川越の人物誌(3)


<目 次>
川越城主1上杉持朝上杉定正上杉朝良上杉朝興 戦国史疑上杉朝定北条氏綱城が見た合戦史) /北条氏康北条氏政
川越城主2徳川幕閣酒井忠勝(徳川家臣団消された日本史堀田正盛江戸の二十四時間日本史泣かせるいい話秋元喬知日本史泣かせるいい話江戸のリストラ仕掛人歴史読本408秋元凉朝

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川越城主1
<上杉・北条氏時代>
 ・上杉持朝
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 上杉持朝(うえすぎ もちとも)
1416〜67(応永23〜応仁1)室町前期の武将。
(系)上杉(扇谷)氏定の子、兄持定の養嗣子。 (名)竹寿丸、三郎、弾正少弼・修理大夫。
永享の乱、結城合戦、1454(享徳3)以後の東国の内乱などにおいて、山内上杉氏に従って活躍。'57(長禄1)武蔵国河越に築城して拠点とした。戒名は広感院道朝。

 ・上杉政真(うえすぎ まさざね)
 文明5年11月武蔵五十子で戦死する。24歳。

 ・上杉定正
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 上杉定正(うえすぎ さだまさ)
1443〜94(嘉吉3〜明応3)室町後期の武将。
(系)上杉(扇谷)持朝の子。 (名)定政ともいう。修理大夫。
兄顕房とその子政真が早世し家を継ぐ。15世紀中葉の古河公方足利成氏と関東管領山内上杉氏との抗争において、上杉方として武蔵国五十子陣にあって活躍、また長尾景春の叛乱に対処した。定正の活躍は家宰太田道灌の力に負うところ大であったが、1486(文明18)定正は上杉(山内)顕定の中傷により道灌の強大化を恐れて謀殺。それをきっかけとして顕定と、相模国実巻原・須賀谷原、武蔵国高見原などで合戦を重ねた。'94(明応3)高見原の陣中で51歳でにわかに病没した。戒名は護国院大通範了。
(著)「上杉定正書状」

 ・上杉朝良
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 上杉朝良(うえすぎ ともよし)
?〜1518(?〜永正15)室町後期の武将。
(系)上杉朝昌の子、上杉(扇谷)定正の養嗣子。 (名)幼名五郎、治部少輔、法名建芳。
1494(明応3)上杉(山内)顕定との戦いで定正が戦死後、朝良は武蔵国河越に帰り、今川氏親と結んで顕定に対抗。武蔵国立河原等に敗戦し、やがて河越城主、江戸城主となり、隠居した。朝良は、武事を忘れて文弱に流れたらしく、'89(延徳1)父の「上杉定正書状」で誡められている。

 ・上杉朝興
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 上杉朝興(うえすぎ ともおき)
1488〜1537(長享2〜天文6)戦国時代の武将。
(系)上杉朝憲の子、上杉(扇谷)朝良の養嗣子。 (名)五郎、修理大夫。
武蔵国江戸・河越城主を継ぐ。後北条氏の相武進出阻止に努力。1512〜16(永正9〜13)三浦義同を救援し北条早雲と戦い、敗れて、'24(大永4)北条氏綱に江戸城を奪取され河越城に退く。'30(享禄3)氏綱・氏康と多摩川に戦い敗退した。

「戦国史疑」 桑田忠親 講談社文庫 1984年 ★
歴史は時によって、その視野に意外な死角をもたらす。この視野狭窄は、動乱の時代であればあるほど、多様な疑惑や謎の深淵を残すことになる。戦国時代!その一見確からしき史実の裏に何が隠されているか。不明のまま置きざりにされた戦国史の闇に、著者は鋭い光を当てる。(カバーのコピー)
  武田家興亡三代/関東管領上杉朝興を援ける

