小説・物語の中の川越(7)

戦国時代以前を扱った小説・物語です

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「箱根の坂(上)(中)(下)」 司馬遼太郎 講談社文庫 1987年 ★★
  (上)
 応仁ノ乱で荒れる京都、室町幕府の官吏伊勢氏一門の末席に、伊勢新九郎、後の北条早雲が居た。家伝の鞍作りの明け暮れ、毒にも薬にもならぬ人間で、生涯を事なく送ることが望み、と考えていた新九郎の許に、妹分の美しい娘、千萱が訪ねて来て――。激動する時代と共に自分の生き方を変えてゆく早雲。
  (中)
 守護今川義忠の死による混乱を鎮めるため、早雲は駿河に下り、嫡子竜王丸を後見することになる。室町幕府の力は無きに等しく、国人、地侍たちが力を示し始めた大きな時代の変化を、鋭く先取りした早雲は、天性の智略で彼等の信望を得、見事に政敵を退けた。有名な、北条の治世の土台を築いた早雲。
  (下)
 関東制覇をめざして、先ず伊豆を切り取った早雲は、越えがたい箱根の坂を越えて、ついに小田原攻略に成功した。まさにこの時、戦国の幕が切って落されたのである。伝統的教養と近代的領国経営法で関東の覇者となり、治世の理想を実現させ、歴史を変えていった男、北条早雲を描く傑作長編小説完結。
  秋の涯

 坂東の野には、数こそすくないが、ゆたかに流れる水流がある。
 早雲がめざしているのは、そのうちのひとつである荒川の中流であった。
 荒川は、秩父の山から発している。長流五十余里、下流は『古今集』のむかしから隅田川とよばれる。中流は、熊谷(現・埼玉県)から川越(同上)のあたりで、平坦な野をゆるやかに流れている。
 荒川中流の両岸の野には、城が多い。
 扇谷上杉定正が拠るのは川越城である。
 これに対し、山内上杉顕定は、鉢形城に拠っていた。
 ほかに、蕨、大和田、岩槻、三ツ木、菖蒲、忍、深谷、本庄、金窪、雉岡などがあり、また、勝呂、菅谷、松山、天神山などが両軍の拠点で、敵味方が入りまじっているといっていい。
(この広闊な野で、城でも築かねば、軍兵の集散のしようもあるまい)
 と、早雲はおもった。
 どの城も、最初は地頭の居館程度であったのが、両軍の十余年の戦いのあいだにしだいに攻防のための結構をととのえるようになった。いざというとき、大軍を一ヵ所に集めるには、平素、相当な人数を収容できる城をつくっておかねばならない。このため、両上杉は、この北部武蔵のせまい地域をいわば将棋の盤として、駒数ほどの城をもっていた。
 なかでも、定正が拠る川越城はぬきんでて規模が大きかった。かつて太田道真道灌父子が江戸城とともに築城したもので、多くの土塁と濠が複雑に組みあわせられ、平場の城である弱点がみごとに解決されていた。
 大手門は、南にひらかれている。その前面にも三日月型の土塁がそびえ、空掘がうがたれていて、門内に入るとさらに堀と土塁があって二重に敵をふせいでおり、それを入ったところが三ノ丸である。
 早雲は、三ノ丸の西側の内曲輪をあたえられた。そこには建物がなかったため、大いそぎで小屋掛けをした。
「貴殿は、外様である。であるのに、大手門の内側に入れていただいたことをありがたく思ってもらわねばならない」
 と、申次の者から恩に着せられた。
 早雲は、毎日本丸に伺候した。
 内曲輪から本丸へゆくには、三ノ丸外曲輪と八幡曲輪をへて二ノ丸に入り、しかるのちに本丸の台上にのぼる。
 これらの設計のみごとさを見るにつけ、亡き道灌という人物の尋常ならなさがわかった。
 そのことで定正にほめると、定正は道灌を謀殺した男だけに、いい顔をせず、
「城は、怯者のための穴だ。わしは野外で運命をきめる」
 と、方角外れの返答をした。

 (中略)

