河越重頼の娘と義経

義経とその正妻重頼の娘に関する内容の本です

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「城と女たち(上)―戦国の世の波乱のドラマ 楠戸義昭 講談社+α文庫 1998年
乱世を生きた女性たちは、男社会の象徴である城の攻防の中で、決して死を恐れずに戦った、行動的で強い意志の持ち主であった。
日本全国に点在する城を、北は北海道網走から南は沖縄那覇まで、延べ6万キロにもおよぶ丹念な現地取材を通して、歴史に埋もれていた女性たちのしられざる秘話を堀り起こした待望の労作!
 第3章 源平争乱の時代/平泉・衣川の館―義経を恋いしたう女たち
 義経が都にあって情を通じた女は二十四人にものぼる。そして急追の討伐軍に、西海へのがれようとした義経の船が暴風で難破した時、一つ船に六人の女房と五人の白拍子の計十一人もの女が乗っていたと『義経記』はいう。
 この多彩な女たちの中で、この英雄の悲劇をいろどるのは、静御前であり、郷御前である。
 義経が静を見そめたのは、都の神泉苑の池のほとりで、静が母・磯の禅師と雨乞いの舞を奉納した時だという。静は十五歳、義経は二十七歳であった。罪人として追われる寸前であったが、世間はまだ義経の華やかな部分に目を向けていた。白拍子の始祖として後白河法皇の寵愛も受けたという磯の禅師は、義経は鎌倉殿(頼朝)の弟であり、名誉なことだと喜んだ。
 もう一人は『源平盛衰記』に郷御前とある女で、静より一年早く、頼朝の命令で義経の妻となった。武蔵の国の有力御家人・河越重頼の娘で、頼朝の乳母である比企尼の孫娘にあたる。はそのとき十七歳であった。彼女は義経の正室ということにもなる。政略結婚のはしりともいってよい結婚だったが、彼女は義経を心から愛する。
 しかし、武士の世の中とは非情である。いや頼朝とは冷徹な男である。河越重頼は頼朝の命令で義経の妻に娘を差し出したのに、やがて義経の縁者ということで重頼は所領を没収され、二年後には命までも奪われた。
 難破した船を捨てた義経は女たちをそれぞれの家に帰したが、静だけは伴って吉野山に入る。しかし、そこは女人禁制の地。静を同行することはできなかった。やむなく静に数人の雑色をつけて都へ帰す。ところが雑色は、静から金品を奪って逃げ、静は雪の吉野山に迷い、やがて捕らえられ、鎌倉に送られた。
 義経の子を身篭っていた静は鶴岡八幡宮の回廊に召し出され、頼朝夫妻の見守るなかで、「よし野山みねのしら雪ふみ分けて、いりにし人のあとぞこひしき」と別れ物の曲を歌い、和歌を吟じて「しづやしづしづのだまきくり返し 昔を今になすよしもがな」と義経への思いを舞った。そして四ヵ月後、静は赤子を産む。「たとえ男の子たりとも女の子になし給え」との母・磯の禅師の祈りはむなしかった。男の子ならば殺される運命にあった。赤子は由比ケ浜に捨てられた。
 この年、郷御前もまた義経の娘を産んだと見られる。彼女は都にひそんだ義経と再会する。義経は比叡山を頼り、叡山の悪僧たちに守られ、山伏姿に身をやつし、郷御前は稚児姿に化けて、北陸路を行く。彼女がいつ身ふたつになったかは不明だが、『義経記』には、旅の途中、羽前国の亀割山で義経の女がお産をしたと出てくる。

日本史にみる 女の愛と生き方」 永井路子 新潮文庫 1983年
 小野小町、静御前、清少納言、紫式部……日本の歴史には美女、賢女、悪女などさまざまな女性像が登場します。でも、彼女たちを見つめなおすと、ちょっと違った姿が見えてきませんか? 歴史に名を残した女性たち33人の実像を、最新の史料と新鮮な視点によってとらえ、本当に美しい女とは、賢い女とは、そして強い女とは、と問いかけるユニークな女性史探訪です。(カバーのコピー)
 美女に入れたい義経の正妻

 静が出たついでに、もう一人の女性をあげておきたい。それは、頼朝の命令によって、義経の正妻となった河越重頼の娘である。
 彼女の本名はわからない。じつはこの娘のことも私は自分の小説の中で、ちょっと登場させているのだが、彼女は静のきらびやかさにかくれて、とかく忘れられがちである。
 一説には、頼朝からスパイ役を命じられて義経のもとへ送られたように言われているが、私にはどうもそんな気がしない。というのは、義経が没落したあとも、彼女はひたすら夫に従って諸国をさすらい続けたからだ。
 もし、愛情もないただの監視役だったら、そこまではつきあいきれない。自分の身が危くなれば、あっさり見切りをつけて、鎌倉へ戻ったかもしれないのに、彼女は、律義に義経について歩いているらしいのである。
 というのは、「吾妻鑑」という、そのころの鎌倉幕府の記録を書いたものの中に、
「河越重頼は、義経の親類だというので、御所への出入りを止められた」
 とか、領地を召し上げられたという記事が残っているからだ。とすると、義経が没落したあとでも、彼女は、鎌倉へ帰らず夫に従っていた、としか見られないのではないだろうか。
 東国の女らしい、ひたむきさ、といったらいいだろうか。羽振りのいいときは、義経に群がっていた女たちが、一人減り、二人減ったあとも、じっと黙って彼女はその後に従っていたのであろう。
 なお、のちに義経が平泉で殺されるときに、その妻と女の子が一緒に死んだ、と「吾妻鑑」は書いている。「吾妻鑑」が義経の妻と認めているのは河越氏の娘しかいないから(静の事は妾と書いて区別している)このとき死んだのは、多分彼女だったのではないかと思う。
 頼朝には憎まれ、さらに夫の義経は無類の女好き、さまざまの女を侍らせている中で、じっと耐えて来た彼女。そしておそらく義経と死をともにしたのは、彼女ひとりだったのではないだろうか。
 彼女が美人であったかどうか、これは全く史料がない。あるいは田舎育ちの垢ぬけのしない娘ではなかったかとも思う。しかし、そのひたむきさを買って、日本の美女の一人に入れてやりたいという気がしている。

