玉川上水・野火止用水


<目 次>
水百科歴史ものしり百科大江戸庶民事情日本の歴史16井戸と水道の話ふるさとのなぞ埼玉県の不思議事典歴史年表事典図説埼玉県の歴史みて学ぶ埼玉の歴史歴史と人と江戸人物談義日本語をみがく小辞典<形容詞・副詞篇>

 トップページ  サイトマップ  → 舟運  川と沼
「健康に暮らすための 水百科」 河野友美 中公文庫 1989年 ★
日本は水が豊富で、どこを掘っても飲み水が得られ、水は人々にとって空気に近い存在であった。
しかし工業化と砂漠化がさらに進み、水は大気とともに地球単位で考えなければならなくなった。
人間の生命そのものである水をあらゆる角度から捉え、考える。

 江戸の上水道―玉川上水
 神田上水と並ぶ上水道、玉川上水は、多摩川の水をひいたもので、羽村(現・東京都西多摩郡羽村町)で水をとっていた。羽村から四谷大木戸(現・新宿区)を通って江戸城、江戸市中へと至る。しかし、水は市中ではかなり汚れていたらしい。
 玉川上水が開かれたのは承応二〜三年(1653〜54)にかけてで、玉川庄右衛門、清右衛門の二名が行ったとされている。しかし、この両名は失敗し、川越藩主松平信綱の家臣、安松金右衛門が完成させたという説もある。
 玉川上水は明治三十四年(1901)に廃止されたが、その水路は昭和二十年(1945)まで使われていた。最近、上水の史蹟としての価値が見直されてきており、水を通して一部保全がすすめられている。
 江戸の用水―野火止用水
 玉川上水を分水したものの一つに野火止用水がある。これは、川越藩主松平信綱が、明暦元年(1655)に、家臣の安松金右衛門に開かせたもの。武蔵国新座郡野火止村(現・埼玉県新座市)周辺の、武蔵野の新田開発のためや生活用水として引水された。
 初めは全長二四キロメートルで、引又(現・埼玉県志木市)を通って新河岸川へ流していたが、寛文二年(1662)からは懸樋で川を渡して、宗岡村(現・志木市)などのかんがい用水にも用いられた。現在の西武池袋線沿いに残っており、昭和三十年代から汚染していたが、地域住民によって清流をとり戻す運動が進められ、今は一部に通水され、保全されている。

「歴史ものしり百科エピソードで綴る日本史 前田博/出版トラクト/玄黄社 三公社 1983年 ★
 ・江戸の水不足を解消した玉川上水の大工事
 江戸で使う水は、最初、自然のわき水と、井之頭池に源を発する神田上水に頼っていました。井之頭池は現在の井之頭公園(東京都三鷹市)内にあります。
 しかし、寛永20(1644)年ごろから、武家奉公や町人が急激にふえ、そのため、飲み水にもこと欠くようになりました。これは、大名の江戸屋敷がふえた結果です。
 幕府は承応2(1653)年、江戸の町人庄右衛門、清右衛門兄弟の建議を入れ、資金7500両を出し、玉川上水の工事を請け負わせました。上水とは飲料用の水道をいいます。
 玉川上水は、全長43キロ、水の取り入れ口である西多摩郡羽村から新宿の四谷大木戸まで高低差10メートル(?1)です。工事は五月にはじめられ、翌年の六月に完成しています。
 とちゅう、府中と福生(ふっさ)で失敗しましたが、松平信綱川越城主)の家臣である安松金右衛門の援助により、三回目に成功しています。
 堰(せき)を切る瞬間、今でいえばテープカットは、期待と不安が入りまじったでしょう。しかし、工事担当者たちの心配は杞憂(きゆう)でした。水は43キロ先の大木戸まで、一日で流れついたからです。玉川上水より短い野火止(のびどめ)上水が、下流まで流れるのに三年(?2)かかっていることにくらべると、この記録がいかに驚異的かわかります。
 この秘密は、三和土(たたき)という土にありました。これは、漆喰(しっくい)のように凝固するため、コンクリートと同じような役割を果たしたわけです。
 これに対し、野火止上水は、三和土を使わなかったため、水をよく吸いとる関東ローム層に水を流す結果になり、上水のとちゅうで水がなくなってしまったわけです。
 なお、玉川上水は、太宰治の入水心中事件などでも知られています。

