川 越 城(1)


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川越城
「埼玉文学探訪」 朱樓藝文會編 紅天社 1969年 ★★
 初 雁 城 川越市初雁公園内
 川越線の川越駅から東北方へ四キロ、車で約七分ゆくと、高台の上に川越城址がある。高台は当時の塁壕の跡を残していて、かつての名城のさまをしのばせるものがある。
 この川越城は戦国の雄将であり、文人でもあった太田道灌によって建造され、また彼の根拠地となった平山城である。この城は「初雁城」と呼ばれていたが、これには次のような文学的な伝説が口碑として残っている。
 文明六年に川越城が出来たのは初秋のことで、その築城祝いの宴をひらいている時に、頭上の空を初雁の列が鳴きながら飛んで行き、やがて、かなたの里に落ちていった。風流心の篤かった太田道灌はその様を見て、はたと膝を打ち、「そうだ、この城をこれからすべて初雁城と呼ぶことにしよう」と侍臣たちにかたった。そこでそれよりこの城を「初雁城」と呼ぶことになり、又その初雁が落ちていったあたりの里も「初雁の里」とよばれるようになったというのである。今もその地は初雁の地名を残している。
 太田道灌は本名持資。上杉家の重臣として室町時代の戦国期を縦横に活躍した武将であり、現在の県内の地と最もゆかりの深い人物である。武人であると共に当時の風流人としても高名であった。彼が土御門帝に謁したときに叡慮にお答えした歌の露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の空≠烽アの地方の様を詠んだものである。彼の歌集には「太田道灌詠草」「花月百首」「軍歌百首」などがあり、また連歌にも巧みで宗祇・心敬らと共に「河越千句」などを撰している。
 初雁城は道灌の歿後、扇谷上杉家の側城としてしばしば北条家に攻められた。大永四年・天文六年・同十二年・同十三年と四度にわたり、「川越城の戦」として史上有名な防衛戦をおこない、遂に北条氏の手にするところとなった。のち、徳川幕府代々の重臣たちがここを居城とし、初雁城は天下の名城として聞こえ高かった。
 この城も明治維新の廃藩置県でとりこわされ、現在は当時の城門を入った正面の建て物が武道館として残っているにすぎない。ただそのがっしりした規模と廣造から、当時の城内の面影をうかがうことが出来る。(I)

「日本の名城・古城」 井上宗和 角川文庫 1985年 ★★
 近世の城は、もちろん戦いのためのものであったが、戦闘の形式の変化や居住性の追求などにともなって城もまた変化・発達し、最も優美にと変っていった。それら名城には、完成された美しさと安定性がある。今日多くの城は失われ、一部そのおもかげをしのぶのみであるが、そのあとにたたずめば往時の壮麗さと、それにまつわる歴史を物語ってくれるであろう。本書は、国宝松本、犬山、彦根、姫路城をはじめ、全国161城の恰好の案内書である。
 川越城

 川越城は、武蔵(埼玉・東京・神奈川の一部)の地が扇谷上杉氏と古河公方足利氏の勢力の接触点であったため、長禄元年(1457)上杉氏が足利氏の勢力に対抗する目的で上杉持朝が家老の太田道真道灌父子に命じ築かせたもので、応仁の乱(1467)の起る10年前に当る。上杉氏は持朝以来6代約80年在城するが、日本戦史に名高い川越夜戦で北条氏のために滅ぼされた。小田原を本拠とする北条氏は次第に勢力を伸ばし上杉氏を圧迫し、天文6年(1537)川越城を奪ったが、これを奪還しようとした山内・扇谷両上杉氏と古河公方方の連合軍8万と、川越城救援の北条軍8千が天文15年(1546)4月20日夜、大決戦を行い、北条軍は10倍近い連合軍を一挙に撃滅し、北条氏の関東における立場を決定的にしたのである。天正18年(1590)北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東を領し、川越城には酒井重忠が入城、酒井氏三代の後、寛永12年(1635)堀田正盛が入封、同15年に川越に大火があり、同16年に入封した松平(大河内)信綱は城に大改築を加え、本丸・二の丸・三の丸を中心に二曲輪を構え土塁・水堀をめぐらした大規模なものとなった。天守閣は置かず、富士見櫓がその役割をしていた。松平氏三代の後、柳沢吉保・秋元氏四代・松平(結城)七代と相継ぎ、慶応3年(1867)松平(松井)康英が入封、8万石を領し明治に至った。建物は取壊され、堀は埋められて武徳殿と呼ばれる旧本丸玄関と富士見櫓の土塁・堀跡の一部が残っている。

別   名 初雁城・霧隠城   所在地 埼玉県川越市郭町
築城年代 長禄元年(1547)   築城者 太田道真・道灌
築城様式 城塞のち居城   種 類 平城
主要城主 太田氏ほか   遺 構 堀・櫓台・御殿
交   通 川越駅よりバス

意外と知らない! こんなにすごい「日本の城」」 三浦正幸 実業之日本社 2009年 ★★
第2章 厳撰45カ城!!知っておきたいあの城の秘密
 関東の城
  川越城 ◎江戸の北方を守る関東屈指の名城