 武州川越城の東方に、沼がある。
 沼には魚が多く、ふちには蓮が自生して蓮根がとれる。村人たちのくらしにとって欠かせぬ沼だった。
 沼の北端は、三芳野という優雅な名でよばれる半湿地で、そのこには田もある。あぜ道ほどに細い道ながら、東方からの古い街道がとおっていた。この道のことを、ひとびとは、
「往還」 
 とよんでいた。はるかに鎌倉に通ずる道だった。
 ある日、その往還に、一列縦隊の軍兵が見えた。
「公方がみえた」
 という声が城内を駆けめぐって、騒然となった。もっとも、早雲のような低い身分の武将のもとには、何の連絡もない。
「古河公方のことであろう」
 早雲は、手の者にいった。
「扇谷殿(上杉定正)が、公方をお招びしたのちがいない。このいくさは、扇谷殿に有利になる」
 早雲は、想像していた。
 古河公方という、関東随一の貴人をこの川越城にまねき、城頭にその旗をかかげる。公方である足利成氏はただこの城にすわっているだけで、扇谷方が公になり、山内上杉氏の顕定のほうは私になる。
 このため、定正は公方に対し、弁舌の立つ者を送り、利害を説いたり、取り入らせたりして工作をつづけたにちがいない。
(ついに、公方が出てきたわ)
 と、早雲はおかしかった。
 関東公方は、二人いた。ひとりは伊豆堀越でとどまってついに関東にはいれなかった足利正知(茶々丸の父)であり、これはすでに亡く、公方家も消滅した。いま一人は、下総国古河(現・茨城県の最西端)に住んでいるために古河公方とよばれる足利成氏である。

 (中略)

(公方は、よほどの歳ではあるまいか)
 早雲は、古河公方足利成氏についてそのようにおもい、心覚えの控え帳を繰ってみると、寅年だった。六十を一つか二つ越えている。
(かの公方の前半生のめまぐるしさよ)
 僧たちは、世事が移りやすく人の身ははかないというが、成氏の一代の有為転変のはげしさは、気の毒というより滑稽なほどである。
 かれは鎌倉にいた関東公方の第四代足利持氏の第三子にうまれた。持氏が、その執事上杉憲実と戦って敗れ、自殺したとき、六歳だった。
 兄の春王と安王は日光にのがれ、当時永寿という幼名でよばれていた成氏は信濃にのがれて、実母の実家の大井氏に保護された。
 日光にのがれた春王と安王は、結城氏に保護をもとめた。結城氏は、古河の古城を増改築してこの二人を迎え、兵をあつめて上杉氏と対抗したが、さまざまな経緯のすえ、結城氏も古河城も陥され、春王と安王も死んだ。
 その後、関東のみだれがおさまらず、ひとびとが、
「貴き人、おわさざるゆえにや(身分のとびはなれて高貴な人――つまりは公方――がいらっしゃらないからではないか)」
 と考え、京の将軍家に了承を得、信濃に人をやって成氏をむかえた。もどってきた成氏はうらみを晴らすべく上杉氏と戦おうとしたが、謀議が漏れ、一時、江ノ島に奔ったりした。のち、力持ち一人をやとい、上杉氏の当主憲忠を自邸によび、憲忠が門に入ろうとするところを撃殺させた。
(古い話だ)
 早雲にとってそれらは、耳できいているが伝承の時代なのである。
 上杉氏の党類はみな成氏に対して憤慨し、公方を相手に関東の各地で戦った。すでにそのころの川越城の上杉定正は扇谷上杉氏の当主になっていて、成氏を追いまわす側になっていたのだから、こんにちの同盟はふしぎなほどである。
 その後、足利成氏は両上杉のそれぞれと離れたりついたりした。一時期山内上杉の顕定と蜜をなめあうような仲で、扇谷の上杉定正をひどくきらっていた。ところが、顕定の配下の太田氏が古河公方の領域をしきりに侵しはじめ、かつ顕定も成氏をうとんじはじめたため、関係が冷えた。
 そこへ定正が口説いたために、成氏はこのほうへ転んだ。本来、独立自尊を保つべき存在なのだが、しかし公方をという権威をもつ以上、借りにくる者に貸したくなるらしい。
 古河公方足利成氏は、上杉定正に擁せられて川越城の本丸に入った。
 城頭に、足利家の旗がひるがえると、城内の士気は大いにあがった。