「雑学 大江戸庶民事情」 石川英輔 講談社文庫 1998年
千両が一日で消えた芝居町、五千人もの遊女が咲き誇る吉原遊廓。大工は四時間半働くだけで一日の手間賃を稼ぎ、魚屋は朝夕二度の仕入れで商いに励む。毎日を楽しみながら生きる庶民の知恵と江戸の町の暮らしぶりをイキイキとよみがえらせる「雑学」の本。大人気の大江戸シリーズ最新作。文庫オリジナル。
 承応二年正月、幕府は、工事を願い出ていた兄弟の町人、庄右衛門、清右衛門に請け負わせることにして金7,500両を支払い、四月四日に着工した。兄弟は、実地に測量した図面や説明書を評定所に提出し、充分に成算のあることを説明したというから、土木工事の専門家だったのだろう。
 玉川上水の工事は予想外の費用がかかり、高井戸あたりまで掘ったところで幕府からの資金が尽きてしまった。
 兄弟は私財を売り払って、1,000両とも2,000両ともいう大金を作り、十一月十五日には、上水取入口のある羽村から四谷大木戸(新宿区新宿一丁目)までの10里31町46間(42,738.2メートル)に水路が開通した。羽村と四谷の高低差は92メートルもあり、設計施工とも優れていたため、水は順調に流れた。
 大木戸までは地上を流れ、ここから地下水路になって、神田上水と同じ方法で、山の手から下町の南半分の京橋方面の給水が行われた。
 これほどの大工事をわずか七ヵ月そこそこでなし遂げた技術にはただ驚くほかないが、現在残っている玉川上水工事についての記録は、すべて後世にできたものなので、資料によって食いちがいが多い。兄弟の出生地でさえ、江戸の市内と多摩川沿いの農家という二つの説があるし、兄弟の測量は二度にわたって失敗し、松平信綱の家臣安松金右衛門の設計によって成功したという説もある。客観的でくわしい公式記録がないため、今のところいずれとも断定できないようだ。
 (略)
 幕府は、庄右衛門、清右衛門兄弟には玉川の苗字と帯刀を許し、それぞれ三百石の禄を与えた。これは、いわば庶民が貴族の地位を与えられたようなもので、当時として最高の名誉だった。いろいろと紆余曲折があったにせよ、多摩川から水を引く計画の立案者で、私費を注ぎ込んでまで工事を完成させた兄弟の功績に疑う余地はなく、幕府は高く評価したのだろう。

「日本の歴史16 元禄時代」 児玉幸多 中公文庫 1974年 ★
  水道の産湯
 玉川上水の開発者は、庄右衛門・清右衛門という兄弟だといわれ、かれらはその功によって上水請負人に任ぜられ、玉川の姓を賜った。明治四十四年(1911)には両人に従五位が贈られ、玉川上水を玉川兄弟が開削したということは、ほとんど定説となっているが、この説の根拠は、幕府の普請奉行であった石野遠江守広道が寛政三年(1791)に書いた『上水記』によるものである。この書では、庄右衛門と清右衛門の三代目たちが正徳五年(1715)に書き上げたことが拠りどころとされている。その書上によると、幕府で与えた金は六千両であって、羽村から高井戸へんまで掘ってきたときになくなってしまった。そこで兄弟は屋敷を売るなどして三千両を工面して工事を完成させたという。幕府から与えた金額については、七千五百両であったという説もある。
 ところが『上水記』より少しのち、享和三年(1803)にできた『玉川上水起元』という本がある。それは当時の普請奉行佐橋長門守が調べて老中の松平伊豆守信明に提出したものであって、信明は信綱の子孫にあたる。これによると、庄右衛門兄弟の工事は失敗に終って、そのあと、信綱の家臣であった安松金右衛門が成功したものだという。安松は、玉川上水から川越領にひいた野火留用水の開削者として知られている人である。
 この書は昭和九年(1934)に世に知られ、三田村鳶魚氏は『安松金右衛門』という書物などを著わして、かれが玉川上水の建設者であることを力説したが、いったん定説になったものをくつがえすことは容易ではない。しかし『玉川上水起元』の作成過程を考えると、安松説もかなり有力だと思われる。ただその説を書いた本が、安松の仕えた松平伊豆守の家に伝えられただけで、そのことが他のものにまったく記されていない点に若干の疑念が残るのである。

