川越の鉄道


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「地図の遊び方」 今尾恵介 新潮OH!文庫 2000年 ★★
 地図は実用一点張りと思われがち。けれども、じっくり眺めるだけでも遊べるし、意外な発見もある。その土地の文化や政治、歴史も見えてくる。そんな奥深い地図の楽しみ方を紹介。

 V 地名が変わっていく
  西武鉄道路線図のここが怪しい!

 西武鉄道の路線図を見て、「どうもあのゴチャついた所が気になる」という人は少なくないと思う。西武の路線は池袋から池袋線、西武新宿から新宿線がそれぞれ郊外に向かって延びている典型的な近郊私鉄のパターンなのだが、新宿線の小平、池袋線の所沢あたりで急に路線が錯綜してくる。特に人口稠密地帯というわけでもないのにいったいなぜ、という疑問がわいてくるのは無理もない。よく見るとこれらの錯綜した路線たちがどうも多摩湖や狭山湖を目指しているし……。
 実はこれらの路線、以前は三つの異なる私鉄線だった。古い路線から順に経歴を振り返ってみよう。
 国分寺から東村山を結ぶ現在の国分寺線は現新宿線の所沢・本川越も含めて川越鉄道として1895(明治28)年に国分寺・川越(現・本川越)間を開通させたのが始まりで、西武では最も古い路線である。川越市は県庁所在地の浦和をさしおいて埼玉県で最初に市になった由緒ある街であり、江戸期には新河岸川から荒川を利用した水運で栄えていた。
 ついでに言えば、現在川越に集まる三つの路線のうち最も古いのがこの西武新宿線(本川越駅)で、次が東上鉄道として1915年に開通した東武東上線、JR川越線は意外に新しくて1940年となっている。この他に大宮から川越久保町を結ぶ路面電車の西武大宮線(前身は1906年開通の川越電気鉄道)が、JR川越線の前任者的に存在した。

「埼玉事始 ―さいたまいちばんものがたり― 東京新聞浦和支局編 さきたま出版会 1987年 ★★
明治/私 鉄          ●明治二十七年
 ●川越鉄道が開通。合併くり返し現在の西武に。
 県内初の私鉄として「川越鉄道」(現西武鉄道=国分寺―川越間二十九・五`)の敷設が正式に政府に出願されたのは、今から約九十五年前の明治二十三年十二月。発起人は高麗郡柏原村(現狭山市)の増田忠順ら三十九人だった。
 物産輸送で出願
 当時の「布設仮免状願」によれば、武蔵国入間、高麗、比企の三郡などの蚕糸、織物、製茶、石灰などの物産輸送が道が悪く困難であり、「地方一般ノ希望」と「将来物産ノ振興」のため敷設を願いたいとなっている。いわば、貨物輸送による地域振興を目的としていた。
 色彩は甲武の子会社
 当時、農工品の東京への輸送は、川越を軸とした新河岸川による舟運が中心。江戸初期からの歴史を誇ってきたが、明治維新後、この舟運は川越鉄道や、その後の東上鉄道(現東武東上線=川越―池袋間)などの開通を機に衰退、姿を消していく。
 川越鉄道は国分寺で甲武鉄道(現中央本線=新宿―八王子間)に接続。発起人に甲武鉄道の取締役など鉄道資本家が含まれ、甲武鉄道の子会社的色彩が強かった。
 建設工事も甲武鉄道会社に委託、二十六年、川越、国分寺両側から始まった。しかし、住民の反対も強かった。「川越鉄道の敷地」をまとめた浦和一女教諭の大舘右喜(五二)――所沢市北野――は「入間川架橋工事で住民の安全を無視していると反対運動が起き、工事が数カ月中断したり、柳瀬川架橋工事では架橋が狭く大水の時、水害を呼ぶと工事変更を訴える運動が起きたりしで、スムーズには進まなかった」という。
 このほか、汽車が通ると振動で大地がゆるみゴボウやニンジンができなくなる、汽車の煙の火の粉で火事になるなど、住民もかなり不安を抱いていたらしい。
 客車より多い貨車
 出願からちょうど四年後の明治二十七年十二月、客車十二両、貨車十九両で営業を開始した。当時、旅客運賃は上、中、下の三クラスに分かれ、下等は一マイル一銭三厘、中等は二倍、上等は下等の三倍だった。
 明治四十三年までに、機関車四両、客車十二両、貨車六十九両と増え、旅客の累計も五十七万人、貨物十万dを運ぶなど、地方小鉄道のなかでも優良鉄道の一つだった。
 発起人の一人、所沢町の斎藤与惣次のひ孫で会計士斎藤武司(五四)――所沢市元町――は「架橋の反対運動や煙で火事が起きるなど住民の不安や心配を取り除くなどかなり苦労したらしい。開通後は用があったのかなかったのか、毎日、鉄道で川越まで通ったと聞いています」と話す。
 自立経営を14年余
 優良鉄道も親会社≠フ甲武鉄道が三十九年、鉄道国有法で国有化、経営に不安を抱いた大金融資本が手を引いたり、東上鉄道や武蔵野鉄道(現西武池袋線)など競合各線が開通し、経営成績が低下。甲武鉄道から離れ約十四年間、自立経営を続けたが、それ以降は合併を繰り返し、現在の西武鉄道へと統合されていった。
 追 記
 県内の私鉄は、西武、東武、秩父各鉄道三社十一線と、第三セクターの埼玉新都市交通伊奈線。県内所在の駅数は、西武鉄道が池袋線(西所沢―吾野間)十四駅、秩父線(吾野―西武間)七駅、新宿線(所沢―本川越間)七駅、狭山線(西所沢―西武球場前間)三駅、新交通システム山口線(西武球場前―遊園地西間)二駅。東武鉄道が伊勢崎線(谷塚―羽生間)二十三駅、日光線(杉戸高野台―柳生間)六駅、野田線(大宮―南桜井間)十一駅、東上線(和光市―寄居間)二十六駅、越生線(一本松―越生間)八駅。秩父鉄道が三峰口―羽生三十三駅(貨物駅除く)、埼玉新都市交通伊奈線(通称ニューシャトル)が大宮―羽貫間十二駅。
 開業予定の各社の新駅を挙げると、西武新宿線の所沢―新所沢間(六十二年夏開業)、東武東上線の鶴瀬―上福岡間(六十四、五年に開業)。

証言と記録 川越文化ものがたり」 川越文化会編 さきたま出版会 1993年 ★★★
5 川越鉄道の開通
 川越鉄道の建設/鉄道敷設出願の要旨/川越鉄道の敷設に消極的だった川越の財閥/路線決定の経緯と柳瀬川橋梁のトラブル/川越鉄道と凱旋門/最高速度五十キロのユックリ列車/単線だった川越鉄道と危険な連結作業/細いレールに木の枕木/鉄道草と杉菜のこと/のどかな保線作業/信号機左側の由来と西郷隆盛/女の踏切番と無難信号/高かった汽車賃と川越駅の乗降人員/陸蒸気と駅前風景/新橋・横浜間を走った同形の蒸気機関車