 (以下略) 
「さいたま文学紀行 作家たちの描いた風景 朝日新聞さいたま総局編 さきたま出版会 2009年 ★★
「箱根の坂」 司馬遼太郎
 「歴史の十字路」だった
 高校球児の活躍の舞台となる川越市の初雁(はつかり)公園野球場。ここに川越城の堀と馬場があった。すぐそばに、城の威容を伝える遺構、県指定文化財の本丸御殿があり、観光客の姿が絶えない。
 『箱根の坂』は、戦国時代の先駆けとなった北条早雲(ほうじょうそううん)の一代記。司馬遼太郎(しばりょうたろう)、五〇歳代末の作だ。一五世紀の京の都や駿河(するが)、相模(さがみ)が舞台だが、「箱根の坂」を越えた早雲の関東進出にともない、武蔵の国も登場する。
 当時の武蔵は扇谷(おうぎがやつ)上杉と山内(やまのうち)上杉の両関東管領家が覇権を争っていた。これに古河公方が加わり、武蔵野の台地は血なまぐさい抗争が繰り返される。
 川越城を造ったのは太田道真道灌(どうかん)父子。主君扇谷上杉持朝(もちとも)の命だった。道灌は江戸城を造ったことでも知られるが、謀略に遭い、扇谷上杉氏に殺されてしまう。早雲は扇谷上杉方につき、その川越城に入る。
 <荒川中流の両岸の野には、城が多い。(中略)(この広闊(こうかつ)な野で、城でも築かねば、軍兵の集散のしようもあるまい)と、早雲は思った。>
 物語の中で主戦場になったのは、川越城から寄居町の鉢形城までの一帯だ。
 「当時、このあたりは歴史の十字路だった」と話すのは、梅沢太久夫・元県立歴史資料館館長。経糸に鎌倉からの鎌倉街道が通り、荒川と都幾川を結ぶ横糸に、両上杉の最前線の城がずらりと並んでいた。
 早雲の時代、城に天守閣はない。堀や土塁で固めた、戦いのための拠点だ。川越城も例外ではない。出土品から推測できる城の面積は江戸時代の三分の一程度だったらしい。川越城から道灌の銅像が立つ市役所前を通り、東明寺に向かう。城から歩いて一〇分ほどの寺周辺では、世上名高い「川越夜戦」があった。
 早雲没後、川越城は北条のものとなる。台頭する北条氏に両上杉は手を結び、八万の大軍で城を取り囲む。しかし、油断した上杉連合軍は一万余りの北条軍に破れる。
 往時の激戦の様子をうかがえるものは何もない。境内にひっそりと「川越夜戦跡」と書かれた石碑が、大銀杏(いちょう)の前に立っていた。   (二〇〇六年一一月三日)
 
(Memo)司馬遼太郎(一九二三〜九六)は『梟の城』<一九五九(昭和三四)年>で直木賞受賞以後、伝奇的歴史小説から史伝的な方向に変わったとされる。『箱根の坂』では川越、鉢形のほか、高見原(小川町)や赤浜(寄居町)、菅谷(嵐山町)、花園(現深谷市)などの地名が登場する。川越城が整備・拡張されたのは江戸時代になってからで、本丸御殿は一九世紀の造営。

「北条早雲」 中村晃 PHP文庫 1996年 ★★
「新九郎(早雲)どの、京でも立派に頭角を現わせるものを、なぜ駿河に恋々となさるのか?」「京には夢がない。あるのは過去の形骸だけ。関東は未開の地。わしの入り込める余地は十分にある。血がうずくのだ」。―将軍の申次衆という要職にありながら、突如野に下り、東国に新天地を目指した北条早雲。訪れた転機に人生のすべてを賭し、己れの夢を実現させた戦国武将の生涯。