「井戸と水道の話」 堀越正雄 論創社 1981年
第一部 堀井戸のはなし
 T 古代・中世の井/井戸を掘る苦心
第二部 江戸時代の水道
 Z 江戸の水道/玉川上水の開設

「ふるさとのなぞ(1)関東/東北/北海道編 毎日新聞社 1976年 ★
 なぞの測量技術―玉川上水

「埼玉県の不思議事典」 金井塚良一・大村進編 新人物往来社 2001年 ★★
玉川上水、野火止用水は、誰が工事した?
 玉川兄弟が完成したという玉川上水だが、思わぬ難局に直面したとき、一人の人物が起用される。
 その人を安松金右衛門吉実(よしざね)という。慶長6年(1601)播磨国(兵庫県)に生まれ、正保元年(1644)、幕府代官能勢(のせ)四郎右衛門の斡旋で、松平信綱(1596〜1662)に仕えた。能勢に学んだらしい土木技術を生かし、仕官後間もなく、新河岸川に舟運を開く、改修工事にあたったのが、初仕事のようだ。彼は地味ながら、仕事を着実にこなしていくタイプではなかったのか。上水の再設計を命じられると、さっそく精細な測量を行い、兄弟を助けたというのが、諸説あるなかでの真相なのだろう。兄弟の名声に隠れての通水成功は承応3年(1654)。以後しばらくは、影のように主君を支えながら、しだいに頭角を現していく。
 信綱はその実績をかい、時をおかず、承応4年、野火止用水開削を命ずる。金右衛門は、つぶさに武蔵野の原野を踏査、小平市小川で分水し、志木市の新河岸川に落とすことを決める。2月10日工事を開始、3月20日ごろ完成している。深さ、幅とも約1メートル、長さ16キロにわたる用水は、承応2年から開拓に着手し、水源をもたなかった、新座市・野火止新田に、飲料用として給水するものだった。信綱が幕府に働きかけ、玉川上水から分水する許可を得たので、「伊豆殿堀」ともよばれる。
 蔵米100俵から始まり、万治元年(1658)、200石となったのをみても、功績の大きさがわかる。寛文2年(1662)郡代となり、単独で拝謁できる「独礼」の格式を与えられている。貞享3年(1686)12月27日、病没、東京都新宿区大宗寺に葬られた。
 そして、昭和10年(1935)、信綱夫妻の墓所のある新座市平林寺に移された。信綱につき従うかのように……。実に死後、249年ぶりの邂逅(かいこう)だった。
(昼間 孝次)

「大江戸・小江戸(川越)対比 歴史年表事典」 小泉功・青木一好 ルック 1999年 ★★★
  野火止用水
 時の川越藩主松平信綱が、領地を開拓するために家臣安松金右衛門に開削させた。現在の小平監視所の所で玉川上水から取水し、 東大和、東村山、東久留米市を経て、もと川越藩の埼玉県に入る。新座市内で本支流に分岐し、本流は志木市内で柳瀬川に注ぎ、支流は松平家の菩提寺である平林寺を抜け志木市で新河岸川に。全長約24kmをわずか40日で完成させた。野火止用水によって川越藩の農産物の生産高は急増した。 <増補玉川上水/アサヒタウンズ編>