「関東の城」 小学館 探訪ブックス〔日本の城2〕 1989年 ★★
 巻頭のカラー写真に、川越城本丸御殿、川越城下喜多院、川越城富士見櫓台、川越城縄張絵図の4枚が掲載されています。
本文では、埼玉県の城のなかに川越城として14ページに渡る記載があります。
・老中の居城
 川越は江戸城から四キロ(四十キロの誤り?)と離れていないし、しかも川越街道新河岸川の水運が通じていて、江戸時代は江戸城下の衛星都市として、地理的に枢要な位置を占めていた。また、川越は、そのような交通の便のもとに、江戸への消費物資の基地としての役割も果たした城下町なので、小江戸とも称された。
 いまの川越城址に、はじめて城が築かれたのは、室町後期のことである。築城者は、名将として知られる太田道灌。道灌は扇谷上杉氏に仕えており、長禄元年(1457)、主君の命をうけて、江戸城とともに川越城を築城した。いわゆる「道灌がかり」の築城法が施されたというこの城は、のちの川越城の本丸と二の丸を占める程度の規模だったらしい。といっても、城域は西から北にかけて入間川が流れ、さらに北を赤間川、東を伊佐沼が扼し、南は武蔵野台地の先端に面するという自然の要害だったから、当時としてはすこぶるつきの堅城だったようだ。
 築城者の道灌は、江戸城をあたえられて居城とし、川越城には主君の扇谷上杉氏が入った。扇谷上杉氏は関東管領という要職を占める関東きっての名門で、この川越城に六代およそ八十年間在城している。このように川越城が名門の居城としてスタートしたことは、のちの川越城の運命を思うとき、ちょっとしためぐり合わせということができよう。
 さて、扇谷上杉氏が川越城を手放さなければならなくなったのは、戦国時代に入った天文六年(1537)のことである。関八州一円の制覇をねらう小田原北条氏と十三年余り対峙したすえ、ついに力尽きて落城したのだった。北条氏は福島(北条)綱成を城代として川越城に送り込み、天文十五年、日本三大合戦の一つに数えられる「川越夜戦」の劇的な勝利によって扇谷上杉氏を滅ぼすとともに、ほぼ関東一帯の平定に成功する。
 しかし、北条氏の川越城領有時代も、そうながくはつづかなかった。天正十八年(1590)の小田原の役のとき、川越城は小田原城の支城として豊臣軍に立ち向かったが、前田利家の軍に攻め落とされてしまうのである。
 小田原の役は、それからしばらくして終わり、敗れた北条氏の領土は、すべて徳川家康にあたえられた。したがって、この時点で川越城も自動的に、家康に所属することになった。
 家康は関東移封後、江戸城を本城と定めるとともに、領内の要衝に三河(愛知県)以来の重臣たちを配し、領国経営にのり出した。このとき、川越城に配されたのは酒井河内守重忠で、一万石の禄高をあたえられた。重忠は慶長六年(1601)、上野厩橋(群馬県前橋市)へ転封となり、それから八年ほど川越城は城主不在のまま過ぎるが、慶長十四年、酒井備後守忠利が入封して三万七千石を領して以来、幕末まで二十二人が藩主の座を継ぐことになる。
 この藩主の顔ぶれをみて少々おどろかされるのは、老中(格)・大老という幕閣の要職についた人物が異常に多いということである。まず、二代目城主の備後守忠利が、老中であった。三代の酒井讃岐守忠勝は、老中から大老に進んでいる。さらに、五代堀田加賀守正盛、七代松平伊豆守信綱、十代柳沢美濃守吉保、十一代秋元但馬守喬知、十四代秋元但馬守涼朝、二十二代松平周防守康英(康直)が、それぞれ老中や大老になっている。合わせて八人、ことに江戸時代の前半に集中しており、この時期に限ってみると、あたかも川越城は、幕府老中職の居城といった印象をうけるほどである。
 その印象は、各人の老中就任時期をと川越藩への移封時期を抜き書きすればもっと強まるであろう。
 酒井備後守忠利――慶長十四年老中となり、同年、駿河(静岡県)田中城から川越藩に入封。
 堀田加賀守正盛――寛永十年(1633)、老中となり、同十二年、川越藩に入封。
 松平伊豆守信綱――寛永十年老中となり、同十六年、武蔵(埼玉県)忍城から移封。
 柳沢美濃守吉保――元禄七年(1694)、老中格となり、川越城主となる。
 秋元但馬守喬知――元禄十二年老中となり、宝永元年(1704)、甲斐(山梨県)谷村城から移封。
 松平周防守康英――慶応元年(1865)、老中となり、同二年、下野宇都宮から移封。
 残りの酒井讃岐守忠勝は忠利の子、秋元但馬守涼朝は喬朝の子孫で、ともに川越藩を継承しながら、老中職に任じられている。
 さて、抜き書きした部分を見ると、六人が六人とも老中になってのち、遅くとも六年以内に川越城に移封となっていることがわかるであろう。しかも、秋元但馬守喬知までは、たとえば酒井氏が若狭(福井県)小浜藩に移封となったあとに堀田氏が入封するというふうに、老中職が連続して居城しているのである。こうしてみると、江戸時代の前半まで、川越城が老中職の居城と見なされていたことは、まず確かであろう。
 ところで、以上八人の老中・大老のうち、川越城と川越藩にとって、いちばん関係の深い人物は、「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱をおいてほかにない。信綱は、徳川家の代官大河内氏というあまり高くない家柄の出身だったが、幼いころから家光の小姓として出仕した。そして家光が三代将軍となり、幕政に強力な指導力を発揮しはじめるとともに、その側近として累進をかさね、幕閣のトップにのし上がった人物である。頭脳明晰をもって知られたが、こんなエピソードが伝わっている。
 家光が亡くなったときのこと、重臣の堀田正盛・阿部重次らは追い腹を切ったが、信綱はいっこうにその気振りを示さなかったので、
 「家光公にあれほど寵愛されたのに、殉死をせぬとは、武士の風上にもおけぬ不忠。臆病者だ」
 そんな非難の声が、期せずして湧き上がった。だが、信綱は平然たるもので、
 「忠君二君に仕えずとは他姓の君に仕えないということだ。先君の恩に報いるには、幼君(四代家綱)の守護を優先すべきである」
と語り、事実、りっぱに幼君の補佐を果たして、幕府の難局をのりきった。
 北条氏時代の川越城に徹底した大改修を加え、老中職の居城にふさわしい近世城郭として生れかわらせたのも、この信綱である。信綱時代に城は、縄張が格段と複雑になり、城地も4万6000坪(一坪約3.3平方メートル)と大きくふくれ上がった。江戸時代になってからの城地拡大は、幕府の許可が必要だったため、例が少ないが、信綱が許されたのは、彼自身の権勢と家光の寵愛があったからであろう。信綱はまた、藩内の発展のために尽力することも忘れず、野火止用水をひらいて開拓事業を行ったり、新河岸川に河岸場を設けて、舟運の保護育成をはかっている。
 だが、いま川越城址を訪れると、天守をはじめ遺構はほとんど失われ、わずかに本丸御殿が残っているにすぎない。この本丸御殿も往時は、建物が十六棟もあり総建て坪1025坪の広さを誇ったが、明治維新後、しだいに解体され、現在は大広間と玄関の部分をとどめるに過ぎない。
 また、残念なことに、本丸御殿は信綱の改修期の建物ではない。川越藩が十七万石と最高の禄高を領した十八代藩主松平大和守斉典治下の嘉永元年(1848)に建造されたものである。しかし、本丸御殿はいかにも大名ふうの偉容ある大建築物であり、老中職の居城という川越城の過去の栄光と格式をしのぶには恰好のよすがである、ということはできるであろう。 (百瀬明治)
 (年譜)川越城略年譜:太田氏時代/後北条氏時代/近世
 (地図)川越城址地図 (絵画)林家蔵「江戸図屏風」に見る川越城
・歴史と構造
 河肥館の時代/太田道灌の築城/後北条氏時代/江戸開府と川越城/完成期の川越城
 (絵図)常楽寺境内の図『新篇武蔵風土記稿』より、 川越城縄張図
・見どころ(杉山博)
 本丸と本丸御殿/富士見櫓台/天神曲輪/二の丸・三の丸・八幡曲輪/外曲輪・大手方面/城下町・喜多院
 (写真)川越城富士見櫓台、川越城下の安養院、河肥館址の発掘調査、川越城下の蔵造りの商家、川越城下の時の鐘

「日本名城秘話」 百瀬明治 徳間文庫 1995年 ★★
 川越城/老中の居城として、前掲の「関東の城」と同じ文章が掲載されていますが、「川越は江戸城から四キロと離れていないし」と、距離の訂正はありません。