第九章 三浦道寸
 永正元年(1504)夏、早雲はまたしても扇谷上杉の朝良から、出陣の命令を受けた。相手は宿敵山内上杉の顕定である。早雲は苦笑せずにはおれなかった。
 ――しょうこりもなく戦うものかな。
 早雲にとって、両上杉がいがみ合うのはよかった。ただその都度、それに巻き込まれることに、いささか嫌気がさしていた。早雲が狙っている当面の敵は道寸である。彼を討たなければ相模の国の平定はなかった。いざ三浦攻めに入ろうとしたときに、きまってこれだと早雲は舌打ちした。朝良からの出陣命令は、早雲にとってははなはだ迷惑だったが、反面それを拒絶して道寸を攻めることは、決して早雲にとって得策ではなかった。早雲はこう思って自分をなぐさめた。
 ――道寸の運の強さよ。だが、それももうしばらくだ。
 この出陣命令は駿河の今川氏親にも来ていた。氏親は小田原城で早雲と合流し、鎌倉へと兵を進めた。
 戦いは顕定が仕掛けた。顕定は武蔵上戸より川越城下仙波に陣を進めた。その翌日には朝良が立て籠る川越城に、猛然と攻撃を仕掛けていった。しかし城の守りが固く、顕定もこれを攻略できなかった。やむなく顕定もこの攻撃を断念し、九月、兵を返して武蔵白子(埼玉県朝霞市)に陣を移した。
 同日、早雲、氏親の援軍がようやく江の島に到着し、休む間もなく稲毛の桝形山城(川崎市)へと急いだ。早雲らの桝形山城着陣は九月二十日である。そこから早雲は朝良に連絡をとった。五日以内に川越城に入城いたしますると。
 二十七日、朝良、早雲、氏親は川越城を出撃し、武蔵立河原に向かった。これを迎え討つのは顕定と越後の長尾為景勢である。朝良連合軍は朝良を中央軍に、氏親が右翼を、早雲が左翼を固めた。
 この戦いで早雲は二度目の敗軍を味わわされた。さんざんな負け戦だった。長尾為影勢があまりにも強すぎた。
 決戦とは、勝敗がまま一方的に傾くものである。勝てば快勝、負ければ完敗。だから自分の優位を確信できなければ、容易に決戦に持ち込まなかった。若い朝良はまだこの恐さを知らなかった。知らないからこそ、朝良は結果を急いだ。
 戦いは互角のうちに展開した。だが小半刻(三十分)を過ぎるころから、朝良の中央軍がじりじりと後退した。戦い半ばで弱体をさらけ出すと、長尾勢はそこをめがけて攻め寄せて来た。朝良勢といっても、それは小領主の混成軍である。その統制力は万全とはいかなかった。撥ね腰を持たず後退を続け、そこがぱっと崩れた。長尾勢はえたりとつけ入った。
 もうこうなっては、兵たちの収拾がつかなかった。敵に背を向けた兵は、もう戦力ではなかった。中央軍が後退し出すと、早雲、氏親勢もなだれ現象を起こした。朝良は川越城めざして一路後退を続け、早雲、氏親勢も敵を振り切って途中から府中へと進路を変えた。
 苦しい敗軍行となった。四百の死傷者を出して早雲の心は重かった。四百と言えば多勢である。自軍の犠牲を極端に嫌う早雲としては、とくに堪えた。彼らの家族に対し、合わせる顔もないとも思った。今朝、顔を合わせた郎党が、もうこの世にいない。それを思うと、早雲は胸がきりきりと痛んだ。それらの思いが断続的に早雲の心に去来して、その都度、早雲は口惜しさを何かにぶつけたい衝動にかられた。
 この敗戦の打撃によって、早雲は三浦攻めを延期せざるをえなくなった。これまで順風に乗った早雲にしては、これからが本当の意味での試練だった。逆の見方をすれば、ここで早雲が挫折すれば、関東に覇をとなえた北条百歳はありえなかった。
 あわれを止めたのは朝良である。戦いに敗れて川越城に籠ると、出撃する意欲もなく悄然としていた。
 
 翌永正二年(1505)二月、顕定は寒気をついて川越城を包囲し、朝良に降伏を迫った。弱気になっていた朝良はこのことに身の危険を感じた。
 ――降伏すれば殺される。
 朝良が降伏をしぶったので、顕定勢は城への攻撃を続行した。朝良の気持ちとは裏腹に、城兵たちはよく戦った。顕定勢の攻撃にたえて、その都度これを撃退した。そうした日々は朝良にとって、地獄の責め苦にも等しい日々だった。目は血走り食は進まず。常軌を逸した行動が目立つようになっていた。
 そして一か月余。ついに朝良も降伏を申し出た。顕定もこの降伏を入れ、朝良が出家することを条件にして、その死を免じた。顕定も同族のこととて、最後まで朝良を憎み切れなかったようである。
  (後略) 