「地形図でたどる鉄道史[東日本編]」 今尾恵介 JTBキャンブックス 2000年 ★★
 鉄道の廃線跡を探訪するのがブームのようだが、それにはいくらかでも鉄道の歴史を下調べすることが必要だ。鉄道史を知りたい人の増加に伴って、最近は鉄道の足跡を丁寧にたどった出版物が目立っている。ところが一方で、たとえば車両の異動情報は非常に詳細なのに、実測に基づく地図資料が載っていない記事が少なくない。せっかくの労作も、そのために「鉄道が生きていた実感」を得にくいもどかしさが生じてしまうのである。
 本書では、沿線の景観を含めて面的に非常に豊富な情報を提供してくれる「地形図」を時代ごとに観察することで、日本の近代化とともにあった鉄道の足跡を物語る路線の改廃――栄枯盛衰を概観できるようなものを目指した。当然ながら、鉄道は沿線の自然や産業・文化などの人文的環境と密接に関わっているのであるから、これらを見るのに地形図は最適、いや不可欠なのである。(はじめにより)

川越への鉄道◆川越鉄道・川越電気鉄道・川越線・東上鉄道
小江戸への路面電車の後継者は軍事的要請による川越線
 川越は15世紀に太田道真道灌の親子によって築城されて以来の城下町として、また入間郡、比企郡などの地元産物の集散地として発展、江戸と結ぶ新河岸川の水運に支えられた商都であった。
 武蔵国北部は明治に入って埼玉県となったが、川越は大正11年(1922)、県内では最初に市制施行された町である(浦和の市制施行は昭和9年)。その賑わいは小江戸などとも称され、現在は「小江戸」と名付けられた特急が西武新宿線を走っている。
 その川越に最初に鉄道が開通したのは明治28年(1895)、甲武鉄道(現・中央本線)の国分寺から北上してきた川越鉄道であった。蒸気機関車牽引の鉄道で、現在の西武国分寺線・新宿線(東村山〜本川越)にあたる。東京からはだいぶ遠回りであったが国分寺駅での乗り継ぎは良く、新宿を出て約1時間50分ほどで川越(現・本川越)に到着した。
 その後明治35年(1902)には大宮〜川越間を川越馬車鉄道が開通、それを母体に川越電気鉄道が併用軌道を走る電車として明治39年に開通した。大宮、川越久保町の両終点はどとらもループになっていて、ぐるりと方向転換をしていた。川越久保町の終点の様子は〔図1〕(略)でわかる。
 この電気鉄道は一時電力会社の経営となったが大正11年(1922)から西武鉄道(旧)大宮線となった。大正14年の時刻表によれば12.9kmを45分で結び、30分間隔で運転されている。川越から大宮経由で上野までの所要時間は、当時東北本線に電車が走っておらず、現在の京浜東北線専用の駅にも止まったために遅く、乗り継ぎ時間を含めると国分寺経由とほぼ同じ2時間近くかかった。
 〔図2〕(略)はちょうどその頃、大正13年(1924)の修正だが、これによれば西武鉄道(旧)大宮線の経路はほとんど一直線に両都市を結んでおり、途中は田畑が広がる農村地帯であったことがわかる。また途中で荒川を渡るが川幅は狭く、橋梁の長さを図上で測ってもせいぜい100mほどだ(現在のJR川越線の橋梁は約800m)。その後荒川では大規模な河川改修が行われ、川幅は数倍に広げられてその姿は激変している。そのため平成7年修正の〔図3〕(略)と比べても、場所の同定が難しい。
 川越には3本目の鉄道として東上鉄道が大正3年(1914)に池袋〜田面沢間33.6kmを開業した(大正9年から東武鉄道東上線。田面沢は現在の川越市〜霞ヶ関間にある入間川橋梁の東詰)。
 川越市街には川越西町(現・川越)および川越町(大正11年の市制施行時に川越市と改称)の2駅が設置され、東京と川越を一直線で結ぶルートをとったため所要時間は大幅に短縮されている。開業翌年の時刻表によれば池袋〜川越町の所要時間は最速列車ならわずか61分である(現在の急行は32分)。なお、〔図1〕でも明らかなように、以上の3つの鉄道駅はそれぞれ別の場所に作られたため、相互の乗り換えは不便であった。
 さて、最後に川越に参入したのが国鉄川越線(大宮〜高麗川)である。開通は昭和15年(1940)で、川越までのルートは、大宮を出ると2.8kmも高崎線と併走、おもむろに左折してからは日進、指扇と素直に進んで荒川を渡り、南古谷を経て東武東上線を川越西町(現・川越)の手前でくぐり、川越西町に達する。遠回りしたぶん電気鉄道より3kmほど長い16.1kmとなったが、所要時間は約29分と大幅に短縮された。開業と同時に川越西町駅は東上線とともに川越駅となり、それまで川越駅だった西武線の方は本川越と改称されて現在に至っている。
 この路線は当初、大正11年(1922)公布の改正鉄道敷設法のリストにもなかったのだが、東海道本線と東北本線を東京を経由せずに結ぶという軍事的な危機管理政策から必要とされ、昭和9年(1934)の帝国議会で追加と同時に「建設線」となり、同年中に直ちに着工されるという異例のスピードで建設が進められた。川越線開通を報じる当時の朝日新聞埼玉版の見出しには「帝都防備の使命も重く」の文字が躍っている。
 しかし、その開通は西武大宮線には致命的で、約半年間は一緒に存在したものの、川越線に引き継ぐ形で同年12月には運休、翌年には正式に廃止となった。路面電車であったこと、また専用軌道の区間が河川改修などで消えて、今ではほとんどその痕跡は残っていないようだ。
 国鉄川越線は長らく気動車の走る首都圏で数少ないローカル線だったが、昭和60年に電化、埼京線経由で新宿や恵比寿に直通してからは東上線と対抗できるようになった。
 
 〔図1〕大阪毎日新聞社発行「日本交通分県図・埼玉県」大正13年
 〔図2〕1/5万「大宮」大13修正(昭2発行)+「川越」大13修正(大15発行),×0.8
 〔図3〕1/5万「大宮」平7修正(平8発行)+「川越」平8要部修正(平9発行),×0.8

「埼玉史談 第27巻第2号」 埼玉郷土文化会 1980年7月号 ★★
 川越付近の鉄道敷設と新河岸川舟運  井上浩
一 はじめに
二 日本鉄道の敷設
三 甲武鉄道の開通
四 川越鉄道の開通
五 幻におわった毛武・京越鉄道と舟運
六 川越電気鉄道の開通
七 東上鉄道の開通と新河岸回漕店
八 おわりに

