小説・物語の中の川越(1)

鎌倉時代以前を扱った小説・物語です

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「義経(上)(下)」 司馬遼太郎 文春文庫 1977年 ★
 義経の正室は、河越重頼の娘です。下巻の「屋島へ」で登場します。
 頼朝は、
「比企ノ尼をよべ」
と、側近に命じた。比企ノ尼とは、頼朝にとってこの地上でもっとも重要な女性のひとりであった。幼いころからかれを養育してくれた乳母である。
 尼は、鎌倉の屋敷にすんでいる。すぐやってきて縁側にすわった。頼朝は義経に妻をもたせたいという一件を話し、
「尼の縁につながる年ごろの娘はおらぬか」
 ときくと、尼はとびあがるほどによろこび、
「河越の孫娘はいかがでございましょう」
 と、いった。河越とは河越氏のことである。武蔵国入間郡河越(現・川越)の大族で、現当主河越太郎重頼に比企ノ尼の娘が嫁し、それに娘がある。郷(さと)といい、年頃であるという。
「ああ、それだ」
 頼朝は、いそがしくうなずいた。幸い達者で性質もおだやかであるという。頼朝はそれにきめ、すぐ京の義経に飛脚を出した。
 義経の嫁となるべき河越重頼のむすめ郷御前が京にのぼってきたのは、九月十四日のことである。
「鎌倉どのの御媒酌である」
 というそのことに重味があり、京における鎌倉の御家人や義経の郎党たちは山科まで出むかえに出かけた。義経はその嫁の来着を六条堀川で待ちつつも、
(河越のむすめか)
 と、それをおもうと気持が晴れなかった。義経ほどの身分の者なら、都の官位ある下級貴族のむすめか、すくなくとも源氏支流の他の名門の娘をめとるべきであろう。 河越重頼の息女など、家来筋ではないか。
(兄は、その程度にしか自分をみていない)
 義経はそれが無念であった。しかも都なれた義経の目からみれば、関東の田舎娘などどういう興味もおこらない。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 比企尼(ひきのあま)
生没年不詳。源頼朝の乳母の1人。
(系)武蔵国の武士比企掃部充の妻。
 源義朝に従って京都に上り頼朝の乳母となる。1159(平治1)平治の乱に敗れて頼朝が伊豆に流されると、夫とともに武蔵国比企郡に下り、頼朝を援助し、のち頼朝から鎌倉に住居を与えられた(比企谷殿)。3女があり、長女は、二条天皇に仕え丹後内侍と号し、惟宗広元と通じて島津忠久を生み、のち関東に下って安達盛長に嫁し、源範頼室などを生む。次女は、河越重頼の妻となり源義経室などを生み、源頼家の乳母となる。3女は、伊東祐清に嫁し、その死後平賀義信に嫁して平賀朝雅を生み、また頼家の乳母となる。男子には恵まれず、甥の比企能員を養子とした。この一家の鎌倉幕府草創期に果たした役割は大きい。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 司馬遼太郎(しば りょうたろう)

「もののふの大地 義経と河越一族 堀和久 新人物往来社 1992年 ★★
 東国を震撼させた頼朝挙兵。平家か源家か、一族と領土の保全を賭けてその去就に揺れる東国武士団。重頼率いる河越一族と義経に嫁した重頼の娘山吹が辿る過酷な運命!

第三章 京の都
 その義経が、思いがけず河越へやってきたのは、山吹の花が残り香をただよわせる、うららかな午後であった。
 四郎が村回りをおえて、新日吉社の杜にさしかかったとき、往還の彼方に騎馬列を見たのである。
 「大殿のお帰りじゃ」
 そう察して、四郎は馬をおり、出迎えの姿勢をとった。
 「あれは……」
 四郎は目をみはった。
 一行のなかに、見覚えのある赤地錦の直垂姿を認めたのである。
 「義経殿」
 四郎はよろこびの叫びを上げ、馬に飛び乗ると、手を振りながら駆け寄っていった。
 下馬の礼で重頼に挨拶ののち、四郎は義経をはさんで兄信恒と、三頭轡をならべて館へ向かう。
 「鎌倉は、御台所の安産祈願で大騒ぎぞ」
 義経は、陽気に騒ぎの模様を四郎に語る。
 鎌倉殿は伊豆山権現をはじめ伊豆、相模両国の寺社に祈祷をおこなわせ、鶴岡八幡宮の前に新たなる参道をつくらせているという。
 これまで、若宮大路が参道を兼ねていた。その中央に高い石積みの道を築く新参道(段葛)は、社前から由比ヶ浜まで一直線にのびるはずだという。
 「鎌倉殿が自ら采配を振り、北条殿をはじめ、諸将が畚をかついでおる。河越殿も、われらも、充分に御奉仕もうし上げた」
 義経の半ばおどけた口調に自嘲があった。
 四郎は思い起こす。
 義経は昨年の七月、鶴岡八幡宮の宝殿上棟式で、浅草大工へ引出物として与える馬の引き手を命じられたのだった。義経は、当然、心外である。断ったところ頼朝の大喝にあい、やむをえず屈辱の役目を全うしたのであった。
 そのような不遇の義経の気を晴らすために、信恒が思いつき、重頼に願い出て重頼から鎌倉殿の許しをうけ、河越へ招いたという。
 「両三日限りのお暇じゃ。もう一日半が過ぎておる。明日の夜明けに早駆けで戻ってやっとじゃ。鎌倉殿は、身内であるにもかかわらず、わしが名ある武人と親しくするのを好まれぬ」
 無用の猜疑を避けるため、供も武将格の佐藤兄弟らではなく、温和な金剛秀方一人にとどめたと、義経は悲しげな面持ちで苦笑を漏らした。
 かえり見れば、列の最後尾を、入道頭の秀方が、あたりの風物を賞でながらのんびり馬を進めている。
 四郎と目が合うと、にっこり会釈を返した。
 夕べからの宴は、賓客の義経に合わせて酒なしであった。もともと河越館の食事は、行事日といえども暴飲暴食を慎み質素である。
 源氏の御曹司を招いたとて、格別の奢りはせず、領内でとれた川魚と野鳥、筍、木の芽、蕗といった旬のものや野菜類の料理であった。
 重頼と義経が上座にあり、相伴は、重頼の嫡男で十四歳になった小太郎重房、長老秩父兼房、政所の河越重文と四郎、宿直で館に出仕中の仙波信平と信恒父子、それに義経家人の金剛秀方である。
 給仕は奥方と山吹姫、介添えに千歳ほか奥の棟の侍女たちが付くという近親をもてなすのに似たなごやかさであった。
 食後の飲み物は甘葛飴の湯である。
 義経は、美味だと何度も代わりを所望し、場所柄をわきまえてか団茶自慢は出なかった。
 仙波信平が重頼にうながされて、愛用の笛「登り竜」を持ち出し、
 「御覧じませ、この見事なる笛は、御曹司がお過ごしなされた奥州平泉でつくられた逸品でござる」
 と挨拶し、硬軟の曲をとりまぜて、妙技を披露したのである。
 さらに重頼の仰せで、信恒と四郎も笛を取り寄せ、親子三人の合奏となり、興を盛り上げた。
 雅やかな歓楽のなかで、四郎はにこやかに振舞いながら、心の乱れを覚えている。
 (まさか……)
 と、思いながらも、山吹姫を見る義経のまなざしに、異常を感ぜずにはおれないのである。
 薄化粧をほどこした姫は、姉の田鶴姫と見紛うた昨年の春から一層、美しさを増していた。何気ない仕草や微笑みに、どきりとする艶を感じさせる。
 その微笑みに、義経は魅せられている様子であった。
 甘葛飴の湯を何度も所望したのは、給仕をする山吹姫に接したかったからだ、と疑いたくもなる。
 しかし、義経へ向ける姫の笑顔に、意味があるとは感じられない。金剛秀方へも同じ笑顔を返している。むしろ姫のまなざしは、しばしば四郎の姿を求め、目が合うと、うれしげに微笑むのである。
 (思いすごしじゃ)
 四郎は、おのれの嫉妬心を恥じた。
 義経、秀方主従は払暁、何事もなく帰途についた。大手門で重頼をはじめ昨夜列座の男達が見送り、信恒が一隊を率いて鎌倉まで護衛につく。
 女性たちの見送りはない。そのことで、心の安らぎを覚える四郎であった。
 河越領に日常が戻り、はや、八月である。
 慶事があった。
 政子夫人の出産を間近に控え、奥方が鎌倉へ召し出されて、乳付けの大役を仰せつかったのである。
 母の比企尼が頼朝の乳母であるから、二代にわたる光栄であった。
 この場合の乳母は、必ずしもおのれの乳で育てるのではない。乳やり女は別に何人かいる。乳付けの儀式をおこない、乳やり女を取りしまり、嬰児の成育に将来ともに責任をもつ傳役にほかならない。
 当年五歳になる大姫という名の女子がいる頼朝、政子夫妻は、なんとしてでも嫡男が欲しかった。
 その願いが叶い、八月十二日に男子(頼家)誕生である。
 鎌倉中のよろこびもさることながら、知らせを受けた河越館の政所でも、期せずして歓喜の声があがった。
 「これで河越一族は、末代まで安泰ぞ。なにしろ、鎌倉殿の御世子を預かる乳母殿の家じゃからのう」
 元締重文の言い様が、歓喜の真意を率直に現わしていた。
 この年は天候が不順で、やや不作であったが、河越館の食糧、武具等の備蓄に不安はない。
 奥方が頼家傳役で鎌倉に常住となっているので、河越館の女主人は山吹姫であった。
 母屋で雑仕の男女を指図している姫の姿に、貫禄さえ具わっている。四郎を見かけても、軽く会釈するだけで、駆け寄ってくることをしなくなった。急に姫が遠ざかってゆくようで、四郎には一抹の淋しさを覚える歳末である。