「図説埼玉県の歴史」 小野文雄/責任編集 河出書房新社 1992年 ★★
江戸の穀倉
 ●野火止用水と三富新田
 中世期まで茫々たる原野の広がっていた武蔵野台地も、江戸時代になると大規模な開発の斧が入ることになる。その一つが、野火止新田の造成である。
 承応二年(1653)正月、幕府は江戸の飲料水を確保するため、「玉川上水」の開削に着手した。工事の惣奉行は、川越藩主で老中である松平信綱であったが、信綱はこの年、新座郡野火止(現、新座市)に新田をとりたてている。川越の商人榎本弥左衛門は、このときのようすを「武蔵野火留新田、同巳之(承応二年)春中より同八月中迄五十四間(軒)家出来申候、家壱間に金弐両・米壱表(俵)宛御かし被成候と承候、但伊豆守様より」と記している(『万之覚』)。
 信綱は、「玉川上水」開削とともに水不足が予想される新田村に水を引くことを計画していたとみえ、「玉川上水」竣工の翌年の承応四年に、「玉川上水」から分流して「野火止用水路」を開削している。この開削には家臣の安松金右衛門があたるが、多摩郡小川村(現、東京都小平市)から分流させ、四里の長さの用水路を、四〇日間で完成させたという。
 野火止新田は、野火止宿・菅沢村・西堀村・北野村の四カ村を中心に、周辺の一六カ村の出作地(でづくりち)を含めて五〇〇町歩ほどであるが、用水路は後に新河岸川を懸樋(かけひ)で渡し、入間郡宗岡村(現、志木市)まで延長され、長さも五里半余になっている。
   (後略)

「みて学ぶ埼玉の歴史」 『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編 山川出版社 2002年 ★★
近世/平野の開発と村・町の成立
  ・武蔵野台地の「命の水」
 武蔵野台地は赤土(あかつち)と呼ばれる関東ローム層で、水の便の悪いところであった。近世初期から開発は始められたが、本格的な開発は松平信綱の時代からである。現在の川越市南部から狭山市、野火止(新座市)にも新田が開かれた。
 信綱は、江戸の飲料水を確保するため、1653(承応2)年正月に多摩川から江戸へ開削された玉川上水の惣奉行であった。彼は玉川上水開削とともに、水不足が予想される野火止新田に水を引くことを計画していたとみえ、上水竣工直後に、玉川上水から分流して野火止用水路を開削している。この工事には家臣の安松金右衛門があたり、多摩郡小川村(東京都小平市)から取水し、40日間で完成させたという。この結果、玉川上水の七割は江戸へ、三割は野火止用水に流れるようになった。しかし、玉川上水優先のため、渇水時には流水量の制限を受けて苦しむこともあった。
 野火止用水は、玉川上水からの最古最大の分水で、幕領以外に引かれた唯一の分水である。堀の長さ4里(16km)、水底の堀幅3尺(91cm)で、分水口から野火止までの高低差が30間(約54m)であった。低地では土手を築いて、その上に水路を通す方法や、用水が道路に遮断される部分には、地中にトンネルを掘って水を通す「伏せ越し」という手法が採用された。この用水は、分水地から野火止新田に入るまでほとんど使用されず、新座郡に入ると分水を繰り返して、農民の飲料水や生活用水として利用され、新河岸川へと流れていた。用水は台地に住む人にとっては「命の水」として大切にされ、人々は「伊豆殿堀」(いずどのぼり)と呼んで、松平伊豆守信綱の功績をたたえた。水がいかに大切なものであったかは、「カヤ湯」といって、刈り取ったカヤの上に寝ころがったり、手足をこすりつけたりして、風呂のかわりにしたとする伝承が今でもあることからうかがうことができる。野火止用水は、後に懸樋(かけひ)で新河岸川を渡して宗岡村(志木市)まで延長され、水田の灌漑用水などに使用されたほか、宝暦年間(1751〜64)以降には、各地で水車が設置されるようになり、脱穀・製粉に利用された。また、1944(昭和19)年に埼玉県指定史跡となった。
 参考文献 『新座市史 通史編』 1987

