伊佐沼に魅せられて、もう久しく水辺にかよっている。
ある時は、水の干上がった中州でせわしなくカイツブリが鳴く秋であり、カモが群れる晩秋であり、凍てつく赤城おろしのわたるころ。
そして再び、ヨシキリのさえずりがにぎわい水はぬるむ。
水面の風が水をはらむと、このおもては夏をむかえる――。
季節のくりかえしのなかに、なお心を預けてたのしみな沼である。
川越の市街を東に抜けて約二`、大宮に到る国道16号線沿いの水田地帯にこの沼はある。関東地方では、千葉県の印旛沼につぐ自然の沼で、その面積は二百七十四万平方b、約二百五十f余。昭和初年までは現在の倍の面積があったというが、第二次大戦で北半分は食糧増産のため干拓されたとか。
いまもこの沼は同市古谷、南古谷、上福岡市、富士見市などの水田の用水池として大切なものである。
その昔、川越の町が形づくられたころ、伊佐沼から町の北側にかけての一帯を、三芳野の里と呼び、沼沢地に飛来するカリの姿が一幅の絵を思わせたともいわれる。これはくだって戦国の世、川越に城が築かれたが、この城がカリにちなんで「初雁城」の別名で呼ばれたことでも知られている。
見わたすかぎりの水田地帯に広がる、この沼は、とてつもなく広い水面と、大空がとけ合ってただ漠としているがなぜか季節のひらめきをみせて捨てがたい風情をかもし出してくれる。
明治から大正期にかけての伊佐沼は、一面にマコモが繁茂して、自然のハスが繁殖、ヒシの実やシジミが獲れ、雑魚の豊かなものだった。これも昭和のはじめに廃止された川越大宮間の軽便鉄道が、沼べりを通っていたが、土地の古老は、のどかな電車の姿と、一面に花を咲かせたハスの美しさはいまだに忘れられないといっている。
食糧増産のかけ声で、半分が干拓された沼は、いらい荒れたまま人の心から遠ざかっていたが、近年は再びつりの名所として登場、遠来の太公望を集めて終日賑いをみせている。地元の漁業組合は、コイ、フナの増殖につとめ、川越市でも周囲にヤナギの並木をつくるなど公園への変ぼうが急である。
ところで、同市では四十三年、自然に流れ込んだ土砂で浅くなった沼の南半分をしゅんせつ、四十万dの貯水を確保する一方、西側の水田を埋め立てて七万平方b余の市有地を造成した。このほどここに老人福祉センターがオープンし、お年寄りのいこいの場を提供。さらに県内で二番目の卸売り団地もお目見えした。
同市青年会議所は、ここに「市民の森」をつくろうと、樹木の寄付を呼びかけている。
結局、市は水上緑地公園にする計画で、幹線道路の建設にも手をつけている。
沼にのぞんだ施設の整備はさらにすすみそうだが、しかし、沼はなお自然をうたうかのように満々と水をたたえている。
往時、人の目をたのしませたというハスはその姿を消したが、最近ここにヨット≠ェ登場した。水利組合、漁業組合の了解を得て県が正式にヨットの練習場としたものだ。
さんさんとふりそそぐ真夏の陽ざしをあびて、純白の、ブルーの色とりどりのセールを浮かべて帆走するヨットが、盛夏を絵にしてくれる。
西の空に積乱雲が浮かび、水面がざわめいてセーリングは雄々しく季節をおう歌している。夏草のむれるにおいの中で、じっと糸を垂れる人。
そのハナ先で、水中にもぐっては銀色のウロコをせるがえす雑魚をくわえて姿を現わすカイツブリ。
渡りのバンも泳ぎに出てくる。
限りない自然のドラマが息づいていた。
梅雨が長引いたり、異常気象といわれ天候が不安定な年は、出漁する場所も近くということになる。
とくに、平均して水位が低いなどという悪いコンディションの時は釣果も悪くなってしまう。
川越市の国道16号線の北側にある伊佐沼は、乗っ込み釣りでヘラ党を喜ばせ、10キロ余の釣果が上がることがある。
近場ということで、休日には釣り人が多く、五目釣りが楽しめる。