「源義経の妻」 藪景三 新人物往来社 1993年 ★★
 義経の正妻とその子の運命は!!
 義経とともに、炎上する平泉の館で悲劇的な最期をとげた正妻志乃の知られざる半生を描く。

 待 つ 人
 いま志乃は、広大によこたわる琵琶湖の風景に接して、源九郎義経に嫁ぐべく草深い武蔵国河越の里をあとに十日余を費してきた旅が、終わりに近づいたことを実感した。湖水の遠くで雲と水面が重なり、岸辺では漁師が小舟の櫓をこいでいた。湖面を渡ってくる初秋の風に初々しい新鮮さが感じられた。 
 ――義経さま、やっとここにつきました。
 志乃は心のなかでつぶやく。情感こもる瞳が濡れている。
 彼女はむしの垂絹をかけた市女笠をかぶり、括袴をはいていた。甲斐甲斐しい旅支度は野盗にそなえてのことである。襲撃されたとき敏捷に動けるためだった。やはり市女笠をかぶった数名の侍女が背後にたたずみ、その周りを三十数名の武士がものものしくかためていた。
 湖の辺りにくれば、野盗が出没する恐れはなかった。京地方をおさめる源九郎義経の掌中におさまっていて、治安は行き届いていたが、義経に嫁ぐ志乃の身に不慮の事故があってはならないという配慮が、いっそう警備の武士に熱をこもらせる。嫁入りの荷物を積んだ十数頭の馬が道端の草を食んでいた。
 当時の義経は、木曽義仲を宇治川の合戦で破り、さらに<平家にあらずんば人にあらず>と専横をきわめた平氏の主力を一ノ谷合戦で破った勇将として、ことに若い女たちの間では熱っぽい評判が高まっていた。思いがけず、その義経に嫁ぐことを父河越重頼から告げられたとき、志乃は、夢のなかにいるような境地になったものだ。
 「志乃、きいているのか」
 「はい……」
 「しっかりお仕えするのだぞ、よいな」
 叱るに似た口調をした父重頼の声が、あらためて耳に甦ってくる。志乃の口もとに甘い微笑が湧く。
 湖を眺める一行の背後を、ひっきりなしに人々が往来し、警護の武士の目が気忙しく泳いでいく。騎馬武者の一隊が砂塵をまいて西の瀬田唐橋の方へ駆け去った。
 「お姫さま、参りましょうか」
 侍女頭の珠子が、まだ湖水に見惚れている志乃をそっとうながす。
 「今宵の宿は、瀬田の寺ですゆえ……明日の昼すぎには、お待ちかねの京に着きまする」
 珠子は白い歯をみせて言った。
 志乃は、まるい顔を初々しい紅色に染めて視線を伏せた。お待ちかねの京につくという珠子の言葉は、決して揶揄したものでなく、彼女なりの労わりがこもっていた。ふっと志乃は、夫になる義経の秀麗な顔立ちを浮かべる。ほのぼのとした情感がゆらぎながら胸に昇ってくるのを知った。
   (後略)

「義経と郷姫」 篠綾子 角川学芸出版 2005年 ★★
知られざる義経の正妻の愛と生涯。清新な着眼と端麗な才筆から、新しい歴史ロマンが誕生した! 華やかな静御前の陰に隠れた正妻、河越重頼の娘・郷姫は、義経の子を生み、奥州衣川で義経と共に最期を遂げる。乱世を生きるヒロインの数奇な運命と、感動の悲恋物語。
 序 章 入間川
 第一章 柚香菊
 第二章 静御前
 第三章 屋島・壇ノ浦の合戦
 第四章 腰越
 第五章 露の契り
 第六章 逢坂の関
 第七章 奥州高館の秋
 第八章 義経、郷姫の最期
 終 章 衣川
  あとがき
 埼玉県川越市は古い城下町で、蔵造りの店舗住宅や「時の鐘」など、江戸情緒あふれる町並みで知られている。川越が小江戸と呼ばれる所以(ゆえん)である。
 だが、川越市には江戸期ばかりでなく、もっと古い時代の遺構もある。その一つが入間川沿いにある河越館跡で、現在の常楽寺を含めたその周辺一帯を言う。
 私が訪れた際の入間川は緩やかな流れを見せていたが、鎌倉前期の鴨長明が記した『方丈記』には、大洪水を起こしたという記述もある。当時から、遠い都の知識人に、その名を知られた川であった。
 常楽寺は平安時代から鎌倉時代の豪族、河越氏の館内に建てられた持仏堂が発展して寺となったものである。JR川越駅から東武東上線に乗り継いで霞ヶ関駅で下車、十分程歩くと、常楽寺に行き着く。早春の季節に行けば、風情のある白梅の木が出迎えてくれる。
 
