川 越 城(2)


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川越城
「日本史・名城の謎」 櫻井成廣 日本文芸社 1990年 ★★
第二部 日本の名城・謎と怪異/川越城==夜襲戦で知られる武蔵国中央の城
 江戸城と小田原城の支城的存在
 川越は広大な武蔵国の中央にある。武蔵国は大宝令の制度で大国の中に数えられており、古来日本の政治や文化の大中心であった畿内五か国を一つにしたくらいの広さをもっている。
 大和では、朝鮮や唐の文化を輸入して上流は外国風の生活が流行していたが、武蔵では高麗(こま)郡一帯に高句麗人が、新羅郡に新羅人が集められ、ハイカラな文化を誇っていたらしい。
 ことに高麗郡の人々は都に往来し、武蔵の国司に任ぜられた者もあって、都ぶりの文化が広まっていたようで、現在でも高麗郡、多摩地方の民家には上方風の入母屋造がよく見られる。
 高麗郡は現在は入間(いるま)郡に合併されているが、高麗川・入間川の水は、川越を経て江戸の北で利根川の本流である現在の隅田川に合流している。一方、畿内では佐保川・秋篠川の水は、郡山を経てから生駒山脈があるために南流して大和川に合流し、昔はさらに北流して大坂の北で淀川に合していた。
 こうした地勢を思うと、川越は大和の郡山に比する位置を占めている。郡山には大和の国府が置かれ、武家時代には郡山城が築かれて常に大和一国の要鎮であった所である。郡山から大坂に出るには生駒山脈の峠を越さねばならないが、川越は平坦な八里の道を一路江戸に行くことができる。
 郡山城は大阪城にとって大切な城なので秀吉は大阪城におり、郡山城には弟秀長を置いた。また、大坂夏の陣では、まず大坂勢が郡山城を襲っているように、川越城も江戸城にとって大切な城であり、小田原城にとっても重要な支城であった。
 
 連合軍を相手に奇勝した夜襲戦
 太田道灌は江戸城を築いて本拠とするとともに、川越、岩槻にも築城して武蔵を固めた。道灌が死んだ後に、上杉(扇谷)朝興(ともおき)北条氏綱に追われて江戸城を本城とした。しかし、それも朝興の子朝定が跡を嗣ぐとすぐに氏綱に奪われ、川越城を本拠とした。そして川越城までとられたので有名な川越夜襲戦が起こる。これは三大奇戦の一つといわれる。
 北条氏綱に逐われた上杉朝興は、「自分のために葬儀はいらぬ、氏綱の首をとって墓前に供えてほしい」と遺言し、恨みをのんで死んだ。そして従来抗争を続けていた扇谷・山内の両上杉は、北条氏と結んでいた古河公方足利晴氏を説いて味方とし、三家の大連合軍をもって川越城を囲んだ。
 川越城の守将はもと福島といい、駿河から来て北条氏に仕え北条綱成と称した猛将で、黄八幡の旗は敵の恐れるところであったが、三家の大軍の攻囲によく耐えて年を越した。
 氏綱の跡を嗣いだ北条氏康も名将で、天文15年(1546)4月、兵を率いてひそかに川越城救援に向かった。
 武蔵の中央部は田無、堀兼の井、野火止などの地名が示すように水田がなく、したがって人跡も少なく一望千里の薄(すすき)の原だったからであろうか、北条軍は敵に気づかれず巧みに川越城下に達した。そして城将綱成の弟弁千代を角兵衛獅子に変装させて城に入れ、手はずを整え、不意に攻囲軍に夜襲をかけた。
 城内からも兵が切って出たりしたので、足利・両上杉の三軍は狼狽なすところを知らず、同士討ちをしたりしながら、ほうほうの体(てい)で逃走してしまった。このとき上杉(扇谷)朝定も戦死した。
 この奇勝によって北条氏の威は関八州に輝き、多くの大名豪族が臣従した。上杉(山内)憲政(のりまさ)は越後に奔(はし)って上杉謙信を頼り、以後上杉・北条・武田の三つ巴の戦となるのである。
 