「歴史と人と 埼玉万華鏡 柳田敏司 さきたま出版会 1994年 ★★
 第2章 武蔵探照/農民の生命線・野火止用水
  はじめに
 天正十八年(1590)八月朔日、徳川家康は関八州の領主として江戸城に入府した。そして慶長五年(1600)天下分け目の合戦といわれる「関ヶ原の役」で勝利を治め、三年後の慶長八年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いた。以後江戸は政治、文化、経済の中心地として発展する。江戸幕府の諸制度が整備され、組織が確立したのは三代将軍家光のときである。「武家諸法度」を改め、老中、若年寄、大目付、奉行、代官等の職務を定めたり、大名の参勤交替制を明文化し、街道、宿駅、舟橋など交通関係の整備、大型船の建造禁止、キリスト教の禁止、鎖国、「慶安の御触書」による農民統制等、幕府の支配体制は名実ともに確立された。このように強固な幕藩体制を確立した頃、老中としてその才能を発揮したのが松平信綱である。
 江戸は将軍の居住する城下町であり、江戸城警護のための旗本屋敷が置かれ、また諸国の大名の屋敷が諸所に建ち、寺社も多かった。他に商工業者が日常生活用品の供給のために街並みを形作って住んでおり、寛永の頃には江戸の人口は六〇万人程になっていたと推定されている。
 江戸は地形的には武蔵野台地の一端を占めるローム層の高台と、その台地を取り囲む湿地帯からできており、城下町は台地と、湿地を埋めてできた下町からできていた。台地ではよほど深く掘らないと水も出なかったし、低地では水質が悪く、飲み水には不適当であった。ただ台地の裾や谷間にはきれいな湧水がこんこんと湧き出して、住民の飲料水となっていたにすぎなかった。したがって江戸の人口が増加するとともに、飲み水も従来の湧水と井の頭池から流れ出る水を利用した神田上水では不足し、生活上の大きな問題となったわけである。幕府では水不足解消の手段として多摩川の水を江戸に引き入れて飲料水とすることにした。その総指揮にあたったのが老中松平信綱であった。
 信綱は関東郡代であった伊奈半十郎忠治を水道奉行として監督にあたらせ、多摩川の沿岸にあって水流に精通していた羽村の名主庄右衛門、清右衛門の兄弟に玉川上水道工事の見積もりをさせた。工事費六、〇〇〇両をもって着工したのは承応二年(1653)四月のことである。四月四日に掘り始め、十一月十五日には四谷の大木戸まで掘り進んだ。そして翌年四月に竣工している。
 この玉川上水の建設については、玉川兄弟説、安松金右衛門説等の説があるが、いずれにしても、取水地点を当初は日野の渡し付近に設定したが水が流れ落ちず、二度目は福生村地先から水を引き入れようとした。これも水が土中にしみこんでしまい、掘り割りまで水が流れず失敗している。三度目に信綱の家臣で数理に長じていた安松金右衛門に設計させ、羽村より取水口を設けて成功したといわれている。玉川上水の完成により江戸市民の飲料水不足は解決し、羽村の庄右衛門兄弟はその功により、玉川姓を贈られるとともに、名字帯刀を許され、三〇〇両の賞金と、上水役を命ぜられた。
 一方総奉行の責を果たした信綱は武蔵野開発ということを理由に玉川上水の三分の分水権を得、明暦元年(1655)三月には野火止用水路を完成させ、自領に水を引き入れることに成功したのである。
  信綱と野火止用水
 信綱は慶長元年(1596)大河内金兵衛久綱の長男として生まれた。慶長九年七月、家光(幼名竹千代)が生まれると召されてその小姓となり、家光が三代将軍となると、「伊豆守」となり、寛永四年(1627)には一万石の大名に取りたてられるに至った。同十一年には三万石に加増され、忍城主となり、さらに十三年には江戸幕府の老中となった。十四年に起こったキリスト教徒による島原の乱を平定し、十六年には六万石となり、川越城主に配されている。それから七年後の正保三年(1646)、実父の大河内金兵衛久綱が七七歳で死去し、岩槻在の菩提寺平林寺に遺骸を葬った。このとき菩提寺である平林寺を自領内に移転しようと決意したのであろう。翌四年七月幕府より一万五千石の加増があったとき、大和田、野火止、北野、西堀の地域を自分から願い出て受領したのである。この地域は武蔵野台地の山林地帯で農作物には不適であった。しかし川越から江戸へ行く街道筋にあり、また江戸から四里の近距離にあり、静寂な環境に着目していた。菩提寺を移転する候補地としてまたとない地の利をしめていたのである。
 承応二年玉川上水工事に着手すると同時に、信綱は野火止、西堀等に農家五五戸を開拓農民として移住させている。開拓資金として金二両、米一俵を貸し与えたといわれる。
 移住した農民が生活用水に困ることは承知の上で新田開発の名目で送りこんでいた。農民は草を刈って陰干しにし、それで体をこすり風呂の代わりとした。「芝湯」とか「茅湯」といわれるものである。
 玉川上水が完成すると、直ちにその功賞として玉川からの分水権を得、武蔵野広野の開発、開拓農民の飲み水の確保ということで野火止用水路の掘さく工事にかかったわけであるが、信綱のかねてからの計画的行為ということができる。野火止用水路完成後、岩槻在の平林寺を野火止に移すことを念願にしながら、老中としての職務に追われてこれを実現することができず、寛文二年(1662)三月十六日、病死した。遺命により子の輝綱が平林寺を野火止の地に移し、西堀の地五〇石を寺領として寄進したのは、翌年のことである。このときはすでに野火止用水は清流がこんこんと流れ、住民の飲料水として利用され、また農業用水としても立派に役目を果たしていた。