 そのころ、弱体化した関東管領の上杉氏は山内上杉と扇谷上杉との両家に分裂していたが、武蔵国の河越城に拠る扇谷上杉朝興も、相模の北条氏綱早雲庵宗瑞の子)に圧迫され、没落への一歩をたどっていた。
 享禄三年(1530)の正月のことだ。上杉朝興は北条氏綱を討つために、河越城を出馬して武蔵の府中に向かい、援けを甲斐の武田信虎に求めた。
 信虎は、これに応じ、武将小山田越中守に命じて赴援させた。越中守は、猿橋に陣し、津久井郡の方向から府中に進撃を開始した。
 北条氏綱は、甲州勢の進路を押さえ、四月になって、これを箭壺坂に破った。と同時に、氏綱の子氏康も、上杉朝興と府中において合戦し、これを敗走させた。
 上杉朝興が頼りとするのは、武田信虎ひとりだった。そこで、山内上杉憲房の後室をうばい取って、信虎の側室に入れ、歓心を求めたりしている。
 信虎が、扇谷上杉朝興と連盟を結んだため、享禄四年(1531)には、甲斐国に内乱が起こった。武田の老臣飫富兵部・栗原兵庫が、甲府を去り、御岳山中に篭り、信虎に叛旗を翻した。しかも、今井信元を誘い、また信濃の諏訪頼満に援けをもとめ、甲府の襲撃を企てたのである。
 信虎は、その年の四月、諏訪頼満らの連合軍と、甲斐の塩河原に戦い、これを破った。そのとき、栗原兵庫は敗死し、今井信元は、その翌年、降服している。
 天文二年(1533)信虎は、嫡男の太郎(勝千代)に、上杉朝興の娘をめとらせた。その娘は、太郎よりも一つ年上で、十四歳の少女だった。十三歳の少年に妻は不要であろうが、父親の政略のためゆえ、仕方がなかった。しかし、この若妻は、その翌年、身ごもったため、病死したというから、この時代の男女の早熟には驚くほかない。一説によると、この若妻の死は、信虎と太郎(信玄)との間を、さらに冷たいものにしたというが、この政略結婚は、元来、上杉朝興の策略から出たもので、武田信虎にとっては、マイナスだった。
 上杉朝興は、それから四年ほどたって、河越で病死したが、小田原北条氏と戦うこと十四度にわたり、戦うごとに敗れたことを深く恥とし、我が亡きあとは、小田原を征伐することをもって仏前の供養とせよ――と、世嗣の朝定に遺言して死んでいる。しかし、朝定も、程なく、北条がたに謀られて、滅んでしまった。

 ・上杉朝定
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 上杉朝定(うえすぎ ともさだ)
1525〜46(大永5〜天文15)戦国時代の武将。
(系)上杉(扇谷)朝興の子。 (名)五郎。
1537(天文6)北条氏綱の武蔵進攻をよく防いだ父の武蔵国河越城主朝興の没後、朝定が継ぐと氏綱は河越城を攻め落とした。'45朝定は、古河公方足利晴氏、関東管領上杉(山内)憲政の援けを得て、北条氏康の篭る河越城を包囲、翌年落城寸前に追いつめたが、降参を装っての夜襲という奇策<河越の夜討>に破れ、混乱中に戦死した。

 ・北条氏綱
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 北条氏綱(ほうじょう うじつな)
1486〜1541(文明18〜天文10)室町後期・戦国時代の武将。
(系)伊勢新九郎長氏(北条早雲)の子。 (名)幼名千代丸、通称新九郎。
父早雲の遺志を継ぎ、山内・扇谷上杉氏に対抗し、後北条氏の領国を拡大させる。1521(大永1)古河公方足利高基の子晴氏に娘を嫁して連携、'24太田資高の内応を得て高輪原に扇谷朝興と戦い江戸城を奪取、'37(天文6)朝興の子朝定河越城・松山城を獲得して武蔵国の制圧を完成した。ついで、'38小弓御所足利義明と安房国の里見義堯の連合軍を下総国府台に撃破、下総西部を勢力下に収めた。

「城が見た合戦史」 二木謙一監修 青春出版社 2002年 ★★
 武蔵松山城の戦い 関東の要衝をめぐる争奪戦
  松山城の「風流歌合戦」
  奇策「もぐら攻め」

 ・北条氏康
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 北条氏康(ほうじょう うじやす)
1515〜71異70(永正12〜元亀2)戦国時代の武将。
(系)北条氏綱の長男。 (名)通称新九郎、相模守、左京大夫。
1541(天文10)家督。'46上杉(山内)憲政上杉(扇谷)朝興朝定の誤り?)・古河公方足利晴氏連合の河越城包囲軍を破り、扇谷家を滅亡させ、大石・藤田氏らの旧族を服属させる。'52憲政を越後に追い、'54晴氏父子を相模に移し、古河公方を傀儡として関東の覇権を掌握した。'56(弘治2)子氏政の妻に武田信玄の娘を娶り、娘を今川氏直の妻として武田・今川氏と和し、もっぱら関東進攻を図る上杉謙信に対抗。'60(永禄3)家督を氏政に譲り、これを後見した。その領国経営はみるべきものがある。実子を旧族の嗣子に入れて支城主として領国支配の拠点とし、'42・'43の検地、'50税制改革、'59「小田原衆所領役帳」の作製、伝馬制度の整備等、優れた施策が多い。

