1
天正六年の秋、摂津伊丹の荒木村重が織田信長に謀反した。
荒木村重は微族であったが、信長が村重の用ゆるに足るのを見込んで摂津に置いたのである。信長が石山本願寺攻めに手を焼き、その兵糧を入れて支援している中国の毛利との間を遮断するためだった。
しかるに毛利の誘いが村重にかかり、途中で彼は信長に反逆した。信長は怒って伊丹城を攻めた。腰の重い毛利輝元は容易に後詰に来らず、孤立した村重は数人の供と共に城を捨てて遁げ、海から毛利領尾道に奔(はし)った。
この時、村重に二歳になる妾腹の子があった。母は越前北ノ庄の在の者であったというがさだかでない。村重の遁走の際に、乳母はこの子を抱いてひそかに逃れ、石山本願寺を頼った。教主の顕如(けんにょ)にしてみれば、味方の子であるから預かって匿った。これがあとの岩佐又兵衛である。荒木の姓を隠して、母方の岩佐を称した。
信長が横死し、秀吉が実権者となった。秀吉と荒木村重とははじめから好かった。毛利の使として安国寺瓊恵が堺に来たとき、秀吉は、村重はどうしているかと訊いた。安国寺は、されば只今は入道し、道薫と名乗り茶などいたしている、と応えた。秀吉は、村重が茶道では宗易の弟子であることを思い出し、綿二十把を音物(いんもつ)して託(ことづ)けた。
それから程なく、秀吉は道薫の村重を呼び返した。曾ての荒大名も今はただの入道である。秀吉は彼を堺に住まわせ、食邑(しょくゆう)として摂津菟原(うばら)を与えた。村重は落城の際にも、秘蔵の茶壷を持って遁げたくらいであるから、茶道の嗜みが深かった。秀吉は道薫を己れの茶坊主として召し使った。
爾来、道薫は秀吉の茶席には、宗易、宗久、宗二などの茶道と一緒に出るようになった。彼がこの道で、当代一流を以て隅せられたことは確かであった。
本願寺の顕如は、道薫が堺に還ったのをみて、二歳の時から匿っていた子を彼に返した。秀吉が大坂に築城を計画し、顕如が泉州貝塚に在った時であるから、又兵衛が六歳の時であった。
「生きていたか」
と道薫は珍しいようにわが子の顔を見つめたが、無論、遁走の怱忙(そうぼう)の際に一瞥(いちべつ)した嬰児(えいじ)に見覚えがある筈はなかった。道薫にしてみれば、四年前の厭な記憶が突然に顕われたようなものである。彼は多くの家臣を見捨て、妻子、女どもを見殺しにしてひとりで城を遁れたのであるから、黒い背徳の劣等感が心の底にうずいていた。彼は妾腹のわが子を見るに忌わしい眼付をした。
六歳の又兵衛は、父から邪慳(じゃけん)にされて三年を過した。彼にしても父が疎(うと)い。その感情から、父が当代の数寄者(すきしゃ)でありながら、彼は茶が好きになれなかった。また、父も教えてやるとは云わなかった。彼は父から構いつけられないこちに慣れ、孤りを愉しんだ。
又兵衛の記憶にある父の眼差しは、いかにも冷たくて昏かった。骨格の張った、大入道だったが、身についた暗さが一廻りも縮んで貧弱にみえた。父が傍に来ると、日射しにすうと翳が入ってくるように思えた。勝手にひとりで置かれて、気儘に画を落書きしている方が自由な空想に陶酔出来て、遙に充足感があった。
しかし、父の冷たい瞳は、そういつまでも彼に纏(まつわ)りはしなかった。天正十四年にその忌わしい六十四歳の眼は閉じた。戒名は南宗道薫、堺の寺に葬った。
又兵衛は父に死別して天が拡がったような気がした。愛情は少しも感じなかった。一つは、この時、はじめて異腹の兄が二人あることを知った故(せい)もあった。二人とも正妻の子であったが、父の道薫は生きているうち、一度もそのことを彼に話したことはなかった。その分け隔てのある父の心にも憎しみが湧いてきた。
その翌年。又兵衛は、京都北野の秀吉の大茶会を見物した。見物したといっていい。彼には少しも茶事に関心は無かった。それにこの茶会の大そうな派手さは、ただ十歳の彼に物珍しさだけを覚えさせた。
広い北野に数寄を趣向した茶湯小屋が八百あまりも建ちならんでいた。一番に秀吉、二番に利休、三番に宗久、四番に宗及の同じ小屋があり、公卿や大名衆がぞろぞろと右往左往していた。大きな樹の陰や、松原のあたりなどには、囲い傘を一本たてた下で茶をするものがあるかと思えは、担い茶屋に似せた者がある。又兵衛は、この漂うような色彩と、鈍い歌声のような騒音の中に佇んだ。
時たま、父の道薫の座敷に客として呼ばれてきた見知りの顔もあった。十徳を着た坊主頭が、一番彼に馴々しかった。それは利休かも知れなかったし、宗久かもしれなかった。父御が亡くなられて、お力落しであろう、というような意味の悔みを云った。子供に向ってではなく、ちゃんと武人に対するような挨拶だった。
又兵衛が、活して自分が武人にはなれないであろうと直感したのは、この時であった。奇妙なことに、受けた挨拶の扱いとは、うらはらな予感であった。父の荒木村重が道薫になった理由がらではなく、父の自分に向けた冷たい眼からの考え方であった。その眼を彼は世間に押し拡げて、やはり父との間にあった寒い風を感じていた。
ふと見ると、秀吉が萌黄の頭巾に唐織の小袖を着、ぼけ裏の白い紙子の胴服をつけ、真赤な帯の端を引摺って青い草地の上を歩いていた。たくさんな大名がそのあとに笑いながら続いていた。秋の柔らかい陽射しの中に、それはいくつもの点をあつめた色彩をきれいに感じただけで、彼にはうすらさむい秋の冷えしか心に無かった。
2
しかし、又兵衛のその時の直感にも拘らず、そのあと彼は武人の方向に歩いていた。
誰の推挙か分らなかった。多分、利休あたりが秀吉に云ったのかもしれなかった。彼は織田信雄(のぶかつ)の近習小姓役に取り立てられていた。彼と信雄との繋がりは少しも無い。あるとすれば父の荒木村重と信雄の父の信長との不幸な関係だけであった。信雄が父に叛いた人間の伜(せがれ)を召抱える義理はなかった。秀吉に押しつけられ、又兵衛を仕方なしに置いたという形であった。
信雄は、まだ秀吉を父の卑賤な家来としか考えていなかった。彼は秀吉の気色を損じて下野や伊予に貶(おと)された苦い経験から、止むなく秀吉の相朋衆として屈従していた。
常真と号して入道した信雄は、そこだけは信長に似ている長い顔に皺(しわ)を立て、ぶつぶつと秀吉の陰口を呟いた。聚楽第などから帰ったときは、一層に機嫌が悪い。陰鬱な眼を光らして、低い声で秀吉の悪口を云った。