「河越氏とその館跡」 小泉功 聚海書林 1986年
 九 義経の逃避行と夫妻の死
 義経は兄の怒りも知らず鎌倉へ下るが、腰越から先へは入れず、弁疎状も拒否され、京都に戻る。それを追いかけるように、戦功に与えられた平家の所領二十四ケ所も没収され、さらに前述したように土佐坊昌俊の堀河夜討ちが決行される。これに失敗すると、頼朝みずから上洛し討伐するという知らせを聞き、義経もようやく決意する。
 後白河法皇から文治元年(1185)十月十八日、頼朝追討の院宣を義経は受けるが、かつての平家追討に活躍した武士たちの多くは在地に帰り、頼朝の配下に入っていたため、義経の軍事力は弱体化していた。このため叔父の新宮行家が四国の総地頭に任ぜられたのを機会に、九州総地頭でもある関係から、西下して再起をはかることを考えた。
 十一月五日の夜、大物主神社の社務所に義経らは宿泊した。その一行は、義経と正室河越殿、側室の静御前と侍女たちは淀の川船に乗り、弁慶、伊勢三郎らは騎馬で土堤の道を急いだ。摂津源氏の多田行綱や範頼らの武者に行く手を阻まれるが、どうにか血路を開き、神崎川が内海にそそく大物浦にたどりついたのである。ここから船に乗るが『吾妻鏡』に、
 「義経主従、大物の浦を出で、忽ち逆風に会い、船舶悉く摧(くだ)け、臣従すべて離散し了(おわ)んぬ。その日、小船に乗じて、和泉の四天王寺にのがれ、従ふ者を顧みるに、伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎、武蔵坊弁慶、妾の静、僅に四人を存するのみ。」
 やっとの思いで義経らは住吉の浜に上陸する。船中静御前とともに、義経にぴったりとついていた正妻の河越殿は行方不明になっていた。
 しばらく世を忍んで様子を見るには、吉野山がよいとの弁慶の提案で、義経一行は、阿倍野から竹内越えして大和へ入り、追捕の手を避けつつ吉野へ落ちて行き金峯山寺に近い吉水院にたどりつくのである。
 この時京都では、頼朝の強請によって、後白河法皇が義経追討の院宣を出している。文治元年十月十二日のことであった。
 頼朝追討の院宣を指して一ケ月後その舌の根がかわかぬうちに、義経追討の院宣を出す変り身の早さは「日本一の大天狗」と頼朝から罵られた所以でもある。
 吉水院にかくまわれていたのも六日しか続かず、律師覚範が外出先で院宣の出ていることを知り、自分の不在中に義経をかくまったこともあって、義経主従を山から追い出した。
 静は、これ以上義経の足手まといとなっては義経の命があぶないと思い、涙のうちに別れを告げ、蔵王堂で捕えられ京都の北条時政の手に渡された。
 義経らは、弁慶が懇意である多武峰の十字坊に頼んで笈(おい)、兜巾(ときん)、金剛杖などをそろえてもらい山伏姿となって十勝川の奥深く入って行った。頼朝は、義経追捕を五幾七道にわたって厳命する。しかし義経ら一行の姿は、杳として不明で、文治元年は暮れる。同二年が過ぎ、三年の元旦には鞍馬にたどりつき、さらに叡山に入り、堅田衆の援護のもと、三日、朝もやの湖上を一路北へ向かった。
 こうして、苦しい奥州下りの逃避行がはじまる。『義経記』によると、義経捕縛のために新設された安宅の関にさしかかると、山伏姿の義経主従が関守の富樫に問われると、東大寺勧進のため諸国に派遣された客僧であると偽り、弁慶が機転を利(きか)し、勧進帳を読みあげる。特にこの場面は歌舞伎でも有名で忠実な弁慶の活躍、面目躍如たるものがある。
 苦難の逃避行の末、義経主従は、平泉の藤原秀衡のもとにたどり着いた。しかしこの安住の地も永くは続かなかった。頼りにしていた秀衡が病没すると情勢は一転する。
 頼朝は奥州藤原氏に度重なる威嚇を行い、その圧力についに屈した泰衡は、文治五年(1189)四月三十日、衣川館の義経主従を襲撃する。衆寡敵せず、義経は高館の持仏堂に立て籠って、妻(河越殿・重頼の息女)と四歳になる娘を殺した後、自らも命を絶った。波瀾に富んだ三十一年の生涯であった。頼朝の推挙によって、人見御供のように正室として送りこまれた重頼の娘も、義経の心に動かされ、地獄の底までついて行きたいと離れず、奥州平泉まで五年という短い結婚生活に終止符をうち、娘と共に二十二歳の生涯を閉じたのである。高館の雲際寺に三人の霊を供養した位牌が保存されている。
 なお、『吾妻鏡』によると、義経の首級は、黒漆の櫃に納められ、美酒に浸して腐敗を防ぎ、六月十三日に泰衡の使者、新田冠者高衡により腰越の浦に持参され、鎌倉方から和田義盛と梶原景時が首実験に出向いている。
 この悲惨にして悲運な最期に涙を流さぬものはなかったといわれる。