ヘラ・マブナ・コイが主力で、北側の菅間代用水取り入れ口方面はヤマベが釣れる。八月の声をきけば夜釣りも盛んになるので、ウナギ・ナマズも釣れる。
中型のヘラが小ブナ混じり。日なみによってポイントが変わるのだが、東側の道路を下りてポンプ小屋のある付近など、水中のオダか中洲のようになった島のある所などの際がよく、タチが70pはある所がよい。夏ベラ特有のカッツケ釣りも楽しめる。
快晴の照りつけのきびしい日は朝夕がよく、曇りと小雨のときは終日釣れる。
意外に日差しが強いので大柳の木影で釣るのもよい。傘などを忘れないように。
沼の水が落水する晩秋までヘラが狙える。
年によってムラが多いが、テナガエビが最近増え始め、梅雨から狙っている人も多い。エサが多いためか、ここのテナガエビは大型で、てんぷらやカラ揚げにすると美味だ。
■仕掛け/サオは5.4mは必要。北側の水路の出入口などでヤマベを狙う人は、流れのある場所かホソがよく、サシよりもオカユネリで小型のハリを使う。
▲交通/伊佐沼公園・埼玉中央卸売商団地が目標。
▲遊漁料/400円 (要確認)
●問い合わせ先/埼玉県南部漁協(048-642-5706)
全面積三十余町歩(大正時代)に及ぶ沼は、この地の東に在る。この地の呼称については、若干の研究と苦心を要した。最初この地名はあるいは「アイヌ」語にあらざるかと思い、北海道各所に照会したがことごとく失敗に帰した。しかるに図らずも「アイヌ」語に「イナウ」なる語を発見した。この語は「家の一番奥の一室を神聖なるものとして、そこに神の出入する窓を設け多くの神々を祭る場所がある。一番大きな弊所は主として漁猟の神々に捧げた弊(イナウ)を立てたものである。」と記されてあった。すなわち後年にこの「イナウ」が転訛されて「イサ」となったものかと考えた。しかしこれは、はなはだ覚束なき考察であって、確実性に乏しい。よって更に検討を続けるうち思いついたのは「漁火」である。海岸の漁夫たちが漁業する場合魚族を誘引する策として各舟艇に「かがり火」を焚く、これを「漁火(いさりび)」という。元来この沼の漁業が盛んであったことは風土記にも記されてある。そこで当時誰いうとなくこの沼を指して「漁沼(いさりぬま)」と称するようになった。すなわち漁業する沼であった。しかるに逐年この付近の人家は増加せられ幾何(いくばく)かの戸数となり、漁沼(いさりぬま)の呼称はついに部落に奪われてしまい、後年漁り沼の「り」を省略し更に万葉仮名を用いて「伊佐」となし、本来の沼は部落の付属扱いを受くるに至り、現今にては伊佐沼の沼と呼ぶようになった。これが「伊佐沼」の起因と推移である。この地名の考察は決して牽強でないと信ずる。彼の赤間川が往古入間川の遺流なりとする説より見れば、その最も幅員の広い深渕(えん)であった個所が取り残されて、自然沼沢地と化したものであろう、とにかく当時の伊佐沼の付近住民の宝庫であって、漁労を主とし農耕を兼ねた生活をなした部落が逐次発展したものと思う。
すでに地名考察欄で述べたように、この「伊佐」は「漁火」の「漁(いさり)」より来りたること疑をいれず武蔵風土記は、この地の状態を採録して『「伊佐沼」村の東方なり当村及び古谷上村鴨田の三村入会の沼なれば、いずれの村と定めて属せしところなし。沼の長さ十七町幅三町余、内にはもと大なる岩一つありしが、いつのころよりか沼の中に埋ずめられて、今はその形をも見えず。この辺沼深く水浅ければ、鯉鮒の類多く生じたれば、当村及び古谷本郷などの村民集って漁をなし、且つ蓮根を採って生産の助となせり。』と記されてある。これによれば百余年前の伊佐沼は、その面積すこぶる広大なものであって上流は北田島の東方までに及び、下流ははるか南方まで湛(たん)水地となっていたものと思う。しかるに明治十年(1877)後南方に大宮県道成り、同十八年(1885)には、北方に上尾県道完成したため、ここにその区域は、遮断され上下両端は干拓されて田地と化し、わずかにその半部を残すのみとなったが、更に最近北部の半面は干拓され良田と化し、かつては紅白の蓮華咲き、菱藻は随所に茂り浮びその中に鷭(ばん)は巣を営みて、自らなる別天地であった。沼は、かくして黄金色波うつ所となった。