 埼玉県に生まれ育った私は、この土地出身のある女性が歴史の渦に埋もれているのを、常々残念に思ってきた。
 だが、私が彼女のことを知ったのは、地元との関連ではなく、ほんの偶然によるものであった。時代劇のドラマや歴史小説の中に、ほんの脇役として登場した彼女に、たまたま心を留めたのである。
 彼女の名は河越重頼(しげよりのむすめ)――正確な名は、信頼し得る正史の中には残されていない。文学作品である『源平盛衰記』(げんぺいじょうすいき)の中に「郷御前」(さとごぜん)と記されるのみである。ただ、当時の人は、いわゆる本名を呼ぶ習慣はなかったから、河越館に暮らしていた娘時代は、恐らくただ「姫」と呼ばれて、結婚後は「北の方」、あるいは実家の名を取って「河越殿」「河越御前」と呼ばれていたのであろう。
 だが、不確かな部分こそあれ、彼女は正史にその存在を留めた。それは、夫となった男が日本史上、たいそう有名な人物だったからである。能楽や歌舞伎でさんざん取り上げられ、現代でも舞台化されドラマ化されることの多い源九郎判官義経――彼こそ、仮に「郷御前」と呼ぶ河越重頼女の夫であった。
 ところが、義経と言えば、静御前――。
 誰もがその名を思い浮かべる。義経が主役となるドラマでは、ヒロインはたいてい静御前である。
 静御前は白拍子(しらびょうし)という特殊な立場、吉野山での義経との劇的な別離、そして、その後の鎌倉鶴岡八幡宮での奉納舞など、とかくドラマ性を備えている。
 義経を追い詰めた兄頼朝とその妻北条政子の前で、
 
  しづやしづしづのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
  吉野山峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき
 
 と謡ったという逸話など、何という純情で一途な女性なのかと、感動を誘われずにはいられない。実際、当時も人々の心を動かしたらしく、静御前に憤る頼朝を北条政子が宥(なだ)めたという話も、この後に続いている。
 白拍子とは、烏帽子(えぼし)・水干(すいかん)という男性の衣装を身に纏(まと)った、いわゆる男装の麗人である。宴席に侍(はべ)って歌舞を行い、場合によっては春を鬻(ひさ)ぐこともあった。白拍子とはそのように、男から男へ渡り歩く職種と見られていたのである。
 だが、静御前はそではなかった。境遇や立場に流されることなく、一人の男を一途に慕った。自分の立場が追い込まれた時でさえ、男への愛を貫いたその白拍子の情熱は、多くの人を感動させたことであろう。
 義経が吉野山での逃避行に同道したのは、どうやら静御前のみであった。郷御前は正妻でありながら、義経の傍らにいた気配がない。
 この事実から泛(うか)んでくるのは、義経の最愛の女性は静御前で、郷御前は形ばかりの正妻だったのだろう、という推測である。
 ところが、郷御前はその後、とういう経緯があったものか、義経と共に奥州に至るのだった。そればかりか義経の娘まで生んでおり、奥州平泉(ひらいずみ)の高館(たかだち)で、義経と共に死ぬのは彼女なのである。
 義経の兄頼朝の口利きで、義経の妻となった郷御前は、紛れもなく政略結婚であった。そこに、愛が育っていなければ、郷御前はいくらでも実家に帰れる機会はあったはずだ。ましてや、義経が追討される身となった後、河越家は領地没収の憂き目に遭うのだから、実家の人々は郷御前を何とかして取り戻そうとしたに違いない。だが、それでも、郷御前は実家を顧みず夫を追ったのである。
 だが、大抵の小説やドラマは、義経と郷御前の絆(きずな)を深くは取り上げない。
 それでも、いや、それだからこそ、私はこの郷御前が気になった。彼女こそ、義経に愛された第一の人だと思いたい気持ちがあった。
 地元びいきかもしれない。いや、それ以上に、いわゆる「判官(ほうがん)びいき」からかもしれない。弱者に味方する「判官びいき」が、判官義経に由来しているのは広く知られたことである。
 私は静御前より郷御前に味方したい気持も、恐らくそこにある。ひとえに知名度という点で、郷御前は静御前に一歩も二歩も劣っているのは否めない。それが静御前を愛の勝利者というイメージに作り上げてしまったのではないか。
 静御前という大輪の花の陰に隠れた感のある郷御前――だが、彼女も義経の人生に咲いた一輪の花であった。私はその花をもう一度、蘇(よみがえ)らせてみたと思った。
 小説家の永井路子氏は『日本史にみる女の愛と生き方』で、河越重頼女について触れ、次のように書いておられる。
 「頼朝には憎まれ、さらに夫の義経は無類の女好き、さまざまの女を侍らせている中で、じっと耐えて来た彼女。そしておそらく義経と死をともにしたのは、彼女ひとりだったのではないだろうか。
 彼女が美人であったかどうか、これは全く史料がない。あるは田舎育ちの垢(あか)ぬけのしない娘ではなかったかとも思う。しかし、そのひたむきさを買って、日本の美女の一人に入れてやりたいという気がしている」
 郷御前は確かに、静御前の陰に隠れてしまうような女性だったかもしれない。
 だが、「判官びいき」ならぬ「郷御前びいき」――そんな人を、一人でも二人でも増やしてみたい。そのひたむきな生き方によって、私をそんな気持にさせてくれた女性――それが郷御前である。
     (後略)

「河越の姫 源平争乱と女たちの物語 長谷川美智子 関東図書 2008年 ★★
 河越の姫  ――源平争乱と女たちの物語――
 (一)堀川館へ
 (二)平家の最後
 (三)河越荘滅亡
 (四)百合の咲くムラ

「義経の野望 異説『藤原四代記』(鎌倉攻略篇)  楠木誠一郎 二見文庫 1992年 ★
 この物語は「義経=ジンギスカン説」に基づいたものではない。義経が北行してジンギスカンになるのとは逆に、藤原泰衡を先頭とする奥州藤原氏の大軍とともに南下して、腹違いの兄である頼朝に立ち向かうのだ。軍略家の義経が、どのような奇策を用いて鎌倉を攻略し、いかなる野望を達成しようとするのか。ご期待いただきたい。

「源九郎義経(上)(下)」 邦光史郎 徳間文庫 1986年 ★
 平治元年冬、源義朝は藤原信頼に加担し挙兵したが平清盛らに敗れ、世は平家の時代となった。助命され僧になるため修行を重ねていた牛若は、ある日己れの出自を知らされると鞍馬山から遁走、騙されて船奴や荷役人夫でこき使われながら西国は九州臼杵へ、そして金売り吉次とめぐり会い奥州平泉へと達した。その頃、都では以人王が諸国の源氏勢を恃んで密議をこらしていた……。
 関東に覇権の基礎を確立した源頼朝は、すでに入京した木曾義仲の追討を義経に命じた。が自らに倦み、後白河法皇と対立、都の人心をも失っていた義仲は、すでに敵ではなかった。緒戦の大勝に続く一の谷、屋島、そして最後の決戦壇の浦での古今未曾有の戦勝。しかし政の術策に無縁の義経は、いつか頼朝の最も恐れる武将となった自分に気づかなかった……。