「鉄道地図と歴史を楽しむ本」 所澤秀樹 ワニ文庫 1999年 ★★
 時刻表を片手に、鉄道史の謎を解き明かす旅に出かけてみませんか。「開業列車を運転したのはどんな人だったのか」「電気のない明治時代にどうやって列車暖房をしていたのか」「日本初の特急列車は何か」「なぜ同じ東武鉄道なのに伊勢崎線と東上線が、まるで離れた場所を走っているのか」「初めて列車に愛称がつけられたのはいつのことか」……列車、路線、鉄道員など、鉄道に関する歴史の謎と秘密を楽しく読み解く一冊です。

1 私鉄路線図に見る歴史のいたずら
 東武鉄道の伊勢崎線と東上線がよそよそしいワケ
 東京以北、北関東一円をテリトリーとする私鉄が東武鉄道である。
 その路線網は東京、千葉、埼玉、栃木、群馬の1都4県に張り巡らされ、総延長は466.3kmにも及んでおり、JRを除く私鉄では、近鉄、名鉄に次ぐ第3位の規模となる。
 一時は600kmを超えたこともあり、その時は堂々日本一に輝いていた。
 しかし、これは近鉄や名鉄にもいえることだが、路線網の規模が大きいということは、それだけ不採算のローカル線を多く抱えているわけで、東武もそれらを整理して、現在の姿に落ち着いたといえる。
 そんな東武の路線群のなかで稼ぎ頭といえば、東京近郊の通勤路線である東上線と伊勢崎線にほかならない。
 しかしこの両線、なぜかお互いまるで関係ないといったふうに独立独歩で存在している。
 地図を見ればわかるように、伊勢崎線は東京の下町、浅草を起点に群馬県の伊勢崎まで結んでいるのに対し、東上線は山手線の池袋を起点とした路線で終点は埼玉県の寄居である。
 起点もまったく異なれば、両線が途中で相まみえることもない。
 まるで別の私鉄のようによそよそしい関係なのである。
 これにはいったいどんな理由が隠されているのだろうか。
 東上線の正式線名は「東上本線」とされている。そして、東武の路線群のなかでも本線≠フ文字がつくのは唯一この線だけである。
 だからといって、この東上線が東武の社内で本線格というわけではない。やはり本線格の路線は伊勢崎線と、その途中の東武動物公園駅より分岐して日光方面に向かう日光線といえよう。
 東武の路線網は2つに大別できる。伊勢崎線伊勢崎線、日光線を幹に、そこから分岐する枝葉ともいえる数多くの支線群。そして、それらとはまったく離れた場所に敷かれた東上線とその唯一の支線である越生線。
 前者を東武本線グループ=A東上線グループと呼ぶ場合もあるようで、東上本線は東武全体の本線≠ナはなく、この東上線グループ≠フ本線格というわけである。
 両グループは、それぞれ独立している関係から、列車の営業形態もまったく異なっている。東武本線の系統では、特急、急行列車といえば専用車両を使用した座席指定制の有料列車なのに対し、東上線でのそれは通勤用車両を使う料金不要の列車となっている。
 もちろん、車内に掲出された「路線図」も、お互いに相手のことはまったく無視している。
 なんだか東上線は、東武とは別の会社といった感じがするけれど、実際にも組織的には本社からある程度独立した「東上業務部」が運営にあたっているようだ。
 この関係は、その昔、東上線が別会社の東上鉄道であったことを今に伝えているといえばできすぎだろうか。
 東武鉄道は明治30年設立という古い会社である。東京と両毛地区の直結を目的に東京と横浜の実業家12名により発起されたもので、明治32年8月には第1期線の北千住〜久喜間が開通している。
 そして、その後も延長が繰り返されたが、資金不足からなかなか利根川を鉄橋で越えることができなかった。当然、両毛地区に路線が達しないために利用者数も伸び悩んでいた。その結果、経営もどんどん悪化し、世間から「ボロ会社」といわれるありさまだったという。
 そこで、そのボロ会社を立て直すために招かれたのが、後に数多くの鉄道会社を再建し、「鉄道王」とまで呼ばれる根津嘉一郎(初代、以降も同様)であった。
 明治35年に東武鉄道の代表取締役に就任後、内には倹約策を、外には積極策を展開し、業績はみるみる好転したという。
 路線も明治43年には吾妻橋(現業平橋)〜伊勢崎間を全通させ、根津は鉄道経営者として確固たる信頼と地位を築いたのであった。
 一方の東上鉄道だが、こちらもその歴史は古く、明治36年12月に東京の巣鴨から川越、児玉を経由して群馬県の渋川までの鉄道建設を計画し発起されたのがその起源となる。東上≠ノは京と州を結ぶ意が込められている。
 しかし、どうもこちらは資金の調達うまくいかなかったようで、発起人の一部が私財をなげうってまでしても、計画はなかなか前に進まなかったという。
 こうなってくると、頼りになる援軍が必要になるわけで、売り出し中の件の人物に白羽の矢が立った。つまり、東上鉄道の発起人たちは、そのころ東武鉄道再建でめきめきと腕をあげていた根津嘉一郎に一切を頼んだというわけだ。
 これにより、東武鉄道も軌道に乗り始めた明治44年11月に、東武の子会社として東上鉄道は設立されたのである。
 さすがに根津が乗り出しただけあって、その路線建設は速やかで大正3年5月には池袋〜田面沢(川越町西方)間が開通、続いて大正5年10月には坂戸町(現坂戸)まで開通させた。
 そして、大正9年7月に東上鉄道は東武鉄道に吸収合併され、以降は東武が東上線の延長工事を進めたというわけである。同じ根津の経営なのだから、一体化したほうが都合がいいと判断したのだろう。
 ただし、東上線は寄居まで延長されたところで建設は中止された。この先、渋川まで延ばしても採算的に問題があり、また、東武自体が日光線の建設と日光の観光開発に目が向いていたからではないだろうか。
 東武鉄道は、この東上線合併の前後から昭和19年にかけて、佐野鉄道(現佐野線)、太田軽便鉄道(現桐生線)、上州鉄道(現小泉線)、越生鉄道(現越生線)、下野電気鉄道(現鬼怒川線)、総武鉄道(現野田線、総武本線の前身である総武鉄道とは別会社)など、周辺の小私鉄をどんどん吸収合併し、さらに自ら日光線や宇都宮線をも建設して、現在の路線網を形作っていく。だが、東上線は越生線が支線として与えられただけで、以降も本線系との連絡や路線の拡張はなされず、離れ小島として独立独歩で生き続けることになるわけだ。
 しかし、東武随一の通勤路線に成長した東上線の姿を見て、根津嘉一郎も東上鉄道に手を貸しておいてよかったと、大霊界≠ナ思っているのではないだろうか。
 西武新宿線と西武池袋線は別の会社の路線だった
 私鉄の路線図を見ると、一つの会社でいくつもの並行路線を持っているという、よくばりな会社も存在する。
 たとえば西武鉄道の池袋線と新宿線の場合、前者は山手線の池袋駅を、後者も同じく高田馬場駅(起点は西武新宿駅)をターミナルとして、そこから東京の西部地域へと路線を延ばしている。
 しかし、途中の埼玉県所沢までは、両線とも付かず離れずといった感じでほぼ並行して走っている。そこでクロスして南北の位置関係が逆転したあともなお、その先の狭山市付近までは仲よく並んで走っており、そこでようやくそれぞれの道を見つけたかのように、池袋線は飯能方面へ、新宿線は川越へと分かれていく。
 なんだか一つの私鉄が敷いたにしては二重投資の感じもするし、両線とも戦前生まれだから、まさか現在の首都圏のように押し寄せる通勤客を捌き切れずに、やむを得ずバイパス的な路線を建設したというわけでもないだろう。
 戦前の西武鉄道は金があり余っていたのだろうか。
 実は、このように、あるエリア内に並行路線を持つ私鉄の場合、その歴史は複雑怪奇なものとなっている場合が多い。
 西武池袋線と西武新宿線にしても例外ではなく、もともとはまったく別の会社が運営していたのである。
 それも、東武鉄道と東上鉄道のように資本や経営者を同一とするようなものではなく、お互いなんの関係もない会社であった。無理にその関係をあげようとすればライバル関係≠ナあったことぐらいだろう。
 西武鉄道の歴史はけっこう複雑だ。
 その起源は明治45年5月創立の武蔵野鉄道とされ、現在の池袋線は、この会社によって建設された。しかし、西武鉄道の路線のなかで、もっとも古い路線はといえば、国分寺線と新宿線の東村山〜本川越間で、こちらはなんと明治28年3月に全通している。
 なんだか冒頭からややこしくなってきたが、いったいこれには、どのような経緯が隠されているのだろうか。
 まず、西武最古の路線である国分寺〜本川越間を開通させたのは、明治25年設立の川越鉄道という私鉄であった。
 国分寺で現在のJR中央線の前身である甲武鉄道と接続し、東京と川越を結んだわけだが、そのことからもわかるように甲武鉄道の支線的な性格が強く、実際にも建設工事や開業後の列車の運行は同社に委託されていたという。
 これは、明治39年に甲武鉄道が国有化されるまで続いたようだ。この私鉄の国有化については、ここで説明したのでは話がややこしくなるから、のちほど詳しくふれるとして、とりあえず川越鉄道に話を戻そう。
 実は、その後の川越鉄道には、なぜか次から次へと強敵が現われたのである。
 まず、大正3年に、前の話に出てきた東上鉄道が開通すると、川越の人は池袋へ直結する同鉄道を選択するようになり、川越鉄道はあまり利用されなくなってきた。さらに、それに追い討ちをかけるようにして、大正4年に武蔵野鉄道が現在の池袋線である池袋〜所沢〜飯能間を開通させたからたまらない。都心への直通線を持たない川越鉄道は、どんどん不利な状態になっていったのであった。
 とはいっても、好況などもあり経営が悪化するほどではなかったようで、その後も川越鉄道、東上鉄道、武蔵野鉄道の3社は輸送量を増やして、うまく共存共栄していたようだ。
 しかし、武蔵野鉄道は積極経営により電化も行なったが、川越鉄道はどうも堅実経営というか消極的だったようで延々蒸気機関車による列車の運行を続け、なんとなく見劣りがしていたのも事実である。
 そんな川越鉄道が転機を迎えるのは大正9年10月に行なわれた電力会社の武蔵水電との合併であった。さらに武蔵水電は帝国電灯に合併されたから、どんどん資金に余裕が出てきたわけである。
 そして帝国電灯の経営方針から鉄軌道業部門を関連会社として分離独立させた。これにより、旧川越鉄道である川越線国分寺〜本川越間と、旧武蔵水電が所有していた軌道線の新宿線新宿〜荻窪間(最終的には都電となり廃止)、大宮線大宮〜川越久保町間(国有鉄道川越線建設により廃止)を引き継ぐ形で西武鉄道(初代)が設立されたのである。
 これを見る限りでも、現在の西武鉄道とはまったく別の会社であることがよくわかる。
 さて、この西武鉄道(初代)だが、親会社が電力会社ということで、その豊富な資金を武器に川越鉄道時代には考えられなかったような積極経営に転じたから、今まで、それを屁とも思わなかった武蔵野鉄道も、さぞかしびっくりしたに違いない。
 まず、念願であった川越線の東村山と高田馬場を結ぶ路線を昭和2年4月に一気に開業させた。これにより、現在の新宿線がほぼ完成したのである。
 勢い余ってか、ついでに現在の西武多摩川線である多摩鉄道武蔵境〜是政間も買収してしまった。
 もちろんこれは、武蔵野鉄道に対しての宣戦布告であり、武蔵野鉄道側も黙ってはいないだろうから、以降、両者はことごとくぶつかっていったのである。
 今では仲よさそうにしている池袋線と新宿線も、両線の歴史にはこんな事実が隠されていたわけで、これならば、路線が並行していることもさして不思議ではないだろう。
 では、なぜ、そんなライバル路線が、その後、一つの会社に納まったのか。それについては、ちょっと話が長くなるので次に譲ることにしよう。