又兵衛は、この主人から決して己れが待遇せられないことを悟った。好い眼を向けられたことは一度もないのである。理由は二重にあった。父同士の因縁と、秀吉側から持ち込まれた縁故だった。信雄は苛立っていたに違いない。又兵衛は、決して自分が武人になれぬであろう予感をこのときも改めて確かめた。虚しい風が肩を吹いた。
が、神経質なくせに、どこか鈍重な鷹揚さのある信雄は、秀吉が死んでからも、又兵衛を放逐するでもなかった。信雄には、そんな気の弱さと人の好さがあった。
無論、又兵衛に対する態度がよくなった訳では決してなかった。よくもならず、悪くもならず、そんな放心したような陰気な関係が何年となく続いた。
又兵衛は、考えようによっては、このやり切れない憂鬱を絵を描くことで逃げた。世は狩野派全盛で、信雄の邸にも華麗な屏風絵が沢山有った。又兵衛は誰に就いて習ったというではなく、眼についた好きな図柄を模した素人絵であった。
信雄は京の公卿と往来していた。信長の子として、又、一度は右大臣家であった彼は、何となくそうした貴族的な雰囲気の中に身を置いていた。
その雰囲気が又兵衛に移ったのかもしれない。彼は平安朝ころの歌書や古書に親しむことを覚えた。いや、雰囲気はただ彼の逃避の偶然の媒介であった。所詮は前途に望みを失った彼の自然な遁げ方であった。
世間には関ヶ原の合戦があり、家康は江戸に居ながらにして征夷大将軍の宣下を受けた。世が揺れながら変りつつあった。
織田常真動かず、又兵衛はそれ以上に跼(かがみ)みこんでいた。この頃は和書だけでなく、古い唐宋の書籍の世界まで踏み入っていた。己れから世の動きに離れた。彼の心の中で絶えず揺れつづけてきた武人からの脱落の予感は、もはや、石のような確信になっていた。
しかし、少禄だが、扶持(ふち)が彼の生活を小さな安易で支えていた。没入した絵も、書籍も、この偸安(とうあん)の上に乗っていた。のみならず、妻を娶(めと)り、子をもうけたことも、不安定で懶惰(らんだ)な生活の流れの一つと云えないこともなかった。
彼は見えない前途の不安に怯(おび)えていた。
あるとき、未知の男が又兵衛を訪ねてきた。父の村重の旧臣で重郷(しげさと)という者であると名乗った。亡主の遺子を懐かしんで来たといったが、実際、そのような感情が眼に溢れていた。何をしているか、と又兵衛がきくと、狩野松栄(しょうえい)の門に入って画を描いていると重郷は答えた。その方では狩野内膳と云っているともつけ加えた。
「絵をかいているのか?」
又兵衛は内膳の顔を見つめた。
慶長十一年に奉納した「豊国神社祭礼図屏風」の筆者として知られている狩野内膳と又兵衛との師承関係が出来たのは、このようなことからであった。内膳からは狩野派の画というよりも、画の手法の基本を習ったといった方が適切である。内膳は親切に教えてくれた。あなたには見どころがあるとも云った。それが満更、世辞とも思えない。又兵衛は初めて充実感のようなものが湧いてきた。
この頃、彼と信雄との間は相変らず冷却した関係をつづけていた。信雄自身は、家康と秀頼との険悪な情勢の中にあって動揺していた。彼は昔の秀吉に対する遺恨を忘れていない。あわよくば家康に取り入って、身を立てる機会を企んでいた。そんなところは若いころの信雄がそっくり老いた常真入道の顔に出ていた。
又兵衛は、そのような信雄の傍に居るのが、これ以上堪えられなくなった。前途に望みがなく、不安定な主従関係に落着きがなかった。武人としての観念は、疾(と)うに彼から落剥(らくはく)していた。
又兵衛は信雄の許から去った。信雄も制めなかった。淀んで腐臭の臭うような長い歳月の二人の関係は切れた。
扶持を離れてみると、困難な生活が彼を襲った。妻子もある。まだ一人前の画家として立つ自信も無かった。
彼は本願寺に寄食した。教如は父の顕如の因縁から又兵衛によかった。又兵衛は止むなくその好意に頼った。が、妻子を抱えては、気兼の多い苦労な生活であった。画を描くことが刹那的にそれを忘れさせた。
3
乏しい記録では、岩佐又兵衛の師承関係はさだかでない。狩野内膳に学んだというのは確かのようだが、その他の諸流派は誰に就いたか、ついぞ文字の上に出ていない。
大和絵を土佐光信(みつのぶ)に学んだという説は、恐らく虚妄であろう。雲谷等顔(うんこくとうがん)に至っては無論のことである。土佐派のあまり名の聞えない画師、雲谷派の無名の画家が又兵衛の師匠であったと想像した方が妥当のようである。そのことは又兵衛を流派に束縛しなかった。高名な師に就くほど画流の呪縛に陥り易いものだ。
その画家たちは、本願寺に何らかの交渉をもっていた。この富裕な寺院は、そういう連中の往来の場所になっていた。
又兵衛は土佐派の大和絵の華麗な手法にも惹(ひ)かれ、雲谷派の水墨にも惹かれた。高名な画師に縛られなかった自由さがそこにあったが、本質は、彼が本職でなく素人であった故(せい)である。二十九歳ではじめて画技を習った彼は、根はやはり武人の門から出た dilettante であった。
本願寺は画師だけでなく、文人も出入りし、堂上公卿とも交渉があった。又兵衛と三条昭美(あきとみ)の関係もこのようにして起った。この空気は、又兵衛が平安朝の古典に入るにはもっと容易であった。その上、このような貴族の蔵している足利期の水墨画は、彼のかけ換えのない粉本となった。彼の凝視は、土佐、狩野、足利水墨の煩瑣(はんさ)な密林の奥に分け入った。
画技の自信を身につけると、彼の眼は風俗画にも向いた。風俗画は画の正統から外れたものかもしれない。しかし、大ていの画家は気詰りな画から脱(のが)れて、風俗画の気安さに手を出した。それは落款をつけた行儀正しい画流からのひそかな息抜きであった。秘密めいた自由な充足感がそこにあった。気づかないが、それは正統な絵画――極(き)められた主題に対しての抵抗になっていた。高名な画師たちによっての無署名の風俗画がこのころに多く出た。
時代は見違えるように泰平に落ちついていた。秀吉が植えつけた華美な気風が、世間に根をひろげて花を咲かせていた。空気までが甘いのである。