  安松金右衛門
 野火止用水路建設工事については諸説があるが、共通していることは信綱の家臣安松金右衛門の指揮監督により工事が行われたこと、費用は三、〇〇〇両を要したことであり、工期、流水についてはいくつかの説に分かれている。次にその説を述べるが、その前に工事の監督にあたった金右衛門について紹介する。
 安松金右衛門は吉実といい、本国は河内国(現・大阪府)であり、生まれは播磨国(現・兵庫県)である。姓は本来神吉氏といわれている。神吉氏は永禄年間に信長のため攻め滅ぼされた。その一族であった金右衛門は東国に流れ来、信綱に仕えるようになった。算術の達人で、数理に長じていた。玉川上水建設にあたっては率先して工事に参加してこれを完成させ、引き続き野火止用水の工事にあたったわけである。この間に元締から代官になっている。貞享三年(1686)十月二十七日病を得て死去し、新宿の大宗寺に葬られた。墓石はかつて大宗寺にあったのであるが、昭和十年十一月、安松金右衛門の研究者三田村鳶魚氏等の努力により、野火止用水組合、平林寺大河内家と協議して、主君信綱の墓所の近くに墓石を移した。当時は野火止用水の分流が境内を廻って流れる、金右衛門にとってはゆかりのある環境にあった。
  野火止用水の開さく
 野火止用水開さくにまつわる信綱と金右衛門の説話はいくつもあることからも、難工事であったことが推定できる。分水口の小川から武蔵野の山林地帯を延々と掘り割り、引又町(現・志木市)の新河岸川に至る六里余(約二五`b)にわたる地形は一様ではなかった。何回も歩いて地形の高低、地質を調べあげ、図面を引いて実際に工事にとりかかるまでの準備はなみ大抵ではなかった。高低測量に夜、高張提灯を利用して調べたことは戦前の教科書にも記されていたとおりである。幕府に仕えた新井白石の書いた「紳書」によると
 「三千両の費用を投じて多摩川の水を引くため一六里程掘り割りを掘ったが、水は流れてこなかった。二年目にも水は流れず、工事監督に当たった安松金右衛門に尋ねたところ、武蔵野はほこり多く、河越城下の家では普段は畳の上に渋紙を敷き、客がくればそれを巻いて招き入れている。これは土地が乾いて、風のため、ちりやほこりが積もるためである。ところが今年は城下のちりほこりはたたず、武蔵野に作った畑作物はよくできた。これは多摩川の水が堀に入り、広野に散ってしまうためである。広野が満ちた後には必ず、水が流れるであろうと答えた。三年目になっても水はこなかった。信綱は金右衛門の測量が間違っていたのであろうと詰問したが、驚くことはなかった。やがてその年の秋、大雨が降った後、雷の鳴るように高い水音をたてて満々たる水が流れてきた。六〜七寸もある鮎も多数泳いで姿をみせた。このようにして田地もひらけ、野火止の地は二〇〇石から二、〇〇〇石の地となった。金右衛門は三五〇石に加増された」
 と記している。もちろんこれは後世に書いたものであるので真実とは思えぬが、安松の人となりを賞揚している記事といえる。これと同じようなことが『新編武蔵風土記稿』にも記載されている。この両者を出典として戦前の小学校の教科書に「野火止用水」という一文がのせられた。
 しかし実際はもっと早く水は流れたようである。川越に住んでいた豪商榎本彌左衛門の記した「萬之覚」によると、「野火止用水の掘りはじめは承応四年(注2)(1655)二月十日であり、三月二十日には水が初めて流れて来たとある。堀の長さ四里程、堀の口は深みにより一定していないが、堀の数は三尺」とあり、工期はわずか四〇日間ということになる。周辺の農民は水に困っており、俺たちの飲み水が来るんだと喜び勇んで、人夫として動員され、汗水たらして働いたとしても、小川村の取水口から新河岸川間の六里余(約二五`)を四〇日間という短い期間で完成させたというのには、驚かされる。途中原野あり、高低あり、山林ありの地形。堀底敷三尺、上幅約二間の用水路(注3)は相当の工事量である。一日約六〇〇bずつ掘り進んだことになり、かりに一〇〇人動員したとして一人六b、一人で動かした土量は三〇立方bとなる。二〇〇人動員して一五立方bである。モッコ、スキ、クワの類で立木を伐り、木の根を抜きながら、堀の形を整え、底の高低を測り掘り進めたことを思うと、まさに驚異というほかない。
 いずれにしても野火止用水路完成後は、この用水の恩恵を受けて住民は飲料水には困らず、農作物はよくでき、新田新畑も開け、富裕の地となったことは事実である。
 本流の他に朝霞方面、西堀の北部へ流れる支流を掘り、さらに八年後の寛文三年には信綱の念願としていた平林寺が野火止に移転され、ここに支流を掘って水を引き入れ境内を還流させて林泉を造り、さらには新河岸川に「いろは樋」(注4)をかけて宗岡村の水田用水として利用する等の工事が行われた。
 以後この用水は住民の飲料水として大事にされ、管理されてきた。伊豆殿堀と称し、年に一回ずつは共同で堀をきれいにし、生活水として今日まで三百年近くも利用し続けたのである。
 注(1)榎本弥左衛門「萬之覚」による。
 注(2)承応四年=明暦元年である。
 注(3)用水の敷地は堀敷二間、土揚敷両側一間ずつ、計四間(約七・二b)である。
 注(4)新河岸川を渡すのに四八の木樋をつないだので、「いろは四八文字」からいろは樋と呼ばれた。

