太田道灌


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小 説
「小説 太田道灌」 竜門冬二 PHP文庫 1994年 ★★
 室町幕府の権威失墜とともに、関東は長い戦乱状態に入っていた。 江戸城を築城し、軍事と歌に秀でた武将・太田道灌は、上杉家の滅亡を阻止するため獅子奮迅の活躍をしていた。 しかしその才気はあらぬ誤解を招き、ついに謀略の魔の手に倒れた。
 道徳と秩序が乱れに乱れた世の中で、己れの美学を貫き通したその爽やかな生きざまを余すところなく描く。
  登場人物
 太田道灌 永享四年〜文明十八年(1432〜1486)。太田資清の子。名は資長。のちに剃髪して道灌と号した。扇谷上杉定正の執事として仕えたが、その能力が主人をこえていたので、しばしば問題を起こした。そしてこれが原因で、ついに主人定正に暗殺される。軍事家で文学者。江戸城の築城でいまも有名。東京では開発の恩人とし、都庁前や新宿の中央公園に銅像をつくって顕彰している。

 太田道真 道灌の父。名は資清。あまりにも才気煥発な息子資長に、しばしばやりこめられ、そのことにわだかまりを持ち、シコリを残した珍しい父親。そのため、なかなかの力を持ちながらも、資長の策には必ず反対した。しかし、武にも文にもすぐれた武将で、道灌の文学好きはあきらかに、この父の血による。道真は息子道灌が殺された時、すでに八十歳近かったが、武蔵越生の別邸にいた。明応元年(1492)没。

 太田資忠 ?〜文明十一年(1479)。道灌の弟の子。道灌がその才幹を愛し、養子にしたともいう。道灌のよき補佐役だったが、文明十一年七月十五日、千葉の臼井城攻めで戦死した。 

 上杉顕定 享徳三年〜永正七年(1454〜1510)。越後の守護上杉房定の子で、山内上杉房顕の養子になって関東管領の職を継いだ。分家の上杉定正が、その家宰太田道灌の補佐によってのし上がってきたので、定正をそそのかし道灌を殺させた。なかなかの謀略家である。のちに弟の房能(越後の守護)を殺した長尾為景と戦って、戦死した。

 上杉定正 嘉吉三年〜明応三年(1443〜1494)。扇谷上杉持朝の子。家を継いだあと、太田道灌の補佐力でぐんぐんのし上がる。のちに道灌を暗殺するが、「なぜかれを殺したか」という書面を発表する。その書面によると、かなり筋道が立っているし、また苦悩も表れている。このへんは道灌側にも、思いあがりがまったくなかった、とはいえないだろう。
 道灌暗殺は上杉顕定が、「道灌を殺して、相提携し、関東に秩序をとり戻そう」といったので乗ったが、顕定は道灌が死ぬと定正に冷たくなった。そこでこれと戦ったが、武蔵高見原の陣で死んだ。

 足利成氏 永享六年〜明応六年(1434〜1497)。足利持氏の子。建武の新政の進行中、足利尊氏は鎌倉に下向してそのまま京都に戻らず、朝廷に叛旗をひるがえした。朝廷では新田義貞に尊氏追討を命じたので、尊氏はこれを迎え撃つ覚悟をし、子の義詮を鎌倉においた。その後、尊氏は京都室町に幕府をひらき、鎌倉には改めて関東管領として四男の基氏をおいた。執事は上杉憲顕だった。このコンビは関東をよく治めた。
 その実績が京都を凌ぐようになり、いつのまにか勝手に管領≠公方≠ノ、執事≠管領≠ノランクアップした。四代目の足利持氏はついに京都の将軍職まで狙った。これを強諌した上杉氏との関係もまずくなり、関東騒乱のきっかけになる。
 成氏は、はじめ関東管領に任じられたが、京都にしばしば反抗し、ついに古河に拠点をおいて古河公方≠ニ称した。成氏は京都に背いただけでなく、執事の両上杉ともことをかまえた。足利家の中では気骨人である。さんざん関東をかきまわしたあと、明応六年九月三十日に没した。六十四歳である。

 長尾景春 山内上杉家の家老長尾景信(中)の子。太田道灌の父道真とともに、名執事といわれた長尾景信が死んだ時、「ぜひ自分をそのあとに」とのぞんだ。が、山内顕定はこれを退け、景信の弟忠景を後任にした。景春は「おれのほうが能力があるのに」と顕定をうらみ、これがまた関東騒乱の一因になる。
 その後の景春は思う存分あばれまくった。こうみてくると、関東騒乱の原因は、やはり「人事」にあったような気がする。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 上杉顕定(うえすぎ あきさだ)
1454〜1510(享徳3〜永正7)室町後期の武将。
(系)越後守護上杉房定の子、上杉(山内)房顕の養嗣子。(名)四郎、民部大輔・相模守。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 足利成氏(あしかが しげうじ)
1434〜97(永享6〜明応6)室町中期の武将。
(系)足利持氏の4男。(名)幼名永寿王。

「血の日本史」 安部龍太郎 新潮文庫 1993年 ★
 反乱、暗殺、裏切り、虐殺、謀略。栄耀栄華を極めた者は、明日は無残な敗者となった――。長屋王、平将門、千利休、田沼意次、坂本龍馬、西郷隆盛ら、時代の頂点で敗れ去った悲劇のヒーローたちの人間ドラマを、気鋭の時代小説作家が生き生きと描きだす。大和時代から明治維新まで、千三百年にわたるわが国の歴史を四十六の短編小説によって俯瞰する、新しい《日本通史》の試み!

