙(ひもと)いた時には一句々々皆面白いように思はれて嬉しくてたまらなかつた」「これが自分が俳句に於ける進歩の第一歩であった。少し眼を開いたように思ふので旅行をして見たくて堪らなくなつて三日程武蔵野を廻って来た」(『獺祭書屋(だつさいしょおく)俳句帖抄』上巻序)。
 旅程はこうなっていた。
 <第1日>蕨―忍―熊谷(小松屋にて泊)
 <第2日>熊谷―松山―吉見百穴―川越(今福屋にて泊)
 <第3日>川越―所沢―田無街道―本郷の寄宿舎(岸伝平の考証)
 旅で生れた10数句(句集『寒山落木』)のなかで埼玉の地名が記されているのが、巻1・24年秋<川越客舎>「砧うつ隣に寒きたひね哉」と、同年冬<松山百穴>「神の代はかくもありけん冬籠」の2句。砧の句からは、薄い布団で寒さをしのぐ姿が砧の音ともに想像される。また、子規は当時東京人類学会に入会し、坪井正五郎の人類学(コロボックル説)に関心を持っていた。吉見百穴は坪井らにより明治20年8月から翌年にかけて発掘がなされていた。
 この短い旅で生れた「凩(こがらし)や荒緒(あらお)くひこむ菅の笠」「夕日負ふ六部背高き枯野かな」「雲助の睾丸黒き榾火(ほたび)かな」「むきくせのついて其のまま枯尾花」「ゆらゆらと夕日ひろがるかれ野哉」などの句は、子規の<俳句開眼の緒>と批評された。この吟行は、文学的にも興味深いものがある。
(黒沢 栄)

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年 ★★
  正岡子規

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 正岡子規(まさおか しき)
1867〜1902(慶応3〜明治35)明治時代の俳人・歌人。
(系)松山藩御馬廻加番正岡隼太の子。 (生)伊予(愛媛県)松山。
(名)本名常規(つねのり)、別号を獺祭書屋(だつさいしよおく)主人・竹乃里人。 (学)東大中退。
1892(明治25)東京下谷根岸に居を移し、俳句研究に没頭、新聞「日本」に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳諧の新たな史的考察によって俳句革新を志した。文学としての価値を俳句に求めるとともに写生句を主張し、同紙に句作をのせ主張を実作で示した。彼の下には高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・夏目漱石ら多くの知識人・学生が集まり、俳壇の中心勢力となった。はじめ松山で出していた俳誌「ホトトギス」を東京に移し虚子が編集にあたった。子規を中心とするグループは<日本派><根岸派><ホトトギス派>などと呼ばれ、近代俳句史上多くの功績を残した。’98「日本」に連載した「歌よみに与ふる書」は、<貫之は下手な歌よみにて…>といった鋭い語調で「古今集」を否定し、「万葉集」を高く評価したもので、当時の歌壇に衝撃を与えた。翌年<根岸短歌会>を創立して短歌革新をめざした彼のもとには岡麓・長塚節・伊藤左千夫らが集まった。1900の「叙事文」は彼の文章観つまり<写生文>の立場を明らかにしたものである。この頃、子規の家で毎月文章会が開かれ、各自が自作を朗読し子規がそれを批評した。漱石の「吾輩は猫である」の第1回もここで朗読された。子規の主張は高浜虚子・長塚節・伊藤左千夫、そして夏目漱石の小説へ受けつがれた。’01以後ほとんど病床にあったが、その間’01「墨汁一滴」、’02「病牀六尺」「仰臥漫録」などのすぐれた随筆を書き残した。俳諧史・短歌史の研究にも多くの功績がある。
(著)「子規全集」全22巻、別巻3、1975〜78。
(参)国崎望久太郎「正岡子規」1956、久保田正文「正岡子規」1967。

「幸せ暮らしの歳時記」 藤野邦夫 講談社文庫 2000年
 9月19日 子規忌

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 尾崎紅葉(おざき こうよう)
1867〜1903(慶応3〜明治36)明治時代の小説家。(生)東京。(名)本名徳太郎、別号を十千万堂(とちまんどう)。(学)東大中退。

その他全般
「さいたま文学紀行 作家たちの描いた風景 朝日新聞さいたま総局編 さきたま出版会 2009年 ★★
精神(こころ)の拠りどころは、「埼玉」だったのかもしれない。
芥川龍之介、池波正太郎、井伏鱒二、北村薫、司馬遼太郎、島崎藤村、太宰治、夏目漱石、松本清張、三島由紀夫、宮部みゆき、森村誠一、和田竜………106人の作家が表現した「埼玉」をさがす旅。
●西部エリア
「箱根の坂」 司馬遼太郎  「歴史の十字路」だった
「天の園」 打木村治  日本の原風景残る下唐子
「黒い空」 松本清張  四〇〇年の遺恨超えて
「花」 林真理子  小江戸独特の花柳文化
「鉄塔武蔵野線」 銀林みのる  大都市東京を支える命綱
「伊勢物語」 在原業平  三芳野の地名しのび建立
「太平記」 作者不詳  倒幕招いた戦い今に伝える
「夜明け前」 島崎藤村  「川越の老母」の墓 ひっそりと