「源義経」 三好京三 PHP文庫 1995年 ★
 兄頼朝の怒りを買い、逆賊となった義経。落ち延びた奥州平泉において、悲劇の最期を遂げたかに見えたが……。実は頼朝の密命により、二組の義経主従が結成されたのだった。神出鬼没の活躍を見せるふたりの義経。追いつめられたのは、果たして本物か影武者か?ミステリアスな雰囲気を漂わせながらストーリーは展開していく。悲劇の英雄伝説を新しい解釈でよみがえらせた、長編歴史小説。

「埼玉の伝説」 早船ちよ・諸田森二 角川書店・日本の伝説18 1977年  ★
 埼玉伝説十三選/無限の鐘のひびき
 「いい景色だな。谷で、ウグイスが鳴いてるじゃないか」
 修験者姿の義経は足をとめて、八人の従者のしんがりの大男に、声をかける。
 「どうだ。弁慶、梅の香りが漂ってくるではないか」
 「ほんとうに、おそ咲きの梅が、どこぞにさいているのでしょうか」
 涼しげな声が、弁慶の背中からこたえた。義経の奥方の川越どのである。川越どのは、赤子を負うたまま、武蔵坊弁慶の背に負われている。顔をあげた弁慶は、額から玉の汗をしたたらせる。
 「どうだ、弁慶。爽涼の山気に、身も心も洗われて、この樹海をさまよっていると、追われる身であることも忘れてしまう。なかなか、いい景色じゃないか」
 義経は、三十歳すこしまえの若わかしい動作で、ひらりと岩石をとびこえた。そして、また、まわりの風景をめでている。
 しかし、弁慶は景色どころではなかった。一行に七、八歩おくれたどんじりを、一歩ごとに、やっさもっさと押しあがって、この山道をよじのぼっていく。大力無双の弁慶は、川越どのをおんぶする役割をすすんで引き受けたのだ。彼女はもちろんぼっか(ほか?)の荷物とはちがって、扱い方に慎重を要する。重さにしたら、四十キロそこそこの川越どのだが、若い女性を、しかも主君の奥方を、無礼にわたらぬように背負うことは、なかなか至難のわざであった。「のう、弁慶」とよばれるのが、じぶんにいわれているのではなく、奥方に話しかけられているのではないか――と、いま、思い知らされているところだった。弁慶は、顔を真っ赤にして、ふうふうあえぎながら、しだいに不機嫌になり、山道をよじのぼっていく。つかれると、坊主あたまの顔を大きく振り振り、うーんと気ばるのだった。
 「のう、弁慶!」と、義経に声をかけられても、「殿、いかにも」と、うなずくこともできない。大力無双で、日ごろ豪気な弁慶も、二十二曲がりといわれる急坂の多い峠路には、すっかりまいって、あごを出している。
 義経は、そういう弁慶をいたわるように、しばしば足をやすめて振りかえり、峠の風景を賞でるのであった。それに奥方が、応えた。
 ――吾野から峠へのぼって黒山へ降りるのだが、この峠を顔振り峠とよぶようになったのは、このときの義経が顔を振り向けながら、いい景色の峠だといったからといい、一説には、弁慶が、あごをだしながらも、顔を振り振りがんばったからだともいいつたえている。
 「おう、里が見えてきたぞ」
 峠路の下りにさしかかって、義経がいった。「なんと、いい風景ではないか」と、何度めかに、また義経に声をかけられた弁慶は、ついに、癇癪をおこした。
 ――なんという悪路だろう。
 目のまえへ突き出した松のふとい枝を、「ええい! じゃまな」と、ねじまげた。――これが黒山がわのねじれ松である――とつたえられている。
 このとき、ねじれ松の先を、若い男が、だっと、かすめ去った。犬がほえた。
 「何者ぞ!」
 先行の従者が叫び、一行は腰に手をやって身構えた。川越どのは、弁慶の背なかから、ぱっととびおりる。
 男は、くさむらに姿を消した。犬も現われてこなかった。あたりは物静かで、草の葉もそよりともしない。とつぜん、カケスが、ぎゃーっとないた。
 「おおかた、黒山あたりのりょうしが、ウサギでも追っていったのであろう」
と、義経。女づれ、赤子づれの一行十一人は、里に近い山麓へくだる小道をみつけて、ぼさぼさの草むらをわけながらすすんだ。
 人目をはばかっての旅路は、もういく日であろう。鎌倉街道沿いの裏道を山越えをして行くのである。しばらく行くと、正面北の越生の堂山あたりで、梵鐘が、ごーん、ごーんとつきだされた。急をしらせる早鐘の乱打である。
 「あれは? やっぱり、さきほどの村の若い男は、見張りの者だったのか?」
 主従は、顔を見合わせる。いうまでもない。「あやしげな落武者を見かけたなら、即刻とどけでるように」というおふれが、鎌倉の頼朝からでていて、そのために、村むらへ警戒の急を知らせるあいずの鐘であろう。ただならぬ緊迫した、空気が張りつめられた。
 「くそっ! 小癪な鐘め。拙僧がひきずりおとしてまいります」
 弁慶の顔は、みるみる朱をそそいで真っ赤になり、目がらんらんと光った。いままで、あごを出してへばっていたあわれな姿は、どこかへけしとんでしまう。弁慶は、振りむいていった。
 「殿! 奥方、その道を、まっすぐに進まれい! やつがれは、鐘をひきずり落として、即刻おん後を追ってまいりますゆえ……」
 弁慶は、だっと走りだした。
 黒山の里の一里半ほどの道のりを、弁慶は北へ、ひた走りに走った。いまの越生の梅林あたりを走りぬけて、小高い堂山へのぼっていくと、山門が見える。
 堂山の最勝寺の開基は、いつのころか不明だが、源頼朝の命で寺院の一部を建立した記録がのこっている古刹だ。
 鐘は、さきほどの若い男が、鐘楼でついていた。村人が数人むらがり集まって、殺気だっている。
 「だれだっ、鐘をつくのは? この弁慶が、ひねりつぶしてくれるぞっ」
 破れ鐘のようなどら声で弁慶がわめいた。犬がほえたてた。しかし、犬は大男の弁慶を見るなり、きゃうん! と、悲鳴をあげ、しっぽをまいた。鐘つき堂にむらがっていた村人も、真っ青になり、命だけは助けて――と、頭をかかえてうずくまった。
 弁慶は腕まくりをして、鐘楼の鐘を、渾身の力でひきずり落とす。
 ――ぐゎらん、ぐゎらん、ごーん。鐘の重さは百五十貫。鐘楼の柱をめりめりっと折って、地ひびきたててころがった。
 「わあっはっはっは! ふらちな鐘め!」
 弁慶は、おそれおののく村人らには、目もくれず、ゆうゆうと立ち去るのだった。
 その後に、鐘をもとの鐘楼へつりなおすのに、足場を組んだ村人が、数十人がかりで太い綱をひいて、いっせいに「えんやこらぁ!」と、かけ声をかけて、やっとでつりなおすことができた。いまさら、大男弁慶の怪力に舌をまき、のちのちの世まで語り草になった。

