柳沢吉保


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「将軍側近 柳沢吉保 いかにして悪名は作られたか 福留真紀 新潮新書 2011年 ★
天下取りの野望を胸に秘め、将軍を女色で籠絡するなど、小説やドラマで典型的な悪役に描かれる柳沢吉保。しかし、史料を丹念に読み込むと、見えてくるのは意外な実像だった。将軍という最高権力者の周囲に絶えず渦巻く、追従、羨望、嫉妬、憎悪……。将軍の最も側近くで仕えた吉保にとっては、悪名は宿命だったのか。将軍とその側近の実像に迫りながら、「武」から「文」への転換期の政治と権力の姿を鮮やかに描き出す。

 第三章 「莫大な権勢」の真実
 家臣は主君を映す鏡
 ただし、それでも駄目な家臣はいたようで……。そのような場合、吉保は次のように対応していた。
 最近、柳沢吉保の裏門に新しく番人を置き、裏門より家中への進物を入れないようにしたそうだ。また、吉保の家臣が二人、各方面より賄賂を多く取ったということで、川越に返されたそうである。
――頃日、柳沢吉出羽守裏門に新番人を置き、裏門より家中への音信を不通に入れずと云々、又云ふ、柳沢出羽守家来両人、諸方よりまひなひ多く取り候に付き、川越へ差し遣わすと
 吉保を頼りにする諸大名らから法外な賄賂をとっていた家臣を、国元に送致したとのこと。こちらは、何かと綱吉政権批判が多い同時代史料『御当代記』である。その中にも、家臣の奢りを許さない、厳正な吉保の姿がある。
 そして、その考えは、吉保自身の身の処し方にも表れていた。

「日本名城紀行2 南関東・東海」 小学館 1989年 ★★
 側用人柳沢吉保
 信綱・輝綱・信輝とつづいて松平氏は下総(茨城県)古河へ移り、かわって柳沢吉保が七万二千石で入封、老中をつとめ、十年後には甲府城主となって去る。この柳沢吉保については功罪相半ばする評価がなされてきたが、将軍綱吉の側用人として権勢をほしいままにした人物である。
 もともとは譜代層に属する家柄であったが軽輩にすぎず、ふつうならば政治を掌中におさめるような枢要な地位につける身分ではなかった。しかし、上州(群馬県)館林藩主の徳川綱吉につかえた父の関係で、十六歳で綱吉の小姓となり、以後、小納戸役・若年寄上座・側用人・老中格と累進し、元禄七年(1694)に川越藩主となったのは、三十代半ばであった。
 元禄十四年には綱吉の名の一字をもらって、それまでの保明から吉保と改まり、松平姓を賜わっているが、さらに甲府藩主・大老格にまで昇進し、文字どおり位人臣をきわめる状態であった。
 なぜ綱吉がそれほどに吉保を寵愛したか、衆道の思いもあったにちがいないが、好学心に富む点でも共通しており、かねて老中政治に不満をいだき、将軍権力の奪還をねらっていた綱吉が、側用人政治をすすめるうえで、吉保ほど重宝な存在はなかったのだ。
 綱吉も暗君ではなかった。初期には天和の治といわれる政治を行なっている。しかし封建体制下では、彼流の政治の理念化は容易には実現せず、専制権力を行使すればするだけ、意図するものとは逆な面が強調されていった。生類憐みの令などは、その極端な例である。生母桂昌院が信任する護持院隆光の口車にのせられて、生類憐みの令を出し、官僚機構の末端にゆけばゆくだけ、取締りそのものもエスカレートするありさまで、側用人制のマイナス面が露呈することになるが、吉保もさすがに気がとがめたのか、綱吉の伝記の初稿では、
「ひとり生類憐愍の政令、もと不仁の微少を戒め、庶民の仁心を全ふせしめんと思召よりおこり、さまで厳令なるべきに非ざりしを、吉保・輝貞(松平)らが奉行のよろしきを失ひけるにや、末々に至りては、すこぶる御心の外なることもありけるとなん」
と反省している。
 当時の人びとは、綱吉・吉保それに側用人のひとり牧野成貞が、いずれも戌年生まれであるところから「三頭狗」とよんだという。
 ところで川越藩主としての吉保はどうだったのだろうか。
 吉保は上富・中富・下富など三村の開拓を行ない、多福寺・多聞寺などの禅寺を創建した。三富新田の開拓は、彼のやった代表的な民政だが、世にいう迎合的な奸臣とは異なる誠実な一面が、これらの治政からうかがわれるようだ。

「お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道 山本博文 新潮選書 2007年 ★
第四章 老中官僚制への移行
 二 大老・老中・側用人
  側用人柳沢吉保
  吉保取り立ての理由

「武士と世間 なぜ死に急ぐのか 山本博文 中公新書 2003年 ★
第七章 武士と世間
 世間に配慮する権力者
  公平な対応に務めた柳沢吉保
  吉保、家臣の驕りを戒める