 今に残る江戸風町屋や火の見櫓
 夜襲戦時代の川越城は、極めて小規模なものだったらしい。江戸初期の「江戸図屏風」に写されている城でさえ後世の本丸だけの広さであり、その東半分が詰の丸であったそこに矢倉が描かれている。
 故址を訪れると、本丸の奥に土饅頭のような丘が残っていて、小田原の丘上の古城址と同じく矢倉代わりに土を盛ったことが分かる。他のやや新しい矢倉の跡も土饅頭であるが、昔はその上に矢倉を建てたものである。地勢も低く、昔著者が本丸の東端に立ったときは、広大な稲田が目の下に広がっていた。
 こうした城を三家の大軍で攻めて数か月を要しても陥せなかったというのは、両上杉および古河公方の軍勢に勇猛な精神がなかったか、或いは自分の軍勢の損失を嫌って強襲をせず、敵の降参を待っていたものであろう。一方、城兵と黄八幡は主将氏康を信頼しきっていたから、どんな長囲にも堪えたものと思われる。
 徳川時代になると、川越城には四天王の一つである酒井家が封ぜられ、忠勝は大老となって名臣第一と称された。
 その後大火があったりしたが、あとには智恵伊豆≠ニ呼ばれた老中筆頭松平信綱が寛永15年(1638)に入封、土塁の平城ながら屈指の大城郭を築いた。また城下町も立派で、現在も江戸風の火の見櫓(やぐら)土蔵造りの町屋がたくさん残っている。また喜多院には初期江戸城の御殿が移築されている。
 そのほか、本丸の奥の三芳野天神は、年に一度領民の参詣が許されて賑わったが、警固の武士ににらまれるので、「ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ」というわらべうたが生まれたという。

週刊名城をゆく 42 川越城・忍城」 小学館 2004年 ★★
 川越城
 三方を河川や低地に囲まれた川越台地の東北端に築かれた平山城。別名初雁城
 1457年(長禄1)、扇谷上杉持朝が家宰の太田道真・道灌父子に命じて築城させたという。1537年(天文6)に小田原北条氏が占拠、1590年(天正18)に豊臣秀吉の北条攻めで落城した。
 徳川家康が江戸に入部したのち、川越城は江戸の北を守る戦略拠点として重要視され、酒井氏・柳沢吉保・松平氏などの大老・老中格の幕閣が歴代藩主に任じられた。
 1639年(寛永16)、「智恵伊豆」の名で知られる松平伊豆守信綱が入城、外曲輪などを4万6000坪余りに拡張し、3基の櫓と13の城門を築いた。
 本丸跡に、1848年(嘉永1)に再建された御殿の玄関・大広間などが現存する。
残された美を訪ねて 川越城をゆく
 古絵図をみながらの城址探訪/威容を誇った幕閣の居城/
連載 戦略検証 <42> 謎の多い河越夜戦
 何度もあった河越城攻防戦/8万の敵というのは本当か/北条氏康の巧みな戦略
とっておきの秘密 <42> 川越喜多院に「徳川家光誕生の間」が?
 川越喜多院の歴史/独特の風格がある天海僧正
城主の系譜 御家門松平氏
城めぐりMAP
 川越城下地図/アクセス&インフォメーション/川越市立博物館/行事ごよみ/周辺城址地図
連載 井沢元彦の武将列伝 <42> 北条氏康
川越城をめぐる歴史群像
 太田道灌/酒井忠勝/松平信綱/柳沢吉保
私の城下町 川越
 「智恵伊豆」松平信綱の町づくり/江戸情緒が薫る「蔵造りの町並み」/小意気な店とまつりの熱気/天海僧正ゆかりの古刹
城を撮る 第42回 城下町の撮り方A
周辺城址・城砦ガイド

「城郭と城下町2 関東」 小学館 1984年 ★★
川越城
 ■見どころ 盛時をしのばせる本丸御殿
 ■歴史 戦国史をいろどった川越夜戦
 ■城下町 「智恵伊豆」が築いた城下町
  ●川越の銘菓
 ■城下町 重厚な蔵造りの町並み
  ●老中の居城、川越城

「さいたま歴史散歩」 相沢明彦 さきたま出版会 1990年 ★★
第一部 古城
 奇襲奏功「東の関ヶ原」………川越城/川越市
第二部 水とくらし
 宿場の繁栄 支えた舟運………引又河岸/志木市
 清流悠然 時を越えて………野火止用水/新座市

歴史ロマン 埼玉の城址30選」 西野博道/編著 埼玉新聞社 2005年 ★★
 <埼玉を代表する城>
2 川越城
 <武蔵武士ゆかりの城(館)>
10 河越氏館

歴史ロマン 続・埼玉の城址30選」 西野博道/編著 埼玉新聞社 2008年 ★★
26 川越城―――小江戸川越を幕末の動乱から救った名君・松平康英
 徳川時代の川越城
 富士見櫓は二層
 わずかに残る城の名残り
 川越城主の移りかわり
 川越藩主の事績
 (一)城・城下町の整備  松平伊豆守信綱(1596〜1662)
 (二)領民のための藩政  柳沢出羽守吉保(1658〜1714)
 (三)藩財政再建  松平大和守斎典(1797〜1849)
 (四)川越を救った殿様  松平周防守康英(1831〜1904)
 川越城にまつわる民話・伝説
 「城中蹄の音」(川越城七不思議の一つ)
 「新田開発に関する逸話」
 「お供して川越に来た時の鐘」