現今の赤間川は、往古入間川の遺流なりと説くを見れば、伊佐沼もまた入間川の遺跡なるべしと考えられる。
また伊佐沼は、河越城付の領地であって、上杉氏より北条氏へ、北条氏より徳川家に移り、臣酒井河内守重忠天正十八年(1590)河越城に封ぜられてその領地となり、その後累代の城主のうつりかわりとともに領地に帰し寛永十六年(1639)には松平伊豆守信綱、宝永九年(1712)には秋元但馬守喬朝、明和四年(1767)には松平大和守朝矩、慶応三年(1867)には松平周防守康英など徳川の城主のみにても実に二十一人も代わり明治元年(1868)に至ったものである。
はじめに
上江(上郷)橋の辺
一、現在の荒川・入間川
二、入間川の最初の流路
三、江戸時代の荒川・入間川
まとめ
川越の新河岸は江戸初期から昭和の始め頃まで、江戸と川越を結ぶ重要な舟運の水路、新河岸川の河岸場として、当時大いに繁盛したところである。
地図で見ると、この新河岸川は荒川の西岸に沿って、五、六町ないし一里の間隔をへだてながら、おおむね平行して流れているようだ。水源地は川越城跡東端の段丘下にある伊佐沼から発し、武蔵野を横切って現在の新倉河岸が荒川と合流する。その間、新河岸川の水勢は、いきおいにまかせて気ままに流れたとみえて、合流地点の川の口まで三六里うねりにうねって九十九ヵ所も自由蛇行、地元の衆はこのわがまま者の新河岸川を九十(ぐじゅう)川と呼んでいる。
むかしは十間余りの狭い川だったというがいまはすっかり改修工事が行なわれ、川幅も従来のものよりも広くなり堤防も近代工法によるガッチリしたものが築かれ、かつての自由蛇行が矯正されて直線を引いたようなあじけない近代河川に変貌。むかしの面影はない。
だが、この川ほど、川越の歴史を重く受けとめ、町人生活の歴史を深く刻んできたことか……。
新河岸川の舟運が試みられたのは、いまから約四百三十余年前の寛永十五年であった。当時、川越の仙波にあった東照宮が大火にあって焼けたとき、その再建資材を江戸からこの水路を利用して運んだのが、その始まりだという。だが、当時はこの水路もまだ不完全なもので、本格的に開削したのが五代川越藩主松平伊豆守信綱であった。信綱は江戸と川越の経済流通機構を確立するためには、陸路の川越街道だけでは限界があると見て、この水路を開く事になるが、元来徳川幕府が武蔵中部の軍事的要所として設けた藩だけに、新河岸川開削はそうした意味も十分にふくまれていたと見てよい。そして、はやくも正保四年(1647)に、河岸場を開設している。
信綱の開設した新河岸は上新河岸、下新河岸と寺町(寺尾の誤り?)、手子(牛子の誤り?)、扇河岸の五河岸で、いずれも川越城下町の外港として領内の商品流通を一手にひき受け、大いに賑わった。最も当初はこの水路の利用目的が藩内の蔵米を江戸に運ぶことにあった。ところがやがて商品経済が発達するにつれて、一般物資の輸送にもあててこの地方の物資交流の大動脈となったのである。
江戸時代から昭和初年まで続いた下新河岸の問屋「伊勢安」の十六代目斎藤安右衛門さんの話では、それぞれの河岸場には荷物を主として扱う問屋と、乗客のみを扱う舟宿に別れていたそうだ。また江戸時代にはこの五河岸だけで、も三〇軒の問屋があったという。このうち名の通った問屋をあげると、上新河岸では炭屋、麻屋、望月、綿権、河内屋。下新河岸では伊勢安、綿儀、綿喜などがそれで、賑やかに軒を並べていた。これらの問屋は主に川越、飯能、青梅、松山、越生方面の物資をあつかっていたという。またあつかう物資はそれぞれ専門にわかれており、たとえば麻金の場合は、荒物雑貨類が専門で伊勢安、綿儀は材木、肥料、炭屋は酒と醤油などといったあんばいに――。