茶湯は相変らず流行した。幸若舞(こうわかまい)や猿楽は依然として旺(さか)んであったが、わけてお国歌舞伎は京で大評判をとった。五条の東の橋詰に舞台を構えての華やかな興行は京中がどよめいて見物した。隆達節(りゅうたつぶし)や浄瑠璃(じょうるり)が起り、三味線が流行(はや)った。男の頭は鬢(びん)をせまくして月代(さかやき)を大きく剃り、若い者は前髪を薄く残して中剃をした。着物は広袖で、大きな模様を色で染め、帯は大幅のをしめた。祭礼、行楽はことに盛大だった。
画家たちの眼が、このような風俗に意欲あり気にそそぐ。又兵衛が描いたのは屏風仕立にした二十四図の「職人尽図」であった。獅子舞と歌比丘(うたびく)、筆師と硯師(すずりし)、寒念仏、箙師(えびらし)と灸鍼師(きゅうしんし)、笛吹く者と鉦(かね)たたく者、猿廻しと木挽(こびき)、針師、傘師などの姿である。
が、その一方で、彼は水墨で「布袋(ほてい)図」を描いた。「職人尽図」とは別人のように変った描法だった。宋元の墨画に倣(なら)った足利の道釈画ではないかと見紛うばかりである。これには自信があって、名前の勝以(かつもち)の月印を捺(お)した。
まだ又兵衛の己れの絵は定まらない。狩野でも土佐でもなく、さりとて雲谷様の水墨に定着するでもなかった。それぞれの絵の間を彼は浮遊していた。
そのことを証明するように、彼はこのころ、二人の異質な画人と交際した。一人は俵屋宗達という京の唐織の商家の子であり、一人は長谷川等伯という能登七尾の染工だった。二人の画風が全く異なったように、気質もまるで反対だった。宗達はいかにも京の商人のようにおとなしく、絵は装飾風に巧緻細密であった。等伯は鼻柱の強い自信家で、自ら雪舟の五世などと云い触らしていた。画は豪放で、筆勢が剰(あま)って紙を継がなければならなかった。
又兵衛は、この二人のどちらにも惹かれていた。画だけでなく、その性格も好きであった。二人の異質なものをそのまま彼はうけ取っていた。
それに懐疑を感じぬでもなかった。一体、己れの画はどこに辿りつくのだ。その不安である。どの絵にも密着しない危惧であった。時々、穴のような虚しさが不意に襲った。それを消すためには、画技の努力に突入せねばならなかった。
又兵衛が三十九の年齢(とし)になるまで、世間的にはかなりの変動があった。まず江戸に去った長谷川等伯が七十二の高齢で客死した。これが彼にとって一番身近な事件であった。次には大坂冬の陣と夏の陣が起り、豊臣家が滅亡した。大そうな騒動にかかわらず、遠いことのように聞えたが、その中では旧主の信雄が秀頼を裏切って家康を頼ったという事実に興味がなくはなかった。
しかし、彼の生活は相変らず苦しかった。妻子を抱えて本願寺に寄食していたのでは楽になる筈はなかった。まだ四十にならぬのに、彼の頬はこけ、皺が顔を匍(は)った。画をかいて多少の画料は入ったが、とるに足りなかった。
元和二年の夏のことであった。福井の興宗寺の僧で心願(しんがん)という者が京に上ってきて本願寺に仮寓(かぐう)した。彼は役僧となったので、その執務のためだった。
心願は、又兵衛の画を見てひどく心を動かしたらしかった。話をしてもかなり古典の教養がある。荒木村重の遺子であることにも興味をもったのであろう。
「越前に来なされぬか。田舎だが、気儘に画など描きなされ」
とすすめた。しかし、案外、又兵衛の本願寺内での気の毒な生活に同情したのかもしれなかった。
すでに中年の峠を越していた又兵衛は、京で画師として身を立てる望みは絶っていた。生活も疲れた。田舎暮しの悠長さが彼の心を誘った。
又兵衛は、任期の終った心願に伴われ、妻子を連れて北陸路に旅立った。もう京にはかえられぬものと覚悟を決めたのだが、春だというのに、琵琶湖の北、余吾湖(よごのうみ)を過ぎるころから雪があるのを見て心細かった。
この年、狩野内膳が死んだ報せを彼はうけた。
4
北ノ庄に下って心願の興宗寺に身を寄せたが、又兵衛にとって格別心の豊かな生活ではなかった。寄食の客であることに変りはない。暗鬱な厚い雲が垂れ下る冬の空が、彼の心を凍らせた。永い暗い冬が、そのまま彼の気持を象徴していた。
本願寺に居るときは、せめて貴族や文人との交際があった。しかし、この田舎に引込んでしまっては、その刺戟的な空気の欠片(かけら)も無かった。ものを云い合う人間といえば、近所の鈍重な顔つきをした百姓ばかりであった。又兵衛は寺の一部屋に屈(かが)み込んで坐り、滅多に外に出ることもなかった。
又兵衛は、終日閉じこもって画を描いた。画を描くよりほかに仕方のない生活であった。九年というものの間がそうであった。
狩野風の画を描き、唐宋の画に分け入ったが、又兵衛が最後まで強く惹かれたのは大和絵だった。これだけが滓(おり)のように彼の心に残った。累積した平安期の知識が、いつの間にかそれに接着させたのである。やはり土佐派が自分の心に一番適(かな)うように思われた。
薄明のような自信がようやく又兵衛にも見えてきた。
――おれの画もやっとものになるかな。
永い永い年月の末である。凍(い)てた土の底にぬくもりを感じた瞬間に似ていた。これに気がついた時は、彼の画は土佐風を基盤にして狩野派の技法や漢画の筆法が乗っていた。これまで異質なものがばらばらに寄り合っていたが、今は、彼の創意がなまなものを殺して己れのものになり切っていた。それぞれの流派の一つ一つを彼ははじめて組み伏せ得たと思った。すでに模倣のかげは無かった。筆致は、雲谷や等伯の生な荒々しいものではなく、強さの中にも柔軟な、とぼけた軽妙さが出ていた。人物の顔も、平安朝絵巻の模本から脱れて、豊頬(ほうきょう)に長い顎(あご)を添えて創作した。
画技に自信を得た喜びはあったが、生活は北国の冬のように幽暗であることに少しの変りもなかった。女房を喪(うしな)って彼は鰥夫(やもめ)となった。不自由が募った。顔には白髪が多く、顔に刻んだ皺は深くなっていた。
が、寛永元年になって、はじめて又兵衛に運らしいものが顔を向けた。この年、城主松平忠直が貶流(へんる)され、嫡子忠昌が当主となった。北ノ庄は福井と改まった。この代替りとなって、心願が又兵衛を絵師として忠昌に推挙したのであった。心願にしてみれば、己れが京から連れてきた又兵衛に責任があったのであろう。また、寺に置いた彼の気の毒な生活が正視に堪えなかった。その画には心願はもとより感心していた。