「埼玉の女たち」 韮塚一三郎 さきたま出版会 1979年
9 源義経の正室 河越重頼の女
 頼朝の命で義経と結婚。頼朝の奥州征伐で衣川の館において義経と最期をともにする。
 源義経の愛人に静女という美しい白拍子のいたことは、いろいろなものにも書かれ、人のよく知るところであるが、その正室については、案外人の知るところとなっていない。
 義経の正室は河越重頼の女で、母は源頼朝の乳母として勢力のあった、比企尼の娘である。したがって彼女は比企尼の孫娘に当るわけである。しかしその名はわかっていない。吉川英治は、『新平家物語』の中で、彼女に百合野という名を与え、永井路子は『北条政子』の中で小菊という名をつけている。いずれも彼女の歩んだ道を顧みての名であろうが、ひとつは彼女を清らかな白百合にたとえ、ひとつは日本的な菊にたとえたものであろう。
 彼女が義経と結婚したのは、元暦元年(1184)九月、頼朝のはからいで、一方的に嫁されたものだった。『吾妻鏡』をみよう。
 「十四日庚子、河越太郎重頼の息女上洛す。源延尉(義経)に相嫁せんがためなり。これ武衛(頼朝)の仰せによって、兼日約諾せしむと云々。重頼が家の子二人。郎従三十余輩、これに従ひて首途すと云々」
 彼女は鎌倉で頼朝にあいさつをすますと、義経の住む京の堀川館へおくられて行った。この頃、すなわち一の谷の戦い後、頼朝と義経との間に微妙な空気がただよい始めていた。その原因は、まったく後白河法皇とその側近たちの権謀術策によるものだった。義経は京都出先として、交渉を重ねるうちに、次第に法皇と接近していった。これは頼朝としては、武家政治を固めようとしている矢さきだけに、もっとも警戒するところだった。すなわち法皇が一の谷の戦いで義経が発揮した才と勇を自分の方へ抱きこもうとしたのを頼朝はおそれたのである。
 そこで頼朝は一の谷合戦後の恩賞を範頼には与えたが義経には与えなかった。頼朝は家人に対し無断で法皇から官位を受けてはならないと命令した。もちろん頼朝は御家人武士の賞罰を独占することを基本方針としたからである。ところが義経は無断で法皇からの官位を受けた。その年の八月には検非違使・左衛門少尉となり、九月はじめには従五位下に叙せられている。この行動は頼朝に対する正面からの挑戦とうけとられたのもやむをえなかった。
 この九月十四日、彼女は頼朝の命によって、泣く泣く輿入れとなったのである。これは明らかに政略のための結婚であり、人身御供として(また、良人たる人の堀川の内状を密偵する役割の道具)嫁(とつ)がせられたのである。
 この義経の正室として迎えられた彼女が頼朝の乳母として勢力のある比企尼の孫娘であったことは、頼朝としてもかなり考えた人選であったに違いない。とにかく表面は事なくすぎていった。
 そして半年ののち、再び平家追討軍の指揮官に起用された義経は、屋島・壇ノ浦に嚇々たる戦果をおさめ、平家を全滅させることにみごと成功したのであった。
 当面の敵平氏滅亡によって、事態は新しい段階に入った。そこで頼朝と義経の関係は悪化の一途をたどる。ここではくわしくのべないが、頼朝としては武士団の棟梁として、全国的支配を維持し、これを朝廷に認めさせようとする困難な状況下に当面しては、いかに弟であり、功績があろうとも、自分に服従しようとしない者を、そのままにしておくことはできなかったのである。
 失望がうらみに変った義経は、ついに正式に「頼朝追討の宣旨」をうけた。時に文治元年(1185)十月十八日のことである。しかし挙兵しても畿内近国の武士の支持の案外少ないことを知った義経は西国に下ろうとして、摂津国大物浦(だいもつうら)(尼ヶ崎市)から乗船しようとした。
 だが、おりあしく大風が吹き、船はことごとく難破し、軍勢も離散してしまう。義経はごく小人数の従者をつれ、一艘の小船に乗りこんで、いずれかに姿をかくさねばならないという羽目になった。この時、義経に従ったものを『吾妻鏡』は、
 「豫州(義経)に相従ふの輩わずかに四人、いはゆる伊豆右衛門尉(源有綱)・堀弥太郎(景光)・武蔵坊弁慶、ならびに妾女字は静一人なり」
と記している。
 ここにおいて、頼朝は義経を反逆者と宣告し、その逮捕を命ずる院宣をたまわった。
 こうして今や追われる身となったが、義経のその後の消息は遙として不明だった。その妾静と最後にわかれたのは大和吉野山である。『義経記』は、この別れの場面を、
 「判官思ひ切り給ふ時は、静思ひ切らず、静思ひ切る時は、判官思ひ切り給はす、たがひに行きもやらず、帰りては行き、行きては帰り給ひけり。嶺に登り、谷に降り、弓の影の見ゆるまでは、静はるばると見送りけり。互に姿見えぬ程に隠れたれば山彦の響く程にぞ喚きける」
と記して哀切きわまりないものがある。
 静と吉野で別れた義経は、大峰・多武峰・さらに十津川へと隠れ歩いたすえ、やがて大胆にも京都に入ったようである。そして名ある寺々を転々、院側の反幕派の貴族の力を借りて、反撃の時機をねらったが、おもうにまかせなかった。そこで義経は京都を見捨てて、かつての縁故のある陸奥の藤原秀衡のもとをたよった。その時期も、経路方法も、まったくナゾに包まれているが、おそらく文治三年(1187)の春、北国の雪解けをまって、北陸路にかかり、奥州に下ったものとおもう。
 秀衡は義経を庇護したが、その子泰衡は、頼朝の誘惑(身柄をさし出せば、恩賞を与えよう)に従って、義経を衣川の館に急襲して、自殺させた。ときに文治五年(1189)閏四月三十日のことである。義経は三十一歳。その首は黒漆の櫃に納められ美酒に浸されて鎌倉に送られた。みるもの皆雙涙を拭い両衫(さん)を湿したという。
 彼女は、この時義経に殉じた。
 「予州持仏堂に入り、先づ妻廿二歳女子四歳を害ひ、ついで自殺すと云々」
 『吾妻鏡』の記すところである。
 実に結婚以来わずか五年余である。
 ここで筆を擱いてしまっては、彼女の生き方がわからない。、そこで、彼女の歩みをのべて、その間の空白を埋めてみよう。
 草深い武蔵野からひき出されて堀川館に入った彼女は突然眼の前に開けた自分の運命にとほうにくれたに違いない。その一つはこの結婚が政略結婚であること、更に義経の堀川館には、義経の愛人静という白拍子がいて生活を共にしていたことである。
 静と義経が結ばれたのは、元暦元年(1184)二月の一の谷の合戦以後の義経失意の時期であったとみられているから彼女の嫁した前頃であろう。そこへ彼女は嫁いだのである。輿入れとなった日、父重頼は、
 「女は嫁いだ先きのほかは家はない。ただ判官どのと生涯を添いとげよ」
と、当時の女の道を強く説いた。
 堀川館の人びとは、今や義経をはじめみな不運と薄命の者の寄りあいといってもよかったが、ことに彼女ほど、つらい立場と、孤独にたえて来た女性もあるまい。
 義経が追われる身となると、彼女も落ちていく列の中にあった。彼女はこの時に当っても郷里には帰ろうとしなかった。去る日は自分の生命の終わる日だと観念していたからだ。それは父重頼にしつけられた貞節の心がそうさせた。
 都落ちした列に加わったのは、結婚してからわずかに一年と二か月しかたっていない。この間良人義経も殆んど先陣の間にあったから、妻らしい家庭生活を持ったことは一日もない。がこの不幸も、堀川と鎌倉の破綻以来これまでより以上に加わって来た。それに良人には、静という愛人がいる。それは悲しい、しかも嫉ましいことだが、彼女はそれにも怺(こら)えた。もともとわが身は、良人も好んでいなかった押しつけ妻である。こうおもうと良人を恨む気にもなれず、静の立場もわかり、黙々として義経についていった。
 しかし、大物浦での難破にあって、不幸彼女は義経とはなればなれになってしまった。彼女がどこから義経と行を共にして平泉に入ったかわからない。ただ文治三年(1187)二月十日の奥州落ちの條に、
 「妻室男女を相具して、皆姿を山臥(やまぶし)ならびに児童等に仮ると云々」
と、あるから、北国の雪解けをまって、秀衡のもとに義経とともに落ちのびていったことは、まずまちがいあるまい。
 彼女は、ここへ来てはじめて妻の座を知った。しかし、このころには彼女の父河越重頼や、その一族は、ことごとく、幕府に取り潰されていた。そして既にのべたように秀衡が忽然として死ぬと、頼朝は泰衡追討の宣旨を請いうけ、
 「義経を、差し出すか、朝敵たるか」
と責めたて、遂に泰衡は義経の衣川の館へ不意討ちをかけ、義経を自刃に追いこんだ。義経は持仏堂に入り彼女と四歳になる女の子を殺し、堂に火を放って自害を遂げたのである。
 持仏堂はやがて人を寄せつけない大紅蓮と化した。
 おもえば彼女は、封建制成立の陰にひそかに人知れず咲いた白百合の如く、清らかな貞女として、そのつらい立場と、孤独にたえて、不運にもめげず、薄命の生涯を遂げた。そのいちずさは、みごとであり、まことに美しいといわねばなるまい。
 最後に、義経と彼女が悲壮の最期を遂げた衣川館(高館、義経館ともいう。)は、今どうなっているのだろうか。
 平泉の中尊寺を訪れる者は、坂下の参道の入口に立つであろう。ここでうしろをふりかえってみると、東方に小山のような丘陵を望むことができる。これが衣川館の跡である。この旧跡も、今は流れをかえた北上川に山を削られて、昔の俤(おもかげ)を失っている。しかし丘の上には元和二年(1617)伊達綱村が建立した小さな草ぶきの義経堂が建っていて、わずかに尚古の人の心をいやしてくれる。