短編小説集 源義経の時代」 末國善己(編) 作品社 2004年 ★
 義経の女(むすめ)          山本周五郎
 そのとき千珠は、屋形の廂(ひさし)にいて、京から来た文(ふみ)を読んでいた。建久二年の、正月もまだ中ごろのことだったが、伊豆のくには暖かくて、簀子(すのこ)縁のさきにある蔀格子(しとみごうし)から、やわらかい午後の光といっしょに、さかりの梅の香が噎(む)せるほどもよく薫(にお)ってきた。文のぬしは千珠にとっては義理の姉にあたり、讃岐(さぬき)といって、二条院に仕えているひとだった。歌人としても名だかいひとだけに、やさしく巧みな手つきで「去年十一月に都へのぼった頼朝の、参内の儀のゆかしく美しかった」ことや、「その供をしてのぼった兄の駿河守(するがのかみ)(広綱)にひさびさで逢えたよろこび」などを眼に見るように書きつらねたうえ「つたないもので恥かしいけれど」といって五六首の歌が添えてあった。千珠はそこまで読んできて、ふとその歌の中の一首につよく心をひきつけられた、それはふしぎなほど心をひく歌だったので、われ知らずそっと口のなかで繰り返してみた。
  あと絶えて浅茅(あさじ)が末になりにけりたのめし宿の庭の白露
 いかにもはかなく寂しげな詠みぶりである。口ずさんでいると、荒涼とした秋の野末に、たった独りゆき暮れたような、かなしいたよりない気持になって、千珠は思わずほっと太息(といき)をついた。そしてそのまま、中庭のほうへ眼をやってぼんやりしていると、中門のあたりでにわかに騒がしい物音が聞え、あわただしく廊を踏んで良人(おっと)の有綱がはいって来た。つねには起ち居のおだやかな良人なのに、はいって来たようすも乱(ろう)がわしく、顔つきもいくらか蒼(あお)ざめているので、千珠はなにも聞かぬうちから胸がおどった。
 「千珠、ことができた」と有綱は低いこえで云った、「河越城へにわかに鎌倉から兵が寄せて、重頼どのをお討ち申したというぞ」
 千珠の額がさっと蒼くなった。それはまことでございますか、そう訊(き)こうとしたけれど、舌が硬(こわ)ばってしまったし、訊くまでもないということがすぐに頭へひらめいた。
 「急ぎの使者で、くわしいことがわからないから、すぐようすをさぐらせに人をやった、鎌倉へも使をだしたが、伊予守どののゆかりになってお討たれなすったとすれば……」
 そこまで云いかけて、有綱はあとをつづけることができなくなり、「わが身もそなたも、心をきめておかなければ」とつぶやくように云って、対屋のほうへ出ていってしまった。
 いよいよそのときが来た。千珠はそう思った。二年まえ、文治五年の夏に、伊予守義経がみちのく衣川で討たれたときから、こうした日が来るのではないかと案じていた。そのときが来たのである。河越太郎重頼は義経の舅(しゅうと)にあたる。重頼の女(むすめ)が義経の妻になっていたのだ。千珠は義経の女(むすめ)である。舅が討たれたとすれば、女である千珠が無事である筈はない、良人の云うとおりで、まさしく心をきめなければならぬときだ。みぐるしいふるまいをしてはいけない、千珠はそう自分をたしなめながら、しずかに立って身舎(もや)へはいった。
 今にもと思っていたが、なにごともなく日が経っていった。河越へやった者も、鎌倉へやった者も帰って来たけれど、太郎重頼の討たれたことが精(くわ)しくわかっただけで、なんのためという理由はわからなかった、「たしかに伊予守どののゆかりに座したのだ」有綱もそう云うし、千珠もそれに違いないと思いながら、けれどもしやするとほかに理由があるのではないかという気持もして、いかにも落ちつかぬ日をおくっていた。十日ほどして、京から頼朝が帰って来た。日本総追捕使征夷(ついぶしせいい)大将軍としての晴れの帰国だった。有綱は駿河(するが)のくにまで迎えに出た。頼朝はきげんよく会い、ひきで物などあって、有綱はたいそうめんぼくをほどこした。それから供の中にいる筈の、兄の駿河守広綱に逢おうとすると、そこで思いがけぬことを知った。広綱はなにゆえか、帰国の途中でふいに姿を隠してしまい、どこへいったかゆくえがしれないというのである、
 ――河越のことを聞いたからだ。
 有綱はそう直感した。そこですぐにいとま乞いをして伊豆へ帰ると、屋形の内はいろめきたっていた、留守の間に鎌倉から「千珠どのを鎌倉へさしだすように」という使者が来たというのである。
 「いずれひと合戦と存じまして、その支度をしているところでございます」
 留守の侍たちはいきごんでそう云った。庭には楯(たて)が運び出されていた。弓を張る者、矢を揃(そろ)える者たちが右往左往している、厩(うまや)のあたりから遠侍へかけて、甲冑(かっちゅう)を着ける物音や叫び交す侍たちの、けたたましい声があふれていた。よしと云って有綱は奥へはいった。有綱は屋形の内をそこ此処(ここ)とたずねまわったうえ、ようやく持仏の間にいる妻をみつけた。
 「千珠いよいよ時が来た」
 そう云って有綱が坐ると、千珠がしずかに向き直って、「御前のごしゅびはいかがでございましたか」と訊いた。有綱は気ぜわしくそのときのことを語った、頼朝が案外きげんよく会ったこと、ひきで物のこと、そして兄広綱のことなど。……千珠はしずかにうなずきながら聞いていたが、やがて「あらためてお話し申したいことがございます」とかたちを正して云った。
 「わたくしを鎌倉へやって下さいませ」
 有綱はおどろいて眼をみはった、千珠は良人のおどろくさまをかなしげに見あげながら、「このたびのことは千珠ひとりにかぎり、お屋形にはなんのおかかわりもないのでございますから」
 「ばかなことを云ってはいけない」
 「いいえお聞き下さいまし」
 千珠はしずかに押し切って云った、「鎌倉の大殿(頼朝)が父伊予守をお討ちあそばしたのは、御自分の小さなおにくしみだけではございません。平氏は武家でありながら都に住み、公卿ぶりに染まって、あらぬ栄華に耽(ふけ)ったため、亡びました。大殿にはそれを前車の戒めにあそばして、征夷の府を鎌倉に置き、武家が天下の守護人であること、身を質素に持し、倹約をまもり、心をたけく男々しく、武士らしき武士となることをきびしくお示しあそばしました」
 父のことを女(むすめ)としてあげつらのは申しわけないがといって、千珠は眼を伏せながらつづけた、「父伊予守はもと京に育ち、また木曾殿(義仲)の変には都にあって、内裏(だいり)へものぼり、公卿がたとも往来して、おふるまいもとかく華美になりました。そのうえ合戦のみごとさは世に隠れもなく、下人の末までがはなやかに評判をするありさまでした、これは大殿の、武士はあくまで質実剛直でなくはならぬ、武家の本分をまもって世の模範となれという、きびしい御政治とは合わぬものです。御勘気のおお根はそこにありました。しかも世の人々はみな父伊予守のはなばなしさに心をひかれています、新しい質実な政治をおこない、乱れた天下を泰平にするためには、衣川のかなしい戦は無くてはならなかったのだと存じます」
 「それはよくわかった、けれどもそのおにくしみがなぜ千珠にまで及ぶのだ、河越殿はなぜ討たれたのか」
 「伊予守のゆかりでもし反旗でもあげるようなことがあってはならぬ、そうおぼしめしてでございましょう、それが禍の根を刈ることになって、世の中がおさまり、天下が泰平になるのでしたら、河越さまの御さいごもあだではなく、千珠も死ぬことはいといませぬ、わたくしは覚悟をきめました。どうぞ鎌倉へおやり下さいまし」
 そう云って千珠は、心のきまった、いかにも爽やかな眉をあげて良人を見、いつぞや京の義姉(あね)から来た文をとりだして「このお歌を読んで下さいまし」とそこへひろげた。それは「あと絶えて浅茅が末になりにけり……」というあの一首だった。
 「わたくしはお歌の意味をこうだと存じました」
 「兄ぎみ駿河守さまはおゆくえ知れず、今またあなたさまが千珠の縁にひかされて、鎌倉へ弓をひかれるようなことになりましては、世の中を騒がす罪も大きく、故三位(頼政)さまのお血筋も絶えて、まったく浅茅が末のあさましい終りとなってしまいます」
 妻への情に負けて、多くの人を傷つけ、世を騒がし、ひいては家を廃絶するような、みれんなことはして呉れぬよう、自分ひとりの命はもういずれとも覚悟をきめているから、千珠は心をこめてそうねがった。有綱には妻の心がよくわかった、その言葉にも誤りはない、今はなにごとをおいても天下を統一し、世を泰平にしなければならぬときである、そして妻はおおしくもおのれの覚悟をきめているのだ、
 ――だが、そうだからといって、みすみす妻ひとりを死なせにやれるだろうか。
 有綱は苦しくかなしく、胸いっぱににそう叫びたかった、おそらくその気持がわかったのであろう、千珠は涼しげに微笑さえうかべながら云った、
 「千珠は命をめされるかも知れません、けれどもそれは、世のために大きく生きることだとおぼしめして下さいませ」
 有綱は眼にいっぱい涙をため、やさしく妻を見まもりながらうなずいていた。それから数日して、或晴れた日の朝、千珠は迎えの輿(こし)に乗って鎌倉へと去った。
 附記 千珠という名は仮のものである、義経の女(むすめ)というだけで名が伝わっていないため、筆者がかりにそう呼んだにすぎない。またその生死のほども、明らかに記した書をまだ見ない。駿河守広綱は、のちに醍醐寺(だいごじ)へはいって出家したそうである。二条院の讃岐という人は「沖の石の讃岐」といわれて、新古今集などにも多く歌を載せられている。
(『山本周五郎全集』第19巻、新潮社)
  山本周五郎 1903〜1967
山梨県生まれ。小学校を卒業後、質店の徒弟となる。店主の山本周五郎には文芸趣味があり、そこで作家への夢を育む。『須磨寺附近』(26)が出世作となり、この作品から店主の名に由来した「山本周五郎」の筆名を用いる。デビュー当初は、倶楽部雑誌や少年少女雑誌などで娯楽活劇を中心に書いていたが、戦後は『樅ノ木は残った』(58)、『赤ひげ診療譚』(59)、『青べか物語』(61)など人間の本質に迫る名作を発表。『日本婦道記』(43)が直木賞に選ばれるが受賞を辞退、その後も生涯いかなる文学賞の受賞も拒否し続けた。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 山本周五郎(やまもと しゅうごろう)
1903〜67(明治36〜昭和42)昭和期の小説家。(生)山梨県。(名)本名清水三十六(さとむ)。(学)横浜第一中学中退。
1926(大正15)の短篇「須磨寺附近」が出世作となり以後少年読物や娯楽小説を執筆。’43(昭和18)「日本婦道記」で直木賞に推されたが辞退。戦後も封建時代の武士の苦衷や庶民の哀歓を巧みに描き広い読者層を持ち、また現代社会の矛盾や芸術家の制作の苦悩を、時代小説の場を借りて表現する作品も多い。「樅ノ木は残った」「赤ひげ診療譚」「さぶ」「ながい坂」「青べか物語」等が著名。毎日出版文化賞・文芸春秋読者賞などをいずれも辞退した。
(著)「山本周五郎小説全集」全33巻、別巻5、1967〜69。
(参)奥野健男「山本周五郎」1977。