 ・北条氏政
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 北条氏政(ほうじょう うじまさ)
1538〜90(天文7〜天正18)戦国・安土桃山時代の大名。
(系)北条氏康の長男、母は今川氏親の娘。 (名)相模守。
1563(永禄6)父とともに下総国国府台に里見義弘を破る。'68駿河国に進攻した武田信玄を薩た山に破り信玄と絶ち、'69上杉謙信と和して、子氏秀を謙信の養子とする。同年信玄の関東進攻に小田原城を守って信玄を撤退させ、さらにこれを追撃したが、三増峠で敗北。'70〜'71(元亀1〜2)信玄と駿河吉原・興国寺城に対抗し、謙信の牽制を求めたが謙信が動かず絶交。ふたたび信玄と和し、信玄の西上を保障する。'80(天正8)織田信長と連携し、信長の中国経略を保障し、また武田勝頼挟撃体制をつくる。'82信長の勝頼討伐に関東口を担当。'83氏直が家督後もこれを補佐。豊臣秀吉と抗争し、'90秀吉に小田原城を攻囲され、責を負い自殺して氏直および城兵を救った。
(墓)神奈川県箱根の早雲寺。  


川越城主2
<江戸時代>
ハンドブック 川越の歴史」 川越市教育委員会編 文化財保護科 1998年 ★★★
 

「徳川幕閣武功派と官僚派の抗争 藤野保 中公新書88 1965年 ★★
 まことに、幕藩体制の統一政権である徳川幕府の権力は、世界の封建王政において、類を絶するほど強力であった。本書は、徳川将軍をめぐる側近政治家の群像に照明をあて、かれらの多彩な行動様式と権力・派閥抗争の分析を通じて、強力かつ長期にわたった徳川幕府権力の基礎が、どのようにして確立していったかを、科学的歴史学の立場から明らかにしようとするものである。題して「徳川幕閣」という。幕閣とは幕府を担った最高の為政者をいう。幕府の閣僚といったような意味である。(まえがきより)
 幕閣、江戸周辺へ集中
 重要なことは、幕閣の新首脳が江戸周辺の譜代藩領に集中的に配置されたことで、この傾向は、とくに老中に顕著にみられた。たとえば、松平信綱は、寛永十(1633)年に武蔵忍(3万石)に配置され、同十六年には、忍から武蔵川越(6万石)に転封・配置された。阿部忠秋は、同十二(1635)年に下野壬生(2万5千石)に配置され、同十六年には、壬生から忍(5万石)に転封・配置された。堀田正盛は、同十二年に川越(3万5千石)に配置され、同十五年には、老中辞任と同時に、川越から信濃松本(10万石)に転封・配置されたが、同十九年には、ふたたび関東に戻り、下総佐倉(11万石)に転封・配置された。
 若年寄でも、阿部重次は、寛永十五(1638)年に武蔵岩槻(5万9千石)に配置され(こののち老中となる)、三浦正次は、同十六年に下野壬生(2万5千石)に配置された。太田資宗と朽木稙綱は、若年寄就任中は、無城主の譜代大名であった。
 以上に対して、のち大老となった土井利勝は、寛永十(1633)年に、下総佐倉から同古河(16万石)に転封・配置され、関東内にとどまったが、酒井忠勝は、同十一年に、武蔵川越から若狭小浜(11万3500石)に転封・配置された。
 このように、幕閣の新首脳(とくに老中)が江戸周辺の譜代藩領に集中的に配置されたことで、かれらの江戸定府はつよめられ、この面からも、老中政治はいっそう強力なものとなった。老中政治の展開は、大御所側近の多彩な政治ブレーンによって運営された初期幕政の終結を意味し、役方の番方に対する優位の確立を示すものであった。