徳川家臣団」 網淵謙錠 講談社文庫 1987年 ★
 第三話 柳沢吉保

「図説埼玉県の歴史」 小野文雄/責任編集 河出書房新社 1992年 ★★
江戸の穀倉
 ●野火止用水と三富新田
   (前略)
 元禄九年(1696)、川越城主柳沢保明(後の吉保)によって武蔵野台地に開発されたのが三富(さんとめ)新田である。
 これより先、元禄七年に、将軍綱吉の信任厚い柳沢保明は七万二〇三〇石を領し川越城主となっているが、三富新田の開発はこの年に着手されている。この新田開発は年貢の増徴を目的にしたもので、「三富」の言葉は論語よりとったものといわれ、保明の文治的な施策を体現したものである。
 三富新田は川越城の南三里ほどの地にあり、上富(かみとめ)(現、三芳町)・中富(なかとめ)・下富(しもとめ)(現、所沢市)に分かれている。一戸当たりの区画は、間口四〇間、奥行三七五間の短冊形で、道路に面して屋敷、その奥に畑地、最奥部に雑木林を配し、整然と地割りされたものであった。入村戸数は上富村一四三軒、中富村四八軒、下富村五〇軒の二四一軒であったが、生産性の低い畑地のみのためか、開村当初からかなりの増減がみられる。それにしても、一戸当たり五町歩の区画に肥料や燃料を確保させるため雑木林を残した点など、台地開発の特徴が示されている。
 新田の開発は、主として家臣の曽禰権太夫らによって行われ、入植者は武蔵野台地周辺の農民であった。新田開発着手後、柳沢保明は村民の信仰のよりどころとするため、多福寺と毘沙門社の建立を計画している。両寺社は元禄九年に落成しているが、多福寺は一二万坪の敷地で三富山と号している。

「雑木林の博物誌」 足田輝一 新潮選書 1977年 ★
3 ススキと月と ――歴史の語る風景――
大宮八幡の野草
関東武士団と牧場
名残りの江戸紫

「埼玉史談 第29巻第1号」 埼玉郷土文化会 1982年4月号 ★★
 三富新田の開拓  井田実
一 はじめに
二 武蔵野新田立野争論解決の証書
三 野守であった上富名主
四 まぼろしの三富用水
五 年貢を負けた柳沢吉保
六 おわりに

「柳沢吉保の実像」 野澤公次郎 みよしのほたる文庫3 三芳町教育委員会 1996年 ★
 元禄の巨星柳沢吉保、権力の中枢にあったが故に悪役に仕立てられ、今日なお虚像がまことしやかに語られている。そんな虚像に、著者渾身の力を込めて、快刀乱麻の筆致で吉保の実像を綴る。

「歴史に学ぶ不況に勝つ経営術」 童門冬二 廣済堂文庫 2001年 ★
 日本人は“日本式経営”ということばに幻想と錯覚を抱いていないだろうか。戦国時代、江戸時代の中小企業というべき武将・大名・商人たちの経営ははるかにきびしく、しかしゆたかで、ふくらみのある経営術を駆使してきた。歴史のなかから“真の日本式経営術”“元気のでる経営術”を学ぶ。
 狭山茶≠フ恩人……柳沢吉保

「松平家の謎 江戸時代と徳川のルーツ 『歴史読本』編集部編 新人物文庫 2010年 ★★
覇王徳川家康を生んだ松平一族を探る
 戦国時代、三河国松平郷の豪族であった松平氏は、西三河に勢力を張るが、隣国の織田信長と今川義元との勢力争いに巻き込まれて没落してゆく。その後、松平一族は三河を統一した徳川家康の譜代として家臣団の中核をなし、のちに幕府の要職を占めてゆく。
 江戸幕府を樹立した家康は、「徳川」姓を将軍家と尾張・紀伊・水戸家の御三家にしか認めなかった一方、伊達・前田・浅野・毛利・島津など縁戚関係にある有力大名に「松平」の称号を与えた。
 結束を武器に戦国時代を戦い家康を大大名の地位に押し上げ、江戸時代を通じて幕藩体制をささえた松平一族の「本質」を探る!
譜代系松平家
 大和国・郡山藩

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)
1658〜1714(万治1〜正徳4)江戸中期の老中。
(系)4代将軍徳川家綱の弟館林藩主徳川綱吉の家臣柳沢安忠の子。
(名)保明、初名房安、通称は主税・弥太郎、晩年に号を保山。
 幼少から綱吉の小姓となり、1680(延宝8)綱吉の将軍就任にともない、小納戸役から1688(元禄1)禄高1万石の側用人となる。1694川越藩7万石、老中格となり、1698老中上座(大老格)、1701松平の姓を与えられ美濃守吉保となる。1704(宝永4)甲府藩15万石となり、1709綱吉没後、子吉里に家を譲り、晩年は権勢から離れた。綱吉とその母桂昌院の信任を得て幕政を握ったため、元禄の政治に対する悪評を一身に集めたきらいがあるが、学問の奨励をはじめ荻生徂徠の登用など文治政治の推進者としては評価すべき点が多い。
(墓)山梨県山梨郡の永慶寺。
(参)林和「柳沢吉保」1921。

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作成:川越原人  更新:2016/6/28