 道灌暗殺
 1486年(文明18)7月、上杉定正、武将太田持資(道灌)を相模に殺す。

   
 すげえ奴だ。駿河国府中(静岡市)の郊外にある狐ガ崎の館で太田持資(道灌)と会った伊勢新九郎(北条早雲)は、一瞬気圧されるのを感じた。体は小柄だし、ふっくらとした顔には温和な笑みさえ浮かべているが、その眼光は人の心の奥底まで見透かすほど鋭かった。
 都にも、これだけの奴はいなかったな。それだけたぶらがし甲斐があるというものだ。新九郎は気後れしそうになる自分に活を入れた。
 「それがし伊勢新九郎と申し、北川殿の兄に当たる者でござります」
 「昨年、伊勢より参られたそうじゃな」
 「妹の縁で、今川義忠さまに召し抱えていただきました。他に身寄りのない身でございますれば、妹の側で余生を送らせてもらおうと府中まで参りましたが……」
 新九郎はわざと弱々しく振舞った。長身で痩せているうえ、少し猫背である。しかも、この日のために食を断って、五歳ほど老けた姿に変えていた。
 「わしも四十五になったが、なかなか余生を楽しむゆとりがない」
 二人は同い年である。道灌は新九郎の演技にやんわりと釘を刺した。
 「府中に落ち着いた矢先にこのようなことが起こり、途方にくれておりました。太田さまが調停のご使者として参られたとうけたまわり、暗夜に灯を見つけた心地で、身分もわきまえずに参上したのでござります」
 「北川殿と竜王丸さまはいずこに」
 「お二方とも、敵方の刺客を怖れて、人里離れた僧庵に引きこもっておられます」
 「目通りが叶えば、当方としても調停を進めるのに都合が良いのだが」
 「それがしも一刻も早く府中にお迎えしたいのですが、このような有様では……」
 二人は交渉の切り札である。道灌から有利な回答を引き出すまでは、所在を明かすことは出来なかった。
 「今川家は将軍家に連なる名家じゃ。堀越公方どのも家督の争いを憂えておられる。和を図る妙案があるのなら、聞かせてもらいたい」
 文明八年(1476)二月、駿河の守護今川義忠が、遠江に出陣した帰りに野伏に襲われて死んだ。その後継をめぐって,側室の北川殿が生んだ竜王丸を推す一派と、義忠の従弟の範満を推す一派が争っていた。
 この争いに道灌が調停役として出馬したのは、主君の上杉定正の命によるものだった。相模国に勢力をもつ定正は、自分の従弟にあたる範満を今川家の後継として、駿河と相模の連係を強めようとしたのだ。
 定正は、関東管領上杉家の分家筋である。しかも道灌は関東一の名将として知られた男だ。北川殿の兄とはいえ、諸国流浪の果てに府中についたばかりの新九郎が、逆立ちしても勝てる相手ではなかった。
 「範満どのに今川家を継いでいただくのが、順当かと存じます」
 「ほう」
 道灌が目を見張った。
 「ですが、それでは竜王丸さまを推す者たちが承知いたしますまい。都でのように、国を分っての争いとなるやもしれません」
 都では将軍家の家督争いから、山名と細川が十年の間合戦を続け、洛中を焦土と化していた。世に言う応仁の乱である。
 「そこで、竜王丸さま元服ののちには家督をゆずっていただくということで、両派の和を図りとう存じます」
 「元服までには、まだ六、七年ある。それでは竜王丸どのを推す者たちが引き下がるとも思えぬが」
 「太田どのに誓紙をいただけるなら、それがし、この皺っ首を賭して説く所存にござります。もし、それでも聞きわけぬ時には、お役目によってどのような扱いをなされようと不服は申しますまい」
 「日限は」
 「一月、いえ、二十日もあれば充分でござりまする」
 「分った。では日を選んで誓書をしたためることといたそう」
 新九郎は風を受けた帆のように胸をふくらまして、府中の館へと急いだ。竜王丸派にとって、考えうる最良の成果だった。
 「聞きしに勝る傑物でございますね」
 山中才四郎が言った。諸国を放浪している時に拾った乱波だった。新九郎の野心を、最もよく知っている男である。
 「山名か細川にあれほどの武将がいれば、都の戦もとうに終っていたろうな」
 「それだけ手強いというわけで」
 「出来れば、敵に回したくないものじゃ」
 新九郎の吊り上った細い目が、らんらんと輝いていた。関東進出を果すためには、いつかは倒さなければならない相手だった。

    
 新九郎が江戸城に道灌を訪ねたのは、七年後の文明十五年(1483)だった。竜王丸元服の後には今川家を継がせるという誓約の履行を迫るためだ。
 「伊勢どの、遠い所をよう参られた」
 剃髪し僧衣をまとった道灌は、わざわざ大手門まで出迎えた。
 新九郎は竜王丸派と範満派の争いを調停した功により、富士郡の興国寺城主となっていた。
 「噂には聞いておりましたが、これほどとは」
 新九郎は江戸城の巨大さに圧倒されていた。北東に平川、南に江戸湾を控える丘陵に築いた平城で、城塁の高さが十余丈(三十数メートル)もあり、その周囲には幅五間(九メートル)ほどの堀をめぐらしていた。
 「諸国放浪の間、数々の城を見て参りましたが、これほどの城を見たのは初めてでござります。差しつかえなくば、城中をご披露いただき、子々孫々までの語り草といたしとう存じます」
 「いや、まだまだ足りぬ所ばかりじゃが」
 道灌は満足気にうなずくと、先に立って城中を案内した。
 城内は子城、中城、外城という三つの独立した曲輪からなり、周囲には高さ二間ほどの土塁を築いていた。曲輪の間には堀があり、飛橋と呼ばれる橋で連絡していた。後に「道灌がかり」と呼ばれた築城法で、子城や外城に敵が侵入しても、中城に拠って防ぐことが出来た。
 「なるほど、これなら敵は袋の鼠じゃ」
 中城から二つの曲輪をながめながら、新九郎は溜息をついた。子城も外城も眼下にある。しかも、ぴたりと弓の射程内だった。
 「長年の戦乱で、武士も領民も疲れ果てておる。そこで戦をせずに勝つ手はないものかと思案した末が、この城じゃ」
 三十年近い間、関東は東西に分れて争っていた。下総の古河に拠った関東公方の足利成氏が、東関東の武士の支持を得て幕府に反旗をひるがえしたからだ。幕府は関東管領上杉顕定に討伐を命じたが、身方の離反や家臣の裏切りがあって、容易に実行することが出来なかった。
 上杉定正の執事である道灌は、上杉顕定にかわって関東一円を転戦し、並みいる敵をほぼ平らげたのだった。
 「武をもって武を制するは、小人のなす所じゃ。威をもって武を制さすば、戦を終らせることは出来ぬ」
 静勝軒と名付けられた中城の館で、道灌は茶を勧めながら語った。
 「なるほど、戦わずして勝つことが、兵法の極意でございますか」
 「左様、この城ばかりではない。江戸、河越、岩付の三城で鼎のように武蔵国を支え、敵に付け入る隙を与えぬことが肝要じゃ」
 「威を保つには、信を失わぬことも大事ではありますまいか」
 道灌が誇りを傷付けられたような顔をした。十四歳になった竜王丸は、元服して氏親と名乗っていたが、道灌は今川家を継がせようとはしなかったからだ。
 「我々はこの七年間、誓約を信じて範満さまをもり立てて参りました。それが破られるとなると、再び家中を二分する争いが起こるは必定でございます」
 「そなたの申されることはもっともじゃ。だが、あの頃とは関東の状勢が大きく変わった」
 昨年、幕府は古河公方の足利成氏と和解した。このために、足利成氏と激しく戦った道灌と上杉定正の立場は微妙なものになっていた。駿河を範満に治めさせておくことは、相模の背後を守るためにも必要だったのである。
 「駿河は、昔のままにござります」
 自分たちの都合によって破るのなら誓約とは言えない。新九郎は言外にそう言っていた。
 「わしとて誓約を破るつもりはない。だが、殿のお考えもあることゆえ、もうしばらく時を貸してもらいたい」
 「いかほど」
 「伊勢どの、そなたはこのわしが信じられぬと申されるか」
 「いえ、そのような」
 「わしは誓約は守る。そのための努力もする。だが、主家の事情もあって、いつまでに出来るとは言明しかねるのじゃ」
 道灌はこの話はこれまでだというように語尾に力を入れた。策略を用いるような男ではない。それは今の道灌に出来る精一杯の返答にちがいなかった。
 新九郎は供の二人を連れて江戸城を出た。
 「姿を変えますか」
 才四郎がたずねた。追手がかかることを怖れたのだ。
 「そんな男ではない」
 道灌は人一倍自尊心が強い。自分の功績をたたえる漢詩を詩板に彫りつけて、静勝軒に飾っているほどだ。刺客を向けるような真似をするはずがなかった。
 「だが、それがあの男の弱点だな。管領家を亡ぼすほどの野心があれば、恐ろしい男になろうが」
 道灌の自尊心は、執事として上杉家を守っていることから生じている。だが、応仁の乱以後、幕府の体制は崩れ、守護大名家という古い船は沈みかけているのだ。その船の中にいる限り、道灌にどれほどの力量があろうとも恐るるに足りなかった。
 「才四郎、配下の乱波に命じて流言を流せ。太田道灌に叛意あり。堅牢なる城を築くは、主家になりかわり西関東を支配せんがためなり、とな」
 新九郎は路傍の柿をかじりながら、江戸城をふり返った。道灌自慢の巨大な城が、すすきの原のかなたに悠然とそびえていた。