「源義経 大いなる謎」 川口素生 PHP文庫 2004年
Q53 意外と影が薄い正室・河越重頼の娘の人となりは
 元暦(げんりゃく)元年(1184)9月14日、頼朝(よりとも)の御家人(ごけにん)である河越重頼(かわごえしげより)の娘(?〜1189)が京都へ向かいます。これは当時、京都にいた義経のもとへ正室として嫁(とつ)ぐためでした。このことは、かねてから頼朝によって決められていたことだといいます。この年、義経らの働きによって、木曽義仲(きそよしなか)が討死を遂(と)げており、平氏の滅亡も間近いものと推測されました。ですから、本来はこの結婚は重頼やその娘にとって、このうえもない良縁のはずでした。
 ところが、重頼や娘の眼前には暗雲が漂(ただよい)いはじめていました。重頼の娘が出発する少し前の同年8月6日、京都にいた義経は、「日本一の大天狗(おおてんぐ)」などと呼ばれた後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の策略にうっかり乗ってしまい、頼朝に無断で左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)・検非違使(けびいし)の官位を受けてしまいました。義経の行動が鎌倉へもたらされたのは、重頼の娘が関東を発(た)つ直前であったはずです。頼朝が激怒したことは、重頼の娘の耳にも入っていたことでしょう。それをしりながら、京都へ向かう若い女性、送り出す父の心中は、察するにあまりあります。
 微妙な立場に立たされた花嫁の父・重頼は秩父氏(ちちぶし)の一族で、武蔵(むさし)河越(埼玉県川越市)を本拠としていました。河越氏の館は川越市上戸(うわど)の常楽寺(じょうらくじ)の付近にあったといわれ、門前に「河越館跡」の標柱が建てられています。秩父氏は桓武平氏(かんむへいし)ですが、平清盛(きよもり)らの平氏一門とは血縁的にも、政治的、軍事的にも疎遠で、頼朝が鎌倉へ入る頃に、一族の畠山重忠(しげただ)らと頼朝のもとへ馳せ参じます。
 実は、重頼の妻は比企尼(ひきのあま)(頼朝の乳母(うば))の娘でした。頼朝の正室・政子が嫡子の頼家を産んだ時も、重頼の妻が乳母となります。
 頼朝はこの前後に、政子の妹・阿波局(あわのつぼね)を弟の阿野全成(あのぜんじょう)に、比企尼の孫娘を弟の範頼(のりより)に嫁がせています。頼朝としてはさらに、比企尼の縁につながる重頼の娘を義経に嫁がせて、兄弟の絆を深めようと考えたのかもしれません。さて、義経と結ばれて以降の重頼の娘の日常は詳しくはしられていません。『吾妻鏡』の記述により、文治(ぶんじ)5年(1189)の高館(たかだち)(衣川(ころもがわ))の戦いで義経が自刃した際に、22歳の正室と4歳の女子とが運命を共にしていることがしられている程度です(Q52〜Q56・Q79参照)。この正室というのが、重頼の娘とみてよいでしょう。22歳と4歳という年齢から逆算すると、正室は重頼を父、比企尼の娘を母として仁安(にんあん)3年(1168)に河越で生まれ、17歳で義経のもとへ嫁ぎ、18歳で女児を産んだものと推測されます。なお、父の重頼は、頼朝と義経との対立が決定的となった文治元年に領地を没収され、頼朝の命によって斬られました。
 重頼の他の娘婿も、義経に連座して領地を没収されています。
Q79 義経・弁慶主従はどのような最期を遂げたのか
 文治5年(1189)閏(うるう)4月30日、陸奥(むつ)平泉(岩手県平泉町)の高館(たかだち)に滞在していた義経は、藤原泰衡(やすひら)(1155〜89)の攻撃を受けます。泰衡のこの愚行は、鎌倉にいた頼朝の圧迫に耐えかねたもので、父・秀衡(ひでひら)の遺言を無視したものでした(Q78参照)。気配を察した義経は逃亡を諦(あきら)め、正室らに自刃の準備をさせます。これまで、頼朝方の追及を再三再四躱(かわ)してきた義経も、「もう逃げきれない」と悟ったのでしょうか……。
 義経が藤原方の討手の名を尋ねると、長崎太郎だと教えられました。
 「泰衡、元吉(もとよし)、錦戸(にきど)辺りが大将ならば、一矢報(いっしむく)いるところだ。しかし、泰衡の家臣が大将ならば弓を引くまでもないことだ!自刃する」
 錦戸は秀衡の長男・西木戸国衡(にしきどくにひら)のことで、元吉とは元吉冠者(かじゃ)こと三男・泉忠衡(ただひら)を指すものと思われます。泰衡か、その兄弟が討手ならば戦うが、家臣が大将となって攻め寄せてくるのであれば抵抗することも虚(むな)しい――義経はそう考えたのでしょう。義経がそう口にしていた頃には、外には長崎太郎に率いられた藤原方の軍勢が迫っていました。この時の藤原方の軍勢は『義経記(ぎけいき)』の諸本によって食い違いがありますが、田中本に五百余騎とあります。この数字が比較的、真に近いのではないかと思われます。
 一方、義経方は、弁慶、片岡八郎、鈴木重家(しげいえ)・亀井六郎兄弟。鷲尾義久(わしおよしひさ)、増尾(ますお)十郎、伊勢義盛(いせよしもり)、備前平四郎(びぜんへいしろう)の8人が藤原方を迎え討ちます。戦場を疾駆(しっく)したことがある僧兵、武士は以上の8人でした。この他に、正室の傳役(もりやく)・十郎権頭兼房(じゅうろうごんのかみかねふさ)と、それに従者・喜三太(きさんた)の二人が高館の屋根に登って、攻め寄せる藤原方に向かって矢を浴びせ続けます。弁慶は敵前で堂々と歌舞を披露(ひろう)した後、藤原方の武士とこんなやりとりをしています。
 「五百騎を相手に、十騎ばかりで何ができるというのか?」
 「五百騎もその内容による。十騎もその内容による。汝(なんじ)らが攻めてきたのは間違いだ!」
 そういっておいて、弁慶は鈴木兄弟と共に、敵方に躍(おど)り込みました。その勢いに恐れた藤原方の将兵は、落ち葉が秋風に吹き散らされるように、後ろへ下がっていきます。
 「口ほどにもない奴らだ!卑怯者!引き返せ、引き返せ」
 弁慶がそう叫んでも、戻る者はいません。重家は藤原方の武士と戦った時に深手を負ったので、敵を五騎斬り倒した後、斬り倒した死骸の上に腰をかけます。弟の六郎に呼びかけた後、重家は腹を掻(か)き切って絶命しました。六郎は兄の最期を目(ま)の当たりにし、
 「兄上と、『死ぬ時は一緒』と決めていた。死出(しで)の山で、きっと待っていて下さい」
  と叫んだ後、これまた斬り込んで敵を数騎倒し、重家の側で腹を切りました。そうこうするうちに、さしもの弁慶も傷を負い、全身血まみれとなります。その光景があまりに凄惨(せいさん)なので、藤原方の武士は恐れおののいて近付こうとしません。それでも、弁慶は敵を求めて戦場を駆け回りましたが、藤原方で面と向かってくる者はいませんでした。
   (中略)
 この間に、義経は鞍馬寺(くらまでら)(京都市左京(さきょう)区)の別当(べっとう)から与えられた「三条小鍛冶(こかじ)」の刀を腹に突き立てます。苦しい息の下で、義経は傳役の兼房に命じ、正室(Q53〜Q54参照)に止めを刺すように命じます。兼房は正室が生まれた時から傳役をつとめてきただけに、大いにためらい、ひれ伏して泣くばかりでした。義経、それに正室に促され、止むなく腰の刀を正室の脇の下に突き立てます。正室は苦しい息遣いの中で念仏をとなえていましたが、やがて念仏が聞こえなくなります。この後、兼房は泣きはらしながら、義経の女児にも刀を突き立てました(Q55参照)。目を閉じていた義経が、この時、わずかに瞼を開き、
 「北の方(正室)はどうした……早く館に火をかけよ!敵が迫っている」
 と兼房に命じました。これが、稀代(きだい)の英雄・源義経の最期の言葉であったと『義経記』には記されています。義経の行年は31。
 この後、兼房は敵方の副将・長崎次郎(太郎の弟)を抱き抱え、燃え盛る高館に飛び込んで絶命したとされています(Q14参照)。