忠昌は心願に、お前がそれほどに云うなら描かせて見るがよい、と云った。心願は喜んで又兵衛にそれを告げた。
又兵衛は十数日を制作にかかった。出来上がりに自信があった。これで駄目なら自分に運がないものと覚悟していた。
忠昌は見て、意外な顔をして、これほどの者が領地に居るとは知らなんだ、と云った。心願は世話した甲斐を喜んだ。
又兵衛は忠昌の庇護をうけて、ようやくに生活が安定した。この生活の安定が、精神の活動にどれほど快い鞭であるかを又兵衛は知った。長く閉された雲が動き、明るい日射しを彼は感じた。彼は後妻を迎え、初めて幸福感らしいものを味わった。
忠昌に知られてから、彼は小さな制作をつづけていたが、寛永三年から四年にかけて、人麿と貫之の図を水墨で描いた。それから、伊勢物語や官女観菊や霊照女(れいしょうじょ)や政黄牛(せいおうぎゅう)などを画題とした十二図の彩色屏風絵を仕上げた。「人麿図」などの水墨は、彼が長年追究した漢画の手法を存分に揮(ふる)ったものだった。しかし彩色十二枚の屏風絵は、土佐派に漢画派を融合させた彼の独特な創意の描法であった。この二つの画風は別人が描いたように異質に見えた。彩色の屏風絵の人物は、和漢の歴史の上に材をとった。絵として総合した構図に、両国の人物を対比して置いたのも彼の工夫であった。平安と唐宋の古書に没入し、その知識を貯蔵した彼は、主題も自然にそのようになった。いや、そうしたくて堪らない衝動から出ていた。
忠昌はこれらの絵の出来を大いに賞めた。和漢の人物を一つに按配(あんばい)したのは大そう面白いと云った。他人の批評が多くの芸術家の方向を決定することがある。忠昌の一句の評言は、又兵衛に自信をつけて、その様式を密着させた。
例えば、その後、寛永十一年に六曲小屏風用に十二枚を書いたが、これも和漢の人物の相対であった。大黒、恵比寿、寿老、布袋などに仲国(なかくに)と小督(おごう)が対照してある。月光に読書する支那の若者に、公卿と三羽の鶴を一方に描き、竹林七賢人に三笠山が按配してあるという風である。それがいつか又兵衛の画風の顕(あら)わな特徴となった。
忠昌は、官女観菊や霊照女の十二図を珍重していたが、後にこれを家士の金谷某に功ありとして賜った。
又兵衛は和漢の人物を描いたが、やはり和朝の人物の描き方がすぐれていた。そこに大和絵に多く惹かれていた彼の画技の傾斜があった。
ところが、福井在住二十年目に、又兵衛に突然な身辺の異変が起った。
5
それは異変といっても差支えなかった。俄(にわか)に江戸の幕府から出府を命ぜられたのである。理由は武州川越の東照宮喜多院が先年焼失したので、その再建に当り、拝殿に掲げる三十六歌仙図を揮毫(きごう)せよというにあった。
これはどのような事情からか彼自身にもさだかには分らなかった。まさに自分の画が江戸まで聴えたとも思えなかった。
あとで分ったことだが、江戸の大奥に荒木の局(つぼね)というのがいて、かなりの地位にいた。この女中が実は又兵衛の異腹の兄、つまり村重の正妻の子の荒木村常(むらつね)の養母であった。荒木の局は、又兵衛の存在を知って春日局に頼みこみ、この一代の大奥の勢力家が東照宮再建の奉行堀田正盛を動かしたらしかった。春日局は、正盛の生母である。
が、それだけではなかった。東照宮はいうまでもなく天海僧正の勧請(かんじょう)であるが、天海と松平忠昌とは特別な親しい関係にあった。忠昌は家康の曾孫であるから、天海も疎略には扱えなかった。忠昌は又兵衛のことを或るとき自慢して、その画も天海に見せた。天海がそれに感服して又兵衛を江戸に呼ぶ気になったことも重要な理由であった。
だが、又兵衛は、この折角の機会も迷惑にうけとった。若いときなら、無論のこと喜んで出府したであろう。しかし、彼はもう六十になっていた。功名心も野心も疾(と)うに洗い流されていた。機会の来かたがあまりに遅すぎたといえる。辛酸の風雪に晒されて、髪は真白になり、皺の寄った顔は老醜が漂いはじめていた。不惑をこえて作った二度目の家庭も捨て難かった。
江戸からの召喚は、しかし絶対だった。応じないとすれば、藩主の忠昌にも迷惑がかかりそうであった。彼は己れの腕の自負をただ一つの恃(たの)みとして重い腰をあげねばならなかった。
江戸に出たら、果たしていつ帰れるものか分らなかった。それほど大きな仕事なのである。己れの年齢を思うと、生きて妻子の顔を見られるかどうか分らない。
又兵衛はまだ雪が解けぬ寛永十四年二月の半ば、梅も咲かぬうちに福井を出立した。妻子は城下の外れまで来て見送った、子の顔が冷たい風の中に赭(あか)いのがいつまでも彼の眼に残った。
越前国湯尾峠を越えたときは、寒返る山風と大雪に一方ならぬ難儀をした。この道は二十年前、興宗寺の心願に伴われて京から来た道であった。今は、それを逆に還るのである。その心願も五年前に入寂していた。
峠を越えると又兵衛は一部落について小家に入り、柴や萱で焚火をたかせ、粟飯をたべ、瓢(ひさご)の酒などのんで人心地をつけた。それから夜明けて行くと敦賀(つるが)の浦についた。浜には海士(あま)の塩やく煙が立ち、北の海が茫漠とひろがっている。ここに知り人があって一日逗留し、磯辺の貝など拾ってのどかに遊んだ。昨日の峠越えの難儀とは嘘のように変っていた。福井の方角を見ると灰色の思い密雲に閉されていた。
敦賀を立ち、琵琶湖をすぎて大津に泊り、あくる日、逢坂(おうさか)山を越えると、なつかしい京が見えた。これが見たいばかりに、東下の途中を彼は廻り道をして来たのであった。幼時より三十九歳まで馴染んだ京都は、忘れ得ない彼の故郷であった。二十年、暗鬱な福井の田舎で夢に見たことも一再でなかった。彼は泪(なみだ)をこぼした。
「古郷といひ、都といひ、一かたならずうれしかりし。いにしへには繁昌のよそひ誠に帝土ぞ高かりけり。みやこは二条油小路にてゆかりの家に人訪ぬれば、年久敷(ひさしく)してあひ見しとて、主のさまざまにもてなして、こよなき心の色を見する程に、十日あまり逗留し侍(はべ)り、むかし見しかたこひしく、そのびかねて方々あるきし。まづ祗園円山雙林寺竜山清水ここかしこに詣でて日をくらしつ」