「鉄道地図の謎から歴史を読む方法」 野村正樹 KAWADE夢新書 2008年 ★
3章 都市の膨張、大衆文化の到来で東京と関西の鉄道網が完成
 都市の拡大と共に急速な発展をとげた鉄道網
  東京の私鉄網はなぜ西高東低≠ネのか
 「民」の台頭と「官」の支配で鉄路の縄張り争いが激化
  池袋駅にまつわる二つのCMソング
4章 高度経済成長の時代をビジネス特急「こだま」が疾走
 軍事のために再編成された戦時下の鉄道路線網
  西武鉄道の路線が複雑化した事情とは

「鉄道ふしぎ探検隊」 河尻定 日経プレミアムシリーズ 2018年 ★
「東海道新幹線、なぜ品川で折り返さない?」「池袋駅、東が西武で、西、東武なわけ」「快速、急行、快速急行――最も速いのは?」……。鉄道にまつわる、数々の「ふしぎ」。日経記者が深く追究すると、そこには意外な真実が。知れば誰かに話したくなる、面白ネタが満載。本書を読めば、電車を、駅を見る目がきっと変わります。
 
第5章 東京、鉄道の謎
池袋駅、なぜ「東が西武で西、東武」なのか
先に駅を作ったのは東上鉄道――「東京と上州を結ぶ」
東上線、新潟への延伸構想があった
池袋がターミナルになったのは偶然だった
山手線も池袋を通らない予定だった
 
快速、急行、快速急行……最も速いのは?
東急東横線→副都心線、急行が途中から各駅停車に
東武東上線では、快速が急行より速い
急行と通勤快速、どっちが速い?
各停なのか? それとも普通なのか?