「源義経99の謎と真相」 高木浩明監修 二見文庫 2004年
第6章 義経のイメージを覆す史実とスキャンダルの謎
 64 静御前は義経の正妻ではない! 正妻の郷御前とは?
 義経といえば静御前というほどに、この二人の男女の結びつきは強い。しかし、義経には別にれっきとした正妻がいた。そもそも、義経は官位ある義朝の子であり、彼自身も、検非違使(けびいし)に左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)を兼ね、従五位下(じゅごいのげ)を得て院への昇殿(しょうでん)を許されている。男装して舞う遊女を生業(なりわい)とする白拍子の静とは、身分の差がありすぎる。静が正妻となることはありえず、もちろん「御前」とつく身分でもなかった。
 では、正妻とはどんな女性だったのか。
 『吾妻鏡』の元暦元年(1184)九月十四日条に「河越太郎重頼の息女上洛す。義経に相嫁せんがためなり、これは頼朝の仰せによって兼日約諾せしむ。重頼が家の子二人、郎従三十余輩これに従って門出す」とある。この「河越太郎重頼の息女」こそ義経の正妻であり、『源平盛衰記』では郷(さと)御前の名がある。重頼は武蔵国入間郡河越(埼玉県川越市)の住人。鎌倉武士の典型とされる畠山重忠の父・重能(しげよし)の従弟・能隆(よしたか)の子。頼朝が挙兵したときには敵対したが、再挙兵の際、重忠らとともに頼朝に従った。
 このとき。義経は二十六歳。半年前には一の谷の合戦で大成果をあげており、その勲功により、八月に後白河院から検非違使、左衛門少尉に任ぜられる。これが、頼朝の許可なしに行なわれたので頼朝の怒りをかったことは、よく知られている。重頼の娘との婚儀は、まさにこの時期に行なわれたのである。
 もうひとつ重要なのは、重頼の娘というのは、頼朝が非常に信用していた乳母・比企尼(ひきのあま)の孫娘に当たるということだ。一の谷の合戦後、義経は朝廷との折衝(せっしょう)を担当しており、それが検非違使任官後も解任されずに任されていることも考えると、この時点では、頼朝と義経の関係も修復不可能なほど悪化してはいなかったということだろう。
 だが、壇ノ浦の合戦後、事態は急変する。頼朝が望んだ安徳天皇の生還と三種の神器の奪還に失敗した義経に追い打ちをかけるように、ともに平家と戦った梶原景時(かげとき)から不利な報告が頼朝にもたらされる。以後の二人の関係の悪化は、義経の正妻である重頼の娘にも影響を与えたはずだ。しかし、史料には何の記述もない。ただ、重頼は壇ノ浦の戦いのわずか七カ月後の文治元年(1185)十一月に、所領を没収されている。『吾妻鏡』では、その理由を義経の縁者だからだと記す。そして、二年後の文治三年十月五日、重頼は誅殺されてしまう。
 頼朝による政略結婚であったが、正妻である郷御前は義経を愛しており、一説には奥州平泉までの逃避行に従い、衣川の館で義経と最期をともにしたともいわれる。
 余談だが、木曽義仲といえば、武勇と美女で名高い「巴(ともえ)御前」の名が思い浮ぶが、こちらも義仲の正妻ではなく、炊事のために従軍した下女にすぎない。みなさん、お間違えのないように
(財前又右衛門)
 66 義経と最期をともにした女性は誰?
 義経を庇護(ひご)していた藤原秀衡(ひでひら)が亡くなると、秀衡の子・泰衡(やすひら)は頼朝の再三の義経引き渡し命令の圧力に屈し、文治五年(1189)閏(うるう)四月三十日、義経の住む衣河館(ころもがわのたち)(衣川館)を襲撃する。
 このため、義経は自害に追いこまれた。義経は妻子を殺したあと、みずからも命を絶ったと伝えられている。
 この妻子については、正室の河越重頼の娘、久我大臣の姫、平時忠の娘ともいわれるが、いずれにも確証がない。
 『吾妻鏡』では、この日、義経に殉(じゅん)じたのは、二十二歳の妻と、四歳の女の子であったと記されている。『尊卑分脈』には、義経の子は女子がひとりとあり、妻子の年齢から推定すれば、正室の河越重頼の娘ということになる。
 一方、『義経記』では、文治二年二月二日に奥州の藤原秀衡のもとに下るときに伴った妻は、久我大臣の姫(北の方)だという。久我大臣の姫は一条今出川(いまでがわ)に住み、九歳で父と死別、十三歳で母とも死別し、容姿美しく、心優しい姫君で、傳(もり)役の兼房が面倒をみていた。衣川の館にいた妻子は、この久我大臣の姫君で、義経とのあいだにもうけた五歳の男子と七日前に生まれた女子だという。
 この妻子は、義経自害の直後、傳役の兼房が北の方の「右の脇の下より刀を立て、息がお絶えになった」とし、北の方が義経のあとを追ったと記している。北の方が息を引きとった直後に、二人の子も兼房が刺し殺し、義経のあとを追ったとしている。ただし『尊卑分脈』には久我大臣の姫の記述はない。
 また、一説には、この妻は平時忠の娘ではないかともいわれている。平時忠の娘は、壇ノ浦で生捕りにされた時忠が、命乞いのため、側室と義経にと差し出した娘だ。これにも確証がない。
 義経妻子の墓は毛越寺(もうつうじ)(岩手県平泉町)の一院、千手院(せんじゅいん)にある。衣川の館で義経と最期をともにしたとされる妻子の墓である。この妻子は、正室河越重頼の娘であるとの見方が有力であるものの、久我大臣の姫、平時忠の娘の可能性もなお捨てきれないようだ。
(岡田博子)