 参考文献
 『新編武蔵風土記稿 第8巻』 編集校訂・蘆田伊人 雄山閣 1969
 『日本城郭体系 第5巻』 柳田敏司 新人物往来社 1979
 『川越市史・資料編 近世T』 川越市 1978
 『川越市史・資料編 近世V』 川越市 1972
 『川越市史・第4巻 近代編』 川越市 1978
 『川越大辞典』 図書刊行会 1989
 『川越市文化財保護年報』 H12年度〜16年度版 川越市教育委員会文化財保護課
 『川越のあゆみ』 川越市市制70周年記念誌 1992
 『川越の城館跡』(改訂版) 自費出版 2004
 『川越藩政と文献』(ママ) 岸伝平 川越叢書刊行会 1958
 『川越の人物史』(ママ) 川越市教育委員会 1978
 『やさしい川越の歴史』 川越市教育委員会 1970
 『川越の歴史』 川越市市制60周年記念誌 1977
 『川越歴史随筆』 岡本一郎(ママ) 川越史料刊行会
 『江戸300藩最後の藩主』 中島繁雄 文春新書 2003
 『江戸の母 川越』 飯島謙輔 友文社 1949
 『川越歴史点描』 岡村一郎 川越歴史新書7 1973
 『川越閑話』 岸伝平 川越叢書刊行会 1954
 『本の中の川越』 山野清二郎 川越市 2002
 『武蔵野』第3号 むさしの編集部 1977
 『徳川三代の時代と川越』 川越市立図書館 2000
 『柳沢吉保の実像』 野沢公次郎 三芳町教育委員会 1998
 『埼玉人物小百科』 埼玉近代史研究会編 埼玉新聞社 1978
 『江戸図屏風を読む』 水野真・加藤貴編 東京堂出版 2000
 『江戸幕府の政治と人物』 村上直 同生社 1997
 『浅野文庫蔵諸国当城図』 原田伴彦・矢守一彦編 新人物往来社 1977
 『関東の城址を歩く』 西野博道 さきたま出版会 2001
 『埼玉の城址30選』 西野博道編著 埼玉新聞社 2005
 『初雁温知会会報』創刊号1972・第6号1977・第11号1982・第15号1986・第17号1989・第35号2006
 いきがい大学伊奈学園ふるさと伝承科 自主研究発表「小江戸川越の考察」 冨沢英二
 川越市立博物館 第3回企画展図録 『松平周防守と川越藩』 1991
 川越市立博物館 第5回企画展図録 『川越城・失われた遺構を探る』
 「伊奈サミット会」講座資料 1992

