幕府の 役職 | 姓 名 | 補任・初名・号 | 在職年月日 | 前城地 | 転封地 | 領 高 |
酒井重忠 (しげただ) | 河内守 | 天正18 慶長6・3・3 | 三河西尾 | 上野厩橋 | 1万石 | |
老中 | 酒井忠利 (ただとし) | 備後守 | 慶長14・9・23 寛永4・11・14卒 | 駿河田中 | 2万石、7千石加増、1万石加増 (併せて3万7千石) | |
大老 | 酒井忠勝 (ただかつ) | 讃岐守・号空印 | 寛永4・11 寛永11・閏7・6 | 若狭小浜 | 5万石、2万石加増 3万石遺領 | |
老中 | 堀田正盛 (まさもり) | 出羽守・加賀守 | 寛永12・3・1 寛永15・3・8 | 江戸在勤 | 信濃松本 | 3万5千石 |
老中 | 松平信綱 (のぶつな) | 伊豆守 | 寛永16・1・5 寛文2・3・16卒 | 武蔵忍 | 6万石、1万5千石加増 (併せて7万5千石) | |
松平輝綱 (てるつな) | 甲斐守 | 寛文2・4・18 寛文11・12・12卒 | 遺領7万5千石 1万1千石分与 | |||
松平信輝 (のぶてる) | 伊豆守・号宗見 | 寛文12・2・9 元禄7・1・7 | 下総古河 | 遺領7万石 5千石分与 | ||
大老格 | 柳沢吉保 (よしやす) | 美濃守・出羽守・保明 ・号保山元養 | 元禄7・1・7 宝永元・12・21 | 江戸在勤 | 甲斐府中 | 7万2千3百石、2万石加増、2万石加増 (併せて11万2千3百石) |
老中 | 秋元喬知 (たかとも) | 摂津守・但馬守・喬朝 | 宝永元・12・25 正徳4・8・14卒 | 甲斐谷村 | 5万石、1万石加増 (併せて6万石) | |
秋元喬房 (たかふさ) | 伊賀守・但馬守・尚朝 | 正徳4・9・29 元文3・9・5卒 | 遺領6万石 | |||
秋元喬求 (たかもと) | 越中守 | 元文3・10・28 寛保2・4・3致仕 | 〃 | |||
老中 | 秋元凉朝 (すみとも) | 摂津守・但馬守 員朝・号休弦 | 寛保2・4・3 明和4・閏9・15 | 出羽山形 | 〃 | |
松平朝矩 (とものり) | 大和守・直賢 | 明和4・閏9・15 明和5・6・10卒 | 上野厩橋 | 15万石 | ||
松平直恒 (なおつね) | 大和守 | 明和5・7・29 文化7・1・18卒 | 遺領15万石 | |||
松平直温 (なおのぶ) | 大和守 | 文化7・3・14 文化13・7・23卒 | 〃 | |||
松平斉典 (なりつね) | 大和守・矩典 | 文化13・8・27 嘉永3・1・23(20)卒 | 遺領15万石、2万石加増 (併せて17万石) | |||
松平典則 (つねのり) | 誠丸・典衛・号静寿斎 | 嘉永3・3・7 嘉永7・8・13致仕 | 遺領17万石 | |||
松平直侯 (なおよし) | 大和守 | 嘉永7・8・13 文久元・8・15卒 | 〃 | |||
政事 総裁職 | 松平直克 (なおかつ) | 大和守 | 文久元・12・6 慶応2・10 | 上野前橋 | 〃 | |
老中 | 松平康英 (やすひで) | 石見守・周防守・康直 | 慶応2・10・27 明治2・4・10致仕 | 奥州棚倉 | 8万4百石余 | |
川越藩 知事 | 松平康載 (やすとし) | 周防守 | 明治2・4・10 明治4・7・14廃藩 | 〃 |