    
 道灌謀反の噂はまたたく間に広がった。江戸城や河越城の堅固なことや、道灌のめざましい戦功に対して、上杉顕定が充分に報いなかったことが、その理由とされた。
 これに対して、道灌は何の弁明もしなかった。上杉家のために骨身を惜しまずに働いてきた道灌にとって、そのような疑いをもたれるだけでも心外である。弁明など、自尊心の許すところではなかった。
 <古人いわく、国に三不祥あり。賢人あるを知らざるは一の不祥なり。知って用いざるは二の不祥なり。用いて任じざるは三の不祥なりと>
 道灌は上杉顕定の重臣にあてた書状にそう書いて、顕定の不明を訴えている。道灌としては、あらぬ疑いをかけた上杉家から陳謝に来るのが当然だと言いたかったにちがいない。
 そうした行き違いを、新九郎は巧妙についた。相模国糟谷(神奈川県伊勢原市)の守護館にいた上杉定正に接近して、道灌が今川範満と通じて定正を亡ぼそうとしていると伝えたのだ。
 「ま、まことか」
 定正は仰天した。上杉分家の三男坊として何の苦労もなく育った男だ。四十過ぎても、世間知らずの子供のような所があった。
 「武蔵と駿河から相模を挟撃し、ついで伊豆も手中にされる企てにござります」
 「範満は余の従弟じゃ。まさか……」
 「範満さまを今川家の世継ぎとされたのは、太田どのでござります」
 新九郎は一通の書状をさし出した。今川範満から相模出兵の仕度にかかるように命じられたものだ。もちろん偽書だが、道灌への疑念にかられていた定正はた易く信じた。
 「道灌め、かくなる上は顕定どのと図って、一族ことごとく討ち果たしてくれよう。これ、誰かある」
 「しばらく、しばらく」
 新九郎はあわてて抑えた。
 「太田どのが江戸城にこもられれば、上杉家の総力をあげても半年や一年で落とすことは出来ますまい。ここはそれがしに妙案がござります」
 道灌を守護館に招いて討ち果たすがよい。範満は当方で片をつける。新九郎はそう申し出た。
 「だが、道灌は来るまい」
 「今川家世継ぎについての談合であると申されませ」
 そう言えば、律義な道灌は必ず出てくる。新九郎は出来栄えのいい罠を張った猟師のようにほくそ笑んだ。


 文明十八年(1486)七月二十六日、道灌はわずか五十騎の供を連れて糟谷の守護館を訪ねた。定正が同意してくれるのなら、氏親を今川家の世継ぎにして十年前の誓約を果たすつもりだった。
 体面を重んじる道灌は、誓約を破ったままでいることに耐えられなかったのだ。誓約を破った男と後世のそしりを受けることは、それ以上に耐え難かったにちがいない。
 江戸から糟谷まで馬を飛ばした一行は、汗とほこりまみれだった。上機嫌で出迎えた定正は、まず風呂に入ることを勧めた。道灌は館のはずれにある湯殿に案内された。
 この日、新九郎も配下の乱波十人を連れて糟谷の館を訪ねた。この先、上杉定正を利用するためにも、同じ罪を被ったほうがいいと思ったのだ。上杉方だけでは、道灌を取り逃すという不安もあった。
 湯殿は三間四方ほどの板ぶきの建物だった。湯を外のかまどで沸かし、木の樋で湯船に注ぐ。かまどから二間ほど離れたところに井戸があり、はねつるべで水を汲み上げていた。
 湯殿の周囲には、定正の命を受けた二十人ばかりの刺客が、たすきを掛け股立ちをとって身をひそめていた。館につづく木戸はしっかりと閉ざされ、薪を運び込むための勝手口には、新九郎配下の乱波がひそんでいた。
 申の刻(午後四時)をすぎ、激しく照りつけた夏の陽も、ようやく西の空に沈もうとしていた。
 上がり湯を使う音がした。湯殿の小口が内側から開いた。敵の襲撃を防ぐために、茶室のにじり口のように小さく作ってある。麻の小袖をまとった道灌が、腰をかがめて出た瞬間、身をひそめていた刺客が斬りつけた。
 道灌は手にしていた手拭いで、太刀を払った。護身用の小太刀を手拭いの下にひそませていたのだ。刺客が二の太刀をふるうより早く、片膝立ちになった道灌は相手の腰に小太刀を突き立てていた。
 「定正どの乱心か、佞臣どもの企てか」
 道灌は奪った太刀を八双に構えて、湯屋の回り縁に立った。取り巻いた家臣たちは、その眼光に射すくめられたように立ち尽くした。
 「問答無用」
 そう叫んで駆け上がる者がいたが、袈裟がけに斬り落とされた。縁に上がって襲いかかった男を、庭に飛びざま抜き胴で斬り伏せ、着地する時に一人の首をはねていた。仕立て下しの麻の小袖が、返り血で真っ赤に染まった。
 「才四郎、行け」
 新九郎が命じた。十人の乱波が勝手口から乱入した。風魔一族と呼ばれて怖れらた者たちである。定正の家臣を押しのけて道灌を囲むと、息つく間もなく斬り付けた。
 道灌は必死に払おうとしたが、背中を斬られ足を斬られ、太刀を持つ腕まで斬り落とされ、なますのように斬り刻まれて崩れ落ちた。
 新九郎はゆっくりと道灌に歩み寄った。
 「き、貴様だったか」
 道灌は血だらけの目を見開いてにらむと、最後の力をふり絞って立ち上がろうとした。
 「とどめを刺せ」
 新九郎は低く命じると、きびすを返して勝手口を出た。


 この翌年、新九郎は今川範満を討ち、氏親に今川家を継がせた。五年後の延徳三年(1491)には堀越公方足利茶々丸を亡ぼし、伊豆国を手に入れた。入道して北条早雲と名乗るのはこの年からである。
 時に早雲六十一歳。戦国大名という新しい時代の扉を開いた男にしては、遅い出発だった。

「引越し大名の笑い」 杉本苑子 講談社文庫 1991年 ★
 武蔵野の虹

その他
年表要説日本の歴史」 安田元久編 現代教養文庫 1966年 ★
 太田道灌 
 古河公方に対抗する扇谷上杉家は武蔵(埼玉県)川越を、山内上杉家は上野(群馬県)白井を拠点としていた。 この扇谷上杉家の重臣として、関東各地に戦功をたてて主家の隆盛をはかっていたのは太田道灌であった。
 道灌は太田資清の子で、名は持資、入道して道灌といった。兵法にも秀でていたが、禅宗を信じ、五山詩僧とも交わり、和歌にも長じて、当代一流の文化人として知られていた。 若き日、狩に出て雨にあい、農家で雨具を借りようとしたところ、少女が山吹の花一枝をさし出したが、 「みの一つだになきぞかなしき」という歌の意を解せず、大いに反省して歌を学んだという話や、道灌のすぐれた和歌に感心した天皇より 「むさし野はかるかやのみと思いしにかかる言葉の花やさくらん」という歌をたまわったという逸話がつたえられている。