沿線情報 ゆあ東上 233」 編集・発行/東武鉄道鞄件繼ニ務部 2004年 ★★
 おかげさまで90周年――[東武東上線]
 日ごろ東武鉄道をご利用いただき誠にありがとうございます。おかげをもちまして、東武東上線は大正3年の開業以来、今年て90周年を迎えました。
 明治30年代半ば、それまで埼玉県西南部の交通手段といえば新河岸川の舟運が主でしたが、度重なる川の氾濫で改修工事をすることになりました。
 河川の改修は舟運に困難をきたし、このことが川越の廻船業者や埼玉の財界人が鉄道への思いを一層強く持つようになった要因となり、東上線の前身、東上鉄道の起業の発端ともなりました。
 大正元年(1912)、小石川大塚辻町(現・東京地下鉄丸ノ内線新大塚付近)を起点として、群馬県渋川町までの本免許が東上鉄道に下付されました。
 しかし、小石川大塚辻町を起点にするためには、帝国鉄道(現・JR山手線)を越える必要があり、その工事費が膨大になるため、起点を下板橋に変更し、そこから池袋駅と連絡することになり、工事が開始。
 大正3年(1914)5月1日、池袋〜田面沢(たのもさわ)(現・川越市〜霞ヶ関間に位置)間、33.5キロで営業開始。同5年には川越町(現・川越市)〜坂戸町(現・坂戸)間、9.2キロが開通、同時に川越町〜田面沢間は廃止されました。
 大正9年に東武鉄道と東上鉄道が合併。大正12年には坂戸町〜武州松山(現・東松山)間、9.3キロと、武州松山〜小川町間、14.1キロが相次いで開通、同14年に小川町〜寄居間、10.8キロが開通し、池袋〜寄居間の東上本線が開通。「東上線」の名称の由来となった。東京と上州を結ぶ≠ニいう当初の計画には至らなかったが、終点の寄居で秩父鉄道に接続しました。
 昭和18年(1943)越生鉄道の坂戸町〜越生間、10.9キロの営業を引き継ぎました。
 その後、沿線市町村の発展にともない、人口も飛躍的に増加、列車の長編成化、鉄道の複線・複々線化が進み、新駅も次々と誕生していきました。
 現在の営業距離は、池袋〜寄居間、75キロ、坂戸〜越生間、10.9キロ、合計85.9キロ、駅の数は45駅です。
 また、昭和62年(1987)には、営団地下鉄(現・東京地下鉄)有楽町線と相互直通運転が開始(川越市〜新富町間、41.3キロ)され、都心へのアクセスも一段と便利になりました。
 これからも、より快適にご利用いただけるよう努力してまいります。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 根津嘉一郎(ねづ かいちろう)
1860〜1940(万延1〜昭和15)明治・大正・昭和期の政治家・実業家。
(系)根津嘉右衛門の次男。(生)甲斐(山梨県)
20歳のときに上京し、漢学者の馬杉雲外の門下に入った。その後郷里にもどり郡会議員・県会議員をつとめ、共愛社、山梨同志会などを作った。1904(明治37)衆院議員に当選。帝国石油を設立して社長に就任したほか、’05東武鉄道、’06館林製粉・日本一麦酒の社長に就任した。以後も大日本製粉、日清製粉、東上鉄道などの社長を歴任したが、’29(昭和4)にいたり徳富蘇峰の「国民新聞」の社長をひきうけた。東京商工会議所顧問、貴院議員などをつとめたほか、武蔵高校、根津化学研究所の創立など学術・文化事業の方面でも名を知られた。古美術愛好家としても知られ、没後そのコレクションをもとに根津美術館(東京青山)が設立された。
(参)勝田貞治「根津コンツェルン読本」1938、宇野木忠「根津嘉一郎」1941。

「駅名で読む江戸・東京」 大石学 PHP新書234 2003年 ★
 本書は、東京都内のJR、私鉄、地下鉄の駅名を取り上げ、その由来や地域に関わる事件、物語を文献・史料に基づき丹念に拾い集めている。江戸時代以前は「亀無」という地名だった「亀有」。幕府御用の警備隊が、駅名として残った「御徒町」。ビールの名が駅名となった「恵比寿」。明治・大正期の文人、徳富蘆花にちなんだ「芦花公園」。さらに、戦後まもなく、渋谷駅にはロープウェイがかかっていた話……。日ごろ通い慣れた駅の意外な歴史が見えてくる。江戸東京四〇〇年を振り返るユニークな地名考。
第一章 山手線の駅名/池袋
第五章 多摩の駅名/国分寺

「鉄道のすべてがわかる事典」 川島令三/岡田直 PHP文庫 2000年 ★★
 本書は、鉄道に関するあらゆる用語・名称を、「企業」「車両・運転」「列車・ダイヤ」「新線計画」「歴史・人物」などのジャンルごとに五十音順でまとめ、コラム風にわかりやすく解説した画期的な鉄道小事典。コンパクトな事典としての使い方はもちろん、雑学読本としても楽しむことができます。路線図や車両の図解、貴重な列車などの写真も満載した、ファン必読の完全保存版! 文庫書き下ろし。
 埼京線(さいきょうせん)
 
 大宮より武蔵浦和、赤羽、池袋、新宿を経由して恵比寿に達する路線。1986(昭和61)年に通勤新線と呼ばれ建設されていた赤羽―大宮間が開通、川越線川越までと赤羽線の池袋まで直通運転を開始、1996(平成8)年には恵比寿まで乗り入れた。「埼京線」は、池袋―恵比寿間が山手線の一部だが、大宮―池袋間が独立した線路を走るので、正式な路線名称であるように思うが、「京浜東北線」と同様に通称である。赤羽―池袋間は赤羽線が正式な路線名であり、大宮―赤羽間は東北線の別線、大宮―川越間川越線である。
 「埼京線」の名称は国鉄が付けた。最近、結構はやっているモーターマンの歌詞に「最強を誇る埼京線」とあるが、まさしく「最強」を意識してこの名を付けたのである。通勤新線は東北新幹線とともに国鉄が手がけた最後のビッグプロジェクトだった。旅客鉄道会社(JR東日本)に引き渡したのちに多くの収入を稼ぎだし、最強の路線に発展することを祈って付けた名前なのである。
 ところが、警視庁の発表によると、埼京線はチカンの摘発件数が中央線、山手線を引き離して最も多いことで「最強」となってしまった。埼京線は他の路線に増して混雑が激しい上、駅間距離も比較的長いことがその原因ではないかと言われている。

「鉄道駅・路線不思議読本」 梅原淳 朝日文庫 2010年 ★
第1章 駅名の不思議
第2章 駅の不思議
第3章 路線名の不思議
 026 埼京線の謎
第4章 路線の不思議
付章