「埼玉の館城跡」 埼玉県教育委員会編 国書刊行会 1987年  ★★
 58 川越城
種     別城(平城)
所  在  地川越市郭町1丁目、同2丁目
交 通 の 便川越線川越駅下車徒歩35分、東武バス川越駅発宮下町行初雁公園入口下車
土 地 所 有 者市有地、私有地(同所 三芳野神社)
立地・形態・面積台地 長方形 294000u(89000坪)
遺     構土塁・空堀共一部残存。水堀なし。
築 造 年 代室町時代
城 主・居住者太田道真(築城)、上杉持朝 同定正 同朝良 同朝興 同朝定、北条氏綱 同氏康 同氏政、酒井重忠 同忠利 同忠勝 堀田正盛、松平信綱 同輝綱 同信輝、柳沢吉保、秋元喬知 同喬房 同喬求 同凉朝、松平朝矩 同直恒 同直温 同斉典 同典則 同直侯 同直克 松平康英 同康載
文 献・絵 図鎌倉大草紙 河越記 永享記 小田原記 関東古戦録 三芳野名勝図会 多濃武の雁 川越索麺 川越年代記 新編武蔵風土記稿 武蔵国郡村誌 入間郡誌(以上公刊)、川越地理略 川越城野帳場分間之写(以上写本) 川越城図(元禄年間柳沢文庫―川越市立図書館所蔵) 川越城図(秋元時代、東大史料編纂所所蔵) 川越城図(寛延年間、川越市立図書館所蔵) 川越城図(慶応年間、川越市立図書館所蔵)
伝 承・記 録長禄元年(1457)太田道灌が上杉持朝の命により築造したものであるが、その後上杉氏(5代)、北条氏(3代)の居城となり、戦国争乱の拠点となったが、徳川家康関東入国後は、譜代親藩大名の居城となった。城域は近世になってから逐次拡張されたが、寛永15年(1638)松平伊豆守信綱が領主となってから、急速に城郭が整備され、江戸防備の守衛の城としての役割を果すに、耐え得る城とした。江戸時代の諸大名の在城は酒井、堀田、松平、柳沢、秋元、松平の諸侯である。

「川越の城館跡 (改訂版) T氏自費出版 2004年 ★★★
@川越城(1457年〜1870年頃:郭町全域・元町の東一部・大手町の東一部・宮下町の南一部)
歴史:
 室町時代、初代将軍足利尊氏は、関東地方の抑えとして次男の足利基氏を鎌倉公方とした。1438年の永享の乱は、鎌倉公方である足利持氏が京都に反抗して滅ぼされた事件であり、持氏の子、足利成氏は古河に逃れ古河公方と称する。このような状況下で、関東管領家(鎌倉公方の家老)である山内上杉氏と扇谷上杉氏が台頭し、河越を含む武蔵の国は扇谷上杉氏が実権を握るようになった。
 1457年、扇谷上杉氏の当主上杉持朝は、古河公方の備えとして、家宰(家老)の太田道真(一説には子の道灌)に江戸城、岩槻城、河越城の築城を命じた。また、深谷城、松山城なども補強されたようだ。
 築城者は太田道灌説が主流であるが、あくまで補佐としての立場だったのではないかと思われる。川越城の築城者は、北条五代記、永享記、河越記、修河越城之記、寛政重修諸家譜、三芳野名勝図会、新編武蔵風土記稿による太田道真説と太田家記、霊岩夜話による太田道灌説がある。市役所前の銅像には申し訳ないが、本稿では太田道真主導説にした。太田道灌は江戸時代に持資流軍学(築城学)の始祖者として多分に虚飾された面があるように思われる。さらに川越城築城時に弱冠25歳という若さも気になる。ただし、江戸城については、太田道灌説であると思われる。
 古河公方の前線城は、関宿城、羽生城、野田城、菖蒲城だったため、川越城は東北方面に守りの主眼がおかれている。
 当時の城郭は、後の本丸(本丸玄関の近辺)、二の丸(市立博物館、市立美術館の近辺)、天神郭(三芳野天神社近辺)程度といわれている。全国的にも珍しいと思われるのは、城内に三芳野天神社が置かれたことであろう。江戸時代になり、正月18日に一般の参詣が許された。童謡「通りゃんせ」発祥の地として知られる。
 城主は、上杉持朝、政真定正朝良朝興朝定と続く。
 小田原北条氏の二代北条氏綱は、初代北条早雲の関東全域支配の遺志を継ぎ、1537年、上杉朝定軍を破り、川越城を手に入れる。城代として北条(福島)綱成が入城する。
 これに面白くないのは、古河公方、扇谷上杉氏、山内上杉氏であり、1545年、三者の連合軍は川越城を八万の軍勢で取り囲み、奪回を図る。山内上杉憲政本営は南方面の砂久保に、古河公方足利成氏、扇谷上杉朝定が上戸、老袋、狭山市柏原、川島町出丸に布陣した。一方、川越城の守兵、大将は北条上総介綱成、副将は朝倉能登守、師岡山城守などの三千余り、氏綱の家督を継いだ三代北条氏康は、八千の援軍で小田原から出陣し、武蔵府中に布陣。そして有名な日本三大夜戦(川越夜戦、厳島合戦、桶狭間の戦い)の一つ、川越夜戦により古河公方、扇谷上杉、山内上杉の連合軍は壊滅する。
 氏康は砂久保に切り込み、大導寺、印浪、荒河、諏訪右馬亮、橋本らの家臣が従った。他では菅谷隠岐守、多米大膳亮、笠原、内藤、石巻などの奮戦があった。そして、扇谷上杉朝定、小野因幡守、本間近江守、倉賀野三河守、難波田弾正、本庄藤三郎ら一万六千の兵を討ち取った。
 ただし、この合戦について、実際には夜戦でなく、数回の合戦であったとの説もある。しかし、城中からも打ってでて激戦地であったという東明寺内に川越夜戦の地の石碑が立つ。
 地元の方に尋ねると、激戦地の東明寺(志多町13番地1)近辺は土を掘り返すと人骨が出土したそうである。このことは新編武蔵風土記稿にも記されている。
 川越城を完全に支配下にした北条氏は、関東の覇権を征する足がかりを確保、重臣である大導寺氏を城代とした。このころ、三の丸(川越高校と養護学校の間近辺)、八幡郭(川越高校校舎近辺)の拡張があったようである。
 1590年、豊臣秀吉の小田原成敗時は、前田利家、真田昌幸、上杉景勝の軍に北関東(鉢形城、松山城方面)から攻められて無血開城したといわれている。ただし、川越城から北の出城では激しい攻防戦もあったようだ。川越城主大導寺政繁は群馬の松井田城に籠城するが、松井田開城後、前田利家と共に北関東進行軍に加わる始末だった。その時の川越城代は息子の大導寺直繁であり、城の攻防戦は無かったと思われる。
 参考までに鉢形城、松山城、忍城、岩槻城など主だった城は、何らかの落城悲話が伝えられている。
 なお、政繁は小田原落城後、豊臣秀吉の命により、四代北条氏政とともに切腹した。城兵の多くは、他家へ仕官するか、帰農し名主の様な有力農民になったようである。兵農分離が確立していなかったころであり、多くは農民兵だったことだろう。
 後、徳川家康が東海から関東八州に移封、徳川四天王とよばれる酒井重忠が1万石で城主となる。その後、酒井忠利、忠勝(大老)、堀田正盛(老中)、松平信綱(老中)、輝綱、信輝、柳沢吉保(大老格)、秋元喬知(老中)、喬房、喬求、涼朝(老中)、松平朝矩、直恒、直温、斉典、典則、直侯、直克(政事総裁職)、松平康英(老中)、康載(川越藩知事)と続く。以上のように、江戸幕府の要職を務めた城主が多い。
 1640年代、松平信綱により、中郭、追手郭(あわせて外郭ともいう)、新郭、帯郭、田郭の付加、西大手門、南大手門の二門に馬出しを設けて川越城は完成した。以後、江戸城の北の守り、すなわち北の出城として重要な城となる。これにより、櫓3基(本丸に富士見、菱、二の丸に虎)、城門12(大手、南大手、二、三、中、埋、田郭、天神、清水、蓮池、新郭、帯郭)の広大な城となった。その広さは46,000坪におよぶ。
 なお、菱櫓と虎櫓の場所について、絵地図を見ると、築城当初は本丸の櫓を菱、二の丸を虎と呼んでいたようだが、江戸時代末期には、すべての絵地図が逆転し、本丸の櫓を虎、二の丸の櫓を菱と呼ぶようになっている。大きな疑問だが築城当初は、方位から虎(十二支の寅、東北東の方角)、地形から菱(菱形に変形した角のある郭)と名付けたものと考える。縁起担ぎ、または移築により名称が変更されたのではないか。
 参考までに、江戸城の守りは川越のほか、小田原城、岩槻城、古河城、関宿城、土浦城、佐倉城などが挙げられる。ただし、非常時は江戸城から甲府城へ逃れる体制が整えられていた。
 明治時代になり、1870年頃には破却が始まったようだ。そして城跡は、学校、住宅、田畑に使用されるようになる。