「戦国武将100話」 桑田忠親監修/中島繁雄著 立風書房 1978年 ★
 太田道灌――――暗殺に倒る江戸城創始者
 太田道灌の名は、江戸城の創始者として知られている。元来、江戸城は主家扇谷上杉家の居城河越城(埼玉県川越市)の支城としてきずかれたのだった。後年の江戸城(いまの皇居)とはくらべものにならない小規模のものだったが、子城・中城・外城と三重になっており、周囲には深い堀がめぐらされていたという。
 ここに道灌は30年間居城したが、一度も攻められたことがなかった。城内の居館を静勝軒(じょうしょうけん)と名づけて、ここでしばしば和歌の会をひらいたという。
 道灌といえば、文武兼備の名将として知られているが、若いころは武事ばかりに熱中していたという。歌道へこころざすようになったきっかけが、かの有名な「山吹の里」の故事である。金沢山へ狩りに行った帰りに、にわか雨にあった。道灌が一軒の民家で蓑(みの)を貸してくれとたのむと、少女が一枝の山吹の花をさしだしたまま一言もいわない。道灌はわけがわからずこの花をもち帰った。
 ところが老臣のひとりにこの話をすると、山吹の花は、がないことを意味しているという。『後拾遺和歌集』にある兼良親王の「七重八重花は咲けども山吹の、み(実)一つだになきぞ哀しき」という古歌に、少女は気持をたくしたのだった。道灌はこのとき、少女のゆたかな文学的素養に驚き、おのれを恥じたという。
 これより道灌は、大いに文学の道にこころざし、歌道にも上達したのだった。史伝、和歌撰集、記録、医書、兵書など数千巻を江戸城静勝軒にあつめている。
 合戦にも和歌の素養が役だっている。文明15年(1483)10月、いましも扇谷上杉勢が夜ふけの海岸にさしかかっていた。崖下の道を通ろうとしたが、潮の満干がわからない。敵の伏兵をおそれて、だれも探りにいく者がなかった。それを道灌が海際までいかずにいいあてたのだった。古歌の「遠くなり近くなるみの浜千鳥、潮の満干(みちひ)を声にてぞ知る」が参考になったのである。浜千鳥の声が遠くにきこえたので、潮のひいたのがわかったのだという。
 これより先、関東の情勢は混沌としていた。関東公方(くぼう)(関東を支配した足利氏の称)は、古河と堀越にわかれて対立し、古河公方足利成氏と管領(かんれい)(公方の補佐役)家の上杉家(山内(やまのうち)と扇谷(おうぎがやつ)の二家)が争いをくり返していた。管領家の実権は家宰の手にあり、山内は長尾景信・景春父子で、扇谷は太田資清(すけきよ)・資長(すけなが)が中心となっていた。この資長が、のち剃髪して道灌と号したのである。
 文明8年(1476)長尾景春が主家に叛旗をひるがえすという事件がもちあがった。しかもこれを攻めた上杉勢が敗北をきっしたのである。ここに道灌は両上杉家を援けて長尾勢と戦うこととなった。
 道灌は多くの合戦に出撃したが、いまだ敗れたことがなかった。道灌の家臣たちは「われらの主君は孔明の生れかわりだ」と誇っていたという。
 無敗の戦歴をほこる道灌にも、暗い影がしのびよってくる。潜在していた山内・扇谷両上杉家の対立がにわかに先鋭化してきたなかで、道灌の主君である扇谷上杉定正が、道灌の盛名をねたみはじめたのである。
 そこへ山内上杉の当主顕定(あきさだ)から、謀略の手がはたらいた。顕定は定正に密使をおくり、道灌をのぞけば手をむすんでもいいと提案したのである。
 道灌が主君定正の手で暗殺されたのは、相模(神奈川県)の糟谷(かすや)の館であった。入浴中を刺客に襲われたのである。一太刀あびせかけられたとき道灌は、「当家(扇谷家)滅亡!」と叫んで倒れたという。

【太田道灌】永享4年(1432)生まれ。はじめの名は資長、のち持資(もちすけ)と改む。24歳で正五位備中守に女陰叙任。関東管領扇谷上杉家の家宰で江戸城の築城者。暗殺されたのは文明18年(1486)7月26日。五十五歳。墓は、神奈川県伊勢原町洞春院にある。 

「太田道真と道灌」 小泉功 幹書房 2007年 ★★
−目 次−
 はじめに
一 太田氏の系譜
 1 太田氏の始祖
 2 太田家の台頭
 3 主家・上杉氏
二 道真、道灌の教養と文芸
 1 上杉氏と関東の学問所・足利学校
 2 道真の文化的教養と河越千句
 3 道灌と連歌
 4 心敬と宗祇
三 道真の生涯
四 道灌の生涯
 1 鶴千代丸の誕生・幼年期
 2 詩歌
 3 兵学と禅僧
 4 道灌の権威
 5 道灌の武将としての活躍
五 関東の騒乱
 1 将軍北条義教と関東公方足利持氏との対立
 2 永享の乱
 3 結城合戦
六 室町幕府と関東
 1 室町幕府の動向
 2 江ノ島合戦
 3 関東鎌倉の動静
 4 都鄙の合体
 5 山内家家宰長尾家内の争い
 6 道灌の建言(建白)
 7 道灌と景春との抗争
 8 鉢形城と景春
七 江戸城の築城
 1 城地選定
 2 関東の河川と江戸の地勢
 3 江戸城の規模
 4 道灌の築城法「道灌がかり」
 5 八幡神社
 6 江戸城下の町
 7 江戸の寺社
八 河越城の築城
 1 築城に至る背景
 2 河越の地勢
 3 河越城の築城
 4 河越城の八幡郭
九 道灌終焉
 1 道灌の最後
 2 終焉の地
 3 道灌にまつわる史跡
十 道灌後の関東
 1 小田原北条の盛衰
 2 早雲の相模平定
 3 北条氏の江戸城攻略
 4 毛呂山城・岩付城の攻防
十一 道灌ゆかりの史跡
 関係年表
 引用・参考文献
 おわりに