「川越市菅原町誌」 川越市菅原町自治会 2001年 ★★★
五 昭和(太平洋戦争終結まで)時代/5 国鉄川越線の敷設と川越駅の設置
 明治初期、国有鉄道の通過が見送られた川越は、政治、経済、文化的にも他より遅れが目立った。こうした状況から大正、昭和の時代にかけて川越商人達は商業会議所を中心に必死になって国鉄誘致に乗り出したのである。
 大宮、川越、八王子を結ぶ国鉄誘致の意見は明治時代からもあったようだが、まとまった要望として商業会議所が関東商業会議所連合会へ提出したのは、大正9年で、その後国有鉄道敷設期成同盟会が結成され、昭和8年に至り、初めて建議書として各方面へ陳情されたのである。これは国鉄八高線の敷設がさきに計画されたが、川越は通過しないので、大宮、川越、八高線を結ぶ国鉄の誘致となったのである。こうして運動が続けられ、その結果、当時の軍事上の配慮もあって、川越線の敷設が決定された。しかし、大宮、川越間は路線が早く決まったが、川越、八高線間の路線が地元町村間の誘致運動のため決着がつかず、川越市長らの懸命な促進運動により、ようやく現在の路線が決定し、昭和15年(1940)初めての開通の運びとなった。
 しかし、この間、川越駅の設置場所について思わぬ紛争が起こった。当初、市長を始め関係者は川越市の将来を考慮して、川越駅は市の中央駅として、西武線、東上線、川越線の合同駅設置を国鉄に陳情していた。ところが、川越南部地域の西町、新田町、通町、脇田町、菅原町のほか、新宿、岸、大仙波、小仙波など各町の商店主等は、この合同駅に猛烈な反対運動を起こし、ついに国鉄当局を動かし、中央駅設置案を白紙に戻し、その結果、現在のように東上線と連絡するだけの駅に決定されたという。この商店街の反対は当時、これらの商店街は主に東上線の西町駅(現川越駅)を中心にして成り立っていたため、国鉄の新駅に合併されると西町駅が移転させられ、生活権に大いに影響するものと判断したようだった。
 こうして、川越には合同駅が生まれなかったのである。

「昭和史の埼玉 −激動の60年− 史(ふみ)の会編 さきたま出版会 1986年 ★★
2 戦時体制の下で(昭和7年〜昭和20年)
 *国防路線で誕生の川越線
 昭和の初め国鉄八高線(八王子〜高崎間)の敷設が日程にのぼると、川越財界では大宮から川越を経て八高線のいずれかの駅に接続する国鉄線敷設の要望がにわかに高まった。2年11月に川越市、同商業会議所、同商工会が中心となって国有鉄道敷設期成同盟会が結成され、以後活発な国鉄線敷設促進運動が展開された。川越財界の主張は、この国鉄線が川越を中心とする地方経済の発展に極めて重要であるという点にとどまらず、6年の満州事変以後の軍事情勢の変化の中で、国防の上からも極めて重要であるという軍事的見地にまで及んでいた。
 こうした運動の高まりを受けて、政府は8年12月の第65議会に、大宮から川越を経て八高線の高麗川・東飯能に至る国鉄川越線の敷設計画を上程した。政府の意図は、帝都東京の鉄道機能が麻痺した場合、東北、信越線と中央、東海道線とを結ぶ東京外郭線を、八高線の一部(八王子〜東飯能間)及び横浜線(八王子〜東神奈川間)とともに、この川越線の敷設によって確保しようという点にあった。川越線は川越財界による地方経済の活性化という経済的要請を含みながらも、その実現の段階では帝都防衛という軍事的・国防的役割を全面的に担うことになったのである。
 川越線の敷設は10年9月に着工され、13年7月にまず大宮〜川越間、そして15年7月に川越〜高麗川間が開通し、ここに川越線全線が開業した。工費総額は380万5000円であった。
 川越線が開通すると、これまで大宮〜川越間の交通を担ってきた川越電気鉄道会社は、ほどなく廃止されることになった。川越線は、国防路線として誕生したが、同時に地域交通をも担当することになったのである。
6 現代(昭和49年〜昭和61年)
 *新幹線の見返りで発車=@埼京線の営業開始
 ラッシュの混雑緩和 東北、上越両新幹線県内通過の見返りとして、県が強く要望した大宮〜池袋間の通勤新線と川越線の電化にともなう川越〜池袋間の国電が60年9月30日営業を開始した。
 従来の赤羽線(赤羽〜池袋)、川越線(大宮〜高麗川)と赤羽〜大宮間の新線が赤羽、大宮両鉄(ママ)で接続、ラッシュ時の混雑がかなり緩和された。53年に認可されてから6年余り、これに要した費用は赤羽〜大宮間(複線18キロメートル)の工事費2600億円(川越線指扇、南古谷間車両基地建設費150億円を含む)、川越線電化工事費40億円(大宮〜日進間1.7キロメートル複線化6億円を含む)。赤羽〜大宮間に新設された正式路線名は東北本線であるが、旅客案内上「埼京線」の愛称名となっており、新設駅は北赤羽、浮間舟渡、戸田公園、北戸田、武蔵浦和、中浦和、南与野、与野本町、北与野の10駅。
 スピードアップのダイヤ ダイヤは通勤快速(休日を除く)、快速、各駅停車の3通りで川越〜池袋間所要時間は次のとおりで、大幅にスピードアップされた。 
 通勤快速(赤羽〜大宮間は武蔵浦和のみ停車、他は各駅停車)44分、快速(同、戸田公園、武蔵浦和、与野本町停車)45分、各駅停車54分(従来大宮、赤羽での乗換時間を含めて69分)。川越線と埼京線の直通は10両、川越線は3両編成。
 3月には新宿乗入れ 国鉄は11月26日、61年3月のダイヤ改正にともない埼京線の新宿乗入れを発表、池袋の乗換えなしに川越〜新宿が直通となった。池袋〜新宿間は貨物線を利用、新宿駅の新しいホームは東口に建設され、14両編成が楽に出入り出来、通勤快速を利用すれば大宮〜新宿間は31分で、これまでの通勤快速利用で池袋乗換えをふくめて39分が8分短縮された。東武東上線に比べかなりの運賃割高なため、川越からの乗客増は望み薄の見込みである。

「全国鉄道事情大研究 東京北部・埼玉篇@」 川島令三 草思社 2003年 ★★
 そつのない運営だが、これという面白みに欠ける西武線。長距離通勤に対応していない東武東上線。りんかい線直通を含めて運転本数がまだまだ足りないJR埼京線。現状の問題点をずばり指摘し、利用者の立場から具体的改善策を提起する。(帯)
JR埼京線  各駅のホームを延長して高崎線からの直通運転を
JR川越線  埼京線からの快速は大宮―川越間をノンストップで
東武東上本線  朝ラッシュ時の大幅なスピードアップを
西武新宿線  緩急接続ができる駅構造に改良せよ

