はじめに
真壁長岡文書と古尾谷氏
古尾谷氏の本領
古尾谷氏の系譜
戦国期の古尾谷氏
はじめに
古尾谷庄の性格
古尾谷庄の成立
古尾谷氏の登場
種 別 | 館 |
所 在 地 | 川越市古谷上堀の内4133〜4245番地 |
交 通 の 便 | 川越線南古谷駅下車徒歩20分、西武バス本川越駅発大宮行古谷上停留所下車徒歩3分 |
土 地 所 有 者 | 私有地(同所 善仲寺ほか) |
立地・形態・面積 | 平地 長方形 約75600u(約22800坪) |
遺 構 | 土塁・堀(空堀、水堀)共一部残存。 |
築 造 年 代 | 南北朝時代か |
城 主・居住者 | 中筑後守資信 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿(公刊) 武蔵国郡村誌(公刊) |
関 係 事 項 | 五輪塔 小名「ミカド」・「門前」 |
伝 承・記 録 | 善仲寺の開基は中筑後守資信で、主君古尾谷殿の為に、古尾谷氏城跡に寺院を建立したという。古尾谷氏は鎌倉時代から源氏に属した武士で、南北朝時代には足利尊氏に従って大いに活躍した行部大輔などがいる。この居館の築造年代は不明だが、初め古尾谷氏の居館であったものを戦国時代に家臣の中筑後守が拠ったものであろう。 |
歴史:
鎌倉幕府御家人の古尾谷氏の館。幕府公式文書「吾妻鏡」に存在がみえる。室町時代、足利尊氏に従った古尾谷刑部大輔もいる。新編武蔵風土記稿によれば、小田原北条氏時代にも古尾谷氏は別の領地で存在していたようである。
後、小田原北条氏の岩槻衆である仲筑後守資信が善仲寺を建立し、居館としていたという。寺と館の関係は不明であるが、仲氏は古尾谷氏の家臣であったという。なぜ古尾谷氏が古谷の地を離れたのか不明である。
仲姓は現在でも川越市に存在し、1590年過ぎに新田に移り住んだようである。小田原北条氏滅亡と共に帰農した可能性が高い。
立地:
川越市内から国道16号線古谷交差点を左折、和菓子の「紋蔵庵本店」の前を通過し、その先は電柱の標識を目安にするとよいだろう。近辺の道は、細く、うねりの多い道なので迷いやすい。
まったくの平地であり、今でも四方に水田が広がる。「埼玉の館城跡」によれば、約22,800坪余りの広さである。どのような算出か不明だが、かなり広大である。
東方面は遠く入間川となっており、他方面は湿地帯か水田だったことだろう。近隣には、紛らわしい用水路が多く、堀との区別が困難だ。
なお、山門前の一帯は空堀であったという。
遺構:
寺に対して水堀が南北200m、東西250mくらいの大きさで取り囲む。また、堀内の本堂裏には土塁と水堀が残る。本堂東にも水堀が残る。恐らく本堂まわりの部分が古尾谷氏の遺構なのではないか。初期方形館の典型的な遺構であろう。