と彼は筆をなめながら日記につけた。
京の生活は苦労だったが、既往の苦痛は剥脱(はくだつ)して、なつかしさだけが残った。昔みた土地が慕わしく、方々を歩き廻った。土地の様子にも変化があったが、彼自身も老爺(ろうや)になっていた。
北野のあたりまで歩いて来たときは、足が萎(な)えるほど立ちつくした。大茶会の様子が昨日のことのようであった。子供のときに見た秀吉の派手な風体が、松林の間からいまに出て来そうな幻覚さえした。
そういえば、あのとき茶坊主が近寄ってきて、彼にひどく丁寧な挨拶をしたものだった。十歳の少年に向ってではなく、一人前の武人に対しての礼儀のある口吻(くちぶり)であった。その瞬間、彼は武人になれぬことを予感したものだった。
その予感は、五十年を隔てた現在、本当だったと応えに来たと云おう。武人には、まさに成れなかった。とうにそれから転げ落ちた。惨めな生活に何十年となく苛(いじ)められてきた。今も、計り知り難い老いさらばえた身を、行方も遠々しい江戸に運ぶ途中である。
空疎な長々しい人生がまだ続いている。又兵衛は茫乎(ぼうこ)として北野の松林の中に立ちつくした。
「世のおとろへのかなしさに、ひなの住ひに年を経て、はたとせ余り越前といふ国へ下り、いやしのしづの交り、みやこの事を忘れはてて、老いくくまれるよはひの程――」
と彼は日記に書きつけた。
岩佐又兵衛、というと、いまだに伝説中の人物だとおもっている人が少なくない。岩佐というのが、この画家の正式の姓であることが確認されたのは、比較的に新しいことで、それまでは、浮世又平だの、吃の又平だの、大津又平だのというニックネームでもっぱら呼ばれていて、なかば伝説的な存在として扱われてきた。
しかし『浮世絵類考』の記述には、はっきりと「岩佐又兵衛」とあって、かれが、荒木摂津守の子で、二歳のとき、父が織田信長にそむいて自殺した後、乳母の手によって、本願寺の子院に隠れて育てられ、母方の氏を借りて岩佐と名乗るようになり、成人後は、織田信雄に仕えて、絵画にて一家を成し、当時の風俗をよく写したので、世人は浮世又兵衛と言ったが、又平というのは誤りであると、その経歴が伝えられている。
この『浮世絵類考』の山東京伝追考には、また、又兵衛の絵画上の師として、父の家臣で姓氏不詳の重郷といい、俗称兵之衛、後に内膳と改め一翁と号した、狩野松栄の門人であった人物が挙げられ、その後にかれは土佐光信の画風に倣って一家をなしたのであり、世に、光信の門人というのは誤りであると強調されている。
ところが斎藤月岑の補記を見ると、又兵衛は光信の門下であったけれど、故有りて勘気を蒙り、流浪して絵を描き渡世したために、今に至るまで又兵衛の絵は、土佐家では鑑定せず、添手紙だけをしてその代わりをしている、とあって、別の見方がされている。
又兵衛が、土佐家に直接学んだかどうかは疑わしいが、かれが画家となってから、生活を送ったのが、意外にも、北陸の越前であったことが、明治25年に、又兵衛の遠孫と称する岩佐平造氏によって、岩佐家系が発表されて以来、除々に明らかになってきた。そして同39年に、川越東照宮に所蔵されている三十六歌仙額が、国宝に指定されるに及んで、ようやくこのナゾの画家の実体が、判然としてきた。この額の裏面には「寛永拾七庚申年六月七日、絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」と、明記されていて、かれがやはり、土佐派に「関係があったこと、姓名を岩佐又兵衛尉勝以といったことが、ようやくにして確認されたわけである。
これが明らかになるとともに、以前から、勝以の落款のあるものとして問題になっていた作品の作者が、又兵衛であることに、おのずから確定し、人麿像や貫之像がかれに帰属され、また、これらに「碧勝宮図」の方印のあるところから、金谷屏風、そして同じ画風の樽屋屏風が、同一作者の作品ということになり、さらに、それらに「勝以」の丸印があるところから、この印のあるものが、かれの真筆と認められ、また、それらに「道蘊」という小さな角印があって、これが別号であることも判明し、又兵衛の作品群は、にわかに広範囲に拡がっていった。
そのすべてにわたって仔細に見ると、この画家の様式は、かなり多岐にわたっていて、土佐派の流れをひくものの、それに拘束されてはいないことが明白になる。
大勝11年12月の『国華』に発表された藤懸静也の「岩佐又兵衛の画風」によると、それはおよそ、五つに分類される。
(一)土佐派的なもの(歌仙額)
(二)水墨で一気に描いた草体(貫之像)
(三)和漢融合体(金谷屏風、樽屋屏風)
(四)浮世絵的なもの(乃木神社、国立博物館蔵)
(五)自画像
昭和5年4月、帝室博物館で開催された浮世絵展覧会には、又兵衛の作品として20点が出品されたが、これに、歌仙額の加わったものが、当時におけるかれの作品の全貌であった。ようやくにして、多くのナゾが解け、実体が明らかになったとはいえ、これだけの作品の作者ということでは、たとえ、国宝に指定された歌仙額の作者であるとはいえ、近世美術史上、第一級にランクされる画家とはいえず、せいぜい傍系の存在にとどまったことだろう。
ところが、昭和3年12月の中頃、驚天動地の新発見がおこなわれたのである。
この月の14日、夏目漱石門下の松岡譲の留守宅へ、親友の第一書房社長、長谷川巳之吉が訪ねてきた。松岡の帰宅後間もなく、そそくさとまた訪ねてきて、興奮した面持で、一束の八ツ切写真を見せる。
昨夜、神田の一誠堂に立寄ったところ、これを見せられて、実は、ここに写っている、筆者は岩佐又兵衛作という、12巻ものの極彩色絵巻が、ドイツの美術館に買い取られようとしているという。所有者は名古屋の人だが、作品は京都の、ある浮世絵商の倉庫にあるという。わずか10枚そこそこの写真であったけれど、かれの気持を強く打つものがあったので、一週間の猶予を頼み、自分が2万5千円の金をつくり、この作品を国内にとどめようと決意したとのことだった。