「全国私鉄特急の旅」 小川裕夫 平凡社新書 2006年 ★★
第2章 ゆったりとした座席の「ニューレッドアロー号」――西武鉄道

「日本の私鉄」 和久田康雄 岩波新書(黄版)158 1981年
 日本に私鉄が生れてから100年を数える。私鉄という存在は、現代の国民生活にとって非常に身近なものとなり、そのあり方はしばしば議論の的となっている。それにもかかわらず、これを専門にとりあげた本がほとんどないということは、私鉄を愛する者としてはまことに残念なことであった。
 この本では、こうした100年に及ぶ日本の私鉄史を概観するとともに、現代の私鉄がかかえている問題についてふれてみた。著者は交通経済学者でも歴史家でもなく、アマチュアの一研究者にすぎないが、この小著が私鉄に関心をもつ方々に少しでも参考となれば幸いである。(あとがきより)

「日本の国鉄」 原田勝正 岩波新書(黄版)256 1984年
明治五年、新橋―横浜間にはじめて陸蒸気が走ってから今日まで、国鉄が日本の近代化に果たしてきた役割はきわめて大きい。その国鉄はいま、膨大な赤字をかかえ、分割・民営化が論じられるなど、重大な岐路に立たされている。国鉄百余年の歩みをたどって、今日当面している諸問題の根を探るとともに、「国民の国鉄」への道とは何かを考える。

「日本の鉄道100ものがたり」 おのつよし 文春文庫 1991年 ★
日本で蒸気機関車が活躍したのはほぼ100年余、その間に起きた悲喜こもごもの珍談奇談をイラストや地図など数多く織り込んで満載。切符に弁当がついてきた乗客獲得合戦、ダブルベッドもあった寝台車両、わざと曲りくねった線路をつくった話など、世相を映し出すさまざまなエピソードをいろんな機関車にそって楽しく紹介する。
 84 信者のとりあい

 明治二七(1894)年に総武鉄道会社の総武線が本所(いまの錦糸町)から千葉を通り佐倉まで開通し、ここから成東に出て九十九里浜を通り銚子まで建設することになった。
 このコースから外れた成田では、東京からの信者を運ぶために佐倉から成田までの鉄道を計画し、成田山新勝寺の三池住職を発起人にして下総鉄道会社を設立した。区間は佐倉から利根川下流の佐原までとした。
 佐原は北海道、東北地方からの物資を東京に運ぶ中継地だった。大型の船で運ばれた物資は、佐原で高瀬舟に積み替えて利根川を上り江戸川を下って東京に運ばれた。また馬で陸路を運んだ。これらを汽車で運ぼうというわけである。
 明治二八年八月、社名を成田鉄道会社に変更し、三〇年一月に佐倉・成田間が開通し、信者は東京から日帰りで参詣できるようになった。翌年二月には利根川の河畔、佐原まで全通した。
 成田鉄道は、成田を起点として我孫子・野田・岩槻・大宮・川越まで建設する予定で、成田・我孫子間の工事にかかり、三四年四月に開通した。しかし、この区間の建設に予想外の資金がかかったために後の工事は中止になった。
 (以下略)

「ローカル線ひとり旅」 谷川一巳 光文社新書 2004年 ★
「ローカル線」の旅はいい。日常のしがらみから抜け出し、ガッタンゴットンと鈍行に揺られ、駅弁を頬張りながら、美しい風景に思いを馳せる。
しかし、旅情あふれる旅をするためには実はコツ≠ェ必要で、それを知らないと、「こんなはずではなかった!」と後悔させられる。田舎だからといって、イメージするような車両が走っているとは限らないし、人気の有名路線やジョイフルトレインなどは、観光客ばかりだ。
――汽車旅を味わえる車両を選ぶ、バスやフェリーと組み合わせる、時刻表の行間を読む、ガイドブックに載るはずもない光景を見に行く、新幹線のない日本地図をたどる……本書では、ローカル線の極意を紹介する。

極意5 「青春18切符」を隅々まで活用する
 残ってしまった「青春18きっぷ」
 さて、「青春18きっぷ」を使ってみたいものの、限られた期間中に五回全部を使う時間がないという声も多いようだ。二、三日分あればいいという人も多い。三日分しか使わなかったが、全体では元が取れているのでいいやと、二日分を無駄にしてしまうような人も多いのではないだろうか。
 しかし、その二日分を使って、日帰りの旅や一泊二日の旅など、近場の旅に出てみたいものだ。JRの普通運賃は高いので、2300円はすぐに元が取れるし、全体で元を取るという意味では、必ずしも2300円の距離を乗る必要もない。東京近郊に住んでいるなら、鎌倉に行くもよし、奥多摩に行くもよし、普段は私鉄でしか行かない川越にJRで行ってみてもいいだろう。近場だろうが、普段乗らない路線に乗ってみること自体が旅に相当するし、いつも買う切符と違い途中下車無制限である。
 また、出かける回数ではなく、人数でも調整できる。最初から友人などど共同購入にしてもいいし、残った回数を消化する意味で友人を誘ってもいいだろう。
 ちなみに私は、一回でも使いたい日があれば、「青春18きっぷ」を購入してしまう。最大で四日分が残ってしまうが、四日分残ったら夫婦で一泊二日旅行、三日分残ったら夫婦で日帰り旅行+一人が日帰り旅行、二日分残ったら夫婦で日帰り旅行、一日分残ったら一人が日帰り旅行することにしている。
 実は本書で紹介した「小海線一筆書きルートの旅」は、二日分残ったときの消化旅行だ。そして次回二日分残ったときの日帰り旅行は「御殿場線の旅」、四日分残ったときの一泊二日旅行は「飯山線の旅」と決めている。
 「せっかく買ったのだから遠出の旅をしなければ」と気構えるのではなく、もっと気軽に、もっと柔軟に、「青春18きっぷ」を利用したい。