これらの問屋はいずれも五、六艘の舟は持っていた。舟荷の積載量は四、五千貫というから、米ならばゆうに二百五十俵は軽く積んだ事になる。かなり大きな高瀬舟だったと見てよい。また、それだけに当時の新河岸川の水量の豊さがしのばれる。
ところでこの舟運にも、現代の列車同様に普通(並舟)、急行(早舟)、特急(急舟)、超特急(飛切り)の四段階があった。並舟だと一航海二十日前後かかり、早舟だと四、五日。急舟は三、四日で往復。飛切りになるとさすがに超特急だけあって、その日に下り、翌日上ってくるという超スピードぶりを発揮した。早舟以上のクラスだと、当時の陸運のおよぶところではなかった。
こうして川越と江戸は物資の流通のみならず、文化人の往来も激しくなり、江戸文化の影響を直接受ける事になる。小江戸といわれる所以もそこにあった。だが反面、庶民の悲しい物語りをも、この舟運が多く江戸に運んだ。川越舟唄に
・ハァー 舟に乗るなら エー 身を大切に
舟は浮きもの 流れもの
・ハァー 泣いてくれるな エー 出舟のとき
泣かれゃ 出舟がおそくなる
・ハァー 舟は出ていく エー 一六舟が
今度くる日は いつだやら
なかには、この唄を聞きながら、吉原に売られていく娘や若い女房が多くいたという。いずれにしてもこの河岸場には、さまざまな思いをこめた多くの人々の喜怒哀楽の生活史が刻まれているようだ。
(前略)
橋をかけなくても、ワタリゼをもってよしとする伝統は、中世・近世の日本社会にもつづく。
室町時代の大名狂言に「入間川」というのがある。関東のさる大名が太郎冠者をつれて京から下る途中、いまの埼玉県の川越市近くの川を越えようとして難渋する話である。大名は、川向かいにいる土地の人間である「入間(いるま)のなにがし」にワタリゼを問う。大名が入間の人間のいいうことをもきかずに、上へ廻らなかったのは、じつはそのころ巷間に流布された「入間様の逆言葉(さかことば)」つまり入間地方では、人々はほんとうのことを教えてくれない、ということのせいだ。大名はそのことを計算に入れて、逆をいったところ、深みにはまってしまった。この話は、ワタリゼを知っているのは、地元の人間であること、そしてその地元の人間は旅人に、まま、ほんとうのことを教えないこと、をどうじに物語っている。
大名 この川はいずれを渡りまするぞ。 入間 いにしえはこの通りを渡ってござるが、今は瀬が違うて、皆 上へ廻りまするによって、かたがたにも上へ廻られらせい。 大名 ヤアヤア 何と仰せらるる。「いにしえはこの通りを渡ったけれども、今は瀬が違うて、みな 上へ廻るによって、某(それがし)にも上へ廻れ」と仰せらるるか。 入間 さようでござる。 大名 真実 入間川でござるの。 入間 なかなか 入間川でござる。 大名 ヤイ 太郎冠者、渡り瀬が知れた。みども引っ添うて渡れ。(舞台に入り脇座の方へ歩く) 太郎冠者 心得ました。 入間 申し申し、上へ廻らせられいと申すに。そのあたりは深うござる。 太郎冠者 (常座で)申し申し、上へ廻れと申しまする。 大名 (歩きながら)イヤ申し申し、向かいな宿は入間の宿。かたがたの御名字は。(舞台中央のあたりでころぶ) これはいかなこと。アア 流るるは 流るるは。これはいかなこと、さてさて苦々しいことじゃ。 入間 それじゃによって、上へ廻らせられいと申すに。
(後略)
小さな川は相手にしないという、釣り人にしてはおかしい傾向がある。楽しみの中に小河川を忘れているようだが、日本の釣りの味わいは、小場所の繊細さこそ醍醐味とは言えまいか。
