川越城跡の近所に住んでいるためか、城への興味は絶えませんでした。幼少の頃は、川越城中郭の空掘の底で遊んだり、田郭の水堀で魚を取ったりしていました。ところが、いつの頃からそれらが消滅していたのです。
そのような訳で改めて川越城を調べ直そうと思いましたが、やるならば川越市すべての城を調べようと思い今回の調査に至りました。
最初は、勘だけが頼りでしたが、失敗の連続でした。善仲寺館(古尾谷氏の館)を調べるつもりが古尾谷八幡神社へ行ってしまいました。弾正館は第一中学校の場所が、南院の跡地ではないかと思い随分探しました。また、広谷南城は4回目の挑戦でやっと城跡が発見できました。
図書館へも数十回足を運び、「武蔵国郡村誌」、「川越市史」、「埼玉県史」、「日本城郭体系」など様々な資料を読みました。しかし、城館の跡地の特定は非常に困難であり、これらの資料は参考になりませんでした。
最も良質と思われた資料は、江戸時代後期(1810年〜1828年)に江戸幕府により編纂された「新編武蔵風土記稿」でした。非常に細かく調査をしており、編纂の苦労が窺われます。城館に限らず、郷土史に興味のある方は、一度お読みになることをお勧めします。
しかし、その中でも「不明」とされている城館については難問でした。特に「高麗郡下広谷村、古跡三か所」の記述をどう解釈してよいのか困りました。というのも現地を調べた結果、「古跡五か所」となってしましました。よって中田正光氏著の「埼玉の古城址」を参考にしました。また、「城の名前」、「縄張り」についても引用させていただきました。
現在の研究書、研究者によってこの下広谷地区の三か所の遺構を、どこに定めているか様々でした。しかし、規模、遺構の残存状態から考えますと、中田正光氏説が的を射ているのではないかと思われます。この地区の一部の遺構は発掘調査も行われているようですので、ぜひ歴史解明と保存に努めて頂きたいです。
さらに難問は続き、今成地区の四か所の館跡が特定できませんでした。調べられる限りの文献はすべて読みましたが、「入間郡誌」によれば月吉館と今成館を除き、明治時代末期には不明となってしまったようです。この地区の館跡については、推定地であることをご了承ください。
参考までに「新編武蔵風土記稿」で死後まで不明だった点を現代訳にしてみました。その他、記載されていました屋敷等に関する事項をまとめてみました。
●下広谷村、古跡三ヶ所、地元の人でも誰の館の跡か伝わらない。土地は平坦で樹木が多い。
一つ目は、村の北東にあり、東西北の三方に二重の堀がある。深さ一丈(約1.2m〜1.5m)、南の構えと見える。東西の堀の長さ六十間(約110m)、南北は百間(約182m)である(注釈:堀の特徴、長さ、深さから判断して大堀山城と推定)。
二つ目は、村の中ほどにある。東西の堀の長さ三十間(約55m)、南北は七十間(約130m)、深さ六尺(約1.8m)、東は二重堀、西南北は一重である。これも南の構えと見える(注釈:城の位置、堀の特徴、長さ、深さから判断して広谷南城と推定)。
三つ目は、村の東にあり、堀の長さ三十間(約55m)、深さ三尺(約0.9m)、土地の人は構山という(注釈:該当する城跡の判断が難しい)。
上戸の城(注釈:河越氏館)と関係があるのだろうか、または、川越城から二里(約8Km)の地点であり砦などの跡であろうか。
●今成村の今成屋敷、村の西にあり、この村を開墾した川田今成が住んだ所、備前守と称し、北条新九郎(注釈:小田原北条氏)の子孫と伝わる。今は百姓喜太夫が子孫として住む。氏を川田として三ツ鱗(注釈:小田原北条氏の家紋)を使う。
●今成の月吉屋敷、村の南東にあり、陸田(注釈:畑)となっている。その広さ、二段(たん)四畝(せ)(約720坪)、月吉は文明年間(1400年代後半)の頃の人物だ。
今成村の日吉屋敷、村の南西にあり、陸田(注釈:畑)となっている。その広さ、一段(たん)二〜三畝(せ)(約330坪〜360坪)。日吉は開墾した人か詳しく分からず、月吉に対して別の姓を持っていたのか、今は分からない。
●今成村の神田屋敷、名主喜兵衛の屋敷内(注釈:現在は不明)にあり、前者を含めてこの土地の開墾者といえる。
●砂久保村、上杉憲政陣所跡。河越夜戦の陣跡。小田原記の砂窪とは、この場所。しかし、具体的な陣の場所、合戦などすべてについて伝わっていない。もともと広野であって新しい村なので、何も伝わらなかったのだろう(注釈:現在、砂久保陣場の伝承地は、砂久保の稲荷神社付近になっているが根拠はない)。