「武将名言100話」 桑田忠親監修 立風書房 1983年 ★
第2章 南北朝・室町時代の武将の名言
 26 太田道灌

「歴史ものしり百科エピソードで綴る日本史 前田博/出版トラクト/玄黄社 三公社 1983年 ★
 ・少年時代は生意気だった太田道灌
 太田道灌は幼少のころ鶴千代と名のっていました。鶴千代はたいへん賢く、才気ばしった少年でした。
 父の資清は鶴千代が自分の才能を鼻にかけているのではないかと心配し、たしなめておこうと考えました。
 資清は鶴千代を呼んで、次のように教えました。
「昔から知恵者は偽りが多く、偽りのある者はわざわいに会うことも多い。 たとえば障子はまっすぐだからこそ立つのであって、あれが曲がっていては立ちはしない」
 すると鶴千代は屏風をもってきて、「これは曲がっているから立ちますが、まっすぐでは立ちません」といったので、資清は二の句が告げず、席を立ってしまいました。
 またあるとき、資清は「驕者不久(おごる者久しからず)」の四字を書いた書を床の間にかけて、鶴千代に「この意味がわかるか」とたずねました。
 鶴千代は「よくわかっておりますが、なお書きたしてもよろしいでしょうか」といいます。
 許したところ、「不驕又不久(おごらざるもまた久しからず)」と書きたしました。 資清は怒って扇で鶴千代を打とうとしましたが、鶴千代は逃げてしまいました。
 ・太田道灌の山吹の里の逸話はウソ?
 雨に出会った太田道灌が、雨やどりしたあばら屋で蓑(みの)を貸してほしいと頼むと、若い女が山吹の一枝を蓑のかわりにさし出した。 そのとき、道灌は腹を立てたが、後でそれが、「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」という『後拾遺和歌集』の和歌にたくした、 奥ゆかしい心だったことを知り、たいそう自分の浅学を恥じました。
 これは、太田道灌を知らない人でも、きっと聞いたことがある、有名な逸話です。
 ところで、太田道灌は室町時代中期の武将で、上杉氏につかえ、長禄元(1457)年、江戸城を築いた人です。
 彼は、正史によると9歳から11歳までの3年間を鎌倉五山の一寺で修行し、神童とまで呼ばれ、しかも、和歌の道では、父祖以来歌人として名声を博していました。
 道灌の父道真は、当時歌聖といわれた宗祇法師や心敬僧都とともに「川越千句」を行ったほどの連歌の名人で、道灌にも大きな影響を与えています。
 和漢の学問や和歌に長じ、京都五山の詩僧とまじわって、文化的名声を博した道灌にとって、和歌は幼少のころからいわば身にそなわったものだったのです。
 山吹の故事が、いかにいいかげんなものかよくわかります。
 この伝説の出典は『老士語録』にある和歌のたしなみの深い老女と道灌の話によるもので、後、それが岡山藩士湯浅常山によってつくりかえられ、江戸中期の元文4(1739)年『常山紀談』に発表されたものです。

「異説なるほど日本史」 河野亮&グループ 天山文庫 1992年
歴史上で定説となっているものの裏には、必ずといっていいほど伝説がある。それは歴史的事実の“謎”とされるものの部分を解明しようと、古来から多くの仮説や異説が生じると同時に生まれた、英雄不死説などという、一般大衆の願望なのかもしれない。本書は歴史の“謎解き”に挑戦した先達たちや、現代に生きる研究者により発表された“真相をつく”力説をまとめたものである!
 太田道灌の「七重八重……」の舞台は埼玉県の越生(おごせ)である
道灌の「山吹の里」は実在したか?
 室町後期に生きた太田道灌(1432〜86)は、武将としてより江戸城築城で有名である。その生まれは、上杉家庶流の扇谷家の家宰を勤める名家で、幼いころから鎌倉五山で勉学に励み、神童の誉れが高かったとされ、それをみた山内上杉氏が道灌を将来家宰にしようと申し込んだところ、扇谷上杉家に「万金にも換えられない」として断られたという。
 また道灌は、用兵の術にたけた軍略家としても有名であり、攻守ともに有利な江戸城を築城、「道灌がかり」というオリジナルな方法をも採用し、今日にいたってもなお築城の大家との高評をえている。
 その道灌にまつわるエピソードとして有名なものに「山吹の花」の歌がある。
 『常山紀談』によれば――
 道灌が鷹狩に出たとき、折悪しく雨が降ってきた。そこで、近くの小屋に寄り、雨よけの蓑を借りようとした。ところが、その小屋の若い女は、蓑のかわりに、無言のまま山吹の花を一枝折って差し出したのである。
 必要だったのは山吹の花ではなく蓑だったため、道灌は大いに怒った……この話を聞いたある人は大いに感じ入り、道灌に、それは、
 
 七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき
 (七重八重に花は咲いているが、山吹はみの(蓑)ひとつないのが悲しい)
 
 という古歌を表したのだろう、と解釈してやった。つまり、その女は蓑ももてない貧しさを言葉に出せず、古歌に託したというのだ。この古歌は『後拾遺集』にある兼明親王のもの。古歌を知らないがために怒って帰宅した道灌だったが、これを聞いて大いに恥じ入り、以来歌道にも励むようになった――
 だが、史実としては、道灌の神童ぶりは和漢の書に通じていたことが伝わるのみで、『後拾遺集』に限って古歌を知らなかったとは、考えづらい。評論家・唐木順三氏などは、このエピソードを後世のつくりごとと唱えている。さらに、このエピソードの舞台が不明なことも手伝って、単なるつくり話として伝わっているのが現状だ。
 また、浦島太郎の墓なるものが全国各地に存在するように、道灌の「山吹の里」も東京豊島区の面影橋付近、荒川・小台橋周辺、神奈川県・旧金沢八景など七ヵ所に存在する。その根拠は、どこもかつて山吹の自生地であった、ということにすぎない。

「山吹」は花ではなく家名だった?
 しかし、道灌研究に定評のある「板橋の史跡を守る会」の会長浅沼政直氏は、原典の『常山紀談』に「山吹の里」という言葉が一度も登場しないことに注目。道灌ゆかりの「山吹の里」を求めてさらに研究を重ねたところ、
 「山吹の里は山吹の咲く里ではなく、豪族山吹氏が住んでいた里で、その地は埼玉県入間郡越生町」
 との結論を導き出した。
 浅沼氏は、山吹の里と目される地の古文書や町役場などの古記録をたんねんに調査し、道灌の時代、現越生町あたりに「山吹氏」という豪族が住んでいたことを確認した。
 山吹氏は、熊野那智大社の山伏が著した『米良文書』によると、その地にかつて存在した熊野神社の神主の家系で、越生一門の豪族であるという。さらに、地元の真宗法恩寺の年譜録にも「神主山吹」との記述があった。
 浅沼氏は、
 「越生町には山吹という地名も残っている。道灌は五歳の時、鎌倉五山修業に出されたが、このエピソードは、父道真が住む越生に帰ってきた時のものだと思う。道灌は十〜十四歳ぐらい。相手の女性は彼より年上の教養のある宮司の娘だった……」
 と唱えている。真実や、いかに?

「ふるさとのなぞ(1)関東/東北/北海道編 毎日新聞社 1976年 ★
 山吹の里はどこに

「日本史泣かせるいい話」 後藤寿一 KAWADE夢文庫 1999年
 いたずら猿をこらしめて、武威を示す
 太田道灌は、江戸城(徳川家康が築いた江戸城以前の城)を築いたことで知られる室町時代中期の武将だ。
 その道灌が、京に上ったときのこと。当時の将軍は室町幕府第八代の足利義政で、義政は道灌が上洛すると聞き、屋敷に招いて酒宴を催すことにした。
 義政は、猿を一匹飼っていた。この猿、将軍に可愛がられているのをいいことに、傍若無人、見知らぬ者には必ず飛びかかって引っ掻き、傷を負わせることで知られていた。しかし、いくら引っ掻かれても将軍愛玩の猿だから、誰も不服をいい立てる者はなかった。
 道灌は、このいたずら猿のことをあらかじめ聞いていた。そこで上洛するや、すぐさまその猿を管理している猿師に金を与え猿を借りだした。そして宿舎の庭先に引き据え、将軍の前にでるときと同じ装束をつけて猿の前にでた。
 猿は、例によって道灌に飛びかかってきた。と、そのとき、道灌は持っていた鞭でおもいっきり猿をひっぱたいた。猿は一瞬ひるんだが、なおも飛びかかってくる。道灌へ再びひっぱたいた。そしてにらみつけた。
 これを何度かくり返すと、猿は首をうなだれて反抗しなくなった。道灌がにらみつけると、目を伏せて小さくなった。そこでもう一鞭激しく猿をひっぱたいた。猿はいまにも泣きだしそうな顔をした。
 やがて将軍の酒宴の日がきた。義政は、道灌にいたずらしてやろうと、いつものように猿を廊下の端につないでおき、道灌が困る様子を見ようとしていた。
 間もなく道灌は装束を身につけて猿の前を通りかかった。猿が飛びかかろうと身構えたときだった。道灌は、はったと猿をにらみつけた。すると猿は途端に縮こまり、身体を地に伏せて、ただただ怯えきった様子を見せた。
 これを見た義政をはじめ、諸侯はびっくりした。と同時に、
(太田道灌は、ただ者ではない)
と恐れ入ったのである。