松岡もそれに賛成したものの、時は師走であり、二人の奔走にもかかわらず、金策は困難で、最後には、万策尽きて長谷川が、新築したばかりの家屋を抵当に、金に換えられるものは、浮世絵はもちろんのこと、電話まで売り払って、辛うじて作品を押えることができた。それが、各巻の長さが12.5メートルはあり、全巻あわせると、150メートルにはなろうという「山中常盤絵巻」である。
この新発見は、ただちに、年末の朝日新聞に写真入りで大々的に報じられると、専門家や愛好家の関心の的となり、その真偽が論じられたが、一つの発見は、他の未知のものの発見を連鎖的にひきおこす。
大橋新太郎所蔵の、同じく12巻の「上瑠璃物語」、帝室の御物である15巻の「小栗絵巻」、村井龍平蔵の「堀江物語」、上野精一蔵の「三十六歌仙画帖」などがそれで、それら無落款の作品群に、同一の画蹟が認められて、又兵衛の制作は、新しい領域へと拡げられたわけである。
これらの作品を、又兵衛と認定するについては、専門家の間にも反対がなくはなかったが、多くの研究家が賛意をあらわし、現在では、その線で一致している。そして、それらがかれの作品だということになると、又兵衛観は、根本的に変わらなければならなくなってくる。
「山中常盤」は、その翌年10月に、京都博物館で披露されたが、正式に公開されたのは昭和9年5月だった。10日に大坂三越で、次いで、23日に東京三越で、はじめて人々の目にふれたのだが、そのときの印象は衝撃的だった。言うまでもなく、これは牛若伝説を主題として、室町時代に作られたお伽草子系の物語に基づいている。慶長から、元和、寛永のころにかけて、四条河原の小屋では、お伽草子を劇化したあやつり浄瑠璃が上演されて、非常な人気を集めていたが、又兵衛の作品は、この古浄瑠璃の正本を詞書に用いて作られているので、これをふくむ一群の絵巻は古浄瑠璃絵巻と呼ぶことができよう。
古浄瑠璃正本は、お伽草子の性格を反映して、本来、夢幻的な要素のつよいものであるが、さすがに又兵衛は、江戸初期の画家だけあって、それに強烈な現実味を盛りこみ、独自のものにしている。
近松門左衛門は、又兵衛の死後に生まれた作家であるが、かれの38歳のときの作品「十二段双紙」は、奇しくも又兵衛の絵巻と同一の主題に基いていて、その前半が「山中常盤」であり、後半が、「上瑠璃姫」の物語になっている。又兵衛の絵巻は、むしろこの近松の雰囲気に近いといえる。
物語は、ひそかに平家攻略をめざして奥州へ下った牛若の行方を案じて、侍女をつれて旅に出る母の、常盤御前の身の上におこる悲劇である。美濃国山中の宿で、常盤が病に倒れると、6人の盗賊が持物に目をつけて、夜半に押し入り、彼女と侍女の着衣をはいで、刺し殺してしまう。
翌日、母の身を案じて上京する牛若が、偶然、山中の宿にとまると、母が夢枕にあらわてれ、仇討を乞う。宿の主人から一部始終を聞いた牛若は、大名一行が泊っているように見せかけて、盗賊をおびき寄せ、皆殺にし、死体を淵に沈めさせて東へ下り、大軍を率いて上洛する途中、山中において、常盤の墓に供養する、というのがそのあらましである。
絵巻全体は、中世のものとは違い、人物といい、建物といい、あらゆる部分が生々しい原色と金銀によって彩色され、それぞれが形態的にも大きく力強く表現されているのが、特徴である。
その特徴のもっともよく示されているのが常盤殺しの場面で、7回から成る執拗な繰り返しの描写によって、常磐が着衣をはぎとられ、泣き叫び、刺され、肌の色が徐々に変化していく様が克明に描かれ、その変化に応じて、庭の松が擬人的に激しい表情をみせる。
仇討の場面も強烈である。不意に盗賊共に切りかかる牛若が、片端から首を刎ね、胴を真二つにし、また真向幹(から)竹割りにするその超人的活躍のすばらしさもさることながら、切られた人体の描写そのものに、画家が異常な執念を示していることが注目される。
前景といい、この場面といい、室町期の仏教臭の強い絵巻には見られなかった、人間味と現実味の強烈な徹底した描写であり、古い時代の終焉、すなわちデカダンスの雰囲気が濃厚に立ちこめていて、その古格のある描写を除けば、そこに描かれている酸鼻を極めた情景は、幕末版画そっくりと言いたいところがある。
それはさておき、この「山中常盤」に代表される古浄瑠璃絵巻の一群が、又兵衛の作品であり、しかも、そのもっとも力のこもった作品だということになると、かれは単に、土佐派の末流の画家ではなく、土佐派をはじめとする当時の諸派のいずれからも自由に、新しい時代に特有の画風を創始した、最初の画家ということになり、当然、評価は大きく変わってくる。事実、かれは、そのような位置を占めるべき画家だった。
ところが、歌仙額の裏書が発見されるまでは、かれはほとんど伝説的な存在であり、また、古浄瑠璃絵巻が発見される昭和初年までは、かれの作品の全体が判然としなかったために、その美術史的評価は、異例なまでにおくれたのである。
それでは、又兵衛は、これらの作品を、どのような境涯で制作したのだろうか。
かれが画家となってから、なぜか京都を離れて、越前北之庄へおもむいたことは、すでに述べたが、かれはそこで、徳川家康の孫である松平忠直につかえ、忠直が乱行のために豊後へ配流された後は、その甥の忠昌につかえたが、現在、福井市の西方の漁村にある法雲寺に残されている、又兵衛の代筆になる目安書(請願書)を見ると、右筆(ゆうひつ)役のようなものをつとめたとおもわれる。
しかし、寛永14年に、将軍家筋の用命によって、福井に妻子を残し、京都を経て江戸に出発した点から見て、すでに、越前滞留の20年間に、かれは相当の仕事をしていたのではなかろうか。このとき、かれは、もう60歳にもなっていた。この旅の折に『廻国道中之記』を書きしるし、そのなかに、四条河原で、あやつり浄瑠璃や、さまざまの見世物に人々が群がっている記事があるところを見ると、あるいは「古浄瑠璃絵巻」の仕事は、江戸に来てからのものなのだろうか。『奇想の系譜』の著者辻惟雄の調べてところでは、「山中常盤」と「上瑠璃」の二種は、ともに旧津山藩松平家に伝わり、大正14年に美術倶楽部で売立てられたということだが、松岡譲は、もともと、越前松平家に伝えられたと述べている。もし後者だとすると、越前で制作されたことになるが、その点は定かではない。もっとも、津山藩松平家は、前記の忠直の追放後、その子光長が越後高田に封じられたのち、津山に移ったものであるから、越前で制作された可能性は大きいとおもわれる。