 ・酒井忠勝
「徳川家臣団」 網淵謙錠 講談社文庫 1986年 ★★
 第十七話 酒井忠勝

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 酒井忠勝(さかい ただかつ)
1587〜1662(天正15〜寛文2)江戸前期の大老。
(系)酒井忠利の子、母は徳川家康の妹光源夫人。
(名)幼名鍋之助、字を与七郎、剃髪後空印と号す。
 1600(慶長5)父とともに関ヶ原の戦に参加。1609従五位下讃岐守。1620(元和6)から徳川家光に仕え、武蔵国深谷1万石を給され、1624(寛永1)署判(老中)の列に列し、1626には5万石を給され、武蔵国忍の領主として転封。翌年、家督をついで、武蔵国川越に8万石を知行し、翌1628年10万石に加増され、従四位下侍従となった。1634若狭国小浜城12万5千石に転封、1638大老に任ぜられ、1651(慶安4)から将軍徳川家綱に仕えた。秀忠・家光・家綱の3将軍の信任をうけ、鎖国政策を推進し、慶安事件後は文治的政策に力をいれた中心人物。1660(万治3)剃髪した。「日本王代一覧」「日本帝王系図」は彼の編纂になるものである。
(参)成田鋼太郎「酒井忠勝公年譜並言行抄」1911

「消された日本史」 宮崎惇 廣済堂文庫 1987年 ★★
第五章 怪奇人類の記録その2/1 大老・酒井忠勝の懐刀・電気人間弥五郎
 明治末期から大正にかけて、探偵小説、冒険探検小説、軍事小説をおおく執筆した江見水蔭(1869〜1934)に、『鯉を抱く男』という時代短篇小説がある。
 これは、水蔭が慶長から明治にいたる時代に題材をとって創作した39篇の徳川期小説(『現代大衆文学全集・江見水蔭集』平凡社昭和3年=1928刊)と呼ぶもののひとつであるが、39篇とも、
 「諸家の記録を読んで、多大の感興を得た事実を基礎とし、或は古老の直話、土地の伝説などを参酌し、その不明の個処に自己の想像を加え、更に自己の解釈を下したもの」
 とのまえがきに見られるように、当時、実際あったこと、あるいは言い伝え、記録などで残っていたことらしく、江戸資料的な価値もある程度認めてよい。
 『鯉を抱く男』は、寛永年間(1624〜1643)、武州川越(埼玉県川越市)の城主酒井讃岐守忠勝に召し使われていた、弥五郎という電気人間の話である。江戸時代の随筆『責而者草』(せめてはぐさ)(=作者不詳)に、
 「――忠勝専ら御政務を掌られし節、江戸町に抱付き弥五郎という者之あり……云々」
 と記録されている実在の人物だ。
 鯉とりの名人で、「鯉の弥五郎」「鯉抱き弥五郎」と呼ばれ、この弥五郎にねらわれたら最後、いかなる鯉も逃げるどころか、身動きできず抱きとられてしまう。酒井忠勝は、鯉の真の味は釣ったり、網で漁ったりしたのでは味わえない。鯉は生け捕りのものにかぎる、といい、弥五郎が隅田川から抱きとった鯉を、しばしば三代将軍家光に献上したという。
 鯉にかぎらず、いかなるものでも、この弥五郎に抱かれたら、全身がしびれ、動けなくなった。荒れくるう猛牛や突進してくるイノシシさえ、弥五郎に飛びつかれれば、痙攣(けいれん)を起こして生け捕られた。
 江戸勧進相撲の初代横綱明石志賀之助と互角にたたかうといわれた怪力の持主で、身長2.3メートル、体重160キロの大男丸山仁太夫も、酒に酔って大あばれしたところ、背中へしがみつかれただけで取りしずめられた。
 「酒に酔って朱をそそいだような顔面が、忽(たちま)ち緑青(ろくしょう)を塗ったように真蒼に変じて来た。額には大顆(つぶ)の冷汗を浮べて、苦痛に耐えざる者の如く、全身悪寒に襲われたように、ブルブルと戦慄(ふる)え出して、殆ど留度(とめど)が無いのであった。(中略)そのうちにバッタリ、仁太夫は倒れた」
 原文は、こう描写している。
 弥五郎の超能力はそればかりではなかった。