川越市街の東、国道16号線沿いにある伊佐沼は四季を通して釣り人を楽しませてくれる。
伊佐沼の管理事務所の橋から流れ出て菅間方面の水を合わせて南下し、旧南古谷(みなみふるや)方面の用排水に使われていたのが九十川である。
川幅も広く、伊佐沼公園沿いからの流れで、伊佐沼の魚も落ちてくるし、菅間方面からの小魚も流入する。
一時は汚染した排水になりそうだったが、最近は水質も安定気味で小物釣りが楽しめる。
釣り人は勝手なもので寒さが厳しくなり、釣りものが少なくなると、手近な所でちょっとサオを出してみたくなるものだ。九十川はそんな便利な釣り場といえる。
早春のヤマベに始まり、巣ばなれのマブナ、モツゴ、そして伊佐沼下りのヘラ、コイ。8月末からはデキの小ブナ釣りが賑わう。晩秋にかけての楽しみは、落ちブナ釣り。
伊佐沼から国道16号線までの橋ごとにポイントが見つかる。
二枚橋で国道16号線下を越すと九十川は改修されて直線となる。次の橋から南にかけて墓場の上下、さらに下流の橋近くの、減水のうちにも水面の霞むやや深い場所を丹念に拾い釣りしよう。
川越・志木線(浦和)の橋の上下はポイントにならないが、さらに下流の水門になった段差ゼキの下など、少しでも水量のある所が釣り場となる。
九十川はこのような繰り返しの後、地元が一生懸命水質の向上に努力している新河岸(しんがし)川へと流入する。
■仕掛け/二枚橋方面の釣り場では3.6m〜4.5mサオで赤虫、ネリエサの釣りが向く。雨後は急に流速を増すが、平素はシモリ釣り、ズキ釣りなどで辺地を狙おう。細やかな釣技が望まれる。
▲交通/大宮・川越バス(国道16号線経由)二枚橋下車。または浦和・治水橋・川越県道の泉自動車を目標に行く。
▲遊漁料/400円 (要確認)
●問い合わせ先/埼玉県南部漁協(048-642-5706)
秋の入間川の川越地域はコイ、マブナ、ヘラ、ヤマベの功季で、中型のハヤも混じる。護岸もできている所が多く、行楽シーズンの家族連れに最適の場所と言える。
入間川中流は、八瀬(やせ)大橋、水管橋付近から関越自動車道路にかけて、水量次第でヤマベの釣り場となる。この方面のヤマベ釣りは瀬釣りに近い流し釣り。
高速道路から下流はコイ、マブナ、ヘラが主力となる。
和光純薬工場下の護岸はコイ、フナの狙い場所である。
的場(まとば)排水路の向かいはマブナが狙える。流れのあるときは、この護岸からの流し釣りで、ヤマベ、中バヤなどが釣れる。
初雁(はつかり)橋から川越線、東上線の鉄橋までは、コイ、フナのポイント。ネリを大きめに使って打ち返しも早く…という釣り方がよい。ここは、晩秋になっても連れ続く無難なポイントである。
さらに、その下流の川越橋からの西岸は上戸(うわど)運動公園の釣り場。
この護岸は湾曲するので、ポイント選びが重要だが、コイ、フナともに魚影の濃いところ。5.4mのサオいっぱいに振り込む沖めをねらう。
上戸ゼキ下は、ヤマベの釣り場と変わるが、雁見橋、寺山ゼキと入間川の秋釣りは、下流もバラエティーにとんでいる。
■仕掛け/ヤマベ釣りのサオは4.5m〜5.4mで、浮力の弱いウキがよい。エサはチョロ虫。川虫の採取がむずかしいときは、上流へ行って川虫とりをしてから釣り始めるとよいだろう。
コイ、フナは、5.4m〜6.3mが有利。エサはネリをあまり大きくなくつけること。
▲交通/東武東上線霞ヶ関駅、JR川越線西川越駅下車。マイカーは川越から日高に向かう初雁橋を目標とする。
▲遊漁料/400円 (要確認)
●問い合わせ先/武蔵漁協(0493-23-8212)、入間漁協(0429-73-2389)
荒川が入間川と合流する上江橋付近は、ヘラブナ釣りのメッカで、荒川本流で育った野ベラ釣りのポイントだ。本流の強い引きと尺クラスの大型べラは、釣り人を魅了する。