「戦国の名脇役たち 乱世に輝いた九つの才能 武光誠 PHP文庫 1995年 ★
 一度は天下をとった大内義隆、三好長慶、明智光秀。足軽戦法を編み出した太田道灌。一代で四国を統一した長宗我部元親。知略で知られた軍師・真田幸村。天下に轟いた名将・加藤清正、後藤又兵衛。戦国の異端児・前田慶次郎。戦国の世に日本一の技や才能をもって個性あふれる生き方をした九人の武将たち。後世に創られた虚構を排し、彼らの真実の姿に迫る書き下ろし決定版!

「軍師と家老 ナンバー2の研究 鈴木亨 中公文庫 1999年 ★
■古代・中世の側近
 太田道灌  あり余る才能の持ち腐れ、無能なトップを戴いた不運
山吹の里の伝説
連戦連勝の優等生
トップの背信

「武蔵武士 ―そのロマンと栄光― 福島正義 さきたま出版会 1990年 ★★
第三章 武蔵武士の活躍
 4.太田道灌 ―長尾景春との戦い

「日本の歴史11 戦国大名」 杉山博 中公文庫 1974年 ★
 道灌の死

「戦国武将「50通の手紙」」 加来耕三 双葉文庫 1993年 ★
 乱世の戦国時代、名だたる武将は時機を見て、たびたび部下たちに書簡を認めている。時には策謀を巡らせたり、決断を促したり、時には昇進栄達、失意挫折の部下を励ましたり……。本書は現代サラリーマンにも役立つ武将名訓集である。

東国の平和を願って奮戦した忠臣の鮮烈な叫び=予言
 太田道灌から主君・定正への絶叫
 山内上杉家の当主・顕定は、かつて己の風下にあった扇谷上杉家が、名将・太田道灌を擁して、断然、頭角をあらわし、いまや勢力が逆転してしまったことを苦々しく思っていた。
 それを知る道灌も、あくまで山内の上杉顕定の心事を警戒しながらも、早晩、衝突は必至と覚悟し、江戸と河越の二城に大修築を加えて防備を怠らなかった。
 この頃、道灌の威望は日に増し高まっていたが、これを心よく思っていなかったのが、主君の上杉定正であったから、ことは少々厄介であった。この主君は余程、出来が悪かったようである。
 それでなくとも、扇谷上杉を窺っているのが顕定である――君臣間の溝につけ入り、顕定は間諜を扇谷に放つと、
 「道灌が主家に異心を抱いている」
 とあらぬデマをとばしたのであった。おろかにも定正がそれに乗ったのである。
 文明十八年(1486)七月、道灌は、江戸・河越両城の修築が完成したので、鎌倉に赴くと、主君・定正にこれを報告したが、これを好機とみた定正は、糟谷の自邸に道灌を招くと、入浴中の道灌を曽我兵庫なる者に襲わせたのであった。
 曽我兵庫は太刀をもって道灌に斬りつけたが、道灌は斬られ、血みどろになって倒れつつ絶叫した。

 『当方滅亡――』

 人間、最後の叫びとして、これほど意義のある言葉は、古今東西を通じて、そう多くはあるまい。ときに道灌は五十五歳であった。
 太田道灌といえば、山吹の里でのエピソードと江戸城を築いたことで、人々に親しまれてきた戦国初期の武将である。
 祖先は源三位頼政といわれており、道灌は、永享四年(1432)、太田資清の子として、相模の糟谷に生れた。初名は資長、元服後は持資。道灌は号である。
 道灌の父・資清は扇谷上杉家に仕えて、家老であったが、道真と号する文武の才の豊かな人物であったから、その影響をうけて育った道灌が、和歌の書に親しみ、風流の道に通じていたのも頷けようというもの。

 二十五歳で江戸城構築責任者
 家督を継ぎ、扇谷上杉家の家老となったのは、二十四歳のときで、正五位下・備中守に叙任されている。この時期、古河公方の足利成氏と両上杉家(扇谷・山内)の間柄は、きわめて険悪であった。因みに、山内上杉家には、長尾景春があり、扇谷上杉家には、道灌父子がいてともにその主家を補佐していた。
 そうした状況下であったから、扇谷上杉家では、康正二年(1456)、武蔵野に城を構築することになって、道灌がその責任者に任命されたが、これが、後世に有名となった江戸城である。このとき道灌は二十五歳であった。
 ところで、道灌が築いた江戸城は、そのころの築城としては、きわめて堅固なものであったといわれ、これが人々の注目するところとなり、道灌謀叛の証拠とされた、とも伝えられている。
 真偽のほどはともかく、道灌は文明八年(1476)、今川氏の内乱鎮定の支援に、駿河へ出陣して以来、山内上杉家の家老・長尾景春が古河公方・足利成氏と組み、両上杉に叛逆したおりも、これを潰滅するなど、連年、武・相の間を転戦し声望も高かっただけに、扇谷上杉家中に、道灌を妬む者がいたとしても少しも不思議はなかった。
 また、扇谷上杉家は道灌が家老となって、山内上杉家の顕定が心よく思わなかったごとく、その権威も高まったのであった。それだけにまた、当の扇谷上杉定正が、優れた家老の道灌を恐れたための抹殺であったかも知れない。
 いずれにしろ、扇谷上杉家はやがて山内上杉家と争う(長享年中の乱)こととなり、危機にさらされ、道灌の予言どおりに当家滅亡≠フありさまとなった。
 またとなき忠臣を抹殺した報いといわれてもいたしかたあるまい。いつの時代でも上司たる者、人間を観る目を曇らせてはなるまい。

「話のタネ本日本史」 村松駿吉 日本文芸社 1986年 ★
●歴史上の英雄、豪傑、烈婦、賢女などの伝記をみると、たいていは神さまか仏さまみたいで、忠義と勇気と克己心のかたまりで、異性などまるで眼中になかったようにしか書かれていない。しかし、物欲も権勢欲も、意識するとしないとにかかわらず、自分の種族繁栄が目的であって、とりもなおさず、生殖本能がその根源をなすものである。つまり、とかく浮世な色と欲、という俗諺も、せんじつめれば色に帰結する。その大眼目、人間本能の色を除外して歴史は語れない。
●本書は、気の毒にもウソで塗りかためられた歴史上の偉人、賢女を、人間味あふれた色の道の実践者として再現したものである。英雄であればあるほど、烈女であればあるほど、その道にもすぐれていたに違いないのである。