「源義経・孤独の生涯」 邑井操 大和書房 1966年
疾風屋島陣(上)
   (前略)
 頼朝はついに義経に向って、平家討滅の大将軍として進発すべき命令を発した。義経は猛然として起ち上がったのだ。
 これより先、義経が院の昇殿をゆるされてから三日後の九月十四日に、頼朝はかねて自ら斡旋して婚約させた河越太郎重頼の息女を、義経の妻たらしめるために上洛させている。彼女は重頼の家の子二人、郎従三十余人を従えて京都についた。彼女は至って気立がよく、また美しい匂うような新妻であった。
 頼朝は何を考えてこの処置をとったのであろう。兄として義経をいとおしむ情からであろうか。任官の推挙をしなかったり、平家の追討使をとり上げたりして義経の驕慢心を押えたのだから、ここらあたりで美しい妻を与えて心を慰めてやろうという考えであったのであろうか。それもまるっきりなかったとはいえないが、それよりも頼朝の心はほかにあった。
 義経が公卿の姫でもめとって、これ以上朝廷と深く結びつくようなことにでもなったら……と、頼朝自身不安と危険を感じたのだ。頼朝の深い猜疑心は、肉親の弟への愛情よりも、対立者としての疑惑を義経に感じていたのだ。
 だが義経はそれを知らない。
 彼は美しくも優しい新妻を、自分に対する兄頼朝の善意として歓喜して受取ったのだ。なればこそ京都における新婚生活の楽しみを一擲して、平家追討使の命に身ぶるいして立ち上がったのだ。もちろん彼は、彼の初一念たるこの平家打倒の機会の到来を、指折り数えて待っていた。兄とはいえ、凡将範頼の不甲斐なさに切歯していた。だから頼朝が己れを起用したのを「背に腹はかえられぬ窮余の起用」とは考えず、兄が好意をとり戻してくれたものと受取り、新妻の斡旋につづく厚遇と見て奮躍したのだ。少なくともそう思おうとしたのだ。
   (後略)
北国行
   (前略)
 かくて文治三年(1187)二月のはじめ、妻(河越太郎重頼の女)と子をふくめた義経一行は、近畿危険区域を脱出してはるばる奥州へ落ちることになったのだ。東海道は関東の最強力地帯で行けもしない。東山道もまた道は塞がっている。とすればわずかに活路を見出し得るのはただ北陸しかない。それとて行方の空はわからぬが、ともかく山伏姿に身をやつし、旅の衣はすずかけの、露けき袖を絞りつつ、月の都を立ち出で、越路の空を目ざしたのである。
 義経の北国落ちは困難をきわめた。
 鵯越の名将も壇の浦の大将軍もいまは世を忍ぶ漂泊の落人である。まして北の方は女の身だ。都落ちの折は身重の体であったため、京の都にとどまったが、夫は九州の安全地帯から迎えを寄こしてはくれなかった。大物が浦の難船以来、まるで地の下にもぐったように皆目行方が知れないのだ。父の河越太郎重頼は反逆人義経の舅たるところからたちまち領地を没収されてしまった。一昨昨年九月十四日、鎌倉の舎弟であり、勲功赫々たる義経の許に嫁して以来、在京の義経と親しみ合ったのはたった四月余りにしかすぎなかった。それからは夫の出陣、屋島の戦、壇の浦と打ちつづく合戦に心を冷たくしながら夫の帰りを待つ日々だった。夫は目指す平家を亡ぼし意気揚々と凱旋してきた。まぶしいほどの晴れ姿だった。しあわせは一時にあふれた。京都守護職として夫の体は相も変らず多忙を極めていたが、しかしもう夫の生命の危険はなかった。妻の身には夫の栄光よりも日々の平和こそ望ましかった。家庭での夫は濃やかな愛情を示してくれたし、よく笑い、よく冗談をいう明るさだった。家臣の弁慶や、忠信や、義盛やその他が入れかわり、或は連れ立ってくることが多く、そんな時仕事の話以外の場合はすぐ引きとめて酒宴にした。賑やかなことが好きで、人懐こさがあふれ、主従の垣根がはずれたような睦しさだった。そんな無邪気で気さくな夫がむっつり口をきかなくなったのは、六月腰越から帰ってきてから後だった。時々いら立ちを見せ、ひとり庭に茶器などを叩きつけることさえあった。夜だというのに灯を消して腕組みしたまま黙りこくっているかと思うと、満天の星をにらんで夜露に身体をぬらして立ちつづけている時もあった。鎌倉殿との不仲が伝えられ、はらはらする妻だったが、会えば微少を浮べてかえって慰められるのは自分だった。たまさか、
 「兄弟だものいつかはわかって下さろう」
 ともらすこともあったが、それが
 「兄弟とはこんなものか」
 と吐き出すように自分に向って言ったのは、土佐坊昌俊が堀川の邸に夜討をかけた次の朝、参院直前だった。
 ひどいつわりに青ざめていた自分をいたわり、
 「九州で落着こうぞ。すぐ迎えをよこす故、しばらくの辛抱だ」
 言いおいて夫は京を去ったが、便りは一年近くなかった。去年の九月奈良から一度、十月比叡山延暦寺の僧俊章が夫の健在をつたえてくれた。暮夜ひそかに叡山に引きとられ、生まれて間もない姫と共に延暦寺で夫に会えたときのうれしさ。だがその時夫はこうもらした。
 「場合によっては陸奥へ下る、今しばらくの辛抱ぞ」
 かくて今年二月、延暦寺の僧俊章を案内者として、北の方は稚児姿となって不義経に従ったのだった。
 叡山を下って琵琶湖を北に渡り越前に入る。北国には叡山に関係の深い平泉寺や白山などの勢力ある寺院が多い。それに出羽の月山羽黒山など山伏の往来も頻繁である。一行はそれらを頼りに進んでいったのである。
 だがすでに義経一行山伏姿で北国に落ち行く由、召捕るべしとの鎌倉の厳命で、要所々々に新しく関が設けられ、この警戒線を突破するのは容易ではなかった。ましてや赤児と女連れなのだ。
   (後略)
衣川悲曲
   (前略)
 弁慶が立ちながら戦死した頃、義経は読経を終り、しずかに生害の座についた。
 豊かな黒髪を両肩にはらりと振りかけ、薙刀を側に置いた北の方は、おびえる姫をひき寄せていた。
 もう何も言うことはなかった。互いの覚悟はとっくについていた。いたいけなる姫を道連れにする苦しさはあるが、しかし親子諸共一つ所で死ぬるはしあわせと、義経は心に詫びた。弁慶も、忠信も、継信も、吉次も、義盛も、片岡も、鈴木も、亀井も、お厩の喜三太までも、そしてその他のだれもかれもみな不幸な義経のために、悔ゆるところなく死んでくれた。だれも裏切った者はない。しあわせだと思った。静も後から来よう。わがために捕らわれの身となられた母の常盤も、やがては一所へこられるであろう。鞍馬山以来の発願は果した。次の人生の目的は立ちがたいままに追われる身となった。これで満足したくはないが、満足しなければ余りに自分が哀れだった。壇の浦で戦死すべきだったとふと思ったが、愚痴だと頭をふった。義経は短刀の鞘を払った。
 燃え崩れる音がした。大手の門を破って敵兵が乱入する物音が潮騒のようにきこえる。
 「許せ」
 魂消る悲鳴もただ一と声、姫は朱に染ってこと切れた。
 目の前に北の方が固く眼を閉じ、両手を合わせている。とじた眼から溢れる涙。義経は抱き寄せた。ただあわれであった。白い咽喉に血にまみれた切先を当てた。一瞬目がくらんだ。そしてかえす刀で自らの腹をかき切った。奔(シに奔)しる鮮血が飛んで庭先の草を紅に染めた。
 もう火が持仏堂に燃えうつっていた。
 左右の手で北の方と姫とを掻き寄せ、脇に抱いたまま義経の息が絶えた。
 最後を見届けた増尾十郎兼房が、涙をふるって礼拝した後、いよいよ近づく敵兵の中に踊り入って奮戦の末乱刄の下に斃れた時高館も持仏堂も完全に猛火に包まれていた。そして悲しみの色をたたえた衣川の流れが、いたずらに火焔を映すのみであった。
 時に義経三十一、夫人は二十二、姫は可愛い盛りの四才であった。
   (後略)