「江戸人物談義 鳶魚江戸文庫20 三田村鳶魚著/朝倉治彦編 中公文庫 1998年 ★
側用人として評判の悪い柳沢の再評価を試みた「正直な柳沢吉保」、大石や堀部の娘たちの真偽を考証した「赤穂義士の娘」、賄賂政治家田沼意次を家臣を通して描いた「田沼主殿頭の身辺」など、博捜した史料から江戸の話題の人物たちの歴史像を鳶魚の独自の目で見直す。「玉川上水の建設者安松金右衛門」も収載。
玉川上水の建設者安松金右衛門
小 引
その一 『紳書』誤謬
その二 野火止用水路
その三 玉川上水の水盛り
その四 玉川兄弟の失敗
その五 畑ばかりの新農村
その六 武蔵野開墾の規模
その七 引又の伊呂波樋
その八 川越運河
その九 悲しい水喰土
その十 金右衛門の経歴
その十一 宗岡の古図
その十二 玉川上水の記事
その十三 江戸ッ子の自慢

「日本語をみがく小辞典<形容詞・副詞篇>」 森田良行 講談社現代新書969 1989年 ★
 数量―――――豊饒への切なる願い
 埼玉県新座市に野火止用水というのがある。これはその昔、川越城主松平伊豆守信綱が、代官安松金右衛門吉実に命じて多摩川の水を引かせた水路だが、初めは堀割を造ってもすぐには水が流れて来なかったらしい。信綱は再三吉実を呼んでことの子細をただしたが、いっこうにらちがあかない。そうこうして三年という月日が過ぎてしまったのだが、次に引用するのは、その後に続くくだりである。これは江戸時代の『遺老物語』という本の中にある文章である。
三年といふ秋、大雨のありける後、雷の鳴る如く、水音おびただしくとどろきて、水此の溝にあふれみち、平地をも水行くばかりにて、六七寸ばかりある鮎の流れ来ることおびただしく、ただ一時に十六里がほどに流れわたり、新河岸の川に流れ入りけり。
 水音の響きが「おびただしい」うえに、鮎の流れ来る数も「おびただしい」という。どちらにしても状況の甚だしさが「おびただしい」だ。「おびただしい数」と「数」の修飾語になり得るところを見ると、これは数そのものの多さよりは程度の甚だしさをいうのであって、古くは「おびたたし」と清音で発音した。
     (後略)