姓道修業した戦国武将 太田道灌
    山吹の里の娘で自信をつける

 康正元年(1455年)家を継いで扇谷上杉家の家老となったのが二十五歳。翌二年、江戸城構築にとりかかる。
 『根城、中城、外曲輪の三つよりなり、石壁は聳え立つこと十丈余……外流を引き入れ、濠となし……城中、五六カ所の井戸は大旱にも涸るることなし……云々』
 と、『江戸記聞』に書かれている。わが国では古来から築城は山上ときまっていた常識を破り、平地に堅塁を築いた、わが国築城史上の一大革命だった。
 当時、関東では下総・上総・安房・常陸(千葉・茨城)に勢力をもつ足利成氏に対抗して、伊豆、相模、武蔵(神奈川、埼玉、東京都)を勢力圏内とする扇谷上杉と弟の上野・下野(群馬、栃木)を所領する山内上杉と組み、互いに覇をきそっていた。
 道灌が江戸城をつくった年に、主人の上杉持朝は鎌倉の扇谷から進出して川越へ城をきずき、道灌の父資清は岩槻へ同じく築城して足利の侵略にそなえた。
 道灌が城を築いた江戸は、奥州との交通の要衝であり、水陸の便にとみ、兵事にもっともすぐれた地勢であって、容易に足利氏が手を出せなくなった。こうなると暇ができる。毎日、狩りでもして暮らさなくてはならない。家来を供につれて今の小石川の山吹の里へ猟に出かけていった。夏のこととて兎も猪も出てこない。おまけに、はげしい夕立ちが降ってきた。
 「わっ、たまらん。駆けろ駆けろ!」
 と、道灌は先に立って駆けだしたが、黒い雨雲は道灌のいく方向へむかって走っているので、とうとう上から下までビッショリになった。その時のことを思い出し、
 管領細川勝元の問いに対して、
  急がずば濡れざらましを旅人の
    あとより晴るる野路の村雨
 と、読んだのは後のことである。
 ともかく、一軒のあばら家へとびこんで、
 「これ、ミノを貸せ。この雨じゃあ城へもどれん」
 と,大声で叫ぶと、奥から出てきたのは十七、八歳の娘だった。
 「まァ大へん、お濡れなさったのね。おあがりになって着物をおぬぎなさいな、乾かしてあげますわ」
 「そうか、すまぬ……じゃ頼むぞ」
 と、上へあがって衣類をぬいだ。
 「おう、下帯まで濡れとる。きもちが悪い」
 と、ばかり下帯まで取ったところを見て娘は、あっ……と、驚いた。道灌は、あわてて前を押さえたが、もうおそい。娘は茫然と見とれてしまった。
 村の若い男たちに、こんなリッパなものを持っているものはいない。
 「まァ……そんなところに立っていらっしゃらないで、奥へはいっておいでなさいな」
 奥のひと間へいれておいて、着物を物干竿にとおして軒端へかける。
 それから娘は道灌の部屋へはいっていった。
 「ねえ、お布団しきますわ。しばらく休んでいらっしゃいな」
 素っパダカで小さくなっている道灌に、うすい布団をしいてやって、
 「お宿をおかししたんですから……ねえ、あたしにも一ペンかしてちょうだいな」
 「な、な、なにを?」
 道灌は、持ち物の劣等感からあとずさりしたが、娘のほうは前へいざり出ていった。
 そのころの女は、後の世の儒教道徳にむしばまれて男の前で小さくなってしまうような性質は持ち合わせなかった。
 「ふっふっふっふっ。りっぱだわ! ねえ」
 と、ばかり道灌にかじりついた。
 「ふーむ。……お前こそりっぱだ。わしは人並みじゃない。とても間に合わぬだろ」
 「いえ。ミノを貸せなんて、こんなリッパなカサを持ちながら何よ……要はこれの使い方よ。使い方を、あたしが教えてあげますわ」
 ここで手どり足どりして娘は道灌に教えたので、道灌は眼がさめたように、
 「ありがとう! 戦さならば誰にも負けぬ自信があったが、このほうでも、わしは自信がついたぞ」
 と、いった。
 戸外は雨がはれて陽がカンカン照ってきたのを、軒端に立って家来たちはボンヤリと待っていた。
 これが後に伝えられところによると、ミノを貸せといわれた時に娘が、黙って一枝の山吹の花を差し出した。
  七重八重花は咲けども山吹の
    ミノ一つだになきぞ悲しき
 という古歌のあることを、道灌は知らず、家来に教えられて学の無さを恥じ、後に学問に精進してりっぱな歌人になった……と、ある。
 これは教科書にものった学業奨励≠フ逸話だが、あにはからんや五百年も前に著された『後拾遺集』に、これとまったく同じ逸話が載っていて、中務卿兼明親王の和歌であって、まさに逸話作家の盗作である。
 武蔵野の百姓娘が、道灌さえ知らなかった古歌を知っていたということもウソなら、とかく日本の歴史は美化されすぎ、教訓的であるようである。
  →落 語

「日本語の復権」 加賀野井秀一 講談社現代新書 1999年
第三章 デノテーションとコノテーション
太田道灌と山吹の故事
 このように、和歌の高尚な本歌取りや狂歌の庶民的なそれを見ることによって、日本語のコノテーションによる表現がどれほど洗練され高度なところにまで達していたかということは、おわかりいただけたのではあるまいか。おそらくは現代日本が急速に失いつつあるこうした日本語の富は、あやしげな愛国心などというものよりも、はるかに守るべき価値のあるものにちがいないし、それについてはまた改めてふれてみたいのだが、ここではむしろ、そうした表現の洗練や高度化がはらむ危険性の方に注目しておこう。
 そのためには、あの江戸城を築いた太田道灌の「山吹の故事」というものを考えてみるのがいい。落語の『道灌』や歌舞伎の『歌徳恵山吹(うたのとくめぐいのやまぶき)』にもなっているが、ご存じだろうか。
 ある日、道灌は鷹狩りに出かけて雨にあい、近くの家で蓑(みの)を借りようとする。このとき、一人の少女が山吹の一枝をさし出すのだが、道灌にはその意味がわからない。やがてそれが『後拾遺和歌集』におさめられた「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだに無きぞ悲しき」という古歌の意だと知り、おのが無学を恥じたという逸話である。「実の一つ」が「蓑一つ」にかけられていたわけだ。
 やがて道灌は心を入れかえて、あっぱれひとかどの文人武将になり、歌人としても認められ、わが同胞好みの美談となるわけだが、ここには、この国で文人がおこなうべき修行のスタイルがはっきりと示されている。つまり彼は、ひとえに古歌や有職故実に通じるよう精進するわけであり、自分自身の目でものを見たり、それを表現しようとしたりする訓練は二の次とされてしまうのである。第二章でふれておいた「記号操作」に終始して、「記号化」をおろそかにする危険性が生じてくるのはいなめない。和歌の伝統のなかで山吹がながめられるとき、それが実をつけないことだけが極端に拡大して観察され、ほかの側面がなおざりにされることにもなりかねないのである。
 本歌取りは、一方では、公共の財産目録のように登録された古歌の感受性の型をもとにして、現在の自分自身の思いを位置づけるのに役立つが、雪月花はやたらに詠まれるのに反して、たとえば、夏の海のギラギラと照りつける太陽や、満天の星や、市井の人々活力などが詠われることは絶えてなかった。
 花にしても、桜、梅、女郎花、山吹などのほかには、いったいどれほどの種類が詠まれているのか。鳥はどうか。ウグイスやホトトギスがせいぜいのところだろう。つまりは、きわめてせまい対象を細かく観察しているわけであって、作者の目は、よく言えば洗練されている、悪く言えば瑣末(さまつ)にはしっている、ということになりそうだ。

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年 ★★
 太田道灌
 当家滅亡!
 