 いかなる難病の人も弥五郎に抱かれると、なおってしまうのである。
 弥五郎が子どものころ、荒川の氾濫(おおみず)で母親が溺死したことがある。その冷たい死体にとりすがって泣きあかしたよく朝、不思議に母親は生き返ったのである。そこで、弥五郎は自分が難病をなおせることに気づいた。
 しかし、本当に苦しんでいる病人なら抱いてやるが、普通の病人がいくら大金を積んでも弥五郎は、医者の薬を飲めといって抱くことを拒否した。精根をこめ、念をつくして懸命に抱くので、相当エネルギーを消耗するのだという。
 「現代的に解釈すれば、人体ラジウムというか。動物電気の感応というか。時々こうした超科学の人が出現している」
 と、水蔭はいっている。
 だが、弥五郎にどうしてそのような超能力が身についたかは、はっきりしない。
 超科学的奇現象の解説家として一流のアメリカ人、フランク・エドワーズがその著『しかもそれは起こった』に、不可解だが、ごくまれに高電圧の電気を帯びているとしか思えない奇妙な人間があらわれる、として収録しているいくつかの例を見ても、そうした人間蓄電池ともいうべき電気的特異能力は、14、5歳ごろとつぜんあらわれ、成年に達すると、いつかその能力を失ってしまうようだ。
 1895年、アメリカ、ミズーリ州セダリアに住んでいたジェニー・モーガンも、14歳のとき、よくわからない原因から不意に電気人間に化した。ポンプの柄にふれると指先から火花が飛び、体に触れたものはすべてその火花で痛みを受け、ペットの飼い猫は近づかなくなった。
 1877年、カナダのオンタリオ州ボンダンのカロリン・クレアという少女も17歳のとき、とつぜん、体重が60キロから40キロに減るほど衰弱し、そのあとで電撃を与え、金属片を吸いつけたり追いやったりする、電磁気人間に変身した。
 1890年、ハーマシーのメリーランド大学で調査されたルイス・ハンバーガーも、16歳でやはり不意に人間磁石となり、指先で鉄のかたまりを吸引してぶらさげ、指先をひき離すとパチパチいう音がひびき、火花を散らした。
 これらすべての場合、少年少女期には注目をあび、物理学者や医学者の研究の対象になるが、成人するにしたがい、忘れ去られている。
 鯉抱き弥五郎は、その後どうなったか。水蔭の小説では、相撲の丸山仁太夫の後見役になり、おおいに勢威をはったが、のち大老酒井忠勝の秘命を受け、抱きつき魔の狂人に扮して江戸市中を徘徊(はいかい)、風紀の乱れを正したということになっている。しかし、のちのち、はっきりしたことが伝わっていないところから見て、やはりジェニー・モーガンらとおなじ運命をたどったのであろう。
 が、このような電気人間が存在することは、事実なのである。
 電気ウナギやシビレエイのように、もともと体に発電器官や発電細胞を有していない人間に、どうしてこういう現象が起こるか、科学的にはまだ完全に解明されていない。
 一説であるが、超心理学によれば、原子物理学的にいって電子・陽子などで構成されている人体では、その生理的変化にしたがい、内部でつねにプラス、マイナスの電気が生じているという。このうち、脳波や心臓電流はオシログラフで直接見ることができるが、体の表面にも皮膚細胞の活動で上半身から腕や下半身へ向かって電流が流れている。
 弱い高周波電流を流した写真乾板の上へ、手のひらを押しつけ、しばらくしてから現像すると、てのひらのまわりに火花のような放電が起こっていることがわかる。この放電の形は、人体の部分によってちがい、指先からはブラシみたいな形の、胸の皮膚からは炎のような形の火花が立ちのぼっている。これを超心理学・神霊学では《オーラ》と名づけているが、こうした体表面電流や電磁波が、特異体質の人間に生理的に異常にあらわれ、電気人間と化すのではないか、というのである。
 弥五郎の鯉抱き電撃法や、抱きつき電気療法も、おそらくこうした特異体質に原因を求めてよいのかもしれない。