「武蔵坊辨慶4」 今東光 徳間文庫 1985年 ★
 平泉を出奔した義経主従は、蝦夷兵三百騎とともに白河ノ関を越え坂東へ向う。一方、頼朝は緒戦で敗れたものの、安房国で源氏の諸兵を集め、再び平家征東軍と対陣した。黄瀬川での頼朝との対面は、辨慶の胸を深くうった。義経の初陣は木曾義仲の討伐であった。上洛して平家を放遂した義仲だが、評判が悪く朝廷の信頼を得られなかったのだ。そして都落ちした平家追討に義経軍は西国へ。大河歴史小説完結。

  ひよどり越え
   (前略)
 新中納言知盛卿は東西の城戸の間を駆け廻り、ひよどり越えを逆落しに下ってきた義経の奇襲隊と三方に号令かけながら戦っていたが、最早や退勢を挽回できる見込みなく
 「ああ。此所も落城か」
 と呟くと、御座船が気になるので
 「川越ノ黒よ。しっかと泳げ」
 と愛馬の頸を撫でてから一鞭あててざんぶと海に入り御座船まで泳がせようとするところに、早くも児玉党の三騎が馳せつけて襲いかかった。
 「邪魔ひろぐな」
 中納言を守っていた監物太郎頼賢の放った矢は、児玉党の旗差しの頸に当ったが、尚二騎は激しく中納言に迫ったので、御子息の武蔵守知章は一人の武者と組み合って首を掻くと、敵の郎党が武蔵守を刺した。頼賢はその郎党に飛びかかって首を取り、御主君の首を敵に渡してなるものかと武蔵守の首をも掻き落して二つの首をひっさげ、馬に乗ろうとするところを射られて
 「無念」
 と叫びながら腹かき切って討死した。
 その隙に新中納言は愛馬を海に乗り入れ、沖合三町ほどの親船にむかった。近世では明智左馬介の琵琶湖の湖水渡りが喧伝されているが、実はそれより数百年前、既に平家にその人ありとしられた新中納言知盛が須磨の沖まで海上三町を渡っているのだ。敗軍の将ともなればこれほどの武勲も知られることなく歴史の中に埋もれているのだ。
 親船に泳ぎついた知盛は直ぐ軍兵等によって熊手で引き上げられたが愛馬は到底、船にひきあげられない。如何するかと軍勢が見守る中で、知盛は愛馬の頭を陸の方に向け
 「陸に上って達者に暮せ」
 言うと、また一鞭あてると川越ノ黒は波を蹴立てるようにして浜辺へ泳ぎはじめた。
 「大将軍様」
 と同船していた阿波民部大輔成良が言った。
 「みすみす敵の乗馬になるあの馬を射殺しては。ならば私が」
 と弓に矢を番えてまさに射ようとした。知盛は、じろりと民部の顔を睨むとむかむかして来たので罵るように答えた。
 「たとい敵の馬となるとても好いではないか。まして我が命を扶けた恩ある馬じゃ。どうして殺すことが出来ようか。汝も武士の端くれ。それくらいの惻隠の情がないのか」
 知盛は最初からこの男を信用していなかったのだ。風向きが変われば何時でも源氏の旗風になびく奴と油断していなかった。この馬に対する民部の考え方も気に入らない。此奴の性格をはっきり見せつけたではないか。
 馬は渚に上ると身ぶるいして立ち、知盛の船の方を眺めて三度いなないた。
 これは元は井上と名づけた逸物だったが、知盛が武蔵の国司だった時に川越の牧から得たので川越ノ黒とよばれた。源氏軍に分捕られて九郎の手に入ったが、義経は法皇に献上したので、院の御厩で安楽に暮したということだ。
  (後略)