「日本の百名城 失われた景観と旅の楽しみ 八幡和郎 ベスト新書 2006年 ★★
第三章 関東・甲信越の城
27 川越城 太田道灌の築いたもうひとつの城

「ふるさと古城紀行」 斎藤政秋 ベスト新書 2007年 ★★
第二章 関東の城
川越城 (かわごえじょう)
 関東の小江戸
 東京都心から北西に約40キロ離れた所に、小江戸と呼ばれる城下町、川越市がある。江戸に近いため、古くから陸路の川越街道や水路の新河岸川を利用して大消費地江戸へ大量の「物」が運ばれた集配基地でもあった。
 大江戸の北を防衛する要衝として、岩槻城とともに川越城が築かれたのは、どちらも長禄6年(1457)だが、市内にはこれより古い河肥城があったことも忘れてはならない。現在、河肥氏館跡と呼ばれている一角は、川越城から西へ約4キロ進んだ入間川に近い常楽寺一帯にあった。平安時代に築かれたと伝えられる河肥氏の館は、堀と土塁のみに囲まれた、近世の城とは異なった屋敷程度の縄張りが想像される。詳細は不明だが、河肥氏は上杉氏と争ったのち落城し、滅亡に至っている。
 室町時代の川越城は、扇谷上杉氏が古河公方足利茂氏に対抗するため、太田道真・道灌父子に命じ築城させたもので、江戸城、岩槻城などと前後して完成している。初雁城とも呼ばれたこの城に天守はなかったが、往時は本丸、二の丸、三の丸のほか、天神曲輪、八幡曲輪を構え、14の城門と9棟の櫓で固められていた。
 とある年の秋、川越まつりに合わせて、この城下町を訪ねたことがあった。絢爛豪華な山車が10数台列を連ね、囃子とともに蔵造りの家並みが続く町中に繰り出すこの祭りは、今では全国でも見ることのできない貴重な伝統行事となっている。
 少しでも近づいて見ようと、各地からやってきた見物客が、狭い町の沿道にぎっしりと押し寄せ、ラッシュ・アワーにも引けをとらない混雑ぶりに、びっくりした。人込みを避け、細い横町をあちこち歩いているうちに、時代劇に出てきそうな木造二層の「時の鐘」がそびえる通りにたどり着いた。承応2年(1653)、松平信綱の命で建てられたものだが、現在の時鐘櫓は明治になっての復元である。蔵の町並みと時の鐘は、川越のシンボルにもなっている。
 近くの店を覗くと、昔懐かしい駄菓子、雑貨、玩具などが並んでいるが、なぜか芋菓子や芋煎餅の類が目につく。試食の菓子をつまんでいると店番の老婆が、
「懐かしい味でしょう? 近ごろは若い女性に好評ですよ。自然の甘味なので太らないことが、お芋の取り柄だとわかってきたのでしょうね」
 といいながら、しばらく話し相手になってくれた。
「芋といえば、戦争末期から戦後にかけての食糧難の時代、川越周辺には、米の代用食にと、都会からリュックを背にした人々が『芋の買い出し』に続々訪ねて来たものです、時代もずいぶん変わったもので、今では贅沢な食べ物ですよ」
 芋の今昔を聞いてから町の通りを注意して見ると、確かに芋を加工した菓子類を扱う商店の多いのがわかった。蔵造りの庇の上、店頭の幟、店のガラス戸などに屋号や銘菓の品名が賑やかに並んでいる。
 川越がどうしてイモの特産地になったかは別にして、薩摩芋がどのようにして日本に入ってきたかが気になってきた。そのルーツを調べてみると、次のような事実が書かれていた。
 カライモまたは甘藷とも呼ばれた芋は、熱帯アメリカ原産でヒルガオ科に属する多年性の作物である。大航海時代にコロンブスが、熱帯圏からヨーロッパに持ち帰って以来、急速に各国で栽培されるようになっていった。日本にもたらされたのは17世紀になってからで、中国から琉球経由で薩摩に上陸したとか、またっフィリピンから長崎に到着したともいわれている。
 原産地とは土壌と気候風土が異なるため、一般化したのは18世紀になってからで、甘藷先生と呼ばれ江戸生まれの蘭学者、青木昆陽が『蕃薯考』を著し、凶作に強い作物として幕府の薬園(現東京大学附属小石川植物園)で試作研究後、全国で栽培されるようになっていった。
 初雁城の天神さま
 祭りの人混みから離れるため、人の流れに逆行して川越城跡に向かってみる。城跡はどこの地方都市に行っても同じロケーションで、その地区の要所が多く、この町でも公共機関、学校、公園、グラウンドなどが隣接している。当時三層造りの富士見櫓があった辺りには櫓跡の石碑が残リ、櫓台上には御嶽神社が建てられていた。
 ここを通り越し城の東端に出ると天神曲輪があり、「お城の天神様」と呼ばれた権現造りで銅板葺きの三芳野神社に着く。この日は川越市の縁日とあって屋台店が並び、スピーカーから童謡の「通りゃんせ」が流れている。
通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ
 天神様の細道じゃ
どうぞ通してくだしゃんせ
 御用のない者 通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります
 行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
 何を隠そう「通りゃんせ」は、ここの神社をモデルに出来上がったわらべ歌である。
 この話とは別に、三芳野神社の社名が、『伊勢物語』に出てくる地名<みよし野の里>にちなむというのも奥ゆかしい気がする。
みよし野の たのむの雁もひたぶるに
 君が方にぞ よると鳴くなる
 古くからこの城を別名を「初雁城」と呼んだのも、城の大杉に雁が飛来するさまを詠み讃えたと聞いている。