川越藩は天正十八年(1590)酒井重忠(しげただ)(〜慶長六)が相模大住郡甘縄領を経て一万石で入封し成立した。重忠はただちに連雀町人衆の諸役免除を触れ、城下町商業の発展をはかったが、在城十一年関ヶ原戦後の慶長六年(1601)二万三千石の加恩をえて上野厩橋に移封した。その後八年間番城となり、慶長十四年(1609)に至り、重忠の弟で駿河田中城主酒井忠利(ただとし)(〜寛永四)が二万石で川越に入った。忠利は家康の命により、川越仙波喜多院を造営したほか、家光を補佐して活躍し、三万七千石余の所領となり、寛永元年(1624)に領内総検地を断行した。寛永四年(1627)忠利が死去すると嫡男で深谷藩主であった忠勝(ただかつ)(〜寛永二)が川越の遺領五万石を合わせ八万石で継嗣した。忠勝は家光を補佐し、老中の要職に就いた。家光は忠勝を信頼し川越城にもたびたび来駕し逗留した。忠勝は寛永十一年(1634)十一万石三千五百石余をえて小浜城に転じ、その後大老となった。忠勝時代の藩士は七千石を筆頭にして百石層の知行が最も多かった。忠勝は儒学の教養も深かった。『関ヶ原始末記』をあらわして家綱に献じたほか『酒井空印言行録』をのこしている。忠勝のあと、寛永十一年(1634)相馬義胤が城代をつとめた。翌十二年老中に就任した堀田正盛(〜慶安四)が三万五千石で入封したが、わずか三年にして寛永十五年(1638)信濃松本城に移った。
代わって寛永十六年、六万石で松平信綱(のぶつな)(〜寛文二)が忍城から入封したが、信綱の川越入りは島原の乱の功によるともいわれている。信綱は代官大河久綱の子であったが松平正綱の養子となり、家光の小姓から出て老中となり家光に仕えて幕政に手腕を発揮した。信綱は川越に入ると荒川の流路を入間川に合流させたほか、川島領大囲堤の築造をはじめ、領内のきめこまかな農業技術の指導や農産物の改良などをすすめ生産を飛躍的に発展させた。慶安元年(1649)領内総検地を実施し、租税の法をきめた。また玉川上水工事の完成を家臣安松金右衛門・小畑勘右衛門に担当させ、幕府から玉川上水の分水を許されて野火止用水を開き、この飲料水を利用して武蔵野の畑作新田を開発した。商品や生産物の運送のため新河岸川の水運を整備し九十九曲りという蛇行流を造成し、河岸場を設けた。川越城の修築も信綱によってなされたものが多い。城下町もこのとき整えられた。町の地割は侍屋敷・町屋敷・社寺地とし足軽・中間は組屋敷とした。そして十ヵ町四門前町がととのえられたのである。慶安元年には十ヵ町の石高千四百三十四石四斗、屋敷は二十二町一反五畝七歩であった。
寛文二年(1662)信綱のあと輝綱(〜寛文十一)は七万五千石を継嗣し、武蔵野開発や、岩槻から野火止に平林寺を移すなど父の遺業を完成した。その子信輝は元禄七年(1694)下総古河城へ転封になり、同時に柳沢吉保が七万二千石で川越城主となった。吉保は将軍綱吉の小姓より側用人となり、川越藩主となるや同年老中格にすすみ、元禄期の幕政を担当した。吉保は入封後川越城に居することもなく政務に忙殺されていたが藩領地蔵野(じぞうの)を、王安石の阡陌の法にもとづく開発をおこない論語より三富の名をとって近世新畑開発のモデル村とした。
宝永元年(1704)吉保は十五万一千二百石となり甲府に移封し、代わって秋元喬知(たかとも)(〜正徳四)が甲斐谷村より五万石で入封した。喬知は甲斐より諸職人を招き川越領で養蚕の奨励、絹織物・川越斜子(ななこ)・袴地川越平(ひら)の生産を指導するほか、柿や養魚などの農間余業もすすめた。喬知は正徳元年(1711)加増をえて七万石となったが同四年死去し、つづいて喬房(たかふさ)(〜元文三)、養子喬求(たかもと)(〜寛保二)と継嗣した。喬求は二十九歳の若年で死去したため、秋元貞朝の三男であった凉朝(すけとも)(〜明和四)が養子となり寛保二年(1742)遺領を継いだ。この年の八月、関東一帯を襲った大豪雨により荒川・利根川・中川・綾瀬川などが氾濫し惨状をきわめた。幕府は西国の諸大名に御手伝普請を命じた。川越藩でも荒川・入間川の決潰が九十余ヵ所、二十八ヵ村が浸水の被害をうけた。