「埼玉文学探訪」 朱樓藝文會編 紅天社 1969年 ★★
 藤村義母の墓碑 川越小仙波町
 鹿見塚歌碑 川越市富士見川(ママ)
 正岡子規句碑 川越市大手町
 三十六歌仙額 川越市東照宮
 川越の東照宮を訪れた。ここは上野・久能山とともに三大東照宮と呼ばれている。現在の建造物は寛永十七年のもので、すべて重要文化財の指定をうけている。
 ここの拝殿の長押には三十六歌仙額が掲げられている。歌仙とは和歌の名人という意味であるがこの額は明治三十九年に国宝に指定されるほど貴重な扁額である。三十六歌仙とは、ここでは、人麿・家持・猿丸太夫・貫之・忠岑・業平・素性・坂上是則・藤原興風・源重之・中大臣頼基・源公忠・藤原朝忠・源順・平兼盛・小大君・中務・藤原元真・赤人・遍昭・小町・友則・躬恒・伊勢・藤原敏行・兼輔・源宗干・斎宮女御・藤原敦忠・藤原高光・源信明・元輔・能宣・藤原仲文・藤原清正・壬生忠見を挙げている。これは大納言藤原公任の撰したものと言い伝えられている。額の絵は岩佐又兵衛、書は尊純法親王である。
 年三回、一般に展示しているが、そのままの模作は喜多院内に展観されている。極彩色のまことに見事なものである。代表的なものとしては、たとえば次のような歌がある。
 ほのほのとあかしの浦のあさ霧に 島かくれゆくふねをしそおもふ    柿本人麿
 和かの浦にしほみちくれはかたをなみ あしへをさしてたつなきわたる  山部赤人
 特別の配慮で廟・拝殿まで行かせて頂いた。
 付近にお住いの堀久子さんの母子三人の方々にご案内いただいた。久子さんは、馬場久子として先に「氷点」「薔薇」などで活躍した女流俳人である。娘さんの亜維子ちゃんは現在小学校四年(九歳)であるが、幼稚園のころから詩作にふけり、現在すでに詩誌「潮流詩派」(主宰村田正夫)の主要同人となっている多才な少女である。
  「わたしだけのブランコ」
    もっとこぐんだ
    空の頂上まで行くんだ
    もしそれができたら
    地球を回りたい
    わたしのブランコ
    だれも乗せない
    わたしのブランコ
    うんとこぐんだ
 歌仙にふさわしい、ふんわりとした風流さの中で、私は日ざしを浴びながら霊廟の精巧且つ丹青鮮やかな彫刻を暫くの間見上げていた。(I)
 伊勢物語遺跡 川越市的場
 初 雁 城 川越市初雁公園内
 七ふしぎ伝説 川越市・喜多院
 川越線の川越駅で下車して、市内を東北方へ歩いてゆくと約千メートルで、喜多院につく。ここは徳川家康の政治顧問であった天海僧正が再興した寺であり、東京・上野の寛永寺とならんで古くより関東の二大寺と称されていた。
 古代にはここらあたりまで海が湾入していたので、仙芳が竜神を封じこめて弁天社を創始し、水を干したのがこの寺の縁起とされている。そのため、喜多院の七ふしぎ伝説も竜や蛇に関係するものが多い。たとえば大師堂の下の大穴は四方に横穴が通じていて深さが分からないと伝えられているが、この穴にも「底なしの竜穴」という呼び名がつけられている。
 また喜多院では護摩(ごま)をたくときに用いる鈴にふりこがついていない。これは次のような文学的伝説が今でも人々に語り伝えられている。
 それは尊海僧正の弟子に蛇好きの僧があり、喜多院の裏山で小さい白蛇を見つけて長持の中に入れて飼っていた。月日がたつうちに、蛇は成長して長持におさまらなくなったので、五重塔の中に封じこんだ。そして僧は白蛇に「鈴の音をきくまでは出てはならぬ」と申しわたした。
 そののち封を守って白蛇は塔下に大穴を掘ってすみ、姿を現わさなかったが、或る村人が喜多院の守りともいうべき大木を切り倒した時に封を破って姿を現わした。そしてその木を切った村人は白蛇の呪いを受けて間もなく死んだと言われている。ともかく鈴の音をたてると、その白蛇が出て怪異な行ないをするというので昔から今にいたるまで、喜多院で用いる鈴には、音をたてるふりこがついていないのである。(I)

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作成:川越原人  更新:2021/01/27