 関東唯一の本丸御殿
 少し迂回してから城跡の中心に向かうと町中の騒音もややトーン・ダウンし、なんとなく落ち着きさを見せていた。学校の裏手にある本丸御殿の周辺は鬱蒼とした林でもあるのかと想像していたが、横に長い建物の玄関前は来訪客用の広い駐車場であった。
 入母屋造り、桟瓦葺きで一見武家屋敷にも似た豪華な本丸御殿は、正面中央に大型の唐破風の車寄せと霧よけのついた玄関があり、ここに立つ者を長きにわたり威圧し続けていたのだろうか。嘉永元年(1848)の完成とあるので、すでに150余年を過ぎているが、保存状態がよいためか、築50年ぐらいにしか見えない。御殿は当時の6分の1しか残っていないが、その広さが十分に感じられる。ゆっくりと殿内を一巡して見た結果は、予想した通り大広間が最大の見どころであった。
 現在、本丸御殿の遺構は、土佐高知城の懐徳館と、ここ川越城にしか残っていない。映画やテレビでしばしばお目にかかる御殿の建物は、どんなに豪華でも芝居委用のつくりものであり、このような重厚で年輪のある実物とはまったく比較にならない。
 玄関脇で植木の手入れをしていた職人に、川越の町の魅力をそれとなく尋ねてみると、
「毎日生活していると、感覚が麻痺してここのよさをあまり感じませんが、地方に行って遠くから見ると、川越のいいとこばかりが実感できますな」
 全国各地にはまだ多くの伝統的建築物が風土に溶け込んで残っている。金沢や島原の武家屋敷、中山道の追分、馬籠、妻籠の宿場町などがそれにあたるが、川越の町はこれらと違って土地に根を下ろした庶民の町屋が並び、商人の活気と人情がナマで伝わってくるところが、そのよさなのかもしれない。
 「江戸時代はもちろんだったでしょうが、城下の家並みは諸国にも負けない造りが多かったと耳にしていますよ。市内に建っている蔵造りの商家は、明治26年(1893)川越の大火で木造家屋が焼失し、以後耐火建築として建て替えられたものです。それ以前の最盛期には200軒余りにも達したそうです。現在見られるのはそのほんの一部にすぎませんがね」
 夜戦の激戦地はいずこ
 上州と鎌倉を結び武蔵の要衝といわれた川越は、80年もの間、扇谷上杉氏の居城であったが、朝定の時代に関東へ進出してきた小田原の北条氏と戦い、城を奪われてしまった。扇谷上杉氏は、北条氏の関東制覇に対し共に危惧の念を抱いていた、古河公方足利晴氏や山内上杉氏と手を組み、占拠されている川越城の奪還作戦を計画した。
 天文14年(1545)、三派連合軍は約8万の大軍をもって城に迫った。城を守備する北条綱茂は、急遽小田原の北条氏康に援軍派遣を要請したが、兵が駆けつけたのは翌年になってからで、その数もわずか8千程度であった。
 北条軍は入間川を挟んで上杉軍側の連合軍と対峙したが、一度も刃を交えることなく退却して行った。連合軍側は「敵は多勢に無勢と悟り、尻尾を巻いて逃げた」と解釈したが、氏康の企みは適を油断させ、夜間の奇襲作戦を仕掛けることであった。
 現在のように豊富な照明がある時代ではなく、まして建物や施設や衣装も色彩が少なく、使えるものといえばわずかな松明があったにすぎない。暗闇で敵味方の判定を確実にするため、北条軍は全軍の鎧兜に夜目にも分かる白布を巻かせ、この目印がない者は徹底的に討つように命じて、深夜の上杉軍を総攻撃した。
 歴史に残る「川越の夜戦」はこのようにして敢行された。結果敗走する上杉連合軍を追って北条軍は完全勝利をあげ、関東全域に勢力を延ばしたが、半世紀後には豊臣秀吉の小田原攻めに敗れた。
 この史跡を探そうと城の隅々を歩き回ったが、なかなか見当たらなかった。あきらめて江戸城の建物の遺構を移築した喜多院を訪れ、徳川三代将軍家光誕生の間と伝えられる、無量光院を拝観していると、廊下の先の方から制服姿をした数人の自衛官の会話が聞こえてきた。
 以前取材で、愛知県小牧と広島県江田島の自衛隊に体験入隊をしたことがあった。そこで短時間ではあるが、地域に関係した戦国時代の合戦を振り返り、歴史の概要を再研修したことを思い出した。「この自衛官たちもきっと地元の戦史を勉強しにきたに違いない」と考え
「川越合戦の史跡を探しているのですが………」
 と聞いてみた。すると一人の自衛官が勝手知ったとばかりに地図を手早く聞き(ママ)、この場所から北西に約1キロほどの界隈が戦いの激戦地であった場所だと教えてくれた。
 官公庁の建物が多い市街の一角の向こう側で町のやや外れにあたるが、対向する車輛が思ったより渋滞していて、急ぐ割には早く歩けない。
 陽がそろそろ西に傾いてきた。写真を撮れる光があるうちに、なんとかたどり着きたいと、不案内の土地を早足で進んだ。町並みが切れたところで、誰かにこの辺りのことを聞きたいと見回すと寺院が目についた。ちょうど境内で水桶を手にした女性がいたので、もう一度合戦のことを問うと、
「川越の夜戦の激戦地はこの東明寺周辺一帯だったと聞いていますが、今や市街地のため、正確にはわかりませんが、そこの大きな銀杏のすぐ側に、確か記念碑があったはずですが…」
 そう言って親切に同行してくれた。
 石碑はすぐ見つかり、その碑文に川越の夜戦の由来がくわしく記されていた。それにしても古い江戸の名残をとどめている旧城下町に、領地拡大を目指す大規模な対決があったとは想像し難かったし、日本三大夜戦の中の一つがこの川越を舞台に繰り広げられたものだったことに、ただただ驚くばかりであった。