立地:
 川越築城まで、扇谷上杉氏は、川越市上戸の鎌倉時代の河越氏館跡に居住していたというが、入間川の外側になっており、当時の政治状況から考えると実に立地条件は悪かった。築城者である太田道真は江戸城、岩槻城のように湿地帯と台地をうまく利用することが得意だったと思われる。
 川越城の本丸、二の丸の北東の一帯は、川越台地の最北東端の突端部(舌状台地)になっており、今でも一面に広がる平野が見渡せる。大昔はここが海岸線だったそうだ。また、築城時は赤間川、伊佐沼による湿地帯で、天然の外堀になっていた。これなら北東の古河方面から敵が来ても、すぐに判ったことだろう。本丸富士見櫓跡の山、二の丸櫓跡の川越武道館あたりから、ぜひ見渡してほしい。
 江戸時代は搦め手門として扱われた南大手門から南東の一帯は、遊女川の泥湿地だったようであり、昭和60年頃までいくつか湿地帯の名残の蓮池などが見られた。南大手門の真南は、大寺院の喜多院がある。江戸時代は、徳川家康の指南役でもあった天海僧正によって再興され、深い堀に囲まれ南方面の出城の役割を果たした。
 西側は築城当時から大手方向とされていたようだ。また、現市街地を流れる赤間川(現新河岸川)を天然の外堀と考えるならば、城下町が発展するのは自然と平地で広大である西と南西方面に発展していったのだろう。城の唯一の弱点は西方面であり、城下町、幸町によって城を防備する必要があったと思われる。ただし、3K地点に入間川、4K地点に小畔川があり、町全体の堀と考えるべきだろう。
 参考として、小田原北条氏の築城方法は、(1)街道の要衝に築くか、街道そのものを取り入れている。(2)山城でなく20mから30mの丘陵に築く。(3)山地が平野に出た所(舌状台地)の先端に築く。(4)台地上を空堀で仕切り、突端を独立させる。以上の傾向があり、川越城は奪った城とはいえ、小田原北条氏の意向が十分に反映された城だった。そして、(4)の強化、すなわち三の丸、八幡郭など西方面の防備を施したといわれる。
 1640年代、川越城主松平信綱は、さらに西方面(中郭と追手郭)、外郭(新郭と帯郭と田郭)、および馬出しを新規普請して従来の城の面積を3倍にまで拡張した。