凉朝は領内の復興のために地主や商人に救恤施米を督励した。凉朝は明和元年(1764)二月老中を退いた。この年の師走、いわゆる明和伝馬騒動が起こり、川越藩領も打毀しに巻き込まれたのである。この打毀しは朝鮮使節来朝にかかわる国役金と、明和二年四月に予定されてた日光法会の増助郷を村々に命じ、またこれを有力商人の請負制で実施しようとしたため中山道周辺を中核として大伝馬騒動となったもので、川越領でも請負に加わった多数の豪農が打毀された。凉朝は明和四年川越より山形城に転封を命ぜられたが致仕して江戸屋敷を動かず山形城へは子の永朝(つねとも)を赴かせた。
秋元凉朝が出羽山形城に転封されると、同年代わって五家門の一家松平大和守朝矩(とものり)(〜明和五)が十五万石で前橋城より移転した。前橋から川越への移城は、前橋城の水難が原因であった。朝矩は前橋分領七万五千石に留守居役をおいて支配したが、松平大和守家の藩政は旧領姫路時代よりの財政難を引き継ぎ絶えず窮迫していた。朝矩は入封の翌年三十一歳で死去し、ついで直恒(なおつね)(〜文化七)、直温(なおのぶ)(〜文化十三)と継嗣したが、直温が二十二歳で死去したため弟の矩典(のりつね)が家督を継ぎ斉典(なりつね)(〜嘉永二)と改名した。斉典は遺領を継ぐと財政再建に努力し、藩の御用達横田家を五百石取の士分・勘定奉行格に任じて藩財政全般を担当させたほか、永続頼母子講を藩の主導でつくったり農村復興に力をそそいだ。前橋分領でも永続金制度で勧農策をとったり、社倉(郷蔵)制度や蚕積金制度など次々と改革策をとった。しかし幕府は文政三年川越藩に武蔵一万五千石を相模一万五千石と替地し、相州警固役を命じ、藩は相模浦の郷などに陣屋を設け、常備組・派遣組を編成しそれに当たるなど出費は増加する一方であった。斉典は文政十年(1827)将軍家斉の第二十四男大蔵大輔斉省(なりさだ)を養嗣子とし、姫路への転封を願ったが果たさず、ついで出羽庄内藩への移封を再願し許されたが、庄内農民の反対で阻止され、一方、斉省も死去したため武蔵で二万石を加増されて転封運動は中止された。
斉典は天資英明で行動力に富み、大和守家の川越藩政の一頂点に立った人物であった。藩校博喩堂の創設や、川越版『日本外史』の刊行などの文化政策も積極的にすすめた。その後典則(つねのり)(〜嘉永七)、直信(なおよし)(〜文久元)と継嗣され、ついで直克(なおかつ)(〜慶応二)のとき慶応二年六月七日城下町より大工職人による蜂起があり、さらに六月十三日、外秩父郡よりおこった世直し一揆は藩領諸村を打毀したため、藩兵は銃隊でこれを鎮圧した。同年八月藩は農兵設置策をだしたが農兵反対の一揆さえ生じる状態であった。直克は慶応三年(1867)分領の前橋にもどり、川越城は陸奥棚倉藩主松平(松井)康英(やすひで)(〜明治二)が八万四千石で入封した。康英はこれより前、外国奉行兼神奈川奉行や、遣欧使節竹内保徳(やすのり)に従い英仏蘭露を視察するなど才気に富んでいたが明治二年致仕し、ついで康載(やすとし)(〜明治四)のとき廃藩置県をむかえた。
川越藩の立藩
幕閣の藩政
後期の藩政と海防
岸伝平 『川越藩政と文教』 『川越夜話』
岡村一郎 『川越の城下町』 『川越夜船』 『川越歴史随筆』
斎藤貞夫 『新河岸川舟運の盛衰』
田村栄太郎 『封建制下の農民一揆』『近代日本農民運動史論』
北島正元 『江戸幕府の権力構造』