撮影メモ 明治の取り壊しで唯一残った本丸御殿(現在の武徳殿)。唐破風を載せた豪華な構えの御殿玄関と車寄せは、国内屈指の御殿建築だ。この建物前の駐車場から高めのポジションが確保できればベストだが、軒下が暗くなりやすい。快晴時を避けるのが撮影のコツ。

「日本の伝説17 名城物語」 監修 日本伝説拾遺会 編集/発行 教育図書出版 山田書院 ★★
伝説歴史紀行T 城下町川越
名城の伝説 13川越城

「埼玉県の歴史」 田代脩・塩野博・重田正夫・森田武 山川出版社 1999年 ★★
 「江戸図屏風」に見る武蔵
 近世初期、寛永期(1624〜44)の江戸のようすを豪華絢爛に描く「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)は、その右隻の半分に、御府内の北辺から郊外に至る川越城や鴻巣御殿、そして三代将軍徳川家光の好んだ猪狩や鷹狩の情景を詳しく描いている。
 川越城は、江戸城の外郭をなす軍事上の要地で、酒井忠利・酒井忠勝堀田正盛松平信綱と、いずれも家光側近の譜代大名が在城した。この屏風の川越城は、城の西寄りの北方上部からみたもので、本丸を中心に二の丸・三の丸のごく一部および鎮守三芳野天神社が描かれている。本丸にはこけら葺の殿舎が並び、曲輪を囲んで水濠がめぐらされているが、石垣はなく土塁だけである。川越城は、寛永十五年の川越大火後に入部した松平信綱によって整備拡充されたが、この屏風に描かれたのはそれ以前の状態と考えられている。この図はちょうど鷹狩の最中で、忙しく動きまわる人々の姿がみられ、城の周辺では当時流行していた竹刀を使った武術競技の一つ鞭打や、川狩(漁猟)とその後の宴会を準備するようすなどが描かれている。
 川越城の右側は、洲渡谷(吉見町)での猪狩と仮屋前で獲物を下賜している場面である。洲渡谷(須戸野谷)は、『新編武蔵風土記稿』によると、家康がこの地で鷹狩をしたときに鴻巣宿から荒川へ船橋を渡した地と伝え、鴻巣宿の飛地であった。将軍家光は寛永七年(一説には八年)二月中旬に川越の芦野で猪狩をし、さらに同月下旬には鴻巣に移って、鷹狩・鳥狩・兎狩や唐犬による猪狩を楽しんだという記事が、忍藩阿部家の記録「公余録」にみえる。「江戸図屏風」でも洲渡谷での猪狩は猟犬による狩猟で、猟が終ると調理・饗宴の準備となっている。
 洲渡谷の猪狩に続いて、鴻巣御殿と鴻巣御鷹野の場面となる。鴻巣の地は、川越・忍・岩槻など江戸城防備の拠点を結ぶ中山道の要地で、文禄二(1593)年に将軍の宿泊用の御殿がつくられたという。この屏風絵では、中山道をはさんで両側に屋並が描かれ、その中央裏手に御殿の建物がみえる。この図も将軍家光の鷹狩のようすを描いたもので、街道沿いの町家には付き従ってきた大名たちの紋を描いた幕が張られ、路上には獲物をかついだ者が御殿に向かい、せわしなさそうに行きかう武士の姿もみられる。
 この「江戸図屏風」の制作年代などについてこれまでも諸説があったが、近年黒田日出男氏は詳細な分析を行ない、当時忍城主であった松平信綱が、寛永十一年から十二年六月二日までのあいだに、描かせたものと推定した。そして、家光の事績を描いたこの屏風を、父秀忠の死により名実ともに将軍となった家光の御代始めを記念したものと位置づけている。