「北条早雲」 高野澄 学研M文庫 2002年 ★
北条早雲は晩年に覇権争いに登場したにもかかわらず、禅修行で修得した兵法により頭角を現し大名にのしあがった。今川に信頼され、上杉・三浦らと闘いながら伊豆と相模を制定した早雲の真の志は、「関八州」を掌握することだった…。名策士ぶりを発揮し、初の戦国大名とまでいわれた早雲の激動の生涯を描く、著者渾身の書き下ろし!

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 北条早雲(ほうじょう そううん)
1432〜1519(永享4〜永正16)室町後期の武将。
(名)長氏((異)氏茂・長茂)、伊勢新九郎とも伝える。法号を早雲庵宗瑞。
出自不詳であるが、伊勢平氏・京都伊勢氏・備中伊勢氏の三説がある。妹の今川義忠の室北川殿が氏親を生み、外戚の地位を得る。1476(文明8)義忠戦死後、今川氏の内紛を調停して氏親を立て、駿河国興国寺城主となる。'91(延徳3)伊豆堀越公方家の内紛に乗じて足利茶々丸を殺し韮山城を築いて伊豆国を掌握する。ついで上杉(扇谷)定正と結び上杉(山内)顕定に対抗、'94(明応3)武蔵国高見原で敗戦。'95箱根山中の鹿狩を口実に小田原城に夜襲をかけ、大森藤頼を追って相模に進出する。1504(永正1)武蔵国立河原に顕定と戦い、'09顕定の越後出兵中、武蔵国権現山で両上杉軍に敗れる。'12上杉氏の重臣三浦義同を岡崎城から追い鎌倉を収め、玉縄城を築く。以後扇谷朝良・太田資康の攻撃を退け、'16新井城の義同を滅亡させ相模一国を制圧する。'18隠居。家督を氏綱に譲り、'19没した。用意周到で人心収攬の才に長じ、国人・農民・職人らを掌握して後北条氏の関東経営の基礎をつくった。家訓「早雲寺殿廿一ヶ条」は戦国武士の日常生活の規範を示したもの。
(墓)神奈川県箱根の早雲寺。
(参)稲葉泰彦「北条早雲」1959、杉山博「北条早雲のすべて」1984。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 長尾為景(ながお ためかげ)
?〜1536異42(?〜天文5)室町後期の越後の守護代。
(系)長尾能景の子。(名)六郎、弾正左衛門尉・信濃守。

「北条綱成 関東北条氏最強の猛将 江宮隆之 PHP文庫 2008年 ★★
「地黄八幡」の旗印の下、河越夜戦をはじめ、数々の合戦でその名を轟かした北条綱成。彼の存在なくして、北条氏の関東制覇はありえなかった――。関東北条氏二代目の氏綱の信頼を受け、北条一門に迎えられた綱成は、関東の地を狙う甲斐武田、越後上杉など数多の強敵と激戦を繰り広げる。常に北条軍の先鋒として無類の強さを誇った「地黄八幡の闘将」の生涯を描く力作長篇歴史小説。文庫書き下ろし。
 序 章 甲斐侵攻
 第一章 初陣
 第二章 花倉の乱
 第三章 闘将「地黄八幡」
 第四章 河越夜戦
 第五章 関東三国志
 最終章 最後の戦い

「上杉謙信 物語と史蹟をたずねて 八尋舜右 成美文庫 1995年 ★
野望と権謀がうずまく戦国に、ただひとり一陣の涼風にも似て、筋目正しく信義ひとすじに生きた男“上杉謙信”。あるときは敢然と吹雪の三国峠をこえ、またあるときは粛々と霧にとざされた千曲の流れをわたる……。本書は、武田信玄との一騎打ちをはじめ、はなやかな戦歴に彩られた闘将のダイナミックな生の軌跡を辿りながら、等身大の謙信像を描く。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 上杉謙信(うえすぎ けんしん)
1530〜78(享禄3〜天正6)戦国時代の武将。
(系)長尾為景の子。(生)越後国頸城郡。(名)幼名虎千代、初名長尾景虎、のち政虎・輝虎、出家して謙信、弾正少弼。                