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 弁慶(べんけい)
?〜1189(?〜文治5)平安末・鎌倉初期の僧。
(名)号を武蔵坊。
「吾妻鏡」「平家物語」「源平盛衰記」などにその名がみえる。「弁慶物語」や謡曲などによって半ば伝説化して広く知られる。それらによれば、熊野の別当の子で幼名を鬼若丸といい、仏道よりも武術にすぐれた。源義経に従い、安宅関の難をのがれ、奥州平泉に到ったが、藤原泰衡の攻撃をうけ、矢を全身にうけて立ちながら死んだという。
(参)菊村紀彦「弁慶の謎」1966。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 今東光(こん とうこう)
1898〜1977(明治31〜昭和52)昭和期の小説家。
(系)今日出海の兄。(生)横浜。(名)法名春聴。
小学校、中学校を転々とし、1914(大正3)上京、'23川端康成らと第6次「新思潮」を創刊、'24「文芸時代」を創刊、新感覚派として知られ、'25短編集「痩せた花嫁」を発表。同年「文芸時代」を脱して「不同調」に参加。'29(昭和4)プロレタリア文学運動に加わったが'30浅草寺伝法院において仏門に入り、比叡山で修行、文壇から離れた。戦後'51大阪府八尾市の天台院の住職となり、'56中外日報社長に就任。大阪河内の風土・人情に取材した小説を発表、'56「お吟さま」で直木賞受賞、20数年ぶりの文壇復帰として世評をあつめた。毒舌家としてジャーナリズムに話題をまく。参院議員(自民党所属)、平泉中尊寺貫主をつとめた。

「平家物語(上)(下)」 高橋貞一校注 講談社文庫 1972年 ★
   (上)
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり……その響は平家物語の連想を必然して日本人に久しい。元和九年刊行片仮名交り附訓十二行整版本を底本に、平家諸本研究の権威、高橋貞一教授による厳訂本。適切簡明な脚注・補注、全文にわたる振り仮名等読み易い古典平家物語。巻一より巻六までを収録する。
   (下)
多年栄耀の地を灰燼と化し西国へ落ちる平家。頼朝の旗挙げ等東国は源氏の白旗にどよめく。幾多の果敢な源平合戦の場が展開。遂にまだ春浅き西海に落日の如く、一族の運命を荷って亡びゆく弱き人間存在の姿……。短調の調べに捉えられた慟哭の一大叙事詩。巻七より諸行無常の縮図たる灌頂巻まで収録。
  巻第九 濱 軍 (はまいくさ)
 門脇殿の末子、蔵人大夫業盛は、常陸国の住人、土屋五郎重行と組んで討たれ給ひぬ。皇后宮亮経正は、武蔵国の住人、河越小太郎重房が手に取籠め奉つて、遂に討ち奉る。尾張守清定、淡路守清房、若狭守経俊、三騎つれて敵の中へ破つて入り、散々に戦ひ、分捕数多して、一所で討死してげり。
  (中略)
 この紛れに新中納言知盛卿は、そこをつと逃げ延びて、究竟の息長き名馬には乗り給ひぬ。海の面二十余町泳がせて、大臣殿の御船へぞ参られける。船には人多く取り乗つて、馬立つべき様も無かりければ、馬をば渚へ追つ返さる。阿波民部重能、「御馬敵の物になり候ひなんず。射殺し候はん」とて、片手矢番げて出でければ、新中納言、「たとひ何のものにもならばなれ、ただ今わが命助けたらんずるものを。あるべうもなし」と宣へば、力及ばで射ざりけり。この馬、主の別れを惜しみつつ、暫しは船を離れもやらず、沖の方へ泳ぎけるが、次第に遠くなりければ、空しき渚へ泳ぎかへり、足立つ程にもなりしかば、猶船の方を顧みて、二三度までこそ嘶きけれ。その後陸に上つて休み居たりけるを、河越小太郎重房、取つて院へ進らせたり。もともとこの馬院の御秘蔵にて、一の御厩に立てられたりしを、一年宗盛公内大臣になつて、慶申しのありし時、下し賜はられたりしを、弟中納言に預けられたりしかば、余りに秘蔵して、この馬の祈りの為にとて、毎月朔日毎に、泰山府君をぞ祭られける。その故にや馬の息も長う、主の命をも助けけるこそ目出たけれ。この馬もとは信濃国井上だちにてありければ、井上黒とぞ召されける。今度は河越が取つて院へ参らせたりければ、河越黒とぞ召されける。
  (後略) 

  巻第十一 平大納言文沙汰 (へいだいなごんのふみのさた)
 平大納言時忠卿父子も、判官の宿所近うぞおはしける。世の中はかくなる上は、とてもかうてもとこそ思はるべきに、大納言命惜しうや思はれけん、子息讃岐中将時実を招いて、「散らすまじき文ども一合、判官に取られてあるぞとよ。これを鎌倉の源二位に見せなば、人も多く亡び、わが身も命助かるまじ。如何せん」と宣へば、中将申されけるは、「九郎は猛き武士なれども、女房などの訴え歎く事をば、如何なる大事をも、もてはなれずとこそ承つて候へ。姫君達数多ましまし候へば、何れにても御一所見せさせおはしまし、親しうならせ給ひて後、仰せ出さるべうもや候らん」と申されたりければ、その時大納言、涙をはらはらと流いて、「さりともわれ世にありし時は、娘どもをば、女御后に立てんとこそ思ひしか、なみなみの人に見せんとは、つゆも思はざりしものを」とて泣かれければ、中将、「今はさやうの事、ゆめゆめ思し召し寄らせ給ふべからず、当腹の姫君の、生年十七になり給ふを」と申されけれども、大納言、それをば猶いとほしき事におぼして、先の腹の姫君の、生年二十一になり給ふをぞ、判官には見せられける。これは年こそ少しおとなしけれども、眉目姿世にすぐれ、心ざま優におはしければ、判官も、世に有り難き事に思ひ給ひて、先の上の、河越太郎重頼もありけれども、それをば別の所に移し奉つて、座敷しつらうてぞ置かれける。さて女房、かの文の事を宣ひ出されたりければ、判官剰へ封をだに解かずして、急ぎ大納言の許へ遣はさる。斜ならず悦びて、やがて焼いてぞ捨てられける。如何なる文どもにてかありけん、覚束なうぞ見えし。
  (後略) 