「江戸図屏風を読む」 水藤真・加藤貴編 東京堂出版 2000年  ★★
 御殿と川越城
 「江戸図屏風」内の右隻第一扇〜第三扇の鴻巣御殿と川越城は、他の景観と比べてひときわ異彩を放っている。
   (中略)
 一方「江戸図屏風」に描かれている川越城は、松平信綱による大改修以前の様子を表したものとされている。
 江戸時代初期の川越城は、本丸(三芳野天神社を含む)・二ノ丸・三ノ丸・八幡曲輪で構成され、土居と堀、草葺屋根と白壁に囲まれた平城で、この絵からもその様子がよくわかる。また城といえば、天守閣や石垣を連想するが、川越城には終始天守閣がなかった。この絵にも本丸と思われる場所に天守閣はみられず、石垣は二ノ丸の一部に見られるだけである。
 城内の建物で特徴的なのは、三芳野天神と富士見櫓であろう。三芳野天神は、本丸東の天神曲輪に鎮座し、太田道灌が城の鎮守として川越城築城の際に創祀した。江戸時代にはいって、寛永元年(1624)に家光の命によって再建された。富士見櫓は天守閣の代わりをなすもので、城内右上隅の櫓がそれにあたると考えられる。しかし記録によると、富士見櫓は三重の櫓で、本丸の台地上にあったようで、構造的には絵との類似性はみられない。富士見櫓の原型を描いたものであろうか。
 城内の様子をみてみると、多くの武士に混じって、鷹狩で得た獲物を運ぶ人足や、鷹を訓練する鷹匠、供の中間・小者などがみられる。また本丸には、馬屋と馬の世話をする人々がみられる。これは鷹狩のための準備をしているところであろうか。
 「江戸図屏風」に何故川越城と鴻巣御殿が描かれたのかについては、家光と酒井忠利・忠勝父子との親密な関係や家光の側近であった智恵伊豆こと松平信綱との関係からこの方面への狩りの回数が特に多かったためとの指摘があるが、たしかな理由はわかっていない。
(小林)
 コラム 謎の紋所
 右隻の第一扇・第二扇の上部には、かなりの大きさで幔幕(まんまく)で囲われた中で料理が調理されている場面が描かれている。押紙に「洲渡谷御猪狩御假屋」「川越御川狩御假屋」と記されているので、家光が川越付近で行った川狩りや猪狩りの獲物を料理している情景であることは疑いない。そして、この幔幕には「剣酢漿(けんかたばみ)」の紋がくっきりと染め抜かれている。これだけはっきりと紋所が表現されているからには、制作依頼者を表すのではないかとか、制作者の何らかの意図が表現されているのではいかなどと考えられる。ところが、この紋所は良く知られている酒井家の剣酢漿とは微妙に異なっている。酒井家の紋は三本の剣の一本は上を向いているのに、この幔幕の紋の剣は下を向いているのである。また酒井家の紋は剣が黒く塗りつぶされているのに、この紋の剣は白抜きである。そのために、似て非なるもの、或いは意図的に形を変えたのではないか、また、江戸図屏風の表現は正確ではないなどの、誤解や憶測を生み、謎のままであった。(村井益男『江戸図屏風の歴史的背景』、『江戸図屏風』平凡社など)。
 この三本の剣の一本が下を向き、白抜きの剣酢漿の紋所は、ありもしない紋でもなければ、意図的に形を変えたものでもなかった。実際にあった紋所である。大阪城天守閣蔵の「大阪夏の陣図屏風」には、秀忠の本陣近くの武士が、この剣酢漿の紋を染めた旗指物を持っている。静岡市立芹沢_介美術館蔵の「諸将旗旌図屏風」によれば、それは酒井山城守の紋と判明するのである(『戦国合戦図屏風』四、中央公論社)。
 寛永8年3月1日、この日江戸に戻る予定であった家光は、折からの強風と自身の体調の不良から帰城を延期した。この時、川越から江戸城の秀忠への使者にたった人物こそ、酒井山城守重澄であった(『徳川実記』)。酒井重澄は確かに川越での家光の狩りに同行していたのである。江戸図屏風に描かれた剣酢漿の紋の幔幕での調理の風景は、確かにあった光景なのである。なお酒井重澄は寛永10年5月13日改易された(『徳川実記』・『廃絶録』)。そのために、長く謎の紋所となってしまったのである。

「日本の城 大名の生活と気風 稲垣史生 平凡社カラー新書25 1975年 ★
 城の一日は、早朝六つ刻(午前6時)の「もう一」で始まる。これは、殿様が「もうお目覚めでござる」というお小姓独特の略語である。今となっては、なんとも不可思議な大名生活、映画・TVでいいかげんに考証されている大奥生活を正確に再現してみた。そして、見る者にかぎりない郷愁をよびおこす、ふるさとの名城・百余を訪れてみた。

「城の日本史」 内藤昌 NHKブックスカラー版C7 1979年 ★
 雄大な天守を頂く日本の城は、美的・建築学的に、世界に誇るべき文化遺産である。本書は、古代の辺境城柵から、安土城・大阪城・江戸城といった大城郭にいたる歴史的変遷、縄張や構成要素、名城の解説を合わせた最新の日本城郭史研究。(カバーのコピー)
V章 城郭の要素――その天守から台所まで
 櫓
 台所と便所

「川越歴史小話」 岡村一郎 川越地方史研究会 1973年 ★★★
 3.逢びきのできる厠

「埼玉史談 旧第2巻第1号」 埼玉郷土会 1930年9月号 ★★
 川越城趾考  岸傳平
川越城の地勢
川越城と扇ケ谷上杉氏
川越城の概要
舊城の概観
富士見櫓及虎櫓
城趾の現状
川越城蹟の栄誉