●福田村の小字地名の櫓下、松山城(注釈:現在、吉見町に県内でも屈指の城跡がある)があった頃、川越城攻めの時(注釈:上杉氏からの攻撃のことか)、櫓を建てたため地名が残る。
●小堤村の小字地名の陣場、昔ここで陣揃え(注釈:合戦の準備)をした場所という。
●上寺山村の寺山佐渡守宗友の住居跡、天文年間(1500年代前半)にあったようだが、今はどこが住居跡か伝わらない。
●野田村(注釈:旧町名から三光町北部と思われる)の五反屋敷、松平大和守(注釈:1800年代前半の川越城主)の家来の住居がある。
●岸村の小字地名、門、これは古くは地頭の長田金平が住んでいた住居の門の跡と伝わる。
●松郷付新田(注釈:現在の中原町、六軒町近辺)の松井屋敷(注釈:どの様な屋敷か記載なし)。
●松郷付新田(注釈:現在の中原町、六軒町近辺)の六反屋敷(注釈:どの様な屋敷か記載なし)。
●喜多町の鍋屋屋敷、昔この場所に鍋師である谷澤某が住んでいたための地名。
●大仙波村の宿屋敷、街道の東裏をいう。昔は山田の町と呼び、宿駅があった場所と伝わる。
●大仙波村の小字地名、なかま屋敷(注釈:どのような屋敷か記載なし)。
●大袋村の小字地名、宿屋敷(注釈:どのような屋敷か記載なし)。
●藤間村の蔵屋敷、東の方にあり、二十四段(約7,200坪)あまりの場所をいう。地頭の米津氏の蔵屋敷のあった場所という。
●鯨井村の郷蔵屋敷、村の字天王という場所にあり、六畝(せ)(約180坪)の中に土蔵がある。五間(約9m)に、二間半(約4.5m)の大きさで、村の普請である。
歴史:
新編武蔵風土記稿では、川田備前守今成の屋敷とのことだ。真偽は不明だが、この人物は北条早雲または北条氏綱の子という。また江戸時代末期にその子孫という百姓喜太夫が住んでいたという。
入間郡誌によれば、川田備前守今成の子孫が住んでいたが、明治時代末期、川越の街へ引っ越したと記している。安楽寺の近辺に住んでいらっしゃる川田姓の方に尋ねたが分からないとのことであった。
川越夜戦の際、西方面の布陣に関して、今成の地に北条方が、入間川を挟んで上戸河越館に上杉方が布陣したようだ。今成は、平時は館として使用し、非常時は西の陣城の役割を果たしたのではないか。
立地:
新編武蔵風土記稿では旧今成村の安楽寺(今成3丁目18番地6)近辺、村の西にあるとしている。
また、入間郡誌によれば、同じく安楽寺の東に続く、広潤なる宅地の場所であるとしている。入間郡誌で「続く」という記載が地続きであると解釈すれば、安楽寺の山門前の一帯が推定地となるのだが、決定的な確証は得られなかった。
遺構:
現在の推定地は宅地であると思われる。宅地の周辺は用水路が多く、何らかの形で堀にしていたのではないだろうか。→今成
種 別 | 館 |
所 在 地 | 川越市今成町 |
交 通 の 便 | 東上線川越市駅下車徒歩10分 |
土 地 所 有 者 | 私有地 |
立地・形態・面積 | 平地 不明 不明 |
遺 構 | 不詳 |
築 造 年 代 | 戦国時代末期 |
城 主・居住者 | 伝川田備前守今成 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿(公刊) 武蔵国郡村誌(公刊) 入間郡誌(公刊) |
関 係 事 項 | 小名「川田」 |
伝 承・記 録 | 新記によれば旧今成村の安楽寺につづいた所が今成屋敷のあったところで、川田備前守今成が住んでいたという。この今成は北条新九郎の子孫だというが、新九郎が北条早雲または氏綱のいずれを指すのか不明である。また江戸時代末期にさらにその子孫だといわれる百姓喜太夫が住んでいて、三つ鱗の家紋だったという。昔は今成の小名に「川田」があったようだが、現在この小名は残っていない。いずれにしても今成は今成村を最初に開墾した者だと考えられ、戦国時代と推定される。現在、今成町という地名だけが存在する。 |
種 別 | 館 |
所 在 地 | 川越市下老袋 |
交 通 の 便 | 川越線川越駅より芳野中学校行バス芳野中学校下車 |
土 地 所 有 者 | 私有地 |
立地・形態・面積 | 平地 不明 不明 |
遺 構 | なし。 |
築 造 年 代 | 戦国時代 |
城 主・居住者 | 道祖土康成・図書助康満(康成の孫) |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿(公刊) 入間郡誌(公刊) 道祖土系図 |