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 伊奈忠治(いな ただはる)
1592〜1653(文禄1〜承応2)江戸前期の幕府民政家。
(系)伊奈忠次の次男。(名)通称半十郎。
兄忠政の職をついで代官頭となり、勘定方も兼任、武蔵国赤山領において7千石余の知行地を与えられる。1642(寛永19)勘定方を免ぜられ、諸代官の監督、治水・灌漑、駿河・遠江・三河の租税の専掌を命ぜられた。’43布衣に昇進、’45(正保2)関東における山論の解決にあたる。この間、父忠次・兄忠政の遺業をついで、常陸国谷原の新田3万石を完成し、牛久沼二千間堤を築堤、さらに富士川の治水などにも多大の功績を残した。
(墓)埼玉県鴻巣の勝願寺。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 玉川庄右衛門(たまがわ しょうえもん)
1622〜95(元和8〜元禄8)江戸前期、玉川上水の開削者。
(名)知英との説あり、通称彦右衛門ともいう。
1652(承応1)幕府は多摩川の水を導いて江戸の飲料に供するの議を入れ、これを町奉行神尾元勝に命じた。このため牧野織部・八木勘十郎・伊奈半左衛門に検分を命じ、芝口町人庄右衛門に6千両を下付して工事を担当せしめた。翌年4月庄右衛門は清右衛門(弟という)とともに開削に着手し、'54年11月羽村より四谷大木戸までの通水に成功し、その後4流に分ち市内を疏通せしめた。この功により各200石の地を給され、姓を玉川と称し帯刀を許された。以後両家は玉川上水請負人を世襲し、水銀徴収にあたったが、1739(元文4)水配分に不正があるとして罷免させられた。庄右衛門の前身は西多摩辺の農民であろうとの説があるが、詳細は不明である。戒名は隆宗院殿正誉了覚居士。(墓)東京浅草の聖徳寺。
(参)「東京市史稿―水道篇・上水篇」1919。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 安松金右衛門(やすまつ きんえもん)
?〜1686(?〜貞享3)江戸前期の治水家。
(系)安松九左衛門の子。 (生)播磨。 (名)吉実、金右衛門は通称。
1644(正保1)代官能勢四郎右衛門の肝煎で、川越藩主松平信綱に仕官、のち代官となる。'53(承応2)江戸の飲料水不足解消のため、松平信綱を総奉行として設計者玉川庄右衛門・清右衛門が掘抜きにかかったが失敗した玉川上水のあとを受け、同年羽村・四谷大木戸間を完成させたという。'55(明暦1)玉川上水より、多摩郡小川村から新座村まで新河岸川におとす野火止用水を分水させた。これにより野火止200石の地は2千石を産するようになった。松平信綱から家禄250石に加増された。
(参)三田村鳶魚玉川上水建設者安松金右衛門」1942。

 野火止用水


 ▲目次  サイトマップ  トップページ  → 舟運  川と沼


作成:川越原人  更新:2010/8/9