辻惟雄は、又兵衛工房は当初、京都にあったかも知れないが、福井在住時代には、やはり福井にあっただろう、と推測している。
いずれにせよ、又兵衛の全作品をひろく見渡すと、多くの異なった様式が見られるところから、大工房の存在を想定できるし、地方にあって、それだけの実力があったからこそ後には将軍家筋に召されることになり、寛永15年から17年にかけては、将軍家光の娘が尾張家へ降嫁する際の調度品の制作と、川越東照宮の歌仙額の制作に没頭している。
周知のように、徳川家には、狩野派という御用絵師があったにもかかわらず、この例外的な地方画家の起用は、なにを意味しているのだろうか。わたしが又兵衛について考えるとき、もっとも問題にしたいのは、この点であるが、かれの高貴な生まれが、こうしたことを可能にしたのだろうか。それにしても、それは御用絵師の好まぬところだったろう。大工房をもち、一派を構えるだけの実力をもちながら、かれの事蹟が伝えられず、もっぱら伝説的人物と化したのは、かれが御用絵師によって抹殺されたからではなかろうか。
その辺の事情は皆目不明だが、60歳のときから13年間、ずっと江戸に住みついて活躍し、又兵衛は、慶安3年に、その数奇な生涯を終えた。
昭和三年(1928)十二月十四日、麹町三番町にあった第一書房の社長、長谷川巳之吉が、夏目漱石の娘婿の松岡譲宅を訪れた。が、松岡は不在だったのでいったんは帰った。この頃長谷川は刊行した『近代劇全集』が売れずに困っていたので、帰宅した松岡はそのことで相談に来たものと思い、待っていると、間もなく再び長谷川がやってきた。興奮で手がふるえている。「これなんです」。彼が差し出したのは、一束の八切りの写真だった。
昨夜、彼が神田神保町の一誠堂に立ち寄ったところ見せられたものだという。主人が言うには、この写真の絵巻物十二巻がドイツの美術館に買い取られそうだとのことだった。作者は岩佐又兵衛だということである。
写真で見た限りであるが、非常な傑作であり、彼は忽ちそのとりこになった。なんとしても日本にとどめておきたいというのである。持主は名古屋の人で、品物は京都の美術商の許にあり、一日も早く代金の二万五千円を支払わなければ、ドイツへ流出してしまうのは目に見えている。
先立つものは金である。年末でもあり、金策は困難である。考えた末、やむなく新築したばかりの自宅を抵当にいれ、それでも足りずに金に換えられるものは電話まで売り払って遮二無二この大絵巻を買い取ってしまった。無落款の作品にこれだけの大金を投じた長谷川の蛮勇はたいしたものだ。
「山中常盤絵巻」は、こうして日本にとどめ置かれ、初めて世間に紹介されて一大センセーションを巻き起こした。明治以来、繰り返されてきた又兵衛論争が、これを機に蒸し返され、この作品を又兵衛作と認めるかどうかで、研究者の意見は二つに分かれた。
それが呼び水となって「堀江物語」(現MOA美術館蔵)など、同類の絵巻物の存在がいくつも知られるようになり、それらに共通の主題から「上瑠璃絵巻」と称された。すべて無落款であるが、まぎれもない卓抜な桃山・江戸初期の大画家が思い起こされ、それを又兵衛その人に、あるいはその人に近付けることができるかどうかで、議論が白熱した。
この作品は、昭和四年十月に京都博物館で公開され、翌五年四月には東京の帝室博物館の「浮世絵展覧会」でも展観された。以後、長谷川は八方手を尽くして又兵衛の作品を入手し、昭和九年の五月一日から二十三日まで、日本橋三越で「岩佐又兵衛展覧会」を開催したときには、この「山中常磐」をはじめとして、十四種の作品が陳列された。驚くべき情熱のかけかたである。
その成果でもあろうが、以来、一群の上瑠璃絵巻は、次第に又兵衛自身の作品であるろ認める人が増加してきており、現在では、少なくとも又兵衛工房の作品として認められるところまできている。
確かに、その多彩で緻密に徹した、特異な画法を目にするとき、そこに又兵衛の作品のいくつかが重なり、この人以外の画家を想定することはむしろ不自然になってしまう。
このような問題をふくむ重要な作品が、一人の熱愛者の努力で日本に残されたことの意義は大きい。もしそうでなかったならば、今日に至る又兵衛評価は、随分違ったものになっただろう。
この一点の来歴はかなり知られている。福井藩主であった松平忠直が越前から追放された後、その子の光長は越後の高田に移され、さらに作州津山に転封されてしまうが、その松平家に代々伝わったものである。又兵衛は京都から越前に移り住んで福井藩に仕えたことが知られているので、これはその時期に描かれ、松平忠直の所蔵となったものであろう。
大正末期に松平家が没落した際、その所蔵品は一切合財、大正十四年五月十一日に東京美術倶楽部で売立てられた。そのなかにこれも含まれてはいたが落札された形跡はなく、無落款ということもあって、注目されることもなく過ぎてしまった。
すべては、昭和三年の歳末に始まったのであった。これを実見した人は作者が誰であるかという以前に、その鮮烈極まる表現のなかに、今日の言葉でいうマニエリストの一先駆例をまざまざと見て、驚嘆したはずである。
主題は古浄瑠璃に基づいて、牛若丸と浄瑠璃姫の愛の物語を描いたもので、艶麗な作風を示している。近世風俗画中の佳品であるといってもよいであろう。因みに、音曲の浄瑠璃という名称は、この浄瑠璃姫の奏でる管弦の音から来ている。昔は上瑠璃と表記したことを付け加えておく。
この作品は、その後世界救世教の所蔵となり、現在のMOA美術館におさめられているが、残念なことに滅多に公開されなかった。画集も、前述の長谷川巳之助が制作したものがあるきりだったが、昭和五十二年、やっと新しい完全な形のものが京都書院から刊行されるに至った。
待望の一群の絵巻を四十三年ぶりで初めて公開する展覧会は、昭和五十二年についにMOA美術館において実現した。なかでも、「山中常盤」の迫力は鮮烈なものがあった。
