古尾谷氏と古尾谷庄

古尾谷氏・古尾谷庄に関する本です

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「古尾谷小誌」 阿部徳之助 聚海書林 1987年 ★★★
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『古尾谷小誌』発刊にあたって
第一章 古尾谷氏の興亡
(一)古代国家と古尾谷庄
 1 古尾谷の原始古代
 2 荘園の成立と発達
 3 地方政治の乱れと武士の発生
 4 古尾谷庄について
 古尾谷庄の成立/古尾谷庄本拠地の位置/古尾谷八幡宮の本家石清水八幡宮
(二)鎌倉幕府と古尾谷氏
 1 鎌倉幕府成立と武蔵武士
 2 承久の乱と古尾谷庄
 3 内藤盛時と古尾谷庄
 内藤盛時古尾谷庄の地頭となる/内藤肥後守盛時の系譜/内藤盛時の抵抗
 4 鎌倉幕府の滅亡
(三)室町幕府と古尾谷氏
 1 室町幕府の成立
 2 小手指原の合戦古尾谷一族
 3 鎌倉幕府と古尾谷刑部大輔義景
 4 平一揆と古尾谷氏
(四) 古尾谷氏の衰退
 1 鎌倉府と関東の戦乱
 2 太田道灌の死と東明寺合戦と灌頂院の焼失
 3 古尾谷氏の衰退
 古尾谷周防/古尾谷重長寄進の鐘銘/古尾谷治部左衛門/古尾谷隼人佐
第二章 古尾谷雑考
(一) 古尾谷はフルオヤかコウヤか
(二) 古尾谷八幡神社
(三) 灌頂院の草創と喜多院の尊海上人
(四) 古尾谷から鎌倉への道
(五) 伊佐氏と伊佐沼
(六) 赤城神社(古谷神社)と沼の神
(七) 譲状による古尾谷庄の地域
 茨城の古尾谷庄/秋田の古尾谷庄
(八) 古尾谷氏館(善仲寺)
(九) 古尾谷の銘がある板碑と石仏
(十) 古尾谷地域の板碑
 板碑所在地一覧
(十一)善仲寺と中筑後守資信
(十二)古谷本郷と小中居の薬師如来像
(十三)舟塚古墳にまつわる伝説
第三章 古尾谷の寺院と神社
 (一) 古尾谷の寺院群跡
 (二) 寺 院
 灌頂院/高松寺/一乗院/実相院/善仲寺/薬王寺/蓮光寺/滝岩院/長谷寺
 (三) 主な信仰の概説
 1氷川さま/2稲荷さま/3神明さま/4姥神さま/5庚申さま/6道祖神/7地蔵さま/8馬頭観世音/9お諏訪さま/10愛宕さま/11阿蘇神社
 (四) 神 社
 神明神社(小中居)/氷川神社(大中居)/稲荷神社(高島)/稲荷神社(八ツ島)/氷川神社(南田島)/稲荷神社(牛子)/稲荷神社(木野目)/氷川神社(並木)/神明神社(今泉)/氷川神社(久下戸)/稲荷神社(渋井)/氷川神社(古市場)/南古谷神社(古市場)/阿蘇神社(字南畑)/古谷神社
古尾谷氏関係略年表
参考文献
あとがき

「埼玉史談 第31巻第1号」 埼玉郷土文化会 1984年4月号 ★★
 国人領主古尾谷氏の性格 大図口承
はじめに
真壁長岡文書と古尾谷氏
古尾谷氏の本領
古尾谷氏の系譜
戦国期の古尾谷氏

「埼玉史談 第31巻第3号」 埼玉郷土文化会 1984年10月号 ★★
 中世古尾谷の在地と支配 大図口承
はじめに
古尾谷庄の性格
古尾谷庄の成立
古尾谷氏の登場

「埼玉史談 第48巻第3号」 埼玉郷土文化会 2001年10月号 ★★
 古尾谷庄と八幡宮  栗原仲道

「埼玉の館城跡」 埼玉県教育委員会編 国書刊行会 1987年  ★★
 60 善仲寺館
種     別
所  在  地川越市古谷上堀の内4133〜4245番地
交 通 の 便川越線南古谷駅下車徒歩20分、西武バス本川越駅発大宮行古谷上停留所下車徒歩3分
土 地 所 有 者私有地(同所 善仲寺ほか)
立地・形態・面積平地 長方形 約75600u(約22800坪)
遺     構土塁・堀(空堀、水堀)共一部残存。
築 造 年 代南北朝時代か
城 主・居住者中筑後守資信
文 献・絵 図新編武蔵風土記稿(公刊) 武蔵国郡村誌(公刊)
関 係 事 項五輪塔 小名「ミカド」・「門前」
伝 承・記 録善仲寺の開基は中筑後守資信で、主君古尾谷殿の為に、古尾谷氏城跡に寺院を建立したという。古尾谷氏は鎌倉時代から源氏に属した武士で、南北朝時代には足利尊氏に従って大いに活躍した行部大輔などがいる。この居館の築造年代は不明だが、初め古尾谷氏の居館であったものを戦国時代に家臣の中筑後守が拠ったものであろう。

「川越の城館跡 (改訂版) T氏自費出版 2004年 ★★★
D善仲寺館(平安時代末期〜1590年?:大字古谷上堀の内4133〜4245番地・善仲寺)
歴史:
 鎌倉幕府御家人の古尾谷氏の館。幕府公式文書「吾妻鏡」に存在がみえる。室町時代、足利尊氏に従った古尾谷刑部大輔もいる。新編武蔵風土記稿によれば、小田原北条氏時代にも古尾谷氏は別の領地で存在していたようである。
 後、小田原北条氏の岩槻衆である仲筑後守資信が善仲寺を建立し、居館としていたという。寺と館の関係は不明であるが、仲氏は古尾谷氏の家臣であったという。なぜ古尾谷氏が古谷の地を離れたのか不明である。
 仲姓は現在でも川越市に存在し、1590年過ぎに新田に移り住んだようである。小田原北条氏滅亡と共に帰農した可能性が高い。
 
立地:
 川越市内から国道16号線古谷交差点を左折、和菓子の「紋蔵庵本店」の前を通過し、その先は電柱の標識を目安にするとよいだろう。近辺の道は、細く、うねりの多い道なので迷いやすい。
 まったくの平地であり、今でも四方に水田が広がる。「埼玉の館城跡」によれば、約22,800坪余りの広さである。どのような算出か不明だが、かなり広大である。
 東方面は遠く入間川となっており、他方面は湿地帯か水田だったことだろう。近隣には、紛らわしい用水路が多く、堀との区別が困難だ。
 なお、山門前の一帯は空堀であったという。
 
遺構:
 寺に対して水堀が南北200m、東西250mくらいの大きさで取り囲む。また、堀内の本堂裏には土塁と水堀が残る。本堂東にも水堀が残る。恐らく本堂まわりの部分が古尾谷氏の遺構なのではないか。初期方形館の典型的な遺構であろう。

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作成:川越原人  更新:2020/11/02