 太田道灌が江戸、川越両城を本拠に、戦に明け暮れていたころの関東は、複雑怪奇でまったくもってわかりにくい。それを、大ざっぱに解きほぐすと、こうなる。
 足利尊氏は京都に幕府をおき、その出先機関として鎌倉に関東管領をおいた。初代の管領は尊氏の四男基氏で、管領は代々その子孫があとを受けることになる。のち、関東御所、または関東公方と呼ばれる。
 この公方を補佐するのが上杉家で、本家山内以下詫間、犬懸、扇谷の四家があり、のち管領家と呼ばれるようになる。太田、長尾の両家は上杉家の執事である。
 五代将軍義量が死んだとき、先将軍義持はクジ引きで六代義教を決めた。ときの関東公方持氏はこれに不満で、事毎に逆らったため義教に攻められて死んだ。その後義持が横死すると、持氏の子成氏が五代目関東公方となった。成氏は父の死に恨みを持ち、見殺しにしたとして上杉一族を目の敵にし、たびたび争乱を起こした。見かねた六代将軍義政は成氏を攻め、敗れた成氏は下野古河に逃れて古河公方を名乗った。このとき幕府は成氏の後釜に義政の弟正知をすえた。これが堀越公方である。
 一方、上杉家でも内紛があった。このころ、上杉家は本家山内、分家扇谷ニ家になっていたが、本家の執事長尾家の跡目相続のもつれから長尾の長男景春が古河にくっつき、ゲリラ的に関東を乱して回った。これに諸豪族の思惑がからみ、関東平野は麻のごとくに乱れて争っていたのである。
 さて文明一四年(1482)年、道灌の圧迫に耐えかねた成氏は幕府と和睦し、関東は二〇年ぶりに平和を取り戻した。しかし、公方が二人いるかぎり、それが束の間のものであろうことは皆が承知していた。
 このころ、山内上杉家は困った立場にあった。わが家から反逆者を出し、それを分家で処理してもらった。家臣は景春に従った者もあり、分家に流れた者も多かった。扇谷の太田道灌という一枚看板の前では、本家の威光も見る影がなかったのである。
 そのころから道灌謀反≠フ噂が流れ始めた。成氏が流したものともいうし、相模の北条早雲だという説もある。
 噂だけではなく、忠義顔で注進に及ぶ家臣も現われるのである。本家から分家に問い合わせがあり、分家の当主定正から呼び出しがあっても、道灌は「捨ておけ」と笑いとばし、詩僧万里集九を江戸城に呼んで、束の間の平和を詩作で楽しんでいた。
 文明一八年七月二六日、たび重なる催促に道灌はようやく重い腰を上げ、相模国糟谷の上杉定正邸を訪れた。このとき定正が本家からの道灌暗殺命令を受け取っているなどとは、思いもよらぬことであった。上杉邸に入った道灌は、まず道中の疲れをいやすようにと風呂をすすめられた。やがて、風呂からあがった道灌が、風呂の小口を出ようとしたとき、定正の密命を受けた刺客がとび出して斬りつけた。
 道灌はひと声「当家滅亡」と叫んで、そのまま息絶えた。
 道灌謀殺は、両上杉結束のためであった。しかし、その後の両家は反目して戦い、やがて両家とも没落の途をとどるのである。
 
 ●おおた・どうかん
 永享四〜文明一八(1432〜1486)年。扇谷上杉家の執事太田資清(すけきよ)の子。
 本名は資長(すけなが)、道灌は法号。上杉定正の執事として古河公方(こがくぼう)と関東を舞台に戦い、盛をあげた。山内上杉家の家臣長尾景春(かげはる)の乱では武蔵(むさし)・相模(さがみ)・下総(しもうさ)に景春の軍と戦い、扇谷上杉家の勢力を大いにのばした。古今の兵書を読み、世に「兵法師範」といわれた。和歌の道にも通じ、京から江戸に歌人を招いてしばしば歌の会を催した。『山吹の里』の伝説で広く知られる。

教科書が教えない歴史有名人の死の瞬間」 新人物往来社 2003年 ★★
室 町
 太田道灌(暗殺)文明十八年(1486)七月二十六日

「日本武将譚」 菊池寛 文春文庫 1986年 ★
 平将門は果して粗野暴虐な謀叛人だったのか? 太田道灌の山吹の古歌の逸話は虚構である。伊達政宗が、豊臣、徳川の間に処して遂に大封を全うし得た秘訣とは? 八幡太郎義家、義経、楠木正成、謙信、信玄、秀吉等々、忠臣、朝敵、乱世の梟雄、英雄、名将、智将の魅力を余すところなく語る、とても楽しい歴史人物論。解説・尾崎秀樹

「「もしも…」の日本戦国史」 高野澄 ベスト新書19 2001年 ★
意外!納得!もう一つの戦国史を探る
「もしもポルトガル人が種子島でなく別の島に漂着していたら、本能寺の変は起こらなかった!?」「もしも桶狭間に集中豪雨が降らなかったら、信長は勝てるはずがなかった!?」「もしも明智光秀の密使が豊臣秀吉の陣地に迷い込まなかったら、秀吉と毛利が手をつないで京都へ進軍していた!? 」……。些細な「if」から浮かび上がる、意外、納得の日本裏$国史。「もしも…」という道具を使って、歴史に参加する楽しさが満喫できる本。
もしも太田道灌が主人の上杉定正に殺されなかったら
 主人に謀殺された道灌
 道灌は古いセンスの武士
 道灌の学術顧問・万里集九
 荒廃の京都をあとにして

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 太田道灌(おおた どうかん)
1432〜86(永享4〜文明18)室町後期の武将。
(系)太田資清の子。 (名)幼名鶴千代麿、源六郎、資長。持資の名は確かな史料には見えない。
上杉(扇谷)定正の執事をつとめ、古河公方足利成氏と対立する上杉氏をたすけて戦う。1457(長禄1)江戸城を築いてこれに拠り、'76(文明8)上杉(山内)顕定の家臣長尾景春の乱では武蔵・相模・下総に景春の兵と戦って、扇谷上杉氏の勢力を強めた。のち山内・扇谷両上杉氏間の対立があらわになると、顕定は扇谷家の勢力増大をおさえるため、定正の家臣を通じて道灌を讒し、ために道灌は相模国大住郡糟谷で定正に殺された。古今の兵書を読み、世に<軍法師範>と称され、とくに<足軽の軍法>を得意としたといわれる。和歌にも通じ、建仁寺の僧や万里集九らを江戸城に招いて歌の会を催した。とくに'74の江戸歌合せや品川千句などが有名である。
(参)勝守すみ「太田道灌」1966、沢八郎「太田道灌」全5巻、別巻2、1976〜84。

「日本史人物事典」 児玉幸多監修 講談社+α文庫 1995年 ★
 太田道灌(おおた どうかん)

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作成:川越原人  更新:2020/11/02