藤野保 『幕藩体制史の研究』
木村礎・伊藤好一 『新田村落』
辻善之助 『武家時代と禅僧』
峯岸久治 『榎本弥左衛門覚書』
新井博 『川越市今福の沿革史』
高橋令治 「川越藩の江戸湾防備」(『法政史学』)
永浜光義 「川越藩における三富の新田開発」(『同上』)
山田忠雄 「宝暦―明和期の百姓一揆」(『日本経済史大系』)
森田雄一 「百姓一揆の諸問題」(『埼玉研究』)
大野瑞男 「近世前期譜代藩領農村の特質」(『日本社会経済史研究』)
同 「近世前期川越藩政の基調」(『地方史研究』)
同 「榎本弥左衛門覚書について」(『史料館研究紀要』)
福島正義 「幕藩制崩壊期と川越藩の農兵反対一揆」(『地方史研究』)
『埼玉県史』(四・五・六巻) 『三富開拓誌』『藩政回顧録』 「稿本川越史料」(川越市立図書館) 『川越素麺』 『多濃武の雁』 「酒井家史料」 「楽只堂年録」 『深谷総社以来旧記』 『古語菽麦』 「川越藩日記」(前橋市立図書館) 『続々群書類従』(地理部九) 『改定史籍集覧』(二六) 『寛政重修諸家譜』 『武州世直し一揆史料T・U』(近世村落史研究会) 『川越市史 史料編近世T・U・V』 『松陰の日記』(存採叢書) 『前橋市史第二巻』
右の事件で、秋元但馬守は責任者として、差扣(さしひかえ)を言い渡された。だが、秋元家の先祖には美談があった。それも書き添えず、失点ばかり記したのでは、片手落ちと思ったのであろうか、日記はちょっと肩持ちをしている。
秋元家は、凉朝(すけとも)の時、六万石を領し、武蔵川越城主で、老中を勤めた。明和四年九月、出羽国山形城に国替を命じられたが、その際、川越の百姓らがこの転出を惜しんで、秋元家の領民たらんと運動し、ついに旧領である武蔵国比企・高麗・埼玉等の各郡を秋元家の領地に残すことに成功したという一条と、明和九年の目黒行人坂出火の大火災の際に、逃げまどう避難の大群衆を、時機を得た果断を以て救ったことである。右秋元家ハ、明和九年目黒行人坂出火の節、内桜田御門番勤役ニて、御門外ニ大勢の焼出され相詰まり居り候処、火ハ一面ニ廻り、跡より焼け来ルニ、先へ行く事ならず、難義致し居候所ニ、但馬守壱人、命ヲ捨て百人番御門ヲ固メサセ、是迄例も之無き所に、大勢の老若男女ヲ内桜田より大手御門へ通り抜けさせ助けしと也、其後御咎メも無く、大勢の人命を救ひし事、右御称美有りしと也。
明和四年但馬守様川越より山形へ国替の節も、川越の百性共同道ニて入替の義相願ひ候。故ニ川越領中山村就二万石、秋元領ニ残り、中山ニ陣屋在り。川越領の内此の二万石宜しき処ニ、此の度の過条ニて、中山道三宅宿の川越領さつまいも畑と中山村の上田と二万石入替ニ相成。(巻八)
〔上 野〕 | |
前橋藩 | 前橋市立図書館(「藩政日記」)・川越市立図書館(「松平大和守家文庫」) |
〔武 蔵〕 | |
川越藩 | 前橋市立図書館(「藩政日記」)・東京大学法学部法制史資料室(「松平大和守家文書」)・川越市立図書館(「松平大和守家文庫」「松平周防守家文庫) |
〔甲 斐〕 | |
谷村藩(郡内藩) | →武蔵川越 |
江戸時代後期になると、全国的に藩校開設のラッシュを迎えるが、埼玉県域の諸藩でも同様である。藩校開設以前の藩士の教育は、藩儒(はんじゅ)が私宅にあって藩士の求めに応じて行っている場合が多いが、藩校の開設により時代を反映した藩士の一貫教育が行われることになる。