「義経とその時代」 大三輪龍彦・関幸彦・福田豊彦/編 山川出版社 2005年
3章 伝説と虚構
 義経の妻妾と静伝説      下山忍

「鎌倉謎とき散歩」 湯本和夫 廣済堂文庫 1993年
 第41話 女性にもてすぎて殺された義経

「源義経」 渡辺保 吉川弘文館 1966年
 テレビに演劇に小説に、日本中の人々から愛される義経。しかし一体どこまでが本当なのだろうか。本書は物語・伝説の類を一切省き、確実な史料だけによってその一生をたどり、素材としての正史を綴る。――はじめて描き出された真実の姿。波乱に満ちた悲喜の生涯と、源平・公武の葛藤とは、興味津々として胸に迫る。

日本古典文学全集31 義経記』 校注・訳 梶原正昭 小学館 1971年★
巻第一/巻第二/巻第三/巻第四/巻第五/巻第六/巻第七/巻第八

「日本死刑史」 森川哲郎 日本文芸社 1990年
U興亡常なき源平時代(平安末期から鎌倉時代まで)/独裁者の血の粛清
 獄門に首を並べた平家の公達(きんだち)
  (前略)
 元暦二年五月七日、義経は、内大臣平宗盛以下の平家の捕虜をつれて関東へくだった。
 その前日、宗盛は捕虜の中に八歳になる自分の子供がいるので、ぜひ一度対面させてくれと義経に頼んだ。この子供の名は副将といって、その身柄を河越茂房重房?)が預かっていた。その夜父子は対面して別れを惜しんだ。宿へ帰された後、河越茂房は再び牛車の用意をし、だまして副将を連れ出した。六条を東へ行った所で五、六十騎が現われて、牛車から降し、河原に引き立てた。義経の命令ですでに河原には敷皮が敷かれてある。
 おつきの女房たちが、副将を抱いて泣き叫ぶのを、侍どもは押しのけ、副将を奪いとった。子供は、「恐し、恐し」と泣き叫び、女房は石に頭を埋めて泣いた。
 駿河次郎が刀を抜くと、副将はかけ出して女房にしがみつく。女房たちは、「どうぞ、私たちを代わりに殺して下さい」と口々に叫んだが、次郎は「主命ゆえ詮方(せんかた)なし」とおし伏せて、首を掻っ切った。茂房が、その首を義経の許へ運ぼうとすると、二人の女房は裸足のまま追いかけ、供養をするから私どもに下さいという。義経も余りの哀れさに、これを許した。その後二人は桂川に身を投げたが、引き上げて見ると、一人は副将の首を抱き、一人は亡骸を抱いていたという。武家政治時代特有の無残な死刑物語である。
 宗盛も命を惜しんで、関東下向の途々(みちみち)で、義経に嘆願した。義経も助命の約束はしたが、頼朝の不興を受けている身だから、自信はなかったろう。彼自身、腰越で止められて、鎌倉に入ることを禁じられる始末なのだ。
 宗盛・宗清父子だけ鎌倉に入れられた。見物人は道にあふれた。が、その時は、すでに頼朝の奏問によって、宗盛父子は死罪と定まっていたのである。
 二十四日、宗盛父子の首は、京の大路を引回され、獄門にかけられた。三位以下の公卿が、大路を引回されたことは、まったく先例がなかった。
 源平の争いは、前に三百五十年とだえていた死刑を復活したが、ここでも先例を破る死刑を記録したのである。

「義経伝説 歴史の虚実 高橋富雄 中公新書115 1966年
 古く『平家物語』や『源平盛衰記』など一連の軍記物で形象化された義経は、室町時代の『義経記』で極端な物語化の頂点に達し、さらにそこから色とりどりの大小の物語が派生して「判官物」と称されるジャンルが形成された。そしてついに歴史と伝説のけじめさえつかなくなる。そこで義経はもはや義経でなくなり、その悲劇的生涯を愛惜する大衆の心のシンボルと化す――。義経伝説のなかに結晶化した日本的心情の源流を探る。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 源義経(みなもとのよしつね)
1159〜89(平治1〜文治5)平安後期の武将。
(系)源義朝の9男、母は九条院雑仕常盤御前。
(名)幼名牛若、遮那王丸。検非違使に任ぜられたので九郎判官と号す。
平治の乱で父義朝を失い、母常磐とともに捕われたが、死を免ぜられて鞍馬寺に送られる。のち京都を逃れ奥州藤原秀衡の庇護をうけた。1180(治承4)兄源頼朝の挙兵を聞いて、長躯はせ参じた。'83(寿永2)末、兄源範頼とともに、源義仲追討の代官として上洛。'84(元暦1)義仲を破って入洛。さらに平氏追討を命ぜられて、摂津国一ノ谷鵯越の奇襲により、平氏に壊滅的な打撃を与えた。凱旋してのち京都にとどまり、守護の任にあたる。後白河法皇の信任をえ、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉に任ぜられたことから、頼朝の怒りをまねき、平氏追討の任をとかれた。'85(文治1)再び平氏追討使に起用されるや、阿波に渡り、陸路屋島を奇襲、平氏を破る。つづいて長門国壇ノ浦の海戦で平氏を全滅させた。捕虜平宗盛を従えて関東に下ったが、頼朝の不興をかって、鎌倉入りを拒まれ 腰越状を呈した。やむなく京都に戻るや頼朝派遣の刺客土佐坊昌俊の襲撃をうけ(堀河夜討)、ついに頼朝と対抗するため、叔父源行家と結び、後白河に請うて頼朝追討の宣旨をえた。頼朝はこれを聞いて直ちに兵を送った。ために畿内武士は動揺し、義経は彼らの支持を失ったため、九国地頭職をえて西国に落ちんとして摂津より船出したが難破。畿内各地を転々としたが追捕の手の厳しさのため、再び奥州に秀衡を頼った。'89秀衡の没後、頼朝の圧力に屈したその子泰衡によって、居所衣川館を襲撃され自殺した。その悲劇性のゆえに死語さまざまな義経伝説が生れた。
(参)渡辺保「源義経」1966。

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年
  源義経
  君御先立ち候はば、死出の山にて御待ち候へ、
  弁慶先立ち参らせ候はば、三途の川にて待ち参らせん        弁慶