入間川付近でも、荒川本流の上江橋上下流でも、春先の巣離れから乗っ込みにかけて、大釣りができる。
乗っ込みシーズンの入間川は釣り人が多く、日曜・祭日は入る場所がないほど賑わうので、平日に狙いたいポイントだ。
夏べラは、産卵から回復した7月ごろから釣れはじめる。盛夏は夜釣りも楽しめるが、野ゴイの強い引きでハリスを切られることも多い。3.6m〜4.2mのサオで狙えるポイントもあり、尺クラスのヘラが狙える。
秋べラは、越冬を前に荒食いをするので釣りやすいが、水温の低下とともに、深場へと落ち、長ザオの使用となる。晩秋ころまでは、型を見ることができるが、寒べラは、あまり釣れていない。
下流の治水橋にかけては、河川敷のゴルフ場が占有しているが、ヘラブナのポイントが続いている。
特に、乗っ込み、夏べラの好ポイントで釣りやすい。夏は夜釣りもでき、尺べラも出ている。
治水橋から下流の羽根倉橋間は、びん沼の吐き出し、南畑新田の曲がりなどポイントが多い。野べラ嗜好の釣り人には、絶好の釣り場でポイントが広いが、足場は悪いので注意。釣り台は必要。
■仕掛け/サオは、4.5m〜6.3m。乗っ込みの時は3.6m以下の短ザオでも釣れる。
▲交通/国道16号線を大宮方面から川越へ向かい、上江橋を渡り、土手を左折すると川へ下る道がある。JR川越線を越えて下流への釣り場は、ゴルフ場の土手下の砂利道を進入する。治水橋は、元の自動車免許試験場の際で、川越方面に向かうと治水橋を渡る。
▲遊漁料/400円 (要確認)
●問い合わせ先/埼玉県南部漁協(048-642-5706)
エ サ 釣 り | 5,000円、半日3,000円。 |
ルアー&フライ | 5,000円、5H3,000円、4H2,700円、3H2,300円。 |
貸 し 竿 | 200円。エサ(イクラ400円、ぶどう虫600円) |
尾 数 制 限 | 釣り放題。 |
放 流 時 間 | エサ8:30、10:00、13:00、15:00。ルアー8:30、13:00。 |
喜多院の東南にあって、弁天様が祀られていた祠がある高台の斜面下に、今でも市内としては豊富な水量の湧水池があります。
池から流れ出た湧水は、コンクリートの三面護岸の水路となって、すぐ近くの新河岸川に流れ込んでいます。
この湧水は、川越台地から荒川低地に至る急激に標高が変化する地形変形点に湧く、崖線型の湧水です。
喜多院伝説によれば、この池は仙芳仙人が竜神に与えた小池であると言われています。また、喜多院の井戸や、東隣の日枝神社に現存する底なしの穴に物を落とすと、翌日には龍池弁財天の池に浮かび上がるという伝説や民話が残る神社でもあります。
現存の湧水池の姿は、平成14年の初頭に地元の要請を受けて、川越市が石とコンクリートで固めた護岸工事を実施した後のものです。改修前は自然護岸で、水際にはセリなどの植物が生え、小さな滝となっている流れには昭和30年代まで、熊谷の久下だけに生き残っている絶滅危惧魚類の「ムサシトミヨ」が生息していたのです。
また、ほとんど知られていないことですが、この弁財天池には絶滅危惧水性植物の「カワモズク」が生息しています。しかし、池には大量のヒゴイやコイが泳ぎまわり、食害による絶滅が懸念されます。過去には、仙波河岸史跡公園で生息していたカワモズクを公園の造成工事の際に失っています。もし、ここでも失うことになれば川越市ではカワモズクが絶滅種になってしまうでしょう。
池を見下ろす高台に目を移すと、1本だけ残ったケヤキの大木の下にちょこんという感じで弁財天の祠が置かれ、その手前の鳥居は破損して半分ほど埋め立てられたままになっています。昭和40年代のものとされる風景写真を見ると、この辺りは樹木も多く鎮守の森の風情がありました。尚、弁財天のご本尊は、中院に保管されているそうです。