遺構:
 @1848年建築の全16棟、1,025坪の広大な「本丸御殿」の一部である「本丸玄関」が有名。これは、掛川城、彦根城、二条城、高地城とともに、江戸時代の御殿建築の重要な建築物である。江戸時代末期の建築であるが、川越藩17万石の威容がうかがえる。また、家老詰所も上福岡の民家から移築復元されている。二の丸御殿が焼失したため新築したといわれるが、なぜそれまで本丸に御殿が無かったのか1848年当時でも謎だったようである。内部は一般公開されており、ぜひ見学していただきたい。(郭町2丁目13番地)
 A富士見櫓跡は圧巻。高さ15mほどの山からは、今でも四方が手に取るように見渡せる。本丸の南東に位置しており、他に本丸北西の菱櫓、二の丸北東の虎櫓の3つの櫓の内、天守閣を兼ねていた。築城時は、三芳野神社あたりが本丸との研究者説もあるが、東北(鬼門)からの守りを主眼に置いた城なら、ここ(裏鬼門)が妥当と思われる。堀も深い。最近、川越高校東側土塁がコンクリート化されたのは残念だがコンクリートの高さが堅牢さを物語る。(郭町2丁目15番地)
 B現在の養護学校のあたりは、三の丸北川でありグラウンドは堀の底に当たる。また、学校敷地南側の三の丸土塁もよく残っている。その土塁上の三の丸は、隠居屋敷、馬場、馬見所があった。三の丸の一部は、昭和50年初めころまで一面の雑草であったが、近年急速に宅地化された。(郭町2丁目9番地)
 C本丸(天神郭)土塁が初雁公園内にある。公園として整備されており、高さは5mほどある。今後も残されることだろう。しかし城絵図にはこの土塁の記述が不明瞭であり、何か建築物があったようだ。本丸内の三芳野天神社と関連する小山ではないかと思う。(郭町2丁目25番地)
 D同じく本丸(天神郭)土塁が初雁公園南口にわすかながら残っている。城絵図では本丸の土塁の一部のようだが、高さは4mほどあろうか。子どもたちの遊び場となっていて、年々崩れてきている。おまけにまったく手が加えられていない。近い将来消えてしまうかもしれない。(郭町2丁目20番地)
 E城の南東端、田郭(杉下橋の近辺)は、今でも折りをつけた水堀が残る。江戸時代は三芳野天神社の別当「高松院」があった。今でこそ水の量は少ないが貴重な遺構だ。ぜひ今後も残ってほしい。(郭町2丁目21番地16近辺)
 F城内の道は、南大手門(第一小学校西門近辺)の馬出し部分の東側道路が、当時のうねりと幅を残している唯一の場所である。(郭町2丁目1番地と郭町2丁目2番地の間の道)
 Gその他の城内の道は、幅やうねりが現在と多少異なる。
 大手門(市役所前)から中門、三の門を経て本丸(市立博物館近辺)までの道。(元町1丁目4番地から郭町2丁目11番地3近辺)
 南大手門(第一小学校東門前)から富士見櫓下の田郭門を通り、清水紋(杉下橋近辺)までの道。(郭町1丁目21番地から郭町2丁目22番地9近辺)
 三芳野天神社から南へ、途中の細い道を西に入り、天神門を経て田郭までの道。(郭町2丁目25番地から郭町2丁目16番地5)
 南大手門(第一小学校東門前)から北の三の門(東京新聞販売所近辺)までの道。(郭町1丁目21番地から郭町1丁目12番地9)
 参考までに童謡「通りゃんせ」の細道は南大手門から田郭門を経て天神門から三芳野天神社へ至る道と伝わるので、概ね残っているといえる。
 H赤間川(現新河岸川)の一部は、新郭を取り囲む外堀、すなわち新郭門(宮下橋下流20m位の所)から、現在の城下橋を通過、帯郭(初雁球場の近辺)まで、おおむね当時と同じラインで流れている。ただし、当時は川でなく堀であった。(宮下町1丁目16番地から郭町2丁目28番地近辺)
 I昭和50年前半頃までは、中郭(川越小学校の近辺)に数か所、土塁や堀が残っていた。筆者が昭和47年、川越小学校に在校していたころ、もったいないことに、何とこの土塁を削って朝顔を育てる植木鉢の土を調達した。
 今も川越小学校北東の民家の奥に巨大な空掘が残っている。中郭と追手郭の仕切りのための堀である。もはや奇跡的であるが、袋小路になっていて必ず民家の敷地内を通らなければならないので、探訪の際は住民の方に一言声を掛けていただきたい。(郭町1丁目8番地)
 J川越市立博物館発行の資料によると、市内三久保町の成田山旧客殿、加須市むさしの村武芸館、東松山市葛袋の野口家の門が川越城建築物として移築されているらしい。

「日本名城紀行2 南関東・東海」 小学館 1989年 ★★
 川越城 幕閣要人が治めた小江戸の城  尾崎秀樹
・蔵づくりの街
 川越は、小江戸とよばれる。大消費都市江戸に近く、しかもその物資の供給地として栄えた城下町だからだ。 小京都があるならば、小江戸があってもいい。軒を並べた蔵づくりの店、旧幕当時さながらの「時の鐘」、本丸御殿の遺構など、いずれも川越の歴史を象徴する。
 東京の都心から40キロしか離れていない川越市は、近年とくに東京のベッドタウンとしての性格を強め、人口30万に近い大都市となった。 西武線・東上線・川越線などがクロスする市の南部一帯には、しだいに大型の店舗もふえ、ショッピングセンターとしての容貌を加えつつあるが、北へ向かうにつれて城下町の姿が浮かびあがり、 蔵づくりの店の並ぶのを見ると、何か救われる思いになる。
 とくに一番街の通りを行くと、国の重要文化財指定をうけた大沢家をはじめとして、いくつかの土蔵づくりの店舗が残っており、100年以上むかしの時間を歩いているような錯覚にとらわれる。 じっさいには、江戸時代の遺風をとどめた建造物は、大沢家ぐらいのもので、明治26年(1893)の川越大火後に建てられた耐火建築が多いと聞いたが、最盛時には200軒をこす蔵づくりの家屋が建ち並んでいたというからたいしたものだ。
 萩の武家屋敷、妻籠の宿場などを見た目には、川越の町屋の姿は、商業的な伝統が息づいている感じだ。 しかもそれがごく自然に生活のなかにとけ込んでいる。東京では、これだけの遺構を見ることができない。 大東京の変貌には、歴史的なものをまるごと破壊してゆくような荒々しさがあり、個々の史実は残されても、町並みを自然のままにとどめる配慮がない。 それはお役所的な町名変更などにも端的に現れるが、都心から小一時間で来られる川越では、かえって江戸や明治のおもかげが町屋のたたずまいに残っていて、うれしいのだ。
川越夜戦