「川越の文化財 第78号 川越市文化財保護協会 2000年12月 ★★★
 河越城富士見櫓について
櫓とは
参照
@『松陰私語』による河越城の築城
A川越市史史料編近世1
B武蔵三芳野名勝図会
C川越城址の碑
川越城関連年表

「たべものと日本人」 河野友美 講談社現代新書378 1974年
 食は人をつくる、という。では、自然の幸に恵まれた日本人は、どんなたべものを好んで食べ、それによってどのような性格を育ててきたのか。食糧資源の欠乏も懸念される今後、日本人は、日本人のたべもの文化は、どう変わるのだろうか。本書は、料理文化と味覚構造の日本的特性を、諸外国とも比較しながら考察し、日本人の性格・国民性の解明に新視点を提供した興趣あふれる異色の文化論。
 3―歴史と国民性/1−多様な価値が許せない/城の破壊
 日本には、数多くの城があった。その多くは建築上。ひじょうに価値あるものが多かったといわれる。しかし、その多くは明治のはじめに破壊されてしまった。
 明治のはじめ、幕府方は賊軍といわれ、官軍と戦いを交えたのである。今まで、徳川幕府の大名であったものたちは、立場をいずれかはっきりしなければならなかった。そのとき、官軍に恭順の意を表した大名は、その形を表わすものとして、自ら城を壊したのである。もし、城を壊さなければ、幕府方とみられる可能性が強かったからである。そこには建築上の価値とか、せっかく作ったものであるからといった考えはまったくなかったといってよい。また、官軍のほうにしても、城を残そうとする意図はまったくなかったようである。形の上からさっぱりときれいにすることが新しい時代にとって必要であり、古いものはすべてぬぐい去るという気風があったことは否定できない。
 もちろん、このような考えは日本だけのものではないと考えられる。ローマ帝国をはじめとして、古代ヨーロッパの侵略戦争は、征服したところのものを破壊し、根こそぎ中のものを持ってくるということをしていた。しかし、それはどちらかというと略奪のためのものであった。日本の破壊は、それとは少し違うものをもっているようである。古いものをさっぱりと切り捨てて、払拭し去るということ、たとえば、一年間神棚にまつったお飾りのようなものを、正月の松の内が開けると焼いて、新しいものと取りかえるという感覚に似ているように思う。
 明治になって、ちょんまげを切り、ざんぎり頭にすることが、新しい時代の人間のシンボルのように思われた。これなど、形をひどく問題にし、みながその新しい形にならうことが改革であるという感触をもっていたのである。
 このような例は、日本の歴史上の記録を調べていけば、まだまだ数限りなくあるだろう。これが日本的な特徴だということができなくはないと思う。

「城と城下町」 小和田哲男 教育社歴史新書<日本史>97 1979年 ★
6 作事と普請
 縄張りのいろいろ
  馬出
 縄張りの点でもう一つ注目しておかなければならないのが馬出である。
 すでにみたように、城の入口は虎口(こぐち)といって築城の際にもっとも意をそそいだ部分であった。籠城戦となった場合、適の主力が大手門なり搦手門のあるこの虎口に総攻撃をかけるのが一般的であり、そのためにも最大の防御上の力点をおいたのである。
 城の門を築くにあたって一番の基本は、適の大軍が一度に進入するのを防ぐことにあり、そのための工夫がほどこされた。さきの桝形もそうだし、馬出もその一つである。
 最も簡単なのは、虎口の内側なり外側に一本の土塁を築くことで、これを一文字の土塁などとよんでいたが、これがしだいに直線でなくカギ型になり(これを角馬出といった)、さらに半円状の丸馬出というものができあがったのである。どのような形をしていたかを文章で表現するのは非常にむずかしく、図をみていただこう。上図は川越城の西大手門丸馬出を推定復原したものである。

これから研究を志す人へ -研究史と文献解題-
■中世城郭と発掘調査
・『河越館址遺跡-発掘調査概報-』(川越市文化財研究会、1972)以下各年次の調査報告書は川越市教育委員会
・雑誌『歴史手帖』(五の四)特集「歴史時代の考古学-中世遺址を中心に-」に集められた、中世城郭の発掘調査レポートのひとつ
 小泉功「河越館址の発掘」

城下町町名一覧表(1960年頃の町名表示をもとに作成)
 ・武家町…鷹匠町(川越(鷹部屋町))/鉄砲町(川越にもあったが記載されていない)
 ・職人町…大工町/鍛冶町
 ・商人町…連雀町
 ・その他…大手町/江戸町…(大手町は江戸町の新しい町名)

川越城の写真

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作成:川越原人  更新:2018/9/9