又兵衛の遺作を広く見渡す試みも、引き続いて、昭和五十九年に福井県立美術館でおこなわれた。こうして今、長らく実体の知れなかったこの不世出の画家の像が作品の方から明らかになって来た。作品が確かめられない限り、画家は真の実在とはなりえない。
江戸の中期まで「浮世又平」として伝説化され、近年になって、「三十六歌仙絵額」の作者として確定し、徐々に評価の高まった又兵衛は、土佐派の流れをくむ画家から、今、ようやく、上瑠璃絵巻群の作者として確定し、画業の幅がとてつもなく拡がった。作品に即して見られる又兵衛は、近世絵画史上、驚くほどスケールの大きい画家である。
近年評価は高まる一方で、世上、又兵衛作とされて売買される作品は数多いが、子息勝重の手になる無落款有印のものを除くと、その大多数が一種の工房作か、模倣作であり、確たるものに滅多に出会わない。平成四年、福井県立美術館が購入した「ろう(广に龍)居士図」は、133.5×56センチの大きさの、最近珍しく確実視された作品で、価格は九千万円だった。
京都で成人した又兵衛
(前略)
又兵衛が都で父村重に会ったことがあるかはわからない。松本清張は『小説日本芸譚』(新潮社 1958)のなかで二人の対面をとりあげ、ほとんど無言に終わった気まずい情景を描写している。むろん空想だが、実際にあったしても、多分その通りだったろう。
又兵衛が最初誰についてどのような絵の手法を学んだか。それについての手がかりは少ない。山東京伝の『浮世絵類考追考』(享和二年<1802>)は、又兵衛の最初の師が狩野内膳重郷(1570−1616)であったという説を紹介している。内膳重郷は、慶長九年(1604)の秀吉の七回忌に、京町衆がこぞって参加した風流踊りの盛況を記録した「豊国祭礼図屏風」(豊国神社)の筆者として知られる人で、父は荒木村重の家臣だったというから、又兵衛が最初この人から絵の手ほどきを受けた可能性はある。一方かれは、後述の川越の仙波東照宮の「三十六歌仙扁額」(図2、3)の額裏の銘に<土佐光信末流>と記しているところから、土佐派に代表される大和絵の手法の継承者を自任していたこともうかがえる。桃山時代の後半にあたる慶長年間(1596−1615)は、狩野派の画家が大和絵のレパートリーである風俗画をさかんに手がけていた時期であった。
(後略)
江戸での又兵衛
又兵衛が江戸に呼ばれた理由について、『岩佐家譜』は、彼の福井での名声が、将軍家光の耳に達し、家光の娘千代姫が尾張徳川家の光友と結婚するに際しての「装具」を描くために呼び寄せた、と記している。婚儀は寛永十六年(1639)九月に執り行われた。名古屋の徳川美術館にある有名な「初音蒔絵調度」はこの婚礼の折のもので、又兵衛のデザインによると伝えられている。たしかに一流の絵師と漆工とが技を競い合った精巧なデザインと仕上げで、松や梅の樹木の枝を奇矯に折り曲げる癖など、又兵衛に似ていなくもないが、又兵衛の画風と直接結びつくとはいいにくい。又兵衛の仕事は、屏風絵や衝立絵、小袖の模様など、他にもいろいろあったろう。
旅の疲れを癒すまもなく、又兵衛はこの婚礼調度の仕事にとりかかったと思われる。それに加えて、寛永十五年正月、川越の仙波東照宮が消失し、再建される拝殿に、「三十六歌仙扁額」を奉納するという用命がかれに与えられ、この二つの仕事が重なって、寛永十五、六年は大変だったと思われる。再建東照宮の御大工頭を勤めた木原木工允(もくのじょう)が、又兵衛の仕事の遅さにじれて、早く歌仙の仕事に手をつけないと、貴殿の為にも悪いことになると、脅迫がましい催促の手紙を出している。そのせいか、「三十六歌仙扁額」の奉納は寛永十七年六月十七日の新社殿落成にどうにか間に合ったらしい。
(後略)
江戸在住時代の作品
(前略)
仙波東照宮の「三十六歌仙扁額」(図2、3)は、落款のないかわりに額裏の銘文によって、寛永十七年の作とわかるのが貴重だ。背地を金泥で固め、厚い彩色と細かな文様描きで人物を装ったこの作風は、いかにも謹直で硬い。だが豊頬長頤(ほうきょうちょうい)といわれるかれの人物画の特徴がよく現われており、形もしまってバランスが良い。この作風を淡彩に置き換えたら、さしずめ若宮八幡宮の「新古今三十六歌仙画冊」(図23、24)になるだろう。この作品は『新古今集』にもとづいて三十六歌仙を選んだ趣向が珍しいが、人物の表し方は仙波東照宮のそれと同じである。
(後略)
死後二人に分かれた又兵衛
(前略)
又兵衛の死後、その名声はどのように伝えられたろうか。
結論を先にいえば、又兵衛は二人に分かれてしまった。一人は謎多い伝説の画家<浮世又兵衛>、もう一人は忘れ去られた<岩佐又兵衛勝以>である。
(中略)
一方、江戸時代も終わりに近い天保五年(1834)、谷文晁が出した『本朝画纂』という本は、かれが見た日本絵画の絵入りメモだが、そのなかに勝以道薀 世に姓を知らず、慶安年間の人、大和絵を善くす、奇趣あり≠ニして、勝以印、道薀印を捺す作品を紹介している(図27)。文晁はこれが他ならぬ岩佐又兵衛とは気づかなかった。
事が解明に動いたのは、明治に入ってからである。明治十九年(1886)、川越仙波東照宮の宮司、山田衛屋は、拝殿に掛かる「三十六歌仙扁額」を模写した際、「寛永拾七庚辰年六月十七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」と朱漆で記入されているのを発見した。「又兵衛」と「勝以」とが初めてドッキングしたわけである。それでも当時の人は、勝以を勝重の子ではないかと疑ったりした。だが、この後、明治二十年代から三十年代始めにかけ、当時なお福井に残存していた又兵衛の末裔の二つの家から、これまでに紹介した『岩佐家譜』「又兵衛自画像」「自筆の手紙」「木原書状」などが好事家の手に入って『国華』などに紹介された。この後、大正から昭和の始めにかけて、勝以の署名のある作品、「碧勝宮圖」「勝以」「道薀」などの印を捺す作品が続々紹介されるに及んで、荒木村重の遺児である岩佐又兵衛勝以の実体が次第に明らかとなったのである。
しかし、分かったのは「勝以画」の筆者としての又兵衛の方でしかない。以前謎なのは、<浮世又兵衛>の正体である。
(後略)
随筆「岩佐又兵衛は、浮世絵の元祖として蘇るか」(国学院大学のホームページ)