歴代の城主
 太田道灌が築城した当時は、本丸と二の丸だけの小さな平城だったらしい。北条氏の代に三の丸と、八幡曲輪が加わったが、それにしても城の規模は小さい。本格的な構築は、松平信綱の代になってからである。外曲輪・中曲輪・田曲輪・帯曲輪があらたに加わり、西大手・南大手に丸馬出しがつき、四万六千坪(約151,800平方メートル)のものに拡大される。
 しかし現在では、ほとんど遺構はなく、わずかに本丸御殿を除けば、あとには富士見櫓跡と三の丸北側の土塁や堀跡の一部にかつてのおもかげがうかがわれる程度である。だが本丸御殿は、建造物としても貴重なもので、松平斉典が嘉永元年(1848)に造営したものであり、昭和四十二年に修復されて以後、一般に公開された。唐破風の玄関、大広間・櫛型塀など、十七万石の格式をしのばせるものがある。
 川越は江戸城の北辺にあたり、軍事的にも重要な地点であるだけでなく、大江戸の物資の供給地として栄えた土地であり、歴代藩主にも上層譜代のものが多く、大老ふたり、老中六人を出している。
 川越藩の成立は、天正十八年(1590)徳川家康の関東入国にはじまる。関東へ入った家康は、すぐさま知行割りにとりかかり、江戸周辺を直轄領でかためたうえで、その外郭を三河(愛知県)以来の譜代層でとりまくように配置した。この知行割りには、榊原康政を総奉行に、青山忠成・伊奈忠次・大久保長安らの各代官が知恵をしぼってとり組んだといわれるだけあって、じつにみごとな政治的構図を示している。
 川越城には酒井河内守重忠が入封した。石高は一万石だったが、三河譜代の臣で、永禄十二年(1569)に、父正親に従って掛川の戦いに初陣して以来、姉川・高天神・長久手などで武勲をたてた歴戦のつわものであった。
 重忠は入封すると、城下町の繁栄の一助として、諸役の免除を実施し、楽市的政策をとって領内の経済的確立につとめた。文禄の役(1592)には留守居役を担当、江戸城をあずかり、関ヶ原の戦いでは弟の忠利とともに大津城を守備した。その功績で、上州厩橋(前橋)に転封になるのは慶長六年(1601)春、在城わずかに十一年だった。
 その後しばらく城主の空席期間がある。重忠は川越城の軍事的性格を考慮し、ぜひともこの地に、もうすこし踏みとどまり、同時に民政の実をあげたいと願ったが許されず、天海僧正のはからいもあって厩橋への転封となったといわれる。
 そのあとが酒井忠利だ。忠利は兄の重忠と同様、家康のもとで忠勤に励み、武名を高めた。家康の関東入国にさいしては、川越の紺屋村で三千石をあたえられたが、関ヶ原戦のあと七千石の加増、川越入部のおりにさらに一万石をおくられ二万石の大名となった。この忠利の入部には、兄重忠の推挙がおおいに作用していたようだ。
 忠利も武功一点張りの武将ではなく、老中として幕政に参加し、さらに仙波喜多院の造営、領内総検地などを行なっている。
 嫡男の忠勝は忍領五万石の大名だったが、父の死後、遺領の三万石と合わせ、八万石を領することとなり、老中をつとめた。この忠勝は、三代将軍家光の信頼もあつく、寛永五年(1628)二月以来、なん度か将軍の来遊を仰いでいる。忠勝は儒学を林羅山に学び、龍派禅珠和尚の学風をうけて禅の道をきわめるなど好学心に富んだ大名で、城内の三芳野天神をはじめ、いくつかの寺社の修復につとめるなど、精神面での向上にも資しているが、実直な性格は、「酒井の太鼓」という俗称があったことでも知られる。
 というのは大手門登城の時刻が、毎日寸秒も狂わず、酒井家の登城の太鼓で、時刻をはかることができたことから、一般にいわれたらしい。市内の多賀町に現在も残る「時鳴鐘」は、その酒井忠勝の創建した遺構である。十四歳のときに関ヶ原戦を体験しているが、その経験にかんがみ『関ヶ原始末記』を編纂して献上したのは有名だ。
 酒井家は二代で小浜へ転じ、かわって堀田正盛が川越城の主となる。その間わずかの時期、奥州中村の相馬大膳亮義胤が城代をつとめたこともあった。堀田正盛の父正吉は、織田信長や浅井長政・小早川隆景につかえたことのある武将で、慶長十年に家康にかかえられ、正盛の生まれたときはすでに家康の家臣だった。正盛は阿部忠秋・松平信綱とともに家光の側近のひとりで、家光の将軍就任により大名に昇進した新参譜代の官僚であった。
 彼らは、それまでの門閥譜代層を大老格に格上げし、幕政の中枢に参与することになるが、城地をもつのも老中に就任してからであり、江戸城周辺の土地が多くえらばれていることを考えると、新参譜代層の進出が、明らかに読まれる。堀田正盛の川越入部、それに続く松平信綱の入封などは、その典型だった。
 正盛は在城三年で信州松本へ移るが、その転封の年の正月、川越に大火がおこり、喜多院や東照宮も焼けたため、造営奉行として、その再建にあたった。家光が江戸城紅葉山の書院を喜多院へ寄進したのも、この再建のときである。
知恵伊豆と野火止用水
側用人柳沢吉保
黒船一番乗り
 (付)川越城年表
 「江戸図屏風」内の右隻第一扇〜第三扇の鴻巣御殿と川越城は、他の景観と比べてひときわ異彩を放っている。
   (中略)
 一方「江戸図屏風」に描かれている川越城は、松平信綱による大改修以前の様子を表したものとされている。
 江戸時代初期の川越城は、本丸(三芳野天神社を含む)・二ノ丸・三ノ丸・八幡曲輪で構成され、土居と堀、草葺屋根と白壁に囲まれた平城で、この絵からもその様子がよくわかる。また城といえば、天守閣や石垣を連想するが、川越城には終始天守閣がなかった。この絵にも本丸と思われる場所に天守閣はみられず、石垣は二ノ丸の一部に見られるだけである。
 城内の建物で特徴的なのは、三芳野天神と富士見櫓であろう。三芳野天神は、本丸東の天神曲輪に鎮座し、太田道灌が城の鎮守として川越城築城の際に創祀した。江戸時代にはいって、寛永元年(1624)に家光の命によって再建された。富士見櫓は天守閣の代わりをなすもので、城内右上隅の櫓がそれにあたると考えられる。しかし記録によると、富士見櫓は三重の櫓で、本丸の台地上にあったようで、構造的には絵との類似性はみられない。富士見櫓の原型を描いたものであろうか。
 城内の様子をみてみると、多くの武士に混じって、鷹狩で得た獲物を運ぶ人足や、鷹を訓練する鷹匠、供の中間・小者などがみられる。また本丸には、馬屋と馬の世話をする人々がみられる。これは鷹狩のための準備をしているところであろうか。
 「江戸図屏風」に何故川越城と鴻巣御殿が描かれたのかについては、家光と酒井忠利・忠勝父子との親密な関係や家光の側近であった智恵伊豆こと松平信綱との関係からこの方面への狩りの回数が特に多かったためとの指摘があるが、たしかな理由はわかっていない。
(小林)
 コラム 謎の紋所
 右隻の第一扇・第二扇の上部には、かなりの大きさで幔幕(まんまく)で囲われた中で料理が調理されている場面が描かれている。押紙に「洲渡谷御猪狩御假屋」「川越御川狩御假屋」と記されているので、家光が川越付近で行った川狩りや猪狩りの獲物を料理している情景であることは疑いない。そして、この幔幕には「剣酢漿(けんかたばみ)」の紋がくっきりと染め抜かれている。これだけはっきりと紋所が表現されているからには、制作依頼者を表すのではないかとか、制作者の何らかの意図が表現されているのではいかなどと考えられる。ところが、この紋所は良く知られている酒井家の剣酢漿とは微妙に異なっている。酒井家の紋は三本の剣の一本は上を向いているのに、この幔幕の紋の剣は下を向いているのである。また酒井家の紋は剣が黒く塗りつぶされているのに、この紋の剣は白抜きである。そのために、似て非なるもの、或いは意図的に形を変えたのではないか、また、江戸図屏風の表現は正確ではないなどの、誤解や憶測を生み、謎のままであった。(村井益男『江戸図屏風の歴史的背景』、『江戸図屏風』平凡社など)。
 この三本の剣の一本が下を向き、白抜きの剣酢漿の紋所は、ありもしない紋でもなければ、意図的に形を変えたものでもなかった。実際にあった紋所である。大阪城天守閣蔵の「大阪夏の陣図屏風」には、秀忠の本陣近くの武士が、この剣酢漿の紋を染めた旗指物を持っている。静岡市立芹沢_介美術館蔵の「諸将旗旌図屏風」によれば、それは酒井山城守の紋と判明するのである(『戦国合戦図屏風』四、中央公論社)。
 寛永8年3月1日、この日江戸に戻る予定であった家光は、折からの強風と自身の体調の不良から帰城を延期した。この時、川越から江戸城の秀忠への使者にたった人物こそ、酒井山城守重澄であった(『徳川実記』)。酒井重澄は確かに川越での家光の狩りに同行していたのである。江戸図屏風に描かれた剣酢漿の紋の幔幕での調理の風景は、確かにあった光景なのである。なお酒井重澄は寛永10年5月13日改易された(『徳川実記』・『廃絶録』)。そのために、長く謎の紋所となってしまったのである。