関 係 事 項 | 地名「御所」 |
伝 承・記 録 | 道祖土系図に下総守康成、北条氏に仕え、比企郡老袋に住すと載せる。土地では御所跡と呼んでいるが、恐らく道祖土氏の館のあった場所であろう。(以上新記による)。館跡は下老袋玉泉寺付近であるというが、今は何も残っていない。「小田原北条役帳」には、康成の孫にあたる図書助康満がやはりこの地で50貫を領していたことが記載されている。 |
種 別 | 館 |
所 在 地 | 川越市下広谷牛原南332・333番地 |
交 通 の 便 | 東上線鶴ヶ島駅下車徒歩30分、東武バス川越駅発坂戸町行小堤下車徒歩20分 |
土 地 所 有 者 | 私有地(東京都板橋区稲荷台12 高木栄蔵ほか) |
立地・形態・面積 | 平地 正方形 約30240u(約9160坪) |
遺 構 | 土塁・空堀共よく残っている。水堀はない。 |
築 造 年 代 | 鎌倉時代(推定) |
城 主・居住者 | 不明 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿・武蔵国郡村誌・入間郡誌(以上公刊) |
伝 承・記 録 | 新記、郡村誌の下広谷の項に古跡三ヵ所として、記載されているもので、通称大堀山と称している。築造者・築造年代・居住者とも一切不明である。 |
種 別 | 陣所 |
所 在 地 | 川越市砂久保見付66番地 |
交 通 の 便 | 東上線新河岸駅下車徒歩15分 |
土 地 所 有 者 | 私有地(同所 加藤百太郎) |
立地・形態・面積 | 平地 不明 不明 |
遺 構 | なし。 |
築 造 年 代 | 室町時代 |
城 主・居住者 | 上杉憲政 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿(公刊) 武蔵国郡村誌(公刊) 入間郡誌(公刊) 河越記(公刊) 小田原記(公刊) |
関 係 事 項 | 稲荷神社 |
伝 承・記 録 | 河越夜戦の上杉憲政の陣所。天文14年上杉憲政が川越城奪回を企て8万の大軍を従えて川越城守将北条綱成に対して設けた陣所で、綱成の手勢わずかに3千人で防戦すること8か月、北条氏康の援軍8千人が砂久保の憲政の陣を急襲し、これを敗走せしめた合戦の場でもある。 |
種 別 | 館 |
所 在 地 | 川越市仙波町1丁目12、13番地 |
交 通 の 便 | 東上線川越駅下車徒歩13分 |
土 地 所 有 者 | 市有地(市営住宅) |
立地・形態・面積 | 台地 不明 東西1町40間 南北2町30間 |
遺 構 | なし。 |
築 造 年 代 | 不明 |
城 主・居住者 | 筑後弾正 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿(公刊) 入間郡誌(公刊) 武蔵国郡村誌(公刊) 埼玉県史第4巻(公刊) |
関 係 事 項 | 小名「弾正」 |
伝 承・記 録 | 昔、筑後弾正なるものの住んだところというが、その年代及び出自不明、新記は川越城上杉氏に仕えた難波田弾正のことであろうかと述べている。 |
種 別 | 館 |
所 在 地 | 川越市月吉町(旧今成村) |
交 通 の 便 | 東上線川越市駅下車徒歩10分 |
土 地 所 有 者 | 私有地 |
立地・形態・面積 | 平地 不明 不明 |
遺 構 | なし。 |
築 造 年 代 | 室町時代か |
城 主・居住者 | 不明。 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿(公刊) 武蔵国郡村誌(公刊) 入間郡誌(公刊) 廻国雑記(道興准后著、公刊) |
伝 承・記 録 | 「廻国雑記」に「月吉といへるもののふ侍り、いささか連歌などたしなみけるとなん」とあり、文明年間、月吉という武士のいたことがわかる。新記は旧今成村にあった今成屋敷、月吉屋敷、神田屋敷の三つとともに、月吉がこの地方の開発地主であったのではないかと述べている。 |
種 別 | 城 |
所 在 地 | 川越市寺尾川原、同市下新河岸川岸、同市上新河岸台耕 |
交 通 の 便 | 東上線新河岸駅下車徒歩1分、東武バス川越駅発下新河岸下車徒歩5分 |
土 地 所 有 者 | 私有地 |
立地・形態・面積 | 台地 長方形 不明 |
遺 構 | なし。 |