  先立ちたらば、まことに三途の川にて待ち候へ。御経もいま少しなり。
  読み果つるほどは、死したりとも、われを守護せよ           義経


 山伏姿に身をやつし、難行の旅のすえ義経一行が奥州平泉に着いたのは、文治三(1187)年の秋のことであった。
 慈父のような藤原秀衡は、一行を喜んで迎えた。義経には衣川に御所を建て、北の方には気のきいた女房一二人をつけ、供の者には五つの郡を配分するという気のくばりようであった。義経もようやく安住の地を見出したのである。
 しかしそれも、束の間の平和であった。その年の一〇月二九日、頼みの秀衡が病没するのである。死の床で秀衡は、義経の身の上ばかりを案じた。「判官殿、この入道を頼りに思し召して、はるばる妻子を具しておわしたに、今明日にも入道死したらば、暗夜に消したる如く、山野に迷い給うであろう。これだけを口惜しく思う」と苦しい息の下から言い、子息の泰衡に「自分が死んだら、鎌倉殿(頼朝)から判官を討ち奉れとの院宣を送って来て、勲功には常陸を賜うとあるだろう。しかし信用してはならない。使者は斬れ、必ず判官殿をお守りいたせ」と遺言した。
 秀衡の死を知ると、頼朝は奥州征伐を決意した。藤原氏の莫大な財力と、秀衡率いる十七万騎の兵力の前に、これまで指一本触れることができないでいたのである。
 翌文治四年二月、頼朝からの再三の請いに、後白河法皇はしぶしぶ義経追討の院宣を下した。院宣は泰衡のもとに届けられ、さらに一〇月、一一月にも下った。
 泰衡は、はじめは父の遺言を守った。しかし、父亡きあとの藤原家の事情がそれを許さなくしていた。国衡、忠衡その他三人の兄弟がそれぞれ跡目をうかがって内訌を始め、鎌倉勢を一手に引きうけて戦うという情況ではなかったのである。
 あけて文治五年、頼朝が業をにやして奥州征伐の大軍を起こすというい噂を耳にすると、泰衡はついに義経退治の請文を頼朝のもとに提出した。
 閏四月三〇日、泰衡の兵数一〇〇は衣川の館を囲んだ。これを知った義経は「空を飛び、地をくぐることも叶いがたし、自害の用意を仕る」と言って読経を始めた。
 義経のまわりの従者は武蔵坊弁慶らわずかに八名であった。彼らは義経に安らかな自害をさせようと奮戦した。その途中、弁慶が義経に別れを告げに来た。この主従には余計な言葉はいらなかった。弁慶は三途の川で待ち合わせることを約束し、再び走り出て戦ったが、全身に数十本の矢を受け、ついに薙刀を杖に立ち往生した。やがて館から火の手が上がり、戦は止んだ。
 義経の首は酒漬けにされ、炎天下を四〇日もかけて鎌倉に運ばれたが、頼朝は弟の首を腰越にとどめて鎌倉へは入れず、梶原景時を巡遣して首実験をさせ、見ようともしなかった。もともと縁のうすい兄弟である。焼けただれ、腐乱しきった首を見ても、識別がつこうはずがない。義経生存説はこうして生まれるのである。
 
 ●みなもとのよしつね
 平治元〜文治五(1159〜1189)。源義朝(よしとも)の九男、母は常磐御前(ときわごぜん)、幼名牛若(うしわか)。平治の乱で父を失い、母とともに捕らわれたが、死を免ぜられて鞍馬(くらま)寺に送られる。のち京を逃れて奥州平泉に身を寄せる。異母兄頼朝(よりとも)の挙兵に参加、木曽義仲(よしなか)を破って入洛、さらに平氏を追って一の谷で大勝利を収めた。このとき、後白河法皇から頼朝の許可なく官位を受けたことで兄弟仲は不和となった。屋島、壇の浦(だんのうら)に戦い平氏を滅亡させたが、頼朝の怒りは解けず、ついに兄弟は対立した。

「異説なるほど日本史」 河野亮&グループ 天山文庫 1992年
 義経・ジンギスカン説

「源頼朝の世界」 永井路子 中公文庫 1982年
東国武士団の棟梁源頼朝を変革の時代のなかに描く――平氏による貴族政権に立ち向ってついに潰滅させ、はなやかに歴史の表舞台におどり出た頼朝と、北条政子や東国武者らをめぐる権謀術数うずまく激烈な抗争のドラマ。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 源頼朝(みなもとのよりとも)
1147〜99(久安3〜正治1)鎌倉幕府初代将軍。
(系)清和源氏、源義朝の3男、母は熱田大宮司藤原季範の娘。(名)幼名鬼武者。
 1159(平治1)13歳の時父義朝に従って平治の乱に出陣、従五位下右兵衛佐となる。敗れて東走中捕えられたが、平清盛の継母池禅尼の力で助命され、伊豆国蛭ヶ小島に流され、20年の流人生活を送る。この間北条時政の娘北条政子と結婚し、時政の庇護をうける。'80(治承4)8月以仁王の令旨に応じて平氏討伐の兵をあげ、伊豆目代山木判官兼隆を殺したが、石橋山で敗れ、渡海して安房に逃れた。千葉常胤等の助勢をえて、たちまち房総・武蔵・相模を制し、鎌倉に入って根拠地とした。平維盛の頼朝追討軍を富士川に破り、転じて常陸国佐竹氏を討つ。鎌倉に帰還して、武士統制のため同年11月侍所を設置する。その後東海・東山諸国を勢力下におき、'83(寿永2)10月宣旨により朝廷から東国支配権を承認され、実質的に鎌倉幕府を成立させた。源義仲・平氏と天下を三分したが、'84(元暦1)弟源義経・範頼を派遣して義仲を滅ぼし、ついで'85(文治1)長門国壇ノ浦の戦で平氏を滅亡させた。'84には鎌倉の公文所・問注所を置いた。この間、後白河法皇に支援されて自専のふるまいのある義経と対立。'85義経の鎌倉入りを阻止、刺客を京都に送ったが失敗。義経に頼朝追討の宣旨が下ったのを聞くと、兵を率いて上洛しようとした。義経らが京都から落ちると、時政を代官として上洛させ、義経・源行家追捕を理由に、後白河に日本国総追捕使・総地頭職を要求し、これを獲得した。また反頼朝派の公卿を追放する一方、親頼朝派の10人の公卿を議奏とし、朝政を刷新。以後地頭問題でしばしば後白河と折衝した。'89奥州藤原氏を討滅。同年正二位。'90(建久1)上洛して後白河と会見、権大納言・右近衛大将に任ぜられ、'92後白河の死後念願の征夷大将軍となった。しかし娘大姫の入内を願って、土御門通親らに乗ぜられ、'96盟友九条兼実らの失脚をまねき、朝廷対策は崩壊した。その後まきかえしに成功しないまま、相模川の橋供養の帰路、落馬したのがもとで'99死去した。
(墓)神奈川県鎌倉市の大倉山中腹。
(参)永原慶二「源頼朝」1953、黒川高明「源頼朝文書の研究」全2巻、1987続刊。

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作成:川越原人  更新:2020/12/01