「日本の名城 東日本編」 日本城郭史学会編 学研M文庫 2002年 ★★
 読んで愉しく、持ち歩きにも便利な、究極の名城ガイド《東日本編》! 豪壮なる五層の天守が国宝にも指定された松本城をはじめとする、三十三の名城と城下町を厳選。それぞれに個性あふれる歴史と見どころを、土地ゆかりの研究者・作家がわかりやすく解説してくれる。所在地がひとめでわかるガイドマップ付き。(カバーのコピー)
 川越城  所在地 埼玉県川越市郭町二丁目  交通 東武東上線・川越線川越駅、西武新宿線本川越駅下車
(みどころ)盛時をしのばせる本丸御殿
 今、川越城址は郭町に組みこまれ、初雁公園となっている。
 この「初雁」という名は、城の鎮守である三芳野神社境内の大杉に、北国から飛来する初雁がかならずとまり、三声鳴き、三たび木のまわりをめぐってから飛び去ったという、城の別名「初雁城」ともなった故事から名づけられたものである。
 城の遺構は、ごくわずかに本丸周辺に残っているばかりである。残念ながら、明治維新という変革の季節から、流れ去った百年余の歳月が消してしまったというほかはない。
 それでも、危うく残った本丸御殿の一部は、川越城の往時をしのばせて余りある。現存するのは桁行十九間、梁間五間、屋根は入母屋造りで、豪壮な正面二間の大唐破風と霧除けのついた大玄関・車寄せは、江戸時代そのままで見るものに爽快感を与えてすばらしい。
 この現存する本丸御殿は、かつて十六棟あった御殿のうちの、玄関・大広間・使者之間などにあたる部分であり、嘉永元年(1848)、時の藩主松平大和守斉典の建造にかかるものである。
 さきに記した三芳野神社は、この本丸御殿とは目と鼻の先にあり、太田道灌が長禄元年(1457)、川越城を築城した際、この社を城の鎮守としたが、徳川家康もまた朱印二十石を寄進し、その後も歴代川越城主の厚い崇敬を受けた。
 毎年正月十八日、新暦の四月十八日に大祭が催されるが、昔、庶民がこの天神さまを祭神とする社へ参詣を許されたのは、年に一回、この日かぎりであった。清水門から入城し、本丸天神門をくぐり、細く長い参道を通って参詣するわけだ。この天神さまが、童謡「通りゃんせ」のモデルとされた天神さまといわれる。「行きはよいよい、帰りはこわい、こわいながらも通りゃんせ」という例の童謡である。
 じっさい、庶民にとっては、年に一度許されたうれしい道であると同時に、こわい細道でもあったにちがいない。なにしろ、うっかり参道をそれて、本丸内をさまよったりしたら、それこそ無事にすむとは思われないからである。
 ほかに城の遺構としては、土塁と空掘で区別された天神・井戸の両曲輪も見られるが、富士見櫓台もそのひとつにあげてよいだろう。天守に相当する櫓が上に建っていて、高さ五十尺(約一五メートル)あるというが、櫓のないそれは、ただ高く土盛りされただけの、なんの変哲もない小山のようなものだ。今は櫓台上に御嶽神社が鎮座ましまし、かたわらに川越城址の碑が建てられてあり、世の栄枯盛衰を今さらながらに感じさせられる。
 城の遺構として、名刹星野山無量寿寺喜多院をあげるのは、やや見当違いの嫌いがなきにしもあらずだが、当院の境内には土塁と空掘がめぐらしてあり、川越城の出城ともされていたのだから、城跡とあわせてぜひ見学したいところである。
 喜多院の客殿は、寛永十五年(1638)正月の大火で、堂塔伽藍が焼失したとき、天海僧上の周旋と三代将軍家光の援助によって、江戸城紅葉山にあったのを移したものである。桁行八間、梁間五間、屋根は入母屋造りで、柿葺き渡り廊がついており、国指定の重要文化財だ。
 左側の奥十二畳半が上段の間で、家光誕生の間といわれ、格天井には四季の花が描かれており、つづく書院は一部に中二階があり、家光の乳母春日局の化粧の間という八畳間がある。
(歴 史)戦国史をいろどった川越夜戦
(城下町)「知恵伊豆」が築いた城下町
(城下町)重厚な蔵通りの町並み

「歴史探訪 日本の城」 井上宗和 廣済堂文庫 1991年 ★
・「名城とは何か」のなかで、「関東八名城」として、沼田城、忍城、古河城、土浦城、前橋城、館林城、小田原城と並んで、川越城が入っています。
・「城のニックネームは」で、川越城の別名の由来を紹介しています。
 川越城=初雁城。初雁の飛ぶをみて太田道灌の命名という。

カラー 続城と城下町」 山と渓谷社編 山と渓谷社 1974年 ★★
 川越城
 いわし雲の群れがゆるく流れてゆくのをふり仰いでいた太田道真(どうしん)が「城砦をここにきめた」といった時、道案内をつとめた係りの者は激しく首をふって「滅相もなきご才覚、構えて縄張り相なりませぬ」と遮(さえぎ)った。道真がききかえそうと唇を動かしたが続けてその面上へ「なぜとは情けない。ここは近寄るも恐れ多い三芳野の天神ガ森。毀却(ききゃく)の上築砦いたせば天罰たちどころにふりかかり一族7代に祟(たた)りがくると申し伝えております」。なるほどと主君は静かにうなずいたが、「ならば却(かえ)って趣ぞある。望むところ、縄張りはこの地よりほかはなし」と呟(つぶや)いて「段々と面白うなった。天神を郭の内に祀って天神郭といたそうぞ。本丸はその西あたりじゃから、ほらあの雑木林のところから……」と指差してみせ、「よいな。天神道真(みちざね)公を守護神として城に祀るはこの太田道真。姓こそ違(たが)えどいずれも道真なり。天も嘉(よみ)して許し給うことであろう。河肥(かわごえ)氏の古い館を修して入るより、敵に聞かしくれても肝を潰(つぶ)すような砦を構えねば……」と道真は明るく微笑んだ。築城工事は長禄元年(1457)夏に完成する。人呼んで初雁(はつかり)城。赤間川近い丘陵のこの地こそ、初雁が翼を休めて群がるところ、また城構えが雁の姿に似ているところから呼んだともいうが、当初はわずか本丸と二の丸を合わせたほどのものらしかった。しかし本丸東側の一郭には独立した三芳野の原野をそのままとり入れた「天神曲輪」を設け、三芳野天神を祀った。城といっても堀をうがち土塁を固め逆茂木(さかもぎ)を並べた程度。しかしまたひとたび敵が城内に乱入した場合、天神の迷路に誘いこむというのが特徴。童(わらべ)唄の「通りゃんせ」の天神がこれで、「行きはよいよい帰りはこわい」と唄われた天然の迷路が城内一部の往来となっていたのは事実である。この年4月8日江戸城が落成した。縄張築城の任に当たったのは、道真の子太田道灌(どうかん)。時に25歳。川越、江戸両城築構を命じたのは主人の扇谷上杉持朝(もちとも)。いずれも築城の目的は下総古河(しもうさこが)に拠(よ)った足利成氏(なりうじ)の勢力に対抗するためであった。桔梗(ききょう)の旗ひるがえるところ古河公方の野望は潰されてゆく。川越城に上杉持朝移り本拠を定める応仁元年(1467)に歿し孫の政真(まさざね)これを嗣ぐ。以来70年ここを守るも天文6年(1537)朝興(ともおき)北条氏綱(うじつな)に攻められあわれ落城、かくて北条氏の手に移る。同15年北条方の福島綱成(つなしげ)3千の兵をもって守備を固めていたのを、同城を奪還すべく雌伏10年一剣を磨いて起ち上がった上杉方は、8万余騎の大軍をもって囲む。しかし、たった8千の兵をもって駆けつけた北条氏康(うじやす)の巧妙な戦術に終始操られ、ついに完敗を喫することとなる。有名な川越夜戦である。以後北条の支城として大導寺駿河守政繁(まさしげ)固めるも、天正18年小田原攻めの折、栄枯一睡の夢、前田利家の軍門に降(くだ)ることとなる。家康の関東入部とともに重要性は更に加わり、徳川期においては川越藩が生まれる。