築 造 年 代 | 室町時代 |
城 主・居住者 | 諏訪右馬亮 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿・武蔵国郡村誌・小田原北条役帳・小田原記・武蔵野話(以上公刊) |
関 係 事 項 | 城山霊園 城山稲荷 猫山ノ家 |
伝 承・記 録 | 寺尾城は後北条氏の家臣諏訪右馬亮の居城という。橘樹郡寺尾の支郷馬場村にも、諏訪三河守の居城跡と称するのがあって、諏訪氏の旧跡という。 |
種 別 | 陣屋 |
所 在 地 | 川越市小室 |
交 通 の 便 | 川越線西川越駅下車 |
土 地 所 有 者 | 私有地 |
立地・形態・面積 | 平地・台地 不明 不明 |
遺 構 | なし。 |
築 造 年 代 | 江戸時代 |
城 主・居住者 | 水野多宮守重 |
文 献・絵 図 | 武蔵国郡村誌(公刊) 入間郡誌(公刊) 日本城郭全集4(公刊) 新編武蔵風土記稿巻168(公刊) |
関 係 事 項 | 法心寺 |
伝 承・記 録 | 家康関東入国後、玉縄城を預ったという水野忠守が、領地の関係で当地に陣屋をおいたものと考えられる。なお隣接の法心寺は水野氏の中興という。 |
種 別 | 館 |
所 在 地 | 川越市小仙波町1丁目堀の内1-21番地、同西小仙波町1丁目堀の内2-22番地 |
交 通 の 便 | 東上線川越駅下車徒歩30分 東武バス川越駅発宮下町行喜多院前下車徒歩1分 |
土 地 所 有 者 | 私有地(同所 喜多院、東照宮) |
立地・形態・面積 | 平地 不明 約157500u(約47700坪) |
遺 構 | 土塁・水堀共なし。空堀一部残存。 |
築 造 年 代 | 不明 |
城 主・居住者 | 不明 |
文 献・絵 図 | 武蔵国郡村誌(公刊) 小仙波村全図(天保年間、喜多院所蔵) 喜多院境内図(天保年間、川越市立図書館蔵) |
伝 承・記 録 | 鎌倉時代中期、尊海が開基した無量寿寺のあとで、江戸時代初期に東照宮が建築されたが、それらの寺社の堀の内なのか、それ以前の中世の館址なのかは不明。 |
種 別 | 不明 |
所 在 地 | 川越市吉田堀ノ内77-121番地 |
交 通 の 便 | 東上線鶴ヶ島駅下車徒歩10分、東武バス川越駅発坂戸町行吉田下車徒歩2分 |
土 地 所 有 者 | 私有地 |
立地・形態・面積 | 平地 不明 不明 |
遺 構 | なし。 |
築 造 年 代 | 不明 |
城 主・居住者 | 不明 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿(公刊) |
伝 承・記 録 | 俗称吉田山。吉田城があったという。付近に三日市場、女堀などの小名があるが、築造年代、築造者、居住者は一切不明。 |
種 別 | 館 |
所 在 地 | 川越市下広谷 |
交 通 の 便 | 東武バス川越駅発坂戸町行小堤下車徒歩40分 |
土 地 所 有 者 | 不詳 |
立地・形態・面積 | 台地 正方形 120000u(約3600坪) |
遺 構 | 土塁・空堀共よく残っている。水堀はなし。 |
築 造 年 代 | 不明 |
城 主・居住者 | 不明 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿(公刊) 武蔵国郡村誌(公刊) |
伝 承・記 録 | 「新記」・「郡村誌」に古跡3か所「土人城の跡と唱えて何人の居跡なるを伝えず」と記載されている。該当記事の一つで、一番東方に所在する。築造年代、築造者、居住者等一切不明。 |
種 別 | 館 |
所 在 地 | 川越市下広谷宮前420・421番地 |
交 通 の 便 | 東上線鶴ヶ島駅下車徒歩30分、東武バス川越駅発坂戸町行小堤下車徒歩30分 |
土 地 所 有 者 | 私有地(川越市下小坂 福島角次郎ほか) |
立地・形態・面積 | 平地 長方形 約19800u(約5780坪) |
遺 構 | 土塁・空堀共よく残っている。水堀はない。 |
築 造 年 代 | 南北朝時代(推定) |
城 主・居住者 | 不明 |
文 献・絵 図 | 新編武蔵風土記稿・武蔵国郡村誌・入間郡誌(以上公刊) |
伝 承・記 録 | 新記、郡村誌の高麗郡下広谷村の項に古跡ケ跡と所載されるもので、該当は第2項若しくは第3項のものと思われる。築造年代、築造者、居住したもの一切不明。 |