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 江見水蔭(えみ すいいん)
1870〜1934(明治3〜昭和9)明治・大正期の小説家。
(生)岡山県。(名)本名忠功(ただかつ)

 ・堀田正盛
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 堀田正盛(ほった まさもり)
1608〜51(慶長13〜慶安4)江戸前期の大名。
(系)堀田正吉の子、母は稲葉正成の先妻。
(名)初名正利、通称三四郎、出羽守。
 正成の後妻春日局の縁により、1620(元和6)3代将軍となる徳川家光に近侍してめざましい昇進をとげた。1626(寛永3)上野国群馬郡ほか合わせて1万石を領し小姓組番頭、1633若年寄(当時六人衆とよぶ)の1人に選ばれる。さらに同年老中に進み番頭を兼任。1634武蔵国川越藩3万石の城主となり、1638信濃国松本藩10万石に移封。病を得て老中を退任したが、評定所に出仕して国政に参与することを命ぜられる。1642下総国佐倉藩11万石に移る。1651(慶安4)家光に殉死した。春日局の縁者として異常に出世したことで有名。

「江戸の二十四時間」 林美一 河出文庫 1996年 ★
 江戸の一日は明け六ツの鐘の音とともに始まり、大奥の御錠口も長屋の木戸もこの時刻に開く。今の午前六時ごろ、将軍の起床する時間でもある。老中などの重職は午前十時には登城し、そのころには銭湯や本屋が開く。江戸城を中心として八百や八町に生きた、あらゆる階層の人びとの、時々刻々の息遣いまでが聞こえるように、時代・風俗考証を徹底した社会史の傑作!

 堀田家廃絶の二十四時間
 堀田家の祖は織田信長の父信秀に仕え、下って小早川秀秋に仕えている。正信の祖父正利の代に徳川家へ臣従するようになったのだが、それは正利の妻が秀秋の老臣・稲葉佐渡守正成の先妻の娘であり、正成の後妻がのちの春日局であったから、正成が徳川家へ仕えるに当って、正利もその縁で行動を共にすることになった。禄高は七百石であった。
 春日局は将軍家光の乳母として権威を振った女性だが、今度はその推輓で正利の子の正盛が家光の小姓として召出され、異例の寵を得て十六歳で従五位下・出羽守に任ぜられ(のち加賀守に転)、七百石を賜った。その後もとんとん拍子の出世で、十九歳で小姓組蕃頭になり一万石を賜っている。家光と男色関係があったのだろうといわれるのも無理からぬところであろう。寛永十年には松平伊豆守信綱とともに執政六人衆の一人として老中に列し、同十二年三月には二十八歳で武蔵国川越城三万石の城主となり、十五年には松本で十万石、十七年十二月侍従に進み、十九年七月には佐倉十一万石の城主となった。
 彼はこれより先、妻には大老酒井忠勝の娘を迎えている。正に旭日昇天の勢いで、家光もしばしば正盛邸に遊んだといわれるが、戦時ならともかく平時にこれだけの出世をしたのだから、前述のような陰口をいわれるのも当然であった。
 それかあらぬか、それから九年後の慶安四年(1651)四月二十日に家光が薨じると、正盛は深く悲嘆にくれ、その日、自邸に帰ると殉死してしまったのである。四十四歳であった。
 もっとも、このときに殉死したのは正盛一人だったわけではない。老中の阿部対馬守重次や御側衆の内田正信ら三十六人が家光の後を追った。主君の二世の供をして忠義を全うしたいという武士の思想がまだ脈々と生きていた時代である。追腹をした重次や正信の家臣までが、またその主君の後を追って殉死した。殉死の風習はこれから十二年後の寛文三年(1663)になって禁止され、それまで武道の美風として賛美された殉死は、逆に罪として罰せられることになる。

「日本史泣かせるいい話」 後藤寿一 KAWADE夢文庫 1999年
激動の時代を駆け抜けた人々の、気高き誇りと慈愛に満ちた生きざまに胸を打たれる珠玉の実話集。歴史の陰にきらめく感動ドラマがここにある。
 家宝の長刀が折れたのはむしろ吉事である
 堀田正盛は、江戸初期の幕府の老中。三代将軍・家光に近侍し、よく家光を扶けて幕府の基礎を固めた。
 あるとき、家光が代々徳川家に伝わる秘蔵の長刀を折る、という事件が起きた。その長刀は小鍛冶宗近の作で、500年ほど前の源義経の側室・静御前が所持していたという由緒あるものだった。
 それを家光が狩りにでかけるときに持ちだし、飛びだしてきた小さな猪を面白半分で突いたところ、長刀は根元からポキリと折れてしまったのである。
 家宝ともいえる長刀が折れたことで、家光は青くなり周囲も騒いだ。
(せっかくの道具なのに、惜しいことを)
(何か不吉なことが起きるのではないだろうか)
 そんなふうにざわめいたのだが、その様子を見て堀田正盛が進みでていった。
「おのおの方は、何をお騒ぎになっているのか。いま、この長刀が折れたのは、この上ない吉事ではありませぬか」
「……」
「もし、上様がこの長刀を持って敵と白刃を交えているとき、いまのように根元から折れてしまったら、どうなったであろうか。大変なことになるところだった。相手が小さな猪でよかったではないか。いま折れてくれたことは、むしろ吉事であったというべきであろう」
 青くなっていた家光の顔に朱が差し始めていた。