(ガイド) 江戸時代を通じて8家21名の城主の交替をみるが、このうち大老2名、老中職7名を輩出、幕閣重要メンバーたろうとするものが必ず踏むべき足掛りであったらしい。それというのも江戸城防備外郭線上のポイントであったからだ。小藩ながら徳川家の連枝の家柄や譜代の重要な人々がここに配置されている。寛永16年以後、7郭、12門、3櫓の大城郭にふくれる。現存する本丸御殿は埼玉県文化財の指定をうけており参観者も多い。城址は現在の初雁公園である。国鉄川越駅からバス10分。

「日本の古城・名城100話」 鈴木亨 立風書房 1987年 ★★
 第3章 戦国の城/30 川越城 日本三大合戦の一
  @別名:初雁城・霧隠城 A種類:平城 B築城年代:長禄元年 C築城者:太田道真・道灌 D遺構:本丸跡・濠・土塁 E所在地:埼玉県川越市郭町 F交通:東武東上線川越市駅下車

 川越ほど東京近郊で江戸時代の城下町の面影を残している町は他にないだろう。たとえば蔵造りの商家や寺町、時の鐘の鐘楼、そして五百羅漢で名高い喜多院など、江戸時代がそっくり残っているような建物が数多い。町並も元禄時代の古地図と照合しても、ほぼ現代と変わらない。
 この川越は古くは河越の荘といって、桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族・河越氏の本拠であった。その河肥館跡が川越市内上戸の常楽寺で、いまも土塁の跡がわずかに残っている。この河越氏は源頼朝の有力な御家人であったが、重頼のとき、義経の妻になった。そして義経が没落したのち、反逆者の係累というのが災いして重頼は誅殺され、一族は永く冷飯を喰わされた。そして南北朝時代の応安元年(正平23年・1368)関東管領の上杉氏に攻められ、落城している。
 康正2年(1456)関東管領(かんれい)・扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝は古河公方足利成氏に対抗するため、家臣の太田道真(どうしん)道灌(どうかん)父子に命じて現在の地に川越城を築かせた。城は翌長禄元年に完成している。以後、この城は扇谷上杉氏の本拠として約80年つづいた。
 しかし、天文6年(1534)扇谷上杉朝興(ともおき)が死んで13歳の朝定(ともさだ)が城主になると、それを待っていたかのように北条氏綱が川越城に押し寄せる。朝定は命からがら武州松山城に逃れた。
 それから8年後の天文14年10月、旧領回復を企てた朝定は山内上杉憲政や古河公方足利晴氏を味方にひきこみ川越城を包囲した。扇谷上杉朝定は城北の東明寺に、山内上杉憲政と足利晴氏は城南の砂久保(すなくぼ)に本陣を置いた。その勢8万余騎の大軍であった。
 北条方は福島綱成(氏綱の娘婿)が城将として3千の兵で守っていた。意外に守りが固く、足利・両上杉連合軍が攻めあぐんでいるうちに、翌15年4月、北条氏綱の子氏康が8千の兵をひきいて応援に駆けつけてきた。
 しかし、尋常に戦っては大軍を相手では勝ち味がない。そこで氏康は何回も出撃しては退却するということを繰り返した。それが度重なるうちに連合軍のほうに氏康を侮る気分がみなぎってきた。
 こうした連合軍の油断をみすまして、4月20日の夜、氏康は急襲を敢行した。鎧の上から目印の白い肩衣(かたぎぬ)をつけた北条勢が殺到すると、不意をつかれた連合軍は大混乱に陥った。そこへ城内からも籠城兵が討って出たため、寄せ手は前後から挟み討ちになり壊滅状態となった。ことに東明寺のあたりではもっとも激戦が展開され、後年にいたるまで土地を掘り返すとおびただしい人骨が出てきたという。
 このときの合戦は、厳島の合戦、桶狭間の合戦と並んで「戦国三大合戦」と呼ばれている。足利・両上杉軍の戦死者は約1万6千、あるいは1万3千を数え、それにたいし北条方は死者百名だったという。北条軍の完勝だった。こうして川越城は北条氏の完全な支配下に入り、大道寺氏が城将として置かれた。
 やがて天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原平定とともに川越城も落城する。そして徳川家康が関八州の主として入部すると、譜代の酒井重忠がこの城を与えられ、以後幕末まで9氏が城主として入れ替わっている。小藩ながら江戸城の北の抑えの城として重要視され、そのために城主はいずれも徳川連枝(れんし)・譜代大名ばかりであった。大老・大老格・老中として幕閣に連なった大名は8人もいる。
 川越の城と城下町が改修整備されたのは寛永16年(1639)松平伊豆守信綱(6万石、のち7万5千石)が城主のときであった。本丸、二の丸、三の丸を中心にし、八幡郭(くるわ)・天神郭などの五郭を新設し、菱櫓・虎櫓・富士見櫓の3櫓、西大手門・南大手門などの8門を新たに設けた。これは旧城域のおよそ倍の拡張であった。城下町は十カ町に区画し、川越街道を整備し、新河岸川の舟運も開いた。
 しかし、明治になって本丸御殿の一部(現在の武徳殿)を除き、他の建物はすべて破却されてしまった。本丸の東側にある天神郭には三芳野天神が祀られているが、これは童謡に「ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ……」と歌われた天神社だという。本丸の南西に一段高く富士見櫓跡があるが、ここに築かれていた三層の櫓は天守閣の代用になっていたものである。

川越城の写真

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作成:川越原人  更新:2009/9/26