川越藩に藩校が設置されたのは文政十年(1827)で、松平大和守斉典(なりつね)が藩主のときであった。藩校は「講学所」と称し、保岡嶺南(やすおかれいなん)・石井択所(いしいたくしょ)・朝岡操(あさおかみさお)の三人が教授として任命され、講学所仕法が公示されている。当初は四十歳以下十五歳以上の藩士を対象にしたが、文政十二年には八歳以上の藩士の子弟も対象になり、基礎的な「素読」も行うようになった。この講学所は、後に博喩堂(はくゆどう)と称している。
松平大和守家は、慶応三年(1867)に移封になり、その跡に棚倉から松平周防守康英が入封するが、松平周防家は石見(いわみ)国浜田在城時代に藩校長善館を開校しており、川越においてこれを引き継いでいる。
(後略)
土蔵づくりの町並みが城下町らしい雰囲気を醸し出す川越(八万石)は、幕閣の大名にとってたいへん名誉ある封地で、老中だけでも酒井忠利、堀田正盛、松平信綱、秋元喬知(たかとも)、秋元涼朝(すみとも)、松平康英の六人を出している。一時、前橋藩が移ってきたりしたが、1866年に棚倉から松平(松井)康英(やすひで)(37)が入り維新を迎えた。
康英は松井家分家の旗本の子で、外交の専門家として外国奉行、神奈川奉行などを務め、樺太国境画定、開市延期談判などのために欧州各国をまわりよく仕事をこなした。宗家を嗣いで大名になり、老中に昇進した。
康英は老中を辞して恭順し上京したが、謹慎中に戊辰戦争が始まり、官軍側に立って協力しようとしたが拒否された。だが、四代前の藩主康任の息子の正室が島津家から輿入れしていることを理由に情状酌量を願い、何とか受け入れられ、資金や物資を供出し、以後は官軍に加わり東北でも戦ったので、一時は削られていた領地も戻された。1869年に康載(やすとし)が嗣いで、最後の藩主となった。なお、康任は老中首座であったにもかかわらず、密貿易をして石見浜田から磐城棚倉に左遷されていた殿さまである。
本丸御殿が再移築されて城跡にあり、貴重な遺構である。土蔵造りの建物が多い城下町は、関東で有数の歴史的景観である。
川越藩(現・埼玉県川越市)は、戊辰戦争では戦火に遭わずにすんだ。藩主・松平康英が老中職を務めていたため、近江国(現・滋賀県)の飛地領二万石を没収されたが、新政府軍に兵員や武器や糧食を提供し、なんとか藩の命運をつないだのだ。
彰義隊から分かれた渋沢成一郎らが飯能(現・埼玉県飯能市)の能仁寺にたてこもると、川越藩は討伐軍への参加を命じられたが、この飯能戦争が、幕末維新期に埼玉県下で起こった唯一の戦いである。
戦火を免れた川越藩だが、この藩では、戦争より被害が大きかったのが火事だった。川越は江戸によく似ているところから「小江戸」と呼ばれた風情のある城下町だが、妙なところも江戸に似ていた。江戸で火事が多かったのはよく知られているが、川越もまた、火事の多い町だったのである。
1846(弘化3)年には川越城で大火が起こり、多くの建物が焼失した。現存する本丸御殿はこの大火後の再建だが、すでに四十万両以上の借金を抱えていた川越藩には自力での再建が難しく、領内の人々から献金を募ってなんとか二年半で再建した。
幕末の藩主・松平康英は、1866(慶応2)年に棚倉藩(現・福島県棚倉町)から転封されてきたのだが、戊辰戦争をなんとか乗り切ったと安心したとたん、大火に見舞われた。
1869(明治2)年、川越城下の小久保村から出た火は城下に燃え広がり、藩の家中の屋敷482軒、社寺8軒を含む町屋420軒、そのほか多数の土蔵や物置などが焼けてしまったのである。
不幸中の幸いで城は無事だったが、町を再建するには莫大な費用がかかる。藩士たちの屋敷と町屋と合わせて約900軒にものぼる住宅が焼けたのは、城下町として大きな痛手である。しかも川越藩は、棚倉からの転封に多額の費用を要したのが、尾を引いて、財政難にあったので、よけい苦しかったに違いない。
◎浦和のイメージ