極意7 ローカル線はどこにでもある
 都心から一時間で体験できるローカル線
 東京近郊にも、ローカル線旅情が楽しめる路線はある。
 中央本線八王子と高崎を結ぶ八高線は、それぞれの頭文字をとって「八高線」と名が付いた。関東平野の西端を走るローカル線で、全線が単線、行き違いの待ち合わせが多く、100キロに満たない路線ながら乗り通すとけっこうな時間がかかる。
 八高線は東京に最も近いJR「地方交通線」である。地方交通線とは、採算の低いローカル線のことで、旅客輸送密度(営業キロ1キロメートル当たりの一日平均旅客輸送人員)が8000人未満のもの、「幹線」よりも運賃が高い。JRの運賃はJR各社によって若干異なるが、それ以前に「幹線」と「地方交通線」の分類があり、地方交通線の運賃は割高だ。
 たとえば、地方交通線で50キロ乗ると、幹線で55キロ乗ったのと同じ運賃だ。東京近郊では千葉県の東金線や久留里線なども地方交通線である。
 さて、八高線であるが、八王子から高崎まで関東平野を遠巻きに走るので、東京への通勤客もあまりおらず、ローカル線風情が残る。八王子からは4両編成の電車。残念ながらロングシート車両で、車内設備は中央線快速などど同じ。主な駅では、反対方向の列車との行き違いのために、数分から10分くらい停車する。いったんすべてのドアが開くが、車内保温のため半自動扱いになる。八高線を走る電車の約半数は山手線車両のお古で、ドアの開閉ボタンが取り付けられて走っている。
 しかし、電車の先頭部が山手線とは違う!と思われる方も多いはず。それには理由がある。山手線時代は11両編成に対し運転台は二カ所だった。ところが八高線で4両編成、運転台のある車両が不足する。そこで中間車両に運転台を取り付けて第二の人生を送っている。後から付けられた先頭部分のデザインがオリジナルと異なるのだ。正面には、山手線時代の面影はない。
 八王子を出た電車のほとんどは高麗川から川越線に入り、川越へ向かう。八王子と高崎を結ぶといっても直通列車はなく、高麗川でいったん乗り換えなくてはならない。八王子から高麗川、さらに川越を結ぶ電化路線と、高麗川〜高崎間の非電化路線で性格が異なり、高麗川以南は通勤電車区間、以北はディーゼルカーが走る純粋なローカル線だ。八高線に昔のようなまとまりはない。あ
 八高線の電車が乗り入れる川越線も、川越を境に性格が異なり、大宮側は10両編成の埼京線が走る立派な通勤路線である。川越線も全区間を走る列車はない。通勤圏拡大で、その路線ができたときと現在とでは、人の流れが変わってしまっている。
 時代をさかのぼると、八高線は群馬県で生産された絹糸を横浜港へ運ぶことが主目的で建設されたもので、貨物列車が、八王子からさらに横浜線を通って横浜まで走っていた。
 現在では、八王子と川越を結ぶ東京近郊の通勤路線と、高麗川と高崎を結ぶローカル線にきっぱり分かれている。もし高麗川を境に路線名も違っていたら、高麗川以南は「地方交通線」ではなかったかもしれない。
 なので、高麗川で高崎行きに乗り換えると、さらにローカルムードは増す。ディーゼルカーはセミクロスシートながら、片側は二人が向かい合う座席で、二人で車窓を楽しむにはうってつけだ。海が見えるなどの車窓ハイライトはないが、「日本の田舎の景色」が続く。冬の晴れた日には、雪のない秩父や多摩の山々の剥こうに、真っ白な富士山が望める。

安比奈線
「日本全国「鉄道」の謎」 インフォペディア編 光文社智恵の森文庫 2010年 ★★
2章 全国に張り巡らされたウラ事情「路線」の謎
 西武安比奈線は廃線ではなく、四十年間「休止」中

「里川を歩く」 井出彰 風涛社 1998年 ★★
 入間川を歩く(3)――廃線の風景と蝉時雨
    (前略)
 この廃線を知ったのは、先週赤間川を歩いているときだった。頭上に盛り土をした変な道がある。通り過ぎて振り返ると、どうも鉄道跡らしい。地図にも載っていない。帰路、駅に寄って聞いてみた。それによると、これは安比奈(あいな)といい、1922(大正11)年貨物線として開業。入間川から西武新宿線の終着駅・本川越の一つ手前の南大塚駅まで、川で掬い上げた砂利を運搬していたのだそうだ。1964(昭和39)年に休線ということになっている。廃線ではなく34年間、休んでいることになる。そして今は西武線の車両置き場が不足しており、車両基地として2003年の完成予定でリニューアルするのだという。なあーんだ、もーすぐ工事もはじまるだろうから、あとニ、三年の風景となる。
 南大塚駅の北口昇降口の上から見下ろすと川越へ向かう線路から岐れて雑草に被われた二本のレールが伸びている。立入禁止の立て札と鉄線が張ってあるが構わず失礼する。しどけない姿で寛ろいでいる家の中を裏から覗き見しているようで気がひける。国道16号線を横ぎり、更に進む。家並が途切れ、田園風景が拡がりはじめる。その境目に赤間川が流れている。その上に架かっている10メートルほどの壊れかけた橋を少し緊張しながら渡る。
 かつて列車が走った跡には腰の高さほどの雑草が繁っているが、その中に混じって赤や黄の草花が懸命に咲いている。白紫の花をつけた藪蘭が意外なほど多いのに気づく。蝗虫(ばった)や蝗が突然の闖入者に驚いて翅を鳴らして飛び散ってゆく。歩いて三十分ほど、大袋新田に辿り着き田圃が終わる。森が待っている。もちろん、ここにも立入禁止の立て札。周囲を見廻しても誰もいないことを確かめてから中に入る。いきなり蝉時雨。耳を被いたくなるほどの雨音だ。たまには手入れをすることもあるのだろうが、木々の枝は伸び放題、垂れ下がった藤や野木瓜(あけび)の蔓や倒木が行く手を遮る。まるでジャングルのトンネルだ。
 入間川に近づくに従って木々は低木になる。野生に戻った桑や湿地に強い榛(はん)が目立ちはじめる。ようやく鶴ヶ島市に通じる道路に架かる八瀬大橋に辿り着く。この橋桁をくぐって100メートルほど進んだところでレール跡は消える。無人の川原と思っていたら一人、老人がいた。何をしているのか分からないが、ただ川を見ていた。この辺りの入間川は川幅は広い。300メートル、いや500メートルあるかもしれない。昔は、この一帯は綺麗な砂利の原だった、と教えてくれた。すべて採り尽くしてしまったんだよ、という。今はすべて土だ。その上は茫々たる葦、薄、低木の原だ。流れを見つけるのには一苦労する。この近くにバスは走っていないですか、と尋ねると、老人はしばらく黙っていて、やっぱり、あんたが今来た道を戻るしかなかろうと答えてくれた。   (97.9.13)

「鉄道廃線跡を歩く」 宮脇俊三編著 JTBキャンブックス 1995年 ★★
 ・鉄道廃景  丸田祥三 
西武鉄道安比奈線  【埼玉県川越市】
 西武新宿線の南大塚駅から入間川に向かって、赤錆びたレールが延びている。それは川砂利を運ぶために、1925年に敷設された3.2kmの貨物線。採石が禁止された1967年に休止となったが、廃止手続きはなされず、いまだ地図にも記されている。やがて車両基地にすると聞いたが、路線敷きは自動車道路に寸断されており、再開発の目処はついていないようである。四半世紀に渡り放置されてきたレールは、すでに武蔵野の樹林に埋もれている。
 ・全国廃線鉄道史 全データ ―私鉄・国鉄の廃線― 和久田康雄/石野哲編  
   4454 川越電気鉄道〜西武鉄道
  川越〜大宮 12.87:1906(M39)0416開業川越電気鉄道
  :1914(T03)1201合併武蔵水電
  :1922(T11)1101合併帝国電灯
  :1922(T11)1116譲渡西武鉄道
  川越〜大宮 -12.87:1941(S16)0225廃止官掲西武鉄道

 川越鉄道


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作成:川越原人  更新:2020/11/24