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年 ★★
  上杉謙信

「政宗の天下(上)(下)」 中津文彦 光文社文庫 2000年 ★★
 慶長5年(1600年)、伊達政宗は、関ヶ原に向かう徳川家康に呼応し、上杉景勝と睨み合いをつづけていた。関ヶ原の合戦に勝利するには、上杉軍の追撃を阻止しなければならない――。しかし、家康の命運が政宗の手に握られたそのとき、政宗は景勝と密かに和睦、矛先を江戸城攻撃へと翻した!
 川越の合戦で、伊達政宗率いる奥羽連合軍が徳川家康を破ると、天下の情勢は一気に政宗に傾いた。東西両軍の諸将にとって大きな脅威となった政宗は、自身を陥れる謀略を巧みに押さえ込み、ついに石田三成を失脚に追い込んだ!政宗が征夷大将軍となる日も近い――。綿密な考証のもと、新しい発想で歴史を捉えなおす新感覚歴史小説。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 伊達政宗(だて まさむね)
1567〜1636(永禄10〜寛永13)戦国時代・江戸前期の大名
(系)出羽国米沢の城主伊達左京大夫輝宗の子。(名)幼名梵天丸、藤次郎、越前守、陸奥守、少将、号を貞山。
1585(天正13)父が二本松の城主畠山義継に討たれると、政宗は蘆名・佐竹らを攻め、'86二本松を討つ。'89蘆名を滅ぼし越後・三春・出羽・白河に版図を拡大。'90小田原出兵にさいして豊臣秀吉に屈服し、所領を没収され、あらたに米沢を与えられる。'91大崎・葛西の一揆を討ち、奥州岩出山城に移封。'92(文禄1)文禄の役には朝鮮へ出兵した。1600(慶長5)関ヶ原の戦には徳川家康について上杉景勝と戦い、白石城を攻撃。'02仙台城を築き移住し、米沢を蒲生氏郷に譲る。江戸幕府成立後、仙台藩62万石の大名。海外交易に力をいれ、幕府の協力のもとに'13家臣支倉常長を遣欧使節としてローマ法皇のもとに派遣したり、イスパニアと貿易をおこなおうとした。大坂の役では夏の陣で天王寺に奮戦した。和歌・茶道にも通じた。
(参)小林清治「伊達政宗」1959、顕彰会編「伊達政宗伝記史料」1978。

素浪人宮本武蔵(八)<腥血の篇> 峰隆一郎 光文社時代小説文庫 1994年 ★★
 武蔵は川越城下に潜り込んだ。川に紙を浮かべて斬る。難しい。やがて、きれいに割れた。川越城は江戸城の出城だ。だが、城番と旗本200人が守るだけ。この城を落とすと浪人が武士に戻れるとか。関ヶ原の落武者が結集した。家康の巧妙な残党狩りだった。武蔵は剣友・無想権之助と城の守りを懇願された。群がる敵を斬る。水斬りの術の体得で、武蔵は一層、凄みを増した。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 宮本武蔵(みやもと むさし)
1584〜1645(天正12〜正保2)江戸前期の剣豪。
(系)十手の名人新免無二斎の子。(生)美作とも播磨ともいう。(名)政吉、玄信、二天。
関ヶ原の戦で西軍に加わる。のち諸国を遍歴し、吉岡清十郎らと立合い二刀流の奥義を開眼する。生涯60数回の試合に敗れたことなしといわれる。とくに1612(慶長17)豊前国船島での佐々木巌流との試合は有名。のち小倉藩に留まり、さらに熊本藩主細川忠利の客分となった。この間、大坂の陣、島原の乱鎮圧軍に加わったともいわれている。剣術の他、絵画・彫刻・金工にもすぐれていた。水墨画「枯木鳴鵑図」「鵜図」「布袋見闘鶏図」は有名。(著)「五輪書」。

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作成:川越原人  更新:2020/12/23