 ・秋元喬知
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 秋元喬知(あきもと たかとも)
1649〜1714(慶安2〜正徳4)江戸前期の老中。
(系)戸田忠昌の子、秋元富朝の養子。(名)初め喬朝
 1657(明暦3)養父の遺領を継ぎ、甲斐国谷村で1万8千石、のち寺社奉行、若年寄をへて1699(元禄12)老中となる。その間加増2万2千石。1704(宝永1)武蔵国川越に1万石を加増され、5万石で転封される。1711(正徳1)1万石加増となり6万石を領した。学問を好み、幕政では文治政治をすすめた元禄期の老中として知られる。

「日本史泣かせるいい話」 後藤寿一 KAWADE夢文庫 1999年
 強がるだけでは下々の気持ちはわからぬ
 秋元喬知は、江戸幕府の基礎が固まって元禄文化の花開いたころの幕府老中。硬骨漢として知られていた。
 この喬知が、冬の二月のうち、ある大名を訪ねなければならないことがあった。その予定を知り、喬知はふと思い立ってそれを厳寒の日とした。わざわざ最も寒い日を選んで大名を訪ねる日としたのである。
 そしてみぞれが降りしきる当日。喬知は、わが子の二人を供として連れていった。連れていったといっても、手をつないでいったわけではない。喬知は、駕籠である。そして二人の子は、喬知の考えもあって、その駕籠に徒歩で従わせた。
 二人の息子はみぞれが降りしきる中、ぶるぶる身体を震わせ、鼻水を垂らし、手足を冷たくして父の喬知の供をした。
 大名の屋敷に着いても、喬知はわが子二人を外に置いたままだった。
 帰りには、みぞれは雪に変わっていた。二人の息子の手はかじかみ、歯はガタガタ震え、声もでない。
 ようやく家に帰り着いた。家に帰り着くと喬知は、さっそく二人を呼び、まずは兄に聞いた。
「どうであった? 寒かったであろう」
 これに対して兄は、まだ寒さが残る様子で、唇をブルブル震わせながら、
「ええ、もう寒くて寒くて。父上に命じられたお供ですが、何度家に逃げ帰ろうと思ったことかわかりません」
 と答えた。次に弟に聞いた。すると弟は、
「父上のお供と考えておりましたから、寒さはもとより辛いと思うようなっことはまったくありませんでした」
 と答えた。喬知は、微笑みながら二人の答えを聞いたのち、二人を下がらせ、そしてぽつりといった。
「弟の方を、何とか教育しなおさなければいかんな」
 これを聞いて傍にいた近臣が訝しげな顔をして喬知に聞いた。
「なぜでございます? お二人のうち、お兄様のほうは軟弱で、弟様のほうは武士のお子様らしく凛々しく感じられましたが」
 これを聞いた喬知は、
(長年、私の傍にいるお前もわかっていないのか)
 と落胆した表情を浮かべていった。
「兄は、苦しいことを苦しいといった。その気持ちがあれば秋元家に仕える下々の者の気持ちは、そのままわかるだろう。しかし弟は、苦しかったはずなのに平気だったといった。そのような虚勢を張ったり建前で事を済まそうとするようでは、下々の気持ちは永遠にわからずじまいだろう。そうなると下々の気持ちは離れ、弟の方を顧みる者は誰もいなくなる……だから弟を教育しなおそうと思っているのだ」
 近臣は、深く恥じ入った。

「江戸のリストラ仕掛人」 童門冬二 集英社文庫 1993年 ★★
第三部 時代を生き抜く才覚/第二章 男たちの無骨
 やさしさときびしさ――秋元喬知

「歴史読本408 特集 徳川将軍家の謎 昭和60年6月号」 新人物往来社 1985年 ★
 第7代家継 幕閣の中の誰が事件摘発を決意したのか?
  江島疑獄の真相は何か