  巻第十一 副将被斬 (ふくしやうきられ)
 元暦二年五月六日の日、九郎大夫判官義経、大臣殿父子具足し奉つて、関東へ下らるべきに定まりしかば、大臣殿判官の許へ使者を立てて、「明日関東へ下向の由その聞え候。それにつき候ひては、生捕の中に、八歳の童とつけられ参らせて候は、未だ憂き世に候やらん。給はつて今一度見候はばや」と宣ひ遣はされたりければ、判官の返事に、「誰とても恩愛の道は、思ひ切られぬ事にて候へば、誠にさこそは思し召され候らめ」とて、河越小太郎重房が許に預け置き奉つたりける若君を、急ぎ大臣殿の許へ具足し奉るべき由、宣ひ遣わされたりければ、河越、人に車借つて、乗せ奉る。二人の女房どもも、共に乗つてぞ出でにける。
 若君は父を遥かに見参らせ給はねば、世にも懐し気にてぞおはしける。大臣殿、若君を見給ひて、「如何に副将、これへ」と宣へば、急ぎ父の御膝の上へぞ参られける。大臣殿、若君の髪掻き撫で、涙をはらはらと流いて、「これ聞き給へ、各、この子は母も無き者にてあるぞとよ。この子が母は、これを生むとて、産をば平らかにしたりしかども、やがてうち臥し悩みしが、終にはかくなくなるぞとよ。『この後如何なる人の腹に、君達を儲け給ふとも、これをば思し召し捨てずして、わらはが形見に御覧ぜよ。差し放つて乳母などの許へも遣はすな』と云ひし事の不便さよ。朝敵を平げん時、あの右衛門督には、大将軍をせさせ、これには副将軍をせさせんずればとて、名を副将とつけたりしかば、斜ならず嬉しげにて、今を限りの時までも、名を呼びなどして愛せしが、七日と云ふに、終にはかなくなつてあるぞとよ。この子を見る度毎には、その事が忘れ難く覚ゆるぞや」とて泣かれければ、守護の武士どもも、皆鎧の袖をぞ濡しける。右衛門督も泣き給へば、乳母も袖をぞ絞りける。ややあつて大臣殿、「如何に副将、早疾う帰れ」と宣へども、若君帰り給はず。右衛門督これを見給ひて、余りに哀れに思はれければ、「副将今宵はとう帰れ。只今客人の来うずるに。朝は急ぎ参れ」と宣へども、父の御浄衣の袖にひしと取りついて、「いなや、帰らじ」とこそ泣かれけれ。かくて遙に程経れば、日も漸う暮れかかりぬ。さてしもあるべき事ならねば、乳母の女房、抱き取つて、終に車に乗せ奉る。二人の女房どもも、共に乗つてぞ出でにける。
 大臣殿、若君の御後を、遙に御覧じ送つて、「日頃恋しさは事の数ならず」とぞ悲しみ給ひける。この子は母の遺言の無慙さに、差し放つて乳母などの許へも遣はさず、朝夕御前にて育て給ふ。三歳で初冠して、義宗とぞ名乗らせける。やうやう生ひ立ち給ふ程に、眉目姿世にすぐれ、心様優におはしければ、大臣殿も、いとしう嬉しき事に思して、されば西海の波の上、船の中までも引具して、片時も離れ給はず。然るを軍破れて後は、今日ぞ互に見給ひける。
 重房、判官に申しけるは、「抑若君をば何と御計ひ候やらん」と申しければ、「鎌倉まで具足し奉るに及ばず。汝これにてともかうも相計へ」と宣へば、重房宿所に帰つて、二人の女房どもにいひけるは、「大臣殿は明日関東へ下向候。重房も御供に罷り下り候間、若君をば京都に留め置き、緒方三郎維義が手へ渡し参らせ候べし。とうとう召され候へ」とて、御車を寄せたりければ、若君は又先の様に、父の御許へかと、嬉し気に思したるこそいとほしけれ。二人の女房も、一つ車に乗つてぞ出でにける。六条を東へ、河原まで遣つて行く。乳母の女房、「哀れこれは怪しきものかな」と、肝魂を消して思ふ処に、ややあつて兵ども五六十騎が程、河原中へ打つて出でたり。やがて車を遣り留め、「若君下りさせ給へ」とて、敷皮敷いて居ゑ奉る。若君あきれたる御有様にて、「抑われをばいづちへ具して行かんとはするぞ」と宣へば、二人の女房ども、とかうの御返事にも及ばず、声をはかりに喚き叫ぶ。重房が郎等、太刀を引きそばめ、左の方より若君の御後に立ち廻り、既に斬り奉らんとしけるを、若君見つけ給ひて、幾程遁るべき事の様に、急ぎ乳母の懐の内へぞ逃げ入らせ給ひける。二人の女房ども、若君を抱き奉つて、「只われわれを失ひ給へ」とて、天に仰ぎ地に臥して、泣き悲しめども甲斐ぞなき。
 ややあつて重房、涙を押へて申しけるは、「今は如何にも叶はせ給ふべきからず」とて、急ぎ乳母の懐の中より、若君引出し参らせ、腰の刀にて押伏せて、終に首をぞ掻いてげる。首をば判官に見せんとて取つて行く。二人の女房ども、歩跣にて追つつき、「何か苦しう候ふべき。御首をば給はつて、御孝養し参らせ候はん」と申しければ、判官情ある人にて、「尤もさるべし。とうとう」とて給びにけり。二人の女房ども、斜ならずに悦び、これを取つて懐に引入れて、泣く泣く京の方へと帰るとぞ見えし。その後五六日して、桂川に女房二人身を投げたりといふ事ありけり。一人少き人の首を懐に入れて、沈みたりしは、この若君の乳母の女房にてぞありける。今一人躯を抱いて沈みたりしは、介錯の女房なり。乳母が思ひきるは、せめて如何せん、介錯の女房さへ、身を投げけるこそ哀れなれ。

「北条政子 物語と史蹟をたずねて 土橋治重 成美文庫 1995年 ★
 伊豆の豪族の娘として生まれ、蛭ガ小島の流人源頼朝と恋におち、目代山木兼隆との結婚話をけって頼朝に賭ける若き政子。頼朝、頼家、実朝とつづく三代の将軍の背後にあって鎌倉政権に隠然たる力をふるう政子。<尼将軍>の面目を発揮して、将軍の妻として、二男二女の母として、文字どおり波乱の生涯を送った<女の一生>を情感をこめて描く。

「太平記(三)」 山崎正和訳 河出文庫 1990年 ★
 建武中興は、つかのまに潰えさり、足利尊氏によって武家政権がよみがえる……興亡の大ロマンを描いて、動乱ただならぬ中世史の真相に迫る『太平記』! この不朽の軍記物語の名作を、原文の息づかいを考慮しながら読みやすい現代の言葉に転換した、みごとな口語訳でおくる。(三)は、巻の十二「朝廷一統の政治」から、巻の十六「正成の首を故郷へ送る」までを収録。
「さいたま文学紀行 作家たちの描いた風景 朝日新聞さいたま総局編 さきたま出版会 2009年 ★★
「太平記」 作者不詳
 倒幕招いた戦い今に伝える

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作成:川越原人  更新:2020/12/01