 ・秋元凉朝
「日本の歴史17 町人の実力」 奈良本辰也 中公文庫 1974年 ★★
  田沼登場
  江戸留守居役との関係
 そうしたかれの人となりが、多くの来客を招きよせたのだ。とくにかれが目をかけたのは、諸藩の江戸留守居役の面々であった。大名たちのあいだでは、五百石の御小姓から累進した意次を成り上がり者として反発する空気が少なくなかったが、留守居役たちはそうではない。むしろ、その藩の存在を安泰にするために、幕府の高官や実力者たちと交際ができればこれ以上の望みはなかった。
 これまでの実力者で、留守居役にまで声をかけるような幕府の高官はいなかったであろう。実力者は、用人を通じてでもそのようなことはしなかった。しかし意次は、それをしたのである。おそらく松浦静山がみたものは、そうした諸藩の江戸留守居役たちであったろう。かれらは、それぞれの藩の江戸における政治と外交の責任に任ずるものであり、それだけに諸藩のなかでももっとも能力のある重臣の層から成っていた。
 意次は、そのようにしてまた「将を射る」ためにまず「馬を射た」のである。いかに大名たちが、家格を誇って、田沼を成り上がり者と卑しめようとも、その膝もとがすでに田沼の手中に入っているのでは、かれらといえどもどうすることもできないであろう。
 だから、たとえば川越の城主老中をつとめる秋元凉朝のごときも、その稜々たる気骨をもってなお意次にはかなわないのである。これは、意次が門前に市をなすといわれるそのすこし前の話であるが、あるとき城中で凉朝は意次とすれちがった。意次はそのころ御側衆であり、凉朝は老中である。そこは当然に、意次のほうからすべき礼があった。
 ところがそのとき、意次は、よほど急いでいたらしく、じゅうぶんな挨拶もなくそのまま過ぎていってしまった。さすがに、古武士的風格をそなえていたといわれる凉朝は、それを見のがさなかったのである。かれは、意次の同僚を召したというから、おそらくそれは御側衆の一人大岡兵庫頭忠善であったろうか、それを呼び出して意次の非礼をとがめた。
 意次は黙ってそのことばを伝え聞いたが、しかし凉朝のほうでかえってぐあいが悪いような気がしてきた。御側衆がそのようにしてあわただしく通り過ぎていったのは、なにか将軍に火急な用事があったからかもしれないのである。意次の非礼をとがめたほどの凉朝であったが、ついにかれはそのことを気に病んで、老中の席を退いたというのである。だがその真実のところは、お家の大事を思う凉朝の家臣たちが、そのような些細なことにまで田沼と対立しようとする主君に、因果をふくめてのことであったろうと思われる。
「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 田沼意次(たぬま おきつぐ)
1719〜88(享保4〜天明8)江戸中・後期の幕政家。
(系)田沼意行の子、母は田代七右衛門高近の養女。(生)江戸。(名)初名龍助。
1734(享保19)将軍徳川吉宗の世嗣家重付の西丸小姓となり、'35父の遺跡の600石を継ぐ。'37(元文2)従五位下主殿頭、'45(延享2)家重の将軍就任にともない本丸に勤仕、'47小姓組番頭格、'48(寛延1)小姓組番頭にすすんで、1,400石を加増された。ついで'51(宝暦1)側衆、'55には3千石加増、'58さらに5千石家加増され合計1万石の大名に昇進した。引き続き10代将軍徳川家治の信任も厚く、異例の栄進を続け、'62に5千石の加増、'67(明和4)側用人となって従四位下にすすみ、5千石加増され2万石の相良城主となる。'69には5千石加増、侍従に進み老中格、'72(安永1)老中となり、幕閣の実権をにぎり5千石加増、'77には7千石、'81(天明1)1万石、'85さらに1万石加増。前後10回の加増によりわずか600石の小身旗本から5万7千石の大名にまでのしあがった。その政治には旧来の格式にとらわれぬ新しさがみられ、いわゆる<田沼時代>を現出した。諸種の株仲間の結成を奨励、銅座・鉄座・人参座などの専売制を実施するなど、功利的な殖産興業政策を推進。また新田・鉱山の開発にも意を用い下総国印旛沼の干拓にも着手した。さらに銅や俵物の専売による外国貿易の拡大や蝦夷地開発計画などには、鎖国体制下とは思えぬ積極さがあった。しかしこうした政策は、商人との結託による賄賂政治の横行を必然化し、また農村の商品生産が高まる一方では、商業・高利貸資本に搾取され脱落する農民も続出、一揆や都市打ちこわしが激化した。天明年間(1781〜88)の飢饉凶災はこれに一層の拍車をかけ、士民の攻撃をうけて'86(天明6)老中を退任した。領地はほとんど収公され、わずかに孫の意明がその名跡(1万石)を継ぐことを許された。戒名は耆山良英隆興院。(墓)東京駒込の勝林寺。
(参)辻善之助「田沼時代」1915。

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作成:川越原人  更新:2020/11/02